ちょっとネットを検索してみましたが、20世紀まであれほど繰り返し語られ続けた「日本は出島文化圏」なる主張が跡形も残ってません。これはどういう事?
今回の投稿の契機は以下のTweet
個人的メモ。やはりどうやら暴走Jフェミや暴走Jリベは「(今はもうイデオロギーとしては完全に崩壊し尽くした)マルクス主義の残滓」っぽい事について。例えば戸坂潤 「イデオロギーの論理学(1930年)」にこうあります。「大衆は多様性に振り回されている限り…https://t.co/5kYOyqJrAd
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月1日
1925年には既に治安維持法が成立しており、迂闊に暴力革命について触れられなくなったので「民主主義の訓練」という曖昧な言い回しになったとも。同様の表現は「無政府主義者」大杉栄の文章にも見受けられますが「有識者の教導」を「官警による取締りの同類」と置いて「発意の合わせ方」に力点を置きます。
いずれにせよ1935年までに共産党勢力は一層されてしまう訳ですが…
「…無力な烏合の衆に過ぎない。従って訓練を受け一枚板に組織されねばならない。民主主義が無力なのは、大衆がそういう形で組織されていないからであり、マルクス主義だけが彼らを正しくそう訓練する方法を提供する」。ところが「大衆を正しく訓練する方法論」そのものは失われ…
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月1日
「大衆の多様性を憎む嫉妬心」と「大衆を正しく訓練したいという欲求」だけが残ったので暴走状態に陥り「自己保存欲求を超えて目に付いたもの全てを破壊し尽くそうとする破壊の権化」へと化けてしまった訳です。なまじフランス革命やクメール・ルージュを理想視してしまった事も暴走に輪を掛けた模様。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月1日
1960年代から1970年代にかけて盛り上がった学生運動家達は、既存左翼がそうやって「行き詰まった」からこそ自分達の時代がやってきたと考えた様ですが、その一方で本当に「死んだマルクス主義」の代替イデオロギー(日常生活を包括的に説明する形而上学的根拠)代替案を真剣に吟味した形跡は見られず「これまでのやり方では駄目だ。俺達にやらせろ」と世代交代を要求していただけとしか思えないのです。
実際には国際的には当時はガーシェンクロンの「後発性の優位(キャッチアップ型工業化)」理論が勝利していく時代でした。なまじマルクス主義が崩壊したらが故に「ソ連における工業化の成功」を説明する代案制定が急がれたのです。いわゆる「開発独裁」を肯定する立場…https://t.co/GDH6LkLdn3
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月1日
この理論はソ連ばかりかドイツ帝国、大日本帝国、中華人民共和国、ベトナム、台湾、大韓民国における工業化の成功を一まとめに説明します。暴走J リベは、おそらく大日本帝国の発展も肯定される事を嫌ってこれに背を向け…
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月1日
最近の私は「サン=シモン主義」を採用したフランス第二帝政(1852年~1870年)における産業革命導入をさらなる前史に置く様になりました。
「大衆から多様性を排除し続ける振る舞いだけが正義(指導者としての自らの立場の安泰)を実現する」なる支離滅裂な立場に留まり続けます。すぐにこの恐るべき現実が表面化しなかったのは20世紀後半にはフランスからのポストモダン思想の流入やニューアカ・ブームがあって彼らの目を逸らせたから。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月1日
こうして21世紀に入ると、とうとう暴走Jリベが(暴走Jフェミや暴走Jエコといったバリエーションを派生させつつ)その支離滅裂な正体を暴露しますが、もはやこれを何とか誤魔化して辻褄を合わせようとする「良識派」が衰退してしまったので、今や「大衆そのもの」がその脅威に直面する様になったのです。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月1日
それではここでいう「良識派」とは?20世紀末にはまだ「日本は出島文化」という表現が残っていました。それは日本の大衆は国際交流の現場に乗り出すには未熟で幼稚過ぎるので「選び抜かれた有識者」が日本全体を代表してこれを行なってきたし、未来永劫このシステムは存続するというもの。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月1日
インターネットが普及するにつれ全く聞かなくなり、その一方でむしろ「大衆そのもの」の方が国際交流の現場に急速に馴染み、むしろ「選び抜かれた有識者」の方が国内に閉じこもり、事ある事に未熟さや幼稚さを曝す様になったのです。こう考えると全体像が俯瞰しやすくなるとは思いませんか?
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月1日
インターネットが普及するにつれ全く聞かなくなり、その一方でむしろ「大衆そのもの」の方が国際交流の現場に急速に馴染み、むしろ「選び抜かれた有識者」の方が国内に閉じこもり、事ある事に未熟さや幼稚さを曝す様になったのです。こう考えると全体像が俯瞰しやすくなるとは思いませんか?
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月1日
つまり昨今のインターネット事情は、石をどかしたらその下に隠れて暮らしてきたダンゴムシの類が一斉に動き出した、そんな感じとも。
そもそも「大衆から多様性を排除し続ける振る舞いだけが正義(指導者としての自らの立場の安泰)を実現する」イデオロギーはマルクス主義伝来以前から儒者のイデオロギーとして実践されてきたとも。要するに自称「選び抜かれた有識者」には最初から先天的に自己更新の能力など備わっていないのかも。
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月1日
それはもはや保守主義では?実際、最近の暴走Jリベや暴走Jフェミは「お前達がやってる事はフランス近代芸術に加えられた弾圧や(黒人公民権運動やヒッピー運動を引き起こしてしまった)米国インテリの知的怠慢と同じだ」と指摘しても一切怯みません。もはやそう決めつけられる事が「革新主義的には死」なる認識すら継承していないのですね。それどおろか「今の私達が正しいのだから、彼らもまた正しかったのだ」と開き直る始末。「出島有識者」達は、置き土産にこんな生物の大群を残していったのです。
皮肉にも海外には「表現規制の歴史をそれなりに正当化するイデオロギー」自体なら差存在し、その論理展開の堅牢性故に私も採用してるくらい。これが日本に伝わっていないのは単なる「出島有識者の知的怠慢」の結果と言えましょう。
ただ一応「マルクス主義的イデオロギー」そのものについては、1970年代まではまだ海外から更新情報が流れてきたという話もあり、その頃までは一応アップデートがなされていたとも。要するにベトナム戦争終了後の中国とベトナムの戦争、およびクメール・ルージュの実態暴露によって思考が停止し…
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月1日
今日なお思考そのものは停止し続けているという考え方ですね。もはや「首から上なんて飾りです」状態で、これではセルフバグフィックスどころかインターフェイス自体が死んでるので会話など成立する可能性すら存在しませんね。そんな感じで、以下続報…
— Yasunori Matsuki (@YazMatsuki) 2022年5月1日
そんな感じで以下続報…