これまで「(フランク・キャプラのスクリュー・コメディなどの影響を受けて成立した)小市民映画は、日本の軍国主義者からも社会主義者からも叩かれた」なる常套句を安直に使い回してきましたが、実際には多くの誤謬にまみれていた事をここに告白させて頂きます。
①「小市民映画はフランク・キャプラ監督のスクリュー・コメディなどの影響を受けて誕生した」は完全なる間違い。むしろその起源は(Hays Code成立の原因となった)1920年代ハリウッドの「享楽的」サイレント映画にあった。つまり世界恐慌(1929年)を契機に経営が行き詰まったハリウッド大手制作会社を尻目に「庶民から共感を引き出す享楽f路線」を開拓した「新興勢力」コロンビア映画の台頭は、むしろ松竹「大船調映画」と並列進化関係にあったと考えるのが正しい。
*そして、1930年代後半にはそうやって台頭したフランク・キャプラ監督ですら「政治的ニヒリズム」を批判され「社会派」を志向せざるを得なくなる。これはもう日本のみならず当時世界全体を覆っていた病理?
*どどのつまり共産主義も軍国主義も最後は「最終戦争論」に到達してしまう。
②「軍国主義者から叩かれた」については、むしろ「検閲によって忠義義烈や国家への滅私奉公を礼賛する内容でないと検閲を通らなくなっていった」と表現する方が正しい。「小市民映画」は批判される以前に、そういう作品が「国内では」制作不可能となっていったのである。
*この方面においてはナチス宣伝省のゲッベルスの方が遥かに上手だった。彼は「ビーダーマイヤー(Biedermeier、18125年〜1948年)的庶民も軍人や官僚に対する忠誠心が、その隙をついての個人的享楽の追求と表裏一体の関係にある事を看過し、純粋に楽しめる娯楽作品の供給に勤めたのである。日本でも幕末期、それまで個人的享楽の追求に勤しんできた江戸の庶民が「恩返し」と称して幕府歩兵隊に志願する例が相次いだ。こうした忠義の在り方について、ゲッベルスは杓子定規にしか考えられない日本軍人より遥かに精通していたといえる。
*一方、戦時下日本映画の「忠義義烈・国家への滅私奉公」路線は、それまでハリウッド映画に慣れ親しんできた親日派フィリピン人から「わざわざ嫌われたいのか、日本人?」と馬鹿にされ、現地の日本映画人はハリウッド映画を模倣した独自作品供給を余儀なくされている。
*日本軍の占領下にあった上海の華成公司でも、日本側責任者の川喜多長政が張善琨ら現地プロデューサーが制作した映画「木蘭従軍(1939年)」に「異民族への抵抗の意思」の暗喩が込められているのを承知の上で通している。当時の上海映画人達は(自国を植民地化した)英国を叩く作品を制作する事が多かったが、もちろんこの場合もそこにも日本の占領政策への批判が暗喩されている事が多かったという。
日本占領下における上海映画と南京国民政府の映画産業政策、文化政策について
③「社会主義者からも叩かれた」についてはむしろ「1930年代以降のプロレタリアート映画台頭を背景に、作中における社会批判精神の不徹底と政治的ニヒリズムを弾劾された」と表現するのが正しい。
*例えば「小市民階層にとって自己批判は自らが存続する為のポーズ=方便に過ぎず、これに安住している限り小津安二郎は(どんなに技術面で突出していようとも)所詮は小市民階層の一員に過ぎない。プロレタリアート映画はこの臨界点を超越する事によって成立する」などと指摘されている。
「小市民映画」とは一般的に、サラリーマン、医師、教師など近代化の過程で生まれた「小市民」階級に属する人々の日常生活を描いた映画のジャンル名であると考えられている。
しばしばより包括的に戦後に製作された庶民劇ないしホームドラマ一般まで含まれるが、小市民映画とは狭義には、1920年代後半から1930年代にかけて松竹蒲田撮影所を中心に製作された、会社員とその家族を描いた一群の作品を指している。
1930年代初頭における小津の小市民映画に対する評価は、今日のそれ以上に複雑かつ微妙であった。一方において、小津の小市民映画は今日と同じく、そこに含意される社会への批判性ゆえに称賛されたのだった。しかし他方、日本映画はこの時期、傾向映画のブームおよびプロキノの隆盛を見たということは思い出されるべきだろう。映画を通じた社会への批判は、小津の小市民映画に限ったことではなかったのである。こうした文脈を考慮に入れた時、次の二点が重要な論点として浮かび上がってくる
(1)小津映画に含意される批判性は、批評を含めた左翼映画運動の高まりの中においてこそ見出されたという点。さらに、それは映画作家・小津安二郎の発見に深く寄与していたという点。
(2)こうした文脈の中で「小市民」という語は「プロレタリアート」との対比で使われ、映画の主題としての小市民ばかりでなく、しばしば映画作家としての小津自身の姿勢に向けられていたという点。したがって「小市民映画」とは時として、アプローチが小市民的である映画、すなわち、社会変革へのラディカルな意志に欠けた、政治的にニヒリスティックな映画という、今日の「批判的映画」とは全く正反対の含意を持っていたという点。
橋本忍「複眼の視点」黒澤の助監督を務め、その後、脚本家と監督の立場で何度もタッグをくんだ野村芳太郎の指摘。
「じゃ、黒澤さんにとって、私……橋本忍って、いったいなんだったのでしょう?」
「黒澤さんにとって、橋本忍は会ってはいけない男だったんです。そんな男に会い、『羅生門』なんて映画を撮り、外国でそれが戦後初めての賞などをとったりしたから……映画にとって無縁な、思想とか哲学とか、社会性まで作品へ持ち込むことになり、どれもこれも妙に構え、重い、しんどいものになってしまったんです。(「羅生門」、「生きる」、「七人の侍」がなくても)、黒澤さんは世界の黒澤に……現在のように虚名に近いクロサワではなく、もっとリアルで現実的な巨匠の黒澤明になっています。映画のおもしろさのみを追求していれば、彼はビリー・ワイルダーにウィリアム・ワイラーを足して二で割ったような監督になったはずです」
*これは果たしてどうだろうか。戦後日本社会がそれを許したろうか?
こうした材料から「1930年代日本の空気」の様なものが浮かび上がってきます。一言で言うとそれは「全体主義と無政府主義の狭間を渡る危うい綱渡り」。
戦前希代のマルクス主義者として知られていた戸坂潤(1900年〜1945年)の発言
「自由主義はあまりにも容易に絶対主義へと転化してしまう」
「自由主義はその多様性と不安定性ゆえに眼前の歴史的事実に対応すべく政治的に選ばれる可能性のある論理候補には残れない」
「民主主義が無力なのは大衆が訓練を受け一枚板に組織されていないから。彼らが力を得るにはさらにその組織が特定の時代精神の体現者として編纂される必要があり、この段階に至って初めて民主主義は本来の力を発揮する」
*現代人なら「それはもはや民主主義でなく全体主義なのでは?」と考え込まざるを得ない発言。
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琴>耳学問ですが、キルケゴールが単独者の実存の立場を強調したとうかがったことがあります。罪を背負ったまま、神の御前にただ一人立つ単独者の実存ですね。
西田幾多郎>そうなんです。悪に染まり、罪を犯すのも覚悟の上なんです。自由意志を貫くためには、神の掟にも逆らい、親に逢えば親を殺し、師に逢えば師を殺さなければならないかもしれません。無門慧開の『無門関』という禅書にそういう思想が書かれているんです。本当に殺せというのではなくて、全ての既成の考えや、決まりや体制に囚われないで、生きないかぎり仏法は悟れないということです。本当に人格的な自由というものがあり、自由意志によって生きるということなら、正義を貫くために監獄や軍隊を恐れていては何もできません。
琴>あら幾多郎さんまで主義者のような事をおっしゃって、そういえば先生のお弟子さんにはマルクスボーイがおられるとか聞きましたわ。
西田幾多郎>マルクスボーイもいれば、近衛文麿のような将来の首相候補もいます。マルクス主義者たちはむしろ、経済的な生産力や生産関係に人間の観念形態は限定されてしまっていると説く決定論の立場に立っています。自由意志とか人格の自立の立場を見失っています。だから彼等が起こす革命で出来る権力は、人間の人格的自由を容認するとは思えませんね。
こうして改めて「松竹大船調とは何か?」「小津安二郎とは一体何者だったのか?」が問われる展開となっていく訳です。
松竹映画を始めたのは白井松次郎と大谷竹次郎の松竹兄弟である。これに東大卒のインテリ野球少年城戸四郎が女婿として入り込む。城戸はその結果起こった御家騒動を制すると確固たるワンマン体制を構築した。
そして城戸は松竹蒲田撮影所の所長時代に「庶民の日常生活の中からユーモアや皮肉を探り、人生の真実を会得せよ」と発破を掛けてモノクロサイレント時代から多数の短編と長編を製作させ、その過程で「大船調」とも呼ばれる独自の和洋折衷映像美学を完成して松竹映画黄金期を現出させる事になる。
- アプローチとしては「全フランス人の人生を網羅してやる」と豪語したフランス新聞小説の巨匠バルザックに近いかもしれれない。
- 一方でその「早撮り」スタンスは後世における「B級映画の巨匠」ロジャー・コーマン監督のそれの先取りに他ならなかった。
- 要するに「大船調」の裏舞台は「(製作啖呵を抑える為)俳優主義でなく監督主義」「セットもカメラアングルも使い回す徹底的省力化」「製作間隔の短かさを利用した観衆の要望への即応」といった工夫の積み重ねの産物に他ならなかったのである。
小津安二郎監督は、こういう状況下で以下のモノクロ・サイレント短編映画を制作し続けたのでした。その過程で小市民映画ジャンルにおける第一人者とみなされる様になり、蒲田撮影所の所長城戸四郎からまで「人生の真実を小市民の生活に発見する達人」と褒めそやされています。
*それにしても意外なのは、戦前の小津安二郎映画におけるアメリカ映画の影響の濃さ。さらにはギャング映画や江戸川乱歩同様「エロ・グロ・ナンセンス」ブームの影響まで受けていたりする。
昭和モダン - Wikipedia
昭和の到来とともに日本を襲った大不況、そのダメージが農村を直撃し離農者が急増した結果生まれた空前の規模での都市流入人口の急増、その結果として青年層に蔓延した「逼迫せしニヒリズム=迫り来る軍靴の響きへの不安が生んだ刹那的快楽への逃亡」を背景とする昭和5年(1930年)の流行語。
元来は以下の様なそれぞれ異なるジャンルを総称する言葉だった。
- 「エロ」…銀座の街をフラッパー娘が闊歩し、浅草カジノ・フォーリーのレビューガール(歌手や踊り子)の脚線美や「流線美」がブームとなった。またデパートをマネキン嬢が飾った。
「流線美」…前年ドイツの飛行船ツェッペリン伯爵号が来日し、その結果空気抵抗を最も少なくする曲線=流線型が注目される様になり、建築分野や万年筆のデザインなどそれを標榜するものが急増した結果生まれた女性のスタイルでも脚線美や撫で肩に注目が集まった。
「フラッパー(Flapper)」…昭和3年(1928年)から日本へも流入した外来語。「明るい御転婆娘」「蓮っ葉な不良娘」といった意味合いで、国際的な守旧派男性の反感もあってブラム・ストーカー「ドラキュラ(Dracula:1897年)」のルーシー・ウェステンラ以来、長らく物語文法上「持ち前の好奇心の強さ故に身を滅ぼす生意気で軽薄な小娘」という役割を持たされる事が多かった。
「レビュー嬢」…昭和3年(1928年)宝塚少女歌劇団が日本初のレビュー「モン・パリ」を上演。ラインダンスや階段レビューなど、その切り替えテンポが早い画期的な演出で観客を賑わせ、主題歌とともに大ヒットした。これ以降、将来なりたい職業として「レビュー嬢」を挙げる少女が急増したという。
「マネキン・ガール(Mannequin Girl)」…ファッションモデルと販売員を兼ねたデパート・ガール。本来の発音をそのままカタカナ化すると「マヌカン」あるいは「マネカン」となるが「招かん」では客を呼べないという水入りが入ってこの表現が定着した。昭和3年(1928年)東京上野で開催された御大礼記念博覧会で高島屋呉服店が初めて採用して人気を呼び、以降各デパートもこれに倣って次々と採用。当時の大卒サラリーマンの三倍近い報酬を得て女性達の憧れの職業となった。昭和4年(1929年)4月15日には小林社長の発案で阪急電鉄が大阪梅田駅に日本初の「ターミナル・デパート(駅の一部としての百貨店)」を開業。モボ(モダーン・ボーイ)やモガ(モダーン・ガール)とのイメージを益々強める事になる。「グロ」…「新少年」や「講談倶楽部」などに連載された猟奇物。富裕階層の深窓の令嬢や当時脚光を浴びていた女優やデパートガール、そして(就職口の斡旋という名目で誘き出しやすい)失業婦人が主な犠牲者として選ばれた。
昭和6年(1931年)5月、乱歩初の「江戸川乱歩全集」全13巻が平凡社より刊行開始され総計約24万部の売り上げを記録し平凡社の経営難を救済した逸話が有名。「グラン・ギニョール・スタイル(Grand Guignol Style)」…パリにあった「モンパルナスのグラン・ギニョール恐怖劇場(1897年~1962年)」の全盛期(1901年~1926年)の上演形式にちなむ。連続して演じられる短劇のヒロインは次々と虐殺されていくが、どれも演じるのは同じ看板女優。彼女を見たくて劇場を訪れる観客の欲求は「沢山の惨殺バリエーションが見れる」と喜んだという。日本の歌舞伎や読物の世界でも役者が一人で何役も演じたり「死んだヒロインとうり二つの女」が幾度も出てくる伝統ならあって、ほぼ同じ趣旨。輪廻転生や呪われた血筋と絡めて語られる事も多い。日本の小説では江戸川乱歩の「蜘蛛男(講談倶楽部連載1929年~1930年;「パノラマ島奇談」に「蒼ひげ」の要素を追加)」「人間豹(講談倶楽部連載1934年~1935年;「パリの狼男」の要素を追加)」、夢野久作の「ドグラ・マグラ(1935年)」、横溝正史の「悪魔が来たりて笛を吹く(1951年)」などが有名だが真骨頂はやはり役者が演じる場合にあり、忠義七代の役を中村錦之助(萬屋錦之介)が力演した東映映画「武士道残酷物語(1963年;第13回ベルリン国際映画祭金熊賞受賞。中村錦之助がブルーリボン賞主演男優賞)」、本作でデビューした渡辺典子が一人3役に挑んだ角川映画「伊賀忍法帖(1982年;1964年の漫画サンデーに連載された山田風太郎の同名小説が原作)」などが代表作となる。
『ハカバキタロー(墓場奇太郎;原作伊藤正美、作画辰巳恵洋)』…民話の『子育て幽霊』を脚色した紙芝居で1933年から1935年頃にかけて『黄金バット』をも凌ぐ人気を誇ったが「母親の墓の中で生まれた鬼太郎はその死肉を食べて育った」といった残酷描写に満ちており、しかも自分をそういう境遇に追いやった人々を無惨な方法で殺し尽くすと今度は標的を「この世の悪」に切り替える。不穏にも程があるという事で官警が取り締まる事態となりあっという間に消滅した。
「ナンセンス」…昭和4年(1929年)に旗揚げしたエノケンこと榎本健一を座長とする劇団「カジノ・フォーリー」の鋭い社会風刺とウイットに富んだギャグやパロディやダンスを盛り込んだレビュー。
とはいえ、そもそも互いに密接な影響下にあったので、やがてあえて区別する意味そのものが消失。
それでは「意外にモダンだった」 小津安二郎監督の戦前作品の足跡を辿ってみたいと思います。
- 「学生ロマンス 若き日(1929年、小津安二郎監督8作目,109分作品中103分現存。現存する最古の小津作品)」…スキー旅行に出かける学生風俗をテーマにしたコメディ。
- 「和製喧嘩友達(1929年、小津安二郎監督9作目、77分作品中14分現存)」…米国リチャード・ウォレス監督のコンビ喜劇「喧嘩友達(1927年)」を翻案。
- 「大学は出たけれど(1929年、小津安二郎監督10作目、70分作品中11分現存)」…大学卒業者の就職率が約30%という不況の底にあった昭和初期を舞台に職に就けない求職者が奔走する様子を描いたコメディ。
- 「突貫小僧(1929年。小津安二郎監督12作目。38分作品中18分現存。撮影期間4日)」…オー・ヘンリーの短編小説「赤い酋長の身代金」を翻案。
- 「朗かに歩め(1930年、小津安二郎監督14作目、95分作品)」…アメリカ映画に傾倒し作品内を自動車、ゴルフ、タイピスト、ピクニック、アパート、ベッド、洋服といった当時の日本の生活様式に馴染みのない洋風のもので埋め尽くし、ヤクザ仲間の主人公達をモボ・モガに仮託した。
- 「落第はしたけれど(1930年、小津安二郎監督15作目、64分、撮影期間1週間)」…大学を卒業しても就職口がない深刻な社会状況を背景に学生生活をエンジョイする落第生を描いたコメディ映画でこれもハロルド・ロイドの『ロイドの人気者』などアメリカ映画の影響が色濃い。
- 「その夜の妻(1930年、小津安二郎監督16作目、 66分作品)」…松竹蒲田撮影所所長城戸四郎自らの指揮下雑誌「新青年」1930年3月号に掲載されたオスカー・シスゴールの短編小説「九時から九時まで」を翻案し、洋風にしつらえたセットで刑事役にハリウッド映画への出演歴がある山本冬郷をキャスティングした。
- 「エロ神の怨霊(1930年、小津安二郎監督17作目、現存せず)」…情婦のダンサーと心中を図ったが自分だけ生き延びて怨霊に脅える毎日を送っていた主人公が、実は彼女は生きていてダンサーに復職していると知って復讐を企むエロ・グロ・ナンセンス路線(ただしエロ要素は検閲で全削除されてしまった)迷作。
- 「足に触つた幸運(1930年、小津安二郎監督18作目、シナリオのみ現存)」…大金を拾って謝礼をもらった主人公が同僚にタカられてかえって損をする。
しかし1931年以降は世界恐慌の影響影響増大とトーキー映画上陸が重なって製作本数が減少。1931年には3本、1932年には4本しか撮影していません。そして1933年に制作したのは以下の3本のみ。
大人の見る繪本 生れてはみたけれど - Wikipedia
- 「東京の女(47分作品、撮影期間9日)」…完全オリジナル作品ながらオープニング字幕で”オーストリア人作家エルンスト・シュワルツ「二十六時間」より翻案”と表示され、同棲中の恋人が会社勤めのタイピストでなく水商売の女だったと知って周囲に暴行を揮った挙げ句の果てに自殺してしまう学生を主人公に据えた悲劇。
東京の女 (映画) - Wikipedia
- 「非常線の女(100分)」…ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督「暗黒街(1927年)」「非常線(1928年)」やウィリアム・A・ウェルマン監督「暗黒街の女(1928年)」といった(禁酒法とそれが引き起こした密造酒業者同士の銃撃戦の日常化に取材した)米国暗黒街映画の影響を濃厚に受け、ダンスホールを主舞台として昼はタイピストとして働く三流ヤクザの情婦を中心にギャングや不良学生が犯罪を企てる。
- 「出来ごころ(100分)」…キング・ヴィダー監督「チャンプ(1931年)」を翻案した下町人情物。
そして結局、小津安二郎監督のサイレント作品は他人に金をタカって生きるしかない不良学生達の陰鬱な日常を描いた「大学よいとこ(1936年、現存せず)」で打ち止めとなります。
横溝正史「悪魔の手毬唄(1957年〜1959年、映画化1977年)」
この作品は「真犯人」をゲーリー・クーパー主演映画「モロッコ(1930年)」の日本上陸(1931年)とする。
- 日本初の字幕付トーキー映画だったこの作品の大流行によってサイレント映画弁士が大量失業。
活動弁士 - Wikipedia
活弁、弁士って?- そのうち1人が田舎町に漂着して垢抜けた都会人であるが故に大いにモテて乱行に耽り、不況の影響に苦しむ彼女達の生活を楽にしてやろうと捨て鉢な気持ちから不慣れな事業を起こそうとする。
- ところがこの状況が色々裏目に出て後の連続殺人に繋がっていく。
当時については坂口安吾も「日本全土がゲイリー・クーパー一色に染まってしまった」と苦言を呈している。ゲイリー・クーパー恐るべし。
無論、松竹はこういう事態となるのはアメリカで世界初の本格的トーキー映画「ジャズーシンガー(1927年)」が公開された時から織り込み済みだったのです。
- 蒲田撮影所長城戸四郎が対抗で投じたのが日本初の本格的トーキー映画「マダムと女房(1931年、64分、トーキー化を意識してジャズ音楽が流れ、ラジオの声、猫の鳴き声、目覚まし時計のベル音など日常生活音が響き渡り続ける。そもそもドラマの主題そのものが「隣家の騒音に悩まされる/隣家の様子が気になってつい聞き耳を立ててしまう」といった具合)」だったのである。
- 拙速なトーキー化には慎重な姿勢を見せてきた小津安二郎監督も研究だけは地道に積み重ねてきており、外国向けに歌舞伎の演目を映像化して紹介するドキュメンタリー映画「鏡獅子(1936年、24分、日本国内での公開をしない条件で引き受けた)」を経てトーキー映画監督に転身。
- 「一人息子(1936年、87分作品中現存83分)」…貧乏ながら息子を上京させ進学させた田舎の女工が「息子が傲慢な都会人に変貌してないか」で一喜一憂する。
- 「淑女は何を忘れたか(1937年、小津安二郎監督37作目、75分)」…世間がゴルフや芝居見物や芸者遊びといった「金持ちの贅沢」に過剰に批判的になってる世相にビクビクしながら暮らしている山の手の高級住宅地の住人達を描いたコメディ作品。作風が暗くなっているという批判を受けて取り組んだ。
しかしその直後に徴兵。2年近くも中国戦線で転戦を続ける事態となり、1939年に内務省の指示で映画法が成立すると映画製作前に事前検閲するシステムなどが導入され、基本的に国策に沿う映画史か製作出来なくなってしまいます。
*ちなみに江戸川乱歩がエログロ路線の通俗物を諦めてジュナイブル作家に専念する様になったのも「日華事変」が始まった1937年。「怪人二十面相(『少年倶楽部』1936年1月〜12月)」「少年探偵団(『少年倶楽部』1937年1月〜12月)」辺りが端境期で「妖怪博士(『少年倶楽部』1938年1月〜12月)」「大金塊(『少年倶楽部』1939年1月〜1940年2月)」「新宝島(『少年倶楽部』1940年4月〜41年3月)」「知恵の一太郎(『少年倶楽部』1942年1月〜43年4月断続連載)」辺りが専念期となる。また戦時下には米国相手の戦意高揚小説「偉大なる夢(『日の出』1943年11月〜44年12月)」を手掛けている。
- 戦争中「映写機の検査」の名目で「嵐が丘」「北西への道」「レベッカ」「わが谷は緑なりき」「ファンタジア」「風と共に去りぬ」「市民ケーン」といったアメリカ映画に大量に触れる。
- 戦後「晩春(1949年)」を契機として小津調(独自の撮影スタイルの徹底、伝統的な日本の美への追求、野田高梧との共同執筆、原節子と笠智衆の起用など)によって世界からも認められた「一年一作」の寡作監督へと変貌。そのスタイルを最終作「秋刀魚の味(1961年)」まで維持した。
ただし、こうしたスタイルは日本への「ヨーロッパ的人間観」定着を志向した新ロマン主義の立場から糾弾される事もあった様です。
日本の映画監督、脚本家。山梨県甲府市出身。旧制甲府中学から旧制第一高等学校を経て東京大学法学部を卒業。東大法学部時代の知人に三島由紀夫がいる。生涯で残した全57本の作品は、「強烈な自我を持ち、愛憎のためなら死をも厭わない個人主義」=ヨーロッパ的人間観に貫かれている。モダンで大胆な演出により、これまでにない新しい日本映画を創出した。
- 1947年、大映に助監督として入社。東京大学文学部哲学科に再入学。1952年、イタリア留学、フェデリコ・フェリーニやルキノ・ヴィスコンティらに学ぶ。
- 帰国後、溝口健二や市川崑の助監督として参加。1957年、『くちづけ』で監督デビュー。監督第2作『青空娘』より若尾文子とタッグを組み、『妻は告白する』『清作の妻』『女の小箱・より夫が見た』『赤い天使』『卍』『刺青』などの佳作にして重要な作品群を残す。また『兵隊やくざ』『陸軍中野学校』と、それぞれ勝新太郎、市川雷蔵の大ヒットシリーズの第1作を監督して大映絶頂期を支えた。
- 1958年、雑誌『映画評論』3月号において「ある弁明」という評論を発表。「自分の映画の方法論は、近代的人間像を日本映画にうちたてるためのものだ」と主張し、当時の巨匠成瀬巳喜男を『日本の社会をそのまま認め、はかなき小市民の「情緒」を描く自然主義的風速映画』と、他に今井正作品を痛烈に批判した。
- 大映倒産後は、映画プロデューサーの藤井浩明、脚本家の白坂依志夫とともに独立プロダクション「行動社」を設立し、『大地の子守歌』『曽根崎心中』などを監督。また、勝新太郎の勝プロと組んで『新兵隊やくざ 火線』といった後期代表作を手がける。
- 1970年代以降は、大映テレビを中心に『ザ・ガードマン』、『赤い衝撃』などの「赤いシリーズ」、『スチュワーデス物語』などのテレビドラマの演出・脚本を手がけ、俗に言う「大映ドラマ」の基礎を作り上げた。1980年、日本とイタリアの合作映画『エデンの園』を監督。
- 天才脚本家と呼ばれた白坂依志夫は、『青空娘』(1957年)から『曽根崎心中』(1978年)まで13作の脚本を担当し、新藤兼人も『氷壁』(1958年)から『黒い福音』(1984年)まで10作の脚本を担当し、それぞれ名コンビとして知られた。
- 海外では意外にも江戸川乱歩原作映画「盲獣(1969年)」がカルト的人気を誇る。
1986年11月23日、脳内出血で死去。享年62歳。戒名は、影光院演応保真居士。
案外見過ごされ勝ちなのは、小津安二郎が「日本人として日本性に徹底的に拘り抜いた」というより「欧米人の視点を知り尽くしているが故に、その観点から「外国人が期待する日本人像のアピール」に専念した監督であった事。
ちなみにソ連出身のアンドレイ・タルコフスキー監督も、本国ではしばしば「彼が撮影したのは我々が普段見知ってるロシアじゃない。外国人が見たがってるロシアだ」と叩かれるそうです。
527夜『アンドレイ・タルコフスキー』ピーター・グリーン|松岡正剛の千夜千冊
アンドレイ・タルコフスキー 「サクリファイス」「ストーカー」 / KING MOVIES
映画に観るスターリン批判
彼が、全8本の作品において、次第に思いを深め、一貫して追求したのは、ロシアの国民性、ロシア文化の意味であり、技術文明の支配する現代におけるロシア正教的な聖性回復の可能性でした。それは『ノスタルジア』『サクリファイス』に濃厚に表れます。それを追及すればするほど、彼の志向と作品は、ソヴェトの持つ不気味な官僚機構の巨大な網目を根底から否定する性質を持ちました。最後の作品となる『サクリファイス』は、亡命後でなければ撮れない内容である世界核戦争警告と否定の自己犠牲(サクリファイス)行為を示した映画でした。
まぁこの展開は、最終的に「ソ連から追放された反体制知識人達」の仲間入りを果たした事から仕方のない側面も。彼が理想視した「ロシア」は、あまりに理想視され過ぎて実存的存在たる「ロシア人」と共存不可能な領域にまで到達してしまったとも。
戦後の小津安二郎監督も、ある意味確実に確信犯的に同じ道を選んだのかもしれません。少なくとも、その後の日本映画よりむしろ、ソフィア・コッポラ監督映画「ロスト・イン・トランスレーション Lost in Translation (2003年)」に「小津安二郎性」を感じるくらいには。
さて、私達は一体どちらに向けて漂流してるのでしょうか…