「平等に貧しくなろう」という上野千鶴子の意見についてネット上においてさまざな議論が交わされている様です。
とりあえずハンナ・アーレントは「国民の平等を最優先課題に掲げた政権はすべからく自滅した」と述べています。考えてみれば当たり前の話なのです。
続きを読む江戸時代、出島を訪れた「オランダ人」には存外、ドイツ人比率が高かった様です。
こうしたイメージから「領主が領土と領民を全人格的に掌握する農本主義的伝統」が全土を覆っていたと思われがちな前近代ドイツ。実際、例えばカール・マンハイム(Karl Mannheim、1893年〜1947年)「保守主義的思考(Das konservative Denken、1927年)」も、(19世紀前半におけるヘーゲル哲学の登場によって一応の完成を見る)保守主義思想の形成史についてほぼプロイセン王国における動きしか参照していません。
*実は1714年から1837年にかけて英国と同君統治状態にあったハノーファー王国経由で流入したエドモンド・バークの美学論及び保守主義論(及びその批判的継承)こそがドイツ観念論やドイツ保守主義の大源流になったとする説まである。
しかし当時のドイツはそれだけではありませんでした。オランダと隣接しライン川で結ばれた南ドイツ一帯。北海に注ぐエルベ川流域の河口に位置し、オーストリア公国の経済的中心だった時期もある港湾都市ハンブルク。ドイツ騎士団国の首都にして東欧の穀物輸出港としてハンザ同盟内においても重要な役割を担ったケーニヒスベルク(現在はロシア連邦のカリーニングラード)。これらの地域では相応に資本主義的発展と国際経済網への組み込みが展開していたのです。
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