はてなブログのアクセス解析によれば、最近以下の投稿へのアクセスが増えてる模様。 これも「ゴルゴサーディーン」効果?
どうせ検索に引っ掛かったなら、ちゃんと読んで「革命の時代に降誕したデビルマン」の物語に触れて戦慄して欲しいものです。
*Youtubeコメントに「この曲、70年代西部劇っぽい」という指摘が。
*そしてエンディングやドラマ中のBGMではオルガンが回りまくってました。1970年代!!
実際「元フランス元帥」ジャン=バティスト・ベルナドット(1763年〜-1844年)の生涯は以下の様な感じだったのです。
カール14世ヨハン (スウェーデン王) - Wikipedia
- 内紛で一時的におとなしくなっていた悪魔(平民)のデーモン軍団が新たな魔王を得て世界征服を再開する。
*「悪魔のデーモン軍団」…この「音速のソニック」感がたまらない。
- その男は最初、悪魔の軍団における最強戦士の一人だったが、人間側(欧州諸王国側)に寝返って連合軍司令官として悪魔の武器(ナショナリズム)を逆用して悪魔のデーモン軍団を撃破。悪魔(平民)出身ながら人間(スウェーデン王)に昇格する。そう、こちらは「ハッピーエンド」に終わる時間線…
*何とこの戦い「勝利祈願で豚カツ」の起源でもある? そう「悪魔を最終決戦で打倒」したのはオーストリア史観では軍参謀長のヨーゼフ・ラデツキー、ドイツ史観ではプロイセン軍参謀長のアウグスト・フォン・グナイゼナウとされているのである。で、もちろん当該人物のフランスでの評価は「フランス史上最低最悪の売国奴」…
- ノルウェーがキール条約(1814年1月14日)でスウェーデンに割譲されたのは、第6次対仏大同盟に参加したベルナドットが連合国軍北方軍総司令官として解放戦争に参戦し、ライプツィヒの戦いでナポレオンに対し決定的な勝利を収めた後にデンマークを制圧したから。その後5月17日、ノルウェーは独立を宣言し、デンマーク王フレゼリク6世の従弟クリスチャン・フレゼリク(のちのデンマーク王クリスチャン8世)が国王に選出されるものの、ベルナドットはこれを認めず、軍を率いて屈服させた。そしてモス条約(8月14日)が締結されて、ノルウェーの自治権と独自の憲法を掲げることを承認した上で、スウェーデンとノルウェーは同君連合となったのである。
- 対外的には、ロシア、イギリスという2大国の間に立って緩衝帯の役割を果たすことで勢力均衡を図ると共に、領土をスカンジナビア半島という自然国境内に保ち、欧州大陸のいかなる紛争にも関与しないことで、自国の安全と平和を確保する政策を取った。内政面においては経済の改善に注力し、財政の健全化と債務の削減を実現するかたわら、産業の振興、イェータ運河に代表されるインフラや、教育施設・医療機関など社会資本の整備を推進。このように国内に物質的な豊かさをもたらす一方、1830年代以降、議会改革に関して保守的な姿勢を見せ改革派としばしば対立したが、その治世の間両国は内外とも安定と平和を保っていたため、彼の王朝が深刻な危機に瀕することは無かった。そして当時の政策が武装中立、高福祉、高教育など現代にも通じるスウェーデンの近代化の萌芽となる。
「国境を超越しての歴史観の共有」が、如何に難しいかの好例でもありますね。
フランツ2世の反動思想
— フランス革命bot (@FrenchRbot) January 1, 2019
マリー・アントワネットの処刑やハンガリー・ジャコバンの革命未遂を利用して国民に革命思想の恐怖を喧伝、反動政策を根強く押し進めた
特にハンガリーは一転して忠誠を誓い、ナポレオンの独立提案にも応じなかったpic.twitter.com/xGzFCIUL9X
神よ、皇帝フランツを守り給え(Gott erhalte Franz den Kaiser、1804年) - Wikipedia
歌詞の和訳
- 神よ、皇帝フランツを守りたまえ
われらが良き皇帝フランツを!
皇帝に長寿あれ、
幸運の輝かしき栄光のうちに!
皇帝も行くところ
月桂樹の一枝も栄誉の花輪に繁れり!- 神よ皇帝フランツを守り給え、
われらが良き皇帝フランツを!
陛下の御旗を高々と掲げ、
勝利と実りを輝かせよう!
陛下の集いに
英知と賢明と誠実を置こう!
そして、威厳の煌かせて
ただ正義を行おう!
神よ、皇帝フランツを守り給え、
われらが良き皇帝フランツを!- 汝の豊潤な才幹を
陛下とその宮殿、帝国に注ぎ込むべし!
悪意をなす不逞な、
ならず者や悪党どもの一撃をも打ち破るべし!
汝の法は常に陛下の大御心なり。
われらには皇帝と法は同じなり!
神よ、皇帝フランツを守り給え
われらが良き皇帝フランツを!- 祖国!諸民族!高き勲章に
歓喜を味わわせよ!
奮戦敢闘して
前進すべし!
霊廟の際から
最期の歌声が聞こえん!
神よ、皇帝フランツを守り給え、
われらが良き皇帝フランツを!まさしく後期ハイデガーいうところの「集-立(Gestell)システム(特定の意図に基づいて手持ちリソースを総動員しようとする体制)」としての国家間競争の図式…
フランツ2世(Franz II.、1768年〜1835年) - Wikipedia
神聖ローマ帝国最後のローマ皇帝(在位1792年〜1806年)にして最初のオーストリア皇帝フランツ1世(Franz I.、在位1804年〜1835年)。ハンガリー国王としてはフェレンツ1世(ハンガリー語I. Ferenc、在位:1792年〜1835年)、ベーメン国王としてはフランティシェク2世(チェコ語František II.、在位:1792年〜1835年)である。ハプスブルク=ロートリンゲン家の君主で、全名はフランツ・ヨーゼフ・カール・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン(Franz Joseph Karl von Habsburg-Lothringen)。
トスカーナ大公レオポルド1世(後のローマ皇帝レオポルト2世)の長男として、トスカーナ大公国の宮廷が置かれたフィレンツェで生まれた。母はスペイン国王カルロス3世の娘マリア・ルドヴィカ。祖父フランツ1世の帝位を継いだ伯父のヨーゼフ2世には成長した子供がなかったことから、フランツは未来の帝位継承者と見なされ、成長するとウィーンで教育を受けた。1790年に伯父が死去し、帝位を継承した父が2年後の1792年に死去したため、皇帝に即位した。トスカーナ大公位は弟フェルディナンド3世が1790年に父から継いでいる。なお、伯父の死の2日前に最初の妃エリーザベトを、翌1791年にエリーザベトとの間の唯一の子である長女ルドヴィカを、父の死の2か月半後に母マリア・ルドヴィカを喪っている。
即位した際、フランス革命が進行中であった。レオポルト2世は前年の1791年にピルニッツ宣言を行って革命への介入を宣言していたが、フランツ2世の即位から間もない1792年4月20日、フランス革命政府はオーストリアに宣戦布告し、フランス革命戦争が勃発する。翌1793年にルイ16世が処刑されると、第一次対仏大同盟が結成されるが、その一方でオーストリアはポーランド分割にも関与する(1795年)。
その後ナポレオン戦争に巻き込まれ、三帝会戦(アウステルリッツの戦い)で惨敗し、フランツ2世は「ローマ皇帝」の称号を自ら放棄して、神聖ローマ帝国は名実ともに消滅した。しかし、自らの支配領域であるオーストリアとハンガリー王国を中心としてオーストリア帝国を再編し、オーストリア皇帝フランツ1世として君臨した。またクレメンス・メッテルニヒを登用し、ウィーン会議で失地を回復した。
国家運営をすべてメッテルニヒら臣下に任せる場合が多かったが、質素な生活を好み、その在位もローマ皇帝時代・オーストリア皇帝時代を通して40年の長きにわたったため、晩年は国民からも親しみを込められて「善き皇帝フランツ」と称された。
1804年に採択されたフランツ・ヨーゼフ・ハイドン作曲の「神よ、皇帝フランツを守り給え(Gott erhalte Franz den Kaiser)」あるいは「オーストリア皇帝讃歌(Österreichische Kaiserhymne)」は、現在ではドイツ連邦共和国の国歌にメロディーが流用されている。
いわゆる「ベルサイユのばら(の下敷きに選ばれたシュテファン・ツヴァイク評伝)」史観…