このサイトの重要な主題の一つである「事象の地平線としての絶対他者を巡る黙殺・拒絶・混錯・受容しきれなかった部分の切り捨てのサイクル」の一環…
映画「クルージング(Cruising, 1980年)」
「米国における同性婚合法化」当日(2014年6月26日)のネット上での会話
その当日、とある同性愛者カップルがネット上で「また少し世界が狭くなるね」と発言した。「家族はは人種の再生産の場ではない。異性愛者のカップルが子供が同性愛者である可能性に配慮して偏見を排除した子育てを行わなければならない様に、同性愛者のカップルもまた子供が異性愛者である可能性に配慮して偏見を排除した子育てを行わなければならないのだ」とも。
確かにある意味、宗教界や政治の世界は「生涯貞節を誓う伴侶は一人たるべき」なる伝統的価値観を存続させる為に「その対象は異性たるべき」なる価値観を放棄する道を選んだのである。その判断自体は人類史上における大いなる進歩だが当然「犠牲」もあった。実際には「生涯貞節を誓う伴侶は一人たるべき」なる価値観に同意しこれを精神的救済と考える同性愛カップルが大半であるにせよ、既に異性愛カップルも大半が受容済みの価値観だったにせよ「相手が一人では満足出来ない」乱交派が同時に隔壁の向こう側に決定的な形で切り捨てられたのである。そしてこの日はまさしく、その事実を何の偏見もなく偲べる「最終日」でもあったという事である。(既存価値観を延長するだけでは実現不可能な)パラダイムシフトとは、既存価値観の更新とは、まさにこういう苦々しい結末を迎える事を避けられない。
*乱交派…ネット上には乱行パーティを至高とするポルノまがいのバイセクシャル・両性具有系ポルノサイトが無数に存在する。当日にはこうした退廃的世界観との決別が特に強調された。「それにつけてもバイは淫乱」なる合言葉まで生まれた。「永遠の革命家」オーギュスト・ブランキ流一揆主義に表現するなら「人道主義が勝利の栄光に輝く事はない」。なぜなら如何なる新体制の勝利も新たな反体制派への弾圧の始まりに他ならないからだ。これまでずっと「事象の地平線としての絶対他者の領域から到来する最初は不可視の人々」は、可視化と無数の闘争の積み重ねを経て(概ねその都度、少なくともその一部が)既存システムに組み込まれ続けてきた。これからも当然そのサイクルは繰り返されていくであろうが、大元たる「事象の地平線としての絶対他者の領域」が完全消失する日だけは決して訪れない。
オーギュスト・ブランキ『天体による永遠』書評:阿部重夫主筆ブログ:FACTA online
監視塔から受刑者を一望し、一挙手一投足も見逃さないパノプチコンは、近代国家の成立と同期していた。ブランキも果てしなく獄窓が続く監獄を、その宇宙観に同期させたのだろう。受刑者はすべて個を剥奪され、同じ囚人服を着て、無限遠点からの国家の視線に照射されている。ブランキの言う「フォワイエ」(中心星)は国家であり、それを拒絶する彼はいくら「一揆主義」と貶められようと、マニフェスト(綱領)をつくらなかった。
あらゆる政体を否定する陰謀家。胸中には無限の宇宙に戦慄するニヒリズムが宿っていた。本書の数年後にニーチェも、スイスの保養地で同じ戦慄に襲われた。
いつかどこかの時間に生きていた己の分身、瓜二つの自分とすれ違ったという霊感である。
ドイツの批評家、ヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ』は「倦怠、永劫回帰」の章で丹念に本書を抜粋し、「地獄が神学の対象になるなら、これは神学的思弁と呼んでいい」と書いた。彼はボードレール論でも、この『パリの憂鬱』の詩人とブランキを並べて論じている。
*誰も絶対他者を完全黙殺する事も、自分をそれと完全に重ね合わせてしまう事も出来ない。まさにその事実が実存不安の源泉になるという次第…
つまり、決して「我々の認識可能範囲外を跋扈する絶対他者」は消え去らない。かくして新しいサイクルが始まるのである…
そして…
フレディのセクシュアリティの描き方もあんまりだと思いました。「ゲイは妻子が持てないから家族を作れず孤独である」とか、「不特定多数とすぐセックスしちゃうのは悪いゲイ(だから騙されたり、HIVを移されたりする)」とか、「出会ってすぐ寝ず、時間をかけて1対1の関係を作るゲイは良いゲイ(だから家族的なつながりが持てて、幸せになれる)」とか、ヘテロ好みのくっそ古いステレオタイプを芸もなく(本っ当に何の芸もなく!)ただなぞっているだけじゃないですか。いや、こうした家族主義やモノガミー(一夫一婦制)規範や、HIV感染を不道徳への天罰扱いする考え方は、この映画の舞台である70〜80年代に実際にゲイを抑圧していたものですから、それらが話の中に出てくること自体は問題ないとは思うんですよ。この映画がよくないのは、それらの価値観を現代の視点から洗い直したり、疑義をさしはさんだりする部分がひとつもないということ。これじゃ大昔の有害なステレオタイプをただのんべんだらりと再生産しているだけです。
また、話の後半をフレディの死因(AIDSによる肺炎)にフォーカスしたメロドラマに仕立て上げるために、時系列がいじくってあるところもいただけないと思いました。もうあちこちで指摘されていることだけれど、フレディがAIDSと診断されたのは1987年でライブエイド(1985年)より後だったはずでしょ? そこを書き換えて、彼がライブエイド前に自分がAIDSだと知っていたことにするっていうのは、要するに彼がライブエイドの楽曲の数々を死にゆく自分の歌として歌っていたということにして、観客が「かわいちょうに、かわいちょうに」とより気持ち良く彼の死を消費できるようにするための算段でしょ?
もうね、映画後半を見ている間じゅう、キャトリン・モランのエッセイ『女になる方法 ―ロックンロールな13歳のフェミニスト成長記―(北村紗衣訳、青土社)』の中で、ゲイ男性のチャーリーが著者のキャトリンに言ってたこのセリフ(p. 149)が頭の中をぐるぐる回って止まりませんでしたよ。
つまりさ、考えてみてよ、ほとんどの映画もテレビ番組も、女とかゲイとかは一人くらいしかいなくて、他のとこはストレートの男ばっかり出てきて、ストレートの男が台本を書いてるでしょ? 小説とか映画とかはそういう架空のゲイ男性やストレート女性ばっかりで、僕らに言ってほしいなーとストレートの男が想像しているようなことを言って、してほしいなーとストレートの男が想像してることをするんだよ。僕が見たゲイの男には全部、エイズで死にかけてる元彼がいるよ。ったく、『フィラデルフィア』のバカめ。
とりあえず監督のブライアン・シンガーが脚本のアンソニー・マッカーテンと組んで、フレディ・マーキュリーというスーパースターに、
- ストレートの観客(で、整合性より自分のノスタルジーや感傷重視で、ゲイやHIV/AIDSについての考え方がせいぜい90年代初頭ぐらいで*3止まってる人)が言ってほしいなーと想像しているようなことを言わせ、
- ストレートの観客(で、以下同上)がしてほしいなーと想像してることをやらせる。
…という方針を貫きまくった結果出来上がったのが映画『ボヘミアン・ラプソディ』なんだと思います。つまりラミ・マレックがフレディのイタコをしてるだけじゃなく、この作品の中のフレディというキャラクターが、そもそもストレートの観客のイタコとして作られているわけ。
興行的には当たってるらしいから、商売としてはこれはたいへん賢明な判断だったのでしょう。でもその判断がこの映画をして名作にしたかといえば、180度逆だと思います。楽曲の迫力と、フレディとクイーンのそもそもの魅力で押し切っているからうっかり感動しそうになるけれど、話の構造はただの「ノンケ好みの陳腐な『ゲイの悲劇』〜懐かしソングを添えて〜」じゃん。もしも歌のシーンだけ全部ミュートして観てみたら、びっくりするほど空疎なお話なんじゃないですか、これ。
そんな感じで以下続報…