ネットで話題になっているのはこの逆パターン。
著者のサンデル教授は、「こうすることが正義である」なんて結論していないし、講義や著書を通して正義は議論の中で生まれるって言っている通り、その議論こそが大切であることを示している。
…プラトンの例(洞窟の囚人は本質を理解できない)を引用して述べているだけだ。「われわれは内省だけによって正義の意味や最善の生き方を発見することはできない」つまり、「議論」によってのみ、最善の行き方に到達できる、と。
有名な「トロッコ問題」の導入部…
戦争行ったことないから分からんけど、戦場で「ああでもない、こうでもない」と議論する哲学書よりは、「こうだ、かくなせ、これは断じてならぬ」といちいち断定・禁止してくる宗教的調子を帯びた文体の方が必要とされることは何となく想像できる。迷ってたら死ぬような状況ではな。
— Sz73 (@Sz73B) 2020年8月31日
ただ、哲学書を戦場では読まずとも、戦場がインスピレーションを与えてくれるかのような行動をした哲学者としてデカルト、ヴィトゲンシュタイン、アランなどがいるので、この連中にとっては戦場も一つの機会だったらしい。
— Sz73 (@Sz73B) 2020年8月31日
イスラームは教理的には複雑な問題が山ほどあろうが、その信仰の行動が極めて「戦場向き」には出来てるな。信仰告白は数秒で終わる上に権威者とか別に要らないから敗軍の兵士が一瞬で同士になるし、礼拝は信徒の一体感を強烈に醸成する装置で、しかも日に何度も規則的に行われる。
— Sz73 (@Sz73B) 2020年8月31日
さらにイスラームの聖典たるコーランは、アラビア語ではシャーマンなどが用いるサジュウ体という独特の韻律を全部に用いているらしいから、何度も大声で朗唱するうちにリズムに呑まれて精神が一種のトランス状態に入りそうで、人間を狂信的状態に陥らせる効果もありそう。
— Sz73 (@Sz73B) 2020年8月31日
そう考えると仏教っていうのは大衆を戦争に動員するシステムとしてはとことん弱いですね・・・
— 偏向 (@HISEIJITEKI) 2020年8月31日
第一次大戦の際、フランスではお国のために犠牲となって死ぬことが神聖なものとして称揚され、物量的に不足していても精神の強さがあれば勝てるという言説が跋扈していたという研究を見ると、旧日本軍の特攻精神は必ずしも「日本的なもの」ではないのではないか、と思わされる。
— 眼鏡パンダ (@sacreconomie) 2020年8月31日
日本陸軍はドイツ式に切り替える前はフランス式で、大山巌などフランス留学組の首脳も多かったから、似ていることは不自然な偶然ではないと思われる。https://t.co/rO54WFy5Jk
— 司史生@やる気がでない (@tsukasafumio) 2020年8月31日
久し振りに2016年時点の問題意識を思い出しました。「はてさて私達はどちらに向けて漂流しているのでしょうか?」。現時点の表現に言い直すと「名状しがたき怪物(The Unnamable)は名状(name)し得た時、既にそこには存在しない。ならば名状しがたき怪物とは一体何者なりしや?」…