元来「死んでも蘇っちゃう人」というのはこの世に強い無念を残して死んだ怨念の様な存在であり、ホメロスの時代からこの方、前近代的家制度下ではそれは(自分を祀ってくれる)末裔の繁栄や没落と結び付けられてきた訳です。
- 「個人的に永遠に何かを続けたいだけの業の深い存在(末裔に祀られなくても、それどころか末裔に危害を加えても気にしない)」が超自然的手段の介入によって蘇る山田風太郎「魔界転生(1964年~1965年)」はある意味、こうした伝統へのネガティブなアンチテーゼとして登場してきた訳で、同時代には「前近代的家制度下で代々殉死を強要され続ける家系の悲劇」を描いた南條範夫「被虐の系譜(1963年)」も発表されている。江戸川乱歩はこれらを「看板女優が上演回ごとに惨殺されては蘇る」グランギニョール式演劇と結びつけて考えた。
- 前近代的家制度の伝統がその影響力を失うにつれ(ロミオとジュリエットの悲劇譚が単なるラブストーリーの典型へと解体されていった様に)転生のポジティブな側面が強調される様になっていく。例えばSF/ファンタジー小説やライトノベルやゲーム小説などにしばしば見られる「ゲーム的に死ぬ都度工夫を凝らして生涯全体の質を上げていく」システム。例えば「本来の自分が抱えている怨念の強度と特徴」がそのまま転生後の強さとその方向性に反映される川原礫「アクセル・ワールド(Accel World,2009年)」の世界。さらにはかかる構造の有無そのものが不死者になれるかなれないかを決定する大今良時「不滅のあなたへ(2016年)」の世界。
その一方で「転生譚」はさらに新たな社会的役割りを振られつつある?
「リベラル化」の潮流が若者を絶望に追い込み、「無理ゲー社会」を生んでいる https://t.co/6FLblHO8bl
— 加藤AZUKI(芸歴三十ン年)@「忌」怖い話 大祥忌 (@azukiglg) 2021年8月8日
だから異世界転生物が救済のための信仰として流行り一定の定着を見せたのではないか。
この分野は輪廻転生観、多神論、人間くさい神々など、日本の土着的信仰観と相性がよく、リセマラで現世を捨てたい意識を肯定的に後押しするのではないだろか。
— 加藤AZUKI(芸歴三十ン年)@「忌」怖い話 大祥忌 (@azukiglg) 2021年8月8日
早い段階で先行者に追いつけない差が付いてしまったとき、ゲームの残りはボーナスに乏しい消化試合になるので、そんなもんはやりたくない。
— 加藤AZUKI(芸歴三十ン年)@「忌」怖い話 大祥忌 (@azukiglg) 2021年8月8日
もし、「今のゲームをやめても次がある」ってなれば、それは救済になるから「あればいいな」はもてはやされる。
まあでも、「個人」を持て囃すと「成果が出せないのは個人の落ち度」ってなる。
— 加藤AZUKI(芸歴三十ン年)@「忌」怖い話 大祥忌 (@azukiglg) 2021年8月8日
でもそれは後ろめたいから「劣化個人に救済を」というリベラルとは相容れなさそうな主張が共存してくる。いやもうどっちやねん。
いずれにせよ身分流動性の喪失は革命の火種だったりする訳で、そうした速面についてもこれから掘り下げて考えていきたいと思います。そんな感じで以下続報…