諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【非マキャベリ的君主論】ウィルヘルム2世が、本当は「バカ殿」ではなかったなら?

思わぬパラダイムシフト。ドイツ皇帝ウィルヘルム2世の「バカ殿人格心理学的アプローチ)」から「ポピュリズム植民地商人や外交官といった宮廷における声の大きな人達に屈した悲劇の絶対君主対象心理学的アプローチ)」への変遷…

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*人格心理学的アプローチにおいてはウィルヘルム2世の 内面性をブラックボックス化して「外界に与えた行動の総体」として当人を規定する。対象心理学的アプローチにおいては真逆に「ウィルヘルム2世が目にして反応した世界」をブラックボックス化し「形成された認識の総体」として当人を規定する。

これまで私が構築してきた歴史観とすり合わせるのが案外大変という…

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まず全体構造の再構築から。「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的権威体制」が「各個人が自分自身とその私財を代表する資本主義的自由体制」に移行する家庭では、概ね「(領主階層に当時の伝統的慣習や社会的拘束から解放され、自らの心の赴くままに振る舞う自由人が現れる上からの自由主義」と新興階層がほぼ同時平行的に出現し、悪として駆逐されたり、伝統的ブルジョワ=インテリ=政治的エリート階層が再編されたり、(その階層や外国人や現地人を軍人や官僚の供給階層として取り込んだ)中央集権的君臣関係形成や広域経済網構築の契機となったりします。このブログを開設した2016年頃より取り組んできたのに、中々全体像が明らかに出来ないでこれたトピック… 

世界システム論講義-──ヨーロッパと近代世界-ちくま学芸文庫-川北稔

世界システム成立以前のヨーロッパ は、事実としての分散的な権力の存在と、他方での 普遍的な支配の理念が共存する奇妙な世界であった。すなわち、ローマ教皇庁神聖ローマ帝国は、それぞれに聖・俗のもち分を分かちながら、いずれも少なくとも理念的にはヨーロッパ 世界全域を「 普遍的」に支配するものと「自負」していた。神聖ローマ 皇帝は、イギリスやフランスの「国王」と並ぶ者ではなかったのである。ローマ教皇が「キリスト教世界」の「普遍的」支配を当然のこととしたことは、いうまでもない。 

世界システムが 成立すると、その経済的余剰の分け前を得るためには、強力な国家 機構が必要となり、絶対王政のかたちを取る地域が多くなった。しかし、政治や権力に かかわる理念はなお混乱しており、16世紀前半の段階では、いまやアメリカまで拡大 された世界システムの全域を「普遍的」に支配しようとする試みが生き残った。この動向 の主役となったのが、神聖ローマ皇帝カール五 世でもあったスペイン王カルロス一世 と、彼と神聖ローマ皇帝の位を争ったフランス王フランソワ一世とである。この二人は、ヨーロッパ世界の「普遍的」支配権をめざして「イタリア戦争」を 執拗に展開した。ローマ教皇庁の所在地を押さえることが、野望達成のため に不可欠とみられたからである。
*イタリア戦争(1494年〜1559年)の第二幕(ナポリ継承戦争、1499年〜1504年)の裏側では、さらにローマ教皇アレクサンデル6世の息子チェザーレ・ボルジアがフランス軍の助力を得て教皇領の統治権を回復し、イタリア統一まで目指していた。

しかし、のちの世界システムの歴史にとって決定的なことは、この「イタリア戦争」には、ついに勝者がなかったということである。グローバルな世界システムを政治的に統合し、官僚と軍隊を配置して支配すること、つまり世界帝国にすることは、経済的に引き合わなかったのである。世界の政治的支配を狙った二人の君主は、結局、どちらも財政破綻をきたし失脚した。とくに膨大なアメリカ銀の供給を背に受けたはずのカール五 世にさえ、宗教改革にともなうドイツの混乱をおさめ、広大な世界を支配する財政力は なかっ たのである。1556年、帝国は分裂し、カールは退位する。その長子フェリーペ 二世は、なおネーデルラントをも相続したが、1557年には自ら破産を宣告せざるをえ ず、ネーデルラントは独立に走った。同年、フランス国王もまた、破産を自ら認めざる をえなかった。ハプスブルク家とヴァロワ家は、いわば世界帝国の形成競争のなかで、 共倒れとなったのである。

1559年にいたって、フランスとスペインが、イギリスを交えて締結したカトー・カンブレジ条約によって、世界帝国への夢 を捨てたのは、けだし当然のなりゆきで あった。 1580年、スペインは、ポルトガルを併合し、形式的には「陽の没することなき」帝国 といえるものを形成したが、すでにオランダは独立の寸前にあり、イギリスも、フランスも、スペインの支配下にはなかった。むしろスペイン帝国の内部自体が、オランダ資本などの侵食を受けていたのである。
*そして19世紀に入るとイタリア王国ドイツ帝国がハプスブルグ君主国より独立。

 近代世界システムの全 史を通じて、その出発点で 得られたこの教訓に挑戦する者がい なかったわけではない。ナポレオンやヒトラーをあげることもできるかもしれないし、問題はあろうが、あるいは、かつての国際共産主義の動きをこのようにとらえることも できるかもしれない。しかし、これらの試みはいずれも失敗に終わった。近代世界システム は、経済的分業体制 ─ ─「世界帝国」に対して「世界経済 と呼ぶ ─ ─ としてしか存続しえないのである。

①日本においては第一次世界大戦特需を背景にやっと「究極の自由主義専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマを勢力均衡によって克服する本来の意味での自由主義が根付き始めた。実はここから出発しない限り市場貨幣経済も議会制民主主義も正しい形では発展し得ないのである。
*ロシアから東欧にかけての旧共産圏には「共産主義瘡蓋(かさぶた)論」なるものが存在するという。(日本でヤマト王権が部族連合段階から脱する為に律令制導入を不可避とした様に)国家なるもの「領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的権威体制」が横行している状態から直接市場貨幣経済や議会制民主主義に移行するのが不可能なので、これを破壊する為に共産主義国家なる段階を減るしかなかったとする立場。まさしくメルロ=ポンティいうところの「原理的に勝利の哲学(philosophie triomphante)へと変容することのない戦う哲学(philosophie militante)」そのもの。

大杉栄「僕は精神が好きだ(1918年2月)」

僕は精神が好きだ。しかしその精神が理論化されると大がいは厭いやになる。理論化という行程の間に、多くは社会的現実との調和、事大的妥協があるからだ。まやかしがあるからだ。

精神そのままの思想はまれだ。精神そのままの行為はなおさらまれだ。生れたままの精神そのものすらまれだ。

この意味から僕は文壇諸君のぼんやりした民本主義人道主義が好きだ。少なくとも可愛い。しかし法律学者や政治学者の民本呼ばわりや人道呼ばわりは大嫌いだ。聞いただけでも虫ずが走る。

社会主義も大嫌いだ。無政府主義もどうかすると少々厭になる。

僕の一番好きなのは人間の盲目的行為だ。精神そのままの爆発だ。しかしこの精神さえ持たないものがある。

思想に自由あれ。しかしまた行為にも自由あれ。そして更にはまた動機にも自由あれ。
*ここで思い出すべきは後期ハイデガーが掲げた「全ての集-立(Ge-Stell)システム(すなわち「特定目的実現の為に手持ちリソース全てを総動員しようとする体制」)は、究極的には自己目的化してアレーティア(真理の世界)への到達を妨げる」なるテーゼ。こうした問題もあって軍隊は本来なら可能な限り、あらゆる不足の展開に備える為(直接特定の戦局には投入しない)予備兵力を確保しておきたがるものである。そして間違いなく「第一次世界大戦特需を背景にやっと本来の意味での自由主義大日本帝国に根付き始めた」背景には、それまで日本政府が戊辰戦争(1868年〜1869年)や日清戦争(1894年〜1895年)や日露戦争(1904年〜1905年)においては常に「予備兵力の充実なる贅沢」に構ってられないギリギリの綱渡りを強いられてきた事、および第一次世界大戦特需によって余力が出来た途端に西原借款やシベリア出兵に入れ上げる醜態を曝してしまった事と表裏一体の関係が存在するのである。

大杉栄「新秩序の創造 評論の評論(1920年6月)」

『先駆』五月号所載「四月三日の夜」(友成与三吉)というのがちょっと気になった。

それは、四月三日の夜、神田の青年会館に文化学会主催の言論圧迫問責演説会というのがあって、そこへ僕らが例の弥次りに行った事を書いた記事だ。友成与三吉君というのは、どんな人か知らないが、よほど眼や耳のいい人らしい。僕がしもしない、またいいもしない事を見たり聞いたりしている。たとえば、その記事によると、賀川豊彦君の演説中に、僕がたびたび演壇に飛びあがって何かいっている。

しかし、そんな事はまあどうでもいいとして、ただ一つ見遁みのがす事の出来ない事がある。賀川君と僕との控室での対話の中に、僕が「僕はコンバーセーションの歴史を調べて見た。聴衆と弁士とは会話が出来るはずだ」というと、賀川君が「それは一体どういう訳だ」と乗り出す。それに対して僕がフランスの議会でどうのこうのと好いい加減な事をいう、というこの最後の一句だ。何が好い加減か。この男は自分の知らない事はすべてみんな好い加減な事に聞えるものらしい。

僕らの弥次に対して最も反感を抱いているのは警察官だ。

警察官は大抵仕方のない馬鹿だが、それでもその職務の性質上、事のいわゆる善悪を嗅かぎわけるかなり鋭敏な直覚を持っている。警察官の判断は、多くの場合に盲目的にでも信用して間違いがない。警察官が善いと感ずることは大がい悪い事だ。悪いと感ずることは大がい善い事だ。この理屈は、いわゆる識者どもには、ちょっと分りにくいかも知れんが、労働者にはすぐ分る。少なくとも労働運動に多少の経験のある労働者は、人に教わらんでもちゃんと心得ている。そしてそれを、往々、自分の判断の目安にしている。いわばまあ労働者の常識だ。

僕らの弥次に反感を持つものは、労働者のこの常識から推せば、警察官と同じ職務、同じ心理を持っている人間だ。僕らは、そんな人間どもとは、喧嘩をするほかに用はない。

元来世間には、警察官と同じ職務、同じ心理を持っている人間が、実に多い。

たとえば演説会で、ヒヤヒヤの連呼や拍手喝采のしつづけは喜んで聞いているが、少しでもノオノオとか簡単とかいえば、すぐ警察官と一緒になって、つまみ出せとか殴れとかほざき出す。何でも音頭取りの音頭につれて、みんなが踊ってさえいれば、それで満足なんだ。そして自分は、何々委員とかいう名を貰って、赤い布片でも腕にまきつければ、それでいっぱしの犬にでもなった気で得意でいるんだ。

奴らのいう正義とは何だ。自由とは何だ。これはただ、音頭取りとその犬とを変えるだけの事だ。

僕らは今の音頭取りだけが嫌いなのじゃない。今のその犬だけが厭なのじゃない。音頭取りそのもの、犬そのものが厭なんだ。そして一切そんなものはなしに、みんなが勝手に踊って行きたいんだ。そしてみんなのその勝手が、ひとりでに、うまく調和するようになりたいんだ。

それにはやはり、何よりもまず、いつでもまた何処どこにでも、みんなが勝手に踊る稽古をしなくちゃならない。むつかしくいえば、自由発意と自由合意との稽古だ。

この発意と合意との自由のない所に何の自由がある。何の正義がある。

僕らは、新しい音頭取りの音頭につれて踊るために、演説会に集まるのじゃない。発意と合意との稽古のために集まるんだ。それ以外の目的があるにしても、多勢集まった機会を利用して新しい生活の稽古をするんだ。稽古だけじゃない。そうして到る処に自由発意と自由合意とを発揮して、それで始めて現実の上に新しい生活が一歩一歩築かれて行くんだ。

新しい生活は、遠いあるいは近い将来の新しい社会制度の中に、始めてその第一歩を踏み出すのではない。新しい生活の一歩一歩の中に、将来の新しい社会制度が芽生えて行くんだ。

僕らのいわゆる弥次は、決して単なる打ち毀しのためでもなければ、また単なる伝道のためでもない。いつでも、またどこにでも、新しい生活、新しい秩序の一歩一歩を築き上げて行くための実際運動なのだ。

弁士と聴衆との対話は、ごく小人数の会でなければ出来ないとか、十分にその素養がなければ出来ないとかいう反対論は、まったく事実の上で打ち毀されてしまった。

怒鳴る奴は怒鳴れ、吠える奴は吠えろ。音頭取りめらよ。犬めらよ。
ベルクソンの「エラン・ヴィタール(élan vital=生の飛躍)」思想や前期ハイデガーの「私を私たらしめている選び」概念は、ジョルジュ・ソレル「暴力論(Réflexions sur la violence、1908年)」における「人間に苦難を受容させる神話」論と(フランス革命がフランス全体に与えた影響同様に)徹底破壊によって欧州州経済全体を半世紀の停滞に追い込んだ第一次世界大戦(1914年〜1918年)における総力戦を経てエンルスト・ユンガーがその思想書や魔術主義リアリズム文学の中で展開した様な「自由を行使する能力は、相応の訓練を経てしか習得し得ない」なる発送へと到達する。その意味では大杉栄は国際的観点から見ても随分と先進的であり、だからこそ1970年代中旬に「究極の自由主義専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマを世に再提示したイタリアのパゾリーニ監督同様に悲惨な最後を遂げざるを得なかったとも。この二人は「当時の右翼にも左翼にも受容不可能な形で真理の極端形に到達してしまった(それ故にどちら側から暗殺されても不思議ではなかった)」というギリギリ感が一致している。

与謝野晶子 激動の中を行く(1919年)

巴里のグラン・ブルヴァルのオペラ前、もしくはエトワアルの広場の午後の雑沓初めて突きだされた田舎者は、その群衆、馬車、自動車、荷馬車の錯綜し激動する光景に対して、足の入れ場のないのに驚き、一歩の後に馬車か自動車に轢ひき殺されることの危険を思って、身も心もすくむのを感じるでしょう。

しかしこれに慣れた巴里人は老若男女とも悠揚として慌てず、騒がず、その雑沓の中を縫って衝突する所もなく、自分の志す方角に向って歩いて行くのです。

雑沓に統一があるのかと見ると、そうでなく、雑沓を分けていく個人個人に尖鋭な感覚と沈着な意志とがあって、その雑沓の危険と否とに一々注意しながら、自主自律的に自分の方向を自由に転換して進んで行くのです。その雑沓を個人の力で巧たくみに制御しているのです。

私はかつてその光景を見て自由思想的な歩き方だと思いました。そうして、私もその中へ足を入れて、一、二度は右往左往する見苦しい姿を巴里人に見せましたが、その後は、危険でないと自分で見極めた方角へ思い切って大胆に足を運ぶと、かえって雑沓の方が自分を避けるようにして、自分の道の開けて行くものであるという事を確めました。この事は戦後の思想界と実際生活との混乱激動に処する私たちの覚悟に適切な暗示を与えてくれる気がします。
*ここで注目すべきは「危険でないと自分で見極めた方角へ思い切って大胆に足を運ぶと、かえって雑沓の方が自分を避けるようにして、自分の道の開けて行くものであるという事を確めました」の一文。そこに既に「究極の自由主義専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマが勢力均衡によってしか克服し得ないバランス感覚が内包されている。国際SNS上における関心空間の動作の基本原理。

  • スイスの文化史学者ブルクハルトおよびドイツの歴史哲学者ゾンバルトいわく。「それぞれの主権者が、己の欲求のみに忠実に生きようとする個人主義アビニョン虜囚時代に領主化した教皇フランス王国の助力を得てイタリアを教皇国家として統一しようとしたボルジア家の野望を含む)、イタリア・ルネサンス期におけるミラノやフィレンツェといった都市国家群におけるシニョリーア(signoria=僭主制)、イタリア傭兵隊長単数形コンドッティエーレ(condottiere)、複数形コンドッティエーリ(condottieri))の登場に由来する。

    ボルジア家(イタリアBorgia、バレンシアBorja、スペインBorja) - Wikipedia

    シニョリーア(signoria=僭主制) - Wikipedia

    コンドッティエーレ(単数形コンドッティエーレ(condottiere)、複数形コンドッティエーリ(condottieri)) - Wikipedia
    メディチ家(Casa de' Medici) - Wikipedia

  • 当時の「上からの自由主義」は、あくまで「領主主権領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的権威体制)」から出発するが故に「領民下部構造やその権力を支える権威上部構造の自由を犠牲にする中間的存在」なる側面から脱しきれてない。その欠陥にも関わらず、ここから可能な限りポテンシャル(潜在的可能性)を引き出そうと試みてきたのが①16世紀前半に大航海時代を始めたポルトガル宮廷を飾ったマリエル様式、②16世紀後半にジェノバ宮廷銀行家私邸の(王侯貴族の歓待に使われる)応接間を飾った豪華な装飾、③16世紀末から17世紀初頭にかけイタリアのローマ、マントヴァヴェネツィアフィレンツェで発展した「(新大陸のウルトラ・バロック運動の出発点となる芸術的装飾による宗教的権威の復興運動」、④「太陽王ルイ14世の栄光を讃える為にフランス王政下で発達したバロック様式、⑤こうした展開全てが貴族主義に内面化されて独特の優雅さと諦観を備えるに至ったロココ様式といった一連の系譜だったのに対し(自国の歴史観に照会し)「領主主権領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的権威体制)」の絶対悪視から出発し(その徹底的なまでの自己否定運動によって産業革命導入を半世紀遅らせ大英帝国一強状態を生み出したフランス革命の理念は、ある意味「スイス無政府主義」に遡る。

    *そしてここに「(戦争と贅沢を謳歌する)大国絶対君主の自由主義」を倫理的には弾劾しながら、経済的にはそれに全面依存してきた「小国」スイスのジレンマが急浮上してくるのである。どうして織田信長豊臣秀吉はあれだけ本気で本願寺雑賀衆根来衆を屈服させ様としたのだろうか。もしかしたら、良い意味でも悪い意味でも、まさにこうした展開を恐れての事ではなかったか?

  • こうした意味合いにおける「究極の自由主義専制の徹底によってのみ達成されるジレンマの勢力均衡による克服」は、例えば歴史上「中国三国時代184年〜280年における魏・蜀・呉の鼎立状態」とか「神聖ローマ帝国皇統ハプスブルグ家とフランス王室の歴史的確執」とか「冷戦時代1941年〜1991年における米ソ対立」といった大国間の力の均衡状態によって達成されてきたが、個々の局面においては(やがて大国の仲間入りを果たす可能性を秘めていたかいなかったかに関わらず新興国トリックスター的役割を果たす局面が少なくなかったのである。
    *「小国」の未来への展望もまさにここにある。

    ある意味カール・シュミッツの政治哲学における「友・敵呉越同舟関係Freund-Feind Verhältnis)」 とは、これについて述べた内容である。ただし彼にはウォーラーステイン世界システム論(World-Systems Theory)の様に「世界経済は欧州における主権国家間の均衡状態の産物である。主権国家自体は世界中に勃興してきたが、概ねこうした均衡状態に至る事なく天下統一を果たして世界帝国を実現。それまで内包してきた緊張感を喪失して衰退に向かうしかなかった」といった巨視的観点が欠けていた。
    巨視的観点といえばウィリアム・マクニールのヴェネツィア論も欠かせない。確かに「変態パトロン」を探し出してそのパトロネージュを受ける形で自分の描きたい絵を後世に残した「ヴェネツィア派重鎮ティツィアーノTiziano Vecellio、1488年/1490年頃〜1576年)や「ロココ様式絵画の完成者フラゴナールJean Honoré Fragonard、1732年〜1806年)の様な天才もこの世に実在したのは確かだが「芸術家の市場経済原理に直接立脚した表現の自由の歴史」において(オスマン帝国からレバント交易より締め出され、新たな収入源の開発を必要としたヴェネツィアの生んだ三大発明、すなわち「(携帯可能で安価で大量流通に適した小型本」「(カーニバル同様、重要な人寄せの観光資源でもある豪華な劇場で上演される形式のオペラ」「(キャンバス地に描かれ、観光客に土産物として売れる携帯可能な絵画」の登場が芸術家に直接収入源を与え(権力者と全く無縁な)専業作家となる道を切り開いたのは大変な意義がある。逆を言えばレオナルド・ダ・ヴィンチミケランジェロラファエロが活躍したフィレンツェルネサンスやローマ・ルネサンスの時代(イタリア・ルネサンス初期〜盛期)には、まだそうした革命は起こっていない。
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    こうした発想が戦前日本には伝わっておらず、例えば戸坂潤の様なマルクス主義者はカール・マルクスの弁に盲目的に従って「自由主義者の提唱する自由は神やパトロンとの一対一の関係においてのみ生じる宗教家や芸術家やシェリングの提唱する内面的自由の発露に過ぎず、現実に解決すべき社会問題とは一切関係ない」という立場を選択してしまった。ある意味「自由を求める心=一切の人間が解脱すべき悪しき煩悩」とする伝統的思考様式から一歩も脱却出来なかったとも。

    戸坂潤 「現代唯物論講話(1938年)」

    近世的な自由概念はルネサンスに始まると見るべきだろう。イタリヤの商業資本主義の発達につれて、商業都市の隆盛をきたし、そこにいわゆる古典文芸の復興の物質的地盤が用意されたが、そればかりではなくこの初期資本主義によって個人=個性の自覚もまた発生した。かくてメジチ家その他の紳商によって、芸術家が養成されることになり、従来のギルドの徒弟上りに過ぎなかった工人の位置に芸術家が代って就くことになったのである。芸術家は自分自身の個性に従って、制作・創造・の活動をするが故に、もはや単なる工人ではないのである。われわれはここに近世的な自由概念の故郷を見ることが出来る。
    *マクニール「ヴェネツィア――東西ヨーロッパのかなめ、1081-1797(1979年)」はむしろレオナルド・ダ・ビンチやラファエロミケランジェロの個人的才能より、経済的に追い詰められたヴェネツィアが苦肉の策として産み出した「携帯可能な小型書籍(グーテンベルグが印刷したのは教会に常設される効果な巨大本)」「観光の目玉としてのオペラ上演(フィレンツェでは古代ギリシャ悲劇の再現が試みられただけ)」「土産として売られるキャンバス絵画(東欧のイコンを真似て発明)」などに「経済的にパトロンに全面偉人せざるを得ない状況からの芸術家の解放」の端緒を見る。

    自由は個性に基く独創的な生産活動を意味している。これはもはや決して消極的な、何ものかからの非生産的な自由ではない。ここでこの自由は、ダ・ヴィンチミケランジェロ、或いはボッカッチョにおいて見受けられるような、芸術的創造の自由またはロマン的自由に他ならぬ(ロマンは俗語(ロマンス語)による世俗人情的物語で、浪漫主義の歴史的起源をなす。デカメロンが典型的なロマンスであることは人の知る通りだ)。この自由の特色は遥か後になって、ドイツ浪漫派哲学者のシェリングの初期の思想の中心をもなしている。世界を構想(想像・幻想)する自由、自我の内から世界を出し、又世界の随処に自我を見る自由がこれだ。

    近世的自由はただし何よりも民主主義のものであることを忘れることは出来ぬ。政治的自由として、近世的自由の内容が積極的になって来たのは、いうまでもなくフランス大革命を契機としてであり、ルソーの所謂『民約論』に於ける主権の概念に結び付いてである。ルソー自身、浪漫主義の端初をなすといわれるが(物語『新エロイーズ』)、そうすればロマンス的・芸術的な・個性の自由が、ここで政治的な市民の自由へ結び付いたといっていいかもしれない。

    シェリングにおける自由は、その「人間的自由の本質に就いて」においては、もはや個性の自由ではなくまたなおさら政治の自由でもない。人格の倫理的自由が、ここでは人間の宗教的自由にまで押し進められているのである。自由なるものの興味は、他からの強制を否定する自己原因的な自律の内に存するよりもむしろ、完全に無原因なアービトラリネス(arbitrariness、恣意性)の内に、すなわち悪をさえなし得る自由の内に見出される。これは神学的自由である。懐古的な小ブルジョア反動分子のイデオロギーであるロマンティークの行きつく処は、文学的には中世的カトリックへの憧憬であったが、哲学的には神学へ赴かざるを得なかったのである。

②かくして「本当に社会的現実的自由が欲しければ、まず真っ先に精神的空想的自由を放棄して実社会の戦線党争に加われ」という認識から出発した事から、日本における自由主義は(例えば小津安二郎の小市民映画弾劾といった形で)右翼(軍国主義)と左翼(社会主義者)から挟撃されて一時的撤退を余儀なくされる。

毛沢東曰く。「自階層の存続を最優先課題としてきた伝統的富裕層はいかなる時代をも最も最適な形で生き延びる。それに比較的無頓着な新興富裕層はむしろ成功体験を与えてくれた現政権に忠実に振舞おうとする。そして両者から零れ落ち、未来への展望を失った没落階層こそが革命への人的供給源となる」。「人間は安定した日常に逃げ込めるうちは革命に走らない。まず匪賊を嗾けてこれを破壊し尽くし、次いでこの匪賊を討伐してみせて恩を売れば英雄として迎えられる」。確かにこのニュアンスからも「縋れる日常の現存」こそが左翼と右翼共通の絶対悪という認識が浮かび上がってくるのである。

  • 戦前希代のマルクス主義者として知られる戸坂潤(1900年〜1945年)は「自由主義はあまりにも容易に絶対主義へと転化してしまう。その多様性と不安定性ゆえに眼前の歴史的事実に対応すべく政治的に選ばれる可能性のある論理候補には残れない」「民主主義が無力なのは大衆が訓練を受け一枚板に組織されていないから。彼らが力を得るにはさらにその組織が特定の時代精神の体現者として編纂される必要があり、この段階に至って初めて民主主義は本来の力を発揮する」と述べているが、この考え方は「民主主義」を「国家主義」に言い換えさえすれば右翼(軍国主義)にも十分受容可能な内容だったという事である。

  • 元来、後期ハイデガーいうところの「あらゆる集-立Ge-Stellシステム特定目的実現の為に全ての手持ちリソースを総動員しようとする体制は、究極的には全て自己目的化してアレーティア真理の世界へ到達する道を塞ぐ」ジレンマは、(儒教的君子優越主義やボルシェズム的民主集中制理念に基づいて大衆の状況判断力を全面否定し、大義名分立てを巡る政治的エリート間の手段を選ばぬ衝突をただひたすら称揚し続ける)福本イズムや、(敵・共関係を極限まで推し進める戦略で新たな例外状態(=独裁)を生み出そうとするす事を至上課題とする)カール・シュミッツの政治哲学の様な党争至上主義を忌避する。ここでいう「アレーティア真理の世界を求め続ける心」とは、おそらく「(世界恐慌(1929年)から始まった未曾有の規模での国際協調体制崩壊危機が生み出した実存不安の蔓延を前にしても決して慌てず騒がず世界最終戦争の接近といった妄想に逃げる事なく正しい処方箋の調合努力を決っして怠らない姿勢」と言い換えても差し支えない内容だが、かかる形での(党争至上主義の立場からの自由主義の全面否定はその立場の逆転版といえよう。そして実際に当時を生きた人々は原則として後者にしかリアリズムが感じられない状況に追い込まれていったのであった。

    大日本帝国軍国主義化①】ある意味それは、それまで全国各地の在地有力者や現地リーダーを「我田引鉄」戦略で取り込み続ける事で選挙権拡大運動を制してきた立憲政友会伊藤博文西園寺公望桂太郎が組織し原徹の時代に日本最初の本格的な政党内閣を組閣)が、第一次世界大戦特需の終焉や関東大震災の未曾有の被害(例えばそのせいでそれまで日本経済の成長を支えてきた繊維輸出産業の拠点が横浜から神戸に移動したりしている)を背景に持続不可能となってしまい、代案として(全国の在郷軍人会を組織した)陸軍大将田中義一を総裁に迎えた歴史的時点にまで遡る(政友会の親軍化)。そして昭和金融恐慌を背景に運命の田中義一内閣(1927年〜1929年)が組閣される。

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    田中義一内閣(1927年〜1929年) - Wikipedia

    政治家時代の田中1927年(昭和2年)3月、第1次若槻内閣のもとで全国各地の銀行で取り付け騒ぎが起こった(昭和金融恐慌)。若槻内閣は同年4月17日に総辞職し、代わって立憲政友会総裁の田中義一が4月20日に組閣した。田中内閣には元総理や次の総理を狙う大物政治家、そして将来の総理や枢密院議長などが肩を寄せ合い、大物揃いの内閣となった。そして大蔵大臣に起用された元政友会総裁・内閣総理大臣高橋是清が全国でモラトリアム(支払猶予令)を実施し、金融恐慌を沈静化させる事に成功する。

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    • 後世においては政治家として厳しい評価される事が多い田中であるが、公の前でも「オラが…」と親しく語るその性格は気さく・庶民的で、周囲の人望はきわめて厚かった。そのことを示すエピソードがたくさんある。例えば田中内閣が発足したのち、内閣書記官長の鳩山一郎後に自由党総裁、民主党総裁、内閣総理大臣蔵相)は、当時流行りはじめたゴルフに夢中になり、閣議をすっぽかすほどだった。他の閣僚が田中にそのことを教え苦言を呈したが、田中は「そうか、ゴルフちゅうもうんは、そげん面白いもんかのう」と言って、鳩山には何も注意しなかった。
      鳩山一郎 - Wikipedia


      *このエピソードでふと思い出したのが「放蕩三昧だった若い頃のビスマルク」。

    田中内閣は憲政会政権下で行われてきた幣原喜重郎らによる協調外交方針を転換し、積極外交に路線変更した。田中は外務大臣を兼任し、対中積極論者の森恪を外務政務次官に起用して「お前が大臣になったつもりでやってくれ」と実務の全てをまかせていた。森は事実上の外相として辣腕を振るい、山東出兵や東方会議の開催、張作霖に対する圧迫などといった対中強硬外交が展開されるが、ある程度の協調が望ましいとする田中と、「東洋のセシル・ローズ」を自認してあくまで積極的な外交をよしとする森は、やがて対立するようになる。そこに事務方の外務次官としてやってきたのが、奉天総領事をつとめ、中国問題に詳しいと自負していた吉田茂であった。
    森恪 - Wikipedia

    • 対中国積極外交を主張する奉天総領事時代の吉田茂後に自由党総裁、内閣総理大臣内務大臣)は、外務次官のポストを得ようとしたが、田中内閣にいったん拒絶され、スウェーデン大使に出されることになった。吉田は首相官邸に乗り込み、田中に向かって長時間にわたり次官の自己推薦のための口舌をぶち、その間、田中はひどくつまらなそうに吉田の話を聞いていた。吉田は「これで次官は棒に振ってしまったが、せいせいした」とスウェーデンに発つ準備をしていた数日後、田中から電話があり「ところで吉田君、次官になってもらうよ、まさか異論はないだろうね」ととぼけた口調でいわれ、吉田は驚きつつも次官就任を快諾した。以後、吉田は終生、田中のことを尊敬するようになったという。
      吉田茂 - Wikipedia

    1928年(昭和3年)2月に第1回普通選挙が行われ、社会主義的な活動が目だったことから、同年3月に全国の社会主義者共産主義者を一斉に検挙した(三・一五事件)。この選挙後に、人事のもつれから辞意を表明した閣僚を昭和天皇に慰留させ、天皇を政局に利用したと批判され(水野文相優諚問題)、貴族院は異例の田中首相問責決議を可決。

    同1928年に起きた張作霖爆殺事件に際して、国際的な信用を保つために容疑者を軍法会議によって厳罰に処すべきと主張し、その旨を天皇にも奏上したが、陸軍の強い反対に遭ったため果たせなかった。このことを野党立憲民政党に批判された。中野正剛は尼港事件の際に田中が「断じて臣節を全うす」と称して陸軍大臣の職を辞したことは国務大臣として責を負うた適例であったが、済南事件の責任を福田司令官に帰し、満洲事件(張作霖爆殺事件)を村岡司令官に帰したことは厚顔無恥であるとして、田中が「この如き事に責任を負うたら総理大臣は何万居っても足らぬ」と豪語したことに対して、政略出兵の責任を軍部に転嫁するような総理大臣がいたら日本帝国の国軍は何百万人居っても足らないこととなると糾弾した。

    尼港事件(にこうじけん、露Николаевский инцидент Nikoláyevskiy Intsidyént, 英Nikolayevsk Massacre、1920年) - Wikipedia

    ロシア内戦中の1920年大正9年)3月から5月にかけてアムール川の河口にあるニコラエフスク(尼港、現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)で発生した、赤軍パルチザンによる大規模な住民虐殺事件。港が冬期に氷結して交通が遮断され孤立した状況のニコラエフスクパルチザン部隊4,300名(ロシア人3,000名、朝鮮人1,000名、中国人300名、参謀本部編『西伯利出兵史』によれば朝鮮人400-500名、中国人900名)が占領し、ニコラエフスク住民に対する略奪・処刑を行うとともに日本軍守備隊に武器引渡を要求し、これに対して決起した日本軍守備隊を中国海軍と共同で殲滅すると、老若男女の別なく数千人の市民を虐殺した。殺された住人は総人口のおよそ半分、6,000名を超えるともいわれ、日本人居留民、日本領事一家、駐留日本軍守備隊を含んでいたため、国際的批判を浴びた。日本人犠牲者の総数は判明しているだけで731名にのぼり、ほぼ皆殺しにされた。建築物はことごとく破壊されニコラエフスクは廃墟となった。この無法行為は、結果的に日本の反発を招いてシベリア出兵を長引かせた。小樽市手宮公園に尼港殉難者納骨堂と慰霊碑、また天草市五和町手野、水戸市堀原、札幌護国神社にも殉難碑がある。 

    済南事件(五・三惨案、1928年) - Wikipedia

    1928年(昭和3年)5月3日午前9時半頃、中国山東省の済南における、国民革命軍の一部による日本人襲撃事件、および日本の権益と日本人居留民を保護するために派遣(第二次山東出兵)された日本軍と、北伐中であった蒋介石率いる国民革命軍(南軍)との間に起きた武力衝突事件。事件の発端については日本と中国では見解が異なる。

    また、日本軍により旧山東交渉公署の蔡特派交渉員以下16名が殺害されたが、中国側はこれを重く見て、日本軍の「無抵抗の外交官殺害」を強く非難した。さらにこれを機に、日本軍は増派(第三次山東出兵)を決定した。

    衝突はいったん収まったものの、軍事当局間の交渉が決裂。5月8日早朝、日本軍は済南城への攻撃を開始。安全地帯と避難路を指定したため、南軍は夜陰に乗じて城外へ脱出し北伐を続行した。5月11日、日本軍は済南を占領した。1929年3月に合意が成立し、日本軍が撤退。

     1929年(昭和4年)6月27日に、関東軍は無関係であったと田中が天皇に奏上したところ、天皇は「お前の最初に言ったことと違うじゃないか」と田中を直接詰問した。このあと奥に入った天皇鈴木貫太郎侍従長に対して「田中総理の言ふことはちつとも判らぬ。再びきくことは自分は厭だ。」との旨の愚痴を述べたが、これを鈴木が田中に伝えてしまったところ、田中は涙を流して恐懼し、7月2日に内閣総辞職した。

    張作霖爆殺事件(チョウサクリンバクサツジケン)とは - コトバンク
    *多くの「ネトウヨ陰謀論」の出発点でもある?

    狭心症の既往があった田中に、天皇の不興を買ったことはやはり堪えた。退任後の田中は、あまり人前に出ることもなく塞ぎがちだったという。内閣総辞職から3ヵ月もたたない1929年(昭和4年)9月28日、田中は貴族院議員当選祝賀会に主賓として出席するが、見るからに元気がなかった。そして翌29日午前6時、田中は急性の狭心症で帰らぬ人となった。 田中の死により、幕末期より勢力を保ち続けた長州閥の流れは完全に途絶えることになったのである。

    昭和天皇は、田中を叱責したことが内閣総辞職につながったばかりか、死に追いやる結果にもなったかも知れないということに責任を痛感し、以後は政府の方針に不満があっても一切口を挟まないことを決意したという。

    大日本帝国軍国主義化②】そして日本の軍国主義化は(事実上の二大政党制を担ってきた民政党と政友会に対する、いわゆる日本憲政史上初の“第3極”として順調に得票率を伸ばしてきた無産政党たる社会大衆党大政翼賛会合流によって完成する展開を迎えたのだった。カール・シュミッツの政治哲学がいうところの「例外状態」の日本式顕現…
    社会大衆党(1932年〜1940年) - Wikipedia

    大日本帝国軍国主義化③】大日本帝国はこうして軍国主義化しつつもスターリニズムファシズムやナチズムの様な(ヘレニズム文化的人間中心主義に基づく)個人崇拝体質へな染まらずに済んだが、逆をいえばそれゆえにスターリニズムファシズムやナチズムがその状態だけは回避し様と試み続けた以下の様な「旧悪」と決別する事が出来なかったと考えざるを得ないのである。

    陸軍悪玉論 - Wikipedia

    大日本帝国陸軍第二次世界大戦にかけての日本の軍国主義化、日中戦争支那事変)の拡大、国際政治における孤立、および太平洋戦争(大東亜戦争)の開戦と敗戦の全責任があるという主張。これに関連して大日本帝国海軍が歯止めとなり、太平洋戦争開戦についても消極的であったとする見方の「海軍善玉論」も主張される。

    しかしながら歴史研究や理解の進んだ現在においては、陸軍の再評価ならびに海軍善玉論の見直しがされていることもあり、陸軍悪玉論・海軍善玉論は一方的に偏った不正確な主張として傍流となっている。

    海軍が、3年の月日を掛けて名機「零戦」を開発できたなら、陸海共同で使えばいいじゃありませんか? ところが、陸軍は「海軍に負けるな!」と独自に「隼」を開発し、隼は模擬戦闘で零戦に破れ、陸軍は地団太をふみます。工業力の弱い日本が陸海共同で開発していたら、部品も相当無駄がなくなったはずです。

    ひどいのは、日本の陸軍は世界でも例のない、珍兵器を持っていたんです。なんと、陸軍の「空母」。兵を輸送し、その護衛に艦載機を積むと言う船……そういうことをするのが海軍の仕事でしょうが。

    Youtubeで、いただく、英語 :「きさま、陸軍に来い!」「私は船乗りになりたいのであります」「大丈夫だ。帝国陸軍は空母も潜水艦も持っとる!」「え?」

    昭和天皇も「昭和天皇独白録」で、真っ先に「戦争で負けたのは、陸海の仲が悪すぎたからだ」といっています。この本のページを開くと、すぐのところですよ。

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    イングランド大貴族連合の自滅…ランカスター家とヨーク家が王位継承権を争った内戦たる薔薇戦争Wars of the Roses、1455年〜1485年/1487年)の最終局面においては、テュークスベリーの戦い(Battle of Tewkesbury、1471年)においてヨーク側がランカスター側勢力をほぼ殲滅する事に成功。しかし(ウェールズ君主末裔でもあった為ウェールズ人とのブルターニュ公国の熱狂的支持を受け(ヨーク朝を支援するブルゴーニュ公国と対立していた)フランス国王ルイ11世の後押しを受けてフランス人とスコットランド人の傭兵隊を率いた「ランカスター家の血を引く最後の男子」ヘンリー7世が「ヨーク家最後の国王」リチャード3世をボズワースの戦い(Battle of Bosworth、1485年)で討ち取ってヨーク家の王女と結婚してテューダー朝を開闢した。それまでイングランド諸侯は「手の平は何度返しても減らない」とばかりランカスター家支持とヨーク家支持を節操なく引っ繰り返し続け、戦闘状態を不毛に長引かせる事で勝手に消耗して最終的に「外国人勢力」にイニチアシブを握られる結果を生んだという訳である。そして大英帝国ウェールズスコットランドの諸侯をも取り込んでいく形で成立する展開を迎えるのである。

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    ブーディカ(BoudicaまたはBoudicca、過去にはBoadiceaなどとの表記も。日本語でもボウディッカ、ボアディケア、ボーディカ、ブーディッカ、ボアディシア、ヴーディカなどと訳される。生年不詳〜60年/61年?) - Wikipedia

    現在のイギリス、東ブリタンニアノーフォーク地域を治めていたケルト言語圏域のケルト人イケニ族の女王。夫プラスタグス王の死に乗じて王国を奪った(少なくとも彼女はそう判断したローマ帝国に対し、数多くの部族を纏め上げ大規模な反乱を起こした。

    60年から61年頃、ガイウス・スエトニウス・パウリヌス総督率いる軍がウェールズ北部のモナ島(現在のアングルシー島)で戦闘に当たっていた機に乗じ、ブーディカはイケニ族やトリノヴァンテス族らを率いて反乱を起こし、トリノヴァンテスの故地カムロドゥヌム(現在のコルチェスター)奪回や各地のローマ帝国植民地を次々に攻略し、クィントゥス・ペティリウス・ケリアリスが率いたローマ軍第9軍団ヒスパナを打ち負かした。さらにブーディカ軍は市制が敷かれてわずか20年のロンディニウム現在のロンドン)を破壊し尽くし、さらにはウェルラミウム(現在のセント・オールバンズ)にも攻め入り数万人もの人々を殺戮した。当時のローマ皇帝ネロは軍の撤退を決断したが、最終的にブーディカはワトリング街道の戦いでスエトニウスの戦略の前に敗れた。

    これらの出来事は歴史学者タキトゥスとカッシウス・ディオによって纏められていた。一時は忘れられていたこの歴史書はルネッサンス時代に再発見され、ビクトリア朝の時代には当時の女王ヴィクトリアと同じ意味を有する名を持つ伝説の女王としてブーディカの伝記は広く知れ渡った。それ以降、ブーディカはイギリスの重要な文化的象徴として認知されている。

    ◎フランス大貴族連合の自滅…公益同盟戦争(1465年〜1477年)が反体制側が盟主として戴くブルゴーニュ公シャルル猪突公の自滅に終わり、一時期は法服貴族と帯剣貴族の紐帯が「太陽王ルイ14世を戴く「スペイン人大后」アンヌ・ドートリッシュや「イタリア人宰相マザラン枢機卿をパリから追い落とす事に成功したフロンドの乱Fronde, 1648年〜1653年)も、遂に最後まで自力では自らの利害調停を遂行する新秩序を創造し得ず自壊してしまうと、フランスでは(相応の火力を有する常備軍を中央集権的官僚制による徴税が支える主権国家への反対運動そのものは途絶え「かかる体制の運用に不可欠な知識体系の統合」を目指す啓蒙主義が花開く展開を経てフランス革命の時代へと突き進んでいくのだった。

    *ちなみに日本だけでなく国際的にグラタン(gratin)といえばフランス料理であり、その起源たるドーフィネ地方の文字を冠されたドーフィネ風(Dauphinois)といえば特に牛乳と馬鈴薯(そしてしばしばベーコン)を使った田舎料理を指す。ニンニクの香りを移したオリーブ油とトマトのソースを特徴とするナポリ風(Napoletana)同様、フランス王国時代の領土意識に由来しているのである。そのドーフィネ地方は(内紛で現地を抑えきれなくなった領主が寄進した)フランス王室とイタリアの教皇庁を結ぶ山中の狭路を押さえる形で存在し、伝統的にフランス皇太子の所領として継承されてきた王党派本拠地で、フランスがナチスの影響下にあった時期を通じてレジスタンス組織マキ(maquis)が抵抗運動を続けた事で知られている。

    ドーフィネ風グラタン(仏Gratin Dauphinois): フレンチとイタリアン

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    レジスタンス組織マキ(maquis) - Wikipedia

    第二次世界大戦時のドイツ占領下フランスで活動したレジスタンス組織のひとつで、森や山など人里離れた場所に潜伏して活動した。この語には、地中海沿岸(特にコルシカ島)の灌木が密生した植生の意味があり、ここから転じて、コルシカ島では「マキをやるprendre le maquis)」という表現が、警察の追及や他の一族からの復讐を逃れるため森に逃げ込むことを意味するようになった。マキをやった人のことをマキザール(maquisard)と言うが、この語はその後レジスタンス運動員の意味で使われるようになった。

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    その大部分は活動地域の名前で呼ばれており、たとえばヴェルコール山で活動しているマキは単に「ヴェルコール」と呼ばれていた。規模は10人程度から数千人におよぶものまで様々だった。

    マキザールの大半は、ブルターニュ地方や南フランスの山岳地帯に本拠を置き、ドイツ軍(武装親衛隊および国防軍)に対してゲリラ戦を展開したほか、撃墜されたアメリカ軍やイギリス軍の航空機から脱出したパイロットやユダヤ人の逃走の手助けもしていた。マキが村落からの略奪や虐殺に関与することもあったが、多くの場合マキに対して民衆は好意的で協力を期待できた。

    広く信じられているところによればヴィシー政府が行った徴用を拒否して野に潜伏した若者たちによって造られたと言われている。この種の地下活動は、フランス南部や東部などそれに適した地形をもった地域でしか可能ではなかった。また、その土地の人々の協力が得られる場合には、人里離れた農家や小さな村落などでも組織されることがあった。当然ながらレジスタンス活動をおこなっており、次第に全国的に組織されるようになった。ただし、アルジェ臨時政府に近いFFIForces françaises de l'intérieur)系列や、共産主義を奉じるFTPF(Francs-Tireurs et Partisans Français)系列など、いくつかの系列があった。

    1940年にウィンストン・チャーチルが作った特殊作戦執行部(SOE)の仲介で1943年にイギリス軍から大量の人員が派遣された結果、急激な変化をこうむった。アメリカ軍もSOEと協力して、戦略諜報局(OSS)を介して大量の人員をフランスに派遣した。

    1944年6月6日のノルマンディ上陸作戦決行が近づくとドイツ軍の進軍を遅滞させるためゲリラ攻撃を開始した。この間も参加者は大幅に増え続けた。特に8月15日のプロヴァンス上陸以降はゲリラ戦が盛んになった。ドイツ軍は1944年3月にはこの現象に気づき、ゲリラ掃討を開始、オラドゥール=シュル=グラヌやヴェルコールなどレジスタンス活動が特に活発だった地域では過激な報復をおこなった。(オラドゥール=シュル=グラヌの報復はマキの本部があると密告があったものの、実際はレジスタンスの武器庫や本部等は無かった)。

    ノルマンディ上陸作戦の期間にはマキその他のレジスタンス・グループは、ドイツ軍増援部隊の到着を遅らせる上で無視できない役割を果たした。連合軍の進撃するにつれ、マキザール・グループとドイツ軍の戦闘も激化した。例として、ナンシー・ウェイクが率いる七千人のマキザールは1944年6月20日に約22,000人からなるドイツ軍を相手にした。マキザール・グループの中には捕虜をとらない(特に親衛隊員や降下猟兵を選別して処刑した)ものもあったため、多くの場合、ドイツ軍兵士はマキの捕虜になるより連合軍の捕虜になることを望んだ。一方、正規軍兵士でないマキのメンバーが捕虜になると、拷問を受けたり強制収容所送りとなり、再び戻ってくる者は少なかった。

    マキザールの政治的傾向は様々であり、右派的なナショナリストから左派的な共産主義者までを含んでいた。フランス南西のマキの中には、スペイン内戦を経験したスペイン人共和主義者たちだけから構成されたものもあった。マキザールの標章はバスク風ベレー帽の着用である。バスク風ベレー帽は十分普及していたので疑惑を招くこともなく、標章として十分明瞭だったからである。

    ドゴール将軍のパリ解放によって解散。マキザールの多くは故郷に帰ったが、そのままフランス軍に参加して闘いを続ける者もいた。

    *ちなみに王政復古時代の七月革命1830年)でフランス王統をブルボン家からオルレアン家に交代するのに貢献した炭焼党(伊カルボナリ(Carbonari)、仏シャルボンヌリー (Charbonnerie))は「炭焼(木を燃して炭を製造する職人)」を意味し、1806年頃にナポリ王国において結成されたイタリア独立運動を目する秘密結社だったが、しばしばチーズ、黒コショウ、塩漬けの豚肉(グアンチャーレ若しくはパンチェッタ)、鶏卵(卵黄又は全卵)を用いるカルボナーラ (Carbonara)と結びつけて語られるが、概ね第二次世界大戦時、1944年のローマ解放より、アメリカ軍が持ち込んだベーコンや卵が流通するようになった後に現れたと考えられている。同じ(冷蔵技術が発達する前には広域流通が難しかった卵や牛乳を多用した)田舎料理でも、逆に連合軍が占領時に持ち込んだ冷蔵技術によって盛んになった珍しいケースとも。

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    ◎7年戦争英Seven Years' War、独Siebenjähriger Krieg、1754年〜1763年(主な戦闘は1756年〜1763年)においてイングランドからの資金援助が主な頼りのフリードリヒ2世が率いるプロイセン王国人口400万を包囲しながらその殲滅に失敗した欧米列強墺仏露の3国に加えスウェーデンザクセンなどドイツの諸侯も加えると人口8,000万以上)… ウィルヘルム2世は間違いなく当時の奇跡の再来を願っていたが、残念ながらそういう展開は起こらなかったのである。

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    イングランドからの資金援助が主な頼り…実際には英国王統でもあったハノーファー選帝侯プロイセン側として巻き込まれ、その所領全てをフランスに占領されたり撃退したりしている。
    ミンデンの戦い(英Battle of Minden、独Schlacht bei Minden、1759年)- Wikipedia

    七年戦争(英Seven Years' War、独Siebenjähriger Krieg、1754年〜1763年) - Wikipedia

    参戦諸国の史観でそれぞれの戦場に応じて名付けられた。アメリカではフレンチ・インディアン戦争、フランス系カナダ人は征服戦争仏Guerre de la Conquête)、ほかにはポンメルン戦争(スウェーデン語: Pommerska kriget、スウェーデンプロイセン間、1757年〜1762年)、第三次カーナティック戦争インド亜大陸、1757年〜1763年)、第三次シュレージエン戦争(プロイセンオーストリア間、1756年〜1763年)などの呼称もある。

     

    イギリス・フランス間の紛争は1754年から1756年にイギリスがフランスの北アメリカにおける植民地を攻撃して、フランス商船を数百隻拿捕したことではじまった。一方、勢力が増大しているプロイセンオーストリアとドイツ内外における主導権をめぐって争っていた。そして1756年、外交革命が行われた。
    戦争が差し迫ったことでプロイセンは予防戦争としてザクセンに侵攻、蹂躙した。この行動に全ヨーロッパが騒然とした。オーストリアがフランスと同盟してオーストリア継承戦争で失ったシュレージエンを奪回しようとしたため、プロイセンはイギリスと英普同盟を締結した。帝国諸侯の多くは嫌々ながらも帝国議会の議決に従ってオーストリア側で参戦。ただし、英普同盟側にもいくつかの帝国諸侯が参加している。スウェーデンは以前プロイセンに奪われたポンメルンの奪回を狙って、反プロイセン側で参戦した。スペインは第三次家族協約に従いフランス側で参戦したが、両国が1762年におこしたポルトガル侵攻は大敗に終わった。ロシア帝国ははじめプロイセンポーランドへの野心を恐れてオーストリア側で参戦したが、1762年にピョートル3世がツァーリに即位するとプロイセンに味方した。

    以前の戦争と違い、ヨーロッパの中小国の多くは一方の参戦国との紛争を抱えていたが、七年戦争に巻き込まれることは避けようとした。フレデリク5世治下のデンマークノルウェーがその一例で、ピョートル3世が即位したときは危うくフランス側で参戦しかけたが、両国間の戦争が勃発する前にピョートル3世が廃位された。長らくイギリスの同盟国であったオランダはイギリスとプロイセンとヨーロッパ列強の間の戦いに巻き込まれることを恐れて中立を堅持し、一時はイギリスがインドを支配下に置くことを防ごうとした(チンスラーの戦い)。ナポリ王国シチリア王国サルデーニャ王国は心情的にはブルボン家を支持したが、イギリスを恐れて同盟加入を拒否した。ロシアでは戦争による増税があった上、1759年にエリザヴェータ女帝が冬宮殿増築のために塩税とアルコール税を徴収したことは民を苦しめた。スウェーデンと同じく、ロシアはプロイセンと単独講和した。

    墺仏露の3国に加えてスウェーデンザクセンなどドイツの諸侯も加えると、敵国の人口は8,000万にもなり、人口400万のプロイセンにとって絶望的かと思われる戦いだった。フリードリヒ2世は、序盤のロスバッハやロイテンにおいて、巧みな戦術で自軍より倍以上の敵軍を破ったものの、孤立同然のプロイセンの兵力は消耗し続けた。1757年6月18日にコリンの戦いで大敗した後は守勢に転じ、1759年8月12日のクーネルスドルフの戦いではフリードリヒ2世自ら敵弾にさらされて上着を打ち抜かれ、乗馬は2頭まで撃ち倒されて敗走している。この時の大臣宛の手紙には「これを書いている間にも味方はどんどん逃げている。私はもうプロイセン軍の主人ではない。全ては失われた。祖国の没落を見ずに私は死んでいくだろう。永久に。アデュー」と書かれている。フリードリヒ2世はその後、残存兵力をまとめてどうにか態勢を立て直すが、苦しい戦いは続き、1760年10月にはとうとうオーストリア軽騎兵がベルリンに迫っている。

    イギリスの軍資金援助も打ち切られ、フリードリヒ2世は自殺を覚悟したが、1762年1月5日、ロシアのエリザヴェータ女帝が急死すると、甥で後継者のピョートル3世はフリードリヒ2世の崇拝者であったため、奇跡的にロシアとの講和が成立した(ただ、ピョートル3世はこの半年後、ピョートルの行いに激怒した妻・エカチェリーナ(後のロシア大帝エカチェリーナ2世)と彼女を支持する近衛部隊にクーデターを起こされて失脚し、その近衛部隊兵に暗殺された)。さらに西ポンメルンで苦戦を強いられていたスウェーデンも、フリードリヒ2世の妹であるスウェーデン王妃ロヴィーサ・ウルリカの仲裁により、同年5月に講和。疲れ果てていた列強はこれを機に兵を収め、孤立したオーストリアに勝利を収めたフリードリヒ2世は1763年2月10日、フベルトゥスブルクで和議を結び、プロイセンのシュレージエン領有は確定する。

    そして戦争は1763年、フランス・スペイン・イギリス間のパリ条約とザクセンオーストリアプロイセン間のフベルトゥスブルク条約で終結した。プロイセンはこれで欧州列強の一角を占めるようになる。オーストリアは本来の目的であったシュレージエンの回復を達成できなかったが、その軍事力を各国に示すことができた。ポルトガル、スペイン、スウェーデンは参戦したものの得るものは無く、大国の地位を取り戻すことはできなかった。フランスは多くの植民地を失った上、巨額の債務を抱え込む結果となり、元々脆弱だった財政をさらに悪化させた。スペインはフロリダを失ったがフランス領ルイジアナを獲得、それ以外の植民地であるキューバやフィリピンは一時イギリスに占領されたものの和約により返還された。フランスとスペインは1778年にアメリカ独立戦争に参戦することでイギリスに報復し、その覇権を一挙に潰そうとした。そしてイギリスは北アメリカのヌーベルフランスの大半、スペイン領フロリダ西インド諸島のいくつかの島、西アフリカ海岸のセネガル植民地、インドにおけるフランス交易地に対する優越を獲得した。アメリカ先住民は条約に参加できず、それを不満としてポンティアック戦争をおこしたが、七年戦争前の状態に戻すことには失敗した。

    七年戦争はおそらく真の意味ではじめての世界大戦であり、第一次世界大戦から160年前におきたこの戦争は世界中に影響を及ぼした。戦争はヨーロッパにおける政治再編を引き起こしただけでなく、19世紀のパクス・ブリタニカプロイセンのドイツにおける地位の上昇、アメリカ合衆国の独立とフランス革命の遠因となったのである。

    ポーランド=リトワニア連合王国がヤギェウォ朝1386年〜1572年断絶後に採用した選挙王自由国王選挙制に立脚する黄金の自由=貴族共和制」…ベトナム王朝や朝鮮王朝の様に国内勢力間の党争に誰もが争う様に外国勢力を引き入れる様になって国家自体が消滅。しかも当時の選民意識への執着心から、再独立運動を続ける一方で汎スラブ主義運動の展開を妨害し続ける。
    黄金の自由(羅Aurea Libertas(アウレア・リベルタス)、ポーランド語Złota Wolność(ズウォタ・ヴォルノシチ)、1569年〜1918年) - Wikipedia
    シュラフタ(ポーランド語Szlachta、ルーシ語Шляхта) - Wikipedia
    ポーランド分割(1772年、1793年、1795年) - Wikipedia

    「黄金の自由」は極めて特異でその評価には論争の多い政治システムである。それはヨーロッパの主要国において絶対主義が支配的だった時代において、例外的に権力の強い貴族の支配と、弱体な王権とで構成される点で特徴ある性格を有していたし、ある種の近代的価値と似通った要素を備えていた。ヨーロッパが中央集権化、絶対主義、宗教戦争や王朝による争いに直面している時期、共和国は地方分権、国家連合と連邦制、民主政治、宗教的寛容さらには平和主義までも経験していた。シュラフタがしばしば国王による戦争計画を廃案にしたことは、民主的平和論に関する論議に相当するものとさえ見なされる。「黄金の自由」システムは民主制、立憲君主制、連邦制の先駆的存在とさえ評価されることがある。共和国の「市民」たるシュラフタは、抵抗権、社会契約、個人の自由、合意に基づく政治運営、独立心の尊重といった価値を称賛したが、それらは世界的に見れば、近代になって広く普及したリベラルな民主政治の概念である。19・20世紀のリベラルな民主主義者のように、シュラフタは国家権力に対して強い不安を抱いていた。ポーランド貴族は国家の権威主義については強い反感を持っていた。

    おそらくポーランドの「貴族民主主義者」に最も似た人々はヨーロッパではなく、アメリカ合衆国(とくに南部)の奴隷を所有する「貴族」たちの中にいた。奴隷を所有する民主主義者たち、そしてジョージ・ワシントン、トマス・ジェファソンといったアメリカ「建国の父」たちは、貴族共和国の改革派シュラフタ達と多くの価値観を共有していた。近代史において、ポーランド・リトアニア共和国が1791年に世界で2番目の成文憲法である5月3日憲法を制定したことは、偶然の符合では決してないのである。起草者の一人であるポーランド王スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキも、「アメリカ合衆国やイギリスを参考にしてさらにポーランドの事情に合うものにした」と述べている。

    一方で、黄金の自由の受益者は貴族に限られていて、小作農や都市民はそこから排除されていたという批判的な指摘も存在する。これもアメリカ合衆国の初期の歴史において大土地所有者や大商人たちが権力を独占したことと似通っている。人口の大多数を占める庶民は法的自由が保障されず、貴族の横暴から身を守ることも出来ず(平民が幸福な生活が送れるかどうかはまったく各領主の人徳と能力次第であった)、都市の発展は停滞し、地方では農奴制が一般的になってしまったというのである。後の時代の人々は当時のポーランドを振り返って、共和国が「貴族の天国、ユダヤ人の楽園、農民の地獄」だったのだと批判的に主張するようになったが、この見方を裏付ける実証的研究は充分に行われているとは言い難い状況である。そして貴族階級であるシュラフタ自身も、彼らのうちでより強大な権力を持つ大貴族(マグナート)に従属して自由を奪われていった。

    一方で庶民でもクラクフ大学などの大学を出て学位を取ったエリートは貴族同様の政治的権利を持ち、国政に参加することができた。彼らは実家が裕福な商人であったり、自分の後見人に貴族や裕福な商人がいたりして、その才能を認められて大学進学や外国留学の援助を受けた。1791年にポーランド共和国憲法を作成したグループの中心人物の一人でポーランド科学アカデミーの前身となるポーランド科学友の会を創設したスタニスワフ・スタシツなどはそういった場合に当たる。

    ポーランド・リトアニア共和国は国家としての生き残りに失敗したため、極端な場合、共和国の徹底した自由主義は却って「内戦と侵略、国家の弱体と優柔不断や愛国心の欠乏」を招いたという一面的な非難を受ける。絶対主義と国民国家同化政策の制度化)という、民主主義に対抗する「(当時の感覚で近代的」な政治システムの建設が求められた際に有力者たちの何人かが常に自由至上主義リバタリアニズム)に拘ったため、共和国は改革反対派の「自由」の発露である「リベルム・ヴェト」の行使を繰り返しながら国家機能を麻痺させて徐々に衰退を続け、自由が行き過ぎた無政府状態の瀬戸際まで追いやられた。イギリスの歴史学者ノーマン・ディヴィスが指摘するように、ポーランド社会が何世紀ものあいだ性善説とそれにもとづいたリベルム・ヴェト制度のもとで民主主義と多文化主義の追求をしていたことは、巨大化する領域国家同士が戦う弱肉強食の時代になると、リバタリアニズムを追求する一部有力者たちに悪用されるようになり、国家の改革に対する圧倒的に不利な要素となった。シュラフタの多くは自分達が完璧な体制の国家に住んでいると信じていた。一部の人々が黄金の自由とサルマティズムという根拠希薄な美学に疑いをもち個人の自由は国家の近代的な発展のために一部制限すべきだという考え(カント哲学的な保守主義=穏健主義)を持つようになったが、それに気付いた時期は遅すぎた。「大洪水」で外国軍の撃退に成功した体験が、余計に改革のコンセンサス形成を遅らせた。シュラフタの多くは保守主義でなくリバタリアニズム自由至上主義)の影響を受けて近代的な常備軍とその強化のための税負担を拒み、シュラフタのうち特にマグナートたちは自らの個人的利益を追求するために諸外国の勢力と結びついて共和国の政治システムを麻痺させた。改革勢力は徐々にその力をつけていき、最終的にはポーランド社会の圧倒的多数派となったが、そのときすでにロシア軍は共和国の首都ワルシャワに迫ってきていたのである。

    こういう既得権益を持つ有力者たちによるジェレミ・ベンサム的な偏狭な功利主義にもとづいたリバタリアニズム自由至上主義)の横行により、共和国は着々と軍事力および能率性(つまり官僚制)を構築していく近隣諸国に対抗することが出来なくなっていったあげく、ポーランドを狙う諸外国の野心の標的になったのである。そして18世紀後半、共和国のリバタリアンたちはタルゴヴィツァという都市に集結して彼らの政治連盟である「タルゴヴィツァ連盟」をつくり、共和国の大改革の流れに頑強に抵抗し、こともあろうにロシアと結託しワルシャワ中央政府に対して武力反乱を起こした。彼らはロシアから彼ら個人個人の「自由」と「財産権」、すなわち租税の免除と私有地の保全を保障されたのである。「タルゴヴィツァの売国奴」と呼ばれたリバタリアン自由至上主義)・ユーティリタリアン(功利主義)たちは祖国ポーランドよりも自らの個人的な経済的利害を優先した。このためポーランド社会は完全に疲弊してしまい、民間財政はまだ比較的裕福だったものの国家の財政は破産に近い状態となり、近隣の絶対主義諸国による領土分割によって民主主義と多民族主義の国家「ポーランド」そのものが失われてしまったのである。

    リバタリアン勢力である「タルゴヴィツァの売国奴」たちは、ロシアから提供されたはずの政治的自由や個人財産保全の保障はロシアによる政治的方便に過ぎなかったことを、祖国の共和国が分割消滅され、ロシア兵がやってきて自分たちの領地を好き勝手に略奪するようになってから初めて気づいたのである。彼らの自由も財産保全も保障されることがなく、すべてツァーリの一存の下に入ることになってしまった。現代のポーランドで「タルゴヴィツァの連中タルゴヴィチャニンtargowiczanin)」といえば愚か者・売国奴・無責任・自分勝手の代名詞となっている。

    一方、当時の改革勢力やその穏健主義思想を受け継いだ人々はポーランド分割時代を通じて国民活動を続け、後のポーランドの発展の思想的原動力のひとつとなっていった。
    ポーランド人は既に18世紀のうちに リバタリアニズム自由至上主義者)やユーティリティズム(功利至上主義)の限界を学び、社会自由主義への移行を始めていたとする論調だが、もちろん現実はそれほど甘いものではなかった。ちなみに同様の傾向は(ポーランド独立運動同様「上からの王国再建運動」に分類される)朝鮮独立運動琉球独立運動にも見て取れる。

    ミハイル・バクーニン(露Михаи́л Алекса́ндрович Баку́нин、英Mikhail Alexandrovich Bakunin、1814年〜1876年)の前半生 - Wikipedia

    1814年春、モスクワの北西に位置するトヴェリ県プリャムヒノ(トルジョークとクフシーノヴォ間の地名)で貴族の家に生まれる。14歳の時にサンクトペテルブルクに出て砲兵学校で教育を受ける。1832年に卒業し、1834年にはロシア皇帝親衛部隊に准尉として入隊、当時ロシアに併合されていたリトアニアミンスクとフロドナ(現在はベラルーシに属する)に赴いた。同年夏、家族の間で悶着があり、意に沿わない結婚をめぐって姉を庇った。父は息子に軍職と市民への奉仕を続けるよう望んだがそのどちらも放棄しモスクワへ向かい、哲学を学ぶ。
    バクーニンを理解する最初の鍵、それはドイツ系移民と地主の私生児として誕生したゲルツェン(露Александр Иванович Герцен、羅Aleksandr Ivanovich Herzen, 1812年〜1870年)や、アジア系ながら著名な物理学者で教育者で貴族の父とドイツ人、スウェーデン人、ユダヤ人の血を引く母の間に生まれたレーニン(露Влади́мир Ильи́ч Ле́нин、1870年〜1924年)と異なり「ただのロシア貴族」出身だった点にあるのかもしれない。自らの凡庸性の自覚とそれに対する憎悪に正面から向かい合った上での破壊衝動…

    モスクワでは元学生のグループと親しくなり、観念論哲学を体系的に学び、E.H.カーが後年「ロシアの思想に広大で肥沃なドイツ形而上学の地平を開いてみせた勇敢な先駆者」と評した詩人、ニコライ・スタンケーヴィチを中心とした人々とも交わった。彼らは当初カントの哲学をおもに追究したが、やがてシェリングフィヒテヘーゲルとその対象を移していった。
    *ドイツ古典主義やフランス浪漫主義との邂逅…

    1835年秋頃には故郷のプリャムヒノで自身の哲学サークルを作っており、それは若者たちの恋の舞台ともなった。例えばベリンスキーはバクーニンの姉妹の一人と恋に落ちている。1836年初頭、バクーニンは再びモスクワへ戻り、フィヒテの「学者の使命についての数講」と「浄福なる生への指教」の翻訳を出版した。これはバクーニン自身がもっとも好んだ著作だった。また、スタンケーヴィチと共にゲーテやシラー、E.T.A.ホフマンの著作にも親しんだ。

    当時は宗教的でありつつ脱教会的色彩の強い内在論を展開した。 さらにヘーゲルの影響を受け、その著作のロシア語訳を初めて刊行。スラヴ主義者のコンスタンチン・アクサーコフ、ピョートル・チャーダーエフ、社会主義者のアレクサンドル・ゲルツェン、ニコライ・オガリョフに出会い、この時期からバクーニンの思想は汎スラヴ主義的色彩を濃くしてゆく。やがて父親を説得して1840年にベルリンへ赴く。当初、大学教授になることを目的としていた(本人や友人らが「真実の教導者」であると考えていた)のだが、ほどなくいわゆるヘーゲル左派の急進的な学生と接触し、ベルリンの社会主義運動に加わることになる。1842年の小論文『ドイツにおける反動』では否定というものが果たす革命的役割を支持しており「破壊への情熱は、創造の情熱である」という一節を記している。

    ベルリンで三学期を過ごしたのちドレスデンへ向かい、そこでアーノルド・ルーゲと親しくなった。この頃シュタインの著作『今日のフランスにおける社会主義共産主義』に触れ、社会主義への感化を深める。バクーニンは学究的生活に興味を失って革命運動に没頭するようになり、ロシア政府がその急進的思想を警戒して帰国を命じるも、これを拒否したため財産を没収された。こののちゲオルク・ヘルヴェークとともにスイスのチューリヒへ向かった。
    マルクス社会主義への傾倒も「今日のフランスにおける社会主義共産主義」に触れてから。当時「国王や教会の権威に対する反感」だけに支えられてきた政治的浪漫主義者達の情熱は、2月/3月革命(1948年)を契機にウィーン体制が崩壊し王党派の権威がその絶対性を失うと対消滅を起こした。だが彼らのルサンチマンはその程度の事で蕩尽はされなかったのである。

    チューリヒには半年間滞在し、ドイツの共産主義者ヴィルヘルム・ヴァイトリングと親しく交流した。ドイツ共産主義者らとの親交は1848年まで続き、バクーニン自身も時折共産主義者を自称し『スイスの共和主義者Schweitzerische Republikaner)』紙に記事を書いた。バクーニンがスイス西部のジュネーヴに移った直後、ヴァイトリングが逮捕された。警察に押収されたヴァイトリングの書簡にはバクーニンの名がしばしば登場しており、これがロシア帝国警察の知るところとなる。ベルンのロシア大使から帰国を命じられたバクーニンはこれに応じずブリュッセルへと移動し、ヨアヒム・レレヴェルをはじめ、マルクスエンゲルスの活動に同地で参加していた主要なポーランド国家主義者との邂逅を果たしている。レレヴェルがバクーニンに及ぼした影響は多大であるが、彼らポーランド国家主義者は1776年当時(ポーランド分割以前)の国境線に基づく同国の復活を主張しており、意見が衝突した。バクーニンポーランド人以外の自治権も守るよう主張したのである。バクーニンはこれらポーランド国家主義者たちの聖職権主義にも賛同を示さなかった。一方でバクーニンは農民層の解放を彼らに呼びかけたが、支持は得られなかった。

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    1844年、バクーニンは当時ヨーロッパ急進派の中心地となっていたパリへ向かった。マルクスアナキストのピエール・ジョセフ・プルードン接触したが、特にプルードンからは大きな感銘を受け、二人の間には友情が築かれた。1844年12月、皇帝ニコライ1世により貴族的特権および市民権の剥奪、所領の没収、終身のシベリア流刑が宣告され、バクーニンロシア帝国当局から追われる身となった。これに対しバクーニンは新聞『改革(La Réforme)』に長い手紙を送り、ロシア皇帝を圧制者と非難し、ロシアとポーランドにおける民主主義の必要性を訴えた。1846年3月、『立憲(Constitutionel)』に寄せた書簡ではポーランドを擁護し、同地のカトリック教徒に対する弾圧に賛同した。1847年11月、クラクフからの避難民のうち反乱軍の勝利に賛同する者たちが、1830年ポーランド十一月蜂起を記念する集会にバクーニンを招き、講演を行った。

    この講演でバクーニンポーランドとロシアの人民が協力して皇帝に立ち向かうよう呼びかけ、ロシアにおける専制政治の終焉を待ち望んでいると表明。この結果フランスから追放され、ブリュッセルへと赴くこととなった。バクーニンはゲルツェンとベリンスキーに協力を仰ぎロシアで革命を起こそうと目論んだが、二人の助力は得られなかった。ブリュッセルでは再びポーランドの革命家やマルクスとやりとりし、1848年2月にはレレヴェルが組織した会合でスラヴ民族の未来について語り、彼らが西洋世界に活力をもたらすと述べた。この頃、バクーニンが度を越した活動に走ったロシア側の工作員であったという噂が、ロシア大使によって流された。

    1848年には各地で革命運動が起こった。ロシア国内でそうした動きが見られなかったことには失望したものの、バクーニン歓喜の念はひとしおであった。暫定政府を担う社会主義者、フェルディナンド・フロコン、ルイ・ブラン、アレクサンドル・オーギュスト・レドル・ロラン、アルベール・ロリヴィエといった面々の資金協力を得て、スラヴ連合によりプロイセンオーストリア・ハンガリー帝国、トルコの支配下におかれた人々を解放すべく活動を開始。ドイツへ向けて出発し、バーデンを通りフランクフルト、ケルンに至った。
    *結局こうした民族問題は第一次世界大戦(1914年〜1918年)を契機とする帝政ロシア・ハプスブルグ君主国・オスマン帝国の解体によって一通りの解決を見る。

    バクーニンはヘルヴェーグ率いるドイツ民主主義者義勇隊を支援し、フリードリヒ・ヘッカーによるバーデン蜂起に加わろうと企てたが失敗。この時ヘルヴェーグを批判したマルクスと対立した。バクーニンマルクスとの関係について、この頃から互いに良い感情が持てなくなったと後年になって振り返っている。

    バクーニンは続いてベルリンに移動したが、そこからポーゼン(ポズナン)へ向かおうとして警察に阻止された。ポーランド分割以来プロイセン支配下に置かれていた同地ではポーランド国家主義者による暴動が起こっていた。バクーニンは予定を変更してライプツィヒとブレスラウを訪れ、プラハでは第一回汎スラヴ会議に参加。だがこれに続いた蜂起は、バクーニンの尽力があったにもかかわらず、武力で鎮圧され失敗に終わった。ブレスラウへ戻ったバクーニンだが、彼をロシア帝国側の工作員であるとする言説をマルクスが再び広め、証拠はジョルジュ・サンドが持っている、と主張した。サンドがバクーニンの擁護に回るとマルクスはこの発言を撤回した。

    バクーニンは1848年秋、『スラヴ諸民族へのアピール』において、スラヴの革命勢力がハンガリーやイタリア、ドイツのそれと連帯することを提案している。目的は当時のヨーロッパの三大専制君主国家、ロシア帝国オーストリア・ハンガリー帝国プロイセン公国の三カ国の打倒であった。

    1849年、ドレスデン五月蜂起においてバクーニンは指導的役割を担い、リヒャルト・ワーグナーやヴィルヘルム・ハイネらと共にプロイセン軍に抵抗、バリケード戦に臨んだ。しかしケムニッツで捕らえられ、13か月に及ぶ拘置期間ののちザクセン政府により死刑を宣告された。ロシア政府とオーストリア政府が彼の身柄を欲していたため終身刑減刑されたが、1850年6月にはオーストリア当局に引き渡され、11か月の後に再び死刑判決を受ける。結局これも終身刑減刑となり、最終的には1851年5月にロシアへ身柄を送致された。

    この時期について言及したワーグナーの日記に「伸び放題の顎ひげと藪のような頭髪」をたくわえたバクーニンが登場している。

    ポーランド独立運動家に邂逅したバクーニンや(ウィルヘルム2世復位を狙う)ドイツ保守主義者に接触したマンハイムは、反体制主義者の多くが旧体制のそのままの形での復活しか願っておらず、そのままでは彼らを束ねて大きな団結を生み出す事など不可能という現実に突き当たった。要するにヴォルシェビキズムの民主集中制ファシズムやナチズムの指導者原理は、こうした絶望感から出発しているのである。

    『人民の敵』第4号〈対談〉with 千坂恭二〈抜粋〉

    千坂 結局は弾圧されて潰されるんだけど、戦前のアナキズム運動が崩壊して、戦後もしばらくはロクなアナキズム運動がなかったわけでしょ。

    外山 戦前の運動を“回顧”してただけのような印象なんですが……。

    千坂 うん。戦後のアナキズムは戦前の回想録を書いてるだけだったんだよ。戦後は最初に「日本アナキスト連盟」という組織が作られて(46年)、まあ戦前の回想ばっかりしてた。しかしやがてまたアナルコ・サンディカリズム系と純正アナキズム系に分かれる。

    外山 日本アナキスト連盟はどっち系なんですか?

    千坂 最初は両方が一緒になって組織を作ってるんだ。純正アナキスト系には岩佐作太郎というのがいて、やっぱり八太舟三の流れの人で、岩佐たちがやがてアナルコ・サンディカリズム系と分かれて「日本アナキスト・クラブ」を作る(51年)。例えば群馬の大島英三郎の黒色戦線社もその系統だね。

    とはいえ、アナルコ・サンディカリズム系だって労働運動に足場を失ってるんだし、啓蒙運動みたいなことしかできない。戦前のアナキストの生き残りが「大杉栄は偉かった」みたいな話をしてるだけだよ。で、マルクス主義者は権威主義者で反革命なんだ、とか云ってるんだけど、具体的な運動を伴わなかったら、そういうのは反共主義にも利用されてしまうでしょ。アナキスト反共主義は、共産主義者よりも左に位置してると自称してる人間が云ってる反共主義やから、それなりに説得力もあるし。

    外山 いったん左傾した人を反共の陣営に取り込むために便利なんですね。

    千坂 そういう人間には保守の反共主義より極左反共主義の方が響くからね。運動せずにただ云うてるだけやったら、保守派に利用されるんや。

    “68年”の闘争というのは、あれは無自覚なアナキズム運動だったわけでしょ。それ以前のスターリン主義的な左翼運動に反発して、哲学的にも実存主義なんだ。べつに生活に困って運動を始めたわけでもないし、“起て飢えたる者よ”的に起ち上がったわけでもないしね。要はプチブルの学生が起ち上がった。何のために起ち上がったかと云えば、やっぱり“実存的な意味”を問うたわけだよね。そういう意味で、アナキズム的な要素を秘めてたと思うんだ。

    アナキズムと組織

    千坂 アナキストはどういう組織を作ったらいいのか、イメージもないし理論もなかったわけでしょ。仕方ないからやっぱり「マルクス主義者は一体どういう組織を作ってるんだ」ということで、ブントや解放派の組織論を読んだり、あるいはレーニンの組織論とか、いろいろ読んでいく。どれがアナキストが組織を作るのに合ってて、使えるのか……。それを考えるためにも、そもそもアナキズムって何なのかを考えなきゃダメでしょ。我々はそもそも何をしようとしてるのか。なぜマルクス主義を批判してるのか。

    よく考えてみたらマルクス主義者だって最終的には“国家の死滅”を云ってる。マルクスの理論においても、共産主義が実現すればゆくゆくは国家も死滅するってことになってるんだから、“国家なき社会”というところではアナキズムと目的は一緒だよね。じゃあどこが違うかと云えば、マルクス主義者はその目的に到達するための過渡期に、目的とは正反対の、「党」が強権的に国家権力を運営する体制を考えてる。そんなことがうまく行くわけない、という証拠だってロシアをはじめたくさんあるわけだ。いったん国家権力を握ったマルクス主義者たちは、ひたすら強権的に反対者を弾圧していて、彼らが権力を手放して国家を死滅させるなんてことはいつまで待ってても起こりそうにない。

    それに対して我々アナキストは、将来の理想とする“国家なき社会”にふさわしい組織を作らなきゃいかんということで、それが例えば「自由連合」だったりするわけでしょ。理想の将来像が“絶対自由”の社会であるなら、それに見合った組織を作るべきだって話になる。たしかにそれは分かるし、一見もっともだ。しかし、どうしてそんな組織が例えば現存の国家権力と闘争できるんだろうか。

    例えば「自由連合」なら、組織への出入りは自由だよね。組織に加盟するための“資格”みたいなものは一切問われないわけだ。参加したい者が参加して、イヤになった者は自由に出ていけばいい。だけど結局それは“スパイの巣”になるんじゃないのか。そんな組織で武装蜂起なんかできるわけないよ(笑)。救世軍みたいなことをするんならいいよ。寄付でも募って貧しい人に炊き出しするような活動だったらそれでもいいかもしれん。しかしこっちは非合法闘争を考えてるわけでしょ。「自由連合」方式で非合法闘争なんかできるか、ってことになるよね。

    アナキズムの通史はデタラメ

    千坂 アナキズムを理解したいと思った時に多くの人が手にとるような本、例えばジョージ・ウドコックの『アナキズム』(62年刊・68年訳刊)なんかは今でもアマゾンとかで買えると思うし、そういうのに書いてあるようなことがアナキズムの教科書的な“通史”だと思うけど……。

    それは具体的には、まずアナキズムの“先駆者”としてウィリアム・ゴドウィンなんかがいて、その上でプルードンが史上初めて未来の理想社会について「アナーキー」という言葉を使って、「アナキズム」を自分たちの思想を指すものとして称した、というような記述になってる。だからプルードンが「アナキズム」のルーツであり、ゴドウィンは「アナキズム」とは称してなかったけれども、内容的にはプルードンと似たようなことを云ってたから、“無自覚なるアナキスト”で、“先駆者”にあたるんだ、と。まあゴドウィンは“洗礼者ヨハネ”みたいな位置づけだね。プルードンが“イエス・キリスト”みたいなものでしょう。

    それで云ったらバクーニンが“聖パウロ”みたいなもので、つまり“運動体”を作った。で、それらを継承したのがクロポトキンである、ということになってる。さらにそれらの周辺にはシュティルナーというちょっと変わった奴とか、トルストイみたいな人もいて……という形でたぶん、「アナキズム」というものが理解されてるわけだよね。

    で、じゃあ「アナキズム」とそれ以外のいろんな……例えばマルクス主義との違いは何かと云えば、さっきも云ったように、アナキズム理想社会に至る“過渡期的な権力”の存在も認めない、逆にそれを認めるような思想は「アナキズム」ではないのだ、と。マルクス主義の場合も“プロレタリア独裁”とか云って“過渡期の権力”を認めてるわけだから、「アナキズム」ではないんだ、ということになる。とにかく“プルードンバクーニンクロポトキン”という「アナキズム」の基本線があって、ブランキとかマルクスとか、そういうのはみんな排除されるという……そういうのがおよそアナキズムの“通史”に書かれている内容だよ。

    しかし本当にそうなのか、と。プルードンの時代と、バクーニンの時代と、クロポトキンの時代とでは、それぞれ「アナキズム」がどういうものであったか、実は全然違うんだよ。そのことはぼくも調べてみて、いかにそういう“通史”がデタラメというか、恣意的なものであるか分かった。それはある特定の時代状況の中で、ある特定の人物によって作られたものでしかなかったんだ。

    アナキスト」という言葉は、当時は仮に使ってたとしても、後の時代にそうイメージされるようになったような“ナントカ主義者”みたいな言葉としてではなく、もっと一般的な形容として、“こういうタイプの人間”みたいなニュアンスで使われてたんだと思うよ。当時のバクーニンたちが自分たちの立場を指す言葉としては、「革命的社会主義者」と云ってた。

    外山 今の用語法に慣れてる人は混乱するかもしれないけど、当時はまだ、“社会主義共産主義”イコール“マルクス派”ではありませんしね。

    千坂 ともかく、具体的な運動としての“アナキズム”を作ったのはバクーニンなんだよ。自分たちの組織を作り、インターナショナル(第一インター1864年設立)にも加盟し、さらにインターナショナルでの活動をとおして自分の影響力を各地に浸透させることまでした。イタリアやスペインのインターナショナルの支部は最初からバクーニン派だったし、それらが後の“アナキズム運動”のルーツにもなるわけでしょ。だから“アナキズム”の“通史”からバクーニンを落としてしまうと……。

    外山 マルクス派と張り合えるぐらいの運動実績そのものがなくなってしまうんですね(笑)。

    千坂
     そう。そういうものを最初に作ったのはバクーニンだった。さらにバクーニン第一インターの時にマルクスと論争してるでしょ。しかもそれでバクーニンの方が勝ってるんだ(笑)。マルクス派にはマルクス思想の“師範代”みたいなのがいっぱいいるよね。バクーニンはそいつらと論争して、みんな論破して潰していったんだ。バクーニンはかなり弁の立つ人間だったらしいし、しかも一応はヘーゲル哲学をきちんと勉強して、理論的基盤もしっかりしてたわけだからね。弁証法的な論理展開も操れるわけだし、その上さらにドスが利くというか、弁舌の迫力もあったらしいよ。それでマルクスの“師範代”みたいな連中をみんな論駁して、マルクス派が提出した議案を潰してる(笑)。ところがもちろん、バクーニンはべつに「アナキスト」という自己規定はしてなくて、単にせいぜいバクーニン派として行動してるだけなんだ。

    外山 マルクス派の側も当時は自らをべつに“マルクス主義者”だとは思ってませんよね。

    千坂 うん。彼らも単に“マルクス派”なんだよ。自己規定としては、どっちも「社会主義者」とかだね。

    じゃあ、第一インターにおいて、マルクス派とバクーニン派は何をめぐって揉めたのか。もちろん例の“独裁”が云々という問題はあったよ。バクーニンマルクスの“プロレタリア独裁”論を批判してたでしょ。マルクスは“国家なき社会”を目指すと云いながら、一方で過渡的に必要不可欠なものとして“プロレタリア独裁”を提起してるんだけど、それは結局“プロレタリアートによる独裁”ではなく、“プロレタリア階級の代表”と称する一部の職業革命家が“プロレタリアートに対しておこなう独裁”になってしまうことは目に見えてるんだ、と批判した。この批判はまあ、正しいわけだ。だけどじゃあバクーニンの云う、革命の“参謀”たちによる“見えない独裁”は、それと同じことにならないのか(笑)。バクーニン派は、我々は革命の“指揮官”ではなく“参謀”なんだと云ってる。しかしそれだったらマルクス主義者の“プロレタリア独裁”とは違う、もっと理想的な結果を生み出すのか、という疑問は解決されてないわけだ。

    さらには、そういう将来の“革命後”の話ではなく、革命を目指すためにすでにバクーニンが作って率いてる組織とは、どういうものだったのかという問題も重要だ。これはマルクスが自分の配下の者をバクーニン派に潜入させて、文書とか盗ませて資料を集めて、それが実は“恐るべき中央集権的な組織”であることを暴露してるんだ。
    *この辺りは炭焼党(伊カルボナリ(Carbonari)、仏シャルボンヌリー (Charbonnerie))出身で自らの革命への情熱を天体の軌道の如き宿命として受け止めていた一揆主義(putschism)のブランキや農民や職人が同時に芸術家や思索家である共同社会「財産共同体(Guetergemeinschaft)」を理想視した「正義者同盟(der Bund der Gerechten)」のヴァイトリングの神秘主義的顕密体制の構築欲と深くリンクしている様に思える。

    外山 “ウチよりヒドい”とマルクスに云われてる(笑)。

    千坂 個々の構成員の“自由”なんてないんだ(笑)。バクーニンがトップに君臨していて、中央集権的に上から命令をくだして、“下からの批判”なんか一切出ないし、認めてない(笑)。バクーニンローマ教皇みたいなもんで、“ジェスイット(イエズス会)的”な組織だとマルクスに批判されてる。「インターナショナルのいわゆる分裂」という、マルクス派が発行したバクーニン派批判の文書があって、マルクス全集にも収録されてるけど、それ読んだら面白いよ。バクーニンってこんなにエゲツないんか、と思う(笑)。そのエゲツなさは、既存の、“自由”がどうこう云うてる甘っちょろい“アナキズム”とは違って……。

    外山 その文書に書いてある内容もやっぱり、“教科書的アナキスト”たちは、マルクス派による単なる誹謗中傷にすぎないと見なしてるんですか?

    千坂 だけど読んでると、マルクスが誹謗中傷して書いたバクーニン派組織の“エゲツない実態”の方がリアリティが感じられるんだ。実際ここまでやらんと運動なんかできないだろう、と(笑)。“自由”がない、“中央集権的”である、批判を認めない……。たしかにぼくらのやってたARFもそういう運動だったな、と思うてしまうんよ(笑)。

    マルクス派とバクーニン派の論争を調べ直してて気づいたのは、両者の違いはむしろそういうところではなくて、議会に進出するかどうかってところなんだ。マルクス派は、政治組織を作って、“政党”にまで成長させて、議会に進出するんだ、と。バクーニン派は、議会進出なんてどうだっていいんだ、とにかく国家権力を粉砕することなんだ、と云ってる。マルクス派はとにかく議会に進出するための政治組織を作れという路線で、バクーニン派は武装蜂起のための組織を作れという路線。

    千坂 バクーニン派もだんだん齢をとるし、世代交代が進むでしょ。それはマルクス派も同じで、やっぱり世代交代が進むんだけど、このマルクス派の新しい世代が“第二インター”を作ろうとする。第二インターの主なメンバーとして名前が挙がるのは、カウツキーとかベーベルとか……。

    外山 第二インター創設(1889年)の時点ではまだエンゲルスも生きてますよね?

    千坂 生きてる。だからこそエンゲルスは、第一インターバクーニン派との対立で潰れた経緯をよく知ってるし、最初から武装闘争路線の排除を図るんだ。武装闘争をしようとしてるような連中は創設の段階で排除しろ、とエンゲルスが指導する。まっさきに排除されるのは、やっぱりバクーニン主義の系統だよね。もちろんバクーニン系の連中も、加入してこようとするよ。それをゲバルトで排除した。そんなわけだから、第二インターというのはアタマから“社民(社会民主主義。議会政治をとおして社会主義の実現を目指す立場)”のインターになる。

    そしたら今度は排除されたバクーニン派の方も、対抗して自分たちのインターを作るんだけど、そのあたりでアナキストの世代交代も並行して起きてたんだね。要するにクロポトキンの世代が主導権を握ってるわけよ。

    外山 マルクスも死んでるはずだけど、バクーニンももう死んでますよね?

    千坂 そうそう。死んでるわけだ。だからクロポトキンヘゲモニーをとって、アナキストは“黒色インター”を作る(すでに1881年段階で第一インターバクーニン派の残党によって結成されていた模様)。そしてこの時に初めて、“マルクス主義vsアナキズム”の対立構図が生まれたんだと思うんだ。

    つまりマルクス主義の側も、第二インターを作っていく過程で、エンゲルスの主導で“マルクス主義”というある種の枠組が作られたんじゃないかな。マルクスが生きてるうちは、本人が生きてるんだし、まだ“マルクス主義”ではないわけでしょ。アナキズムの側も、単にバクーニンが主導する組織と運動があっただけで、彼らも自分たちを“バクーニン主義者”であるとか、“アナキスト”であるとは規定してなかったはずなんだ。ところが代替わりをする時に、ルーツが“教典”化するんだと思うよ。“弟子”筋はどうしても、それまでの経緯をまとめて“教典”化していくことになるからね。

    第二インターマルクスの“次の世代”だし、黒色インターもバクーニンの“次の世代”でしょ。第二インターの創設を実際に主導したのはマルクスと同世代のエンゲルスだけど、だからそこで確立された俗に云う“マルクス主義”というものは実は“エンゲルス主義”なんだ。

    外山 じゃあ同様に“アナキズム”と一般に見なされてるものも実は……。

    千坂 “クロポトキン主義”なんだよ。つまり我々が“マルクス主義vsアナキズム”として聞かされて、そう思い込まされてきたものは、実は“エンゲルス主義vsクロポトキン主義”の対立なんだ。

     一方、バクーニンに唆される形でドレスデン蜂起(1949年)に参加してスイスへの亡命を余儀なくされたリヒャルト・ワーグナーWilhelm Richard Wagner 、1813年〜1883年)の「ニーベルングの指環"Der Ring des Nibelungen"、1848年〜1874年)」の結末についてだが、バクーニンの影響を色濃く受けた第一作「ラインの黄金Das Rheingold、1848年)」で撒かれた伏線全てを回収するには「ヴァルハラ城主ヴォータンの策略によって未亡人となった元戦乙女のブリュンヒルデ元来の支配力の根源たるラインの乙女やそれまでヴォータンの忠臣振りを貫いて復讐の機会を虎視眈眈と狙い続けてきたローゲの助太刀を得て復讐を果たしそれまで理不尽に虐げられてきた領民を代表するニーベルンゲ族を解放するヴァルハラ城そのものはその過程で焼け落ちるが、おそらくヴォータン当人はブリュンヒルデの妹であるヴァルトラウテに半死半生の状態で救出され、実際に討ち果たされるのは「全ての黒幕」たるアルベリヒとなる)」といった内容でなければならなかった。どこがどう曖昧にされたからから当時の時代的制約を逆算する事が可能であろう。

    清朝末期の1870年代における海防・塞防論争大日本帝国時代における海軍と陸軍の対立に最も近い分裂状況とも。
    海防・塞防論争 - Wikipedia

    日本による台湾出兵1874年)ののち、清朝政府では日本に海軍力の優位を許したため外交で劣勢を強いられた事を反省し、沿海部に艦隊を新設する案が提起され、これにくみする李鴻章は海軍建設の費用を捻出するためロシアとの国境地帯である新疆を放棄する大胆な提案をおこなった。

    これに対し回民蜂起やヤクブ・ベクの乱の鎮圧を担当した左宗棠は、国防の重点を内陸部におく中国の伝統的戦略に基づき、辺境防備の充実を主張して反論した。こののち政府内では国防の重点を沿海部におく(海防論)か、あるいは内陸の辺境部におく(塞防論)かをめぐって激しい論争がたたかわされた。

    論争の結果、清朝政府が海防・塞防いずれかの政策を選択することは回避され、両面の国防を充実させるという折衷案が採られた。これにより海防派の李鴻章を中心に北洋艦隊など海軍が創設される一方、塞防派の左宗棠により新疆のほぼ全域の支配が回復されることになった。
    *ただし北洋艦隊は、日本海軍との間で行われた1894年の黄海海戦と1895年の威海衛海戦の中でその戦力をほぼ消滅させる事になる。

    【ドイツのナチス化①】確かにドイツ帝国時代には(社会主義政党の政権参加という実績を求め)ヴィルヘルム2世の植民地拡大政策や第一次世界大戦遂行を支持し、その終末期にはドイツ義勇軍Freikorps=フライコール)を招聘してスパルタクス団蜂起(Spartakusaufstand、1919年)を暴力的手段によって鎮圧してワイマール共和制期におけるイニチアシブを確保し、世界恐慌1929年)後の混乱期には「(議会に立脚せずに大統領の緊急令をもって政治を行う大統領内閣」を履行したドイツ社会民主党SPD)は「史上最悪の、それゆえに手段を選ばず後先考えるまでもなく一刻も早く滅ぼし尽くすべき絶対的旧悪」としてターゲッティングするのが容易な体制側だったのかもしれない。しかし実はあえて「戦争責任」を問うなら(終戦後もヴィルヘルム2世を擁護しつつNSDAPに紛れ込んだ)ドイツ保守主義者達も、あえて「無政府主義者鎮圧の責任」を問うならドイツ突撃隊がそれを刈り尽くすのを傍観したドイツ共産党も、あえてその独裁制を問うなら(ソ連コミンテルンの支持に盲従してSPDに「社会ファシズム」のレッテルを貼って全面弾劾を続けた)KPD(Kommunistische Partei Deutschlands=ドイツ共産党)のヴォルシェビキズム(民主集中制)や、NSDAPNationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei=国家社会主義ドイツ労働者党)の指導者原理(Führerprinzip)統一者原理もまた同時に問題視されるべきだったのではなかろうか。実際、当時の空気をリアルタイムで知る「正義の絶対的批判者の仮面を被る一方、自らへの言及は決っして許さない」当時のKPDやNSDAPのやり口そのものに問題があったと指摘していたりする。

    清廉潔白な国防軍(Saubere Wehrmacht) - Wikipedia

    ナチス・ドイツ時代のドイツ国防軍が、第二次世界大戦における戦争犯罪や戦争責任、さらにはホロコースト等の迫害と無関係であったとする言説。否定的な立場からは国防軍無罪論、国防軍潔白神話などとも訳される。
    *イメージ的には日本史上における「(大日本帝国時代の)海軍無罪論」に近いが、長らくそれが(ヒトラー総統および武装親衛隊のみを悪役とする)ドイツ政府の公式見解だったという点でより根深い。そもそも(最終的に第二次世界大戦開始に結びついた)軍拡路線は(ドイツ帝国時代からウィルヘルム2世の領土拡大路線と帝国軍の第一次世界大戦指導に賛同してきたSPDがそのまま続投した)ヴァイマル共和制時代から始まっており、NSDAPはこれを継承したに過ぎないという側面もあったりする。
    ドイツ国防軍(Wehrmacht、1935年〜1945年) - Wikipedia

    第一次世界大戦敗北後、ヴェルサイユ条約の軍備制限条項によりドイツの軍隊は陸軍兵力を10万人に限定され、参謀本部陸軍大学校陸軍士官学校、戦車部隊、重火器は禁止された。海軍兵力は1万5000人、戦艦6隻、巡洋艦6隻および駆逐艦12隻の保有のみが認められた。また、航空戦力の保持は禁止された。義務兵役制度も廃止された。軍を離れねばならなかった旧軍人は巷に溢れ、社会的に不安定な要素となった。

    存続した陸海軍は、皇帝ではなく、国家と憲法に忠誠を誓う Reichswehr と改名。あえて訳せば「国家防衛軍」である。日本語ではドイツ語の「Reichswehr」と「Wehrmacht」のニュアンスの違いを表現できないことから、ヴァイマル共和国時代の軍隊である点を強調して「ヴァイマル共和国軍」と訳し分けることもある。1920年に陸軍統帥部長官 (Chef der Heeresleitung der Reichswehr) に就任したハンス・フォン・ゼークトは軍の政治的中立に重点を置き、軍の充実を図った。

    しかし、連合国から課せられた膨大な賠償金や一方的な軍備制限、ポーランドへの領土の割譲等のヴェルサイユ条約への軍上層部の反発は大きく、参謀本部機能を「兵務局」の名称に隠して存続させ、将来の拡充を見越して、下士官に将校レベルの教育を行い、赤軍の協力を得てソ連国内で秘密裏に航空機、戦車、化学戦等の訓練施設を設け、将来の再軍備への準備を怠らなかった。事実、ヒトラーヴェルサイユ条約軍備制限条項を破棄し再軍備を宣言した時、短期間のうちに50万人から成る36個師団の陸軍ならびに空軍を保有することができた。

    一般的にはヒトラーの首相就任後急激に再軍備を開始したという見方が強いが、安全保障を損なうことは出来ないと考えたヴァイマル政府は戦闘機を旅客機、戦車を農業用トラクターと称し、郵便配達人の自衛用との名目で小銃を開発するなど、あの手この手で軍備を整え技術を高めていった。この結果世界初のジェット戦闘機メッサーシュミット Me262、アサルトライフルの始祖StG44 (突撃銃)、初のミサイル兵器V2ロケットなど当時としては画期的な兵器が数多く生み出されることとなる。

    そして 1935年の再軍備宣言後は徴兵制が復活し総兵力が50万人になり、ポーランド侵攻直前の兵力は318万人と世界でも屈指の規模となった。
    *「ドイツ社会の不安定化」はヴェルサイユ条約の軍備制限条項によって軍を離れねばならなかった旧軍人が失業者として巷に溢れたせいもあったので、これは「良政」となる。それを防ぎたければ中国戦国時代に秦が趙を覇権争いから引きずり下ろす為に遂行した様に「降伏してきた将兵を全員穴の中に埋めて消してしまう」ホロコーストが必要だったとも。

    第二次世界大戦終了後、連合国は当初国防軍にも戦争責任があると考えていた。1945年8月のロンドン宣言においても、ドイツ参謀本部国防軍最高司令部(OKW)がゲシュタポや親衛隊同様「犯罪的な組織」であると宣言している。一方でアメリカのOSS局長で、ニュルンベルク裁判の次席検察官に任命されていたウィリアム・ドノバン少将は、国防軍を裁くこと自体に反対していた。ドノバンはOKW統帥局次長ヴァルター・ヴァルリモントと接触し、元陸軍参謀総長フランツ・ハルダーの指導によって裁判に関わる戦史の編集を勧めた。

    11月29日、ヴァルリモントとハルダー、そしてヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ元陸軍総司令官、エーリヒ・フォン・マンシュタイン元帥は連名で国防軍の活動に関する一通の覚書を提出した。この覚書には国防軍は非政治的な存在であり、戦場における犯罪行為等は親衛隊によってなされたものであるという主張が書かれていた。この覚書が採用され、1946年9月30日には参謀本部とOKWが親衛隊やゲシュタポのような犯罪的組織ではないという判決が下った。ただし、この判決は個人としての国防軍軍人すべてを免責したわけではなく、ニュルンベルク継続裁判等の裁判では、ヴァルリモントやマンシュタインをはじめとする複数の軍人が戦争犯罪によって有罪とされている。

    この国防軍戦争犯罪に積極的に関与していないという言説は、後にアメリカ軍の戦史研究官となったハルダーの戦史執筆、マンシュタインハインツ・グデーリアンといった将軍達の回顧録出版によって補強され、占領下のドイツ西部(アメリカ・イギリス・フランスの軍政施行域)全体に広まった。この説は冷戦下で再軍備を急ぐ西ドイツ政府にとっても有利であり、西側諸国全体にも受け入れられていった。1951年1月にはかつての連合軍司令官ドワイト・D・アイゼンハワー元帥が、戦時中にナチス国防軍を同一視した発言を行ったことを謝罪する書簡を送っている。

    1985年5月5日に、アメリカのロナルド・レーガン大統領と西ドイツのヘルムート・コール首相が、国防軍だけでなく武装親衛隊兵士も埋葬されているビットブルク軍人墓地を慰霊のため訪問したことが問題となった(ビットブルク論争)。国外では武装親衛隊兵士と国防軍兵士を同列に扱うことについて強い批判があったが、西ドイツ国内では一定の支持を得ていた。一方で1980年代にはマンフレート・メッサーシュミットといった研究者が、国防軍がナチズムの道具として使われていたということをたびたび言及している。

    冷戦終結後の議論冷戦が終結してドイツ統一が達成されると、国防軍戦争犯罪に対する研究が活発となった。1995年から1999年にかけて、ハンブルク社会問題研究所が「絶滅戦争 国防軍の犯罪1941~1944」と題したパネル展(ドイツ国防軍展示会)を開催した。このパネル展で国防軍が東部戦線においてユダヤ人の組織虐殺を行っていた事、国防軍ヒトラーの道具ではなくパートナーであった事などが主張され、ドイツを二分する激しい論争を引き起こした。

    この時期、ドイツ連邦軍の兵舎に、ナチス・ドイツ期の親ナチス的な将官の名が冠せられていることも問題となった。バイエルンの兵舎の名として冠せられたエデュアルト・ディートルは、1920年代からナチズムの共鳴者であり、葬儀の際にはアドルフ・ヒトラーが「模範的な国民社会主義ナチズム的将校」と賞賛した事もある人物であった。これを除去するべきであるという同盟90/緑の党と与党のドイツキリスト教民主同盟との間で激しい論争が起きた。連邦軍およびドイツ国防省はこうした問題に態度を表明する必要に迫られ、1995年6月5日に国防軍展示会について「内容はややラディカルなものの、軍事史研究所国防省の管轄組織の研究成果をふまえている」という評価を行っている。また11月にはフォルカー・リューエ国防相が、「国防軍第三帝国の組織として、その頂点において、部隊・兵士とともにナチズムの犯罪に巻き込まれた。それゆえに国防軍は、国家機関として、いかなる伝統も形作ることはできない」と国防軍について批判的な姿勢を示した。

    しかし一方で、保守派はこのような動きに反発している。フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥングの歴史記事責任者ギュンター・ギレッセンは、国防軍の犯罪を示す史料がいずれも断片的で出所が明らかでなく、大部分の国防軍兵士が関与していなかった犯罪を国防軍全体のものとしているとして批判している。また元首相ヘルムート・シュミット国防軍灰色)と親衛隊(黒色)およびナチ党(茶色)を同一視する動きを左翼的急進主義として批判している。政治問題化した情勢を受けて連邦軍はこの論争から距離を取る姿勢を示し、リューエ国防相軍事史研究所の職員にパネル展をめぐる議論に参加しないよう通達を出し、パネル展の開催式への出席をキャンセルしている。しかしこのような上層部の姿勢に反発し、パネル展を支持する動きも連邦軍内に存在している。

    1997年4月にはドイツ連邦議会において国防軍問題に関する決議を行う動きがあった。同盟90/緑の党は「国防軍は国民社会主義システムの支柱の一つであった。国防軍は組織として国民社会主義の犯罪に関与した」という決議案を提出し、ドイツ社会民主党や民主社会党の賛成を得たものの、ドイツキリスト教民主同盟の提出による「ドイツ国防軍への従事者に対するあらゆる一方的・総括的な非難に対して断固として反対する」という決議案が賛成多数で採択された。

    1999年にはパネル展の写真にソ連の内務人民委員部による殺害写真が混入しているという批判が行われ、第三者委員会による調査が行われた。3ヶ月以上に及ぶ調査の結果、内務人民委員部の殺害写真が混入していることや、連邦公文書館の管理がずさんなため、同一の写真に異なったキャプションがつけられているなどの不正確な点が発見された。また、国防軍が組織として犯罪行為に関与していたという結論自体は妥当であるが、そのレトリックが見る人々に強い反発をもたらしたと評価している。ハンブルク社会研究所はパネル展の内容を修正し、2001年から2004年にかけて再度展示が行われている。

    2009年にドイツの歴史家 クリスティアン・ハルトマン は、「いわゆる『清廉潔白な』国防軍という神話について、これ以上正体を暴く必要はなくなった。国防軍の罪はあまりにも圧倒的であるために、これ以上の議論はもはや不要である」と述べている。

    【ドイツのナチス化②】第二次世界大戦終了後、それまでナチス支配に盲従してきたフランス有識者層はナチズムの痕跡の徹底清算を強く求める一方で、平和主義の観点からこれに関わる一切の汚れ仕事を「第二次世界大戦中、実際に独立戦争を戦ってきた戦争英雄」たる植民地軍人に押し付けた。その結果、植民地軍人が新政権のイニチアシブを握り、しかも懐に逃げ込んできたナチス残党を庇護下に置く様になる一方でむしろフランス有識者層を弾圧する様になる。当時のドイツで起こったのもこれ。スターリンの後押しを受けた壮絶な粛清の果てに(スターリニズム同様に独裁者に対する個人崇拝を伴う)テールマン体制へと移行したKPDはスパルタカス残党や革命的オップロイテといった無政府主義者の撲滅という汚れ仕事をNSDAPやその下部組織たるSA(Sturmabteilung=ドイツ突撃隊)に一任し「毒をもって毒を制す」などとほくそ笑んでいるうちに国会議事堂放火事件(1933年)を待つまでもなく国内共産主義者の政治的動員力をすっかり喪失してしまっていたのだった。いやむしろKPDがそういう機能不全状態に陥っているのを見越していたからこそNSDAPは(反撃を恐れる事なく)堂々と国会議事堂放火事件を遂行出来たというべきかもしれない。同様にSAも一枚板ではなかったので「長いナイフの夜事件Nacht der langen Messer、1934年)」によって解体を余儀なくされる。

    【ドイツのナチス化③】太陽王ルイ14世時代のフランス絶対王政が実際には「(常備軍と中央集権的官僚制と新興産業階層を味方につけた国王が、その実力を背景にアンシャン・レジームを構成する諸社団の利害関係を裁定するシステム」として機能しており国王専制状態から程遠かった様に、そして欧州なら必ず王侯貴族が反乱を起こして潰していたであろう版籍奉還1869年)、廃藩置県1871年)、藩債処分(1876年)、秩禄処分1876年)を遂行して「雷帝」の二つ名を賜った明治天皇を戴いた大日本帝国が実際には「明治天皇を調停者とする諸元勲の路線争いの場」として機能しており天皇崇拝体質から程遠かった様に、NSDAPが政権奪取に成功した時期のドイツもまたヒトラーに対する個人崇拝体質とは程遠かったのだった。むしろ専制状態への移行は概ね(各ワールドのバランスが取れた共存共栄に立脚するディズニーランドの如き)勢力均衡システムの崩壊や暴走しか意味しないものである。

  • ところで、この次元における「アレーティア真理の世界を求め続ける心」とは、ある意味「(世界恐慌(1929年)から始まった未曾有の規模での国際協調体制崩壊危機が生み出した)実存不安の蔓延を前にしても決して慌てず騒がず(世界最終戦争の接近といった妄想に逃げる事なく正しい処方箋の調合努力を決っして怠らない姿勢」を指す。メルロ=ポンティいうところの「決して勝利の哲学philosophie triomphanteへと変容することがない戦う哲学philosophie militante)」とはまさにこれ。

    一揆主義(putschism)で有名な「永遠の革命家オーギュスト・ブランキLouis Auguste Blanqui、1805年〜1881年)は「革命に勝利などない。政権奪取の成功は、常に新たなる反体制運動弾圧の起点となるだけである」と述べ、ハンガリー出身の経済人類学者カール・ポランニーは「大転換The Great Transformation1944年)」の中で英国囲い込み運動(enclosure、16世紀、18世紀)を詳細に分析し「後世から見れば議論や衝突があったおかげで運動が過熱し過ぎる事も慎重過ぎる事もなく適正な速度で進行した事だけが重要なのであり、これが英国流なのだ 」と指摘した。要するにこうした動きは全て「我々が自由意思や個性と信じ込んでいるものは、実際には社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない」としたカール・マルクスの人間解放論同様、「人間の幸福は民族精神(Volksgeist)時代精神ZeitGeistと呼ばれる事もある絶対精神(absoluter Geist)との合一を果たし、自らの役割を得る事によってのみ達成される」としたヘーゲルの因循姑息な守旧派哲学からの脱却を目指して打ち立てられた思想。ヘーゲルは要するに伝統的経験則に従って「轍に沿って進む限り失敗はない」と主張しているだけであって「ならば道なき荒野に誰がどうやって最初の一歩を刻むのか?」については前期ウィトゲンシュタイン張りに「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」なる態度を貫き通したのだった。

    もちろん「肉体に思考させよ。肉体にとっては行動が言葉。それだけが新たな知性と倫理を紡ぎ出す」式の冒険主義からは良いものだけでなく悪いものも生み出される。ジョン・スチュアート・ミルは「自由論On Liberty、1859年)」の中で「文明が発展するためには個性と多様性、そして天才が保障されなければならないが、他人に実害を与える場合には国家権力が諸個人の自由を妨げる権利が生じる」としたが、これは最初から「限度を超えた悪は速やかに処断する覚悟」と表裏一体の関係にあるのである。

 ③そして人類は国家間の競争が全てとなった「総力戦体制時代1910年代後半〜1970年代)」と、その国民総動員体制を企業やマスコミが継承しようと足掻いた「産業至上主義時代1960年代〜?)」を経て「主権者としての個人間の勢力均衡」が重要な役割を果たす時代に差し掛かりつつある。

*【訂正】実は映画「ハイジの青春(Courage Mountain、1989年)」第一次世界大戦中という設定らしく、クララの国家主義者への変貌は「ナチスへの熱狂」でなく「ヴィルヘルム皇帝を戴くドイツ帝国への熱狂的忠誠心の表明」が正解となる模様。

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これはまさに、これまでの投稿で述べてきた「言語ゲームや事象の地平線としての絶対他者を巡る黙殺・拒絶・混淆・受容しきれなかった部分の排除」のプロセスそのもの。

しかもこの投稿において既に「世界常識は馬鹿や阿呆が塗り替えていく」なる表現が見受けられます。さて、この次元においてウィルヘルム2世を戴いたドイツ帝国軍国主義化した大日本帝国が果たした役割は一体どの様なものだったのか? まず出発点はこの辺りになりそうなんです?