14世紀欧州の人口を大激減させた黒死病…ところが、とある国だけはある処方によって被害が最小限に抑えられたとされています。
472年以降、西ヨーロッパから姿を消していたが、14世紀には全世界にわたるペストの大流行が発生した。この流行はアジアからシルクロードを経由して欧州に伝播し、人口の約3割を死亡させた。全世界でおよそ8,500万人、当時のヨーロッパ人口の3分の1から3分の2に当たる、約2,000万から3,000万人が死亡したと推定されている。
14世紀の大流行は中国大陸で発生し、中国の人口を半分に減少させる猛威を振るったのち、1347年10月(1346年とも)、中央アジアからイタリアのシチリア島のメッシーナに上陸した。ヨーロッパに運ばれた毛皮についていたノミが媒介したとされる。流行の中心地だったイタリア北部では住民がほとんど全滅した。1348年にはアルプス以北のヨーロッパにも伝わり、14世紀末まで3回の大流行と多くの小流行を繰り返し、猛威を振るった。ヨーロッパの社会、特に農奴不足が続いていた荘園制に大きな影響を及ぼした。
1377年にヴェネツィアで海上検疫が始まった。当初30日間だったが、後に40日に変更された。イタリア語の40を表す単語からquarantine(検疫)という言葉ができた。
イギリスでは労働者の不足に対処するため、エドワード3世がペスト流行以前の賃金を固定することなどを勅令で定めた(1349年)ほか、リチャード2世の頃までに、労働集約的な穀物の栽培から人手の要らないヒツジの放牧への転換が促進した。イングランドの総人口四百万人の3分の1が死んだと言われ、当時通用していたフランス語や聖職者が使用していたラテン語の話者人口が減り英語が生き延びた。
また、ユダヤ教徒の犠牲者が少なかったことから、彼らが井戸へ毒を投げ込んだ等のデマが広まり、迫害や虐殺が行われた ( ペストと反ユダヤ主義 )。ユダヤ教徒に被害が少なかったのはミツワーに則った生活のためにキリスト教徒より衛生的であったという考えがある一方、実際にはキリスト教徒と隔離されたゲットーでの生活もそれほど衛生的ではなかったなどの見解もある。
ポーランドではアルコール(蒸留酒)で食器や家具を消毒したり腋や足などを消臭する習慣が国民に広く定着していたほか、原生林が残り、ネズミを食べるオオカミや猛禽類などが多くいたためペストの発生が抑えられていた。
地中海の商業網に沿って、ペストはヨーロッパへ上陸する前後にイスラム世界にも広がった。当時のエジプトを支配し、紅海と地中海を結ぶ交易をおさえて繁栄していたマムルーク朝では、このペストの大流行が衰退へと向かう一因となった。
*ただしイスラム諸王朝もイタリア諸国も黒死病流行からの立ち直りは早かった。当時の先進地帯で検疫の徹底やアルコール消毒概念の普及が早かったからとも。
12世紀ごろからロシアの地酒として飲まれるようになったといわれているが、11世紀のポーランドで飲まれていたとする説もあり、詳細な起源は不明である。
14世紀のポーランドではウォッカで食器などを消毒したり腋や足などを消臭する習慣があった。このことは1405年のポーランド王国の宮廷の記録に残っている。アルコールで消毒や消臭をする習慣はアラビアからポーランドへの陸上交易によって伝わったものとされる。
1794年に白樺の活性炭でウォッカを濾過する製法が開発され、それ以降ウォッカは「クセの少ない酒」という個性を確立する。
1917年のロシア革命により、モスクワのウォッカ製造会社の社長ウラジーミル・スミルノフがフランスに亡命し、亡命先のパリでロシア国外では初めてウォッカの製造販売を始めた。このスミルノフの工場に1933年、ロシアからアメリカに亡命していたルドルフ・クネットが訪れた。クネットはアメリカとカナダにおけるスミノフ・ウォッカの製造権と商標権を買い取って帰国。以後、アメリカ産ウォッカの製造が始まり、アメリカは世界屈指のウォッカ消費国となる。
ソビエト連邦時代は経済の停滞・言論の不自由の不満から多数の国民がウォッカ中毒に陥った。そのためミハイル・ゴルバチョフがペレストロイカの一環でウォッカの製造を削減したが、国民はウォッカを求め自宅で密造をしたため効果はなかった。それどころか貴重な税収である酒税が落ち込んだことでソ連は財政難に陥った。またウォッカを密造するには砂糖が必要なため多くの商店が砂糖不足になった。
日本で初めてウォッカを製造・販売したのは、ロシア系亡命ユダヤ人のミハエル・コーガンが創業した太東貿易である。ただし同業他社が登場したのですぐ撤退、その後は輸入やアミューズメント事業に方針転換、現在はゲーム会社のタイトーとなっている。
14世紀から17世紀にかけてのポーランド王国黄金期は、こうして準備された?
ポーランド人と飲み比べしてはいけません | ポーランドってどんな所? | HOSIGO
ポーランド王国(1025年〜1569年/リトアニアとの二重王国時代を含めると1795年) - Wikipedia
ポーランド一帯を支配していた王国。14世紀にリトアニア大公国と合同し、14世紀から16世紀にかけて北はエストニア、南はウクライナまでをも含む大王国を形成、人口や領土において当時のヨーロッパ最大の国家「ポーランド・リトアニア共和国」を形成し、その連邦の盟主となった。
- ポーランド王国とリトアニア大公国は1569年から1795年にかけて制度的国家合同(ルブリン合同)によって複合君主制国家として存在していた。この政治システムは現代的な概念を当てはめれば民主制、立憲君主制、連邦制の先駆的存在と言える。二つの構成国は公的には平等な関係にあったが、実際にはポーランドがリトアニアの支配国であった。しかし、これについてはポーランド民族がリトアニア民族を支配したというような現代的な民族主義の解釈をするべきではなく、多民族のポーランド王国の立法・行政・司法の決定事項が同じく多民族のリトアニア共和国のそれらに対して優位であり、万が一両者の決定が対立した時にはポーランド王国の決定が優先された、という制度的な意味である。ポーランド国王がリトアニア大公を兼位しており、共和国は両国を中心にコモンウェルスの体制を形成していた。共和国の人口構成は民族的、宗教的な多様性がきわめて顕著であり、時期によって程度の差はあるものの、同時代にあって異例といえる宗教的寛容が実現していた。
- この「宗教的寛容」はモンゴル帝国軍侵攻に伴う国土荒廃からの復興期、大量の移民を誘致しなければならなかった歴史の産物ともいわれている。まず大公国時代の1241年バトゥ率いるモンゴル帝国軍の第1次ポーランド侵攻を受け、レグニツァの戦いで迎撃側連合軍が彼我の兵力差などから大敗し、総大将ヘンリク2世も戦死。大公位を継承したレシェク1世の子ボレスワフ5世はハールィチ・ヴォルィーニ大公国(現在のウクライナ)にモンゴル軍と共に侵攻。ヤロスラヴの戦い(1245年)で破ってこの国がジョチ・ウルスの属国と化すのに手を貸したがモンゴル軍による第2次ポーランド侵攻(1259年)は防げずハンガリーに亡命。そして、このモンゴル侵攻によってポーランド国土は荒廃したのである。モンゴル軍による第3次ポーランド侵攻(1286年、1287年)ではハールィチ・ヴォルィーニ大公国のレーヴ・ダヌィーロヴィチが逆にモンゴル軍を利用。ハンガリー王国のザカルパッチャ地方とポーランド王国のルブリンが占領されている。
- バルト海沿岸部に陣取るドイツ騎士団がポーランドへの圧迫を加える様になると、シュラフタ(ポーランド貴族)はこれに対抗するために、自国内に対立構造がなく、貴族たちがみな同意できるような立場にある指導者を求めた。そこで、当時まだ異教信仰(Romuva)に留まっていたリトアニア大公ヨガイラ(リトアニア名Jogaila、ポーランド名Jagiełło)が幼少のポーランド女王ヤドヴィカの夫として選ばれヤギェウォ朝(ヤゲロー朝、1385年〜1569年)が開闢。1386年にヨガイラはキリスト教に改宗してポーランド王ヴワディスワフ2世として即位、ヤドヴィガとヴワディスワフ2世は夫婦による共同統治の形態をとり、リトアニア大公は従弟のヴィトルト(ヴィタウタス)が継ぎ、ポーランドとリトアニアは緊密な同盟関係に入ったのである(クレヴォの合同)。ヴワディスワフ2世はグルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い、1410年)でドイツ騎士団に勝利して服属させる一方、南へは黒海方面への領土拡張に成功を収め、ポーランド・リトアニア合同国家の全盛期を築き上げたが、晩年に息子ヴワディスワフ3世への王位世襲と引き換えに、シュラフタたちに多くの特権を与えた。これが、後にポーランドの全盛期とその議会制民主主義(黄金の自由)を築き上げる原動力となったが、一方では王国の衰退を導いた内紛の一因ともなってしまう。一方、フス戦争(1419年〜1434年)ではボヘミアのフス派を支援し「ポーランド王国とドイツ騎士団の戦争」でドイツ騎士団を破った。しかし、ヴワディスワフ3世の治世になると、フス派の略奪行為を取り締まり、グロトニキ(Grotniki)の戦いでポーランドにおけるフス派を壊滅させてしまう。
ヤギェウォ朝のもとで、ポーランド王国とリトアニア大公国は一体化が進み、リトアニアや、後にリトアニア大公国からポーランド王国に行政が移ったウクライナ各県の貴族たちも、カトリックへの改宗を進めてシュラフタたちと同化していった。そして1569年、ポーランド王国とリトアニア大公国はルブリン合同を結び、共通の君主を戴く人的同君連合からひとつの国家体制である物的同君連合「ポーランド・リトアニア共和国」へと発展したのである。しかしながらヨーロッパの経済構造が変化すると共に対外戦争と内乱が続く。そして18世紀に共和国が周辺諸国に領土を分割されると同時に消滅して、その領土的実態としての歴史を終えた。
- ヤギェウォ朝は1572年に断絶、翌年からポーランド王国は選挙王制となり、シュラフタはヤギェウォ朝時代からの特権に加えて国王の選挙権を握った。この頃、ポーランドは大航海時代を迎えて人口増加著しい西ヨーロッパへの食料輸出が盛んで空前の好景気を迎えていたが、経済の活況の中からシュラフタの階層分化が進み、彼らの中から広大な領土をもつ大貴族(マグナート)が現われるようになっていた。この時代以降、ポーランド王はシュラフタによる議会政治の代表者となり、シュラフタの間で行われる選挙で国会(セイム)議員と元老院(セナト)議員が選ばれた。教会とマグナートが大きな力を持った。この体制を貴族共和制などと呼び、この時代のポーランド王国を「共和国(Republika)」と称することもある。英語ではノーマン・デイヴィスのようにThe Republicとすることもあるが、The Commonwealthと呼ぶことが一般的である。
マグナート(magnat, magnate) - Wikipedia
ヨーロッパにおいて血筋や富などによって社会的に高い地位にある人物や貴族を指す。中世には、伯爵、公爵、プリンス(領国主)など領地を持つ貴族をマグナートと呼び、男爵とは区別することがあった。語源はラテン語で「偉大」という意味の言葉 magnus で、これが俗ラテン語で偉人を意味する magnas となった。
特にポーランド王国(後にポーランド・リトアニア共和国)では、マグナートと呼ばれる貴族階級が富と力を独占した。ポーランドのマグナートと同じような階級の例としては、中世後期以降のスペインで最高位の貴族を表すグランデ(grandee)や、中世スウェーデンの領主を現すストーマン(storman)があるが、これの単語はいずれも「偉人」という言葉から派生している。
またマグナートは、ハンガリー王国の上院議員(イギリスの貴族にあたる)を指す意味もあり、この議会は特にマグナート院(Főrendiház)と呼ばれる。- 選挙王制に入ったとき、ポーランドの領土は西では神聖ローマ帝国の境まで、東では現ベラルーシ・ウクライナ中部・ロシア西部にまで及ぶ大国であった。「共和国」のもとでの貴族共和政はポーランドの大国としての地位の確立と維持に積極的に寄与した。しかし17世紀に入ると、周辺国との相次ぐ戦争によりポーランドは国力を消耗、更に新大陸から輸入された安価な農産物が大量に欧州市場に流入し、食料輸出に大きく頼っていたポーランドの収支バランスは黒字から赤字に転落した。こうして多くの中小貴族達が経済的に没落していくと大貴族(マグナート)に頼るようになり、マグナートによる寡頭政治の傾向が強まっていった。全貴族(シュラフタ)が直接選挙によって選出する国王選挙でも中小貴族の経済的苦境につけこんだマグナートたちによる買収工作が盛んとなり、金権政治が横行するようになった。17世紀はウクライナ・コサックによる共和国への叛乱とユダヤ人大虐殺、新興のスウェーデン王国・ロシア・ツァーリ国の侵攻が続き、ポーランドの国力は急速に衰微した。この混乱はポーランド史上「大洪水時代」と呼ばれる。
- 17世紀末には、第二次ウィーン包囲でオスマン帝国の大軍を蹴散らし一躍全ヨーロッパの英雄となったヤン3世ソビエスキ王の下、ある程度の中興を果たすが、ヤン3世の死後息子のヤクプが国王選挙に敗北し、対抗馬でザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世(アウグスト2世)がカトリックに改宗してポーランド王位に就き「ポーランド=リトアニア=ザクセン同君連合」が成立すると、ザクセン側の北方への野心により対スウェーデン戦争(大北方戦争)を開始してしまう。アウグスト2世はロシア・ツァーリ国と連合して最終的にはかろうじて勝利国側に立ったが、当初はスウェーデンに敗れて一時ポーランド王が廃位され、スウェーデンの傀儡の国王(スタニスワフ・レシチニスキ)を擁立されるなど失態を犯している。このアウグスト2世の戦争で国家財政はさらに逼迫し、ここから大北方戦争で強大化したロシア・ツァーリ国、プロイセン王国に東西から挟まれると言う脅威が派生し、王権も弱体化する結果となる。18世紀以降は強国となったロシア帝国、スウェーデン王国、プロイセン王国に対抗するだけの力を失っていった。その後、王国ではポーランド継承戦争(1733年 - 1735年)をはじめとする王位をめぐっての抗争や貴族による内紛が相次ぎ、国力が著しく衰退する。
- しかしポーランドの国威復活を望むスタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ(スタニスワフ2世、在位1764年〜1795年)をはじめとした改革勢力は1791年にポーランド・リトアニア共和国はヨーロッパ史上初の民主主義成文憲法(一般に5月3日憲法と呼ばれる)を制定、この偉大なる民主憲法は即時発布された。この憲法によりポーランド王国とリトアニア大公国は連邦国家として完全に統一されることになった。しかしこの憲法発布を見て自分たちの絶対王政に対する脅威と感じたロシア、プロイセン、オーストリアの三大国は、貴族(シュラフタ)、僧侶、学術エリート以外の一般庶民にも広く参政権を拡大していくことに反対していた反民主主義グループのポーランド大貴族(マグナート)に取り入ることで1772年、1793年、そして1795年の3度にわたってのポーランド分割を敢行した。貴族のうち外国勢力と結託した者の領地はそれぞれの個人資産として保全されたが、最後の分割でポーランドの国家として領土そのものは完全に地上から消し去られ、スタニスワフ2世は退位。ここにポーランド王国は消滅した。
- 19世紀初頭、ナポレオン・ボナパルトの登場によりワルシャワ公国が成立したが、ナポレオン戦争敗退によって王国復興の望みは完全に絶たれた。その後に待っていたのは、ウィーン体制によるロシア帝国の圧政であった(ポーランド立憲王国)。ポーランドが独立を回復するのは1918年の事となる。
法的には1918年に成立したポーランド共和国(第二共和国)、1939年からのポーランド亡命政府、このポーランド亡命政府を1989年に継承した現在のポーランド共和国(第三共和国)がその法的継承国家となる。
この様に14世紀から17世紀にかけてのポーランド王国黄金期を経済的に支えてきたのは「大航海時代到来による欧州経済中心の地中海沿岸から大西洋沿岸への推移」を契機とする北西ヨーロッパの人口急増に伴う穀物価格の急騰でした。当時有数の穀倉地帯だったこの地方はハンザ同盟を通じてそれを提供する事で当時の欧州における最強富国の座をほしいままにしてきたのです。
ところが南米アメリカから伝播した新作物(馬鈴薯、隠元豆、玉蜀黍)の普及によって各現地で食料自給が可能となり、食料価格が下落の一途を辿る様になっても「領主から思考能力を奪う」再版農奴制のせいで対応が遅れ、次第に自慢の騎兵隊も養えなくなり、最後には国自体が周囲の列強に分割されて国家そのものが消失してしまうのです。
ミハイル・バクーニン(露Михаи́л Алекса́ндрович Баку́нин、英Mikhail Alexandrovich Bakunin、1814年〜1876年) - Wikipedia
1814年春、モスクワの北西に位置するトヴェリ県プリャムヒノ(トルジョークとクフシーノヴォ間の地名)で貴族の家に生まれる。14歳の時にサンクトペテルブルクに出て砲兵学校で教育を受ける。1832年に卒業し、1834年にはロシア皇帝親衛部隊に准尉として入隊、当時ロシアに併合されていたリトアニアのミンスクとフロドナ(現在はベラルーシに属する)に赴いた。同年夏、家族の間で悶着があり、バクーニンは意に沿わない結婚をめぐって姉を庇った。父は息子に軍職と市民への奉仕を続けるよう望んだが、バクーニンはそのどちらも放棄しモスクワへ向かい、哲学を学んだ。
モスクワでは元学生のグループと親しくなり、観念論哲学を体系的に学び、E.H.カーが後年「ロシアの思想に広大で肥沃なドイツ形而上学の地平を開いてみせた勇敢な先駆者」と評した詩人、ニコライ・スタンケーヴィチを中心とした人々とも交わった。彼らは当初カントの哲学をおもに追究したが、やがてシェリング、フィヒテ、ヘーゲルとその対象を移していった。1835年秋頃には故郷のプリャムヒノで自身の哲学サークルを作っており、それは若者たちの恋の舞台ともなった。例えばベリンスキーはバクーニンの姉妹の一人と恋に落ちている。1836年初頭、バクーニンは再びモスクワへ戻り、フィヒテの『学者の使命についての数講』と『浄福なる生への指教』の翻訳を出版した。これはバクーニン自身がもっとも好んだ著作だった。また、スタンケーヴィチと共にゲーテやシラー、E.T.A.ホフマンの著作にも親しんだ。
この当時のバクーニンは、宗教的でありつつ脱教会的色彩の強い内在論を展開した。 バクーニンはヘーゲルの影響を受け、その著作のロシア語訳を初めて刊行した。スラヴ主義者のコンスタンチン・アクサーコフ、ピョートル・チャーダーエフ、社会主義者のアレクサンドル・ゲルツェン、ニコライ・オガリョフに出会い、この時期からバクーニンの思想は汎スラヴ主義的色彩を濃くしてゆく。やがて父親を説得して1840年にベルリンへ赴く。当初、大学教授になることを目的としていた(本人や友人らが「真実の教導者」であると考えていた)のだが、ほどなくいわゆるヘーゲル左派の急進的な学生と接触し、ベルリンの社会主義運動に加わることになる。1842年の小論文『ドイツにおける反動』では否定というものが果たす革命的役割を支持しており、「破壊への情熱は、創造の情熱である」という一節を記している。
ベルリンで三学期を過ごしたのち、バクーニンはドレスデンへ向かい、そこでアーノルド・ルーゲと親しくなった。この頃シュタインの著作『今日のフランスにおける社会主義と共産主義』に触れ、社会主義への感化を深めた。バクーニンは学究的生活に興味を失って革命運動に没頭するようになり、ロシア政府がその急進的思想を警戒して帰国を命じるも、これを拒否したため財産を没収された。こののちゲオルク・ヘルヴェークとともにスイスのチューリヒへ向かった。
チューリヒには半年間滞在し、ドイツの共産主義者ヴィルヘルム・ヴァイトリングと親しく交流した。ドイツ共産主義者らとの親交は1848年まで続き、バクーニン自身も時折共産主義者を自称し、『スイスの共和主義者(Schweitzerische Republikaner)』紙に記事を書いた。バクーニンがスイス西部のジュネーヴに移った直後、ヴァイトリングが逮捕された。警察に押収されたヴァイトリングの書簡にはバクーニンの名がしばしば登場しており、これがロシア帝国警察の知るところとなる。ベルンのロシア大使から帰国を命じられたバクーニンはこれに応じずブリュッセルへと移動し、ヨアヒム・レレヴェルをはじめ、マルクスとエンゲルスの活動に同地で参加していた主要なポーランド国家主義者との邂逅を果たしている。レレヴェルがバクーニンに及ぼした影響は多大であるが、彼らポーランド国家主義者は1776年当時(ポーランド分割以前)の国境線に基づく同国の復活を主張しており、意見が衝突した。バクーニンはポーランド人以外の自治権も守るよう主張したのである。バクーニンはこれらポーランド国家主義者たちの聖職権主義にも賛同を示さなかった。一方でバクーニンは農民層の解放を彼らに呼びかけたが、支持は得られなかった。
1844年、バクーニンは当時ヨーロッパ急進派の中心地となっていたパリへ向かった。マルクスやアナキストのピエール・ジョセフ・プルードンと接触したが、特にプルードンからは大きな感銘を受け、二人の間には友情が築かれた。1844年12月、皇帝ニコライ1世により貴族的特権および市民権の剥奪、所領の没収、終身のシベリア流刑が宣告され、バクーニンはロシア帝国当局から追われる身となった。これに対しバクーニンは新聞『改革(La Réforme)』 に長い手紙を送り、ロシア皇帝を圧制者と非難し、ロシアとポーランドにおける民主主義の必要性を訴えた。1846年3月、『立憲(Constitutionel)』 に寄せた書簡ではポーランドを擁護し、同地のカトリック教徒に対する弾圧に賛同した。1847年11月、クラクフからの避難民のうち反乱軍の勝利に賛同する者たちが、1830年のポーランド十一月蜂起を記念する集会にバクーニンを招き、講演を行った。
この講演でバクーニンはポーランドとロシアの人民が協力して皇帝に立ち向かうよう呼びかけ、ロシアにおける専制政治の終焉を待ち望んでいると表明。この結果フランスから追放され、ブリュッセルへと赴くこととなった。バクーニンはゲルツェンとベリンスキーに協力を仰ぎロシアで革命を起こそうと目論んだが、二人の助力は得られなかった。ブリュッセルでは再びポーランドの革命家やマルクスとやりとりし、1848年2月にはレレヴェルが組織した会合でスラヴ民族の未来について語り、彼らが西洋世界に活力をもたらすと述べた。この頃、バクーニンが度を越した活動に走ったロシア側の工作員であったという噂が、ロシア大使によって流された。
1848年には各地で革命運動が起こった。ロシア国内でそうした動きが見られなかったことには失望したものの、バクーニンの歓喜の念はひとしおであった。暫定政府を担う社会主義者、フェルディナンド・フロコン、ルイ・ブラン、アレクサンドル・オーギュスト・レドル・ロラン、アルベール・ロリヴィエといった面々の資金協力を得て、スラヴ連合によりプロイセンやオーストリア・ハンガリー帝国、トルコの支配下におかれた人々を解放すべく活動を開始。ドイツへ向けて出発し、バーデンを通りフランクフルト、ケルンに至った。
バクーニンはヘルヴェーグ率いるドイツ民主主義者義勇隊を支援し、フリードリヒ・ヘッカーによるバーデン蜂起に加わろうと企てたが失敗。この時ヘルヴェーグを批判したマルクスと対立した。バクーニンはマルクスとの関係について、この頃から互いに良い感情が持てなくなったと後年になって振り返っている。
バクーニンは続いてベルリンに移動したが、そこからポーゼン(ポズナン)へ向かおうとして警察に阻止された。ポーランド分割以来プロイセンの支配下に置かれていた同地ではポーランドの国家主義者による暴動が起こっていた。バクーニンは予定を変更してライプツィヒとブレスラウを訪れ、プラハでは第一回汎スラヴ会議に参加。だがこれに続いた蜂起は、バクーニンの尽力があったにもかかわらず、武力で鎮圧され失敗に終わった。ブレスラウへ戻ったバクーニンだが、彼をロシア帝国側の工作員であるとする言説をマルクスが再び広め、証拠はジョルジュ・サンドが持っている、と主張した。サンドがバクーニンの擁護に回るとマルクスはこの発言を撤回した。
バクーニンは1848年秋、『スラヴ諸民族へのアピール』において、スラヴの革命勢力がハンガリーやイタリア、ドイツのそれと連帯することを提案している。目的は当時のヨーロッパの三大専制君主国家、ロシア帝国、オーストリア・ハンガリー帝国、プロイセン公国の三カ国の打倒であった。
1849年、ドレスデン五月蜂起においてバクーニンは指導的役割を担い、リヒャルト・ワーグナーやヴィルヘルム・ハイネらと共にプロイセン軍に抵抗、バリケード戦に臨んだ。しかしケムニッツで捕らえられ、13か月に及ぶ拘置期間ののちザクセン政府により死刑を宣告された。ロシア政府とオーストリア政府が彼の身柄を欲していたため終身刑に減刑されたが、1850年6月にはオーストリア当局に引き渡され、11か月の後に再び死刑判決を受ける。結局これも終身刑に減刑となり、最終的には1851年5月にロシアへ身柄を送致された。
この時期について言及したワーグナーの日記に「伸び放題の顎ひげと藪のような頭髪」をたくわえたバクーニンが登場している。
*とどのつまり「(カソリック教会の権威に裏付けられる形で)領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的体制」の復活を望むポーランド国家主義者と「(領民と領土の領主からの解放も望む)スラブ民族主義」は(日本の戦国時代における惣村一揆と国人一揆の野合の様に)最初から大きな矛盾を内包しており、ここから「あえて革命成功後の体制がどうなるかについては語らない」オーギュスト・ブランキの一揆主義が派生してきたとも考えられる訳である。
こうした極端な国際経済依存の国の盛衰は欧州史全体にどういう形で組み込まれているのでしょうか? それを解読しようとすると世界史全体の俯瞰を余儀なくされてしうのでした。
①現在の欧州の基礎はヴァイキング時代(Viking Age、800年〜1050年)からロマネスク時代(Romanesque Age、1000年〜1200年頃)にかけて築かれた。すなわち北方諸族が冒険商人として国際的に略奪遠征活動を展開した結果、ローマ教会以外には(西フランク王統継承者ばかりかノルマンディ泊地の首長とも政略結婚してフランス王統カペー朝開闢者となった)パリ辺境伯、(デーン人によるブリテン島統治期に亡命先で政略結婚したノルマン公の家系に母屋を乗っ取られた最後のアングロ・サクソン系王朝)ウェセックス王国、(北欧諸族ばかりかマジャール人も従えて最初の神聖ローマ帝国王統となった)ザクセン辺境伯だけが残り(当時はキリスト教圏より遥かに先進的段階にあったイスラム教圏の影響も色濃く受けながら)アストゥリアス(イベリア半島のピレネー山脈以北)における西ゴート王国末裔、ロンバルティアのランゴバルト王国末裔、ブルゴーニュのブルグント王国末裔などの緩やかな部族連合的紐帯が形成された。ほどなく資本主義的発展(貨幣経済の浸透)によって族長間に貧富格差が広がり、その大半が庶民落ちして北西ヨーロッパの王侯貴族や聖職者を頂点に頂く中世的権威体制、すなわちゴシック時代(Gothic Age、12世紀〜15世紀)へと移行したが当時はまだまだ欧州の領域が急拡大した十字軍時代/大開拓時代(11世紀〜15世紀)とも重なっており、敗残者(Loser、継ぐべき資産がない領主の次男坊以下や私生児や放浪騎士)にも(口減らしとしての死と隣り合わせながら)まだまだ起死回生のチャンスが与えられる時代だったのである。
- だが歴史のこの時点においては(イスラム圏において先行的に見られた様な)経済発展に伴う人口の都市集中という展開は見られなかったのである。この時代にはまだまだあくまで地中海世界や東欧においてキリスト教圏がイスラム教圏に対する軍事的・経済的・文化的優位が十分に確保出来ていなかった事を決っして忘れるべきではない。要するに当時の欧州は「追う側(すなわち後進国側)」だったのである。そして案外(アフリカ北部のイスラム諸王朝において資本主義的と官僚制運営に重要な役割を担ってきた)セフィルダム系(スペイン系)ユダヤ人に対する政治的態度の変遷、(ドイツなど欧州内陸部で伝統的にユダヤ商人と領主や都市の経済的優遇の座を争ってきた、ロンバルティア貴族消失とイタリア商人台頭の間をつなぐ謎多き集団単位たる)ロンバルティア商人の動向などが歴史上重要な役割を担っていた。
②こうした前史を念頭に詳細に見ていこう。欧州における大都市発展は16世紀からで、その時点での10万都市は以下だった。
- (ビザンチン(東ローマ)帝国がイスラム系テュルク王朝たるセルジューク朝(1038年〜1308年)にマラズギルトの戦い(1071年)で破れアナトリア半島を失陥したのに端を発し、東欧進出の臨界点到達と黒死病大流行に伴う(イスラム圏及びイタリア半島以外での)地中海交易低迷よって終焉した)十字軍時代/大開拓時代(11世紀〜15世紀)およびルネサンス期(14世紀〜16世紀)に地中海経済の重要拠点へとのし上がったイタリア諸都市(ヴェネツィア、ナポリ、ミラノ、パレルモ、ローマ、フィレンツェ)。要するにコンスタンティノープルの陥落(1453年5月29日)を契機に「ローディの和(Pace di Lodi、1454年)を締結した五大国(メディチ家支配下のフィレンツェ共和国、スフォルツァ家支配下のミラノ公国、ヴェネツィア共和国、ローマ教皇国、スペイン支配下のナポリ王国)と重なる。
スペイン・ポルトガル諸都市(リスボン、セビリア、マドリード)。十字軍運動開始の遠因の一つとして知られる(本拠地マグリブからアンダンス、すなわちイベリア半島南部に強い影響力を及ぼしたイスラム系ベルベル人王朝たる)ムラービト朝(al-Murābiṭūn、1040年〜1147年)やムワッヒド朝(al-Muwahhidūn、1130年〜1269年)の改宗強要政策実施に伴うキリスト教徒やユダヤ教徒のイスラム教圏からキリスト教圏への移住当時の都市集住、およびレコンキスタ運動の進行(Reconquista、718年〜1492年、特にカスティーリャ王国によるセビーリヤ征服(1248年)は、ジブラルタルから大西洋への出口確保に伴う「北海と地中海を結ぶイベリア半島における安全な交易拠点」としての首都リスボンをはじめとするポルトガル諸港をフランドルやイギリスとの交易で活発化させた)の産物。そして(当時地中海交易を担っていたジェノヴァ商人が東欧より持ち込んだという説が有力視されている)黒死病大流行によって農業立国の道を絶たれ、かつレコンキスタ運動終焉によってリストラの危機に怯えていたポルトガル騎士修道会が着手したアフリカ十字軍(1415年〜1440年)に端を発っし(岩塩と砂金を交換する)サハラ砂漠交易の源流探し(最終的に西アフリカ海岸に到達)が(オランダ系移民によって農業植民地として開拓される)さらに南アフリカの喜望峰を回り(イタリア諸都市の経済援助とジェノヴァ冒険商人などの人的投入を通じてレパント交易を牛耳るヴェネツィアとオスマン帝国によるアジアとの香辛料交易独占を破った)インド航路開通に至る。すなわち「大航海時代(15世紀中旬〜17世紀中旬)」が幕を開ける。
- イタリア諸都市を中心とする毛織物交易網の発達によって成長してきた大西洋側諸都市。すなわちオランダ・ベルギー(アントウェルペン、アムステルダム)…
イギリス(ロンドン)…
フランス(パリ)…
そしてハプスブルグ君主国の首都オーストリア(ウィーン)
ローディの和を破ったミラノ公国とナポリ王国の継承争いに端を発っしたイタリア戦争(1494年〜1559年)の時代には、フランス王家はまだまだ(スペインとドイツと東欧を手中に収めた)神聖ローマ帝国皇統ハプスブルグ家に歯が立たなかった。この問題はカペー系アンジュー家(アンジュー=シチリア家)の祖たる王弟シャルル・ダンジュー(Charles d'Anjou)がローマ教皇の支持を得て神聖ローマ帝国皇統ホーエンシュタウフェン家(Hohenstaufen, 1138年〜1208年、1215年〜1254年)を滅し、そのオートヴィル朝(ノルマン朝、1130年〜1194年)を滅ぼして獲得したシチリア王国を征服し、さらには東ローマ帝国の征服と地中海帝国の建設を夢見たが、シチリア晩祷戦争(1282年〜1302年)におけるスペインの介入を契機に失敗に終わった時代まで遡るからやややこしいが「大航海時代到来による欧州経済中心の地中海沿岸から大西洋沿岸への推移」によって次第に問題とされなくなっていく。
カルロ1世(Carlo I d'Angiò、シチリア王(在位1266年〜1282年)ナポリ王(在位1282年〜1285年))- Wikipedia
③ここから17世紀にかけて「大航海時代到来による欧州経済中心の地中海沿岸から大西洋沿岸への推移」を背景にローマ、アムステルダム、パリ、ロンドンが急激に抱える人口を増加させ、世紀末までにパリ、ロンドンは50万を越える人口を有するまでとなる。そして1800 年当時の諸都市の人口は、ロンドン86 万人、北京 90 万人、上海5万人、パリ 54 万人、ニューヨーク6万人と推定されている。
アントウェルペン/アントワープ(オランダ語Antwerpen、フランス語Anvers、英語Antwerp)の人口は1500年時点では人口4万数千であったが、1560年までにアルプス以北最大規模の都市へと成長し、八十年戦争(1568年~1609年、1621年~1648年)勃発時点では10万人を超えていた。ただしその後急速に衰退。1589年時点では4万人にまで減少。
アムステルダムの人口は1500年には1万人を少し超える程度、1570年には3万人、1600年には6万人、1622年には10万5,000人、1640年には13万人、1700年には約20万人と急増した。それから150年程度はほぼ横ばいであったが、第二次世界大戦前の100年で4倍に急増して80万人となり、それ以降は安定している。
- 産業革命以前のイングランドの経済的発展はクロムウェル護国卿時代における「(欧州諸王朝間の伝統的紛争に背を向けた)大西洋シフト」に端を発する(常に経済的成功者が組み込まれ続け、経済的敗者が庶民落ちし続ける)ジェントリー階層に主導されたとも。要するに本国の羊毛供給地主、大西洋三角貿易が生んだカリブ海奴隷農場の不在地主、イギリス東インド会社統治下のインドで巨富を築いて本国に帰還したネイボッブ(Nabob、インド成金)らが牽引した「新大開拓代」の産物…
ちなみにこうした伝統的ジェントリー階層は19世紀中盤までにマンチェスターの新興産業階層にすっかりしてやられてしまい、地主から金融業への転換を余儀なくされている。ただし「生き延びる事そのものを伝統的に集-立(Gestell)システム(後期ハイデガーいうところの「特定目的実現の為に手持ちリソースを総動員しようとする強権的体制」)の主題としてきた」保守派の覚悟は本物で、女性参政権運動の成果まで自家薬籠中のものとして自由党や労働党といった国内左派を呆然とさせている。
そもそもイギリスの政治史はロマネスク時代(Romanesque Age、1000年〜1200年頃)から議会制民主主義確立まで独特の一貫性があって、これが展開上における最大の強みとなってきたとも。
- 一方、産業革命以前のフランスの経済的発展はレパント交易失陥と「大航海時代到来による欧州経済中心の地中海沿岸から大西洋沿岸への推移」に伴って観光/農業立国への転換を余儀なくされたヴェネツィアに代わってオスマン帝国との主要交易国となった事(王室庇護下、「産業都市」リヨンや「軍港」トゥーロンが発展)、(絶対王政期にはフランスから追放されてしまう)ユグノーの活躍、(元アキテーヌ公国の主府としてスペインやイングランドとの交易で栄えてきた)ボルドーを中心として「新大開拓代」に巧みに適応してきたからとも。ただし最終的にこの方面では大英帝国に完全にしてやられてしまう。
イタリア王国(1861年〜1946年)やドイツ帝国(1871年〜1918年)の独立によって「神聖ローマ帝国的領邦国家制最期の残滓」として取り残されたオーストリア=ハンガリー二重帝国の首都ウィーンの人口増大については、さらに「歪んだ発展」という側面が目立つ。間違いなく「2月/3月革命(1848年〜1849年)以降の既存農本主義的伝統の崩壊」なんて話にも関係してくる流れで「解放された」オーストリア臣民は上洛するばかりでなく、ハンブルグでニューヨーク行きの便に乗ってアメリカへと移住していったのである。
ウィーンの人口は1754年には18万足らず、1800年には23万超、1840年には38万足らず、1860年には80万足らずと推移してきたが1890年には130万人、1900年には160万、1910年には200万を超えていた。
ところで当時は江戸や北京の頑張りも凄い。
ロドリゴ・デ・ビベロによって1609年ごろに15万人と伝えられた江戸の人口は、18世紀初頭には100万人を超えたと考えられている。なお国勢調査の始まった1801年のヨーロッパの諸都市の人口はロンドン 86万4845人(市街化地区内)、パリ 54万6856人(城壁内)であり、19世紀中頃にロンドンが急速に発達するまで江戸の人口は北京や広州と同規模か、あるいは世界一であったと推定されている。
*ただ江戸の人口は参勤交代制で膨れ上がっていたところもあって、幕末これを取りやめた途端に人口が一気に20万人近く減って未曾有の大不況に襲われたという。また江戸の面積は他の欧州都市より遥かに大きく、広大な森林をその敷地内に抱え込んでいる為、来日した外国人から「まるで都市が森に埋め込まれている様だ」と表現されている事も忘れてはならない。中国の人口資料は数こそ多いが統計の方法が恣意的で統一的に理解するのは困難である。とにかくそれによれば清の6代皇帝乾隆帝(在位1735年〜1705年)の時代に初めて1億人の大台を超え、乾隆6年(1741年)の人口数は1.43億人、乾隆28年(1763年)に2億人に達し、乾隆59年(1794年)には3億人に達している(乾隆6年から乾隆59年にかけての半世紀で倍増)。清朝はこの頃が領土が最大に達した最盛期であった。その後は二つの世界大戦があった20世紀前半まで「支那に四億人の民あり」といわれる時代が続く。
一方、当時の大都市は地方からの人口流入が絶えない一方、劣悪な衛生状態による伝染病の流行や災害時の集中罹災などのせいで死亡率が極めて高く歴史学者から「人口の墓場」と呼ばれてもいる。とどのつまり欧州においては(口減らしと紙一重の)ヴァイキング(北欧諸族の冒険商人による略奪遠征)や十字軍や東欧開拓遠征、スペインやポルトガルが主導した大航海時代や、それに続いた英国における新開拓時代(没落ジェントリー層のインドやカリブ海への進出)に並ぶ人口調整装置として機能していたという側面も。
新たなパラダイムシフトは「クリミア戦争(英Crimean War、仏Guerre de Crimée、露Крымская война、土Kırım Savaşı、1853年〜1856年)」を契機に到来。そう「クリミアの天使」「ミス軍務省」とも呼ばれた「統計学の祖」ナイチンゲールの降誕…そして19世紀後半には大幅な細菌学や免疫学の発展もあって既存価値観に大幅なパラダイムシフトが発生。
手指衛生の歴史をさかのぼりますと、紀元前のHippocratesの時代になります。「創は煮沸した水で洗い、創処理するときには手と爪をきれいにする」という記載があります。
*Galenosもワインを浸した包帯を使用している。煮沸水やアルコールに加え、次第に経験的にクロール石灰や石灰酸も使われる様に。
その後約1400年を経て、Semmelweisが初めて手洗いを導入したのが1847年です。塩素は値段が高いため、さらし粉を使ってウィーン産院の出産後死亡率を低減しています。
*晒し粉…水酸化カルシウムを含有する次亜塩素酸カルシウム製品。消石灰(水酸化カルシウム、Ca(OH)2)に塩素を吸収させて製造する。
そしてListerの時代になります。Listerの業績のもとになったのは、Pasteurによる自然発生説の否定です。これを受けてListerは、気胸が閉鎖性のときには膿胸は起こらないが、開放性の創があると外の空気が中に入り込んで膿胸を起こすという仮説を立てました。
*1830年代に性能の良い顕微鏡が発明されたが、微生物と感染症を関連付けるには至らなかった。19世紀後半に入ると細菌学者のパスツールやコッホがその仕事を成し遂げた。
ルイ・パスツール(Louis Pasteur, 1822年〜1895年) - Wikipedia
ロベルト・コッホ(Heinrich Hermann Robert Koch、1843年〜1910年) - Wikipedia1864年にはCarlisleというスコットランドとイングランドの境の都市で、下水処理場に石炭酸をまいたところ臭いがなくなり、そのあとに生えた牧草を食べた牛の寄生虫が減少しました。その事実に目をつけて1865年8月12日、James Greenleesという11歳の少年の開放性骨折の傷を、初めて石炭酸を含ませたガーゼで覆いました。それ以来、肢切断後の死亡率を約3分の1に減らすことができました。それが今日の無菌手術につながっています。
ゴム手袋が初めて使われたのは1889年です。汚染を防ぐためではなく、Halsteadのプライベートナースが昇汞(塩化第二水銀)にアレルギー反応を起こすため、2相のゴム手袋を作らせたのが最初だそうです。
20世紀になり、1935年に第四級アンモニウム塩の殺菌作用が報告され、1941年にはヘキサクロロフェン(G-11)が発表されました。東京大学医学部附属病院(東大病院)の清水外科で1952年に初めてG-11を手術時手洗いに採用したという記録が残っています。
1954年にはクロルヘキシジンが開発され、1957年にはヨードホールが合成されました。1966年にはヘキサクロロフェンのスクラブ剤が、1969年にはポビドンヨードが市販されています。
1971年、フランスで6%ヘキサクロロフェンが混入されたベビーパウダーを使った子どもが4人死亡するというショッキングな事故が起こりました。これを受けて米国食品医薬品局(FDA)は勧告を出しています。それ以来ヘキサクロロフェンの毒性が問題になりました。日本では1985年に発売中止になっています。同年、米国疾病管理センター(CDC)が「手洗いと病院環境制御のためのガイドライン」を初めて出しました。
1985年は日本で初めて速乾性擦式手指消毒薬が発売された記念すべき年です。1999年になって英国Hospital Infection SocietyのチェアマンをしていたGraham Ayliffeが、アルコールのみによる擦式消毒で手術に入る方法を推奨しています。その後2002年、CDCの「医療機関における手指衛生のためのガイドライン」により、擦式消毒のみで手術に入ることを認める方向性が出ています。ドラフトでは流水による手洗いは入っていませんでしたが、パブリックコメントを求めている段階で外科医が猛反対して、結果的に流水による手洗いまたは擦式消毒、スクラビング法でもラビング(擦式消毒)法でもよいというかたちの勧告になりました。
悲しくもそれは欧米列強が「疫病の壁」の突破についに成功した事も意味しており、この時代からの地下資源有用性の変遷もあって19世紀末には「アフリカ分割」が敢行されてしまうのです。
さて、我々は一体どちらに向けて漂流しているのでしょう?