前回の投稿の続き。さて、大日本帝国はベネディクト・アンダーソンいうところの「公定ナショナリズム国家」だったのでしょうか?
ナショナリズムの発生以前にあった共同体の代表としてアンダーソンが取り上げるのは、「宗教共同体」と「王国」という二つの文化システムです。
- この二つの共同体は「聖なる言語」とそれを読む文人を中心にして想像される共同体でした。「聖なる言語」は領土や民族にも限定化されません。つまり、その言語を学びさえすれば原理上誰でも「聖なる想像の共同体」に編入可能だったのです。
- また「時間の了解」形式も、当時と現代とでは違っておりました。「聖なる想像の共同体」における時間の了解形式は、当時のステンドグラス等を見れば感じられるように「円環的」でした。つまり当事において、過去の出来事は「歴史という原因・結果の数直線をたどって現在へとたどり着く」というようなものではなく、宇宙論と歴史とは区別不可能なものだったわけです。アンダーソンはこの観念を、ベンヤミンの言葉を借りて「メシヤ的時間」と呼びます。
ナショナリズムの発生と歴史的変化は、この二つの共同体と、それを構成する「聖なる言語」や「メシヤ的時間」という観念を掘り崩し「国民共同体」へと変貌させていく過程として描かれます。
- 時間の了解形式における「メシヤ的時間」から「均質で空虚な時間」への変化…これが「私有財産的言語」と結合して国民という観念が生まれ、ブルジョワジーと知識人を苗床として広まっていく。
- 「聖なる言語」の特権性が「出版語」によって相対化・領土化されていく変化…人文主義者の古典発掘と欧州の全地球的規模への拡大を背景として出版資本主義(Print Capitalism)と俗語ナショナリズムが政治利用される様になっていく。
フランス革命によって意識的に達成すべき「モデル」が形成されると、欧州各地で興隆した民衆ナショナリズムに対抗すべく「共同体が国民的に想像されるにしたがって、その周辺においやられるか、そこから排除されるかの脅威に直面した支配集団が、予防措置として採用する戦略」として公定ナショナリズムが登場。具体的な政策としては、国家統制化の初等義務教育、国家の組織する宣伝活動、国史の編纂などですが、それらを通じて「王朝と国民が一体であること」が際限なく肯定されました。要するに強制的な「国民化」政策が行われたのです。
実は同じテーマを扱ってる著作って結構多いのですね。
- カール・マンハイム(Karl Mannheim、1893年〜1947年)「保守主義的思考(Das konservative Denken、1927年)」…フランス革命と啓蒙主義思想とロマン主義思想に感化され、中世から続いてきたドイツ人の伝統的時空間認識が19世紀前半に「人間の幸福とは時代精神(Zeitgeist)ないしは民族精神(Volksgeist)とも呼ばれる絶対精神(absoluter Geist)と完全合一を果たし、自らの役割を得る事である」とするヘーゲル哲学などが形成された。
*実はヘーゲル哲学こそ公定ナショナリズム? ヘルムート・プレスナーによれば「出来上がってすぐそれは時代遅れになってしまった」との事。確かにそれくらい2月/3月革命(1948年〜1949年)以降のパラダイムシフトは激しかった。
-
ヘルムート・プレスナー「ドイツロマン主義とナチズム、遅れてきた国民(Die verspätete Nation. Über die politische Verführbarkeit bürgerlichen Geistes 1935年)」…同じく「キリスト教的救済史観」から出発しながら、それが「イデオロギー懐疑(Ideologieverdacht)」と「信仰の世俗化(die religios Verweltlichung)」によって次第に変質していき「自然淘汰圧」とか「適者生存の宿命」とか「生存圏確保の為の総力戦(負けた側が滅び去るのは自然の理)」みたいな似非生物学理論に援用された「民族生物学」に到達するまでを描く。
*その記述を信じるなら「(最後には神の審判が待つ)キリスト教的救済史観」を原型として「(最強の民族だけが生き残る)世界最終戦史観」が派生した展開だった事になる。そして世界は(日本も含めて)このローカルな発想に思いっ切り巻き込まれていくのである。
それでは大日本帝国の場合はどうだったんでしょうか?
時は、まさに「江戸幕藩体制解体期」。
- 大政奉還(1867年)
- 王政復古の大号令(1968年)
- 戊辰戦争(1868年〜1869年)
- 版籍奉還(1869年)
- 廃藩置県(1871年)
- 藩債処分(1872年)
- 秩禄処分(1876年)
- 士族反乱鎮圧(1874年〜1877年)
- 自由民権運動(1874年〜1890年)
さらには「総力戦体制時代(1910年代〜1970年代)」への狭間を埋める形で展開。山縣有朋(1838年〜1922年)とその「側近」達が生きたのは、まさにそんな時代だったのでした…
【山縣有朋】幕末期には高杉晋作が創設した奇兵隊に入って頭角を現し、後に奇兵隊の軍監となる。
【山縣有朋】明治5年(1872年)、陸軍出入りの政商・山城屋和助に陸軍の公金を無担保融資して焦げ付かせる(山城屋事件)。
- 山城屋の証拠隠滅工作により山縣に司法の追及は及ばなかったが、責任を取る形で明治6年(1873年)4月に陸軍大輔を辞任。
- しかし代わりの人材が見つからず同年6月に陸軍卿として復職。参謀本部の設置、軍人勅諭の制定に携わる。ちなみにこの時、山縣を救ったのは当時参議の西郷隆盛であったという。
- 明治2年(1869年)に渡欧し、各国の軍事制度を視察。
- 翌年アメリカ経由で帰国し、その後は大村益次郎の実質的な後継者として西郷隆盛の協力を得ることで軍制改革を断行、徴兵制を取り入れた。
- 一方、同じ長州閥で有力な対抗馬であった山田顕義は徴兵令施行等で山縣有朋と意見衝突。最終的に陸軍を去って日本の近代法の整備に専念する事になる。
【明治天皇】【山縣有朋】同年10月、明治六年政変。征韓論に端を発っした西郷隆盛の朝鮮使節派遣案が明治天皇への上奏の結果(岩倉具視の策動のせいで)無期延期となった事に抗議する形で当時の政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞した。
- 上奏が失敗に終わった10月23日当日に西郷隆盛が、翌24日に板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣が辞表を提出。25日に受理され下野した。また、桐野利秋ら西郷に近く征韓論を支持する官僚・軍人も辞職。更に下野した参議が近衛都督の引継ぎを行わないまま帰郷した法令違反で西郷を咎めず、逆に西郷に対してのみ政府への復帰を働きかけている事に憤慨して、板垣・後藤に近い官僚・軍人も辞職した。
*後世には「天皇が政治判断を下す先例をつくってしまった」という評価も。 - 一方、江藤新平によって失脚に追い込まれた山縣有朋と井上馨はこの事件を契機にすっかり息を吹き返し、政権中枢の空白を埋める形で勢力を回復。
【山縣有朋】同年9月21日(11月10日)、大久保利通が内務省を設立。
- 当初「あまりにも強大で、強力な権限を持ちすぎる」と批判していた木戸孝允も、明治7年(1874年)2月に佐賀の乱が勃発して以降は「士族の反乱に対抗するには、太政官による警察力の強化と中央集権の徹底が必要」と認め、内務省による積極的な士族反乱への対処と、さながら独立国化していた鹿児島県に、薩摩藩出身者以外からの県令を派遣することや、鹿児島県を太政官の方針に従わせることを要求するようになる。
- なお、木戸自身もまたお膝元の山口県で、明治9年(1876年)10月に勃発した萩の乱において反乱の首謀者であり、かつて徴兵令を巡って木戸と対立した経緯のある前原一誠を、萩の臨時裁判所で審理させ、極刑にしている。
- そして巡り巡って山縣有朋は、官僚懐柔を経てこの強力な省もまたその影響下に置く展開となるのだった。
【明治天皇】【自由民権運動】明治8年(1875年)4月14日、「立憲政体の詔書(明治8年政官第58号布告)」を発する。
- 五箇条の御誓文の趣旨を拡充して、元老院・大審院・地方官会議を設置し、段階的に立憲政体を立てることを宣言した。元老院、大審院、地方官会議ヲ設置シ漸次立憲政体樹立ノ詔勅、漸次立憲政体樹立の詔勅、元老大審二院を置くの詔などとも呼ばれる。
- 明治六年政変で下野した板垣は翌1874年(明治7年)、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣らと愛国公党を結成、有司専制を批判するとともに、民撰議院設立建白書を政府左院に提出して高知に立志社を設立する。この建白書が新聞に載せられたことで、運動が広く知られるようになった。 この建白書を巡って、民選議員を設立すべきかどうかの論争が新聞紙上で交わされる。 愛国社も翌1875年(明治8年)には全国的な結成に強化された。これが自由民権運動の端緒となる。
*以降、海外もTosaの動きに注目するほど土佐系の動きが活発化。
- 同年の1月から2月にかけての大阪会議において、明治政府の大久保利通・伊藤博文と、在野の木戸孝允・板垣退助・井上馨らとの間で合意が成立し、木戸・板垣の政府復帰と政治体制の改革が約束された。
- 同年3月、木戸・板垣は参議に復帰すると、大久保・伊藤とともに大阪会議の合意事項に基づいた政体改革案を作成し、太政大臣三条実美に提出した。そして、4月14日、この政体改革案を元にしたこの文書が、明治天皇の詔書の形で発表されたという訳である。
- 愛国社は板垣が参議に復帰した事や資金難によってすぐ消滅。また、後になり立志社が西南戦争に乗じて挙兵しようとしたとする立志社の獄が発生して幹部が逮捕されている。
- 江藤新平が建白書の直後に士族反乱の佐賀の乱(1874年)を起こし、死刑となっていることで知られるように、この時期の自由民権運動は政府に反感を持つ士族らに基礎を置き、士族民権と呼ばれる。武力を用いる士族反乱の動きは1877年(明治10年)の西南戦争まで続くが、士族民権は武力闘争と紙一重であった。
この意味において日本の自由民権運動は欧州大陸の市民運動より「在野の貴族」が主導したイギリスのジャコバイト運動に似ていたのかもしれない。
ジャコバイトの語源はジェームズのラテン名(Jacobus)である。イギリスで起こった名誉革命(1688年)の反革命勢力の通称。追放されたステュアート朝のジェームズ2世およびその直系男子を正統な国王であるとして、その復位を求めた。
- スコットランドやアイルランドやフランスといった反イングランド陣営の後押しを受けて18世紀一杯政権を動揺させ続けtが、ホイッグ党盟主ウォルポールの死を契機として起こった1745年の反乱以降は組織化されることはほぼなくなり、名誉革命転覆の危機はひとまず去った。
- 結果的に野党や反体制派を、名誉革命転覆を狙うジャコバイトとしてレッテル貼りをするという事態をまねき、かれらの封じ込めに利用された。ジャコバイトと見なされたトーリはもはやウォルポール政権に対抗しえず、ホイッグ対トーリという対決の図式はより複雑なものとなっていく。そして、議会内の対立構図はホイッグ対トーリからコート対カントリという図式も交え、複雑に交錯してゆく事になる。
コート(court)は宮廷を意味し、カントリ(country)は在野・地方を意味し、清教徒革命以降のイギリス議会の対立軸を説明する方法のひとつとして提唱されている。
- コート勢力は官僚・王室とパイプを保つことによって聖俗の官職(閑職とも)、年金などを取得した。一方、カントリ勢力は土地を所有するジェントリではあるが宮廷の恩恵には与れなかった。
- 清教徒(ピューリタン)革命では、国王大権の恣意的な行使によって恩恵に浴する議員と疎外された議員とに分かれ、それがコート対カントリの対立を生み、カントリが政権に叛旗を翻し、国王処刑に及んだという点から説明できる。
- ウォルポールの平和の時代では、ウォルポールによって大々的に買収、閑職の配分が行われ、圧倒的なコート勢力を形成した。こうした利権から自由だったカントリ側は、政治・宮廷の腐敗、「重税の元凶」となっている閑職の存在をきびしく攻撃した。
この対立概念は歴史上のいくつかの事象を説明するのに有効とされるが、ウィッグ対トーリ、ネーミア史学などの政治概念・理論も提唱されており、この便法によって全てが可能となる訳ではない。
- コート勢力は官僚・王室とパイプを保つことによって聖俗の官職(閑職とも)、年金などを取得した。一方、カントリ勢力は土地を所有するジェントリではあるが宮廷の恩恵には与れなかった。
ジャコバイト運動が成功しなかったのは、イングランドの人々がカトリックの君主を拒否し続けたせいでもあった。ジャコバイトのシンボルであるジェームズ老僣王らステュアート家の後継者はカトリック信仰を捨てようとしなかったが、こうした姿勢はイギリスでは到底支持され得ず、ジャコバイトをも落胆させたといわれている。
*日本人は滅多に意識しないが「自由論(On Liberty、1959年)」のジョン・スチュアート・ミルの「スチュアート」はこれ(血筋としてはスチュアート王家に連なるが、スコットランド長老派に属するプロテスタント)。それゆえに「古典的自由主義がジェントリー階層のストア哲学を母体に生まれた」流れがより自然に受容されている。要するに、さらなる源流に位置付けられる(フランス革命において貴族として処刑された)コンドルセと合わせ、清々しいまでの「臣民」。ただ彼らが絶対忠誠を誓ったのは国王ではなく数理だったともいわれている。またルイ14世以降のフランスにも、ジャコバイトを本格的に支援する熱意と余力がなかった。名誉革命以降、フランスは局地戦において豊かな戦闘経験を活かして勝利をえたことはあったものの、財政基盤がイギリスに比べてはるかに脆弱なので長期戦になるとすぐ息切れしてしまう。こうしてイギリスはアメリカ独立戦争を除いてフランスとの「第2次百年戦争」でおおむね勝利を手にしていくのだった。
英国においてこうした動きは「ジェントリー階層の中央取り込み」という流れにつながっていったが、日本では立憲政友会の「我田引鉄」政策に伴う在地有力者懐柔という形で展開。
- スコットランドやアイルランドやフランスといった反イングランド陣営の後押しを受けて18世紀一杯政権を動揺させ続けtが、ホイッグ党盟主ウォルポールの死を契機として起こった1745年の反乱以降は組織化されることはほぼなくなり、名誉革命転覆の危機はひとまず去った。
【山縣有朋】西南戦争(1877年)。官軍の事実上の総指揮を執ったため、さながら薩摩閥と長州閥の直接対決の様相を呈した。
明治11年(1878年)5月14日、紀尾井坂の変で大久保利通が暗殺される。
- 山縣有朋の影響力がまたもや相対的に高まる。
【自由民権運動】同年、愛国社が自由民権運動の拠点として再興される。
- 1880年(明治13年)の第四回大会で国会期成同盟が結成され、国会開設の請願・建白が政府に多数提出された。地租改正を掲げることで、運動は不平士族のみならず、農村にも浸透していった。特に各地の農村の指導者層には地租の重圧は負担であった。これにより、運動は全国民的なものとなっていった。
- この時期の農村指導者層を中心にした段階の運動を豪農民権という。豪農民権が自由民権運動の主体となった背景には、1876年(明治9年)地租改正反対一揆が士族反乱と結ぶことを恐れた政府による地租軽減と、西南戦争の戦費を補うために発行された不換紙幣の増発によるインフレーションにより、農民層の租税負担が減少し、政治運動を行う余裕が生じてきたことが挙げられる。
*かくして江戸時代から力を滋養してきた富農・富商階層の政治参加が始まるのであった。外征に参加しなかった英国貴族同様「民力休養」主義に立つが、それゆえに国民皆兵制下での立身出世を夢見る好戦的な小作人層と対峙。
- 実際交通事情が未整備な当時、各地の自由民権家との連絡や往復にはかなりの経済的余裕を必要としていた。これら富農層が中心となった運動だけに、政治的な要求項目として民力休養・地租軽減が上位となるのは必然であった。また、士族民権や豪農民権の他にも、都市ブルジョワ層や貧困層、博徒集団に至るまで当時の政府の方針に批判的な多種多様な立場からの参加が多く見られた。
- 民権運動の盛り上がりに対し、政府は1875年(明治8年)には讒謗律、新聞紙条例の公布、1880年(明治13年)には集会条例など言論弾圧の法令で対抗。
【明治天皇】【山縣有朋】【自由民権運動】明治14年(1881年)10月12日、「国会開設の詔(国会開設の勅諭)」。明治23年(1890年)を期して、議員を召して国会(議会)を開設すること、欽定憲法を定めることなどを表明した。官僚の井上毅が起草し、太政大臣の三条実美が奉詔。
- 自由民権運動興隆の状況を目にした参議の山縣有朋が、1879年(明治12年)、民心安定のために国会開設が必要だとの建議を提出したのをきっかけに、政府は参議全員に意見書の提出を求めたが、それに対し、伊藤博文は条約改正を視野に入れ、そのためには将来的に立憲政体の導入が必要だとの意見書を提出している。
- 1881年(明治14年)、開拓使官有物払下げ事件が明るみに出たことに対し、参議の大隈重信は新聞も用いて開拓使長官の黒田清隆を鋭く批判、早期の国会開設を主張した。
- イギリス流議院内閣制にもとづく憲法の制定と国会の一刻も早い開設を主張する大隈とドイツ流の君主大権をのこしたビスマルク憲法を範とすべきと主張し、国会開設は時期尚早であり立憲政体の整備は漸進的に進めるべきだとする伊藤が対立し、伊藤が大隈を政府から追放する事件(明治十四年の政変)に発展。
- これは大久保利通暗殺後の政府部内の主導権争いでもあったが、世論がこの事件に対して激化、民権運動はさらに高揚の様相を呈したため、政府は、近い将来の議会制度確立を約束して、運動の尖鋭化を抑えようとしたものである。
【自由民権運動/対外硬派】同年、明治十四年の政変
- 1880年(明治13年)に結成された国会期成同盟は国約憲法論を掲げ、その前提として自ら憲法を作ろうと翌1881年(明治14年)までに私案を持ち寄ることを決議。憲法を考えるグループも生まれ、1881年(明治14年)に交詢社は『私擬憲法案』を編纂・発行し、植木枝盛は私擬憲法『東洋大日本国国憲按』を起草した。1968年(昭和43年)に東京五日市町(現・あきる野市)の農家の土蔵から発見されて有名になった『五日市憲法』は地方における民権運動の高まりと思想的な深化を示している。
- こうした状況下、参議・大隈重信は、政府内で国会の早期開設を唱えていたが、1881年(明治14年)に起こった明治十四年の政変で、参議・伊藤博文らによって罷免されてしまう。一方、政府は国会開設の必要性を認めるとともに当面の政府批判をかわすため、10年後の国会開設を約した「国会開設の勅諭」を発表。これによって国会開設のスケジュールが具体的になったが、実は政府は「10年もたてばこの運動もおさまるだろう」と計算していたという。
- その後、国会期成同盟第三回大会(1881年)で板垣退助を党首とする自由党が結成され、政変により下野した大隈重信も1882年(明治15年)に立憲改進党の党首となった。
- 一方、明治十四年の政変によって、自由民権運動に好意的と見られてきた大隈をはじめとする政府内の急進派が一掃されたせいで、政府は伊藤博文を中心とする体制を固める事に成功し、結果的にはより強硬な運動弾圧策に乗り出す環境が整う事となった。
- また伊藤らは民権運動家の内部分裂を誘う策も行った。後藤象二郎を通じて自由党総理板垣退助に洋行を勧め、板垣がこれに応じると、民権運動の重要な時期に政府から金をもらって外国へ旅行する板垣への批判が噴出。批判した馬場辰猪・大石正巳・末広鉄腸らを板垣が逆に自由党から追放するという措置に出たため、田口卯吉・中江兆民らまでも自由党から去ることとなったのである。また改進党系の郵便報知新聞なども自由党と三井との癒着を含め、板垣を批判。板垣・後藤の出国後には自由党系の自由新聞が逆に改進党と三菱との関係を批判するなど状況は泥仕合の様相を呈していく。
- その一方で大井憲太郎や内藤魯一など自由党急進派は政府の厳しい弾圧にテロや蜂起も辞さない過激な戦術をも検討。また、松方デフレ等で困窮した農民たちも国会開設を前に準備政党化した自由党に対する不満をつのらせていた。こうした背景のもとに1881年(明治14年)には秋田事件、1882年(明治15年)には福島事件、1883年(明治16年)には高田事件、1884年(明治17年)には群馬事件、加波山事件、秩父事件、飯田事件、名古屋事件、1886年(明治19年)には静岡事件等と全国各地で「激化事件」が頻発。また、朝鮮王朝をクーデターで倒そうと計画した大阪事件もこうした一連の事件の延長線上に位置づけられている。なお、政府は1885年(明治18年)1月15日に爆発物取締罰則を施行。
- この間、1882年(明治15年)には板垣が保守主義者の暴漢に襲われている(岐阜事件)。また、1884年に自由党は解党し、同年末には立憲改進党も大隈らが脱党し事実上分解するなどして運動そのものが一旦挫折しかける展開に。
【明治天皇】【山縣有朋】明治15年(1882年)1月4日、明治天皇が陸海軍の軍人に勅諭「軍人勅諭」を下賜。
- 正式には『陸海軍軍人に賜はりたる敕諭』という。西周が起草、福地源一郎・井上毅・山縣有朋によって加筆修正されたとされる。
- 下賜当時、西南戦争・竹橋事件(1878年8月23日に近衛兵部隊が起こした武装反乱事件)・自由民権運動などの社会情勢により、設立間もない軍部に動揺が広がっていたため、これを抑え、精神的支柱を確立する意図で起草された。
近衛兵の反乱、竹橋事件とは? - 1878年(明治11年)10月に陸軍卿山縣有朋が全陸軍将兵に印刷配布した軍人訓誡が元になっている。
- 1948年(昭和23年)6月19日、教育勅語などと共に、衆議院の「教育勅語等排除に関する決議」および参議院の「教育勅語等の失効確認に関する決議」によって、その失効が確認された。
教育勅語等の失効確認に関する決議(第2回国会):資料集:参議院
【自由民権運動/対外硬派】明治15年(1882年)7月23日、壬午軍乱勃発
- 興宣大院君らの煽動を受けて、朝鮮の漢城(現ソウル)で起こった閔氏政権および日本に対する大規模な朝鮮人兵士の反乱。
- 真相は日本側にはほとんど報道されず。当時の日本は自由民権運動がその頂点に達していた時で、アジア諸国の連帯と協力を訴える議論まで生まれた。
【自由民権運動/対外硬派】明治16年(1883年)、安部井磐根・佐々友房・神鞭知常らが大日本協会を結成。
- 背景にあったのは明治政府が条約改正に際して採った欧化政策とそれに対する反発としての国粋主義の高揚である。彼らは「日本主義」を標榜して政府の外交方針と自由民権運動の民力休養路線の双方を批判して、強硬的な外交政策による不平等条約解消とその裏付けとなる軍事力の拡張を主張。「条約励行・自主外交・対清強硬」を掲げた。
*「条約励行」…この場合においては「対等条約の完全実施あるいは一切の外交関係断絶による鎖国状態への復帰以外の一切の条約改正は認めない」という意味での現行条約の維持を意味している。更に現行の安政条約を厳密に励行すれば、外国人は居留地とその周辺以外への外出は許されず、その行動にも重大な制約が加えられるため、日本での商取引その他の活動は実質困難となる。 - この動きに東洋自由党・同盟倶楽部・立憲改進党・国民協会・政務調査会の5党派がこ呼応し「日英通商航海条約締結の反対」・「清国への早期開戦」を掲げて共闘を約した。この6党を対外硬六派と呼ぶ。
- こうした動きは世論を日清開戦論へと動かす契機にはなったが、これらの政党は対外政策では一定の一致をみていたものの、国内政策では国粋主義的な大日本協会や国民協会から自由民権運動の中でも急進派である東洋自由党まで幅広い勢力を含んでいた為、政府あるいは衆議院第1党の自由党あるいは後に同党と伊藤博文系官僚勢力が合同した立憲政友会に対する批判でしか一致をみなかった。実際この勢力の主流は後の猶興会(のちの又新会)・進歩党・憲政本党・立憲国民党・憲政会と続く「反自由党」・「反政友会」の第2党勢力の母胎となっていく。
【自由民権運動/対外硬派】明治17年(1884年)12月4日、甲申政変勃発。金玉均・朴泳孝・徐載弼らの開化派(独立党)人士らの起こしたクーデターであったが、清朝の介入によって失敗に終わる。
- 記事はきびしく管制、一般国民は事の真相をまったく知らされず。事件の責任は朝鮮にはなく清にあるとの被害記事のみ。世論は反清感情一色。
- 『毎日』は戦争回避論だが、『報知』は強硬で太沽・天津をおとしいれよという武力解決論。自由党の『自由燈』も同じく主戦論、義勇兵が編成され、従軍・献金を申し出る者が続出。
【自由民権運動/対外硬派】明治19年(1886年)、井上外相による条約改正案での反対運動
- 明治16年(1883年)、井上馨外務卿は、内地を外国人に全面開放、治外法権を全廃、日本の法規を欧米諸国にならって完備、日本裁判所に外人判事を置き外国人が関係する事件には外人判事の数を多くする、との条約改正案をまとめ、列国会議に提出。
- 明治19年(1886年)5月、伊藤首相・井上外相の体制のもと、列国共同の条約改正会議で改正案を審議。内閣法律顧問のボアソナードは、この新条約草案は旧条約より甚だしく劣る、との意見書、谷干城農商務大臣も強硬に反対。
- さらにボアソナードや谷の意見書が民権派の手にも渡ると、新条約反対をとなえる建白書が元老院に殺到。7月29日に政府は条約会議の無期限延期。反対運動は、条約問題をこえて井上馨の欧化主義を基本とした外交政策そのものに対する転換・言論集会の自由・地租軽減を要求する内容に拡大した(三大事件建白運動)。
- 同年9月17日、伊藤総理は井上外相を更迭、12月末には内相が保安条例を改正して発動し民権家の逮捕や帝都追放などを実施する一方、改進党大隈重信の外相入閣を行うことで運動は沈静化させようとした。
【自由民権運動/対外硬派】明治20年(1887年)10月25日、ノルマントン号事件勃発。
- イギリス貨物船ノルマントン号が紀州大島沖で難船沈没、そのときイギリス人水夫などは助かったのに日本人乗客は一人も救助されず、イギリス領事は海事審判所でイギリス船長に無罪、という事件が発生。
- 当時の伊藤内閣は条約改正会議開催中で、本事件に消極的態度。ために民間側がこの事件を取り上げ、政府の腰抜け外交と批判。
【自由民権運動/対外硬派】明治22年(1889年)12月18日、大隈外相暗殺未遂事件
- 明治21年(1888年)11月大隈重信外相の下、メキシコとの間に治外法権も税権の制限もない対等条約を調印。
- 同年末から翌年にかけ列強との間にも新条約の締結交渉。列強との新条約案は井上案よりはるかに前進していたものの、依然ある程度の治外法権や税権制限を認めるものだったため、今度は国権主義者による反対運動が発生し民権派とも連携する形で建白運動が展開した。
- そして大隈外相が、国粋主義者の壮士(頭山満率いる玄洋社の社員)に爆弾を投げつけられ文字通り「失脚」する事件が発生すると、黒田内閣総辞職、条約改正は挫折してしまう。
- その一方で同年2月11日に制定された大日本帝国憲法に従って翌1890年(明治23年)に第1回総選挙が行われ、帝国議会が開かれたると、政府・政党の対立は議会に持ち込まれた。
【山縣有朋】【自由民権運動/対外硬派】明治22年(1889年)12月24日、長州出身の陸軍軍人としては初めて内閣総理大臣に就任(第1次山縣内閣)。日本最初の帝国議会に臨んだ。
- 条約改正交渉に失敗して倒れた黒田内閣の後を受けての成立。内閣職権を廃して内閣官制を導入し「大宰相主義」を否定して内閣総理大臣を「同輩中の首席」と位置づけた。なお、衆議院議員の閣僚が入閣したのは、本内閣が初めてとなる(陸奥宗光)。
- 第1回衆議院議員総選挙の実施(1890年(明治23年)7月1日)を手掛けるも対外硬派議員を多数擁する政党政治を嫌い、議会勢力と一貫して敵対(超然主義)。
- その一方で第1回帝国議会の施政方針演説において「主権線」(国境)のみならず「利益線」(朝鮮半島)の確保の為に軍事予算の拡大が必要と説き軍備拡張を進める。また府県制・郡制の導入などを行った。
*「郡区町村編成法」には江戸時代以来の町村区分を政府がやりやすいように再編成してきた結果、豪農達の権利や権限が抑制される形となっていたのを是正する意味合いがあったとされる。また「 府県会規則」は、それまで既に府や県レベルで議会を持っている行政区域が登場していたのを鑑みて、法令で全ての府・県にそれを認め、制度化したもの。後者には自由民権運動に熱狂する豪農や有力商工業者に府県議会議員となってもらって運動から身を引かせようとした政府の目論みもあったとされる。
【明治天皇】【山縣有朋】明治23年(1890年)10月30日、「教育勅語」を発布。
*とはいえ山縣有朋は、この展開にはほとんど関与していない。
- 正式には「教育ニ関スル勅語」という。発布までには様々な教育観が対立した。
- 学制公布(1872年)当初は文明開化に向け、個人の「立身治産昌業」のための知識・技術習得が重視された。しかしやがて政府は自由民権運動を危険視・直接弾圧し、また自由民権思想が再起せぬよう学校教育の統制に動く。
- 天皇側近の儒学者である元田永孚もまた、以前から儒教に基づく道徳教育の必要性を明治天皇に進言しており「仁義忠孝を核とした徳育の根本化」の重要性を説く儒教色の色濃い「教学聖旨(1879年)」を起草したり「幼学綱要(1882年)」を頒布したりしながら、自由民権運動・欧化政策に反対する天皇側近らの伝統主義的・儒教主義的な徳育強化運動を展開してきた。
- 直接の成立契機は、山縣有朋・内閣総理大臣の影響下にある地方長官会議が、同年2月26日に「徳育涵養の義に付建議」を決議し、知識の伝授に偏る従来の学校教育を修正して、道徳心の育成も重視するように求めたことによる。
- 以前から明治天皇も道徳教育に大きな関心を寄せていたこともあり、榎本武揚・文部大臣に対して道徳教育の基本方針を立てるよう命じたが、榎本はこれを推進しなかったため更迭され、後任の文部大臣として山県は腹心の芳川顕正を推薦。明治天皇は難色を示したが、山県が自ら芳川を指導することを条件に天皇を説得、了承させた。
- 文部大臣に就任した芳川は、女子高等師範学校学長の中村正直に、道徳教育に関する勅語の原案を起草させたが、山県が井上毅・内閣法制局長官にこの中村原案を示して意見を求めたところ、井上は中村原案の宗教色・哲学色を理由に猛反対する。
- 山県は、政府の知恵袋とされていた井上の意見を重んじ、中村に代えて井上に起草を依頼。井上は、中村原案を全く破棄し「立憲主義に従えば君主は国民の良心の自由に干渉しない」ことを前提として、宗教色を排することを企図して原案を作成した。
- 井上は自身の原案を提出した後、一度は教育勅語構想そのものに反対したが、山県の教育勅語制定の意思が変わらないことを知り、自ら教育勅語起草に関わるようになった。この井上原案の段階で、後の教育勅語の内容はほぼ固まっている。
- 儒教に基づく独自案を作成していた元田も井上原案に接するとこれに同調。井上は元田に相談しながら語句や構成を練り、最終案を完成した。
- 教育勅語が発表された翌年の1891年(明治24年)には、第一高等中学校の嘱託教員であった内村鑑三による教育勅語拝礼拒否(内村鑑三不敬事件)をきっかけに、各校に配布された教育勅語の写しを丁重に取り扱うよう命じる旨の訓令が発せられた。
- また、同年に定められた小学校祝日大祭日儀式規定(明治24年文部省令第4号)や、1900年(明治33年)に定められた小学校令施行規則(明治33年文部省令第14号)などにより、祝祭日に学校で行われる儀式では教育勅語を奉読(朗読)することなどが定められた。これ以後、教育勅語は教育の第一目標とされるようになる。
- その一方で、西園寺公望・文部大臣は、教育勅語が余りにも国家中心主義に偏り過ぎて「国際社会における日本国民の役割」などに触れていないという点などを危ぶみ、『第二教育勅語』を起草した(西園寺による草稿は現在立命館大学が所蔵)。もっとも、この構想は西園寺の文部大臣退任により実現しなかった。
- 治安維持法体制下の1930年代に入ると、教育勅語は国民教育の思想的基礎として神聖化された。教育勅語の写しは、ほとんどの学校で「御真影」(天皇・皇后の写真)とともに奉安殿・奉安庫などと呼ばれる特別な場所に保管された。また、生徒に対しては教育勅語の全文を暗誦することも強く求められた。特に戦争激化の中にあって、1938年(昭和13年)に国家総動員法(昭和13年法律第55号)が制定・施行されると、その態勢を正当化するために利用された。そのため、教育勅語の本来の趣旨から乖離する形で軍国主義の教典として利用される様になっていく。
- 第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) は、教育勅語が神聖化されている点を特に問題視し、文部省は1946年(昭和21年)に奉読(朗読)と神聖的な取り扱いを行わないことを通達した。その後、1948年(昭和23年)6月19日に、衆議院では「教育勅語等排除に関する決議」が、参議院では「教育勅語等の失効確認に関する決議」が、それぞれ決議されて教育勅語は排除・失効が確認された。
【山縣有朋】【自由民権運動】明治24年(1891年)5月6日、首相辞任。
- 軍備拡張予算が、かつての自由民権運動の流れを汲み、「民力休養・政費節減」を主張する民党の反感を買ったのが発端。
- 閣僚ながら民党とも親交のある農商務大臣陸奥宗光の説得、買収によって立憲自由党の一部(土佐派)が予算案に賛同したために、最初の予算案は通過したものの、政費節減政策の実施を受け入れざるを得なかった。
- こうした経過から議会終了後に議会運営に自信がないとして辞表を提出。
【近衛篤麿】【自由民権運動】同年12月、第2回帝国議会で樺山資紀海軍大臣が「蛮勇演説」。
freepaper「てんぷら web」 » Blog Archive » 第37回もう一度まなぶ日本近代史~初期議会、言うこと聞かないのなら予算は通しません~
- 薩長藩閥政府の正当性と民党批判を力説し、民党側の強い反発を引き起こして衆議院を解散させる一因となる。
- 空転した衆議院を初めて解散して行われた第二回総選挙では、品川弥二郎内務大臣が中心となって行った極めて大規模かつ徹底した選挙干渉の結果、弾圧された民党側に死者25名・負傷者388名を出すという空前の惨事になった。
- 近衛篤麿はこれをうやむやにすることを決して許さず、政府の姿勢を舌鋒鋭く追及し、さらに政党も猟官主義に走ればそれは単なる徒党にすぎないと、当時の政治には批判的であり、松方正義、大隈重信、山縣有朋、伊藤博文からの入閣の誘いを全て断ってる。
【近衛篤麿】明治25年(1892年)、貴族院の公爵議員として政治の世界に入る。
- 公家の中でも最高の家格をもつ五摂家筆頭の近衛家の当主だが、その出自とは裏腹に率直で剛腹な人となりで知られていた。以降明治37年(1904年)まで貴族院議長の要職を担ったが、当時の藩閥政府には常に批判的な立場をとりつづける。
*貴族院…概して非政党主義を取ったため政党には厳しかった一方で政府を窮地に陥れることもあり、独自性を発揮した。戦時下においても政党が軍部に迎合していったのに対して総じて冷静であり、絶頂期の東條内閣を議会で批判したのも貴族院であった。
貴族院 (日本) - Wikipedia
- 自らの地位や身分とそれが社会の中でどのような姿であるべきかを深く自覚しており、ヨーロッパの貴族社会を参考に、近代日本においても社会的に優越した立場にある華族が単に「皇室の藩屏」として存在するのだけではなく、政治や社会福祉などのより広範な分野で地位相応の役割を果たす義務を負うべきであること(ノブレス・オブリージュ)を早くから考えていた。
*ある意味英国のジェントリー制度に酷似した内容(すなわち御家存続を最優先課題に据えた功利主義)であり、だからこそ清朝(漢人)官僚からも理解者が得られたという次第。こうした清朝官僚らが内部で動いたからこそ辛亥革命(1911年)はあっけなく成功したが、当時の中国に「臣民意識」の発達はなく「(朝廷が滅べば臣も命運を共にする)臣」概念しかなかった事が1910年代における中国の不安定性、すなわち軍閥割拠状態への転落の伏線となっていく。 - そうした見地から、学習院(旧宮内省の外局として発足した官立学校)の院長として学習院が高い水準の教育機関であるようその組織を整備し、そのために必要な財源の確保と財務のあり方を確立することに尽力してきた。その学習院で学んだ華族の子弟が、やがては日本を支え、日本を世界に代表するような外交官や陸海軍人になることを望んだのである。
学習院 - Wikipedia
【近衛篤麿】明治26年(1893年)、東邦協会の副会頭に就任。
- その外交政策は、清朝を重視したものであった。そして特に日清戦争後、西欧列強が中国分割の動きを激しくしていく中で危機感を抱き、積極的に中国をめぐる国際問題に関わる様になっていく。
東邦協会 - Wikipedia
【山縣有朋】日清戦争(1894年〜1895年)。56歳にもかかわらず第一軍司令官として自ら戦地に赴き作戦の指揮をとった。
- 「敵国は極めて残忍の性を有す。生摛となるよりむしろ潔く一死を遂ぐべし」と訓示している。
- また当時自由党総理だった板垣退助の「日清戦争に際しての党員向け解発表(1894年12月16日)」が有名である。
*明治27年(1894年)7月25日、日清戦争が豊島沖海戦で始まると新聞はさかんに戦争熱を煽り立てたが、政治の中枢にあたった人間は戦争の長期化には警戒的であった。財政問題とロシア東漸が不安だったのである。戦争経費は当面は陸海軍予備費が充当されたが、来年度予算については議会の了解が必要であった。議会は夏場休会となっていたが、明治28年1月、第8国会が開催される予定であった。各政党(第1党は民党と呼ばれた自由党、第2党は官党国民協会、次は改進党であった)は、11月から12月にかけて、戦争にたいする意見を集約して8擁したが、中でも注目されたのが12月16日開催の自由党大会における板垣退助総理の見解発表だった。
「そもそも日清の戦争は、我国空前の挙にして、しかも空前の困難なり、しかれども東洋の形勢早晩この事変に際会するは吾人の久しく期する所にして、我が国威を宣揚して、東洋平和の長計を立てるは、実にこの時にあり、ゆえに征清の挙は、ここにやむに得ざるに出て、しこうして国民の異議なき所なり。
しかれども征清の師、初めて出しより、軍人は身命をいたし、国庫は資材を消費し、予備後備の兵および軍役夫等産業を廃するもの十数万なり。陸海には船馬を徴発し、公債に恂兵に、余族救恤に、すべて社会の常態を撹乱するもの勝れて数うべからず、ゆえをもって一国経綸の任にあたる者、ただその意を戦闘に馳せて後患の恐るべきを察せざれば、その結果は信に憂うべきものあるべし。
国家の軍国に処する、なお人身のその病に処するがごとし。政治家はその医なり、保養摂生、もってその漸衰を救わざるべからず。しこうしてこの戦後を善くするの策は、一にして足らざるべし。思うに退て消極のことを守るは、良謀に非ず。しかれども進て積極のとを取らんとするも、また財源許さざるを奈何ともするなし。
要するに、吾人は軽しく敵を恐れず、また軽しく敵を侮らず、慎重静粛に、交戦の目的を達し、また経済上の競争に一歩を譲るなきをもって期せんと欲す、今や日清交戦の時に際し、区々の異向をもって、全局の大事を誤るを欲せず。
官民一致、もって事に従うべし。しかれども古より戦勝歓喜威武の発揚に伴って、政治上権力の中央に集合して個人自由の侵融と見ることあらば、吾人は威力に屈せず、権勢を恐れず、我が自由平等の大義を発揚し、もって国家をしてこの過ちなからしめんことを勉むべし。国家多事、諸君請う努めよ」
*板垣退助57歳の発言である。自由党極左派は離脱しており、多数派の見解でもあった。第一次大戦のさいのヨーロッパ各国の自由党領袖の発言と比べてなんら遜色ないばかりでなく、あくまで戦争による権力集中を警戒するなどは、リベラルの本領をみせたものであろう。戦間期の日本の自由主義政治家と比較すれば、根性の違いも明らかだろう。国民はこのような板垣自由党をよく支持し、戦後の伊藤博文内閣は、板垣を内相に登用するしかなくなった。
明治28年(1895年)4月23日、三国干渉。
- ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世(在位1888年〜1918年)…三国干渉(1895年)や日露戦争(1904年〜1905年)の背後で暗躍。第一次世界大戦(1914年〜1918年)には皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(ハプスブルグ君主国)や「青年トルコ」エンヴェル=パシャ(オスマン帝国)と同盟して参戦。本国の革命によって亡命に追い込まれる。
オスマン帝国の第一次世界大戦参戦
【山縣有朋】明治28年(1995年)5月26日、元老となる。
- 以後は次第に陸軍・内務省・宮内省・枢密院等にまたがる「山縣系官僚閥」を形成していく。
- その一方で陸軍出身では桂太郎や寺内正毅、官僚出身では清浦奎吾や平田東助らの後ろ盾となって政治に関与するようになっていく。
清朝瓜分(1896年から1898年)。清朝が欧米により勢力分割された。
- それに続く戊戌の変法・戊戌の政変の騒動は、日本においても朝野の大きな関心事となったが、これによって康有為・梁啓超らが亡命することになる。既に清朝打倒の革命を唱える孫文らが既に日本を拠点に活動しており、日本政府は頭を抱える事になった。
- こうした問題を抱えながら、アジア主義の巨頭である犬養毅の東亜会は康・梁らの改革支援を主目標に掲げる。
【近衛篤麿】1898年(明治31年)1月、雑誌『太陽』第4巻第1号に論文「同人種同盟附支那問題の研究の必要」を掲載。
- 「最後の運命は黄色人種と白色人種の競争にして此競争の下には支那人も日本人も共に白色人種の仇敵として認められる位地に立たむ」とし日本と中国は同文同種と主張して同年に大陸での事業経営などの活動を目的として掲げる同文会を設立。その一方で民間諸団体を糾合し国家主義、アジア主義大同団結運動を企む。
*ここでもう「世界最終戦論」の萌芽が?
- 同文会は、アジア主義の祖たる興亜会(亜細亜協会、1880年設立)や東亜会、東邦協会、善隣協会の一部などを吸収して東亜同文会となり近衛篤麿が会長に就任。日清戦争・日露戦争後に清国に対して優越的立場を取り、なおかつ「支那保全(支那保全論)」を掲げて発足。中期アジア主義の代表的な機関となった。
*「興亜会(亜細亜協会、1880年2月)」…日清の友好・貿易を目的に掲げ榎本武揚・長岡護美・曽根俊虎らが組織。「たまごかけご飯を初めて食べた人物」として知られる岸田吟香も参加している。
- 東亜同文会は支那保全を掲げていたが、義和団の乱で井上雅二らによる連邦保全策が失敗してから新たに浮上した満州問題を廻って、対露強硬の姿勢を取る近衛篤麿と平和論を主張した陸羯南が対立する。東亜同文会の思想は近衛が康に述べたような「アジア・モンロー主義」に近い新秩序を志向するものとなった。
- また犬養毅が政府に活動資金を出すように働きかけ、外務省機密費で年に4万円が支給された。これにより、外務省の意向が会の役員人事にも影を落としていた半官半民の国策団体であった。
- 東亜同文会はアジア主義的色彩の強い立場に立脚し、中国・朝鮮の保護と日本の権益保護のため、外務省・軍部と密接に提携しながら、1900年(明治33年)に南京同文書院(後の東亜同文書院、その後身愛知大学)を設立するなど対中政治・文化活動の推進を企図。また、清朝内で強い権力を持つ地方長官の劉坤一(両江総督)や張之洞(湖広総督)などにも独自に接近、日清の連携をもちかけた。
東亜同文書院大学 (旧制) - Wikipedia - 日本政府は最初、康有為・梁啓超一派の亡命に対して協力的だったが、山縣内閣が北京政府の康・梁追放要求を求めたのに対して近衛篤麿がこれを受け入れ、康有為を自発的に離日させることとなった。この近衛の行為には陸を始めとして会の中からも大きな批判があり、陸のほか数名の脱会者が出た。このようであったから、東亜同文会は孫文の革命派に対する支援にも消極的になり、広東支部の廃止なども相次いだ。昭和21年(1946年)まで存続。
【山縣有朋】明治31年(1898年)11月8日、第2次山縣内閣発足。
- 自派の藩閥官僚を中心とした組閣。当初、地租増徴を実現させるために憲政党(自由派)と連携して地租増徴や日本興業銀行法を実現させたが、その後、同党からの入閣の約束を一方的に反故にする。
- それに続いた一連の施策はまさに、政党を政府から排して超然主義による国家運営を目指す内容だった。
【山縣有朋】明治32年(1899年)、文官任用令を改正。 文官懲戒令、文官分限令を公布。政党の影響力を削ぐ為の施策の一つ。
- 明治22年(1887年)に「文官試験試補及見習規則(明治20年7月25日勅令第37号)」制定に関与。当時は高等試験と普通試験の2本立てで、前者は奏任官、後者は判任官の登用を目的とした。
- 1893年の文官任用令(明治26年10月31日勅令第183号)制定に伴う改革によって「文官高等試験」が施行され、1899年には同令改正(明治32年3月28日勅令第61号)によって勅任官の政治任用が廃止されたため、勅任官の多くも高等文官試験合格者が占めるようになった。
- 試験に合格すれば、出自を問わず高級官僚に登用される(門閥や情実に左右されない)という画期的な試験であり、難度の高い試験であった。
- 第二次世界大戦後の1948年に廃止されたが、その機能は事実上、人事院の実施する国家公務員総合職試験(国家公務員I種試験)に継承されている。
第二次伊藤内閣において、それまで藩閥政府に対して敵対と吶喊をくりかえしていた民党を抱き込むことに成功した伊藤博文は、このような対立と反攻の構図がこのまま続けば、政局運営の安定を欠くと考えた。そこで、従来の政党を革正するために新党を結成しようという構想を抱いていた。
- そこへ渡りに船と現れたのが、憲政党の実力者・星亨である。憲政党は第二次山縣内閣と提携し、その与党となって政権運営に寄与していたが、その見返りとして星が閣僚の椅子の提供を山縣総理に迫ると拒絶された。それで星は提携断絶を宣言してそのまま、大磯にいる伊藤博文に憲政党の首領となることを懇請しに出かけたのである。
- 伊藤は憲政党党首の座を断った。なぜなら、伊藤がめざしているのは従来の政党の上に乗っかることではなく、新党を結成することによる、既成政党の革新だったからである。星は食い下がり、それならば憲政党が解散して、伊藤新党に大挙参加する考えを表明した。憲政党の面々もこれに同意して、7月8日、伊藤と憲政党が協力する旨の覚書が交わされた。
- だが、新党結成のために動いたのは、実は伊藤ではない。星亨とその懐刀の利光鶴松をはじめとする民党の一派(林有造、尾崎行雄、松田正久、長谷場純孝など)や、伊藤の盟友・井上馨、伊藤の右腕である伊東巳代治や金子堅太郎、伊藤に近しい西園寺公望、渡辺国武、伊藤の女婿の末松謙澄、そして官界出身の原敬などである。「いわば春畝(博文)公は据膳を突付けられて、箸を取るばかりの労をされるようなものだった」。かくして8月25日、芝紅葉館で、伊藤は新党創立の趣意書と綱領を発表した。翌日、帝国ホテルに創立事務所設置。
9月13日、憲政会は解党。党員名簿をそのまま創立事務所に送付した。15日、立憲政友会はこうして、発会式を行った。出席者1400名以上であったという。
【山縣有朋】明治33年(1900年)3月10日、治安警察法を制定。
- 政治結社・政治集会の届出制および解散権の所持、軍人・警察官・宗教者・教員・女性・未成年者・公権剥奪者の政治運動の禁止、労働組合加盟勧誘の制限・同盟罷業(ストライキ)の禁止などを定めた。
- 以降これを利用し、政治・労働運動などの弾圧が進められた。
【山縣有朋】【自由民権運動】同年3月29日、衆議院議員選挙法を改正
- 選挙権を得る条件を地租または国税15円以上納税から10円以上に緩和すると共に、小選挙区制から大選挙区制に改めた。市制を執行している自治体は、それぞれ独立した選挙区とし、都道府県の郡部でそれぞれ1選挙区とした。
- このため、東京・大阪・名古屋などを除く大部分の都市は人口が少なく、定数1の小選挙区となった。また、記名投票を秘密投票に改め、小学校教員の被選挙権を禁止した。
- 「デュヴェルジェの法則(小選挙区制は強大な政党が生まれやすい)」を検討し「死票が少なく中小政党でも議席を獲得しやすい大選挙区制の方が望ましい」と計算したとされる。超然主義の立場からすれば小党分立状態の方が議会の懐柔がしやすいからであった。
- また政党が農村部で発達し始めたことから、選挙区の組み替えや国税納付の資格を緩和することで、これまでの地盤を破壊しつつ中央政府や主要都市部の意向を反映した議員を生み出しやすくする狙いもあったとされる。
*超越主義の立場からは(後に政党政治を志向する)富農・富商層はあくまで対立勢力だった。 - もっとも、小選挙区が残ったこと、政党(政治)そのものが発展途上の時期であったことなどから、大選挙区制の下でも議席は大政党への集中が進む。
- 陸軍省官制及び海軍省官制を改正し「大臣(大中将)」「陸軍大臣及総務長官ニ任セラルルモノハ現役将官ヲ以テス」と定めた。
- 軍部を権力の淵源としていた藩閥勢力が、当時力を付けて来た議会・政党勢力の軍事費削減攻勢に対する処置として執ったものである。これ以後、大命降下があっても、軍部が現役武官の中から大臣候補を挙げなければ組閣できず、辞職して代わりの候補を出さなければ内閣を維持することも出来ない事になった。
- この規定によって、軍部の意向を抜きに組閣し、内閣を維持することは難しくなったが、当時この展開にはむしろ政党政治家が現実を無視して無謀な戦争に走るのを回避する避ける意味合いがあったと考えられている。
【山縣有朋】同年10月19日、首相辞任
- 超然主義化を前面に押し出したせいで衆議院を敵に回してしまい、政権運営が次第に困難になっってきた結果。義和団の乱後に憲政党が解党して伊藤博文らと立憲政友会を結成すると、政友会潰しを策して辞任に際して伊藤博文を後継に推している。
立憲政友会史 - なお、この第2次山縣内閣は閣僚の交代がない連続在任期間として日本国歴代内閣で最長となる711日間を数えている。
【近衛篤麿】【自由民権運動/対外硬派】同年、義和団の乱とロシア軍による満州駐留開始。これを契機に日清戦争後に一時的に沈静化していた対外硬派が再燃。
- これに強い危機感を抱いた近衛は政府元老の伊藤博文や山縣有朋らにロシアに対して強硬な姿勢を取るよう持ちかけたが一蹴された。そこで篤麿は犬養・頭山満・陸羯南・中江兆民ら同志を糾合して同年9月に国民同盟会を結成し、日本政府に対する批判をますます強めた。
- 国民同盟会は1902年に清とロシアの間で満州還付に関する露清協約が締結されたのを機に一旦解散されが、近衛のこの行動に対して国粋主義者や対外硬派は注目して、近衛の周辺に集まるようになっていく。
- さらに長岡護美に書簡を託し、満州を列国に開放することで領土の保全を図るよう、劉坤一や張之洞に働きかけた。張が特にこれに大きく触発され、劉とともにこの篤麿の案(根津一などがゴーストライターとして考えられるが)を清朝の中央に上奏し、採用を求めている。この時は却下されたものの、満州開放案はその後袁世凱も採用し、日露戦争(1904年〜1905年)後にはむしろ権益独占を図る日本に対する障害となった。
*皮肉にも第一次世界大戦(1914年〜1918年)が勃発すると欧州列強は総撤退。中国は「相対的に有利な立場を獲得した」日本と「不利を挽回する機会を狙う」アメリカやソ連と相対する展開に。
- 日露開戦論の高まり、戦後のポーツマス条約締結に反対する民衆による日比谷焼討事件などに影響を与えたとされる。
【近衛篤麿】【自由民権運動/対外硬派】明治36年(1903年)6月10日、「七博士意見書」が当時の内閣総理大臣桂太郎・外務大臣小村壽太郎らに提出される。日露戦争(1904年〜1905年)開戦に向けて世論を誘導した。
- 東京帝国大学教授戸水寛人、富井政章、小野塚喜平次、高橋作衛、金井延、寺尾亨、学習院教授中村進午の7人によって書かれた。
- 6月11日に東京日日新聞に一部が掲載され、6月24日には東京朝日新聞4面に全文掲載されている。内容は桂内閣の外交を軟弱であると糾弾して「満州、朝鮮を失えば日本の防御が危うくなる」とし、ロシアの満州からの完全撤退を唱え、対露武力強硬路線の選択を迫ったものであった。
- この意見書は主戦論が主流の世論に沿ったもので、反響も大きかったが、伊藤博文は「我々は諸先生の卓見ではなく、大砲の数と相談しているのだ」と冷淡だったという。
- なお、戸水は日露戦争末期に賠償金30億円と樺太・沿海州・カムチャッカ半島割譲を講和条件とするように主張したため、文部大臣久保田譲は1905年(明治38年)8月に文官分限令を適用して休職処分とした。
- ところが、戸水は金井・寺尾と連名でポーツマス条約に反対する上奏文を宮内省に対して提出したため、久保田は東京帝国大学総長の山川健次郎を依願免職の形で事実上更迭。このため、東京帝国大学・京都帝国大学の教授は大学の自治と学問の自由への侵害として総辞職を宣言した。このため、翌年1月に戸水の復帰が認められた(「戸水事件」)。
- 近衛篤麿は同年、玄洋社の頭山と平岡浩太郎や黒龍会の内田良平も名を連ねる対露同志会を結成。その一方で貴族院議長を辞任し、枢密顧問官に任命された。
- 対露同志会は、日露戦争開始に際してロシアとの早期開戦論を唱えて運動した日本のアジア主義・国家主義団体。会長は近衛篤麿・委員長は神鞭知常。同年ロシアが撤兵計画を中止すると、近衛やその周辺で活動再開の動きが高まり、対外硬同志会を結成、4月8日に上野公園梅川楼で大会を開いた。それから間もなく南佐荘や宣揚会などで近衛と接触していた戸水寛人らが七博士建白事件を起こすと、近衛らも活動を活発化させ、8月9日に神田錦旗館にて再度大会を開いて改めて対露同志会を旗揚げしたのである。だが、近衛は病中であり、その代理を行う責任者として元内閣法制局長官の神鞭知常を委員長とし、頭山満、内田良平、平岡浩太郎など右翼の大物や後の日露戦争で活躍する花田仲之助ら主戦論者の軍人を抱え、頭山ら7名の相談役を置いた。10月5日には歌舞伎座にて全国大会を開催して対露宣戦布告を求める上奏を行う決議をした。
【近衛篤麿】【自由民権運動/対外硬派】明治37年(1904年)1月1日、42歳の若さで死去(満40歳没)。
- 小川平吉と頭山らが篤麿を首班にした内閣をつくろうとしていた最中であった。中国に渡航した際に感染した伝染病アクチノミコーゼ(放線菌症)が原因。
- 近衛家の菩提寺である大徳寺(京都市北区)に葬られたが、多額の借財があり、頭山や五百木良三ら国民同盟会のメンバーが債権者を退散させたこともある。
近衛篤麿─東亜同文書院に込めた中国保全の志 | 国を磨き、西洋近代を超える - 同年2月6日に日本がロシアに宣戦布告した為、対露同志会は代表者不在と当初の目的達成を理由に解散となった。更に委員長の神鞭も戦争中の1905年6月21日に病死。だが残った幹部はポーツマス会議開催に際して対外硬諸派を結集して講和問題同志連合会を結成して、ロシアに対する譲歩に反対する運動を起こす。
【自由民権運動/対外硬派】明治38年(1905年)9月5日、「日比谷焼打事件」が勃発。
- 東京市麹町区(現在の東京都千代田区)日比谷公園で行われた日露戦争の講和条約ポーツマス条約に反対する国民集会をきっかけに発生した暴動事件。
- 同年のポーツマス条約によってロシアは北緯50度以南の樺太島の割譲および租借地遼東半島の日本への移譲を認め、実質的に日露戦争は日本の勝利に終わったが、同条約には日本に対するロシアの賠償金支払い義務はなかったため、日清戦争と比較にならないほど多くの犠牲者や膨大な戦費(対外債務も含む)を支出したにも関わらず、直接的な賠償金が得られなかった。その為に国内世論の非難が高まり、暴徒と化した民衆によって内務大臣官邸、御用新聞と目されていた国民新聞社、交番などが焼き討ちされる事件が起こった。なお、同事件では戒厳令(緊急勅令)も敷かれている。この事件に対する評価が対外硬派を分裂の方向に向かわせる展開となった。
- 自由民権運動の流れを汲みこの動きを評価する人々は、1905年に国民倶楽部を結成して「内に立憲主義、外に帝国主義」という標語を掲げて、普通選挙を行って正しい国民の声を政治に反映させることが国家の自主・独立の確立に必要であると主張するようになる。
- 逆に国粋主義の流れを汲みこの動きを国内における危機と見た人々は既に1900年に近衛篤麿が結成していた国民同盟会(1902年解散)の流れを汲む諸派に結集。国家主義の強化と国民への統制強化によって国民が一致団結して自主・独立を追求すべきであると提唱する様になる。
- 以降も対外硬派は辛亥革命、対米移民問題、第一次世界大戦などで再燃し続けるがこの分裂以降、その動きは大きな変質を経験する事になる。
- これを契機に山縣有朋が明治末期から大正初期にかけて相対的に発言力を増大したが、同時に反感反発も強まる。
伊藤博文はなまじヨーロッパ憲政史を本格的に勉強したせいで初期政党政治が如何に頼りにならないか熟知していた。それゆえに機が熟すまで自由民権運動の弾圧を続け、政党政治への移行が免れられない時期が搭載すると自ら政友会を組織して与党となしたので在野の自由民権運動家から「政党政治実現の上での最大の障壁」とまで目される様になったのである。
*信じられない事に大日本帝国は、僅か50年そこそこでイギリスが200年以上掛けて樹立してきた立憲君主制の導入に成功し、さらに収入制限のない普通選挙まで実現してしまった。当然無理をした箇所や至らなかった箇所は数えきれず、伊藤博文は責めを一身に負わされた感もある。その一方で、大隈重信は最初から「英国式議政」の理念の実践のみを主張し続け、そのせいで在野の自由民権運動家からもある程度までは「憲政の象徴」と評されていた。そして彼の肩を持つ者に言わせれば、伊藤博文はあくまで「明治14年の政変で彼を政界から追放した主犯」に他ならないのだった。
明治天皇からの信頼が厚かった伊藤博文の国葬は、明治元勲が一堂に会する空前絶後のイベントでもあり数多くの市民が参列に押し寄せたとされる。その意味では立派に「国民葬」の一種といえるが、良くも悪くも政党政治家としては殆ど評価されていなかった。ある意味立憲政友会の産みの親であったにせよ、育ての親はあくまで原敬と認識されていたという事である。
【自由民権運動/対外硬派】明治43年(1910年)日韓j併合
- 対外硬派残党が世論を主導した影響も小さくないといわれている。
- 大日本帝国武断派(寺内正毅・長谷川好道)…憲兵政治によって朝鮮総督府を牛耳り、陸軍懸案の「(朝鮮に駐留する)二個師団増設問題」を通す為に第二次大隈内閣(1914年〜1916年)を解散に追い込んで自ら超然内閣の首相に収まり、秘密予算を私物化して軍閥割拠下の中国において策動。米騒動(1918年)や3.1.事件(1919年)の「弾圧」責任をとらされる形で更迭された。
*「朝鮮総督府を牛耳る」…当時の新聞は「長州閥による朝鮮植民地化」と表現している。
【自由民権運動/対外硬派】明治44年(1911年)、小村壽太郎(第2次桂内閣外相)の交渉によって改正条約満期にともなって関税自主権回復。
- 新日米通商航海条約に調印し列国とも改正調印(条約改正の最終的決着を達成)。江戸幕府が安政5年(1858年)にアメリカ合衆国、ロシア、オランダ、イギリス、フランスと結んだ通商条約(安政五カ国条約)の不平等条件は全て撤廃された。これによって対外硬派は重要な論争素材を失った。
- そして辛亥革命(1911年)によって中華民国が翌年1月1日に成立。「軍部はこの展開を予期して日韓併合を後援した」とする説もある。
辛亥革命 - Wikipedia
【明治天皇】明治45年(1912年)7月30日、明治天皇崩御。
- 明治天皇が崩御した公式の日時は、1912年(明治45年)7月30日午前0時43分であり。同月の30日に刊行された号外でも「聖上陛下、本日午前零時四十三分崩御あらせらる。」とあり、『明治天皇記』でも、「三十日、御病気終に癒えさせられず、午前零時四十三分心臓麻痺に因り崩御したまふ、宝算実に六十一歳なり」とある。
- 7月、持病の糖尿病が悪化し、尿毒症を併発し、宝算61歳(満59歳)で崩御。天皇は明治45年7月11日の東京大学卒業式に出席しているが、気分が悪かった。侍医では、対応できなくなって、20日青山胤通と三浦謹之助が診察し、尿毒症と診断した。28日に痙攣が始まり、初めてカンフル、食塩水の注射が始まった。病や死などの「穢れ」を日常生活に持ち込まないという古い宮中の慣習により、また、天皇の寝室に入れるのは基本的に皇后と御后女官(典待)だけであり、仕事柄上、特別に侍医は入れるものの、限られた女官だけでは看病が行き届かないということで、天皇は自分の寝室である御内儀で休むことができなくなった。そして、明治天皇の居間であった常の御座所が臨時の病室となった。看護婦も勲5等以上でなくてはいけないので、5位以上の女官が看護した。
- 同年(大正元年)9月13日午後8時、東京・青山の大日本帝国陸軍練兵場(現在の神宮外苑)において大喪の礼が執り行われた。崩御からこの日までの約1ヶ月半もの間、宮中では様々な儀式が執り行われていた。澵大葬終了後、明治天皇の柩は遺言に従い御霊柩列車に乗せられ、東海道本線等を経由して京都南郊の伏見桃山陵に運ばれ、9月14日に埋葬された。なお、明治天皇大喪のためにしつらえた葬場殿の跡地には『聖徳記念絵画館』が建てられた。
- 明治天皇の崩御は世界各国で報道された。これは、維新によって世界に窓を開いた日本が、わずか四十五年の間に世界列強としての地位を確立し始めたことを意味する。天皇崩御の代表的論調は、望月小太郎が、明治天皇の一年祭に際して編纂刊行された『世界に於ける明治天皇』にまとめられた。各国別全二十八章二十余国からなり、そこには、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカはもとより、中国、インド、ベルギー、スウェーデン、ペルーなど世界各国をはじめ、ハワイ、ブラジルなど日系移民と関わりの深い国、在中国外国人の論調まで掲載されている。
- イギリスは「王朝の臣民として能く日本の君民関係は理解」、フランスは「血を以って革命を贖いたる国民なるを以って、神聖なる君主政体と立憲政体の一致とは不可能なる如し想像し、民主主義に重きを措くの先入観あり」、ドイツ、オーストリア、ハンガリーは「深奥なる哲理思想なる国民として多くは、大帝陛下の御治績を科学的分析的に研究」とした。ロシアは「沈痛懐疑の口調の中にも能く先帝陛下が常に恋々として平和を愛したる御真情を解得」、アメリカは「其建国の事情を異にし、自ら我が君臣の関係を知らず」さらに、フィリピンに対して、共和国でありながら明治天皇のために挽歌をつくり、「祖宗神霊の御加護を失ふ国民は滅亡すべしと謳える如きは最も味ふべき点」と述べ、また南米諸国も共和国であるが、「我が国体の崇高さ」や「先帝陛下の叡聖」などを「憧憬仰慕」として感心していると述べた。そして、トルコ、インド、ペルシャ、アフリカなどのいわゆる「有色人種」の間では「明治大帝は亜細亜全州の覚醒を促し給いたる救世主」と賞賛し、「侵略に対してきことして之を防遏」、「土民に事由制度を許した」と明治天皇を高く評価したことを特記した。日露戦争がその背景にはあったのだが、当時日本に併合されていた朝鮮などの論調は敢えて掲載されていない。またこれは、1926年(大正15年)12月の大正時代の終わりにあたっても再刊されており、明治という時代がいかに誇りであり、明治天皇の影響がいかに甚大であったかが分かる。
*ただ同時に、まさにこの瞬間から明治天皇の神格化が始まったという批判もある。
「『大日本帝国憲法』が一切の宗教的観念を排して,ただ皇室の機軸すなわち祖先祭祀にもとづく万世一系思想を表明した」「わが国における万世一系の考え方は,「皇位」と「天皇霊」の統合理念として救い主=王という観念を歴史的に内包してきた思想でもあった…政治的価値が呪術,宗教的心情へと無限に拡散し,また呪的狂熱がナショナルな政治的膨張論へとはげしく急上昇していく近代日本のエトスが,そこに萌芽しているのである」(山折哲雄『天皇の宗教的権威とは何か』河出書房新社,1990年)
【自由民権運動】1913年(大正2年)2月、大正政変。前年末からおこった憲政擁護運動(第1次)によって第3次桂内閣が倒れた。広義には第2次西園寺内閣の倒壊から第3次桂内閣を経て第1次山本内閣の時代までを指す。
- 明治末以来、藩閥勢力の代表で陸軍に近い桂太郎(長州藩出身)と立憲政友会の西園寺公望(公家出身)が「情意投合」のもと、交互に政権を担う慣例が続いていた(桂園時代、1901年〜1913年)。
- 明治天皇崩御(死去)直後の1912年(大正元年)12月、第2次西園寺内閣は日露戦争後の財政難から緊縮財政の方針を採る。しかし陸海軍は、帝国国防方針により、当面は陸軍が2個師団増、海軍が戦艦1隻、巡洋艦3隻を要求していた。1912年(大正元年)11月30日の閣議で、陸軍大臣上原勇作は増師を要求した。閣議の結果、増師計画が採用されず、それに対し、上原勇作は帷幄上奏権を利用して、単独で即位直後の大正天皇に直接辞表を提出した。1900年(明治33年)には山縣有朋は軍部大臣現役武官制を成立させていたため、陸軍は後任を送らず、西園寺内閣は総辞職に追いこまれる事態となる。
*そもそも増師問題は、当初は陸軍・政友会間での妥協が図られていたが、これを政権復帰の好機と見た桂・「桂園時代」により政権から遠ざかっていた薩摩閥両者の思惑が上原を強硬な態度へ導いたことで大きな問題となったのである。 - 元老会議は後継首相に桂太郎を指名したが、桂は半年前に内大臣兼侍従長になったばかりであり、この点に関して「宮中・府中の別」を乱すものとして非難の声があがった。また、財政に関心の深い財界からも軍閥の横暴に批判の声が高まり、さらに陸軍(山縣閥)による非立憲的な倒閣の策動や藩閥政治家の再出馬に憤る声が広汎に広がって、憲政擁護運動(第1次護憲運動)がはじまる。
*2度の内閣を組織し、明治天皇から強い信頼を得ていた桂太郎は、「桂新党」の設立と山縣系官僚閥を改革する新政策を模索していた。これは、自ら結成した新党を政権基盤とする政権を樹立し、政友会への依存からの脱却と山縣からの自立を企図するものであった。それを察知した山縣は、明治天皇崩御(死去)直後の1912年(大正元年)8月に桂を内大臣兼侍従長に押し込めて政治的引退を図る。一方の西園寺も、政友会の党務を事実上取り仕切り、地方利益の追求をすすめる原敬との確執を強めていた。 - 12月13日、東京の新聞記者・弁護士らが憲政振作会を組織して二個師団増設反対を決議し、翌14日には交詢社有志が発起人となって時局懇談会をひらいて、会の名を憲政擁護会とした。19日の歌舞伎座での憲政擁護第1回大会では、政友会、国民党の代議士や新聞記者のほか実業家や学生も参加し、約3,000の聴衆を集めて「閥族打破、憲政擁護」を決議している。12月21日、西園寺内閣が正式に総辞職して第3次桂太郎内閣が発足した。27日には、野党の国会議員や新聞記者、学者らが集まって護憲運動の地方への拡大を決めた。
- 翌年1月、「憲政擁護」を叫ぶ大会が各地でひらかれ、日露戦争後の重税に苦しむ商工業者や都市民衆が多数これに参加。21日、議会の開会予定をさらに15日間停会した桂内閣の処置により、かえって運動は加熱し、24日の東京での憲政擁護第2回大会はじめ、運動は全国的なひろがりをみせて一大国民運動となっていった。こうした動きに対し、桂首相は明治天皇の諒闇中(服喪期間)であるから政争を中止するように諭した大正天皇の詔勅(優詔)を受けてこれを乱発し、政府批判を封じた(優詔政策)。この間、立憲政友会と立憲国民党の提携が成立し、とくに立憲政友会党員の尾崎行雄や立憲国民党党首の犬養毅が中心となって活躍。
- 2月5日、再開された議会で政友会や国民党などの野党は内閣不信任決議案を議会に提出し、ただちに停会となった。このときの「彼らは常に口を開けば、直ちに忠愛を唱へ、恰も忠君愛国の一手専売の如く唱へておりますが—(中略)—玉座を以て胸壁となし、詔勅を以て弾丸に代へて政敵を倒さんとするものではないか」のフレーズで知られる尾崎行雄の桂首相弾劾演説が有名となる。
- 2月9日の憲政擁護第3大会は2万の集会となり、さらに、翌10日には数万人の民衆が議会を包囲して野党を激励、民衆示威のなかで桂は帝国議会の開会をむかえた。桂は議会解散を決意したが、解散は内乱誘発を招くとの大岡育造衆議院議長からの忠告により内閣総辞職を決意して、閣僚に辞表を書くよう指示し、再び停会を命じた。議会停会に憤激した民衆は警察署や交番、御用新聞の国民新聞社などを襲撃した。つづいて同様の騒擾は大阪・神戸・広島・京都などの各市へも飛び火した。
- 2月20日、桂内閣は発足からわずか53日で総辞職、「五十日内閣」と呼ばれた。後継の首相には海軍大将で薩摩閥の山本権兵衛が就いた。
- 同年10月、桂死去。護憲運動の最中の1913年(大正2年)1月、立憲政友会に対抗するため結成した「桂新党」(立憲同志会→憲政会)は立憲政友会とともに政党政治をリードすることになる立憲民政党の前身となる。
「大正政変(1913年)」で辞任を余儀なくされた桂太郎は、その8ヶ月後に胃ガンで死去した。日露戦争を勝利に導いた総理大臣であるにも関わらず、国葬をもって送られることはなかったが、増上寺で行われた葬儀の会葬者は数千人にのぼり、8ヶ月前に桂を倒したはずの民衆までも大挙して押し寄せたとされる。
- ここに「国民葬」の原点を見る事も出来る。また、まさにこうした経験が「大隈重信の国民葬」の原点となった可能性も捨て切れない。
- 問題はむしろ「大正政変=第一次護憲運動」で桂内閣を倒した護憲派議員側が胸に白薔薇の造花を付けて目印としており「(英国保守主義の象徴たる)ディズレーリ元首相の国民葬(1891年)」を契機に王国の藩屏たらんとする「本物の保守主義者(保守党議員だけでなく領主階層や小作人階層や労働者階層)」が結成した『プリムローズ・リーグ』を気取っていた形跡が見られる点にある。
*ただし「第一次護憲運動」はあくまで都市住民中心に展開した運動であり、全国各地の農村の名望家による支配体制まで揺るがした訳ではない。運動がその範囲まで広がるのは、あくまで第一次世界大戦特需による産業活性化とスポーツなどのレクリエーション活動の広がりを背景としてジャーナリズムの普通選挙キャンペーンが全国隅々まで伝わり、全国各地の青年会の間に様々な紐帯が生まれた十年後の第二次護憲運動の段階に入ってからである。
「第一次護憲運動」の実体がいかなるものだったにせよ、海軍の長老たる山本権兵衛を首相とする内閣が成立すると「護憲派議員」はこれに与した政友会系議員と「薩摩も閥族」とする国民党系議員に分裂する羽目に陥っている。そういう意味でも一定以上高く評価する事が許されない。
- ここに「国民葬」の原点を見る事も出来る。また、まさにこうした経験が「大隈重信の国民葬」の原点となった可能性も捨て切れない。
- 民衆の直接行動が内閣を倒した最初の事例である。藩閥政治の行き詰まりと民主政治の高まりを示すこととなり、これ以後、普選運動など大正デモクラシーの流れをつくっていった。松尾尊兌は、ここに始まる大正デモクラシーが一部の都市知識人による脆弱な輸入思想ではなく,戦後民主主義に直結する性質を有する、広汎な民衆運動であったことを説いている。ただ、当時は以下の様な批判もあった。
徳富蘇峰「大正政局史論(1915年)」
「要するに大正政変(民衆が蜂起して西園寺元老が庇う長州陸軍閥桂政権を倒し、それに続いた薩摩海軍閥山本政権もジーメンス事件で倒される)は、今まさに死なんとする藩閥勢力を一掃し、元老の勢力を蹂躙して去ったのである。その混乱の中で桂と政友会は共倒れとなり、政友会は山本と情死を遂げた。そして薩摩の海軍閥、長州の陸軍閥ともに勢力まで剥ぎ取られた結果、今や政界では中心どころか、その部分集合でさえ容易には見出せない。大隈と同窓会の様な残滓も、大正四年七月以降、人工呼吸によって辛うじて余命をつないであるに過ぎない」
「今さら大正政変を悔恨しても始まらないが、それはあたかも恐慌の如く全ての政治的団体の勢力を消亡させただけで、何者にも得をもたらさなかった。大隈内閣が精神的死を迎えて幾ら死に体に陥っても、それに取って代わる勢力が現れないのも、かかる存在の出来が容易でない状況だからである」
「日本帝国は偉大である。しかし。その偉大なる帝国は、如何なる勢力が代表しているのか。日本国民は偉大である。しかし、その偉大なる国民は、如何なる勢力が代表しているのか。今や藩閥も、元老も、陸軍も、海軍も、官僚政治家もない。しかして政党も、政党政治家もまだない。武権も文権もなく、さりとて所謂民権もない…」
- 「大正政変による一大平等化作用は、それが人間の不幸や嫉妬心に根差すもの故に一度噴出すると歯止めが効かなかった。もちろん状況によっては避けては通れぬ道だが、世弊を矯正する手段としては劇薬の部類に入る事だけは心得ておきたい」
- しかし、この時は意外にもジーメンス事件を契機に元老(大日本帝国憲法に規定のない明治維新の功績者の集団主導体制。1901年以降総理大臣を出さなくなり、以降守旧派の温床に変貌していった)と手を結んだ山縣系官僚(貴族院と内務省を中心に支配していた官僚中心の集団であり、自らが国民に不人気である事を承知していたので政党政治に絶対反対を唱えていた)が復活を果たし、大正5年(1916年)には大隈重信や政党政治家らを中央政界から追い払って純然たる藩閥政治の産物たる寺内内閣を誕生させてしまう。
- 実はその間にも立憲政友会は着々と官界に支持者を増やしつつあり(その開始時期はなんと日露戦争の頃まで遡る)、寺内内閣が米騒動(1918年)の鎮圧に際して「この政権は内地をも朝鮮同様に武断政治の統制下にに置こうとしている」と弾劾されて倒れると、即座にそれに代わって本格的な政党内閣が開始されるて展開となる。
そしてここまでの流れを築いてきた重要人物が大正11 年(1922年)になると相次いで亡くなる展開を迎えるのである。
- 「大正政変による一大平等化作用は、それが人間の不幸や嫉妬心に根差すもの故に一度噴出すると歯止めが効かなかった。もちろん状況によっては避けては通れぬ道だが、世弊を矯正する手段としては劇薬の部類に入る事だけは心得ておきたい」
- 軍事専門家としての見地から対外協調の重要性を認識しており、大正4年(1915年)の対華21ヶ条要求を厳しく批判している。
- その一方で「黄色人種に対して白色人種が同盟を組んで対抗してくるような事態を防ぐため、何か手段を講じることが非常に大切である」とも書いている。
- 戦勝国として南洋諸島のドイツ権益を引き継ぐなど日本の国際的地位も上昇したが、山縣はむしろ日本の急成長によって欧米人(とくに日本と同じく大戦を契機に急成長を遂げたアメリカ合衆国)が黄禍論をどんどん強めている事に不安に感じたという。
- ちなみに同時期、第一次世界大戦勃発に伴う欧州諸国の支援引き上げによって中華民国が経営破綻。政情不安が始まる。
中華民国の歴史 - Wikipedia
中華帝国(1915年12月11日〜1916年3月23日)。袁世凱が開闢を試みたが失敗。軍閥割拠時代が始まる。
- 「妖怪」袁世凱…日清戦争(1894年〜1895年)や辛亥革命(1911年)の背後で暗躍。実は義和団の乱(1900年)勃発の直接の原因を生み出した主犯でもある。1916年から1917年にかけて中華皇帝に即位した後に悶死。
袁世凱 - Wikipedia
中華帝国 (1915年-1916年) - Wikipedia
【自由民権運動】大正5年(1916年)10月19日、寺内正毅「ビリケン(非立憲)」内閣成立(〜1918年9月21日)
第2次大隈内閣の後を受けて山縣有朋の推挙によって擁立された。海軍大臣以外は全部山縣系という超然内閣であり、寺内が当時流行のビリケン人形にそっくりであったことと、「非立憲(主義)」をかけて「ビリケン内閣」とも呼ばれた。
- 当初、第1党の立憲同志会(後に憲政会を結成)と第3党の立憲国民党は野党の立場を取ったものの、第2党の立憲政友会は「是々非々」として政策次第であるとした。
- 翌1917年(大正6年)に、立憲国民党が提案して憲政会が呼応した内閣不信任上奏案の審議の場で、立憲国民党の犬養毅総裁が一転して政友会・憲政会両党を揶揄する演説を行ったことから両党の対立が煽られ、政府は詔書で衆議院解散を行った。
- その際寺内は「帝国議会は貴衆両院から成り、衆議院の決議だけで直ちに国民の世論とすることのできないのは言うまでもない。我が帝国は、欽定憲法の規定により、国務大臣の任免は全く大権によって定まり、いささかも外間の容喙を許すべきではない。(中略)英国の例に倣い、内閣は衆議院多数党の代表者が組織すべきことを主張するのは、我が憲法の規定に反し、至尊の大権を干犯するとともに、両院制度を無視するものである……」(1917年(大正6年)2月10日地方長官会議における首相訓示)と述べて超然内閣の正当性を主張。
- 第13回衆議院議員総選挙で勝利した政友会(第1党に躍進)と立憲国民党は多少の意見の相違はあったものの、与党を宣言したため、政局は一応の安定を見せた。寺内は政友会総裁の原敬と立憲国民党総裁の犬養毅を臨時外交調査会委員に任命してその取り込みを図った。
第1次世界大戦によって欧米が中国に目を向ける余裕が無くなった最中において、積極的に中国への介入を乗り出していく。特に従来の北京政府・中華革命党(後の中国国民党)両睨みの中立政策を放棄して段祺瑞の北京政府を支援する欧米もこれに追随。
西原借款(1917年~1918年)
- これを受けて北京政府が連合国として第1次世界大戦に参戦すると、日本と日支共同防敵軍事協定と呼ばれる軍事同盟を締結した。これはアジアでの戦闘がほぼ終わった段階での同盟であり、中国国民の疑惑を買って後の反日運動の一因となった。
- また、国内では金本位制の停止を始め、戦時中を理由とした軍備拡張などを推進。その一方で、欧米諸国からの西部戦線参加要求には応えず不信を買うことになる。
- 1917年(大正6年)にロシア帝国においてレーニンによる十月革命が発生すると、ロシア革命への干渉議論が湧き上った。当初寺内はウラジオストックに艦船を派遣して居留民保護に留める方針であったが、アメリカの誘いと外務大臣だった本野一郎の勧めでシベリア出兵に踏み切った。
シベリア出兵(1918年〜1922年)決定
- 1918年(大正7年)1月のウラジオストックへの艦隊派遣の頃から、シベリア出兵の噂によって米価が高騰し、各地で米騒動が発生した。寺内は軍隊を用いてこれを取り締まり、また言論統制を敷くも、これが却って世論の反発を買って全国的な反政府の動きに拡大する。
米騒動(1918年)鎮圧を口実としての寺内内閣更迭
与謝野晶子 食糧騒動について- 同年5月には三菱造船の会長に海軍中将武田秀雄が就任していたが、7月には徳山湾に停泊中の弩級戦艦河内で621名が死亡する爆発事故が発生した。
- 同年8月、大阪朝日新聞が政府を批判したところ編集者らが告発され、社長が右翼黒龍会に襲撃されるという事件も発生した(白虹事件)。
- この頃、既に体調を崩していた寺内は政権運営に自信を失い、9月、内閣総辞職を決定。後任は立憲政友会の原敬による原内閣となった。総辞職したのは1918年(大正7年)9月21日だが、次の原内閣成立まで職務を執行した。
さらに「三・一運動弾圧(1919年)」を口実としての朝鮮総督府内「武断派(長州閥)」が一掃される。そして後任として「文治派(内務省官僚)」が送り込まれた。
長谷川好道 - Wikipedia
歴史REALWEB : 第4回 長谷川好道と孫秉熙
2代 朝鮮総督 長谷川好道
大正18年(1919年)、板垣退助死没。その葬儀はそれほど盛大ではなかった。
明治33年(1900年)に伊藤博文が立憲政友会を創立すると、自らの結党した自由党党員はみんなそちらに移籍してしまい、それで政治的生命を絶たれる事になった。
そういう「最後」を遂げたのせいか、その死に際しても元党員や市民から思い出される事はなかったのである。
*そもそも土佐閥が薩長閥に政治的に敗れたのが大きい。彼が現役で活躍したのはまだまだそういう時代であった。
【山縣有朋】大正10年(1921年)、宮中某重大事件。裕仁親王(当時皇太子、のちの昭和天皇)の妃に内定していた久邇宮良子女王(後の香淳皇后)について、家系に色盲の遺伝があるとして、元老・山縣有朋らが女王及び同宮家に婚約辞退を迫った事件。
- 良子女王の兄・朝融王が、学習院の身体検査において色弱だったことが発見されたのが発端となった。元老の山縣らは、良子女王の家系が色盲の遺伝があるとして、女王及び久邇宮家に婚約辞退を迫った。
①背景として良子女王の母・邦彦王妃俔子は旧薩摩藩藩主の公爵・島津忠義の娘であったことから、「旧長州藩出身の山縣は皇室に薩摩の血が入るのを嫌っているのではないか」との憶測が主流を占めていた事が挙げられる。
②その一方で実際の発端は、同じ元老である西園寺が、当時注目されていた優生学の観点から、万世一系の皇室の遺伝に障害が生じる可能性を山縣に相談したことにあるともいわれている。
③また公家出身で幕末宮廷の内部事情に詳しい西園寺は、さらに久邇宮家の祖である久邇宮朝彦親王(旧中川宮)が八月十八日の政変などで政治的事件へ干渉したことなどに不快感をもっていたため、この婚儀によって久邇宮家の国政干渉が再現される可能性を危惧していたともいわれている。
④また、当時の徴兵制においては色覚異常のあるものは軍務に就くことができなかったため、陸海軍の形式的な「大元帥」となるべき皇太子に色覚異常が生じることを嫌ったという説もある。
しかしこのような事情が世間に伝わることはなく、かえって長州対薩摩の藩閥抗争であるかのように見られた側面があり、これを千載一遇の機会として反山縣派がその追い落としを計るという構図になった。 - 当時軍部と政界に隠然たる勢力を持っていた山縣による皇室への干渉は、宮中・政府・世間を巻き込んだ騒動になった。1920年(大正9年)6月18日に宮内大臣・波多野敬直が更迭され、これに代わって元満鉄総裁・中村雄次郎が色覚異常の真偽を確かめることになった。
- これを受けた当初は久邇宮家も辞退やむなしの動きを見せたが、当時病気療養中であった大正天皇に代わって天皇家の家長のような存在であった貞明皇后や、良子女王の父・久邇宮邦彦王、元老の松方正義や西園寺公望は婚約の破棄に反対を表明。また、頭山満など国粋主義の人間が同調したり「北一輝等が山縣を暗殺するべく刺客団を編成した」といった流言が広まった。
- 最終的には、当の裕仁親王本人の意向で婚約辞退は撤回となる。1921年2月10日、政府から「婚約は破棄されることはなくいずれ御成婚」と発表された。
- この事件で山縣の権威は大きく失墜し、一度は元老と爵位返上の意向も伝えられたが慰留された。
①山縣(長州)側が、宮中支配が弱まることを嫌って妨害を行ったとする通俗的解釈もあるが、この事件を収拾するために宮内大臣となった牧野伸顕(大久保利通の次男であり薩摩派に近い)がこの事件を覚えのために調査したが、山縣の陰謀であるという見方はとっていない。なお牧野は自らの責任でこの事件の後始末をつけたことにより大きく自信を持ち、力を失った山縣系官僚や首相に代わって宮中を掌握していく。②また、一貫して山縣との協調姿勢をとっていた当時の首相・原敬は、この事件でも婚約破棄に関して明確な反対を示しておらず、後の皇太子訪欧における対応とあいまって、国粋主義者から「君側の奸」とみなされるようになる。これが一部の過激派から暗殺の対象として狙われるようになり、原敬暗殺事件の遠因の一つとなった。
【山縣有朋】【自由民権運動】大正10年(1921年)11月4日、原敬暗殺事件
- 当時の首相原敬は京都で開かれる立憲政友会京都支部大会へ向かうために東京駅乗車口(現在の丸の内南口)の改札口へと向かっていたが、午後7時25分頃、突進してきた鉄道省山手線大塚駅職員中岡に短刀を右胸に突き刺された。原首相はその場に倒れ、駅長室に運ばれ手当てを受けたが、すでに死亡していた。突き刺された傷は原首相の右肺から心臓に達しており、ほぼ即死状態であったという。
*玄洋社など当時の右翼勢力と関係があったという説もある。右翼テロリスト五百木良三が犯行を予言していたことや、右翼が好んでいたとされる短刀での犯行手口などが根拠となっている。
東京では何ら式を行わない事が遺言されていたので、立憲政友会は「党葬」の意味を込めて11月7日党本部で告別式を行った。焼香のに並んだ人の列は200mを超え、正門付近は「平民宰相」を弔う無名の市民で埋め尽くされたという。実際の葬儀は盛岡で行われたが、盛岡市全体が歌舞音曲を慎む厳粛な雰囲気の中四万人の市民が集まったとされる。
- 多くの人間が「当時、まだ国民葬という言い方がなかっただけでその実体は充分に備えていた」と指摘している。
- 原敬は東北出身でありながら東北に優先順位をおかず、これは故郷の盛岡に対してさえそうであった。そういう部分における公私の区別が徹底していた人物でもあったが、地元の失望感は大きかったという話もある。
歴史のこの時点における日本は、まだまだ各農村の名望家さえ押さえればそれらの票を束ねる事が可能な時代であった。しかし、そうした体制の崩壊は早くも原敬が暗殺された直後より本格化が始まる「第二次護憲運動」の頃から始まっている。この認識のズレゆえに、日本はこれまで同様の状況下で英国保守党が如何にして人心を収攬していったかについて研究するのを怠ってきた。
*実際にはそれは「第二次護憲運動」だけでなく1930年代朝鮮における「プロムナード運動」と重なってくる動きであった。 - 多くの人間が「当時、まだ国民葬という言い方がなかっただけでその実体は充分に備えていた」と指摘している。
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原敬は明治33年(1900年)に伊藤博文が立憲政友会を組織すると、伊藤と井上馨の勧めでこれに入党し、幹事長となった。同年12月、汚職事件で逓信大臣を辞職した星亨に代わって伊藤内閣の逓信大臣として初入閣。
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政友会の結党前と直後の2度、貴族院議員になろうとして井上馨に推薦を要請している。一般には原は生涯爵位などを辞退し続け、その身を最期まで衆議院に置いてきたとされている。また、後年には貴族院議員を指して「錦を着た乞食」とまで酷評している。その原が貴族院議員を目指したのは、無官でいることからくる党内の影響力低下を懸念してのことといわれる。結局、星亨の後任となって入閣したため、貴族院入り問題は立ち消えになった。また、爵位授与に関しても実はこの時期に何度か働きかけを行っていた事実も明らかになっている(原自身が「平民政治家」を意識して行動するようになり、爵位辞退を一貫して表明するようになるのは、原が政友会幹部として自信を深めていった明治末期以後である)。
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明治34年(1901年)6月、桂太郎が組閣し原は閣外へ去るが同月に星が暗殺され、その後は、第1次桂内閣に対する方針を巡る党内分裂の危機を防ぎ、松田正久とともに政友会の党務を担った。また、地方政策では星の積極主義(鉄道敷設などの利益誘導と引換に、支持獲得を目指す集票手法)を引き継ぎ、政友会の党勢を拡大した。党内を掌握した原は、伊藤や西園寺を時には叱咤しながら、融和と対決を使い分ける路線を採って党分裂を辛うじて防いだ。しかし、原の積極主義は「我田引鉄」と呼ばれる利益誘導政治を生み出し、現代につながる日本の政党政治と利益誘導の構造をつくりあげることとなった。明治末期には原のこうした手法を嫌う西園寺との間で確執が生じている。
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日露戦争が始まった明治37年(1904年)12月、首相・桂太郎は政局の安定を図るため、政友会との提携を希望して原と交渉を行い、政権授受の密約を結ぶ。翌・明治38年(1905年)、桂内閣は総辞職し、明治39年(1906年)になって約束通りに西園寺公望に組閣の大命が下ると、原は内務大臣として入閣した。これ以降、桂と政友会との間で政権授受が行われ、「情意投合の時代」とか「桂園時代」と呼ばれる政治的安定期を迎えることになるが、原は出来る限り山縣有朋との関係を調整することに努力する一方で、徐々に山縣閥の基盤を切り崩して、政友会の勢力を拡大することも忘れなかった。
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明治44年(1911年)8月から鉄道院総裁。
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なお、原は後に第2次西園寺内閣と第1次山本内閣でも内相を務めている。内務大臣時代、藩閥によって任命された当時の都道府県知事を集めてテストを実施し、東京帝国大学卒の学歴を持つエリートに変えていった。大正3年(1914年)6月18日には大正政変の道義的責任を取るとして辞任した西園寺の後任として第3代立憲政友会総裁に就任。
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シベリア出兵に端を発した米騒動への対応を誤った寺内内閣が内閣総辞職に追い込まれると、ついに政党嫌いの山縣も原を後継首班として認めざるをえなくなった。こうして、大正7年(1918年)に成立した原内閣は、日本初の本格的政党内閣とされる。それは、原が初めて衆議院に議席を持つ政党の党首という資格で首相に任命されたことによるものであり、また閣僚も、陸軍大臣・海軍大臣・外務大臣の3相以外はすべて政友会員が充てられたためであった。
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原内閣の政策は、外交における対英米協調主義と内政における積極政策、それに統治機構内部への政党の影響力拡大強化をその特徴とする。原は政権に就くと、直ちにそれまでの外交政策の転換を図った。まず、対華21ヶ条要求などで悪化していた中華民国との関係改善を通じて、英米との協調をも図ろうというものである。そこで、原は寺内内閣の援段政策(中国国内の軍閥・段祺瑞を援護する政策)を組閣後早々に打ち切った。
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さらに、アメリカから提起されていた日本・アメリカ・イギリス・フランス4か国による新4国借款団(日本の支那への独占的進出を抑制する対中国国際借款団)への加入を、対英米協調の観点から決定した。第一次世界大戦の後始末をするパリ講和会議が開かれたのも、原内閣の時代だった。この会議では、アメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンの提唱によって国際連盟の設置が決められ、日本は常任理事国となった。しかし、シベリア出兵についてはなかなか撤兵が進まず、結局撤兵を完了するのは、原没後の大正11年(1922年)、加藤友三郎内閣時代のこととなった。
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内政については、かねてから政友会の掲げていた積極政策、すなわち、教育制度の改善、交通機関の整備、産業及び通商貿易の振興、国防の充実の4大政綱を推進した。とりわけ交通機関の整備、中でも地方の鉄道建設のためには公債を発行するなど極めて熱心であった。
*このうち「交通機関の整備」の部分が星亨の「我田引鉄」継承に関連する。 -
また、教育政策では高等教育の拡張に力を入れた。大正7年(1918年)、原内閣の下で「高等諸学校創設及拡張計画」が、4,450万円の莫大な追加予算を伴って帝国議会に提出され可決された。その計画では官立旧制高等学校10校、官立高等工業学校6校、官立高等農業学校4校、官立高等商業学校7校、外国語学校1校、薬学専門学校1校の新設、帝国大学4学部の設置、医科大学5校の昇格、商科大学1校の昇格であり、その後この計画はほぼ実現された。これらの官立高等教育機関の大半は、地方都市に分散設置された。また私立大学では大正9年(1920年)に大学令の厳しい要件にも関わらず、慶應義塾大学、早稲田大学、明治大学・法政大学・中央大学・日本大学・國學院大學・同志社大学の旧制大学への昇格が認可され、その後も多くの私立大学が昇格した。
*こうした高等教育拡張政策は第一次世界大戦の好景気を背景とした高等教育への、求人需要、志願需要の激増に応えたものである。そして高等教育拡散は高等遊民の増加を招き、皇室への危険思想につながるとしてこれに反対した山縣有朋を説得したものであった。 -
さらに、軍事費にも多額の予算を配分し、大正9年(1921年)予算は同6年(1917年度)予算の2倍を超える15億8,000万円にまで膨れ上がった。多額の公債発行を前提とする予算案には野党憲政会、貴族院から多くの反対意見が上がった。
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また原は、地方への利益還元を図って政友会の地盤を培養する一方で、同党の支持層に見合った規模での選挙権拡張を行っている。大正8年(1919年)には衆議院議員選挙法を改正し、小選挙区制を導入すると同時に、それまで直接国税10円以上が選挙人の資格要件だったのを3円以上に引き下げた。翌年の第42帝国議会で、憲政会や立憲国民党から男子普通選挙制度導入を求める選挙法改正案が提出されると、原はこれに反対して衆議院を解散し、小選挙区制を採用した有利な条件の下で総選挙を行い、単独過半数の大勝利を収めた。
*とはいえこうした展開の結果、選挙権は成年男子の四人に一人まで行き渡った。その一方でこうして生じた票を全て政友会に引き込む為に「我田引鉄」と呼ばれる鉄道を利用した利益誘導政治を生み出し、これが現代につながる日本の政党政治と利益誘導の構造に継承される事となる。 -
首相就任前の民衆の原への期待は大きいものだったが、就任後の積極政策とされるもののうちのほとんどが政商、財閥向けのものであった。また、度重なる疑獄事件の発生や民衆の大望である普通選挙法の施行に否定的であったことなど、就任前後の評価は少なからず差がある。普通選挙法の施行は、憲政会を率いた加藤高明内閣を待つこととなる。
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原は政友会の政治的支配力を強化するため、官僚派の拠点であった貴族院の分断工作を進め、同院の最大会派である「研究会」を与党化させた。このほか、高級官僚の自由任用制の拡大や、官僚派の拠点であった郡制の廃止、植民地官制の改正による武官総督制の廃止などを実施し、反政党勢力の基盤を次第に切り崩していった。しかし、一方で原は反政党勢力の頂点に立つ元老山縣有朋との正面衝突は注意深く避け、彼らへの根回しも忘れなかった。このように、原は卓越した政治感覚と指導力を有する政治家であった。
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帝国議会の施政方針演説などにおける首相の一人称として、それまでの「本官」や「本大臣」に変わり「私」を使用したのは原敬が最初である。それ以後、現在に至るまで途絶えることなく引き継がれている。
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原の政治力が余りに卓抜していたために、その暗殺後政党政治は一挙にバランスを失ってしまった。政友会の前総裁で、原との間にも確執があった西園寺公望は、原の死の一報を請け「原は人のためにはどうだったか知らぬが、自己のために私欲を考える男ではなかった」と述べている。
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既に病床にあった山縣有朋は原の死に衝撃を受けたあまり発熱し、夢で原暗殺の現場を見るほどであったという。その後「原という男は実に偉い男であった。ああいう人間をむざむざ殺されては日本はたまったものではない」と嘆いている。
【山縣有朋】大正11年(1922年)2月1日、失意のうちに肺炎と気管支拡大症のため小田原の別邸・古稀庵で逝去。83歳没。
- 1か月前に病没した大隈重信の葬儀が国葬ではなく「国民葬」とされ、多数の民衆が集まったのと比較すると、山縣の葬儀は閑散としたものだった。東京日日新聞は、山縣の国葬を「大隈候は国民葬。きのうふは〈民〉抜きの〈国葬〉で幄舎の中はガランドウの寂しさ」と報じている事になる。
大正11 年(1922年)に「大隈重信の国民葬」が開催されるまでの流れは以下であった。
- 明治34年(1901年)以降、西園寺公望と二人で「桂園時代」を現出させた桂太郎首相は、衰退する一方の元老勢力から距離を置き、政党政治を嫌う山縣系官僚からの独立を果たすべく第三次桂内閣(1913年)において立憲同志会の結党を目指した。しかし大正政変(1913年)で辞任を余儀なくされ、間もなく本人も亡くなってしまう。
- 立憲同志会自体は存続し、第2次大隈内閣(1915年)で与党となったが、やがて山縣系官僚や元老が逆襲に出て大隈重信と政党政治の追放に成功し、大正5年(1916年)には政党政治色を一切含まない寺内内閣の誕生を許す事になる(その後、立憲同志会は反立憲政友会系諸派を糾合して憲政会を結党)。
- その寺内内閣が「米騒動(1918年)」を収拾出来ず倒れて成立したのが日本史上初の政党内閣となった原政権であったが、彼の率いる立憲政友会は大正10年(1921年)の原敬暗殺で大きな打撃を受ける。その翌年に行われたのが「大隈重信の国民葬」であり、日比谷公園で「十余万人(報知新聞)」の一般市民が参列する未曾有の葬送となり、さらに会場だけでなく沿道にも多数の市民が並んで大隈との別れを惜しんだとされる。
- この時、大隈重信の棺は霊柩自動車に載せられて日比谷に運ばれた。霊柩自動車の普及が始まった契機の一つとされる(大阪にあった「駕友」という葬儀屋を経営する鈴木勇太郎が1917年に考え出したのが嚆矢で、昭和初期には主にアメリカのパッカードを改造したものが広く使われた)。
- 日本で「国民葬」という表現が用いられたのはこの時を嚆矢とする。そもそもはイギリス自由党の指導者で、元首相のグラッドストンの葬儀の際にロンドン市民が参列した先例に倣ったとされた。
- しかし実は、彼らがモデルに選んだ「英国自由主義の象徴たるグラッドストーンの国民葬(1898年)」とは、1880年の選挙法改正による労働者票の急増を受け、イギリス保守党がイベント化した「英国保守主義の象徴たるディズレーリ元首相の国民葬遂行と、彼の遺志を継いで王国の藩屏たらんとする有志者達による『プリムローズ・リーグ』結成(1891年)」の先例に倣ったものに他ならなかったのである。
- 両者の間にある20年近い時間差は、自由党がこうした動きを茶番としか見ず、その期間ずっと保守党に票を奪われてきた事を意味する。そのツケはあまりにも大きく、結局自由党は保守党がボーア戦争問題で自滅する20世紀初頭まで優位回復を果たす事は出来なかった。
ところで伊藤博文より政友会主導者の立場を継承した「平民宰相」原敬その人は、政治上のライバルでもあった大隈重信について「明治14年の政変での失脚、条約改正問題の扱いに失敗しての失脚、第一次大隈内閣(隈坂内閣)の崩壊と失敗を重ね、日露戦争時は早くから対露強硬論で国民を扇動して日本政府の選択肢を狭め、第二次大隈内閣では二十一ヶ条要求で下手を打って日中親善を損ね、最後は大正天皇を政治に巻き込んで憲政を危うくしかけたろくでもない政治指導者」と評していた。原はそもそも貴族院議員を「錦を着た乞食」と酷評して無官のまま衆議院に留まり続け、遺言で国葬をも拒絶する程徹底して国民の側に留まり続けた政党政治家である。大隈重信の様に位階を授けられたり勲章を拝領したりする都度無邪気に喜んでみせる俗物はどうしても虫が好かなかったのであろう。
- むしろその俗物性を国民は愛したとする説もある。「彼、大隈の如きは、むしろ通俗、野気ある成金趣味にて、決して高雅、崇麗なる真成の貴族的趣味に非ず。しかしこれこそが却って彼の大正時代の平民民的代表者たる所以にあらずや。およそ日本国中を見渡すに、大隈の如く饒舌なるはなく、また無責任の言論を弄する者はなし…されど彼を社会に繋ぐ大綱はまさにこの長広舌にあるなり。彼の出鱈目の言論は、青年を随喜せしめ、愚物を嘆服せしめ、凡夫を感心せしめ、時としては社会に大波動を起こす原因となる…かくの如く彼、真面目なる政治家としての欠点は、かえって平民主義の大先達たらしむる因縁となれり(徳富蘇峰「大正政局史論(1915年~1916年)」)」。
- その大隈重信が手塩に掛けて育てた早稲田学生からして、こんな感じであった。「我らの総長、大隈重信の底の抜けた性格が当時の学生の憧れの的であった。彼らは愛国の志士でも、憂国の壮士でもなく、ただ口を開けば天下国家を論じるのである。それは彼らにとって空腹を満たすに等しきものであった…政変が起こると寄宿舎の一室に集まって(こういう時は政治科も文科も理工科もいっしょくたである)口角泡を飛ばしながら激論を開始する。次の内閣は何党にやらせるとか、総理大臣は誰、内務大臣は誰と仲間同士の名前を勝手放題に挙げてまくし立てているうちに、本当に組閣の大命を拝してる様な気持ちになってしまうのである。その次が酒であった…いずれにせよ、その頃ほど『雄弁』という言葉に魅力のあった時代はない(尾崎史郎「人生劇場・ワセダ編(1952年)」)」
- さらにこういう分析もある。「大隈が天下の望を負うたる所以は、彼が積極的に何らの取り柄がありといわんよりも、むしろ彼が薩長藩閥ならざる為なり。彼が多数党の首魁たらざるが為なり。彼が多年得意の境遇にあらざる為なり(徳富蘇峰「大正政局史論」)」。なるほど、この観点からすれば長州閥の伊藤博文や桂太郎、そして薩摩出身の山本権兵衛が「国民的英雄」になるのは所詮無理だったという事になる。
- ただし原敬暗殺後に立憲政友会の指導者となった高橋是清首相は『中外商業新報』に「日露戦争当時、イギリスで大隈くらい知られた人物はおらず、知識階級で大隈を知らない人は恥としたくらいだ」と持ち上げる回想を発表している。この分では「大隈重信の国民葬」も超党派的イベントと把握していたかもしれない。
ところで「大隈重信の国民葬」を準備したのが主に早稲田大学の学生であり、そこに書生っぽい軽薄なスノビズムが感じる向きもある。葬式には早稲田学生だけで1万人以上が参加していた。伊藤博文は自らも政党を結党したが、こういうタイプの支持者は最後まで持つ事はなかったのであった。
- 明治34年(1901年)以降、西園寺公望と二人で「桂園時代」を現出させた桂太郎首相は、衰退する一方の元老勢力から距離を置き、政党政治を嫌う山縣系官僚からの独立を果たすべく第三次桂内閣(1913年)において立憲同志会の結党を目指した。しかし大正政変(1913年)で辞任を余儀なくされ、間もなく本人も亡くなってしまう。
- 当時東洋経済新報社の記者で戦後総理大臣となる石橋湛山は大正11年2月11日『小評論』のコラムにおいて「死もまた社会奉仕」を発表し、山縣の政治権力を「国会を憂うる至誠の結果」と評し、宮中某重大事件に関しても湛山は至誠から出た行為と評しつつも「世の中は停滞せざる新陳代謝があって、初めて社会は健全たる発達をする」ことを指摘し「人は適当の時期に去り行くのもの、死もまた一の意義ある社会奉仕でなければならぬ」と評している。
- 山縣の死とともに薩長による寡頭的な藩閥支配はほぼ終焉した。元老は軍に対して強い影響力を持たない松方正義(1924年病没)と西園寺公望(1940年没)のみとなり、政府と軍を調停する機能を大きく失ってしまう。
大正12年(1923年)9月1日、関東大震災。神奈川県・東京府を中心に千葉県・茨城県から静岡県東部までの内陸と沿岸に広い範囲に甚大な被害をもたらした。
- 加藤友三郎内閣総理大臣が8月24日(震災発生8日前)に急死していたため、9月1日の地震発生時およびその後は内田康哉が内閣総理大臣臨時代理として職務を代行。
- 東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)以前において、日本災害史上最大級の被害であった。復興には相当額の外債が注入された。その半分は、火力発電の導入期にあった電力事業に費やされた。
- モルガン商会は1931年(昭和6年)までに占めて10億円を超える震災善後処理公債を引き受けたが、その額は当時の日本における1年の国家予算に対して6割を超えるものであった。引受にはロスチャイルドも参加した。金策には森賢吾が極秘で奔走した。日英同盟の頃から政府は資金繰りに苦慮していたが、特にこの復興事業は国債・社債両面での対外債務を急増させた。
- 復興事業では電話の自動交換機が普及した。また、当時の新聞によれば横浜港と関東の養蚕農家が大被害を受けた為、神戸港と関西の養蚕農家が大きくシェアを伸ばしたという。
大正12年(1923年)12月27日、虎ノ門事件。
- 日本の東京市麹町区(現: 千代田区)虎ノ門外において皇太子・摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)が無政府主義者の難波大助により狙撃を受けた。
- 大正時代、関東大震災後に頻発したテロ事件の一つで、背景には関東大震災後の社会不安、大杉事件・亀戸事件・王希天事件といった労働運動弾圧に対する社会主義者達の反発があったとされる。復興を進めていた第2次山本内閣は引責による総辞職を余儀なくされた。
- 犯人難波大助の父で衆議院議員の難波作之進(庚申倶楽部所属)は事件の報を受けるや直ちに辞表を提出し、閉門の様式に従って自宅の門を青竹で結び家の一室に蟄居し、食事も充分に摂らなかった。1925年(大正14年)5月に死亡。選挙地盤は松岡洋右が引き継ぎ、戦後は岸信介、佐藤栄作という大物保守系政治家に引き継がれ、昭和史を動かす遠因となった。
【自由民権運動】清浦内閣(1924年1月7日〜6月11日)…枢密院議長の清浦奎吾が第23代内閣総理大臣に任命されて組閣し、政党から閣僚を入れることなく、貴族院を背景にした超然主義を貫いたが、立憲政友会・憲政会・革新倶楽部の護憲三派が起こした第二次護憲運動により、わずか5ヶ月で総辞職となった。与党は立憲政友会を脱党した政友本党である。
- 山縣没後は、大正6年(1917年)に枢密院副議長となっていた清浦奎吾が 後任の議長に就いた。そして翌年第2次山本内閣が虎ノ門事件で総辞職すると、総選挙施行のため中立的な内閣の出現を望む西園寺公望の推薦によって、組閣の大命は清浦のもとに降下る。
- しかし、かつて清浦が貴族院議員として所属した貴族院会派の研究会が組閣をリードし、外務大臣と軍部大臣(当時は将官を軍部大臣に当てる規定があり、外務大臣も外交官出身者の就任が多かった)以外の全ての閣僚に貴族院議員を充てたことから、新聞や政党はこれを清浦「特権内閣」と攻撃した。
- 清浦は加藤友三郎、山本権兵衛に続いて三人目の非政党首班だったが、加藤友三郎内閣には少なくとも三人の大臣が交友倶楽部(政友会の貴族院における会派)から入っており、また第2次山本内閣は総理と陸海大臣以外の全大臣を政友会議員または政友会系の官僚で占めるという事実上の政友会内閣だったのに対して、清浦内閣では貴族院枠7のうち研究会が3、他会派が3、無所属が1と言う配分であり、明らかに研究会を与党とする内閣であった。そのため政権発足から数ヵ月もすると衆議院の政友会、憲政会、革新倶楽部の三会派(いわゆる護憲三派)によって組織的な倒閣活動が始まった。これが第二次護憲運動である。
- この陰で、政友会の床次竹二郎一派149名は脱党し、政友本党を結成して清浦内閣の与党となった。その一方で、研究会の勢力拡大とその党派性の強い議会運営に反感を抱いていた「幸三派」と呼ばれる反研究会勢力による貴族院内での清浦批判も勢いづいた。これを受けて清浦は議会内外における護憲三派の行動などを理由に衆議院を解散したが、これは「懲罰解散」と呼ばれ、各層の反感を買った。
- 第15回衆議院議員総選挙の結果、護憲三派は合計で281名が当選、一方で与党の政友本党は改選前議席から33減の116議席となった。清浦はこの結果を内閣不信任と受けとめ「憲政の常道にしたがって」内閣総辞職した。5か月間の短命内閣であった。もっとも、清浦を推挙した西園寺から見れば、清浦内閣は選挙管理内閣でしかなかったのであるから、その役目は果たしたと言える。
- 同じ山縣閥に連なる平田東助も清浦内閣の成立に力を尽くしたが同年3月、病気により辞任。4月に逗子の別荘で死去。
- この選挙の結果立憲政友会・憲政会・革新倶楽部の護憲三派からなる加藤高明内閣が成立し普通選挙法が制定され、財産(納税額)によって制限される制限選挙から、満25歳以上全ての男子に選挙権が与えられることとなり、アジアで初の普通選挙が実現した。
しかし同時にソ連が誕生したことにより、国民の一部に赤化(共産主義)思想が広まり、共産主義革命の発生を懸念した政府は治安維持法を制定し、共産主義的な運動に対しては規制がかけられる形となる。
治安維持法 - Wikipedia
こうして日本の政党政治は新たな局面を迎える事になったのでした。
第一次世界大戦特需による産業活性化とスポーツなどのレクリエーション活動の広がりを背景として、全国各地の青年会は幅広い紐帯を有する様になった。その一方で第一次大戦後の不況と経済低成長が不安や不満をもたらした事から、ジャーナリズムによる普通選挙キャンペーンが広く浸透して「第二次護憲運動」と呼ばれる動きが国民の間で全国規模で展開する事になる。
*スポーツは元来、大学や専門学校や中等学校などに進学できた中産階層以上の子弟が学校で行うものに限られていた。それが1920年代入ると尋常小学校や高等小学校や青年団などの庶民の青少年をも巻き込む形で広がり、郡内の各学校や青年団対抗の試合が盛んに行われる様になって人的交流の規模が飛躍的に拡大する事になったのである。
- 大正13年(1924年)1月15日、憲政会の加藤高明と革新倶楽部の犬養毅が清浦内閣を批判してその打倒を進める動きを見せたのに呼応して、立憲政友会総裁の高橋是清も、加藤や犬養に呼応して清浦内閣打倒を決断する。
*この頃、政友会は衆議院で278名の議席を取る第一党であり、高橋も当初は清浦内閣を支持していた。しかし床次竹二郎らが反対して政友会の反対派148名を集めて脱党し、清浦内閣を支持する政友本党を結成。この政友本党が政友会に残った130名を凌ぐ148名であったことから、政友会は倒閣運動における主導権を失った。- そして同年1月18日、三浦梧楼の斡旋によって三浦邸に集まった加藤高明・高橋是清・犬養毅らは互いに協力しあって護憲三派を結成し、「清浦内閣を倒して憲政の本義に則り、政党内閣制の確立を期すこと」で互いに合意する。そして5月10日に行なわれた第15回衆議院議員総選挙の結果、護憲三派から286名(憲政会151名。政友会105名。革新倶楽部30名)が当選したのに対し、清浦内閣を支持した政友本党が109名当選したにとどまったのを見届けると、ただでさえ職位を有する特権階層への国民の風当たりが強くなっているのを意識した研究会(貴族院最大の派閥)から見捨てられた清浦内閣が6月に倒れ、第一党の加藤高明に内閣組閣の大命が下った。
- 加藤は、政友会から2名、革新倶楽部から1名を加えた護憲三派内閣を組閣。ここに、高橋是清以来3代ぶりの政党内閣が復活し、陸軍4個師団の廃止、予算一億円の削減、貴族院改革(有爵議員のうち、伯・子・男の数を150名に減らす)、普通選挙法制定(1925年)などを進め、さらに幣原喜重郎の協調外交によってソ連との国交が樹立した。また普通選挙実施に伴って危険思想の台頭を警戒して治安維持法を施行したが、これは実際には杞憂に終わった様にも見て取れる。
*ここでいう「予算一億円の削減」は「我田引鉄」といった利益誘導政治の母数の削減も意味し、政策や日本の国益よりも党利を重視する権力闘争を激化させる最初の契機となった。
田中義一 - Wikipedia
山梨半造 - Wikipedia
第16回衆議院議員総選挙 - Wikipedia- その一方で「第二次護憲運動」は、護憲三派を選挙で勝たせる運動の中核となった中間層以下の青年達を数年のうちに県会や町村会などの地方政界に進出させ、普通選挙導入と併せて政治基盤の大衆化に貢献する事になった。
1928年の衆議院選挙結果(与党立憲政友会が野党立憲民政党(憲政会と前回選挙で政友会より分離した政友本党の合併政党)に僅差で勝利)を見ると、こうした一連の措置が如何なる政治的変化を引き起こしたかが如実に表れている。
- 与党たる立憲政友会は大幅に議席を減らした。これは金融恐慌後の財政難のせいで、鉄道や治水や港湾道路といった公共事業による利益誘導策、そして国税や地租を地方税に移す地誌委譲政策などのスローガンが国民に現実感を以て受け入れられなかったせいと考えられる。
- また普通選挙であるにも関わらず、無産諸政派もまた不調であった。むしろそれは政府の厳しい弾圧のせいというより、民政党や政友会が「第二次護憲運動」において全国各地で味方に付けた青年リーダー達を地域の党幹部として吸収する事であらかじめ選挙権拡大に備えていたからだった。
- 一方、無産諸政派のリーダー達は、関東大震災後の混乱する被災地で、多数の社会主義者や労働運動家が陸軍や警官のみならず、自警団を組織した民衆からまで迫害されたり殺害されたりした事に衝撃を受けた。自分達の運動が大衆の支持を得ていない事を痛感した彼らは、普通選挙実施後は選挙権や議会を利用した運動を行う方針をを立てたが、彼らのうち革命を目指す政治闘争を重視する共産主義派はこうした現実路線を批判して除名されると新たな政党を設立して選挙に当たっては対立候補を乱立させ、ただでさえ支持者の母数が少ないというのに壮絶なネガティブ・キャンペーン合戦を繰り広げて互いを破滅させ合っていく。
当時の無産政党の状況は、ある意味その未来を暗示していたともいえる。
それでは最初の設問に戻りましょう。 さて大日本帝国はベネディクト・アンダーソンいうところの「公定ナショナリズム国家」だったのでしょうか?
フランス革命をルーツとする「ナショナリズム」は国内においては平等を求めるから、本来、天皇制などとは相容れない。が、それでは明治政府には都合が悪いので、日本やタイでは「公定ナショナリズム」というまがい物を捏造する。
エンカルタ百科事典に記述された「戦前日本のナショナリズムの特徴」
日本のナショナリズムは、タイと同様に「非植民地型ナショナリズム」にふくまれる。それは、西欧列強の開国要求に対して幕末維新時に主張された尊王攘夷論に由来している。当時は国内的には薩摩・長州らの倒幕の動きがはげしく、そうした動乱の世にあって、吉田松陰らは国学にもとづいて尊王攘夷をとなえ、それまで支配的であった幕府体制と儒教の教えを否定し、自然で素朴な古代にたちかえることを説いた。すなわち、最古の先祖の系譜をひいている朝廷・天皇にしたがいさえすれば、それが自らを神々の末裔(えい)につらねる行為であると主張したのである。しかし、それは一時的なものでしかなく、そうした理念が新たに国民をつくりだしたわけではない。
明治政府が西欧の制度を模して府県制・市町村制をしき、また税金や教育などの行政制度や議会制度をとりいれて中央集権を確立したことが、日本の近代国家の骨格をきずいたのである。しかし、これらの行政制度の近代化がすぐさま国民の形成に役だったわけではなく、日清戦争、日露戦争とその後の三国干渉などが契機となって、人々に日本人としての同胞意識をもたらしたのである。
日本の近代化の特徴は、天皇制の再編・強化によって国民の支配の正当化がはかられた側面を無視して論じることはできない。それゆえ、戦前の日本のナショナリズムの特徴は、国体論の中に端的にみいだすことができる。すなわち、国家は大きな家族であり、天皇は親、国民は子供であるとされ、子が親にしたがうように、国民は私をすてて公(国家・天皇)にしたがうことをもとめられた。思想的には、天皇制は「家」と先祖崇拝の2つの制度に根ざしたイデオロギーである家族国家観によって正当化された。この家族国家観は植民地の併合問題を論じる場合、多民族国家論として姿をかえて提出されている。
多民族国家論とは、日本は古代から「一視同仁」で異民族を同化してきた経験をもつとともに、日本の家族は非血縁者を養子としてうけいれることを原則としてきたというものである。多民族国家論はこうした論理を提供することによって植民地の皇民化政策を正当化する機能をはたしたのである。台湾や朝鮮・韓国・満州を植民地化し、異民族を日本国の臣民として同化させることは、まさしく日本の「伝統」にのっとったものであると正当化されたのである。こうした観念は近代において日本固有の「伝統」として政治的に捏造(ねつぞう)され、国民の統合や植民地の同化政策などに利用されたのである。
エンカルタ百科事典に記述された「戦後日本のナショナリズムの特徴」
第2次世界大戦後の日本のナショナリズムは、1960年代の後半以降顕著にみいだされる。政治の保守化と経済の自由化の波の中で、60年代の後半から政治家や文学者、さらに研究者の間で単一民族国家論が登場し、80年代以降盛んに論じられるようになった。こうした意識は、経済大国の自覚と物質的に満足した消費生活とがもたらしたものであり、戦前の多民族国家論とは表裏一体の関係にある。
すなわち、日本のナショナリズムは外にむかって拡大したときには「ウルトラナショナリズム」になり、反対に内にむかうと差別的なものになる。
そのほか、戦後では家永三郎の教科書検定、内閣総理大臣の靖国参拝、沖縄の基地、昭和天皇の葬礼とその後の国民的謹慎など、ナショナリズムをめぐる問題がくりかえし生起している。
このようにみると、日本の社会が戦後も天皇制を存続させ、なおかつ中央官僚が強大な権力をもっていることが、日本のナショナリズムを顕在的、潜在的に再生産する可能性を内包しているのである。
- 良くも悪くも山縣有朋こそが「軍国時代の 大日本帝国を準備した立役者」だった事実は動かない。ただ当人は(日本の実力を知るが故に)英米協調主義者だったし、皇室至上主義者という訳でもなかった。その一方で、「神道国教化運動(1869年〜1885年)」や天皇側近の儒学者たる元田永孚や侍補らの補弼による「親政運動(1872年〜1879年)」もあったが、必ずしも成功はしていない。
神道国教化 - Wikipedia
明治天皇の御親政-伊原教授の読書室
*それと意外と侮れないのが近衛篤麿(近衛文麿の父)の足跡。ただ近衛文麿は末次信正の様な「右翼と親し過ぎる有力者」を思想統制の尖兵として活用しつつも決っして信用しなかったとも。
- その一方でベネディクト・アンダーソンは「公定ナショナリズムは。民衆ナショナリズムへの予防措置として「王朝と国民が一体であること」を際限なく肯定する」とある。それでは、当時の民族ナショナリズムとはどういうものだったのか。尊王攘夷運動と不平士族反乱から出発し、対内的には「民力休養」を提唱しつつ、対外的には政府に欧米列強と即時断交と人種戦争の決着を着ける事を要求する支離滅裂な内容ではなかったか? それはそもそも当時の民意を代表した意見だったのだろうか?
「日清戦争期の対外硬派 政治改革と戦争支持はどう語られたのか」
「民衆ナショナリズム」については、当時の日本に実際どんな動きがあったか整理してみる必要がありそうです。
- 士族民権運動…尊王攘夷運動(幕末)や、征韓論(明治6年(1873年)前後)や、不平士族反乱(1870年代)などを契機に政治参加。不平等条約(1858年〜1911年)撤廃にまつわる政府の欧化構想や弱腰思想に対する不人気に付け込んだ反政府運動(対外硬派)や、白人国家との人種戦争を煽るアジア主義(興亜論)などの母体となる一方で暴力遂行を辞さないテロリスト集団を擁し、日清戦争や日露戦争に向けて世論を盛り上げ、米騒動(1918年)においても事態拡大を期しての備蓄食料処分、鈴木商店や工場の焼き討ちを扇動している。
- 豪農民権運動…西南戦争(1877年)後の松方デフレなどを契機に富農を中心に政治参加。その立場上「民力休養」を標榜したが立憲政友会の「我田引鉄」政策に次第に懐柔されていく。
- 小作人ファッショ…世界恐慌勃発(1929年10月24日)以降、昭和農業恐慌(1930年〜1931年)や昭和東北大凶作(1931年〜1934年)などによって表面化。直接的には不在地主撲滅運動、小作争議の急増、海外移民の急増という形態をとったが、国民皆兵制を背景に、青年将校を二・二六事件(1936年)に、当時の日本陸軍を大陸進出に駆り立てた背景にこれを見て取る向きもある。1930年代に(それまで事実上の二大政党制を担ってきた)民政党と政友会に対して、いわゆる日本憲政史上初の“第3極”として急浮上してきた社会大衆党(1931年〜1940年)にその投影を見て取る向きもある。
日本の小作争議は1929年(昭和4年)の世界恐慌の影響を受けた昭和恐慌後に再び増加し、東北地方の凶作・農村不況を背景に第二次高揚期を迎える。第二次高揚期の小作争議は小作料減免を要求する大規模争議が中心であった第一次高揚期に比べ、東北地方が中心となり農地の耕作権をめぐる小規模争議を特徴とし、全国農民組合の指導のもと数多くの争議が発生した。また、1931年(昭和6年)8月の全国農民組合全国会議では小作人以外の農民層を獲得して運動を展開するために、小作問題以外の税や負債、肥料などの独占価格、賃金や電灯料金などの広範な課題に取り組む農民委員会方針を提起し運動を展開した。
想像以上に戦前の「右翼」は主体的活動を見せていないのですね。
日本の右翼思想が確立するのは明治時代であるが、その源流は、江戸時代後期の国学者の一部が標榜した国粋主義や皇国史観などが挙げられる。また日本の右翼団体の起源は、1868年(明治元年)1月3日の明治維新(王政復古の大号令)だと目される。これを14年遡った1854年(安政元年)3月31日に、江戸幕府14代将軍徳川家定が鎖国を撤廃した時、勤王反幕の政治家が勢力を増した。幕末に生み出された大量の尊王派の志士の組織活動は、維新の成功によりいったんは政権に組み込まれ消失する。
画期となるのは征韓論事件を境とした九州・山口でおこった一連の士族反乱である。西郷を敬愛し国学・朱子陽明学の実践を願いながらも死にそびれ、あるいは取り残された者たちの在野集団が1881年(明治14年)に頭山満らが結成した玄洋社であり、これが日本の観念右翼のはじまりとされている。
1880年代に自由民権運動が発生し、激しい反政府運動が盛り上がった。明治政府は自由民権運動を公権力で取り締まるとともに、しばしば任侠集団に政治団体を結成させ、民権運動家の活動を妨害・弾圧する手段とした。その後、社会主義運動の高まりと共に労働争議、小作争議が各地に広まると、政界、財界からの要望により、任侠系の政治団体がそれらの運動妨害、弾圧運動に大きな役割を果たした。この系統を引く団体は「任侠右翼」(暴力団系右翼)などと呼ばれる。
1910年代になると社会主義思想が日本にも波及してきた。政府はこれに自由民権運動以上の拒否反応を示し、公権力と任侠集団で取り締まりや妨害を行った。これらの任侠集団は明治元勲たちとも結びつきが強く、自由主義や社会主義に対抗して、国家を擁護する右翼団体を結成した。
また、近代化の過程で生じた諸矛盾を解決を目指す政治団体として、平等を目指す2つの流れが生じた。一つは社会主義革命により平等を目指そうとする流れ。もう一つは天皇の下に万民は平等であるとする流れである。これは、日清戦争や日露戦争を背景に、中華民国の成立や李氏朝鮮の近代化に関与した大アジア主義の潮流に乗る。また、社会主義の影響もとで国家主義によるアジアの近代化の実現を目指したために社会主義との接近をも起こし、その思想潮流はいわゆる国家社会主義や社会主義との複雑な影響の元にあった。思想的傾向は、必ずしも反共主義ではなく、反欧米色が強かった。この系統を引く団体は「正統右翼」などと称される。
財界の要望に立ち労働運動を弾圧する「任侠右翼」(暴力団系右翼)と、理想を掲げて凡アジア的活動を行う「正統右翼」は、戦前の右翼団体の2つの大きな系統であった。これらは利害が一致する財界、軍部から資金援助を受けて活動をしていたと田中隆吉は述べている。
世界恐慌時代には、右翼も社会主義から強い影響を受け、一部の国学の系統を引く日本の保守思想家や左翼からの転向組の中から国家社会主義思想を持つグループが現れた。この系統は革新右翼と言い、陸軍の皇道派に近い民族主義的な観念右翼と、陸軍の統制派に近い革新右翼が対立を起こすようになる。これらは日独伊三国軍事同盟締結時の陸海軍の対立や、五・一五事件、二・二六事件などにも影響を与えた。
右翼は大東亜戦争(太平洋戦争)直前に締結された日独伊三国軍事同盟については支持する立場を採ったが、イタリアのファシズムやドイツのナチズムに対しては、自由主義や社会主義と同様の外来思想と受け止められ、東方会などの一部の団体を例外として大半からは無関心もしくは排斥の対象として捉えられていた。
戦前左翼の影の薄さについてはそれ以上…
田中英光ノオト「戦前の左翼運動との関係を中心に」
田中英光 - Wikipedia
どちらともかけ離れていた当時の「民衆ナショナリズム」の動き…当然それに重ねられた「公定ナショナリズム」も、それに応じた体裁をとらざるを得なかったのでした。
- おそらく軍国主義時代の大日本帝国は「山縣有朋が築いたシステムが、そのまま暴走した」というより「(その後追加された政党政治システムが機能しなくなったので)明治天皇の御代への回帰が国民レベルで志向された」といった流れだったのではないかといわれている。そう考えるなら、そうした動きを「公定ナショナリズム」の一種として掌握する事は決して不可能ではない。
*復古王政期(19世紀前半)におけるヘーゲル哲学の成立同様、それ自体はおそらく「権力者側の一方的な強制」といった体裁ではなかった。確かに権威主義的圧迫感の様なものなら、確実に背景にあったのだろう。その反面、日々高まっていく実存的不安に煽られる形で、被統治側が「自由からの逃走」を試みたという側面もまた確実に存在した。
- 逆を言うなら、明治期日本にはまだ「公定ナショナリズム」に利用可能な「回帰すべき過去」など存在しなかったともいえる。欧米を手本とし「ええとこどり」を目指すだけで精一杯だった。当時の明治人の振る舞いが19世紀の英国人同様に「数理に忠誠を誓う臣民」めいて見えるのはおそらくそのせい。考えてみれば、彼らもまた恐る恐る試行錯誤を繰り返しながら「手本のない世界」を生きた人々ではあったのである。
*「数理に忠誠を誓う臣民」…逆を言えば「懐疑心と相対化によって数理以外の何物をも絶対的には信じなくなってしまった」状態を指す。幕末に来日した英国人外交官アーネスト・サトウの「嚙まぬのなら吠えるな、喰い千切れないなら噛むな」の世界。伊藤博文が七博士意見書(1903年)について述べた「我々は諸先生の卓見ではなく、大砲の数と相談しているのだ」というコメントがこれに該当する。
*逆に昭和軍人は「数字は何も表してない。何事も試してみねば結果は出ない」という極端な行動主義を信奉いていた。革新官僚や社会主義者はもっと数字の持つ意味を重視していたが、自らの理念より上に置いていた訳でもなかった。
- いじれにせよイメージの流布そのものは、あくまでイメージの流布に過ぎない。これを致命的な形で暴走させたのは、当時世界中で流行していた「世界最終戦論」であった。時代はまさに「総力戦体制時代(1910年代〜1970年代)」の最中だったのであるから、これはこれで仕方がない。
石原莞爾 最終戦争論
国際的には以下を結びつけて一つの時代区分と考える仮説も存在する(総力戦体制論)。
- 「欧州先進諸国が第一次世界大戦(1914年〜1918年)期の総力戦で被った痛手の大きさは、当時激減した自由商品貿易が総生産額に占める割合が1970年代までそれ以前の水準に復帰する事はなかった」という統計的事実…日本の戦国時代でいうと「小氷河期到来に伴う全国規模での略奪合戦の激化」。
- この時期における「万国の労働者が国境を越えて連帯しようとする世界革命志向と各国も成立した労働者主導主導型政権が政府の力で市場を制御下に置こうとする国家主義志向の衝突」…日本の戦国時代でいうと一向衆などの惣村土一揆の全国ネットワークと各地国人一揆の対立と共働。
- 「世界恐慌発生に伴って1930年代に進んだブロック経済化」…日本の戦国時代でいうとスケールメリットを追求する小田原北条家の様な新世代戦国武将の台頭と楽市楽座による御用商人選定過程。
- 「冷戦発生に伴う世界の二分化」…日本の戦国時代でいうと織田信長包囲網の構築と挫折。
そしてこの仮説では現在を「既にその軛から脱しているが、次に目指すべき体制が見つかってない過渡期」と考える。
*もちろん日本だけの現象ではない。ヘルムート・プレスナーが「遅れてきた国民(1935年)」の中で「(最後には神の審判が待つ)キリスト教的救済史観」が(最強の民族だけが生き残る)「民族生物学」や「世界最終戦史観」へと発展していく様を描いた。それを始めたのがインテリや帝国主義の直接利益甘受者だったにせよ、「公定ナショナリズムの全人格化」が牽引力として働いたにしろ、「総力戦体制時代」のタイミングにおいて、致命的な形でこれに拘泥したのは大衆だったのである。
W.E.グリフィスが「The Mikado's Empire(1876年)」で描いた「日本人独特の宗教観」。
①日本人は(「お天道様が見ている」といった)素朴な自然崇拝に従って生きている限り、善良なキリスト教徒として振る舞う。もし自分の内面から届く良心の声を「イエス・キリストの声」として聞く様になったら、まさしく善良なキリスト教徒そのもの。
*ここでは「神=システムそのもの、イエス・キリスト=インターフェイス」と見立てられているっぽいのが興味深い。プロテスタント神学の一種だろうか?②ところが実際にキリスト教徒に改宗し、より確かな考え方を得てしまうと(徒党を組んで周囲の迷惑も顧みず布教して回るとか「法律を改定して全日本人にキリスト教を強制しましょう」と言い出すとか)狂った様な状態に陥ってしまう人がいる。かえって内面からの良心の声が自分に届かなくなってしまうのである。
*フランスのアナール派もまたは、同様の暴力性の暴走がフランス革命からナポレオン戦争の時代にかけての大衆、特にサン=キュロット(浮浪小作層)に見受けられたと指摘する。また英国においては、史上初めて総力戦の様相を帯びた対ナポレオン戦争こそが「臣民意識」形成の契機となったと考えられている。中世を「あらゆる伝統的共同体が軍事的共同体としても機能していた分権時代」、近世を「中央集権化の為に身分制が国家単位で統合され、それに従って兵農分離が進行した時代」と規定するなら、近代は「軍事的に、経済的に、政治的に貴族(臣)と庶民(民)が再合流を果たして臣民意識が形成された時代」だった事になる。こう考えてみると「近世段階に自立到達出来なかった後進国にとって共産主義はその代用品として機能した」とする「共産主義瘡蓋(かさぶた)論」も、あながち的を外していなかった事になる。
*ところでこの歴史観に「市民意識の勝利」が登場する余地はない。なぜなら①コンドルセやジョン・スチュワート・ミルの貴族的功利主義(ストア派哲学)が最終的に到達した「臣民意識」は「君主でなく数理を奉仕すべき絶対精神(absoluter Geist)として選ぶ」という内容であった。②それは全人類が「何かを見逃してる恐怖」や「アルゴリズムが間違っている恐怖」と個別に直面しなければいけない時代の到来を意味し、過渡期には様々な暴走を引き起こしてきた。こう考えると近代から現代への流れがそれだけで説明できてしまうからである。
*ここで鬼子の様に浮上してくるのが、「コンドルセの貴族的臣民意識」を継承しながら「君主でなく数理を奉仕すべき絶対精神(absoluter Geist)として選ぶ」姿勢は拒絶したオーギュスト・コントの「科学者独裁主義」やテイラー主義(Taylorism、米国のフレデリック・テイラーが20世紀初頭に提唱した科学的管理法(Scientific Management))」の世界。そこに見受けられる「人治には数理への絶対服従を超えた何かがある」なる提言の是非については、現在なお結論が出ていない。その「人治」の部分がいまだに完全にはアルゴリズム化されておらず、そもそもそれが可能か自体が明らかになっていないからである。「後世から見たら現代ですら中世や近世同様に人類発展過程における過渡期に過ぎないかもしれない」恐怖。確かにアイザック・アシモフが描いた「量子コンピューターの判断が各個人の生存圏まで干渉してくる世界」、小松左京が「日本沈没(第一部1973年、第2部2006年)」で描こうとした「地球シュミレーター登場後の世界」について、人類はまだまだ十分に到底、相応のビジョンを蓄えているとはいえないのではなかろうか。
日本の場合は江戸時代以来、同じ村のメンバーが世代を超えてつきあい続ける「長期的関係」がベースにあるから、互いの顔色を絶えず確認し、ある地点で相手に無理をさせたら、次はこちらが折れて要求を飲むといった「微調整」でものごとを運ぶ。よくいえば「情けは人のためならず」、悪くいえば「八百長の貸し借り」と同じで、厚意をかければいつかは返ってくることが前提の社会だから、無意識のうちにそう振る舞うのである。
しかし中国の場合は、前近代から人々が根無し草のように移動し、職業も転々とする変化の速いネットワーク社会を営んできたから、長期的関係ではなくワンショット(一回きりの)ゲームを永遠にプレイし続けるのが常態である。毎回毎回が「今回限りの」つきあいだとすると、こちらが譲ったところで後で返してもらえるとは期待できない。むしろすべての希望を一方的にでも明示して、承諾した人とだけつきあうのが正しい戦略になる――とは、実は『「日本史」の終わり』(池田信夫氏と共著)でも書いたところであった。
また思想でなく経済からの中国論では、しばしば目にする鍵概念に「包」(bao)というものがある。しいて日本語に訳すと「丸投げ請け負い制」くらいの意味で、その存在こそが中国経済を、いつまでも欧米流の契約社会に移行させない元凶とされることも多いのだが、何を読んでもいまひとつ腑に落ちない。しかし、要するに「出すべき結果」だけを相手に突きつけて、そのためには手段を選ばずなんでもやらせるという発想のことと考えれば、今回の件で実によくわかった気になる。まさか私の訪中程度でそんなことはあるまいが、場合によってはこの「手段を選ばず」のところに法令違反やピンハネ行為が入ってくる点が、批判されてきたのであろう。
講演後の質問のレベルが決して低くない。「丸山眞男のいう日本社会の『無構造の伝統』と、あなたの中国化論はどう関係するのか」、「明治憲法の第1条にしたがえば戦前の天皇は専制君主、第4条にしたがえば立憲君主になると思うが、両者の関係をあなたはどう捉えているか」など、ふだん日本の学生からもそうめったには聞かない学術的な質問がでる。流暢な日本語で質問してくれる学生もいた。
なにより印象的だったのは最後まで挙手が林立して途切れなかったことで、いかにして「手を挙げさせるか」に苦労する日本での教室が嘘のようである。王先生が「中国社会にはグローバル化に適した特徴もあるが、それを高く評価されたとしても慢心するのではなく、むしろまだまだ至らない点を反省していくことが大切だ」とフォローしてくださったので、私も「定められた共同体の枠内で完成度を高めてゆくことに関しては、日本人が中国人より遥かに優れているが、逆に既存の枠組み自体を壊したり、その外に出ていくことでは、今晩のみなさんの積極性が示すように中国人が勝る。両者が互いの強みを活かし、弱みを補いあう関係ができれば理想的だ」とリプライして会を閉じると、サインを求める学生の列ができた。
「西洋化」と「中国化」
やはり中国の読者が知りたがるのは「中国化」と「西洋化」の関係で、「西洋人が個人主義的なのに対し、中国人も日本人も集団主義的で……」という記者に、「いや、私には中国人は個人主義的に見える」というと、きょとんとされる。孫文が散沙(沙漠の砂)に喩えたように、社会の中の共同体が解体されてバラバラの個人しかいないという点では、日本と異なり中国は「個人主義」の国だ。ただ、西洋のようにそれが「国家に抗する個人」にまで高められていないのだ、と伝えると、わかったような顔になる。
ともに個人主義だが、個人に「私的な利益を追求する自由」、ないし「政府に無関心でいる自由」のみを認めるのが中国化で、「政府と違う意見を表明する自由」までをも保障したのが西洋化だ。後者は、王(政府)に抵抗できるだけの権力を持った貴族が、近代の直前まで残った西欧だからこそ発展し、逆に宋朝の中国は「進みすぎていて」科挙を導入して貴族を全廃したから中国化になったのだ、と説明すると、得心してくれたようにみえた。
グローバル化した世界では他の国でも同様だろうが、一番苦心するのは日本独自の道としての「江戸化」の説明で、われわれ日本人なら「江戸時代的な」の一言で幕藩体制、ムラ社会、イエ制度、その他のもろもろがぱっと脳裏に浮かぶところを、一から説明せざるをえない。もっとも、中国人相手の場合には一番ピンとくるはずの比喩があって、「毛沢東時代のようなものだ」と言えばいいのだが、これは読解にリテラシーが必要なうえに、政治的にも微妙かもしれないという雰囲気も感じた――座談会ではひと工夫して、「マルクス主義なしの社会主義体制」と言ってみると、何人かの聴衆がニヤリとしてくれた。逆に「政治権力は一極集中だが市場経済は自由開放」という宋朝(中国化)の特徴を説明するのは実に簡単で、「鄧小平の『社会主義市場経済』と同じだ」とだけ伝えれば、毎回必ず納得してもらえた。
- 「欧州先進諸国が第一次世界大戦(1914年〜1918年)期の総力戦で被った痛手の大きさは、当時激減した自由商品貿易が総生産額に占める割合が1970年代までそれ以前の水準に復帰する事はなかった」という統計的事実…日本の戦国時代でいうと「小氷河期到来に伴う全国規模での略奪合戦の激化」。
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こう考えていくとむしろ軍国主義時代の大日本帝國について現代日本人が反省すべきポイントも絞られてくる。①どうして政治家や財界人は国家運営を投げ出してしまったのか。②どうして昭和軍人は「勝つ算段が立たない限り戦わない」明治軍人のリアリズムから離れてしまったのか。③どうして革新官僚は絶対王政期のコルベール主義や官房学の如く体制の暴走そのものについては沈黙してしまったのか。おそらくここに「公定ナショナリズム」や「世界最終戦思想」がどういう形で当時の大日本帝國に致命的悪影響を与えたか読み解く鍵がある。
ところで、こう考えていくと上掲引用文で與那覇潤が指摘する「(ベネディクト・アンダーソンがそう示唆する様に)日本は伝統的にスターリン主義の国だった(今でもそうで天皇制を打破しない限り前近代社会のまま)と総括すれば国際的理解を得やすいが、現実から乖離する」「(最終的に左翼を見捨てた)丸山眞男のいう日本社会の『無構造の伝統』について現代日本人はどう考えているのか」という設問こそが重要になってくるのです。
「米国は国の成り立ちから、政治的な出来事が道徳的な意味を持っていると考える。この発想は、独立戦争から現代の大統領選まで、政治的な動きがあるたびに顔を出す。一方、日本では政治的な変革が起きた時の歴史的記述には、道徳的な理念が感じられない。せいぜい大化の改新ぐらいでしょうか」。
「明治維新も思想から立ち上がったとは記述されない。道徳的な理念では歴史的な足掛かりがないのです。思想性を感じさせないように歴史が記述されている。それが無構造の伝統です」。
「米国では例えば、人工妊娠中絶の是非を議論することで、自己決定権や平等といった理念を政治の焦点にしてきた歴史がある。それが判例などで残るため、理念史として存在しているという意識がある。日本やアジアの国には、まだこれがない」。
「政治思想の軸が根づいてないから、国際舞台で姿勢を明らかにせよと言われると、弱さを露呈する。フランスなら共和制に基づく理念。ドイツなら自由、統合、教養です。日本でも定まるかどうかはともかく、自己探求は必要でしょう」。
ところが別にこの問題について欧米に「手本として参照可能な見本」が存在している訳でもないのです。
「遅れてきた国民」の著者ヘルムート・プレスナーは英国についてこういう評価を下しています。 「ドイツ人の視点からすれば国家権力が国家を超えた理想を標榜するのは偽善と映る。大英帝国の問題は人類の問題などと英国人に涼しい顔で告げられたり、正義・平等・友愛といった美辞麗句を並べて上から目線で説教するフレンチ・エゴイズムに直面すると、それだけで虫唾が走ってしまうのである。しかし現実路線と国家理念に基づく正当化を並行させるやり方には、むしろ「誠実な」側面がある。仮面が仮面である必要がなくなるからで、実際アングロ・サクソン系国家においては政治上の対立構造と経済上の対立構造の不一致に苦しむという事がない。ある意味経済支配こそが政治支配であり、かつ経済力そのものが人道的な力、道徳的な力、民族結集力、政党脱却力と信じて日々の問題解決に取り組んでいるのである。」と。
*ここでいう「ドイツ人的リアリズム」が最終的に到達するのは「党争こそ全て」と断言するカール・シュミットの政治哲学となる。一方、21世紀日本における政治哲学論は「決められない政治も決めすぎる政治もどちらも間違っている」なんて斜め上の方向に漂流する展開となる。「決められない政治」からの脱却は可能か | nippon.com
「ドイツ帝国が世界を破滅させる」の著者エマニュエル・トッド氏はインタビューにこう答えています。「このたびキャメロンとイギリス人たちは独仏の路線を敬遠したわけですが、あの拒否はおそらく、イギリスがその文化の最も深い部分-すなわち、自由への絶対的なこだわり(もっとも、この感覚はネイションへの集団的帰属を排除しない)-へ、危機を乗り越えるための手立てを探しに降りていく時期の初めを画するのでしょう。」
*ここでいう「ネイションへの集団的帰属を排除しない自由への絶対的なこだわり」はおそらく、コンドルセやジョン・スチュワート・ミルが示した「数理に対する臣民意識」に該当する。ところが欧州の大陸系市民意識は決してこれを正しいと認めない(というかそれ以前に、そもそも英米の様なアングロ・サクソン国家が正しい判断を下す可能性を全面否定してきた伝統がある)。
近代化に際して欧米列強の「ええとこどり」を狙った大日本帝国が、政治哲学の分野において何ら成果が得られなかったのは、そもそこういう大元がこういう支離滅裂な状況なのに「群盲象を撫でる」方式でランダムに模倣しようとしたせいだったとしか思えないのです。
それに、とりあえず「計算癖が全人格化した(従って「何かを見落としてる可能性」や「採用しているアルゴリズムそのものが間違っている可能性」に対する実存不安も全人格化した)現代社会」を最終到達点に置いてみると「日本的理念の中空性」に関する考え方も随分変わってきたりします。
- 河合隼雄は「創造神が無為の神としてしか扱われない」日本神話にある種の中空構造を見て取った。それはむしろ欧州においてリスボン大地震(1755年)以降急発達した理神論(Deism)やカント哲学に近い考え方だった。
141夜『中空構造日本の深層』河合隼雄|松岡正剛の千夜千冊
- 伝統的に中華王朝を支えてきた律令制の基本理念は「(軍隊を含む)官僚団によって支えられた皇帝が全土を直接的に支配する」という意味で絶対王政の一種。ところがこれが日本に輸入される時「誰が実際の支配者か」に関する規定が削除されている。ヤマト大王あるいは天皇と呼ばれる存在は故意に「体制外の何か」として消極的に規定される展開となったのだった。
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仏教国たらんとした奈良時代の日本は、全国規模の寺院ネットワークの中心に「奈良の大仏」すなわち「東大寺盧舎那仏像=華厳経における宇宙仏」を据えたが、これがまた地球儀(しかも人間が認識を通じて到達不可能な領域についての想像図)に過ぎず、それ自体は「(何か願っても決っして答えてくれない)無為の仏」に過ぎなかった。
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宋朝との交易に活路を見出した平清盛や後白河法皇は「国内における夷狄への警戒心」を克服する為に出家し「誰でもない存在」として外国人と交流した。
- ライシャワー「日本史(Japan The Story of a Nation、1978年)」は、江戸幕藩体制を「法専制国家」と呼ぶ。確かに当時の日本はハプスブルグ君主国の様に領邦国家群によって細分化されていたが、その一方で平安時代から文書様式や有職故実(儀礼の次第)が共有されてきた上に、諸藩が幕府制令を迅速に模倣する為「国政の等質的履行」が実現していた。廃藩置県(1971年)がスムーズに進行したのもこの為とされるが、やはりこの次元においてもあくまで「統治の頂点たるべき為政者」の影が薄い。
*おそらくここでライシャワーは同様の展開をたどったアメリカ合衆国の歴史を視野に置いている。ただしアメリカでは、その曖昧性ゆえに「国家全体を統括する大統領」なる存在が不可欠となり、国家統合の象徴として「スポットライトが当たる存在」となっていく。
- 江戸時代におけるもう一つの奇妙な点。それは絶対王政下の欧州においては権力の頂点に立つ絶対君主にスポットライトが当たり、ファッション・リーダーともなっていったのだが、当時はそうではなかった点である。そもそも「現代劇」の制作が禁じられていたので徳川家そのものに触れる事が不可能で、当時のファッション・リーダーの役割は歌舞伎役者などが務める事になったのだった。
- こう考えてみると、大日本帝国時代の日本だけがこの状況からの本格的脱却を試み、しかも見事に失敗した時代だったという事になるのかもしれない。
- 戦後日本において天皇は再び「象徴」へと回帰した。「総力戦体制時代」が続く限り(それどころか、それが終わってからも数十年にわたって)日本人は「自分達が何によって導かれてるか」について意識する必要を感じずに済んできた。最近「このままじゃ駄目だ」という声を聞く様になったが、迂闊にこの問題に取り組むと「大日本帝国時代の失敗の再来」が待ってる気がしてならない。
こうして振り返ってみると、確かに「日本人は何によって導かれてきたか」「これからは何によって導かれていくべきか」について考えるのは重要ですが、迂闊に特定の人物やシステムを想定するのは危険かもしれません。むしろ建前上「認識可能な現象の外側」に指導原理を求めてきたのが日本型統治システムの特徴で、その現実を直視してコンドルセやジョン・スチュワート・ミル流の「数理に忠誠を誓う臣民」を目指すのが正解かもしれないのです。そして皮肉にも、これこそがまさに明治時代の人間が実際に目指した路線だったのかもしれないという次第。「実際に当時成し遂げられた業績」よりも「絶えざるパラダイムシフトの激流の中を何とか泳ぎ切った業績そのもの」が重要なのですね。
さて、私達は一体どちらに向けて漂流してるのでしょうか…