重くてロードに時間が掛かり過ぎる過去投稿を五分割しました。私自身の音楽体験に基づく独断と偏見に基づいた1970年代~1980年代にかけての音楽シーンの分析…
坂本龍一プロデュースの「終曲(1980年)」を歌ったPhewの目には全く別の音楽シーンが映っていたと知って、全体像を再構築中です。
坂本龍一「Phewさんは僕より少し年下なんですけど、1980年頃、僕ら仲間と付き合っていて、僕がプロデュースしてEPをいっしょに作ったり、LIVEをして、結構、短い時間でしたけど、濃く付き合ったことがあるんですけど、その後、連絡が途絶えてしまって。」
“終曲”は1981年に出たんですけど、あの時代というのは私個人は苦しんでいたんですよ。閉塞感があったというか……。80年代という新しい時代のはじまりがほんとうに大っ嫌いでした。パンクは終わってしまった。世の中は浮かれている。だけどメジャーなレコード会社とかはヘヴィメタ・ブームが再燃していて、ムリヤリつくったニューウェイヴを業界レベルでもりあげていく。ものすごく敗北感がありました。それで2、3年くらいはひきこもりみたいな生活だった。
何が衝撃だったかって、Phewの立脚する「パンク」がマルコム・マクラーレンプロデュースした、それもニューヨーク・パンクの「New York Dolls( 1971年~1976年)」ではなくロンドン・パンクの「Sex Pistols(1875年~1978年)」だった辺り。
何しろこれまでの私の世界観ときたら…
- 確かに「セックス・ピストルズの商業的成功」こそがスティーヴン・ストレンジ(Visage,1978年~1985年)やミッジ・ユーロ(そのVisageからUltravox(1975年~1987年)に移籍してパンク魂を失わないままエレクトロPOPを盛り上げる)を音楽の道に進ませる契機にはなったのである。しかし彼らはパンク領域にはデビュー前の一時期滞在したに過ぎない(そしてSex Pistolsも早期退場した後、ロンドン・パンクのイメージを支えてきたのはジョー・ストラマー率いるThe Clash(1976年~1986年)だったのである)。
- またジョー・ストラマー(The Clash,1976年~1986年)やスティング(The Police)ほど音楽史上に爪痕を残した訳でもない。実際、英国音楽界における評価は基本的にトレヴァー・ホーンがプロデュースしたFrankie Goes To Hollywood(1980年~1987年)同様に「興行成績だけを目当てにプロデューサーが使い潰したイロモノバンド」といった感じであり続けている。
-
その一方でアレックス・コックス監督映画「シド・アンド・ナンシー(Sid And Nancy, 1986年)」は名作で私もリアルタイムでハマっている。
*アレックス・コックス監督といえばWarker(1987年)もパンク精神が貫かれていて良かった。
このアレックス・コックス監督全盛期に国際的にセックス:ピストルズ再評価の潮流が発生した。もしかしたらこの流れこそがブルーハーツ(1985年~1995年)台頭を後押ししたかもしれない(ただし彼らの音楽もどちらかというとThe Clash系だった)。その一方で実際にセックスアンドピストルズの売り出し方の影響を受けた遠藤ミチロウ率いるザ・スターリン(1979年~1985年)やJAGATARA(1879年~1990年)の様なハードコア・バンドにまでその影響が及ぶ事はなかったのである。ある意味「漂白」が完了した段階とも位置付けられる。
*スターリン同様、JAGATARAもリアルタイムに聞いていた訳ではなく、当時聞いてもハマったとは限らない。そう、当時の私は本格派のFishbornedrでなく軟派なAswadやLiving Colorを選好する様なタイプだったのである。
ところがPhewは(当時ザ・スターリンやJJAGATARA(1879年~1990年が分類されていた)こうした当時を振り返ってあえてセックス・ピストルズへの憧れを語るのです。その視野を取り入れるには全体構造の見直しが必要になってくるという…
そうか、この話は私にとっては「ジャングル不等式」の話の蒸し返しでもあるんだ…
その事に気付いた時点で以下続報…