諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】今そこにある中世?

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そもそもキューバとハイチの分岐点は「外貨獲得手段としての砂糖プランテーション」を維持して国力を保ち続けたか、解体して自作農に分配し極貧国落ちしたかにあったのです。 

この島にはもともと、南米を起源とする先住民族タイノ族が住んでいた。最初のヨーロッパ人は、1492年12月5日クリストファー・コロンブスの第一回目の航海中に到着した。コロンブスは当初、インドか中国を発見したと考えていた。コロンブスはその後、現在のハイチ北東部沿岸に、アメリカ大陸におけるヨーロッパ人初の入植地「ラ・ナビダッド」を建設した。

この島はスペインが領有権を主張し、ラ・エスパニョーラと名付けられ、17世紀初頭までスペイン帝国の一部となった。しかし、フランスの主張と入植が相次ぎ、1697年に島の西部がフランスに割譲され、その後、サン=ドマングと呼ばれるようになった。フランス人は、アフリカから連れてきた大量の奴隷を使ってサトウキビ農園を作り、世界で最も豊かな植民地の一つとなった。

フランス革命1789〜99年)のさなか、元奴隷でフランス軍初の黒人将軍であるトゥーサン・ルーヴェルチュールを中心に、奴隷と有色人種がハイチ革命1791〜1804年)を起こした。

12年にわたる戦いの末、ナポレオン・ボナパルト軍はルーヴェルチュールの後継者であるジャン=ジャック・デサリーヌ後のジャック1世皇帝)に敗れ、1804年1月1日にハイチの主権を宣言した。

これは、ラテンアメリカカリブ海地域で最初の独立国家であり、アメリカ大陸で2番目の共和国であり、奴隷制度を廃止した最初の国であり、奴隷の反乱が成功して成立した歴史上唯一の国家である。初代大統領のアレクサンドル・ペション以外、ハイチの初代指導者はすべて元奴隷であった。

国が2つに分裂していた時期もあったが、ジャン・ピエール・ボワイエ大統領が国を統一した後、エスパニョール島全体をハイチの支配下に置こうとしたため、一連の長い戦争が起こり、1870年代にハイチがドミニカ共和国の独立を正式に認めたことで終結した。

ハイチの独立後の1世紀は、政治的に不安定で、国際社会から追放され、フランスに多額の借金をしていた。政治的な不安定さと外国の経済的な影響を受けて、1915年~1934年アメリカがハイチを占領した。1956年ジャン・ピエール・ボワイエが大統領に就任し、1986年まで息子のジャン=クロード・デュヴァリエによる独裁的な支配が続きた。

1986年以降、ハイチはより民主的な政治体制の確立を目指した。しかし、選挙の争奪戦や情勢不安から、2021年ジョブネル・モイーズが暗殺された。

最後の事件で再び話題に。

背後に「(リベラルの間に国際的に蔓延する)中世暗黒時代への回帰願望」が散見されます。

Youやっちゃいな」はあだちとかノラガミ(2011年)」かと思った…まさかの元ネタ? 用法完全に意味深な形で変わっちゃってますが…

近代国家の超克」を目刺し続けた結果の成れの果て…

むしろこういう話につながっていくという…

欧州において中世と近世の狭間に「動物裁判」や「魔女狩り」が現れたのは(それぞれが勝手な独自解釈に基づく多種多様な自然法を奉じて独自暴力に拠って自立する)伝統的領邦や地域共同体が割拠し(殺し合いを含む)直接衝突を通じて利害調整する中世型地域分割統治」が限界に到達し、それらを解体しての「(暴力を独占する中央集権が領民間の利害衝突を客観的立場から仲裁する法実証主義に立脚する)近代国家」への移行が必須となったからなんですね。

そうした歴史的経緯から「Second best」の処方箋としての「近代国家=法実証主義社会」を否定すると、たちまち「(特定主体の)究極の自由は(他者にも自由がある事を徹底して否定し抜く)専制の徹底によってのみ達成される自由主義のジレンマに基づく強者独裁肯定イデオロギー(およびその反動としての革命肯定イデオロギー)に行き着いてしまいます。

  • 新興国家の政治的不安定を俯瞰するに、近代化条件は「(国土保全に十分なだけの火力と機動力を有する常備軍を国民からの徴税で賄う中央集権体制としての)主権国家」および「(1648年におけるヴェストファーレン条約成立を契機とする)国際協調体制の成立(歴史イデオロギー的にやっと完全成立したのはある意味、清朝辛亥革命(1911年)に倒れ、第一次世界大戦(1914年~1918年)なる総力戦を契機にハプスブルグ帝国、オスマン帝国帝政ロシアが解体した20世紀初頭だったとも)」だけでは語り尽くせない。

  • その裏面では確実に氏族=王統ロマンへの複雑怪奇な形での執着心からの決別の物語が進行してきたのである。

一歩油断すれば、第二次世界大戦後のフランスにおいて知識人が世論を「ナチス協力者の精算の最優先」に誘導しつつ、それに伴って実際に発生する「汚れ仕事」を「大戦中、本当に対ナチス戦争を戦い抜いてきた植民地軍人」に丸投げし続けた結果、シャルル・ドゴール元将軍などこちら系の人脈の大統領が強大な権力を有する強権体制へしか辿り着けなかった先例の二の舞。そこまで俯瞰出来て初めて「21世紀をも生き延びる知識人」を称する資格が得られるといえましょう。

あ、この観点だと以下の様な話題も統合可能ですね。

そもそも現代知識人は今日なお「身分制社会におけるブルジョワ・インテリ・政治的エリート階層としての有識者」が、産業革命のもたらした大量生産・大量消費時代によって(自らが生産従事者でありかつ消費者でもある様な新興階層としての産業ブルジョワ階層や労働者階層が台頭し)消費の主体から滑り落ちていった時代への対応が不十分なままなのかもしれません。

  • 確かに当初こそ「既存文化の担い手へのスノビズムノスタルジア」に支えられ、むしろ変わらないまま存続し続ける事をむしろ積極的に容認され続けてきた側面はあったのかもしれない。

    しばらく前に話題にした「伝統的エントロピー認識」に関わってくる話題。

しかしながら、さすがに21世紀に入るともうねえ…産業文明の時代はとっくの昔に離陸に必要な助走期間を終えてしまっているのです。