諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】「転生残酷物語」?

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元来「死んでも蘇っちゃう人」というのはこの世に強い無念を残して死んだ怨念の様な存在であり、ホメロスの時代からこの方、前近代的家制度下ではそれは(自分を祀ってくれる)末裔の繁栄や没落と結び付けられてきた訳です。

  • 個人的に永遠に何かを続けたいだけの業の深い存在(末裔に祀られなくても、それどころか末裔に危害を加えても気にしない)」が超自然的手段の介入によって蘇る山田風太郎魔界転生(1964年~1965年)」はある意味、こうした伝統へのネガティブなアンチテーゼとして登場してきた訳で、同時代には「前近代的家制度下で代々殉死を強要され続ける家系の悲劇」を描いた南條範夫被虐の系譜(1963年)」も発表されている。江戸川乱歩はこれらを「看板女優が上演回ごとに惨殺されては蘇るグランギニョール式演劇と結びつけて考えた。

  • 前近代的家制度の伝統がその影響力を失うにつれ(ロミオとジュリエットの悲劇譚が単なるラブストーリーの典型へと解体されていった様に)転生のポジティブな側面が強調される様になっていく。例えばSF/ファンタジー小説ライトノベルやゲーム小説などにしばしば見られる「ゲーム的に死ぬ都度工夫を凝らして生涯全体の質を上げていく」システム。例えば「本来の自分が抱えている怨念の強度と特徴」がそのまま転生後の強さとその方向性に反映される川原礫アクセル・ワールド(Accel World,2009年)」の世界。さらにはかかる構造の有無そのものが不死者になれるかなれないかを決定する大今良時不滅のあなたへ(2016年)」の世界。

その一方で「転生譚」はさらに新たな社会的役割りを振られつつある?

いずれにせよ身分流動性の喪失は革命の火種だったりする訳で、そうした速面についてもこれから掘り下げて考えていきたいと思います。そんな感じで以下続報…