諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【現状確認】「世界システム論(World-Systems Theory)」から「主権者均衡世界観」へ。

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そういえばこのブログ、当初の出発点はウォーラステインの世界システム論(World-Systems Theory)の検証辺りだったのです。

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世界システム論(せかいシステムろん)とは - コトバンク

近代以降の世界全体を単一の社会システム,すなわち世界資本主義体制としてとらえ,その生成・発展の歴史的過程を究明することによって,さまざまな政治経済的諸問題,とりわけ国家間関係,経済的な支配・従属,世界秩序の構造と変動などを全体的に究明しようとする理論。

まず世界をアメリカおよび他の工業諸国から成る「中心」と,発展途上国から成る「周辺」に分けた上で,前者によって後者が搾取され,さらに両者によってその周辺が搾取されているとする。富める国々は,周辺地域から稼ぎ出した余剰のうちわずかな部分しか周辺地域に配分しない。他方,周辺に属する国々にも「周辺の中心」,すなわち世界経済システムの中心に位置する外国資本と結びついた特権階級や民族ブルジョアジーが存在する。

このように世界を素描する世界システム論は,明らかにマルクス主義的な考え方を下敷きにしている。ここには,国家間に固有の競争や対立への言及はなく,資本主義社会における階級闘争の分析が世界全体に拡大・適用されるのである。

それにつけても現代社会の基軸を為す国際協調体制が欧州から始まったのは一体、何故だったのでしょうか? とりあえず辿り着いた自分なりの結論は「主権者=(伝統的共同体を維持してきた全体主義的モラルからの最初の脱却者としての絶対君主、(常備軍を養う中央集権的官僚制として登場した国家、(世界中を結ぶ交通/流通/通信網上を跋扈するグローバル経済の担い手としての企業、(インターネット技術の発展によって直接結ばれる様になった個人の均衡状態に至り、王朝交代の都度文明がリセットされる循環史観段階からの脱却に成功したから」というものでした。

ここで改めて大問題として浮上してくるのが、どうしてフランスやドイツやロシアにおいては「対フランス独立戦争に明け暮れてきたコルシカ島出身のナポレオン」や「ドイツ系移民をマイノリティとして迫害したオーストリアハンガリー二重帝国の民族政策を極めて憎んでいたそして神聖ローマ帝国没落の主要因の一つとなったイタリア王国ドイツ帝国の独立を絶対悪と考えていたヒトラー」や「帝政ロシア時代にはひたすら弾圧対象であり続けてきたグルジア出身のスターリン」といった「アウトサイダーとして育ってきたが故に自国民について実に粗雑な想像力しか備えておらず、それどころか復讐の機会を虎視眈眈と狙うルサンチマンを抱えた独裁者」を国民が熱狂を伴って選出し、かつその理不尽な命令に黙々と従って嬉々として虐殺されていったかなのですね。

*ちなみにナポレオン軍の快進撃を支えたグリボーバル火砲システム(système Gribeauval )火砲体系は絶対王政の最中、ポンパドール夫人が事実上フランス王国摂政だった時代に開発されたもので、あともう少し彼女の覇権期が続いていたら「自動車化」にまで成功していたかもしれないといわれている。

グリボーバル火砲システム(système Gribeauval ) - Wikipedia

ジャン=バティスト・ヴァケット・ド・グリボーバルが18世紀に導入した砲兵システム。以前のド・ヴァリエール・システムを代替するものであり、新しい製造方法を用いることによってフランスの大砲に射程を犠牲することなしに軽量化・均一性を達成するといった改革をもたらした。これらの新式大砲はナポレオン戦争の勝利をフランスにもたらしたが、ほぼ間違いなく当時の欧州における最良の砲システムであった。

  • おそらくこうした展開の大源流には(しばしば封建制とも呼ばれる、欧州でいうと東欧やロシアに最後まで残留した)中世的価値判断世界、すなわち「領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的権威体制」に対する反近代主義ノスタルジアが存在した。そしてそれは皮肉にも(神聖ローマ帝国皇帝の座を狙っていた「正義王」マーチャーシュ1世(I. Mátyás、ハンガリー王1458年〜1490年、ボヘミア対立王1469年〜1490年)にオスマン帝国との直接衝突を避ける小冊子プロパガンダ活動を通じて悪役に仕立てられた)「串刺し公」ヴラド三世(ワラキア公1447年、1456年〜1462年、1476年〜1477年)や(東欧において神聖ローマ帝国皇統ハプスブルグ家の支配に徹底抗戦を続けたバートリ家を貶める小冊子プロパガンダ活動に利用された恥部)「血の公爵夫人」バートリ・エルジェーベト(1560年〜1614年)の「ネガティブ・プロパガンダにおいて利用され尽くした暗黒面」と見事な形で呼応してくるのだった。
  • そして、こうして(均衡状態を生み出す)主権者概念の主体が「絶対君主から国家や企業へ」推移していく過程で起こったある種の迷走が、同様に主権者概念の主体が「国家や企業から個人へ」推移していく過程で繰り返されたのが「シャロン・テート殺害事件1969年8月8日)」や「ガイアナ人民寺院集団自殺事件1978年11月15日)」や「オウム真理教サリン散布事件1994年〜1995年)」だったとも考えられる訳である。

  • 要するにメルロ・ポンティが提起した「身体の支配権を巡る闘争」問題、後期ハイデガーいうところの集-立(Ge-Stell)システム、すなわち「特定目的実現の為に手持ちリソース全てを総動員しようとする体制」の単位をどう設定するのが正しいかという話であり、人類はこの問題についての最終解答に歴史上の現時点においてなお到達していない。

    123夜『知覚の現象学(1945年)』メルロ=ポンティ|松岡正剛の千夜千冊

    よく知られているように、アルベール・カミュメルロ=ポンティの『ヒューマニズムとテロル』に激しい怒りをおぼえて、ボリス・ヴィアンの家でメルロ=ポンティと大論争をくりひろげ、絶交状態までのぼりつめたのだ。いつまでも甘いコミュニズムにすがっているメルロ=ポンティの姿勢が気にいらなかったのである。これはメルロ=ポンティの学校時代からの親友サルトルやニザンとの“奇妙な関係”にもつねにあらわれていた衝突だった。

    もっとも日本にもそういう時代の、そういう日々があったが、それは1965年くらいで「政治と文学論争」と「スターリン批判」ともに終わっていた。

    メルロ=ポンティは環境的な思考にはかえって関心がなく、逆に知覚の設計回路の中に入りこむようなことを好んだ。「上空飛行的思考」(pensée du survol)が大嫌いなのだ。だからこそ「知覚の上空を飛行するのではなく、その中に沈潜することを自らに課すような哲学」すなわちベルグソンの哲学、ありていにいえば『物質と記憶』の解読こそが、青年メルロ=ポンティの最初の課題になった。

    『行動の構造』に結実した内容

    ひとつは、身体の自覚の問題である。

    これは実存哲学者のガブリエル・マルセルが『存在と所有』という本で「自分の身体」というものを持ち出したことにヒントをうけて、人間は自分の身体をつかって何を知覚しているのか、何を身体にあずけ、何を意識がひきとっているのか、という問題に突き進んでいったことがきっかけだった。

    マルセルは「自分の意のままにならない身体感覚」がありうることを「不随性」(indisponibilite)とよんだのだが、そこにメルロ=ポンティは関心をもったのである。

    もうひとつはゲシュタルト心理学からの影響だった。

    「知能とは、知覚された領域にひそむさまざまな対象のあいだの関係をとらえる能力のことではないか」というものだ。

    従来、生体の行動は一定の要素的な刺戟に対する一定の要素的な反応のことだとみなされていた。複雑な行動もこれらの組み合わせによっているとみなされていた。要素還元主義である。しかし、ゲシュタルト心理学はこの見方をまっこうから否定して、同じ刺戟がしばしば異なった反応になることもあれば、要素的に異なった刺戟が同じ反応をひきおこすこともありうることを例にあげつつ、生体というものは刺戟の個々の要素的内容に対応しているのではなく、個々の要素的な刺戟がかたちづくる“形態的で全体的な特性”に対応しているという仮説をぶちあげた。この“形態的で、かつ全体的な特性”のことをゲシュタルトという。

    これはメルロ=ポンティに大きなヒントをもたらした。たとえば神経系のどこかの部分が損傷をうけたとすると、それによって一定の行動が不可能になるのではなくて、むしろ生体の構造のなかでこれを知ってこれを補う水準があらわれてくる、そのように考えられるからだった。

    ここでメルロ=ポンティに、意識と身体のあいだにひそむパースペクティブのようなものがはたらいたのである。しかもそれらは、どこか相互互換的であり、関係的で、射影(profil)的だった。そして、それをとりもっているのがゲシュタルト的なるものだった。少なくともメルロ=ポンティにはそう見えた。

    このような見方はデカルト的な心身二元論を決定的に打破するものである。それとともに、ゲシュタルト心理学者たちがゲシュタルトを自然の中にあるものとみなしたことを越えて、ゲシュタルトが知覚や意識の中にあるはずだということを予感させた。

    のちに、この意識にとってのゲシュタルトが、実は言語というものを生み出すパターンなのではないかということも、メルロ=ポンティによって提案される。
    *この辺りがまさに後期ウィントゲンシュタインいうところの「言語ゲーム(Sprachspiel)論」やベンヤミンいうところの「パサージュ(Passage)論」と結びついてくる。

何だか物凄く頭の中が整理された感じがします。とはいえ、これだけではまだまだ視野外に置き去りにしてきたファクターが多過ぎるのです。

そんな感じで以下続報…