諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

日本人には視野外のアメリカ①カリフォルニアにおけるゴールドラッシュの勝者

「プロティスタンティズムの倫理」が生んだナンタケット島住人の悲劇…

その末路、これを知ってると絶望感が増します。

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そしてカリフォルニアと言ったら…

アメリカ西海岸の歴史は、遡るとすぐにそこがまだアメリカでなかった時期まで辿り着いてしまうのが特徴です。

「アラモ(The Alamo,1960年)」におけるジョン・ウェイン演じるデービー・クロケットの台詞

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「共和国。実に良い響きだ。人々が自由に暮らし、自由に話し、自由に行き来し、売り買いし、酔ったり醒めたりする。君もこれらの言葉には感動するだろう。共和国、胸が詰まる言葉だ」

 *この時代のテキサスはまだアメリカ領でなくメキシコ領だった。それで最近の米国の若者に到っては「テキサスの石油成金とサウジアラビアのラディン家の関係がアメリカを中東への戦争に引き摺り込んだ」「そもそもテキサス独立戦争はアメリカ史なのか? 彼らはアメリカ人なのか?」となどと言いたい放題…

「怪傑ゾロ(The Mark of Zorro)」

最初期には「悪人だけを襲う吸血鬼」と、かなりダークな設定だったバットマン(1939年初出)が現在に繋がる「密かに悪と戦う富豪の仮の姿」なるイメージにリニューアルした際に参考とされた作品。物語の舞台に選ばれた当時のカリフォルニアもまだアメリカ領ではない。

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アメリカの作家ジョンストン・マッカレーによるパルプヒーロー小説(原題『カピストラノの疫病神』 The Curse of Capistrano)。ゾロ(Zorro)とは、インディオの守護獣である黒狐を意味するスペイン語である。1919年に執筆され,1920年にダグラス・フェアバンクス主演で映画化され、世界各国で人気を博した。その後も何度も映画化され,1998年と2005年にはアントニオ・バンデラスがゾロを演じる作品2作も公開され、大ヒットを記録している。1960年代にはテレビ映画化,1990年代にはテレビアニメ化、その他、コンピュータゲーム化、アメリカンコミック化されており、長年に渡って愛され続けている大衆文化のヒーローである。

メキシコがまだスペイン領だったころ、その辺境サン・ファン・カピストラーノ (San Juan Capistrano、現在のカリフォルニア。1769年にフニペロ・セラ率いるミッショナリー(開拓農園)による開発が始まった)で活躍する仮面の剣士ゾロは、強きをくじき弱きを助く、大盗賊にしてシヴァリー(Chivalry、スペイン騎士道)を精神的支柱とするジェントリー階層の価値観に基づく真の紳士。賞金首のお尋ね者でもある反面、虐げられたインディオを助けたり、フェアな精神で1対1の決闘に臨むなど、まさに正義の味方だった。彼が現れた後には、壁にサーベルでZの字が彫られ、これが彼のトレードマークであった。なお、原題の "The Mark of Zorro" の "mark" には「刻印、傷跡、彫り痕」という意味がある。

ある日、元大地主の美しい一人娘ロリータは大富豪の息子ドン・ディエゴと青年将校ラモンから求婚されるが、ロリータはぐうたらなドン・ディエゴや、どんな男性よりも男気溢れるラモンよりも、紳士的で強く優しいおたずね者の怪傑ゾロに心惹かれる。

そして紆余曲折の果てに明かされる怪傑ゾロの正体は、なんとドラ息子ドン・ディエゴであった。どうしようもない遊び人だった彼は、15歳の時に虐げられている人々を見た事から、密かに乗馬、剣術、武術等を学び、自らを鍛えあげ、最強の紳士、最強の盗賊になっていたのである。

*ちなみにイタリアとフランスの合作映画「アラン・ドロンのゾロ(1975年)』ではニューアラゴンと呼ばれる南米北西部のスペイン軍占領地に舞台が移されスペイン人が現地農民を虐げる容赦ない悪役として描かれた(この物語のゾロはスペイン軍総督を装って現地に赴任し、昼は無能な総督として迫害を緩めさせ、夜は仮面を被ってスペイン人強硬派と戦いつつ気高きフランシスコ修道士を守ろうとする)。アントニオ・バンデラス版のゾロも基本的にこの流れを継承するが、舞台をカリフォルニアに戻しフランチェスコ修道会を悪役に設定してるのが興味深い。スペイン語話者にとっては、スペクタル史劇にもなった『エル・シド』よりこちらに興味を寄せる傾向が見られる。

 シーザー・サラダ(Caesar salad)の起源と伝来

ローマ帝国の基礎を築いたジュリアス・シーザーの好物であったという俗説がいまだに料理雑誌などで散見されるが、実際にはジュリアス・シーザーとの関連はない。それを生み出したのはアメリカ合衆国史における禁酒法(Prohibition,1920年〜1933年)の施行期間中、メキシコが「酒が飲み放題の歓楽地」として栄えた状況だったりする。

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1924年7月4日、アメリカ合衆国との国境に接するメキシコの町・ティフアナ (Tijuana) のレストラン、「シーザーズ・プレイス」(Caesar's Place)のオーナーであったイタリア系移民の料理人シーザー(チェザーレ)・カルディーニ(Caesar Cardini)によって調理されたのが最初である。

当時のアメリカでは、禁酒法が施行されていたのでティフアナはハリウッドで働くアメリカ人たちが酒を飲める歓楽街として賑わっていた。7月4日(アメリカ独立記念日)の夜、シーザーは、手元に残っていたありあわせの材料でサラダを作ったという。やがてこのサラダは“シーザーサラダ”として評判となり、ティフアナに押しかけるハリウッドの芸能関係者たちは、これを本国に伝え広めた。

初期のシーザーサラダのドレッシングにはごく軽く火を通した鶏卵(コドルド・エッグ)が入っており、チーズはロマーノを用いていた。1920年代のシーザーズ・プレイスで食事をしたことのある後のフランス料理研究家ジュリア・チャイルド(Julia Child)によると、給仕が若いロメインレタスの葉とドレッシングをテーブルまで運んで客の目の前で和え、客はレタスを指でつまんで食べるのが決まりであったという。現在のシーザーサラダには、アンチョビが入ることがあるが、元のレシピにはアンチョビは含まれていなかった。また、ドレッシングにウスターソースを入れることが多いが、シーザーはレシピを書き遺さなかったため、本来のシーザーサラダのドレッシングにウスターソースが入っていたかどうかは不明である。

日本では1949年12月24日におこなわれた、GHQの高級将校宿舎として接収された帝国ホテルでのクリスマスイブのパーティーにおいて初めて供された。これは「サラダ」が単品料理として日本で初めて提供された場でもあった。

さらにここは大量の移民を受け入れた土地としても知られています。 

ワインカントリー(Wine Country)

アメリカ合衆国カリフォルニア州の北部にある極上ワインの生産地。

ぶどう栽培とワイン醸造19世紀半ばから行われてきた。サンフランシスコより北の地域で400以上のワイン醸造所から構成され、その大半はナパ郡のナパ・バレーやソノマ郡のソノマ・バレー、アレクサンダー・バレー、ドライクリーク・バレーおよびルシアンリバー・バレーなどバレーと呼ばれる地域に密集する。ワイン用ぶどうはその大半がアトラスピークやマウントビーダーなど標高の高いぶどう栽培地域でも栽培されている。著名な自治体としては、サンタローザ、ケンウッド、ヒールスバーグ、ソノマ、ゲイザービル、ペタルーマ、セバストポウル、ガーンビル、歴史あるフォートロス(以上ソノマ郡)、ナパ、ヨーントビル、セントヒリーナ、カリストガ(以上ナパ郡)およびユカイア(メンドシーノ郡)がある。

一般にナパ、ソノマおよびメンドシーノ各郡の集合と見なされているが幾つかの文献ではレイク郡の一部を含めている。これらの郡には、次のようなぶどう栽培地域も含まれている。


メンドシーノ郡: アンダーソン・バレー、コベロ、メンドシーノ、ポッター・バレーの各ワイン生産地域

ナパ郡: アトラスピーク、ロスカルネロス、マウントビーダー、ナパ・バレー、オークビル、ラザッフォード、セントヒリーナ、カリストガ、スタグスリープ地区およびヨーントビルの各ワイン生産地域

ソノマ郡: アレクサンダー・バレー、ベネット・バレー、チョークヒル、ドライクリーク・バレー、グリーン・バレー・オブ・ルシアンリバー、ナイツ・バレー、ロスカルネロス、ノーザンソノマ、ロックパイル、ルシアンリバー・バレー、ソノマコースト、ソノママウンテン、ソノマ・バレーの各ワイン生産地域

レイク郡: クリアレイク、ゲノック・バレー、ハイ・バレー、レッドヒルズ・レイク郡の各ワイン生産地域

6郡に跨る(上記4郡の他にマリン郡とソラノ郡)ノースコーストぶどう栽培地域はここで定義するワインカントリーと重なっており、郡の名称自体は原産地名称として法的なものである。

ワインカントリーの前史時代、紀元前約8000年以来インディアンの幾つかの種族がこの地域に住んでいた。主要な部族としては、ポモ族、海岸ミウォク族、ワッポ族およびパトウィン族などであり、その初期の人々はある形態での農業を行っていたが、おそらくぶどうの栽培は行っていなかった。

  1. 続々とアメリカ東海岸に移住してきたヨーロッパ人がアメリカで初めてワインが作られたのは1560年頃と言われている。まずはアメリカに自生するぶどうでワインが作られたがアメリカ自生のぶどうはワインに適さない香りがあった為にヨーロッパからの移民が増えるにつれヨーロッパのぶどう品種がアメリカに持ち込まれ、次第に栽培されるようになった。しかしながら、アメリカにはフィロキセラ(Phylloxera)と呼ばれる病害虫がいて植えてもすぐ枯れてしまうので(アメリカに自生するぶどうにはこのフィロキセラに対する免疫があった)東海岸においてはワイン産業が衰退し、ラムやバーボンといった酒類が好まれるようになっていった。

  2. 「カリフォルニア」という名称は当初、今日のカリフォルニア州に加えてネバダ州、ユタ州アリゾナ州およびワイオミング州の一部とメキシコのバハ・カリフォルニア半島からなる地域を指していた。その語源は黒人のアマゾン族の人々が住み、女王カリフィア(恐らくはカリフが語源)が支配する空想上の天国からの派生したもので、スペイン人冒険家にして著述家のガルチ・ロドリゲス・デ・モンタルボの執筆した騎士道物語「アマディス・デ・ガウラ」の続編として書かれた「エスプランディアンの功績(1510年)』に初出する。モンタルボによれば女王カリフィアの王国はグリフォンなど奇妙な怪獣が住み、金が豊富な遠隔の土地であるとされていた。「ご存知のようにインドの右手にはカリフォルニアという名前の島があり、地球上の天国の一部に大変近い。黒人の女性が住んでおり、一人も男は居ない。アマゾン族の様式で生活している。彼女達は頑健な体をしており、強く情熱的な心と偉大な美徳がある。この島自体は目立つゴツゴツした岩のために世界でも最も荒々しい島の1つである。その武器はすべて金で作られている。島のどこにも金や高価な石で溢れ、その上に他の金属は見つからない」。実際にそう命名したのはエルナン・コルテスの命令で1553年にバハ・カリフォルニアの南端に上陸したディエゴ・デ・バセラとフォルトゥン・ヒメネスが率いたスペイン遠征隊であり、当時は島だと思われていた。アメリカ合衆国でヨーロッパ人が付けた地名としては5番目に古く今も使われている。

  3. その一方で1700年当時のカリフォルニアは未開の地でありアメリカではなかった。そして1700年後半に入るとメキシコを植民地としていたスペイン人が、あちらこちらにミッション(伝導所)を作りながらカリフォルニアを北上して来る。その頃は実質的にスペイン領であり、その伝導師たちが、教会で必要なワインを生産し始めたのである。当時の西海岸では、まだフィロキセラ害虫が生息していなかったため、スペインの葡萄品種が栽培されていたが問題はなかった。1769年にフニペロ・セラ率いるミッショナリー(開拓農園)による開発が始まり、1771年に最初のワイナリーがロサンジェルス近辺に建てられた。そしてミッションが北上するにつれ、ワイナリーも北上していった。

  4. 1800年代に入ると教会関係以外のヨーロッパ人の移民も増えて来くる。メキシコがスペインから独立したのはその頃で、カリフォルニアもメキシコ領となった。その後ソノマを舞台にカリフォルニア共和国として独立し、数年後アメリカ領となる。

  5. そして1848年からゴールドラッシュが始まる。金が見つかったという情報は瞬く間に全世界中に広まり、1849年以降、数年の間に何万人という人々がサンフランシスコに押し寄せた。この頃のワインは質より量の時代であり、この頃にナパ、ソノマ周辺及び金の見つかったアメリカ川近くのサクラメントでもワイン用ぶどうが栽培される様になったとされる。

  6. この時代にカリフォルニアにやって来たのがハンガリー人のアゴストン・ハラジー(Agoston Haraszthy)である。最初は南カリフォルニアに家族と共に果樹園などを経営していたが、その頃にぶどう栽培も始め、後にサンフランシスコ近郊(サンマテオ)に移住しぶどうを栽培した。そしてより良い葡萄栽培のできる場所を探し続けた結果、ソノマをその地と決め1860年に彼の発案によって町ぐるみの大プロジェクトとして、ヨーロッパから300種類約10万本の葡萄の苗木が輸入され本格的栽培が始まったのだった。その業績を称え現在でも彼は「カリフォルニアワインの父」と呼ばれている。余談だが、その頃 ハラジーはチャールズ・クルーグ・ワイナリーの創始者チャールズ・クルーグ(Charles Crug) とも親交があった。

  7. 1870年代に入るとカリフォルニアでもフィロキセラ病原虫による被害が増えて来たが、1880年頃カリフォルニア大学でぶどうの栽培学が始められ、フィロキセラ防止の研究が始まり、やがて免疫のあるアメリカのぶどう品種に接木をする技術が開発された。またカリフォルニアの風土に合うカリフォルニアワインの醸造技術(品質管理や低温発酵)が確立したのもこの頃とされる。

  8. 南北戦争(1860年〜1865年)を経て大西洋横断電線敷設(1866年7月)、大陸横断鉄道完成(1869年5月)、スエズ運河開通(1869年11月)などが達成された金鍍金時代が訪れるとカリフォルニアワインはますます発展し、Charles Crug, Cobel, Beringer, Wente Brothers といったワイナリーが次々と設立された。そして1887年カリフォルニアワイン法が出来、1900年にはヨーロッパでもカリフォルニアワインが多くの賞を受けるまでとなる。

  9. しかし1920年に発令された禁酒法がカリフォルニアワインを壊滅状態に追い込む。1933年に解除されるまでの間はキリスト教のミサのためのワインや医療用のワインといった ごく一部のワインの生産が認められていただけであり、ほとんどのワイナリーは廃業に追い込まれ他の農業や職業に変わっていった為にすぐにはワイナリーが再興できなかった。ワイン用のぶどうは苗木から植えても3年程しないと収穫は望めないしワイン造りの人材も失われていた為である。しかし、ここで1つの希望が浮上してくる。禁酒法が敷かれていた時代も果実研究という名目でワインの研究を続けてきたカリフォルニア大学がそれで、当初のワイン研究はバークレー校で行われていたが、この頃カリフォルニア大学デービス校に研究所を新設し、多くのワイン醸造家を輩出しぶどうの品種改良などを行った。こうしてようやく禁酒法解除後20年以上かかってカリフォルニアワインは少しづつ復興を遂げてきたのである。

  10. そして第二次世界大戦が終わった1950年以降、アメリカの食文化に変化が起こった。大戦での勝利、経済復興などがあって家庭環境が変わって来たのである。具体的にはステーキに代表されるアメリカ的料理からワインに合う食事というヨーロッパ的料理がアメリカに入り込んできて60年代に入るとテレビも普及し各国の料理が紹介される様になった。そしてヘルシーブームと共にアルコール度が強くないワインが注目されるようになり、ワインの需要が増えるにつれてナパバレーに多くのワイナリーが誕生した。弁護士、学者、医者などが趣味で小さなワイナリーを作りブティックワイナリーと総称される様になったのもこの時代の事である。

  11. そして1965年にロバート・モンダヴィが大規模なワイン畑とワイナリーを始めた頃から新たな躍進が始まり、1976年には有名な「パリの審判(Judgement of Paris)」が起こる。パリで行われた目隠しテストで、フランスとカリフォルニアのワインを比較したところ、上位をことごとくカリフォルニア・ワインが占めたという、ナパに行けば聞かずには通れない伝説の大事件である。現在なおアメリカにおけるワイン生産の98%はカリフォルニア州が独占し続けている。

 *そういえば同様に最初はやはり宣教師が持ち込んだアーモンドも、霧が多く気温の変化の激しい海岸沿いのミッションでは栽培に失敗し、安定して乾燥していて気温の高い中央平原に栽培地を移してようやく安定した収穫が得られる様になって大産地となったのがやはり1970年代だった。サイケ色の花を描いたバスに乗ったヒッピー達が押し寄せたのもシリコンバレーが実際に胎動を開始したのもほぼ同時期だし、当時のカリフォルニアには何かあったとしか思えない。そして水が綺麗な場所で有り勝ちな様に、ナパバレーから車で2時間ほどの場所にシリコンバレーが誕生する事になるのである。

 バレンシアオレンジ(Valencia Orange)

柑橘類の一種でスイートオレンジの中では最もよく知られた品種のひとつである。「バレンシア」からは、しばしばオレンジの産地として有名なスペイン東部の地中海沿岸部にあるバレンシア州や、その州都であるバレンシアが連想されるが、実際の原産地はアメリカ合衆国カリフォルニア州のサンタアナである。

  1. 東南アジア原産(約3000万年前のインド、タイ、ミャンマービルマ)あたり)とされるオレンジは7000年前にインドの南東と北東部で栽培化された種がインドやセイロンと交易していたペルシャ商人の手で紀元前1世紀頃にローマと中国にもたらされた(その呼称の起源はおそらくサンスクリット語のNāraṅgaḥに由来すると考えられている)。中国における柑橘類栽培の歴史は古く紀元前22世紀まで遡り、約4000年前の栽培史(橘誌)において既にカンキツ品種を柑、橘、橙に分け、柑18品種、橘14品種、橙5品種としてその特性が詳細に記載されている(ただし歴史家によっては果実園設置の上限を紀元前1000年頃と見る)。それに対してローマが北アフリカの果樹園でオレンジを栽培する様になったのは1世紀以降で、モロッコからリビアにかけて広がり、7世紀以降はイスラム諸国に継承される事になる。

  2. ヨーロッパ人がオレンジを再発見するのは11世紀以降、栽培者は品種改良の為にスペインやモロッコからペルシャオレンジ(セビリアオレンジ、日本のポンカンくらいの大きさで中はとても酸っぱい)の種を輸入し、マーマレードや醸造の原料に使っていた。スイートオレンジを扱う様になったのは16世紀以降のポルトガル商人で、喜望峰を回ってインドに到達する西回り航路を開拓した産物だった。瞬く間に地中海沿岸全域に伝わり「ポルトガルオレンジ」の呼称で知られる事になる。

  3. 1493年にハイチへと到達したコロンブスポルトガルの「アフリカ十字軍」を先導した冒険商人達の故郷の一つたるジェノバ出身)は、スペイン領のカナリア島で栽培されていたオレンジの種子を現地にもたらしオレンジ果樹園運営の先鞭をつけたとされる。15世紀中旬に南米へと到達したスペインのコンキスタドール(征服者)達もブラジルのサンパウロ沖にあるCananeia島を皮切りに16世紀以降、現地でオレンジを栽培する様になり、北米ではスペインの探検家ポンセ·デ·レオンがフロリダ近郊のセント・オーガスティンに最初のオレンジを植樹したと信じられている。

  4. カリフォルニアで初めて作出したのは1828年にメキシコへと帰化した罠猟師ウィリアム・ウルフスキル(William Wolfskill、1798年〜1866年)である。まだメキシコ領だったカリフォルニアに土地を買い、ミッションの先例に倣ってワインの栽培から着手したが、やがて地元最大のワイン栽培家となったばかりか檸檬やオレンジといった地中海沿岸の果実栽培にも成功して巨万の富を築き上げた。こうした成功の背景には良き隣人にして商売敵だったフランス系移民のジャン=ルイ·ヴィーニュ(Jean-Louis Vignes、1780年〜1862年)との関係(スペインとの交易で荒稼ぎしてきたボルドーのジロンド県出身で本国における政治トラブルがアメリカ移住の契機になったとも。ウルフスキル同様にぶどう栽培だけでなくレモンやオレンジの栽培にも手を広げ、アメリカ西海岸に初めて商業ワイナリーを設立した人物)の存在、ゴールドラッシュで押し寄せた鉱夫にオレンジそのものやジュースを売りつけるビジネスの爆発的ヒットなどがあったとされる。

  5. バレンシアオレンジの栽培権は後にアーバイン社(Irvine Company)へと譲渡され、さらに大々的に生産が行われる様になった。その影響でロサンゼルス郡からオレンジ郡(Orange County)が分割され、アーバイン社から分割されたサンキスト・グローワーズによって続けられてきたが、1990年代半ばにコスト問題からオレンジ郡では生産されなくなった。とはいえバレンシアオレンジ栽培が南カリフォルニアにおける柑橘類産業の基礎を築いた事実は揺るがない。

  6. だが現在、オレンジの世界最大の輸出国はブラジルだったりする。

  7. 日本でも栽培が試みられているが、他のスイートオレンジの多くの品種と同様にカンキツかいよう病に弱く、また、回青現象(樹上で熟した果実が、気温が高くなると葉緑素を再吸収し果皮が青みがかる現象)を防ぐために袋がけが必要になるなど、日本での経済栽培は難しい。2010年の収穫量は364 トンで、その内訳は和歌山県314 トン、神奈川県50 トンである。

*こうしてみるとイタリア最大の柑橘類栽培地であり、オレンジだけでもイタリア全体のおよそ70%の生産を担うシチリア島からの移民が「カリフォルニアでもオレンジが栽培されている!!」と喜んだという逸話、中々感慨深い。

そういえば「西海岸は東海岸に代わってアメリカとなった」みたいな話もあります。実はその揺り戻しがオバマ大統領とも言われてるみたいですけど。

船戸与一「神話の果て(1985年)」

アメリカ合衆国の政治を左右するのは民主党でも共和党でもない。大統領がどっちの党から選ばれるかなどほとんど重要ではない。問題はどっちの地域から選ばれるなのだ。

第35代大統領J.F.ケネディ(任期1961年~1963年)が暗殺されてからワン・ポイント・リリーフのG.フォード(任期1974年~1977年)を除いてL.ジョンソン(任期11963年~1969年)、R.ニクソン(任期1969年~1974年)、J.カーター(任期1 1977年~1981年)、R.レーガン(任期1981年~1989年)と全て南部諸州から選出されている。

アメリカ合衆国を建国以来支配してきたのはシカゴからボストン、ニューヨークに到る東部エスタブリッシュメントだったが、今やそれは南部諸州にとって替わられた。政治、経済、文化を含めた壮大な権力移動(Power shift)が完了したのだ。南カリフォルニアからテキサスを経てノースカロライナに到る南部諸州を支えているのは農事産業、軍事産業、電子技術産業、石油・天然ガス産業、不動産・建設産業、観光・レジャー産業で、これらは六本の柱(Six pillars)と呼ばれている。
*「六本の柱(Six pillars)」…ギリシア語の「プロナオス(pronaos、寺院正面) )」を起源とするポルチコ(イタリア語:Portico)様式玄関が起源。そのうち6柱式は古典ギリシャ時代の紀元前600年〜550年頃からペリクレス時代(紀元前450年〜430年)の間に正統派ドーリア様式として定着し、ギリシア諸都市の南イタリア植民を契機としてエトルリア人にまで広まり、古代ローマに継承され、ボンベイ再発見(1748年)を契機として広まった新古典主義建築の影響でユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンやアメリカ合衆国議会議事堂の正面玄関に採用された。最近はあまりこれを南部諸州の「六柱」とする表現は見ない。

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  1. その後アメリカ大統領はテキサス州出身のG・H・W・ブッシュ(1989年〜1993年)、アーカンソー州出身のビル・クリントン(1993年〜2001年)、同じくテキサス州出身のG・W・ブッシュ(2001年〜2009年)と南部諸種出身者がが続いてきたが、最近ハワイ出身で東部イリノイ州上院魏委を経たバラク・オバマ大統領(2009年〜)が就任し、このパターンが崩れた。実際ブッシュ大統領の賛成派と反対派の論争には確かに「東部エスタブリッシュメント VS 南部諸種」の代理戦争みたいな側面も見受けられる。

  2. ケチャップをたっぷりかけたポテトフライやトマトソースを乗せたピザをヘルシーな野菜と言い切る農政の横暴」とか「国を貧しくしてまで続けてきた戦争で儲けたのは軍事産業だけ」とか「製造と組み立てを外国にアウトソーシングする様になった電子技術産業」とか「サウジアラビア王家と癒着しつつイスラム過激派の資金源となっているラディン・グループと親しいブッシュ一族」などについてアメリカ国内からすら批判される様になったのも南部諸州弱体化のせいかも。そういえばハリウッド映画もクリエイティブ面ではオーストラリア勢やヨーロッパ勢の力を借りる機会が増えた。

  3. ニューヨーク起源のFacebookが西海岸に移転してきたのを記念して「The Social Network(2010年)」なんて映画を撮っちゃう辺りにも劣等感すら感じる。その一方で若者層はニューヨークに残ったTumblrに奪われちゃうんだから世話はない。その結果最近は「南部諸州文化はダサい」がトレンドに? 映画「The Great Gatsby(2013年)」も舞台はニューヨークだった。
    *でもPizzaはイタリア料理で「鰻を食う文化」を温存してきたのもニューヨークのイタリア系。彼らはどちら側にもいる。

そういえば一昔前までパニック映画といえばロサンゼルスばかり襲われてたけど、最近はニューヨークばかり襲われてる気がする。

欧州の革命時代(1789年〜1849年)やロマン主義を讃える人達が故意に見逃しているパースペクティブがあります。それは当時の革命家達がどんな無謀な賭けにでも打って出られた魔法の合言葉「いざとなったらアメリカに逃げればいいじゃない!!」。実際にそれを実践したのは彼らより本当に窮乏した貧民達。当時はあくまで王族はイギリスに、革命家はベルギーかスイスに亡命するのがデフォだったんので…

欧州史はその意味では米国移民史をセットで考えないと決して完結しないのです。そういえばそもそも、フランス史で重要な役割を果たしたラファイエット侯爵(Marie-Joseph Paul Yves Roch Gilbert du Motier, Marquis de La Fayette、1757年〜1834年)やサン=シモン伯爵(Claude Henri de Rouvroy、Comte de Saint-Simon、1760年〜1825年)は「米国速立戦争(American War of Independence、1775年〜1783年)」の英雄でもありましたし、逆にフランスに渡ったベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin、1705年〜1790年)は毛皮帽子に丸メガネという野暮ったい恰好で宮廷の宴会に毎夜の様に出没し「ヒャッホウ、野蛮の国アメリカから来たアメリカ人でしゅ。このままだとイギリス人にみんな滅ぼされちゃうんでしゅ。」と哀れみを誘って戦費調達に成功し続けていたのでありました。

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シュテファン・ツヴァイクマリー・アントワネット(1932年)」に描かれた「ロココ調美少女」の典型 

http://yaz1966.tumblr.com/post/146454068812/アメリカの下層階級の人は金さえあれば自分も上流階級の仲間入りができると思ってるけど中流階級になる

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これぞまさしくシーザー・サラダを生んだ禁酒法時代(1920年〜1933年)のアメリカ。そして禁酒法廃止に伴うエンターテイメント業界のニーズの変化を読み間違えて没落したのがフライシャー兄弟、それを正しく読み取って「白雪姫(Snow White and the Seven Dwarfs、1937年)」を成功させたのががウォルト・ディズニーだったという図式が浮上してくる訳です。一方米国の若者達はほとんど自嘲的に「華麗なるギャツビーは確かに名作だった。しかしディカプリオだって熊を倒すまでアカデミー賞が受賞出来なかった。これがアメリカさ なんて冗談を好んだのです。まさしく「これがアメリカ」?

Youtubeでこういう動画を漁ってたら、リコメンドで「そういう動画をチエックしている人はこういう動画もチエックしています」と示されました。話は最後、そういう方向に行き着くの?

さて、私達はどちらに向けて漂流しているのやら…