諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】君主とアルミ食器

このエピソードを思い出したのです。

f:id:ochimusha01:20200620022301p:plain

日本のアルミはじめて物語

大阪城三の丸跡にあった大阪砲兵工廠を江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜が訪れたのは明治36年(1903年)5月のことであるが、工廠提理・楠瀬幸彦に案内されて大阪城天守閣跡に立った慶喜は、今昔の感に堪えない様子であったという。 鳥羽伏見の乱に際し幕軍敗走を知った彼は、自軍を欺き側近と共に江戸に敵前逃亡したが、それ以来の大阪城であった。 工廠内を見学した慶喜は製作中のアルミ飯盒に目をとめ、楠瀬からその使用法を詳しく聞いた。「公は其一個を所望せられ、帰京の後、居間の火鉢にて親しく炊き試み給ひしに、日頃の食事にも勝りて極めて美味渋沢栄一徳川慶喜公伝)」であったという。

後日、慶喜からの「アルミが人体に害を及ぼすことはないか」との問合せに、楠瀬は「軍隊で使用して日なお浅く、確かなデータがないので何とも言えないが銀なら害は無いであろう」と回答した。すると慶喜からすぐ銀塊を送られてきたので、それを加工して銀製飯盒を作って返送したところ、慶喜は日々この飯盒でご飯を炊いて食べていたという。いかにも新し物好きの慶喜らしい話である。

 

もしかしたら何か影響受けた? (幕末期、幕府側の人間はフランス人、それもナポレオン3世の臣下に何かとお世話になってる)。

なるほど、やっと時系列が飲み込めました。

日本のアルミはじめて物語

今やその消費量が文明化の一尺度とも見なされるようになったアルミニウムであるが、その存在が明らかにされたのは文化4年1797年)のことで、未だ齢200歳にも満たない若く新しい金属である。嘉永7年1854年)にフランスで金属還元法が発明されてアルミニウムを金属として手にすることが出来るようになったが、その銀に似た光沢と軽さとが評価されたものの1856年でもKgあたり1,000フランと高価格だったため、その用途は当初ネックレスやブローチ等の装飾品に限られ、まさしく「軽銀」とみなされていた。

そのアルミニウムに工業的利用への途を開いたのは明治19年1886年)の電気分解法の開発であり、以後1891年にはKgあたり10フラン1898年にはKgあたり3フランと低価格化が進み、その用途は急速に拡大した。

我國にあっては、慶応3年1868年)に早くも洋学者の柳川春三が、その著『西洋雑話・巻一』に「新銀ならびにアルミニウムと名付くる金属の説」を書いているのには驚かされる。

その日本に初めてアルミ地金が輸入されたのは明治20年1887年)であるが、何らかの用途があって、というよりは新しい金属の紹介がその目的であったようである。

兵士の多くがアルミ合金食器を帯行した日露戦争(1904年~1905年)

明治26年1893年4月に書かれた「昨年以来當工廠に於て各種配合の礬素銅を試製致し兵器材料の製作に供用すべき金属に就き種々研究致居候処今漸く好成績を得るに到り候」という報告書が残されている。大阪砲兵工廠提理・太田徳三郎から陸軍大臣大山厳に提出されたもので「礬素」とは当時の日本におけるアルミニウムの呼名である。当時まだ鋼製砲に移行できずに鋳銅砲にとどまっていた我国の軍部は青銅にアルミを添加することで少しでも材質を強化しようとしていたようだ。この目論見は成功しなかったものの、明治27年1894年)頃から輸入地金を使って帯革や負革、剣吊りの尾錠、等の軍装品がアルミ合金で作られるようになった。

明治28年1895年)の日清戦争終了後、工廠はドイツから圧搾機や旋盤を輸入し飯盒水筒火薬容器、食皿などをアルミで量産し始めたので、明治37年(1904年)~明治38年(1905年)の日露戦争では陸軍兵士の殆んどが柳行李の弁当箱に替わってアルミ製飯盒や水筒を持つようになっていた。

ちなみに皇帝ナポレオン三世ってインテリからは徹底して嫌われてて、カール・マルクスルイ・ボナパルトブリュメール18日 (Der 18te Brumaire des Louis Bonaparte, 1852年)」を読んでも、その戦績をチェックしてもただのバカ殿としか思えないけど、内政に関しては「馬上のサン=シモン」なる異名を賜るほどキレキレで(革命当時の資本主義インフラ徹底破壊で半世紀は遅れたといわれる産業革命のフランスへの導入に成功した人だったりするのです。

ボナパルティズム

カール・マルクスルイ・ボナパルトブリュメール18日 (Der 18te Brumaire des Louis Bonaparte, 1852年)」の冒頭に「ヘーゲルはどこかでのべている、すべての世界史的な大事件や大人物はいわば二度あらわれるものだ、と。一度目は悲劇として、二度目は茶番として、と、かれは、つけくわえるのをわすれたのだ。ダントンのかわりにコーシディエール、ロベスピエールのかわりにルイ・ブラン、1793年~1795年の山岳党モンターニュのかわりに、1848年~1851年の山岳党、叔父のかわりに甥。」とある。この書でマルクスは、ナポレオン3世を叔父の権威を利用して権力を握った無能な人物と断定し、その権力はブルジョワジー小農民層労働者などの諸階級の対立がどの勢力も決定的な力を持たないとき、独裁政治の調停機能に期待するところに成立したものと考え、そのような独裁者がとった冒険主義的な侵略戦争がその没落をもたらしたと分析し、そのような政治権力のあり方をボナパルティズムと名付けた。

マルクスの見解は強い影響力を持ち、ナポレオン3世は叔父の名声だけを利用して、陰謀と人気取り政策によって権力を手に入れたに過ぎず、人間的にも権力欲の強い、好色で破廉恥な独裁者であったという評価が根強い。そのような評価が定着したのは、第二帝政に抵抗して長く亡命生活を送った共和派で「レ・ミゼラブルLes Misérables, 1862年)」の作者として名高いヴィクトル・ユーゴーが、徹底的な反ナポレオン3世の言動を続けた事も大きい。そして決定的なのはナポレオン3世プロイセン王国宰相ビスマルクの奸計に乗せられて普仏戦争(1870年~1871年)で捕虜になってしまったことであり、独裁者、好色の上に「間抜けな」皇帝というありがたくない評価がつきまとっている。

皇帝ナポレオン三世の真価

しかし、フランスの資本主義の発展にとっては、ナポレオン3世とその第二帝政は決定的なテイク=オフ離陸)の時代であり、その中でのナポレオン3世の役割について積極的な評価も出されている。ナポレオン3世は無思想、無定見な権力者だったのではなく、若い頃からイギリス古典派経済学やサン=シモンの産業社会論を知り、そのアイディアを独裁権力のもとで実行した。投資銀行の設立鉄道の普及万国博覧会の開催パリ大改造、そして自由貿易政策への転換などがそれであり、これによってフランスは産業革命を達成することができたということができる。

一方「江戸幕府最後の将軍徳川慶喜も、少なくとも私の中では「(細部はともかく)日本の近世から近代への推移に際して韓国で軍人大統領時代から現在の民主体制時代への移行を流血なしに済ませた盧泰愚大統領みたいにフランス革命の様な無用な流血を回避した偉人」だったりする訳で…以前から「皇帝ナポレオン3世同様、徳川慶喜がアルミ食器に関心を示した事」に何か特別な意味があったりしたら面白いかなと思ってた次第。ただ、この感じはやっぱり難しいかなぁ…