諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

ナショナリズムの歴史⑤ 「日本料理のさしすせそ」の歴史

一時期、国際SNS上の関心空間でしばしば見掛けた画像。

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i was god once

「どうしてSa-Shi-Su-Se-SoのSeは醤油でSoは味噌なんですか?」

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「Soはソースじゃダメなんですか?」

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さらに困った事に「噌」一文字では「醤」と同意語であるらしい。そもそもこの「日本料理のさしすせそ」って、一体いつ頃から使われてきた言い回しなんでしょうか?

 日本料理の「さしすせそ」

料理(特に和食)の味付けの基本になる五つの調味料、また、それらを使うときの順序を覚えるための語呂合わせとして用いる。

  • 砂糖(さとう)
  • 塩(しお)
  • 酢(す)
  • 醤油(せうゆ、正しい字音仮名遣は「しやうゆ」)
  • 味噌(みそ)

料理の味付けがこの順番で行われるのは下記の考え方に基づく。

  • 甘味はなかなか浸透しにくいので、砂糖を入れるのは早い方がよい。特に塩や醤油を先に入れてしまうと食材に甘味が付きにくくなる。

  • 塩(塩水)は浸透圧が高く食材から水分を呼び出すため、煮汁の味を決める初期に入れる。砂糖の前に入れると砂糖の味が食材に入らなくなるため、砂糖より後に入れる。

  • 酢は早く入れ過ぎると酸味がとんでしまうので、調理進行を見計らって入れる。塩以上に食材に味が染みるのを妨害するため、塩より後に入れる。

  • 醤油、味噌(またはソース、ソーダ)は風味を楽しむものなので、仕上がりに入れる事が望ましい。

なお、アルコールによる臭み消しと食材の味付けを促進させる作用から、調理酒・本みりんなどの酒類を入れる場合は砂糖よりも早く最初に入れ、みりん風調味料は味噌より遅く最後に入れる。

ただ現在では、こういう話もある様で。

ところで、日本においては製塩自体は縄文時代から行われて来ました。

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塩(Solt) - Wikipedia

日本では岩塩としての資源がなく、固まった塩資源は採れない。

  • また年間降水量も世界平均の2倍であることから日照時間が比較的長い瀬戸内地方や能登半島など、一部地域以外は塩田に不向きである。

  • このため、塩を作るには、もっぱら海水を煮詰めて作られる。これは、天日干しに比べて、燃料や道具などが必要になるためコストがかかり、大規模な製塩には向かない方法である。

こうした経緯から日本の食用塩の自給率は85%であるが、工業用を含めると全消費量の85%を輸入に頼っている。

  • 古代日本にける製塩法は、文献や民俗資料から推測されている。古墳時代までは、『万葉集』に「藻塩焼く(もじおやく)」「玉藻刈る(たまもかる)」などと枕詞にあるように、海岸に打ち上げられたホンダワラなどの海草が天日で乾燥されて表面に析出した塩の結晶を、甕(かめ)に蓄えた海水で洗い出し、塩分を海水のほうに移す作業を何回も繰り返すことにより鹹水を得るというのが一説だが、また、打ち上げられた海草を集めて焼き、その灰を海水に溶いて塩分や海草のヨードなどの養分を溶かし出し、灰を布で濾し出して鹹水を得るという説もある。海水を煮詰める工程において専用に用いられた土器は、製塩土器と呼ばれている。沿岸各地の遺跡、遺物埋抱地で見つかっている。この製法は中国地方では弥生時代中期頃に、岡山県児島半島付近で始まったといわれている。遺跡は、岡山県下では足守川や旭川下流域、さらには邑久平野へと広がっている。

  • その後、万葉時代頃から、揚浜式塩田などの塩田法による製塩に移行していった。

江戸時代の江戸塩職人は「壷焼塩」と呼ばれる塩を作っていた。

  • これは、石臼で挽いた粗塩を素焼きの壺に入れ釜で二昼夜以上高温で焼いて作り上げるが、非常に高価で貴重であることから、黒船で来日したマシュー・ペリーをもてなす宴会二の膳に出された。

  • 揚浜式製塩法は入浜式製塩法、1950年代には枝条架(しじょうか)式とも呼ばれる流下式製塩法、1970年代にはイオン交換膜製塩法へと変化していった。このような海水からの製塩法では、副産物として豆腐の原料となるにがりができる。

塩の製造販売の自由化以降は日本各地で流下式といった過去に行われていた製法が復刻され、水分を瞬間的に蒸発させる加熱噴霧といった新しい製法で作られる塩も流通している。

そして砂糖は江戸時代、オランダ経由で日本に持ち込まれます(後に国産化)。

それでは他の調味料は?

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酢(Vinegar) - Wikipedia

応神天皇のころに中国から渡来したとされる。

律令制では造酒司にて酒・醴とともに造られており、酢漬けや酢の物、膾の調理に用いられていた。

後には酒粕を原料とする粕酢や米や麹を原料とする米酢が造られるようになる。江戸時代には前者は紀伊国粉河、後者は和泉国堺が代表的な産地として知られていた。

ややこしくなってくるのは、ここから。

味噌の種類と地域性|味噌のこと|知る・楽しむ|マルコメ

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味噌(MISO)

穀物を発酵させて作られた日本の発酵食品。古くから使用されてきた日本料理の基本調味料の一つとして国外にも知られる。

  • 「大豆などの穀物や豆類を原料としたペースト状の発酵調味料」そのものは、東アジアや東南アジアの各地にも存在。例えば中国の豆板醤や韓国のコチュジャンは、日本ではしばしば「唐辛子味噌」と呼ばれるし、実際食品学または人類学的にも日本の味噌は「醤(ひしお/ジャン)」のうち穀醤(こくしょう)に分類される。

  • 副食素材が豊富になった今日では調味料とみなされる事もあるが、古くから日本の食生活において主要な蛋白源とになされ、特に江戸時代中盤以前は「おかず」的な扱いをされ、現在でも「おかずみそ」・「ねぎみそ」・「ピーナッツみそ(みそピー)」などが存在する。

  • 大豆(戦国時代などは主に糠)に麹や塩を混ぜ合わせ、発酵させる事でそのタンパク質を消化しやすく分解し、また旨みの元であるアミノ酸を多量に遊離させる。製造に際しては、麹が増えると甘味が増し、大豆が増えると旨味が増すとされ、温暖多湿な日本の国土条件下ではその調整に職人技を要求されるが、逆にそれ故に多様化が進み各地域で多種多様な赤味噌白味噌、合わせ味噌(調合味噌)が生産される事に。ただし現代的な食品衛生基準との兼ね合いでその伝統が守りづらくなっている。

  • 江戸時代の「本朝食鑑」などには長年の経験と検証に基づいて「食品として万能」と記載されている。またその健康増進効果から味噌汁は「医者殺し」と呼ばれてきた。

その起源には二つの説がある。

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  • 中国伝来説…古代中国の醤を根源とし、遣唐使により中国や朝鮮半島を経て伝来したとされる。
  • 日本独自説…その原型はさらに遡り弥生時代とする説もある。なにしろ日本においては縄文時代から製塩が行われ、縄文時代後期から弥生時代かけて遺跡から穀物が塩蔵されていた形跡も見つかっている。古墳時代からは麹発酵の技術も加えられ、醤などの塩蔵食品が製造されていた可能性も高い。

現在の味噌の起源に連なる最初の痕跡は奈良時代に見受けられる。

  • 当時の文献に「未醤」(みさう・みしょう:まだ豆の粒が残っている醤の意味)と呼ばれた食品の記録が存在。「末醤」とも書かれ、「大宝令」(大宝元年(701年))の「大膳職」条では「末醤」と記されている。

  • 他に味醤、美蘇の字もすでに見られ、藤原京(700年前後)の遺跡からは、馬寮(官馬の飼養などを担当する役所)から食品担当官司に醤と末醤を請求したものとして、表は「謹啓今忽有用処故醤」、裏には「及末醤欲給恐々謹請 馬寮」と書かれた木簡が発掘されている。この「豆の粒が残っている醤(未醤あるいは末醤)」がその後の日本に定着し、やがて味醤、味曽、味噌と変化したと「倭名類聚抄」(934年頃)や「塵袋」(1264~1287年頃)という辞書に記されている。

  • この当時の味噌は、調味料というよりは豆やその他の穀物を塩漬保存した保存食であり、つまんで食べられていたらしい。徒然草においても、北条時頼北条宣時が、台所に残っていた味噌だけを肴として酒を酌み交わしたという逸話がある。大豆を原料とした調味料としては、当時は塩辛納豆が主に使われた。

そして中世日本では「手前みそ」という表現が生まれた。他にも「味噌」を使ったことわざやことばが多数生み出される展開に。

  • 手前味噌(手前が工夫を凝らしたところ。これが転じて後には自慢をも指す事もある)
  • 手前味噌で塩が辛い(自慢であるが、他人からはそう見えない事。)
  • 味噌の味噌臭きは食われず(自慢は他人から見ると食えない)
  • 味噌を付ける(失敗して評判を落とす。面目を失う)
  • 味噌の医者殺し(良質な栄養源)
  • 医者に金を払うよりも、みそ屋に払え(味噌があれば医者いらず)
  • 味噌と医者は古い方が良い(時間が長く経過したものは、貴重であり良い物のたとえ)
  • 女房と味噌は古いほど良い(時間が長く経過したものは、ぶつかるような喧嘩もなく味も滑らか)
  • 味噌に入れた塩はよそへは行かぬ(味噌造りの塩と同様で、見えなくなっても無駄ではなく役にたっている)
  • 味噌買う家は蔵が建たぬ(味噌は自分で作るもの)
  • 塩も味噌もたくさんな人(大切な物を沢山持っている優れた人)
  • バカの三杯汁(良い物でも過ぎる事を言う)
  • 味噌っかす・味噌っ歯(一人前とみなされない人・歯)
  • 味噌も糞も一緒(性質の異なるものを、区別せず緒に扱うこと)
  • 味噌が腐る(糠味噌で言われる。悪声であったり調子が外れていたりする歌いぶりをあざける言葉)

室町時代になると、各地の風土や気候を反映し熟成方法などが異なる事から全国で多様な味噌が発達した。戦国時代には兵糧(陣中食)として重宝され、兵士の貴重な栄養源となり、その名残が朴葉味噌などに残る。各地戦国武将にも味噌作りを大事な経済政策の1つと見做していた。いずれにせよ現在のように調味料として認識されるようになったのは、砂糖同様に江戸時代になってからである。

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*納豆もそうだが、武家は(馬の携帯口糧でもある)豆類と縁が深い。

  • 当初はすりこぎで粒を潰して用いられたが、やがて最初からペースト状の味噌が作られるようになった。つまり語源となった「未醤」、豆の粒が残っている醤から、本来の醤に逆戻りした事になる。

  • かつては各家庭で作られるのが当たり前だったが、近年では家庭で仕立てるのが珍しくなった。今日では北海道音威子府村から沖縄県与那国町まで、日本の全ての地域に製造業者が存在するが、言い換えればそれほど高度な技術や多額な資本投下無しに製造できる証であり、特定地域に集中している醤油製造との差別点でもある。

  • 明治時代までの一般的な醸造期間は1年から3年程度であったが、明治時代末期に日本陸軍糧秣廠に勤めていた河村五郎(日出味噌創業者)が、麹の働きを温度管理で調節する味噌速醸法を考案し醸造時間を数ヶ月まで短縮する事に成功。当時東京で主流となっていた仙台味噌の醸造法とともに全国に普及し、第二次世界大戦中には配給味噌の基準製法に選ばれた。

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  • また温度に着目した醸造法が各地で試された結果、大戦中の1944年(昭和19年)に中田栄造(マルマン (味噌製造)創業者)が醸造中の温度管理の適正化を進めた中田式速醸法を開発。醸造時間を20日とする事まで可能となる。中田の信州味噌もその醸造法とともに戦後全国に普及した。

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  • 1970年代(昭和40年代)までは食料品店(酒屋、三河屋)などで醤油や味噌が樽から量り売りされていたが、流通の変化などで量り売りは姿を消し、袋やプラスチック容器などのパッケージに入ったものに変わった。従来は袋詰めに際して添加物としてソルビン酸カリウムが使用されたが、現在は酒精(アルコール)を2~3%添加する事により耐塩性酵母を殺菌し、発酵による二酸化炭素の膨張を防いでいる。

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なお、調整処理されていないものは生味噌と呼ばれ、耐塩性酵母が引き続き活動している。

醤油(しょうゆ、醬油)

主に穀物を原料とし、醸造技術により発酵させて製造する液体調味料であり、日本料理における基本的な調味料の一つとなっている。現代日本における呼び名であるが、同様の調味料は別の呼び名で東アジアの民族料理にも広く使用されている。例えば現代の中国では酱油と書く。

  • 表記そのものの文献上の初出は宋代の中国で、11世紀の北宋の詩人蘇軾の文書に出てくる。また、13世紀の南宋で1266年頃に書かれた林洪著の「山家清供」という料理書にも出てくる。

  • 日本においての初出には諸説あり定かではないが、15世紀ごろから用例が現れる。文明6年(1474年)成立の古辞書『文明本節用集』(ぶんめいぼんせつようしゅう)に、「漿醤」に「シヤウユ」と読み仮名が振られているのが日本の文献上の初出[要検証 – ノート]である。上記「漿醤」から約100年後の『多聞院日記』永禄11年(1568年)10月25日の条に登場する[5]。しかし『鹿苑日録』天文5年(1536年)6月27日条には「漿油」と表記されており、「シヤウユ」の漢字表記はこちらの方が古い可能性が高い。また、初期には「醤油」の「油」を漢音読みして「シヤウユウ」と発音されることもあった。

  • 醤の当て字に正を用いて正油と書く事がある。

  • 調味料を料理に用いる順番を表す語呂合わせの「さしすせそ」では、「せ」にあたり、「せうゆ」と表記されているが、歴史的仮名遣では「しやうゆ」と書くのが正しい。ただし「せうゆ」という仮名遣も、いわゆる許容仮名遣として広く行われていた。

  • したじという別名もあり、これは吸い物の下地の意からで、むらさきという別名の語源は諸説あり、色から来た女房詞とも、江戸時代に筑波山麓で多産され、筑波山の雅称が紫峰(しほう)であったことからとも言われる。

  • 英語のsoy sauce、soybean (大豆)に含まれる soy は、日本語「しょうゆ」がオランダ語経由で伝わったものである。

独自の発展を経て明治時代の中期に完成を見た。

  • 大豆、小麦、塩を原料とし、麹菌、乳酸菌、酵母による複雑な発酵過程を経て生成され、その過程でアルコールやバニリン等の香気成分による香り、大豆由来のアミノ酸によるうまみ、同じく大豆由来のメチオノールによる消臭作用と、小麦由来の糖による甘みを持つ。なお、赤褐色の色調は、主にメイラード反応によるものである。

  • 鉄分はコウジカビの生育に悪影響を与えるので鉄分の少ない水を使用する。鉄分が少ない方が色が薄く仕上がり、酒造に適さない軟水の方が適する。

  • 日本料理の調理において、煮物の味付けや汁物やタレのベースにするなど、広く利用され、天ぷら・江戸前寿司・蕎麦など、日本の食文化の基本となっている調味料である。また、ほとんどの場合は濃口醤油が用いられ、一般家庭でも醤油差しに入れられて食卓に出され、食堂や日本料理店などでも同様に普通にテーブルに置かれ、料理にかけたり少量を小皿に注ぎ・浸す、「つけ・かけ」用途に用いられる。主要な産地としては千葉県・兵庫県である。

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ルーツは諸説ある。

  • 古代中国の醤(ひしお・ジャン)をルーツとする説[9]で、「醤」は広義に「食品の塩漬け」のことを指す。

  • 一方、日本における最古の歴史は弥生時代とされている。肉醤、魚醤、草醤であり、中国から伝わったものは唐醤と呼んだ。

  • 文献上で日本の「醤」の歴史をたどると、701年(大宝元年)の『大宝律令』には、醤を扱う「主醤」という官職名が見える。

  • また923年(延長元年)公布の『延喜式』には大豆3石から醤1石5斗が得られることが記されており、この時代、京都には醤を製造・販売する者がいたことが分かっている。

  • また『和名類聚抄』では、「醢」の項目にて「肉比志保」「之々比之保」(ししひしほ)についてふれており、「醤」の項目では豆を使って作る「豆醢」についても解説している。

  • 『日本の味 醤油の歴史(吉川弘文館)』 によれば、その多くを奈良興福寺多聞院の僧英俊が記した「多聞院日記(1478年〜1618年)」には醤、味噌、唐味噌に関する記述が数多く見受けられるという。とくに、1576年の記事に唐味噌を絞り、固形分と液汁分が未分離な唐味噌から液を搾り出し唐味噌汁としていたと考えられ、これが現代で言う醤油に相当するものであると、記載されている。16世紀時点ではもう、こういう形で日本の醤油は成立していたのである。

「たまり」醤油の登場

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  • 文献上に「たまり」が初出したのは1603年(慶長8年)に刊行された『日葡辞書』で、同書には「Tamari. Miso(味噌)から取る、非常においしい液体で、食物の調理に用いられるもの」との記述がある。また「醤油」の別名とされている「スタテ(簀立)」の記述が同書に存在し、1548年(天文17年)成立の古辞書『運歩色葉集』にも「簀立 スタテ 味噌汁立簀取之也」と記されている。

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  • 発祥・起源については各説あり、定かとはなっていない。

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    鎌倉時代の僧によって偶然できた説…メーカーのヤマサ醤油によれば、たまりの元となるものを作ったのは、鎌倉時代紀州由良(現在の和歌山県日高郡)の興国寺の僧であった心地覚心(法燈円明国師)であり、覚心が中国で覚えた径山寺味噌(金山寺味噌)の製法を紀州湯浅の村民に教えている時に、仕込みを間違えて偶然出来上がったものが、今の「たまり醤油」に似た醤油の原型だとしている。

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    金山寺味噌を由来とする説…伝承によれば13世紀頃、南宋鎮江(現中国江蘇省鎮江市)の金山寺で作られていた、刻んだ野菜を味噌につけ込む金山寺味噌の製法を、紀州和歌山県)の由良興国寺の開祖・法燈円明国師(ほっとうえんみょうこくし)が日本に伝え、湯浅周辺で金山寺味噌作りが広まった。この味噌の溜(たまり)を調味料としたものが、現代につながるたまり醤油の原型とされる。ただし、この伝承を裏付ける史料は見つかっていない。

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    斉民要術発祥説…500年頃の中国の『斉民要術』に現代の日本の味噌に似た醤の製造法と、その上澄み液から作る清醤の製造法が記述されており、麹を用いた発酵食品は5 - 6世紀頃には中国などのアジア地域で製造されており、これが元だとする説がある。

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この「たまり」醤油をベースとして「本格醤油」が生み出される。

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  • 文献に登場しはじめた時代のたまり醤油は、原料となる豆を水に浸してその後蒸煮し、味噌玉原料に麹が自然着生(自然種付)してできる食用味噌の製造過程で出る上澄み液(たまり)を汲み上げて液体調味料としたもの。発酵はアルコール発酵を伴なわない。また納豆菌など他の菌の影響を受けやすく、澄んだ液体を採取することは難しかった。この製法によるたまり醤油は16世紀を描いた国内文献に多く現れ、17世紀に江戸幕府が開かれると、人口の増加に伴い上方のたまり醤油が、清酒や油などとともに次々と江戸へ輸送されていく。

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  • 木桶で職人がつくる、現代につながる本格醤油は、酒蔵の装備を利用し酒造りとともに発展したため、麹はこうじカビを蒸した原料に職人が付着させ、原料の表面に麹菌を増殖させる散麹(ばらこうじ)手法をとる。麹は採取し、保存しておいて次の麹の種にする友種(ともだね)という採取法も取られている。発酵はアルコール発酵を伴う。こうじカビを用いたこのタイプは、17世紀末に竜野醤油の草分けの円尾家の帳簿に製法とともに「すみ醤油」という名前で現れている。

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  • 18世紀になると、大量生産の時代に入っていく。

17世紀頃より醤油の輸出が始まり、最盛期には年間40万本にまで達した。
*価格戦争と製造努力によって廉価化が進んだが、これを欧州で売っていたオランダ商人は「宮廷向けの高級調味料」という体裁を守る為もあってそれを売価に反映させなかったといわれている。

  • 安土桃山時代から江戸時代になると、泉州堺産の物が名産として、全国に流通するようになる。

  • 日本国外への輸出は1647年(正保4年)にオランダ東インド会社によって開始された。この当時は樽詰めされた物が一般的だった。最初は東アジアへ、18世紀には欧州へ輸出された。伝承によればルイ14世の宮廷料理でも使われたという。フランスでの日本産醤油に関する記述は、「百科全書(1765年)」に現れる。当時の記録によると腐敗防止のために、一旦沸騰させて陶器に詰めて歴青で密封したという。用いられたビンは「コンプラ瓶」と呼ばれた陶器の瓶であり、多数が現存する。なお「コンプラ瓶」が使用され始めたのは、1790年(寛政2年)からである。

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  • ヨーロッパでの販売はむしろ明治維新以降「貴族の没落」「製造ノウハウの海外流出」「安価な中国産・東南アジア産の台頭」などに押され、さらに二度の世界大戦で販路を失って下火となった。

濃口醤油淡口醤油の登場(色や香りなどで区別する)

  • 江戸時代初期までは、日本での主流は色の濃いたまり醤油であり、主な産地は湯浅に代表される近畿と讃岐(引田、小豆島)であった。しかし、たまり醤油は生産量が需要に追いつかなかった。

  • 1640年代頃、寛永年間、巨大な人口を抱えて一大消費地となっていた 江戸近辺において、製造工程が改良された「こいくち醤油」が考案された。

    江戸は、材料となる行徳の塩、関東平野穀物生産地、それを運ぶための水運など立地が恵まれており、特に下総国の野田が生産地として大きく発展し、今日に至る。
    *この野田で明治20年(1887年)に「野田醤油醸造組合」が、大正6年(1917年)に「野田醤油株式会社」が設立され、後のキッコーマン株式会社の源流となる。
    野田の醤油醸造 - Wikipedia

    *江戸中期以降、江戸への輸出を主目的とする上方酒「灘の酒」も栄える。
    灘五郷 - Wikipedia

  • 「うすくち醤油」は、1666年(寛文6年)に揖保郡龍野(現在の兵庫県たつの市)で円尾孫兵衛が醤油もろみに米を糖化させたものを混ぜることにより色の薄い醤油を創り出したのが最初と言われている。元々は龍野でのみ消費されていたが、18世紀半ばに京都への出荷が本格化した。

  • 1781年(天明元年)には、玖珂郡柳井津(現在の山口県柳井市)の高田伝兵衛によって「甘露醤油」(「再仕込み醤油」「さしみ醤油」)が開発されている。

    柳井と甘露醤油

明治以降の醤油

  • 幕末の1864年(元治元年)、物価高に悩んだ幕府が市場に値下げ令を発した際、商品の品質保持を理由に銚子と野田の7銘柄は「最上醤油」の名称で従来価格で販売する許可を得た。

  • 明治時代初期では醤油産業自体、手工業的要素が強かったが、1882年(明治15年)以降になり理科学的な手法の研究進歩に伴い、醸造技術及び企業形態の近代化が徐々に進んでいった。

  • 生活必需品である事に目をつけた明治政府は「醤油税」を創設し、大正時代になるまでこれを続けている。

  • 明治時代の市販品は、まだまだ贅沢な調味料であり、一般家庭では依然として味噌由来のたまり(調味料の概念からは縁遠いもの)などが使われていた。富山県の農村(上市町)の例では、庶民は正月や祭礼時に1-2合買う程度であり、村の店では醸造元から仕入れた3升の醤油を何カ月もかけねば売れなかった。使用量が増えたのは大正時代に入ってからであり、一般家庭が一升買いをするようになったのは、昭和時代初期になってからだという。

  • 第一次世界大戦が由来する好況の影響で、1918年(大正7年)頃には設備の近代化に拍車をかけ、企業の合同も行われたことなどから、近代的な大量生産体制に移行していった。約12,000もの工場が、最盛期である大正初期には存在した。

  • 第二次世界大戦前後に深刻化した食糧難に伴い、主原料の大豆が確保出来ずに製造自体が危機的状況に陥り、生産方針も質の向上より量の確保が先決であったため本醸造製法は僅かな量しか作られず、「アミノ酸醤油」がその代用品として主流の時代を迎えた。

    代用醤油 - Wikipedia

    第二次世界大戦前後、日本では物資の不足のため、本来の醤油醸造に必要な原料である大豆や小麦の入手が困難となり、醤油の生産量が低下した。さらに戦後、醤油は配給品となり、流通量が不足することとなった。

    参議院において「加工水産物、蔬菜、味噌、醤油等についてもその配給量を増加し得るような方策を講じ」と、増産と流通統制が提案されているように、食糧不足の中でもさらに重要な問題として扱われていた。 しかし普通の醤油は、原料の問題のみならず醸造のために大規模な設備と長期間の醸造期間を必要とし、短期間での増産はできない。そのため代用品として、醤油粕を塩水で戻し、さらに絞ったものを用いたり、魚介類やサツマイモの絞り汁、海草などを原料として用い、カラメルや、前述の醤油粕の絞り汁等で風味を調整したものを用いることがあった。これを代用醤油と呼ぶ。

    池田菊苗のアミノ酸研究の一環として、さまざまな原料を用いたアミノ酸液製造の実験が行われた。その方法として、原料を塩酸で煮沸することでタンパク質を加水分解してアミノ酸としたものを、水酸化ナトリウムで中和することで、中性の食塩水溶液としたアミノ酸液を得ることができた。代用醤油は、主にこのアミノ酸液に風味をつけたものである。現在、大豆および小麦を用いて作られたアミノ酸液は、醤油諸味および醤油と混合することで、醤油とすることができる。

  • 1940年(昭和15年)に統制物資の対象となり、1942年(昭和17年)には配給規制を受けた。終戦後、連合国軍最高司令官総司令部の無理解もあって、製造上の効率を追求し大豆を酸で加水分解した液を利用する方法が導入された。
    GHQ統治下では三年間で最盛期12,000社あった全国の醤油醸造元が半減したといわれている。
  • 苦肉の策として戦後しばらくの間はこうした醤油造りが続いたが、1950年(昭和25年)、配給公団の廃止と価格統制の撤廃により、自由販売が認められたことで食糧事情の回復進展とともに、再び質の向上を目指した本醸造造りが復活。以降アミノ分解法等の製法が用いられることはほとんどなくなった。

20世紀後半以降の展開

  • 1963年(昭和38年)の日本農林規格JAS)制定後、1968年(昭和43年)に1ℓパックが登場。1973年(昭和48年)以降、企業による日本国外の生産も盛んになった。

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  • 食事の欧米化と減塩志向に伴い、1980年代以降日本人1人当たりの消費量は減少傾向にある。一方、日本において醤油を原材料とした調味料、めんつゆやたれの需要・消費量が伸びていることから、出荷量の割合において1980年代に業務・加工用が家庭用を上回っており、世帯当たり支出金額では1990年代にめんつゆ・たれの購買額が醤油の購買額を上回っている。

    <市場を読み解く>醤油類市場 - Biz STYLE

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  • 2000年代では、家事の負担軽減化を求める傾向や食に対して簡便性の高さを求める傾向からめんつゆやたれの普及が進み、料理の味付けにおいて醤油よりもめんつゆやたれを中心に使用する家庭が増加している。
    <市場を読み解く>醤油類市場 - Biz STYLE
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  • 輸出量は、日本人海外渡航者数の増加や日本国外における健康食としての日本食の流行などにより増加していった。こうした状況を受け、キッコーマンは1957年(昭和32年)にアメリカ合衆国に進出、製造工場を建設するなど、国際的な調味料として愛好されている。
    *こうして「Teriyaki Sauce」が米国進出を果たす事に。

  • 作家のC・W・ニコルが三度目の北極遠征時にカナダで購入した缶入り(キッコーマン社製)のものを持参、アザラシやセイウチ、シロイルカの生肉につけて食する。イヌイットの食卓にも常備され、現地ではソイソースではなく「キッコーマン」が、そのまま醤油の呼称となって(商標の普通名称化)生肉と共に供されている。

    C・W・ニコル「探検家は健啖家」

  • 千葉県はメーカーも多く、生産量は日本全体の約3分の1を占める。兵庫県がそれに次ぎ、上位2県で過半数を占めているが、中小のメーカーは日本各地に存在する。

英国におけるカレー粉やウスターソースの成立

フランスで「宮廷料理革命」が進行していた17世紀。英国では一般家庭において独自ソースの工夫が始まったとされる。

  • 例えばキノコの保存調味料(キノコに塩を振り、2・3日置いてからしみ出た汁を香辛料と煮詰めたもの)が考案され、現在でもパイやシチューに使用されていたりする。

    この本はトマトケチャップについて「アジアから紆余曲折を経てアメリカへやってきた」として「インド在住のイギリス人コックが現地の発酵調味料をまねて自己流で作ったソースを17世紀以後イギリスに持ち込んだもの」である「インディア・ソイ」があり、また「語源的に見れば、英語の『ケチャップ』はインドネシアのソースを指す『ケチャプ』に由来すると思われる」として、この「イスラム支配下のスペインでつくられていた酢をベースにしたソース『エスカベーシュ』」に似た「酢と強烈なスパイス(トマトではない)」ソースと、「大豆や魚から作った『インディア・ソイ』」とを合体させたものが18世紀イギリスのケチャップだったとしたうえで、「マッシュルームとクルミのケチャップ」は「19世紀初めにトマトを入れるレシピが登場するまでは一番人気だった」と述べ、「イギリス人はお気に入りの発酵調味料ケチャップをアメリカの植民地に伝え」たと述べる。

  • 魚介類や野菜の熟成にも関心が高く,1699年に出版された英国最古の俗語辞書 “BE’s Dictionary of the Canting Crew of 1699” に収録された「catchup」という単語も「東インド奥地のソース a high East-India Sauce』すなわち魚醤(東南アジアにおける魚介類の塩漬けを発酵させた調味料)を指していた。ビン南語や台湾語では小魚やエビの塩辛を kechiap、koechiap 鮭汁 と呼ぶが、これがマレー半島に伝わって kichap、kecap となり、さらにヨーロッパに伝わってキノコ、トマト、クルミなどを原料とするcatchup、catsupの呼称に変貌していった訳である。
    *これが後にトマトベースとなって一気に広まる訳である。

  • 18世紀に入ると英国は自分達の好みに合ったインドの調味料ガムラマサラの調合を発見し「カレー粉」として商品化。これを使った料理が「サンデーディナーの残り物を処する料理」の定番として各家庭に定着。
    *同時期日本でも醤油や味噌といった発酵調味料の量産体制が整備され「味覚の均質化」が始まった。

そして(巷説によれば)19世紀初頭に英国のウスターシャー州・ウスターの主婦が、食材の余りを調味料とともに入れ保存したままにしたところ、新しいソースが出来ていたのがウスターソースの始まりとされている。

ウスター(Worcester) - Wikipedia

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イングランド、ウスターシャー州の中心都市で、同州の州都。難読の地名であり、ウースターの日本語表記も世界地図などで多く見られる。バーミンガムから南西に約48km、グロスターから北に約47kmの場所にある。市内中央部をセヴァーン川が流れており、それを見下ろすようにウスター大聖堂がそびえ立っている。

古代ローマ期から集落が営まれ、サクソン人の城砦が築かれるなど古い歴史をもつ。司教座が置かれたのは680年のことである。

中世には羊毛や皮革の交易で栄えた。18世紀後半からは、手袋製造と陶磁器生産が発展し、19世紀初頭にはイギリスで最大の手袋生産地に成長した。陶磁器も18世紀来に王室御用達となり、その後、ロイヤルウースター磁器の産地として名声を博してきた。

*詳細は不明だが、ウスターソースが主成分の一つとしてアンチョビの魚醤を含むあたりに古代ローマ時代からのガルム(Garum、魚醤)文化継承の痕跡が見て取れるとも。

  •  そして1835年頃、ウスター当地のサンズ卿が、英国植民地インドからインド・ソースの作り方を持ち帰り、薬剤師であった二人の人物(ジョン・W・リーとウィリアム・ペリンズ)に依頼して調合した調味料が商品化され、後に世界初のソースメーカーであるリーペリン社(Lea & Perrins)が設立される運びとなった。

    この本はウスターソースについて、「インドがまだイギリスの植民地だった1830年代、元ベンガル州総督のマーカス・サンズ卿が英国のウスターシャー州ウスターを拠点とする食品製造業社リー&ベリン社に材料のリストを渡し、自分ごのみのインド風ソースをつくるように依頼した」ことが発祥と述べている。

  • 現在では、リーペリンブランドのウスターソース(リーペリン・ソース)はイギリスのみならず世界各国で広く使われているとともに、日本や東南アジアにおいては独自の製法が生み出されている(そもそもリーペリン・ソースは製法が現在なお社外秘とされているので直接の模倣は不可能)。

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  • もっとも、無数のソースを生み出してきたソース大国たるフランス人は、ウスターソースを万能と称するイギリス人を「百の宗教があるが、1つのソースしかない」と揶揄してはばからない。

一方アメリカではハインツ社が1876年に瓶詰めトマトケチャップを販売しこれがバーベキューソースの材料として定着。20世紀に入るとパリ万博(1900年)でゴールドメダルを獲得したキャンベル・スープの濃縮缶詰による「味の平準化運動」が本格化する事になる。
*ここで興味深いのが、ありとあらゆる濃縮スープの缶詰を発売しているキャンベル・スープが「ソース味」「カレー味」にだけは手を広げていない点。ただし缶詰の表面にはそれらを利用したレピシ例が豊富に記載されているという(クックパッドにその実践結果を報告し合うクラスタまで存在し、特にカレー料理の人気が高い)。ある意味、当時の日本で起こった事は現代人の感覚では「著作権違反」に近い事だった?

日本への「ソース文化」の伝来

日本にウスターソース類が登場したのは、19世紀末の明治時代である。

  • 現存する最古のソースメーカーである神戸の阪神ソースは、創業者である安井敬七郎が1885年に業務用として開発販売(一般ルートによる発売は1896年より)したソースを日本最初のものであるとする。

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  • ヤマサ醤油の7代目濱口儀兵衛も米国遊学時代にソース製造に着目し、その遺志を継いだ高島小金治と8代目儀兵衛が1887年に「ミカドソース」を発売、「新味醤油」として商標登録したが、当時の日本人の口には合わず1年ほどで製造は中止されたという。

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こうして当初は受け入れられなかったウスターソースだが、1894年に大阪で「三ツ矢ソース」が発売されると「洋式醤油(洋醤)」と呼ばれ人気を博す。これを追うように1896年には「イカリソース」(大阪)、1897年「矢車ソース」(東京)、1898年「白玉ソース」(大阪)、1900年「日の出ソース」(神戸)と次々に市場に出回るようになった。

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  • 1905年には東京で「犬印ソース」(現ブルドックソース)が、1908年には中部地方で「カゴメソース」が生まれ、明治後期には全国的にソース製造業が勃興した。

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  • ただしこれら初期のソースは、現在の狭義のウスターソース、つまり粘度の低い(さらっとした)ソースのみであった。

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英国オリジナルのウスターソースは主原料にモルトビネガーに漬け込んで発酵させたタマネギとニンニクの他、アンチョビや多種のスパイスが使われているが、日本のウスターソースではアンチョビは使用されず、香辛料も辛味を抑えマイルドに仕上げられている(中東から輸入するナツメヤシが味の決め手)。

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  • 英国ではシチューやスープなどに数滴落として風味をつけるなど料理の隠し味として使用されることが多いが、日本では揚げ物、お好み焼き、キャベツの千切りなどにたっぷりとかける。こうなったのはウスターソースがたまたま日本の醤油に似ていたことから西洋風の「新味醤油」などとして一般化したせいではないかと推測されている。また「タップリ掛ける方が豪勢」という思い込みもあったも。

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  • ドイツのダバダバ文化が伝播した」という側面もある。1907年から1912年にかけてドイツ帝国ベルリンの日本人倶楽部にて料理を6年間学んだ高畠増太郎はドイツ人がシュニッツェルにウスターソースをダバダバかけて食べているのにヒントを得て1913年に「ソースカツ丼」を発表。これを売りとする「ヨーロッパ軒」を開店した。

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  • そもそもシュニッツェルは北イタリアから伝播してきたばかりで特別な祝日にだけ食べられていた時代には豪華さを強調すべく衣に金粉を塗して揚げられていたという。また第二次聖歌隊線からの復興期には米軍の供出するトマトケチャップと英軍の供出するカレー粉だけはいくらでもある状況を背景に両者をソーセージにダバダバかけたカレー・ヴルスト(Currywurst)が誕生している。

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いずれにせよ日本ではこの流れから戦後ドロリとしたとんかつソースや中濃ソースが考案され広く普及していく事になる。

  • 粘度の高いとんかつソース(濃厚ソース)は、終戦直後の1948年に神戸の道満調味料研究所(現:オリバーソース)によって発明された。

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  • また、中濃ソースは1964年にキッコーマンから発売されたものが最初である。

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この頃から、日本の家庭の食卓が洋風化したことにより、消費量が拡大し、多くの家庭に常備されるようになった(東日本では中濃ソースが、西日本ではとんかつソースとウスターソースの併用が普及した)。家庭だけでなく、大衆食堂では、醤油とともに食卓上に常備されていることが多い。
*ドミグラソースやホワイトソースが一般家庭へも広がったのもこの 時期。これに対抗すべくウスターソースの味も濃厚化して日本の戦後洋食・B級グルメ文化に決定的役割を果たす事になった。

 全体像を俯瞰してみるとこんな感じ?

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  • 日本の調味料の多くは律令制に制定された宮廷料理の材料に起源を有するが、当時の姿は現在とは随分と違っていた。また「献納品名」や「料理名」しか記述されておらず、実際どう食べられていたか詳細が不明なケースも多い。

  • 納豆や味噌といった豆類の醗酵食の由来は(煮豆を馬用口糧として携帯する)武家と縁深い事が多い。兵士の携帯口糧としても優秀だったので、軍事活動と密接な関係を有したと想定されている。

    納豆研究/納豆の歴史

    戦になくてはならない軍馬は、酷使されるために消耗が激しく、奈良時代以前から大豆や米などの栄養価の高い飼料を与えられてきました。馬糧の量は、騎馬で一日一頭あたり三升、駄馬でも二升という消費量になるため、兵士たちよりはるかに上等な食事を食べていた事になります。

    通常、馬糧に利用する大豆は、煮豆したものを日干し、ワラを編んだ豆俵にして運んでいました。しかし、緊急事態が起きた場合は、煮豆を日干しする時間がとれず、豆が煮上がった所で煮汁を捨て、煮豆を俵にそのまま詰める事もしばし行われていたのです。

    俵のワラに付着していた納豆菌は、その熱い熱によって覚醒し、煮豆が適度に冷えた頃を見計らうように猛烈に繁殖し始めます。多くの場合、馬糧の豆俵は積み重ねて運ぶため、中の熱はなかなか下がらず、煮豆は一日~二日で糸引き納豆へ変化します。

  • 江戸幕藩体制化においては、その中期以降「江戸松前藩の名産品たる昆布が琉球王朝の宮廷でも食される」全国規模の交易編が発達。一部とはいえ日本酒や醤油などの大規模流通も始まった。これには江戸の巨大消費地域としての繁栄の影響も見て取れる。
    *醤油や味噌が完全に独立した「調味料」と認識される様になったのも、砂糖が日本で流通する様になったのもこの 時期。塩や酢はそれ以前から調味料として存在したから、ある意味これで一応「さしすせそ」が揃った事になる。

    ナショナリズム的観点からすると、当時は(未曾有の旅行ブームへの便乗を狙って)「味の平準化」だけでなく「(愛郷主義(Regionalism)と実利に立脚して地元の名産物化を狙った)味の差別化」も進行。醤油や味噌の生産消費形態が「生糸 / 絹織物」や「砂糖」の様な産業報国運動的側面を帯びる事はなかったのである。
    見てみよう!日本各地の郷土料理:農林水産省
  • 明治維新以降、「西洋文化の輸入」と「既存産業の工業化」が急速に進行するが、消費者層がそれなりの規模で形成されるのは、第一次世界大戦特需を経た大正時代(1912年〜1926年)以降となる。

  • 食料統制が始まった昭和15年(1940年)から、何とか敗戦直後の食料窮乏状態を乗り切った昭和25年(1950年)にかけては、あらゆる食品業界にとって悪夢の黒歴史状態となっている。三倍増醸清酒アミノ酸醤油…
    山口良忠(食糧管理法に沿った配給食糧のみで暮らし餓死した裁判官) - Wikipedia

  • 1960年代に入ると食生活の西洋化が加速。デミグラソースやホワイトソースに対抗すべく濃厚ソースや中濃ソースが登場。そして、こうした動きとは対照的に、以降次第に日本酒や醤油の消費量が減少していく。

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    実は、1950年代半ばから1960年代、日本は食の洋風化を目指し、意図して大改革を行った歴史的経緯がある。米やイモ、豆などを中心とする旧来型食生活から脱し、粉食(パンなど)で、肉・乳・卵などの動物性タンパク質や脂肪をとる洋風の食生活を望ましいあり方として目指し、官民挙げて推進したのである。

    その背景には、米国の余剰農産物を受け入れる「余剰農産物協定」(1955年)があったが、米国の側にはこのとき既に自国の農業政策上有利な食生活を日本人に浸透させていこうとする狙いがあったとされる。

    ただ、当時の日本は何事も欧米流に倣い、そのレベルに追いつくことを目指していたから、それを機に厚生省や文部省や農林省、そして都道府県や日本栄養士会などさまざまな団体も協力して、食の洋風化に向けて動き出したのである。戦争に負けた小さくて弱い日本人から、大きくて強く優秀な日本人への指向があった。

    その代表的な例として「食生活改善運動」(厚生省外郭団体[財]日本食生活協会)などがあった。米国の資金援助を受けた「キッチンカー」が、パンを食べ肉や油脂を使う欧米型食生活への転換を説いて全国を回ったり(1954~1960年)、テレビから「タンパク質が足りないよ~」(1963年)と歌うコマーシャルソングが繰り返し流れていたことを記憶する人もいるだろう。

    当時の『国民生活白書』(1962年版)では、家計調査に表れ始めた肉・乳・卵類の消費量の増加や加工食品の増加、米消費の低迷などを「食生活の高度化」と呼んで、大いに歓迎している。この時代の官民挙げた圧倒的な施策を契機として、日本人の日常食は洋食化へと転じていったのである。

    この動きを加速化させた重要なファクターとして、私は当時の加工食品の興隆も無視できないと思っている。

    1960年は、「食のインスタント元年」とも呼ばれるが、インスタントラーメンがブレイクし、インスタントコーヒーや即席カレールーなどが次々と登場した。

    加工食品市場はここから急拡大していくのだが、それらの商品は、和食しか作れなかった普通の主婦に、缶入りミートソースでスパゲティを、カレールーでカレーライスを、シチューの素(もと)でクリームシチューやビーフシチューを、ドレッシングで生野菜サラダを、マーボ豆腐の素でマーボ豆腐を、作れるようにしていく。こうして、日本の家庭に急速に洋風(中華風)料理が浸透していったのである。それさえあれば、最初から誰でも簡単に作れたからだ。それらがなかったら、洋食の浸透にはもっと時間がかかったに違いない。

    だがその一方で、日本人の味覚の基本であった「かつおぶし・削り節」「みそ」「しょうゆ」など和風調味料の家庭消費量は、大きく下落し始める。

最後に思わぬ形で「公定ナショナリズム」っぽい動きが表面化して来ました。高度成長期の駆動エンジンの一環ですね。

考えてみれば伝統的和食の世界って「関東VS関西みたいな枠組み」とか「地域ごとの郷土愛(Regionalism」とか「料理ジャンルごとの格式」といった「距離のパトス(Pathos der Distanz)」が堅牢に張り巡らされていて、ナショナリズムを燃え立たせるのに不向きなんですね。「国民総洋食化運動」にはこの枠組みを破壊して「食生活の平準化」を達成しようという意図も込められていたのかもしれない?
さて、私達はどちらに向けて漂流しているんでしょうか…