このエピソードを思い出したのです。
大阪城三の丸跡にあった大阪砲兵工廠を江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜が訪れたのは明治36年(1903年)5月のことであるが、工廠提理・楠瀬幸彦に案内されて大阪城天守閣跡に立った慶喜は、今昔の感に堪えない様子であったという。 鳥羽伏見の乱に際し幕軍敗走を知った彼は、自軍を欺き側近と共に江戸に敵前逃亡したが、それ以来の大阪城であった。 工廠内を見学した慶喜は製作中のアルミ飯盒に目をとめ、楠瀬からその使用法を詳しく聞いた。「公は其一個を所望せられ、帰京の後、居間の火鉢にて親しく炊き試み給ひしに、日頃の食事にも勝りて極めて美味(渋沢栄一・徳川慶喜公伝)」であったという。
後日、慶喜からの「アルミが人体に害を及ぼすことはないか」との問合せに、楠瀬は「軍隊で使用して日なお浅く、確かなデータがないので何とも言えないが銀なら害は無いであろう」と回答した。すると慶喜からすぐ銀塊を送られてきたので、それを加工して銀製飯盒を作って返送したところ、慶喜は日々この飯盒でご飯を炊いて食べていたという。いかにも新し物好きの慶喜らしい話である。
もしかしたら何か影響受けた? (幕末期、幕府側の人間はフランス人、それもナポレオン3世の臣下に何かとお世話になってる)。
ナポレオン三世「このアルミニウムとかいうクッソ軽い金属、将来は軍事用とかで絶対に役立つに決まってるから頑張っていっぱい作れ」
— 偏見で語る兵器bot (@heikihenken) 2020年5月22日
金属屋さん「金属としてアルミを利用するのは今の技術だと難しすぎて純金の2000倍は高価に…」
ナポIII「いいから作れ」
と金より高いアルミ皿とか作らせていた pic.twitter.com/DzsaMS4CRz
当時は塩化アルミニウムを金属カリウム(orナトリウム)で還元させて作ってた
— 偏見で語る兵器bot (@heikihenken) 2020年5月24日
ホール・エルー法という電気を使った現代と同じやり方になったのはナポレオン三世の死んでから10年後くらい pic.twitter.com/pvgALmjc4a
パイナップルアーミで
— 正人(hol4) (@masato_hol4) 2020年5月22日
代々受け継がれた伝説の剣の正体が「アルミニウム製の剣」
ってオチの話しなかったっけ(因みに現在の価値は…)
ボーキサイトを電気使って分解してアルミにするのがめちゃくちゃ高かったってことか?
— そこら辺のもやし@鹿屋基地 (@TPT06) 2020年5月22日
電気分解による精製技術が確立したのは1885年、たいしてナポレオン三世は1870年に皇帝位を喪失してます。
— のけ@小説執筆中 (@pzkpfw1b) 2020年5月22日
なるほどそこまで考えてませんでした
— そこら辺のもやし@鹿屋基地 (@TPT06) 2020年5月22日
当時電気使わずに分解するとなるとアルミナにしてから炭化アルミニウムにした後に一酸化炭素分離するとかですか?
これによれば、金属ナトリウムないしカリウムを混ぜて加熱するのが一般的だったそうです。https://t.co/GnHFTr8U9L
— のけ@小説執筆中 (@pzkpfw1b) 2020年5月22日
なるほど
— そこら辺のもやし@鹿屋基地 (@TPT06) 2020年5月22日
教えていただきありがとうございます
こういう話を聞くと我々は先人たちの技術の上に乗らせていただいて生きているんだなぁと実感
— キュラペディア (@qurataro) 2020年5月22日
中学の時の理科の教科書に大事な客をもてなすのに使ったって書いてあった
— 英国面に堕ちた帰宅部社会主義共和国連邦麻弥推し秋山殿推しエンマちゃんに踏まれたいLV.810 (@V9lzUQKPFQSbmte) 2020年5月22日
先見性はあったんだろうけど、活かすことができないと微妙ではあるって感じですね...
— tkr hsgw (@TroopenD) 2020年5月22日
有能アンド有能
— Bridgette (@sssnkgfmeigjel1) 2020年5月22日
まだ1800年代やぞ
1850年代やで。
— のけ@小説執筆中 (@pzkpfw1b) 2020年5月22日
なるほど、やっと時系列が飲み込めました。
今やその消費量が文明化の一尺度とも見なされるようになったアルミニウムであるが、その存在が明らかにされたのは文化4年(1797年)のことで、未だ齢200歳にも満たない若く新しい金属である。嘉永7年(1854年)にフランスで金属還元法が発明されてアルミニウムを金属として手にすることが出来るようになったが、その銀に似た光沢と軽さとが評価されたものの1856年でもKgあたり1,000フランと高価格だったため、その用途は当初ネックレスやブローチ等の装飾品に限られ、まさしく「軽銀」とみなされていた。
そのアルミニウムに工業的利用への途を開いたのは明治19年(1886年)の電気分解法の開発であり、以後1891年にはKgあたり10フラン、1898年にはKgあたり3フランと低価格化が進み、その用途は急速に拡大した。
我國にあっては、慶応3年(1868年)に早くも洋学者の柳川春三が、その著『西洋雑話・巻一』に「新銀ならびにアルミニウムと名付くる金属の説」を書いているのには驚かされる。
その日本に初めてアルミ地金が輸入されたのは明治20年(1887年)であるが、何らかの用途があって、というよりは新しい金属の紹介がその目的であったようである。
兵士の多くがアルミ合金食器を帯行した日露戦争(1904年~1905年)
明治26年(1893年)4月に書かれた「昨年以来當工廠に於て各種配合の礬素銅を試製致し兵器材料の製作に供用すべき金属に就き種々研究致居候処今漸く好成績を得るに到り候」という報告書が残されている。大阪砲兵工廠提理・太田徳三郎から陸軍大臣・大山厳に提出されたもので「礬素」とは当時の日本におけるアルミニウムの呼名である。当時まだ鋼製砲に移行できずに鋳銅砲にとどまっていた我国の軍部は青銅にアルミを添加することで少しでも材質を強化しようとしていたようだ。この目論見は成功しなかったものの、明治27年(1894年)頃から輸入地金を使って帯革や負革、剣吊りの尾錠、等の軍装品がアルミ合金で作られるようになった。
明治28年(1895年)の日清戦争終了後、工廠はドイツから圧搾機や旋盤を輸入し飯盒、水筒、火薬容器、食皿などをアルミで量産し始めたので、明治37年(1904年)~明治38年(1905年)の日露戦争では陸軍兵士の殆んどが柳行李の弁当箱に替わってアルミ製飯盒や水筒を持つようになっていた。
ちなみに皇帝ナポレオン三世ってインテリからは徹底して嫌われてて、カール・マルクス「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日 (Der 18te Brumaire des Louis Bonaparte, 1852年)」を読んでも、その戦績をチェックしてもただのバカ殿としか思えないけど、内政に関しては「馬上のサン=シモン」なる異名を賜るほどキレキレで(革命当時の資本主義インフラ徹底破壊で半世紀は遅れたといわれる)産業革命のフランスへの導入に成功した人だったりするのです。
カール・マルクス「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日 (Der 18te Brumaire des Louis Bonaparte, 1852年)」の冒頭に「ヘーゲルはどこかでのべている、すべての世界史的な大事件や大人物はいわば二度あらわれるものだ、と。一度目は悲劇として、二度目は茶番として、と、かれは、つけくわえるのをわすれたのだ。ダントンのかわりにコーシディエール、ロベスピエールのかわりにルイ・ブラン、1793年~1795年の山岳党(モンターニュ)のかわりに、1848年~1851年の山岳党、叔父のかわりに甥。」とある。この書でマルクスは、ナポレオン3世を叔父の権威を利用して権力を握った無能な人物と断定し、その権力はブルジョワジー、小農民層、労働者などの諸階級の対立がどの勢力も決定的な力を持たないとき、独裁政治の調停機能に期待するところに成立したものと考え、そのような独裁者がとった冒険主義的な侵略戦争がその没落をもたらしたと分析し、そのような政治権力のあり方をボナパルティズムと名付けた。
マルクスの見解は強い影響力を持ち、ナポレオン3世は叔父の名声だけを利用して、陰謀と人気取り政策によって権力を手に入れたに過ぎず、人間的にも権力欲の強い、好色で破廉恥な独裁者であったという評価が根強い。そのような評価が定着したのは、第二帝政に抵抗して長く亡命生活を送った共和派で「レ・ミゼラブル(Les Misérables, 1862年)」の作者として名高いヴィクトル・ユーゴーが、徹底的な反ナポレオン3世の言動を続けた事も大きい。そして決定的なのはナポレオン3世がプロイセン王国宰相ビスマルクの奸計に乗せられて普仏戦争(1870年~1871年)で捕虜になってしまったことであり、独裁者、好色の上に「間抜けな」皇帝というありがたくない評価がつきまとっている。
皇帝ナポレオン三世の真価
しかし、フランスの資本主義の発展にとっては、ナポレオン3世とその第二帝政は決定的なテイク=オフ(離陸)の時代であり、その中でのナポレオン3世の役割について積極的な評価も出されている。ナポレオン3世は無思想、無定見な権力者だったのではなく、若い頃からイギリス古典派経済学やサン=シモンの産業社会論を知り、そのアイディアを独裁権力のもとで実行した。投資銀行の設立、鉄道の普及、万国博覧会の開催、パリ大改造、そして自由貿易政策への転換などがそれであり、これによってフランスは産業革命を達成することができたということができる。
一方「江戸幕府最後の将軍」徳川慶喜も、少なくとも私の中では「(細部はともかく)日本の近世から近代への推移に際して(韓国で軍人大統領時代から現在の民主体制時代への移行を流血なしに済ませた盧泰愚大統領みたいに)フランス革命の様な無用な流血を回避した偉人」だったりする訳で…以前から「皇帝ナポレオン3世同様、徳川慶喜がアルミ食器に関心を示した事」に何か特別な意味があったりしたら面白いかなと思ってた次第。ただ、この感じはやっぱり難しいかなぁ…