諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

フランスのプロテスタンティズムと資本主義の精神

フランスのプロテスタンティズムとは要するにユグノー(Huguenot)の事である。

檄文事件(1534年)で追放されたカルヴァンジュネーブ神権政治(1541年~1564年)を履行して以降主流派となった。そしてマックス・ウェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(Die protestantische Ethik und der 'Geist' des Kapitalismus、1904年~1905年)」は資本主義の精神(単なる拝金主義や利益の追求ではなく、合理的な経営・経済活動を非合理性のうちで支える「エートス=行動様式」)の起源をカルヴァニズムと規定する。

最盛期で人口200万人、当時の人口の10%ほどを占めたが、ナントの勅令発布まで続いたユグノー戦争(1562年~1598年)によって5%程度まで減少。その内訳は貴族・農民・手工業者・商人・金融業者など多様な社会階層に及んだが、そのうち貴族層は政治的意図が濃厚だったのでユグノー戦争後はほとんどが早期に信仰を離れている。

  • 毛織物産業ユグノーの製造業者が織機の半数を所有し、輸出用ラシャを大量生産。ラングドック・プロヴァンス・ドフィネがレヴァント地方向け、シャンパーニュ地方のスダンが北ドイツ向けを手掛けていた。
  • 絹織物工業…17世紀中葉、トゥールやリヨンで顕著に発展。イギリスへの輸出用商品として貴重なリンネル工業をフランスに導入。
  • 製紙業…オーヴェルニュやアングモアで発達。ここで製造された紙はフランス国内のみならずイギリスやオランダでも消費された。特にオーヴェルニュのアンベールの紙は当時ヨーロッパで最良とされていた。
  • 海上交易ラ・ロシェル包囲戦(1627年~1628年)直前まではラ・ロシェルが貿易をほぼ独占していたし、それ以降はボルドーがイギリスやオランダとの交易で栄えた。ナント勅令を廃止したフォンテーヌブローの勅令(1685年)の直接の影響は不明だが、フランス革命期(1789年~1899年)でボルドー貿易を担うブルゴーニュ商人の財力に立脚するジロンド派が粛清された際にはスペインが主要貿易先となっていた。
  • 金融…17世紀初頭のユグノーの銀行家としてはリシュリュー枢機卿の財源となったタルマン家やラムブイエ家が知られる。元々はリヨンの出版業者であったユグタン家も有名。1685年にアムステルダムに移住し、そこで17世紀最大の銀行家にまで成長した。フランス革命後には多くのユグノー銀行家がフランス金融界で活躍し、現在でもフランス銀行業においてプロテスタント系がユダヤ系に次ぐ存在感を見せている。

一般に流布してる仮説はこんな感じ。

ルイ13世の時代には何とかユグノーを援助しつつフランスとスペインを対決させようと目論む英国宮廷と、のらりくらりと逃げ回るフランス宮廷の間で激しい陰謀合戦が繰り広げられた。

ルイ14世の時代には、財務総監コルベール(在任1664年〜1683年)の庇護を受けたとされている。彼の在任中、フランスの歳入は3倍となったが、それもユグノーの経済的協力があっての事だった。

ニコラ・フーケ(Nicolas Fouquet、1615年〜1680年)

1650年にパリ高等法院の検事総長の地位獲得を認めらる。亡命したマザラン宰相の為に財産を守り、法廷の状況を知らせ続けた功績により1653年には大蔵卿の地位を獲得。政府の基金を扱う権限はもちろん、国王に対する債権者との交渉権も手に入れた。この地位には資産家を任命することが多く、フーケも資産家貴族の娘マリー・ドカスティーユとの結婚(1651年)によって資産を大幅に増やしていたが、ただし依然として高等法院の検事総長だったので資産調査からは免れていた。

そのうち財政を公私混同する様になり。会計の混乱は絶望的な状態になった。詐欺的行為があっても咎めはなく、財務官達は様々な援助と行政的な特別扱いをエサに買収された。フーケの資産はマザランの資産さえ上回るようになったが、マザランも過去同様の手段で私腹を肥やしてきた為に取り締まれなかったのである。

やがてマザランが死去するとフーケ自身は、政府内でも有名な政治家となった自分こそ、政府の頭首になれると期待する。しかし彼の隠しようもない野心をルイ14世は不快に思っていた。さらに後任を狙うコルベールやマザランの捜査官達は、フーケの欠点や、フーケが関った最悪の事例を洗い出し、それをルイ14世に報告した。この報告や、フーケによるとんでもない支出額を眼にして、王の不信感は増していく。

フーケは、万一罷免された際の避難場所としてベル島の港を買いつけ、島の要塞を強化した。さらに大金を投じて、自分の地所にヴォー=ル=ヴィコント城を建設。この城は巨大で、見事な装飾が施された。この装飾は後にヴェルサイユ宮殿にも採用されることになり、フーケが用いた建築家のルイ・ル・ヴォー、画家のシャルル・ルブラン、造園家のアンドレ・ル・ノートルの3人はヴェルサイユ宮殿の建設にも採用された。フーケはこの城に貴重な本や最高級の絵画、宝石や骨董品を取り揃え、芸術家や著述家に囲まれて過ごした。料理人フランソワ・ヴァテールが采配を振った食卓には、才能のある人ならば誰でも客人になることができた。客人の例として、詩人のジャン・ド・ラ・フォンテーヌ、劇作家のピエール・コルネイユ、作家のポール・スカロンなども挙げられる。

1661年8月、ルイ14世は、すでにフーケを失脚させると心に決めながらも、フーケがヴォーで開催したパーティーに参加した。これはフランス史でも1、2を争うような豪華なパーティーで、 モリエールのコメディ・バレエ「はた迷惑な人たち(Les Fâcheux)」も初演された。この豪華さを王は嫌い、フーケの運命が完全に決定された。とはいえ、王は、これほどの力のある大臣にそのまま対立することを恐れた。手の込んだ企みによって、フーケは、まず自分の検察長官の地位を売り渡すように仕向けられ、それによって特権の保護を失い、そして代償を国庫に支払うことになった。

ルイ14世がヴォーを訪問した3週間後、王はフーケを伴ってナントを訪れた。フーケは、自分が大切にされていると喜んだが、御前を離れたときにマスケット銃士隊長のダルタニャンの手で逮捕された。裁判は3年間続いたが、この裁判は正規の進め方から逸脱していたと言われ、21世紀になってもフランス法曹界では学術論文の題材としてしばしば取り上げられている。一般大衆は概ねフーケに同情しており、フォンテーヌやセヴィニエ夫人など多くがフーケを擁護する文を書いた。

しかしフーケには国外追放の判決が下り、さらにその刑に失望した王によって、終身刑に替えられた。フーケは1665年の初頭にピネローロの要塞に送られ、1680年3月23日にそこで死去した。孫のシャルル・ルイ・オーギュスト・フーケ・ド・ベル=イルはルイ15世の時代に軍人として復権した。

フーケは不屈の精神を貫き、牢においても何冊かの翻訳作業なども行った。フーケの裁判に関する15巻の記録が、コルベールがフランス三部会で抗議したにもかかわらず、オランダにおいて1665年から1667年の間に出版された。第二版も1696年に Oeuvres de M. Fouquet のタイトルで出版された。

フーケが鉄仮面の男だと言われることがあるが、この説は信頼性が低い。実際、ピネローロの牢獄で鉄仮面の男がフーケに下男として仕えていたという証拠がある。

ジャン・バティスト・コルベール(Jean-Baptiste Colbert, 1619年〜1683年)

1651年からルイ14世の宰相ジュール・マザランに仕え財政管理を任され、1661年にマザランが死去するとルイ14世親政下の財務担当となり、財務卿ニコラ・フーケの失脚によって実権を掌握。1664年に財務総監に就任すると以後20年以上にわたってフランス絶対主義時代の財務を担当、陸軍大臣ミシェル・ル・テリエ、外務大臣ユーグ・ド・リオンヌと並ぶルイ14世の側近となった。

1669年には海軍大臣も兼任しミシェル・ル・テリエの息子で陸軍大臣フランソワ=ミシェル・ル・テリエ(ルーヴォワ侯)と対立。対抗のため一族を重要なポストに就かせて派閥を結成、弟シャルルはクロワシー侯爵に叙爵、1679年に外務大臣に就任した。甥のニコラ・デマレも財務府に勤務させ、自らも海軍大臣の他に建築総監など様々な役職を兼任して内政の重要な役割を担うようになっていった。

フーケの失脚後から財政再建に取り掛かり、政府と癒着していた金融業者を摘発、赤字解消に尽くした。「国債は厄介者で、金利生活者はパラサイトである」と述べ、1661年と1664年に債務の元利をざっくりカット。債権者側とおぼしき者に容赦なく罰金を課して、債券や担保を請負人に徴収させた。法定金利の引き下げ(5.56%から5%へ)も行っている。

1681年に煩雑な間接税を整理して特定の個人の一括請負契約とする徴税請負制を確立、直接税の軽減に繋げた。しかし、これだけでは不足のため重商主義的な観点から金銀の保有を重視、国家主導で様々な工業を興すことを計画した。外国からの労働者の移入を禁じたり輸入品への関税を重くするなど保護主義的な政策を採り、反対に産業の発達と輸出を奨励、パリのゴブラン工場を始めマニュファクチュアの設立・保護や外国人技術者の招聘と技術の発達、国内の道路整備・運河開拓とタペストリー・ガラス・織物・陶磁器など奢侈物の製造に力を尽くした。

一方でフランス東インド会社(Compagnie française des Indes orientales、1664年)だけでなく、フランス西インド会社(英語版)(Compagnie française des Indes occidentales、1664年)・ルヴァン会社(Compagnie du Levant、1670年)・セネガル会社(Compagnie du Sénégal、1673年)・北方会社[要出典]などの勅許会社を設立してフランス市場開拓及び植民政策を推進。17世紀前半に発見され、細々と植民拠点が維持されていたケベック(フランス領カナダ)に初めて大規模な植民団を派遣し、フランス領ルイジアナにも植民を促した。貿易船の防衛のため海軍の強化も行った。こうした一連の政策はコルベーリズムと後年呼び習わされる様になる。

パリ天文台ガルニエ宮・科学アカデミー(現在のフランス学士院)の設立にも関わり、シャルル・ペローやシャルル・ルブランなど文化人や科学者を援助するなど文化面でも影響を与えた。こうした施策はルイ14世のイメージ作りという面もあり、ルイ14世を称えるために彼をモデルとした芸術品の製作を奨励、彫刻、絵画が作られ、ルイ14世を芸術の庇護者とする評判の喧伝に尽くし、フランス文化の向上・発展にも繋がった。

財務総監時代に早朝5時半から勤勉かつ貪欲に執務をこなし、宮廷においては「大理石の人」と渾名された。またルイ14世の寵妃ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールが1671年に修道院に出奔した際には、彼女の説得役を買って出て宮廷へ連れ帰ることに成功している。

彼が財務総監だった時代、その重金主義(mercantilism)によってフランス政府の歳入は3倍に増えたが、フランスの民衆はその恩恵を受けることはなく、依然として貧しいままだった。

1683年、64歳で死去。同名の息子ジャン=バティスト・コルベールはセニュレー侯に叙爵、父と同じく海軍大臣に就任した。1684年にジェノヴァ共和国遠征に参加、ジェノヴァを降伏させ海軍の発展に尽力したが、1690年に没して以降、海軍の拡張は停滞する。また、やはり同名の甥ジャンはトルシー侯に叙爵、外務大臣としてルイ14世に仕えた。

しかしコルベールが亡くなると、ナント勅令を廃止したフォンテーヌブローの勅令(1685年)が発布されmユグノーの多くが国外流出しフランス経済を苦境に追い込む事になる。

ルイ14世の晩年

多年の戦争による莫大な戦費の為にフランスの財政は破綻しかかっており、重税の為にフランスの民衆は困窮しきっていた。1709年にはかつて革命を起こして王政を打倒したことのある「イギリス人を見習え」と謡う小唄が流行したほどである。
*フランスでは国王、大貴族によるメセナ(学問芸術の保護)の長い伝統があり、ルイ14世もまた芸術のメセーヌ(保護者)になり、劇作家のラシーヌモリエール、詩人のボアロー、音楽家のリュリそして画家・装飾家のシャルル・ルブランといった文学や文化の名士達に出資した。学問に対するメセナとしては科学アカデミーの創立があり、高額の年金を払って外国の著名な研究者たちを迎え入れている。1671年にアカデミー・フランセーズが官営団体となり、国王がメセーヌとなった。アカデミー・フランセーズの編纂による『フランス語辞典』が出版されフランス語による言語統一という政府の施策に貢献した。もっとも、ルイ14世が芸術家のパトロンに出費したのは治世の前半だけで、やがて戦争により財政が悪化すると出資を削減している。

ルイ14世の家庭でも不幸が続き、彼の嫡出子のほとんどが幼少期に死んでおり、唯一成年に達した王太子ルイも1711年に死去してしまう。彼は3人の息子を残していたが長男のブルゴーニュ公ルイも翌年の1712年に天然痘(または麻疹)で急逝し、そして同じ病で長男のブルターニュ公ルイまでもが夭逝してしまった。その為、ブルゴーニュ公の男子で唯一生き残った幼い三男のアンジュー公が王太子となった。

1715年9月1日、77歳の誕生日の数日前に壊疽の悪化により崩御。死の床に幼い王太子を呼び「私は多くの戦争をしたが、私の真似をしてはならない」と訓戒したという。彼の遺体はパリ近郊のサン=ドニ大聖堂に埋葬されたが、民衆は老王の死を歓喜し、葬列に罵声を浴びせた。

5歳の王太子ルイ15世として即位する。法に従えばルイ14世の甥のオルレアン公フィリップ2世が幼少のルイ15世摂政を務めることになるが、オルレアン公には放蕩者の評判があり、生前のルイ14世は彼の権力を制限しようとした。摂政は置かずにモンテスパン侯爵夫人との庶子のメーヌ公ルイ・オーギュストをメンバーに含む摂政会議を設置し、オルレアン公はその座長に留めようと遺言していた。だが、オルレアン公は高等法院に働きかけてルイ14世の遺言を破棄してしまう。オルレアン公はメーヌ公の王族称号(prince du sang)と近衛隊司令官職を奪い取って投獄して、単独の摂政となった。

ルイ14世と同じく幼くして即位したルイ15世も60年近い長い治世となった。ルイ15世は父の遺言に従わず再び数々の戦争を行い、1774年に彼が崩御した時にはフランスの財政はさらに破綻状態となり、そしてアンシャン・レジームの社会矛盾が表面化しつつあった。次代のルイ16世はこの苦境を乗り切ることができず、1789年のフランス革命を迎えることになる。

「通説」はこんな感じ。ただし異説も多い。

要するに「沈んだり潜ったり」論で「経済的発展が必ずや政治的混乱を引き起こし粛清や虐殺による沈静化に終わるジレンマを抱えていた以上、フランス絶対王政フランス革命政権(ボルドー貿易を担う商人の財力に立脚するジロンド派を粛清し尽くし、工業的発展の中心地リヨンを徹底的虐殺と破壊で灰燼にせしめてフランス産業革命開始を半世紀以上遅らせる事に成功したとされる)に成功の目はなかった」点では誰もが一致している。

このジレンマを超越するにはあえて王権の善導を容認する事でフランス7月革命(1730年)の主要イデオローグとなったサン=シモンの「産業者同盟構想」や、これと決別しむしろ米国やブラジルといった外国に強い影響を与えたオーギュスト=コントの「科学者独裁構想」、さらには遂にフランス産業革命を軌道に乗せた「馬上のサン=シモン」ルイ・ナポレオン大統領(後の皇帝ナポレオン三世)の登場を待つしかなかったのであった。

武士は喰わねど高楊枝」をスローガンに価格革命がもたらすランティエ(Rentier、地税生活者)階層の没落を静かに耐え忍び、江戸幕藩体制解体の為の「版籍奉還(1969年)」「廃藩置県と藩債処分(1871年)」「秩禄処分(1876年)」を黙々と受容して消えていった日本の武家とは一体何だったのか。まぁ実際には折々のタイミングで相応の抵抗も見せてきた訳だけど。

とはいえ英国のプロテスタントもなかなかややこしい。

ところでコルベール重商主義は、関税障壁によってオランダのエダムチーズが入ってこなくなったフランスでミモレットの生産が始まるのにも一役買っている。