諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【革命の現実】「人斬り以蔵」について。

以下の投稿を読んで「人斬り以蔵」を思い出した次第…

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戦えば無敵」のベルナドット様…

そして「今年の大河ドラマ」とは、これですね。

江戸時代末期の土佐藩郷士司馬遼太郎の小説名から「人斬り以蔵」の名でも知られる。諱は宜振(読みについては「よしふる」の他「たかのぶ」、「のぶたつ」等諸説あり不明)。幕末の四大人斬りの一人。

その生涯

土佐国香美郡岩村(高知県南国市)に、二十石六斗四升五合の郷士・岡田義平の長男として生まれる。弟に同じく勤王党に加わった岡田啓吉がいる。

嘉永元年(1848年)、土佐沖に現れた外国船に対する海岸防備に、父・義平が郷士として従事した記録が残る。それ以後城下の七軒町(現在の高知市相生町)に住むようになった。

武市瑞山(半平太)に師事し、小野派一刀流(中西派)の麻田直養(勘七)に剣術を学ぶ。安政3年(1856年)9月、瑞山とともに江戸に出、桃井春蔵の道場・士学館鏡心明智流剣術を学ぶ。翌年9月、土佐に帰る。万延元年(1860年)8月より、時勢探索に赴く瑞山に従って、同門の久松喜代馬島村外内らと共に、中国・九州で武術修行を行う。途中、以蔵の家が旅費の捻出に苦労するであろうと武市が配慮し、豊後岡藩の藩士に、以蔵の滞在と藩士江戸行の便への随行を頼んだ。武市と別れた以蔵は、岡藩で直指流剣術を学ぶ。

文久元年1861年5月ごろ、江戸に出て、翌年4月土佐に帰る。その間の文久元年1861年8月武市の結成した土佐勤王党に加盟。文久2年1862年6月、参勤交代の衛士に抜擢され、瑞山らと共に参勤交代の列に加わり京へ上る。

土佐勤王党が王政復古運動に尽力する傍ら、平井収二郎ら勤王党同志と共に土佐藩下目付の井上佐市郎の暗殺に参加。また薩長他藩の同志たちと共に、安政の大獄尊王攘夷派の弾圧に関与した者達などに、天誅と称して集団制裁を加える。越後出身の本間精一郎孫六大川原重蔵渡辺金三上田助之丞などの京都町奉行の役人や与力、安政の大獄を指揮した長野主膳の愛人・村山加寿江の子・多田帯刀などがこの標的にされた。村山加寿江は橋に縛りつけられ生き晒しにされた。このため後世「人斬り以蔵」と称され、薩摩藩田中新兵衛と共に恐れられた。

なお、一般的に「幕末の四大人斬り」と呼ばれる者達はみな、後年の創作物によって「人斬り」の呼び名が定着したものであり、以蔵は同時代の同志から「天誅の名人」と呼ばれていた。(ただし、以蔵は文久2年(1862年)10月12日、幕府に攘夷を迫るため京を出発した勅使一行に加わって、副勅使姉小路公知の護衛を務め、10月28日から12月7日まで江戸に滞在しており、11月15日に起きた多田帯刀殺害には関わっていない) 。

以蔵は瑞山在京時の文久3年(1863年)1月に脱藩して江戸へ向かい、2月より高杉晋作のもとで居候となる。3月高杉が藩の命で京へ赴くと、以蔵も京に滞在。同時期に高杉からの6両の借金を、勤王党員の千屋菊次郎が代わりに返済している。同志と疎遠になった後は、一時期坂本龍馬の紹介で勝海舟の元に身を寄せたが行方知れずとなり、後述する洛中洛外払いの際は脱藩者であることから無宿者として処断されている。その後八月十八日の政変土佐勤王党は衰勢となる。

元治元年(1864年)2月、商家への押し借りの科で犯罪者として幕吏に捕えられ、5月に焼印・入墨のうえ京洛追放処分となり、同時に土佐藩吏に捕われ土佐へ搬送される。

土佐藩では吉田東洋暗殺、および京洛における一連の暗殺に関して、首領・武市瑞山を含む土佐勤王党の同志がことごとく捕らえられていた。以蔵は女も耐えたような拷問に泣き喚き、武市に「以蔵は誠に日本一の泣きみそであると思う」と酷評されている。間もなく以蔵は、拷問に屈して自分の罪状および天誅に関与した同志の名を自白し、その自白によって新たに逮捕される者が続出するなど、土佐勤王党の崩壊のきっかけとなる。以蔵の自白がさらに各方面へ飛び火することを恐れた獄内外の同志によって、以蔵のもとへ毒を差し入れる計画まで浮上したが、瑞山が強引な毒殺には賛同しなかったこと、以蔵の親族からの了承を得られなかったこともあり、結果的には、獄の結審に至るまで毒殺計画が実行されることは無かった。慶応元年(1865年)閏5月11日に打ち首、獄門となった。享年28

  • 君か為 尽す心は 水の泡 消にしのちそ すみ渡るべき 」—岡田以蔵の辞世の句(保古飛呂比 佐佐木高行日記より

辞世は「君が為め 尽す心は水の泡 消にし後は 澄み渡る空」とする資料(寺石正路『土佐偉人伝』)もある。墓所高知県高知市薊野駅近郊の真宗寺山(しんしゅうじやま)にある累代墓地で、宜振の名で埋葬されている。

その人物像

以蔵については同時代資料も本人の書簡なども乏しいが、その性格・事跡については土佐勤王党関係の史料によって断片的に窺うことが出来る。

  • 以蔵の容姿に関して、土佐の牢番から「歯の反った奴(出っ歯)」と述べられている。
  • 現存する血盟書の写しからは、以蔵を含め吉村虎太郎池内蔵太らの名前が削られている。これは瑞山容堂に血盟書を提出する際、脱藩者や見せるのに差し障りのある人物の名前を省いたものだと考えられる。
  • 着牢時、以蔵が長州藩や吉村の事について牢番に大声で自慢話をしている様子が聞かれている。
  • 投獄後の以蔵は、拷問により暗殺に関与した仲間等を次々に自白し、これが土佐勤王党崩壊の端緒となる。以蔵の自白が引き金となり、まだ捕らえられていなかった同志が次々と捕らえられて入牢した事、吉田東洋暗殺の背後には山内家保守派層の関与が公然の秘密であった事から、お家騒動への発展を恐れて以蔵毒殺計画が仲間内で相談される。しかし強引な毒殺は瑞山島村寿之助らが止め、以蔵の弟で勤王党血盟者である啓吉に、以蔵の父から毒殺の許可、ないしは自害を求める手紙を寄越すよう獄外の同志に連絡を取らせる。これらの遣り取りの間に、瑞山の弟・田内衛吉は拷問に耐え切れず、兄に毒薬の手配を頼み自害、島村衛吉は拷問死した。獄中書簡に依ると、結局以蔵に毒は送られることなく結審を迎えたと考えられている。慶応元年3月25日岡本次郎書簡武市瑞山宛では以蔵に関して「是迄の不義、血を出して改心」と伝えており、自白を反省していた様子が伺える。
  • 土佐偉人伝』によれば、同囚中の志士・檜垣直枝が自白した以蔵を励まし「拷問の惨烈なるは同志皆はじめから期するところなり、子その痛苦に忍ぶあたわざれば、速やかにその罪を自白して、早く死地につけ、必ず同志の累をなすなかれ」と説得に当たっており、以蔵はこれにより慚憤したとなっている。
  • 以蔵は死刑言い渡しの際、瑞山によろしく伝えて欲しいと牢番に伝言を頼んだ。しかし、瑞山の手紙ではその厚顔無恥ぶりを呆れられている。なお勤王党の獄で以蔵の自白により真っ先に犠牲になった者は、武市の身内であった。
  • 土佐偉人伝』には、「天資剛勇にして武技を好み、躯幹魁偉にして偉丈夫たり。宜振、はじめ勇にしてあと怯なり。人みなこれを惜しむ。武市瑞山もまたその粗暴にして真勇なきをもって大事を謀らず、しかも少壮殺人を嗜みて人を斬る草の如く。その挙、おうおう常軌を逸す(中略)末路、投獄同志みな鉄石漢にして拷問の惨苦なるも忍んで一言を発せず、しかるに宜振、独りその苦痛に忍びず罪案を白状し累を同志におよぼし遂に勤王の大獄を羅織せしは遺憾というべし」と書かれている。
  • 維新土佐勤王史』には「血気の勇はついに頼むに足らず、全く酒色のために堕落して、当初剣客なりし本分を忘れ、その乱行至らざる所なく、果ては無宿者鉄蔵の名を以て、京都所司代に脆くも捕縛せられぬ」とある。
  • 以蔵が所有していたと見られるピストルが、以蔵の弟・啓吉の子孫の家に伝わっている。高知県立坂本龍馬記念館の説明によれば、これはフランス製で、勝海舟より贈られた物だという。ちなみに「ピストル」とは公開の折に称されたものだが、厳密にはリボルバーである。なお、当該短銃は個人所有の物を借用し公開された。
  • 以蔵の写真として出回っているものがあるが、その多くは岡田井蔵(おかだ せいぞう)のものである。実際の以蔵をモデルとした写真や肖像は伝存しない。

高知県護国神社にある、殉難した志士の為の顕彰碑『南海忠烈碑銘(1885年(明治18年)建立)』には顕彰を拒まれ、以蔵の名前は無かったが、2019年1月20日岡田以蔵顕彰会の尽力により刻印された。靖国神社にも合祀されず、贈位も行われなかった。死後118年となる1983年(昭和58年)になって、高知県護国神社に合祀された。

創作における人物像の変遷 

岡田以蔵を主人公にした最初の作品は真山青果『京都御構入墨者(1953年、未完)』、『人斬り以蔵(1958年)』となる。

  • 人斬り以蔵』はマルクス主義に強い関心を持つ青果による純粋な左翼劇であると指摘されており、以蔵が「利用され虐げられる存在」であるかのような実像と異なる被差別的なイメージの由来はこの作品に端を発している。

以蔵の人物像を決定づけたのが司馬遼太郎の「人斬り以蔵(1964年4月)」である。前述の真山の作品の特徴を踏襲している。

  • 以蔵に関しては、「獄中で差し入れられた毒入り弁当を食べたがケロリとしていたため、武市は土佐勤皇党の全同志を守るためやむなく毒薬そのものを以蔵に差し入れて暗に自決を促すが、以蔵はその毒薬を踏みにじり自白におよんだ」というエピソードが有名だが、これは司馬遼太郎の創作である。
  • 司馬版『人斬り以蔵』では、父は足軽で以蔵は他の同志より身分の低い最貧困層出身で軽んじられ、粗暴で余りにも教養・道徳心に欠けた人物とされ、武市から剣術の腕を買われて出世のために汚れ仕事(人斬り)を専門に請け負ったという描かれ方になっている。しかし研究者によると貧民ではなく一般的な郷士の子息としての教育は受けていたこと、天誅は複数の仲間と相談の上で協力し、また天誅希望者が殺到するほど競い合って行っていたことなどが判明している。

2010年大河ドラマ龍馬伝の放送によるイメージアップを機に、地域の史跡研究会有志などによる、以蔵のための慰霊祭が初めて開催される

  • 土佐藩出身の志士たちのために各地で慰霊祭が行われていたが、以蔵は自白で同志に累をおよぼしたことで維新後顕彰を拒否されており、加えて現在に至るまで人斬りとしての負のイメージがつきまとい、慰霊祭は行われてこなかった。
  • なお『龍馬伝』内における以蔵は、武市に従順な性格で、拷問に耐え最後まで自白しない人物として描かれている。

2018年スマートフォン専用RPGFate/Grand Orderに登場。若年層での認知度が高まった。

  • 本作では上述の創作および史実研究などを踏まえ、天才的な剣士でありながら自意識過剰で、坂本龍馬武市瑞山らへのコンプレックスを抱いて鬱屈し、粗野でありながらも子供っぽさを持った純朴な青年として描かれた。これにより今まで時代劇などに触れていなかった若い世代や女性層での認知度が高まった。

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  • 2013年に出版された伝記『正伝 岡田以蔵』が1ヶ月足らずで売り切れ、重版が決定するという結果に繋がった。これを受けて、本書の新たな帯には本作の岡田以蔵のイラストが掲載されるコラボレーションが行われた。なお『Fate』シリーズへの登場自体は2013年の『コハエースEX』が初出である。

まさしく歴史は奇なり…

裏切者」以蔵が悪目立ちしたのは、当時の幕末の志士にそういうタイプが珍しかったからですね。一方…

  • ニム・ウェールズアリランの歌(英語: Song of Ariran, 中国語: 我離郎之歌,朝鮮語: 아리랑,1941年)」によれば日韓併合(1910年~1945年)上海などの中国大都市に亡命した朝鮮人独立運動家の大半が「(仲間を可能な限り増やして群れたがる一方で)いざ逮捕されると、一人でも多く巻き添えにしようとして知ってる限りの仲間を官警に売る」スーパー以蔵タイプで、だからそれなりに名前を残せたのが「日本人の何倍も裏切者の朝鮮人同胞を殺し続けてきた」と豪語する「正体はほとんどギャング」の金九(根がギャングなので経済的に自活出来ており、その結果ライス・コミュニストにはならずに済んだ。とはいえ「タフでなければ生き残れない。タフなだけでは生き残る資格がない」とは某SNS上でとある韓国系アカウントも呟いている)や、仲間との連絡を一切絶った「一匹狼」タイプの安重根(朝鮮王朝からその存在すら否定された「間島占領軍」の敗残兵にして、事業に失敗して仲間から縁を切られていた)くらいしかいなかったのだという(ちなみにニム・ウェールズへのインタビューに答えた朝鮮人共産主義者張志楽も、こうした言及を残すくらいだから完全に後者タイプだったが(一時期爆弾テロで名を馳せた義烈団の残党)、最終的にはやはり朝鮮人同志の讒言により中国共産党に逮捕され拷問死している)。何とかギリギリ独立を守りつつ国体刷新を成功させた日本の幕末ですらその内実はかなりアレだった訳で、当時の朝鮮独立運動家の現実に至っては、遥かにもっとグダグダだったのである…

    金九は根がギャングなので経済的に自活出来ており、その結果ライス・コミュニストにならずに済んだ」…逆に当時ライス・コミュニストだった経歴が仇となって悲劇的最後を迎えた代表的人物が呂運亨となる。

その「人斬り以蔵」でさえ、いわゆる「プロレタリアート階層」出身者ではなかったのですね。ここで思い出すのが以下。

若き頃の毛沢東の農村研究論文の内容は以下であった。

  • 子孫繁栄を最優先課題と考えてきた伝統的富裕層(インテリ=ブルジョワ=政治的エリート階層)は教養の充実と経済的余裕を武器にどんな時代でも悠然と生き延びていく。そう、真の教養とは現状について何通りでも考え方を思い付く(およびその事によって状況への対応がより柔軟となり、選び得る選択肢も増える)その余裕(遊びの部分)の部分なのである。「周易」曰く「學則不固、過則勿憚改(学べばすなわち固ならず、過ちてはすなわち改むるに憚るなかれ)」である。

  • 新興富裕層は忠義心から自らの立身出世の足掛かりとなった現体制に殉じようとする傾向が強く、かつ(自らの出自であった筈の)貧困層への同情に欠けている場合が少なくない。その背景にはある種の「(自分の様に)働かざるもの、食うべからず」なる公正世界信念(Belief in a just world)が透けて見える。子孫繁栄の為に努力するモチベーションもあまりない。

  • 伝統的貧困層に革新を想起する余裕などない。ただひたすら現在を生き延びるのに精一杯で、あるべきだった過去あるべき未来観想する習慣自体がない(子孫繁栄、何それ美味しいの?)。逆に現政体への執着心も薄く、易経大人虎変、君子豹変、小人革面」における「革面する小人」とは、まさに彼らの様な人々を指す。

  • 従って革命が最初に動員するのは、常に富裕層から出発しながら没落を余儀なくされて階層的ルサンチマン精神の体現者となった人々である。
    *上掲の「日韓併合期の朝鮮独立運動家」もその大半はこの条件を満たしている。よくわからないのが経歴も異色な金九だが、その彼も自伝では自らの出自を「没落した残班の末裔」と自称している。

かかる「19世紀末中国農村の純粋な客観的観察」に立脚する観察結果集合(Ovservation Result Set)そのものには是非もないが、これから毛沢東が導出した「社会に対する操作」がおぞましい。

  • 従って革命が最初に目指すべきは匪賊の類を扇動して社会を安定させるインフラを破壊し尽くして没落階層をマジョリティ化させ、(それまで樹立してきた信頼関係を逆手にとって)かかる匪賊の類を討伐して彼らの忠義心を勝ち取る事である。

  • かかる「それまで社会を安定させてきたインフラの徹底破壊」が(無理な戦争の継続を含む)既存政体による失政、あるいは疫病の流行天災国際的経済恐慌によって引き起こされるなら手間が省けて良い。
    *「絶えず破滅を待望し続けている左翼」のイメージはこうした側面にも由来するのである。しかし肝心の正念場でグラムシ率いるイタリア共産党ムッソリーニ率いるファシスト党に、SPDNSDAPに敗北する。かかる歴史への反省からユーロ・コミュニズムは出発する事になる。

毛沢東が文化革命に紅衛兵が如何なる処遇を受けたかを思い出そう。要するにこの考え方の最も理想に近い運用結果があれなのである。

  • アッバース革命(750年)におけるシーア派不平層の使い捨てられ方も半端ではなく、こちらは「シーア派が全滅してHappy End」という終わり方をしなかったので、今日なお闘争が続いている。

20世紀末~21世紀初頭は、こうした「(良いところばかりでもない)革命のリアリティ」についてのコンセンサスが静かに世に広まっていく時期でもあったのです。

  • フランク・ハーバートデューン/砂の惑星(1965年~1985年)」では、かかる毛沢東原理を掲げるハルコネン家が悪として描かれるが、それを超越する政体として「全てを見通せる超人による独裁」なる薄っぺらな理想論しか語れず行き詰まった。


  • 一方、船戸与一の「赤いハードボイルド冒険小説」すなわち「山猫の夏(1984)」「神話の果て(1985年)」「砂のクロニクル(1991年)」「蝦夷地別件(1995年)」などはこうしたテーマに加え「人種差別される側に加担して、彼らもまた人を差別する場面に直面する」「政権交代後は応援に駆けつけた外国人革命家が危険分子として処分される」場面をきっちりと描き、善悪の境界線をあえて曖昧にし続ける事で作中の緊張感を高めた。しかし次第に革命にそうしたリアリティを求める読者自体が減少の一途を辿っていく。

  • その裏側では一体何が起こっていたのか? 1970年代から1980年代にかけては実際に学生運動の現場に立っていたオピニオン・リーダー達が運動としての革命継続の不可能性を認識して文化活動方面などに転戦していった時代だった。そしてその空隙を埋める形で、それまで傍観していた有象無象の第三セクター陣営が進出してきて「全ての戦果は我々の手になるものだった」と言い出す。こういう局面でよくある火事場泥棒の一種で「ナチ曽根打倒」の様な空虚なスローガンによって緩やかな一体感を確認する事こそが目的と考える様になり、始まりがそんなだから以降もずっとその状態に止まり続ける事になったのだった。

    こんなの到底進歩主義(Progressivist)の類を名乗り続けられる筈もなく、進歩主義者であり続ける事を諦めてしまった活動家(Activist)など社会にとって百害あって一利もないといえましょう。

こうして「インテリ=ブルジョワ=政治的エリート層」の最大の武器たる教養を失った21世紀メモリレスパヨクに未来などない?