「作家主義時代の終焉」ですと?
後期ハイデガーは「技術への問い(Die Frage nach der Technik、1954年)」なる論文の中で「シュテレン(stellen、人を突き動かす何か)」の不当な総元締めとして「集-立(Gestell)システム(特定の意図に基づいて手持ちリソースを総動員しようとす体制)」の集合体(「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマを多様で多態的な諸構造の勢力均衡状態によって抑制する対立構造)を想定し「そのどれもがそれぞれ容易く自己目的化してしまい、真理の世界(アレーティア)への到達を願う本来の悲願を忘却してしまう」と告発。ある種の作家性だけがこの弊害を免れるとしました。「なんでもXX道にしてしまう日本人」なんて概念もこれで説明がつきます。
しかし実は過去と未来を貫く形で存在してきたのは「下部構造(その主体が生活している環境、すなわち後期ハイデガーいうところの集-立(Gestell)システム)こそが上部構造(その生活空間で採用された言語環境、すなわち後期ウィントゲンシュタインいうとことの言語ゲーム(Sprachspiel)やベンヤミンいうところのパサージュ(Passage)の認識範囲)を決定してきた」すなわち「下部構造(作家が生計を立てる手段)こそが上部構造(その作家が発表し得る作品の内容)を決定してきた」という冷徹な原理だけだったのかもしれません。
今回の出発点は以下の一連の投稿です。
テキトーなことを云うと、作者、作家の時代ってのはもうオワコンではないだろうか。作家主義的な時代は、高尚なアートの進化系ではなく、単なるブーム、一過程で、大きな意味でのポピュラー文化の中に埋没するのではないか。もっと言うなら作家主義文化と無記名の大衆文化を分けるものは無いだろうか。
— 角田 亮 (@RyoTsunoda) December 4, 2018
映画の話というより、スタンダール以後の近代文学は、個人的な内面を模索する描写で、作家個人の存在が、大衆文化より高尚な芸術を生み出したような解釈が一般だと思うのですが、今の状況を見ていると、それは出版というメディアと市民階級という受け手が現れた時代で、実は大衆文化の変奏に過ぎない。
— 角田 亮 (@RyoTsunoda) December 4, 2018
最近は、芸術でも娯楽でもいいけど、進化や進歩はしない。ただ描き方の技術が変わるだけと考えている。その意味でも19〜20世紀の作家主義は、同時代の人文・自然科学の影響を受けた方法論のようなもので、そこにマーケティングとしての孤高のロマン主義が加わり、作家というスターが誕生する。
— 角田 亮 (@RyoTsunoda) December 4, 2018
もちろん、その次代の小説の面白さは否定しないが、トレンドとしての作家主義が21世紀になって、急速に神通力を失ったのは、それが民主化され、誰でも作家になれる時代になったからではないか。不思議なことに、そこでは「物語の消滅」が同時に起きている気がする。今の創作を目指す若者は物語を書けず
— 角田 亮 (@RyoTsunoda) December 4, 2018
キャラクターや設定ばかり描くと嘆く識者がいたが、それは当然ではないかと思った。作家の時代が終わり、再び大衆文化の時代が顕在化しただけのような気がする。勿論以前の大衆文化ではなく、作家主義の影響を経たものだ。それは今のハリウッド映画を見ると理解できると思う。物語の消滅は消費だった
— 角田 亮 (@RyoTsunoda) December 4, 2018
消費された物語を空白を歩く手段が、ゼロ年代のセカイ系というやつだったのではないか。ハリウッド映画でも90年代後半から、20年間の流れを見ていると似た感覚があるような気がする。そこを突き抜けた先が、キャラや設定で「物語」を楽しむ、あるいは豊かに描くという方向性になっているのではないかな
— 角田 亮 (@RyoTsunoda) December 4, 2018
こういっては何だけど、作家主義=オリジナル神話=新奇な物語の方程式は、商業性と著作権による現代の神話で、大衆文化の模倣性、非オリジナルを低いものだとする20世紀の残滓のような気がしています。だから作家主義はトートロジーに陥り、安売りされ続け、そこから新しいものは現れないのではないか
— 角田 亮 (@RyoTsunoda) December 4, 2018
新しいものが生まれないというのは言い過ぎかも知れないが、それは逆に古典が更新されないと言ってもいいかも。20世紀後半に新しい古典が無いのかと云うとそうは思わない。逆に多すぎるから選べないのだと思っている。要はそれくらいレベルが上っているから、誰も気が付かない状態。
— 角田 亮 (@RyoTsunoda) December 4, 2018
アメリカのポストモダンの小説家が、我々は毎日つけっぱなしのテレビのワイドショーで、ドストエフスキーの小説の世界を浴びるように見ている。そういう時代に文学が何を描けるのかと書いていた。それが気になっている。でも作家主義のアプローチだと、12時間のドストエフスキーの現代版観察映画だろう
— 角田 亮 (@RyoTsunoda) December 4, 2018
書いているうちに整理されてきたが、作家主義(人間の内面を見て物語を語ると定義してみる)は、カメラの延長だったのではないか。それはカメラが存在しない時代から、カメラが見世物だった頃までは有効だったが、リアルタイム、高解像度になるにつれ効力を失っていった。
— 角田 亮 (@RyoTsunoda) December 4, 2018
それでもまだ有効なのはマジックリアリズム的な手法。しかしそれはもう信用できない語り手の問題と矛盾するため、作家は全知全能の神の位置から降りることになるし、必然的に物語の構造も維持できなくなる。それでも物語を語ろうとすると、時空が解体された複数の語りから成る世界にしかならないと思う
— 角田 亮 (@RyoTsunoda) December 4, 2018
我ながら何を言っているのか手探りだけど、上記の方向に進むと、不思議なことに最終的には。古来の大衆文化の語りになっちゃうんだよね。歌舞伎などの古典芸能、あるいは神話や民話。マーヴェル・ユニバースとはまさに言い得て妙な表現。話を戻すと若い人が世界の設定を描きたいというのは必然の流れ
— 角田 亮 (@RyoTsunoda) December 4, 2018
ついでに云うと、近年のゴダールが自分で映像を撮らなくても自分の映画にしてしまうのも、逆説的に作家主義の終焉とその先の模索だと考えている(彼はわざと他人のゴダール神話を商業的に利用しているけど、それは生存戦略に過ぎない)。その意味で、マーヴェル・ユニバースに対抗しているはずだ!
— 角田 亮 (@RyoTsunoda) December 4, 2018
まだ勉強不足だけど「ミメーシス」の概念が使えるのではと、ぼんやりと考えている。ただそれを阻むのが、著作権とオリジナル神話という20世紀の教育。でもね、それが既に崩壊している現実があって、それを表す言葉もある。それは「フェイクニュース」。だから個人的に善悪を越えて一概に否定できない
— 角田 亮 (@RyoTsunoda) December 4, 2018
「ミメーシス(模倣原理)」の概念は「真理(アレーティア)中心主義」の立場からすれば「イデア(本来大源流にあるべき理想型)への回帰願望」となるのだけど、かかる理想主義(あるいは指針)を見失うと、容易く商業至上主義に…
ゴシックやバロックのように当時、馬鹿にされた蔑称が、新しい時代を生み出したように、最悪のなかにある真実を見出すことができるのか。『勝手にしやがれ』だって、美学的な高尚さではなく、アメリカのB級ジャンル映画を手持ちカメラでニュース映像のように撮って、映画史を更新したのだからね。
— 角田 亮 (@RyoTsunoda) December 4, 2018
20世紀の最後あたりから、よく考えると面白いと思った小説は、みんな陳腐で感傷的な出来損ないのテレビ番組のザッピングみたいな感じだ。JGバラード、ウェルベック、パラニューク、カズオ・イシグロ、ソローキン…。
— 角田 亮 (@RyoTsunoda) December 4, 2018
前にもツイートしたけど、80年代ロシアの「ターボ・リアリズム」運動というのが興味深かった。当時の体制で許されていたSFを使ってリアリズムを描く小説形式が継承された。マジックリアリズムのロシア版というべきローカライズ。これは日本だと、80年代のOVAや90年代のJホラーに当たるのかなあ。
— 角田 亮 (@RyoTsunoda) December 4, 2018
フェイクニュースは現象としては問題だけど、フェイクニュースの持つ、虚構世界のリアリズムみたいなものを掘り下げることが必要なんじゃないのかな。それは作家個人の視点からではなく、もっと複数の視点から成るリアリズム(でも嘘かもしれない)の描写。それは既存のメディアでは不可能かも知れない
— 角田 亮 (@RyoTsunoda) December 4, 2018
そういう兆しを探し求めるのが楽しい。だから今はとても刺激的だ。オリジナルの物語をつくるより、創り手が世界の設定やキャラクターを育成すれば、読み手が勝手に物語を走らせるような形になっていくんじゃないのかなあ。新たなテクノロジーを使った新しい古典芸能の時代としてね。
— 角田 亮 (@RyoTsunoda) December 4, 2018
でもね、ここに書いたようなことを、先月公開されたオーソン・ウェルズの遺作『風の向こうに』で、40年くらい前にやっちゃっているのだよ。これはショックだった。作者とは誰か、映画の視点は誰が撮って編集して作り出しているのか。そもそもそれは真実なのか嘘なのか。複雑さと明確さの衝突が凄い。
— 角田 亮 (@RyoTsunoda) December 4, 2018
話は最初に戻るけど、古典名作小説を大衆文化の文脈で読み直すって事が必要になる時代が来るんじゃないかな。まあ商業主義とアカデミズムが作家の神話を崩すことを阻むと思うが。
— 角田 亮 (@RyoTsunoda) December 4, 2018
過去投稿で掲げてきた歴史観と突き合わせてみると…
そんな感じで以下続報…