諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【2020年代的風景】作家主義時代の終焉?

作家主義時代の終焉」ですと?
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後期ハイデガーは「技術への問いDie Frage nach der Technik、1954年)」なる論文の中で「シュテレンstellen、人を突き動かす何か)」の不当な総元締めとして「集-立Gestellシステム特定の意図に基づいて手持ちリソースを総動員しようとす体制)」の集合体(「究極の自由主義専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマを多様で多態的な諸構造の勢力均衡状態によって抑制する対立構造)を想定し「そのどれもがそれぞれ容易く自己目的化してしまい、真理の世界アレーティアへの到達を願う本来の悲願を忘却してしまう」と告発。ある種の作家性だけがこの弊害を免れるとしました。「なんでもXX道にしてしまう日本人」なんて概念もこれで説明がつきます。

しかし実は過去と未来を貫く形で存在してきたのは下部構造その主体が生活している環境、すなわち後期ハイデガーいうところの集-立(Gestell)システムこそが上部構造その生活空間で採用された言語環境、すなわち後期ウィントゲンシュタインいうとことの言語ゲーム(Sprachspiel)やベンヤミンいうところのパサージュ(Passage)の認識範囲を決定してきた」すなわち「下部構造作家が生計を立てる手段こそが上部構造その作家が発表し得る作品の内容を決定してきた」という冷徹な原理だけだったのかもしれません。

 今回の出発点は以下の一連の投稿です。

「ミメーシス(模倣原理)」の概念は「真理(アレーティア)中心主義」の立場からすれば「イデア(本来大源流にあるべき理想型)への回帰願望」となるのだけど、かかる理想主義(あるいは指針)を見失うと、容易く商業至上主義に…

 過去投稿で掲げてきた歴史観と突き合わせてみると…

そんな感じで以下続報…