諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【諸概念の迷宮:総集編】媒介変数としての「日本の警備員」?

私がはてなブログに投稿を開始したのは2016年からですが、なんとなく「これまでのまとめ」的な事をやってみたくなったです。

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「法に則ってサービス化された正義の代行業務」としての日本の警備員

ガードマン(Guardsman)は、一応それに対応する英語こそ存在するものの「番兵、近衛兵」を意味する言葉で日本語において比較的意味の近い言葉を探すと「守衛さん」といったニュアンスとなってしまいます。警備業法第15条において「警備業者及び警備員は、警備業務を行うに当たつては、この法律により特別に権限を与えられているものでないことに留意するとともに、他人の権利及び自由を侵害し、又は個人若しくは団体の正当な活動に干渉してはならない」と定められる「日本の警備員」はあくまで別概念。ここであえて私人との同等性が基本原則として宣言されているのは「公共の安全と秩序の維持」の為に職務質問や取り調べや交通整理を遂行する警察業務との異質性を強調する為だったりします。

 

日本の法律が定める警備業務をあえて「法に則ってサービス化された正義の代行業務」と要約するなら、ここでいう「法に則った正義」は「施設管理権(Facility Management Right)」つまり「特定の施設(住居邸宅等の建造物・建築物、土地・用地等)の管理者(所有者=施設管理権原者およびそれより管理権を全面的あるいは部分的に委託・委任された法人・個人)がその施設を包括的に管理する権利権限」に該当する事になる訳です。

ところが困った事にかかる「施設管理権」なる表現、英語話者に全然通じないのです。それで警備の現場ではしばしばこれを「私有財産(Private Property Rights)」と言い換えざるを得ず、その時点で初めて納得してもらえる局面を迎えます。「私有財産」すなわち「土地や生産手段や消費財といった一切の財産が原則として個人ないしは法人によって私的所有され、かつその私的所有権が法律などにより保障されているという資本主義社会の基本原則」。(マルクス主義史観でいうところの古代奴隷制や中世封建制においては)伝統的地域共同体や封建領主といった法的根拠の曖昧な存在から恣意的かつ多層的な侵犯を強要されてきたとされるそれは(近世における階層的整理を経て)資本主義社会では「社会的・公共的観点から勘案して種々の法的規制を加える」国家の掣肘のみを意識すれば良くなり、かつその結果初めて「サービス化」すなわち「書面に明示された契約内容に従った権利原者からそれを代行する個人や法人への委任」を安定してスムーズに遂行する準備が整ったとも言えそうなのです。

明治時代の訳者は「自由」なる訳語で英語におけるFreedomLibertyなる相反概念の統合を試みました。両者が相反するとはどういう事でしょう。Freedomに当てられた「自由」なる言葉は元来仏教用語で、それまで「(自らの都合のみに拠って)勝手放題する」ネガティブなニュアンスしかありませんでした。一方、Libertyは元来上掲の様な掣肘状態から解放されている有様を指し、明治時代の訳者の一部はその訳語に「切捨御免」の「御免」を当てる事を検討していたといいます。こうした緊張関係をあえて「(支配側)が自由に(好き勝手)食べ散らかす権利」と「被支配側)が自由に(好き勝手)食べ散らかされない権利」の対峙という形で表現し直すと問題の全体像が浮かび上がってきますね。

 

最近欧米では暴力革命(Violent Revolution)の先に民主集中制(Democratic Centralism)樹立を目指すマルクス主義も、暴走して「狼が好き勝手食べる権利」ばかり主張する様になった大企業社会自由主義(Social Liberalism)も一緒くたにして(上掲のニュアンスにおける)前資本主義社会への回帰を志向する「暗黒啓蒙主義(Dark Enlightenment)」と罵倒したがる傾向が見て取れます。しかしながら上掲の様な伝統主義に構造上対峙するのはあくまで(英国で薔薇戦争チューダー朝開闢の契機となった様に、公益同盟戦争とフロンドの乱における大貴族連合の自滅が台頭の契機となった)フランス絶対王政や(独立直後の混乱で地域間、および工場主と労働者、農場主と小作人の対立が激化したイタリアを、いわゆる「和階」精神で再統合しようとした)ムッソリーニファシズム全体主義的国家観であり、かつマルクスの著作自体に民主集中制を称揚する言及がない一方(つまり源平合戦同様、もはやどちらが善でどちらが悪か峻別する事自体に意味がない。「どちらの体制の方が有能な統治者を輩出し得るか」という確率論に過ぎず、それ自体についてカール・マルクス自身は言及していない)、スターリン習近平への権力集中はむしろ絶対王政再来を思わせ(中国人有識者は中国の現状を「(中央集権制の浸透によってそれまで社会を支えてきた伝統的社団が尽く崩壊していく一方、肝心の中央宮廷が次第に高まる貧富格差不満を直接調整する能力の獲得に至らず政況が不安定化していった)フランス革命前夜」に位置付けているともいう)、かつ革新側は革新側で「保守サイドこそ暗黒啓蒙サイドに汚染されつつある」と主張している事から事態は混迷を深めるのです。この状況は数学的には「どちらが元(Elements)でどちらが逆元(Inverse Elements)かこそ自明ではないが、両者の直積(Direct Product)として顕現する現代資本主義社会はどちらとも直交(Orthogonal)するただ一つの単位元(Identity Element)を構成する」と表現する事が可能かもしれません。

そう、あたかも物語論(Narratology=ナラトロジー)において英国軍医のスコットランド人妻ヘレン・バンナーマンの絵本「ちびくろサンボ(The Story of Little Black Sambo,1899年)」においてインド人アフリカ人ライオンに置換可能な様に、そうした細部はどうでも良いのです(ただし数学によらず「置換」は時として対象座標軸の向きの逆転を意味するからそれだけは要注意)。肝心なのは「激しいデットヒートの末にバターだけが残る」展開だけで、この部分こそが物語文法上の骨子を構成している訳です。

もちろんそのバターが無塩かどうかも物語の全体構造に影響を与えませんし、なんなら最後に残るのが蜂蜜だって構わない訳です。ウラジミール・プロップのロシア構造主義からレヴィ・ストロースフランス構造主義に継承された数理社会学で説明するならそうなります。いずれにせよ、こうした意味合いにおける警備業を巡る物語は、如何なる写像(Map)でも必ず「(サービス化まで視野に入れた最も弱められた形での)統治権問題」を包含する事自体は避けられません。氏族伝承譚の多くが、伝統的在地有力者が自らの現地への影響力を正当化を主目的としてきた様に、それを語り継いできた様にその部分こそが物語文法状の骨子を興成しているからなのです。

そして事の本質が「統治権の経済的利用価値」と定まった以上、警備員を巡る物語は歴史上における類似的存在、すなわち「傭兵」や「江戸時代における旗本のあり方」などと結び付けて考えざるを得なくなってきます。特に戦争期間中だけ雇用され、平時には後腐れなく解雇されてしまう「傭兵」的存在と異なり、「(幕末に勝海舟から「雛壇の雛人形」と揶揄された、原則として毎日24時間交代で代々の指定ポストに上番/下番して当直しているだけの)勤番侍」か「(それにすらありつけず、かといって俸禄だけで暮らすのは困難という危機的状況に直面した)無役」なる極端な二択を迫られた「江戸時代における旗本のあり方」は、結局「世界史上初の国際協調体制」の構築には成功しつつ「(「暴力的手段を国家が十分に独占している現状」を法源とする法実証主義に基づいて原則として領土保全に十分なだけの機動力(当時は特に帆船による搬送力と最新築城術導入や大部隊駐留を可能にする兵站能力も視野に入れた防衛拠点維持力)と火器装備を実現した常備軍を中央集権的官僚制が徴税によって賄う主権国家(Civitas Sui Iuris)」間の戦争に明け暮れたが故にこの問題が当時はそこまで表面化しなかった欧州近世とは異なり、より極限に近い困難な対応を先行して迫られる展開を迎えたのです。

より極限に近い困難な対応を先行して迫られた」といっても、それほど人類史上画期的な先例を残せた訳でもありません。しばしば江戸城がフランス絶対王政を象徴するベルサイユ宮殿より巨大な規模を誇った事が誇らしげに引き合いに出されますが、その内実はあくまで勝海舟が看過した「雛壇上の雛人形」であり、かつ京極夏彦の第二十五回泉鏡花文学賞受賞怪談「嗤う伊右衛門(1997年)」の内容に端的に示された様な不毛かつ過酷な生存競争に過ぎなかった訳ですから。

こうした構造的空虚性の映像表現に成功した怪作として、とりあえず南條範夫歴史小説被虐の系譜(1963年)」を原作とし萬屋錦之助が当事者7代を力演した第13回ベルリン国際映画祭金熊賞受賞映画「武士道残酷物語(1963年)」、仲代達矢主演の豊田四郎監督映画「四谷怪談(1965年)」、不義密通の濡れ衣を着せられ道行きの果てに死に追いやられる男女を郷ひろみ岩下志麻が演じた近松門左衛門原作第36回ベルリン国際映画祭コンペティション部門銀熊賞 (芸術貢献賞)受賞映画「槍の権左(1986年)」の3作を挙げておきたいと思います。現在から振り返ると「武士道残酷物語」「四谷怪談」は高度成長期特有の「清貧に殉ずる英雄として死ぬか、傲慢の限りを尽くした悪党として死ぬか」的葛藤、「槍の権左」がバブル到来前夜のいわゆる「80年代的空虚な浮かれ騒ぎ」の影響を色濃く受けており、それ自体が当時の空気感(Atmosphere)を後世に伝える貴重な歴史資料でもあったりする次第。

こうした歴史展開故に、欧米における「平時の軍隊や警察の人材不足を補う補助機関」としての警備員のイメージを統合すると「(退役軍人や元警察官を多く含み)身体こそ屈強だが(自らも反社や不法移民社会とズブズブの関係にあリながら)目を離せばすぐに不法移民やホームレスを殴り殺す様な粗暴で卑しい存在でもあり、それ故に低賃金や長時間に渡る不安定な身体拘束といった劣悪な労働環境に甘んじている下等な必要悪」といった最悪の形になり、その影響は某大手企業役員の「警備員の様に景気を昇給に反映させるのが困難な職種も存在する」発言から、警備員を「通常制服を着用し、 護身用具を携帯して業務に従事し、 しかも、人の生命、身体、財産等を守ることを主な業務とする」事から一般人の目には警察類似の行為をしているように見える場合があり、かつ「警備員自身も行き過ぎた行為等をしがちである」と位置付ける日本の警備業法にまで及んでいるのでした。

外国の警備業に関する調査研究報告書
同時に日本の警備員は原則として「決して軍人や警官と見間違える事のない(かつ事前にしかるべき筋に届け出済の)ユニークな服装」で服務し、かかる厳格な警備員法上の条項を遵守する事によって、その侵犯によって発生する諸問題の責任を問われる事を未然に回避している側面もある訳です。しかも日本の警備員は毎年の現任研修によってかかる自分の立場を意識し続ける事を義務付けられてもいたりします。

  • 職務質問類似行為の禁止…警備業務対象施設内等において、不審な人物を発見した場合は、施設管理権等に基づき、私人として許される範囲内で質問等を行えるだけであって、警察官職務執行法第2条に定める職務質問のような特別な権限はないものとする。
  • 取調類似行為の禁止…現行犯人を逮捕した場合には、直ちに警察官等に引き渡さなければならず(刑事訴訟法第214条)、取り調べ類似行為を行うことはできない。 
  • 交通整理類似行為の禁止…誘導現場において、警備員の行う交通誘導警備業務は、人や車両の危険を防止するため、通行者の協力を得て行う任意のものであって、道路交通法の規定によって警察官等が行う交通整理のような強制力はない。
  • 自由や正当な活動の侵害の禁止…業務を行うに当たっては、法令で保護されている他人の権利及び自由を侵害すること、また、明白な権利、 自由の侵害でなくても労働争議等、正当な活動に不当な影響を及ぼすことのないようにする。

しかし日本の一部人権派法律家は「民法709条に定める因果関係の立証責任」を問われない民法719条を駆使してさらに追い討ちをかけてきます。「1.数人が共同の不法行為によって他人に損害を加えたときは、各自が連帯してその損害を賠償する責任を負う。2.共同行為者のうちいずれの者がその損害を加えたかを知ることができないときも、同様とする。行為者を教唆した者及び幇助した者は、共同行為者とみなして、前項の規定を適用する」。これは欧米でも「前近代的復讐法に由来する近代民法の欠陥」と非難されている危険な条項で、実際ナチス・ドイツはこれを法源としてレジスタンスによる被害を受けた地域において「レジスタンス組織との関係が立証可能かどうかを問わず、正当な報復として」現地住民への虐殺を粛々と遂行したのでした。聞くところによれば前掲の「日本の一部人権派法律家」は「警備員の如きナチスの差別主義者をナチスの法運用に従って裁くのは正当な報復行為であり、それ自体崇高な人道的立場の履行である」と自らの立場を正当化している様です。実際、例えば「警備員の誤った交通誘導によって発生した交通誘導によって死者まで出てしまった場合(おそらく前近代的復讐法に由来するであろう民法719条は、海外の「先例」に鑑みても怪我人が出た程度では発動しない)」について「誤った誘導をした警備員が全面的に免責されるのはおかしいから、かかる例外措置が必要に応じて認められるのは仕方がない」とする声もある様です。実際の日本の警備業界は耄碌して引退したリタイア組や、もう一つの職場での無理が祟ってヨレヨレ状態のダブルワーカーや、働く時間が選べる事に魅力を感じた子育て中の主婦の受け皿になってたりする訳ですが、たまたま(長時間拘束もあって)集中力が枯渇して死人を出す過失事故を起こしてしまった瞬間に生まれつき最初から「ナチスの差別主義者」であったという烙印を押され、その後の人生が完全に終焉してしまう訳ですね。現認研修でかかる過酷な現実についてまで教えてもらえる事はまずありません。

こうした全ては、要するに日本の警備員が立つ現場が、どんなにそれらしく見えない体裁であったとしても尽く「(普段は目に見えないが、実際にはまごう事なくしかるべき統治者が「統治の自由」の代償として背負うしかるべき統治責任が顕現する)統治権遂行の最先端」だからこそ起こるのです。その一方で長屋で暮らす下級武士が効率を追求した結果到達した内職の分業が日本における「工場制手工業」の初出例となった様な思わぬ展開もあります。まずはそういう矛盾だらけでそれなりの整合性を見出すのも困難なのが日本の警備業であるという事から出発したいのです。

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由liberty)」と「消費demand)=生産Supply)」と「実証主義positivism)=権威主義Authoritarianism)」「敵友主義適応主義Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。

意識してやった訳じゃありませんが、一応は「(長年自分でも読み返す事すらなかった)ブログ巻頭言への回帰」という体裁になったみたいですね。そんな感じで以下続報…