日本でいう「駄菓子ノリ」、国際的には「大航海時代がもたらした新世界作物(ジャガイモ、トウモロコシ、エンドウマメ、トマト、etc)の旧世界への伝来」や「食品産業の工業化」と切っても切れない関係にある様です。
食文化の面白さは、こういう流れがグローバル・スタンダードに還元されるとは限らない辺り。むしろ、どんなに国際的に広まってもあくまで泥臭い地域的個別性(ナショナリズムの素)から脱しない方がメインストリームというべきかもしれません。
*その典型例の一つが各国の「焼肉文化」とも。
日本における「目玉焼きには何を掛けて食べるか」論争の背景にあるのも以下。
*意外と「オーロラソース派」は少ない? 欧米で卵料理へのこだわりといったら「ゆで卵(半熟あるいはハードボイルド)、サニーサイドアップ、ターンオーバー、オムレツ、あるいはスクランブル・エッグ」といった次元なのと対照的展開といえる。
- 「生鮮食品ナショナリズム」あるいは「朝食ナショナリズム」…流通革命(輸送手段の機械化と冷蔵技術の発展)によって新鮮な卵や納豆が誰にでも食べられる様になって国民食化。各国においてナショナリズム(民族的自尊心)の一貫を担う展開となる。
*「ナショナリズム(民族的自尊心)の一貫を担う」…むしろ平準化より多様化を望むという点で、その正反対の感情とする意見も存在する。まぁあくまで「ナショナリズムの素材」に過ぎず「ナショナリズムそのもの」ではない。
- 調味料の「(工業製品化による供給安定を背景とする)味の平準化」と「(商業主義的展開がもたらす)選択肢の多様性」…そもそも近代以前には「醬油味」「味噌味」「ソース味」なんて固定概念そのものが存在しなかった。
*朝鮮半島でも「キムチの味が平準化」が始まったのは白飯食が普及して「おかず」としての地位が確定した1930年代以降とされる。それまではインドのマサラ(混合香辛料)文化同様に「その味は家庭ごとに異なり、コンセンサスなど一切存在しない」状態が延々と続いてきたのだった。
欧米でこれに該当するのが「ポテトは何で食べる?」論争となりますが、こちらもこちらで同じくらい根深い歴史があったりするのです。
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