諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】「無限遠点(Infinity)においては全てが交わり個性を喪失する」?

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正規分布の正体は放物線を対数尺に突っ込んだもの」なる認識自体は意外とちゃんと広範囲にコンセンサスとして共有されているのですね(どうしても分からないのがどうしてそれが「正規分布」として機能するか。ちなみに「正規分布として機能する」事自体は膨大な検証によって確認済み)。それを語る言葉に私が全然ついていけないでいただけだったのです…

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最近「ガウスの広義積分概念」が究極的には「あらゆる方向に向けて無限遠点まで引かれた直線同様、円も放物線も双曲線もいや矩形さえもが無限点においては交わり、それぞれの個性を喪失する」と言ってる様に思えてきました。ある種の涅槃

おそらく同様に「(万事「計画なきええとこどり」に終始した結果「裁定者」ヒトラー独裁に到達した)ナチズム」と「(特定のイデオロギーを貫く事が困難になった時代に「計画なきええとこどり」なる禁手に手を出して暴走が始まった)現代リベラリズム」も無限遠(Infinity)においては交わり、それぞれの個性を喪失するのです。こうした歴史動向については「それが何を食ったか偏微分的操作で抽出してその推移を見守る分析態度のが有効なのですが…もしかしたら最近のいわゆる「ポリコレ」とか「ツイフェミ」に分類される方々が試みてるのは、あらゆる時代にこうした歴史的制約を超越する為に試みられてきた「肉体に思考させよ。肉体にとっては行動が言葉。それだけが新たな知性と倫理を紡ぎ出す」フランス式行動主義なのかもしれません。

こうして全体像を俯瞰してみると「(その全体主義志向が日本の様に近代化に際して版籍奉還(1969年)、廃藩置県と藩債処分(1871年)、秩禄処分(1876年)を遂行して江戸幕藩体制の残滓を完全払拭出来なかった事に由来する)イタリアのファシズム」と上掲の様な構造を有するナチズムを混同可能な雑過ぎる心理状態自体が何だか分かりません。

肉体に思考させよ。肉体にとっては行動が言葉。それだけが新たな知性と倫理を紡ぎ出す」フランス式行動主義だから、そんな細部はどうでもいいのかも。何しろ下手をしたらオタクとネトウヨ安倍信者を分けて論じる必要性すら認めない人達なので(その粗雑さこそが「無限遠点への回帰」を志向しているエビデンスとも)…むしろ歴史上何度玉砕しても戦法を改めなかったフランス騎兵の潔さすら感じます。

あれ?「新たな知性と倫理を紡ぎ出す」話、何処いった? 実はフランス式行動主義が「新たな知性と倫理を紡ぎ出す」のは真逆の「無限遠点から出発して自分まで何かしらの補助線を引く想像活動」だけなんですね(画像操作に例えると低解像度画像を補完して高解像度画像に引き伸ばすプロセス。そして「無限遠点から出発」は「1ドットからの補完開始」に該当する)。実際ナチスによるユダヤ人迫害を経験したピーター・ドラッカーPeter Ferdinand Drucker, 1909年~2005年)も確かどれかの本で「ナチズムファシズムは過去志向に嵌った途端に精神的に破滅した」と述べていて、逆をいえばある意味彼の残したマネジメント術は「そうしたシュプレヒコールにあっけなく敗れる人類」への処方箋としても読めるとも。そう、まさに本来の抵抗者(Resistor)かくあるべしという…

そんな感じで以下続報…