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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

いかにしてルイ・ナポレオンは問題児から皇帝に成り上がったか?

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フランス第二帝政(Second Empire Français、1852年〜1870年)発足に向けての流れを自ら生み出してしまった「赤旗の皆さん(事あるごとに三色旗が象徴する調和の精神を蹂躙しようとする急進派共和主義者達)」も大概でしたが…

最終勝者となった皇帝も皇后も、割と「元不良」という困った事態…

だとしたら両者の差は一体どこでついたんでしょうか?

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第二帝政(Second Empire Français、1852年〜1870年)は如何に始まったのか。

二月/三月革命(1848年〜1849年)によって18年続いたルイ・フィリップの7月王政が打倒され、穏健な共和主義者らが中心となって臨時政府が樹立されると、臨時政府は国立作業場の創設や男子普通選挙制度導入などの改革を行った。

  • チャンスの臭いをかぎつけたルイ・ナポレオンは2月27日にパリへ入り、臨時政府に対して自分の到着を知らせるとともに共和政に忠誠を誓う旨の宣言をした。しかし臨時政府外相アルフォンス・ド・ラマルティーヌからクーデターの意図を疑われ、国内が平静を取り戻すまではロンドンにいるよう要請された。

  • 刑務所から釈放されたばかりのド・ペルシニーとパリで再開し、彼から武装蜂起を求められたルイ・ナポレオンだったが、当時革命派によって唱えられた無数のユートピア思想の中にボナパルティズムを埋没させぬためにも2月革命の失敗まで待った方が良いと判断し臨時政府の勧告通りロンドンへ帰ることにした。彼はロンドンからド・ペルシニーに宛てて書いた手紙の中で「目下、武装蜂起は論外だ。一時的にパリの市庁舎を制圧できるかもしれないが、1週間も政権を維持できないだろう。秩序の代表者が登場するのは、あらゆる幻想が消え去った後でなければならない」と分析している。

  • ついでド・ペルシニーは1848年4月の憲法制定議会議員選挙に出馬するよう進言してきたが、ルイ・ナポレオンは共和派に警戒感を持たれることを嫌がり出馬を見送った。しかし6月4日の補欠選挙には出馬し、当選を果たしたす。もっとも共和派にルイ・ナポレオンへの恐怖が広がったため、ただちに議員辞職している。

  • この選挙の結果、総議席880議のうち王党派(正統王朝派およびオルレアン王朝派)が約280議席ブルジョワ穏健共和派が約500議席、急進的共和派が100議席をそれぞれ獲得。左翼勢力にとっては面白くない結果であり、早速5月15日にはポーランド支援を訴える左翼たちが議会を占拠する左翼暴動が発生した。さらに6月には国立作業場の廃止決定に反発した労働者が蜂起したが、臨時政府の委任を受けたルイ=ウジェーヌ・カヴェニャック将軍率いる軍によって容赦なく鎮圧された(六月蜂起)。この事件により労働者は共和国を支配するブルジョワに強い復讐心を抱く様になり、ブルジョワはいよいよ右翼を頼りにするようになり、こうした流れの中で正統王朝派やオルレアン王朝派、カトリックなどの右翼勢力が合同して「秩序党」が結成される。保守化した議会は12月の大統領選挙までの一時的政権として6月24日にカヴェニャック将軍に全権を委任、一種の軍事独裁政権を樹立した。

かくして予想通り労働者側が「保守派=ブルジョワ国家の転覆と復讐の遂行」だけが正義と思い詰める一方で、保守派側は「労働者殲滅だけが正義」と考える様になって八方手詰まり状態が訪れ、ルイ・ナポレオンが割って入る隙が生まれたのだった。

 憲法制定議会の代議士に当選

時節到来とみたルイ・ナポレオンはロンドン滞在のまま、1848年9月の憲法制定議会議員補欠選挙に出馬して当選を果たした。9月25日にフランス・パリへ戻り、議会に初登院して演説を行った。しかしドイツ語なまりのぼそぼそと聞き取りにくい声で「私を受け入れてくれた共和国に感謝する」と挨拶しただけだった。ルイ・ナポレオンの鈍重そうな顔と相まって、議場から失笑が起こった。

ルイ・ナポレオンについてティエールは「ただのバカ」と一言で評した。レミュザは「鉛色の長い顔に鈍重な表情、ボアルネ家特有のだらしない口元をしている。顔が身体に比べて長すぎるし、胴も足に比べて長すぎる。動作が鈍く、鼻にかかった声でよく聞こえず、話し方も単調。」と評した。ルイ・ナポレオンの「無能さ」に安心したのか、議会は彼の追放を定めた法律を正式に破棄。
*基本的に彼は討論が苦手で話が詰まることが多かった。そのためか憲法制定の論議にはほとんど発言しなかった。共和国への忠誠心を疑われた時だけ「私は共和政を愛している」と反論するのみだった。

11月4日に憲法が採択され、第二共和政の政体が決められた。アメリカ合衆国の政治システムがモデルとなっており、議会(立法府)と大統領(行政府)は対等の関係であり、大統領は国民議会から独立して首相と閣僚を任免する権限を持つが、代わりに議会解散権は有さなかった(そのため大統領と議会が対立した場合には対立の解消は困難であった)。大統領・国民議会議員ともに男子普通選挙で選出されるが、大統領選挙は有効投票数の過半数かつ最低200万票の得票が必要とされ、条件を満たした候補がいない場合には上位者5名の中から国民議会が決めるという制度になっていた。大統領の任期は4年であり、連続再選はできなかった。

 漁夫の利を突く形での大統領選圧勝

1848年12月10日の大統領選挙にはカヴェニャック将軍、ラマルティーヌ、ルドリュ=ロラン、ラスパーユ、シャンガルニエ将軍、そしてルイ・ナポレオンが出馬。ルイ・ナポレオンとしては国民投票である第一次選挙で当選する必要があった。共和派が牛耳る議会に持ち込まれた場合、当選の見込みがないからである。

  • 穏健共和派から支持を得るカヴェニャック将軍、急進的共和派から支持を得る臨時政府閣僚の候補二人ラマルティーヌとルドリュ=ロランは先の6月蜂起鎮圧の悪影響で得票を伸ばせなかった。そこに選挙戦中盤頃からルイ・ナポレオンが有力候補として台頭してきた訳である。

  • その理由は複数ある。まず右翼の秩序党が「御しやすそうな神輿」としてルイ・ナポレオンを支持していたこと。オルレアン派の重鎮ティエールも「最小の悪」としてルイ・ナポレオンを喜んで支持した。またユダヤ金融業者アシーユ・フールやミス・ハワードらの資金援助のおかげで選挙資金が豊富だった事も見逃せない。その選挙資金を利用してド・ペルシニーらが中心となって地方に「ボナパルト委員会」が次々と創設され、彼らがルイ・ナポレオンのポスターや新聞を積極的にばら撒いていった。保守派向けの『灰色のコート』、穏健共和派向けの『共和ナポレオン』、社会主義者向けの『労働組織』など個々に新聞を作ってばら撒き、あらゆる党派に対して八方美人的にルイ・ナポレオン支持を訴えたのである。後にナポレオン3世批判の急先鋒となる文豪ヴィクトル・ユゴーもこの選挙ではルイ・ナポレオンをナポレオンの継承者と看做して支持している(ユーゴーはナポレオンを「革命の子」として崇拝していた)。

しかしなんといってもルイ・ナポレオンの最大の武器は「シャルル・ルイ・ナポレオン・ボナパルト」という名前だった。フランスにその名を知らぬ者はいなかったからである。選挙の結果、ルイ・ナポレオンは553万票(得票率74.2%)を獲得して圧勝。かくして二年前には脱獄囚だった男がいまやフランス大統領となった。

秩序党との連携期

大統領になったルイ・ナポレオンは「皇子大統領」(Prince-président、プランス・プレジダン)と呼ばれ、また行く先々で兵士や民衆から「皇帝万歳」「ナポレオン万歳」といった合唱によって歓迎された。

  • だが共和主義者が牛耳る国民議会にそんな空気はなかった。ルイ・ナポレオンは1848年12月22日に国民議会で宣誓したが、共和主義者たちはルイ・ナポレオンに帝政復古を企まず、憲法と共和政を遵守することを強く求め、宣誓式でもそれを露骨に示した。議長はルイ・ナポレオンを「市民」という敬称で呼び、ルイ・ナポレオンの演説が終わると議員たちは次々と「共和政万歳」と叫びはじめたのである。

  • 第二共和政の大統領は国民議会を解散できないため、ルイ・ナポレオンとしては国民議会が自ら解散を決議するよう追い込む必要があり、そのためにも当面は秩序党との連携を目指した。最初の首相にオルレアン派のオディロン・バローを任じた。バロー内閣は大統領の統制はほとんど受けず、秩序党に支持されて保守的な政治を行った。またバローは大統領の権力を抑え込もうとも図ったが、ルイ・ナポレオンはそれに反抗しなかった。バローに政治を任せて自らは表に出ないことに努めた。

秩序党の支持のもとに国民衛兵とパリ駐在正規軍の指揮をしているパリ軍事総督シャンガルニエ将軍が1849年1月に軍事力をちらつかせて議会の共和派を脅迫することで議会解散へ誘導。議会選挙は5月に行われ、穏健共和派が大きく議席を落とす一方、右翼の秩序党が450議席、左翼勢力(急進的共和主義者と社会主義者の合同勢力)が210議席を獲得し、左右両極化が顕著になった。

 ローマ侵攻および共和派と秩序党の自滅。

二月/三月革命(1848年〜1849年)の影響でローマに共和政が樹立され、11月に教皇ピウス9世がローマを追われた。ルイ・ナポレオンは大統領選挙中からカトリックの票目当てに教皇のローマ帰還を支援すると公約していたため、1849年4月から秩序党の支持のもとにローマ侵攻を開始。

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  • これにルドリュ=ロランを中心とする左翼勢力が強く反発し、1849年6月にローマ共和国支援を訴える左翼暴動が発生。ルイ・ナポレオンはこれを左翼一掃のチャンスと見て武力鎮圧を決意した。自ら出陣してシャンガルニエ将軍とともに指揮を執り、左翼暴動を徹底的に鎮圧した(6月事件)。
    https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b8/Sanesi_-_La_rivoluzione_di_Palermo-12_gennaio_1848_-_ca._1850.jpg
    *以前の投稿で「5度目の正直」と書いたが、この事件もカウントすると「6度目の正直」となる。まだまだ見逃しがあるかもしれないが、とにかくどの蜂起も「国民間の調和を象徴する」国旗に反逆し、ジャコバン独裁体制の如き「全対立勢力の粛清権」獲得を目指すものの、かえって反対成立の団結を固めさせ、逆に自分達が粛清される結果に終わる点は同じ。

  • 6月事件でルドリュ=ロラン以下左翼議員30名が国を追われ、左翼勢力は壊滅的打撃を受けた。これにより秩序党の権勢はいよいよ絶頂に達っすると同時に共通の敵がいなくなったことでルイ・ナポレオンと秩序党の対立が表面化し始める。

  • 1849年7月にフランス軍がローマを陥落させたことで、教皇はローマに帰還することができたが、帰還するや反動的な政治を開始した。それを憂慮したルイ・ナポレオン教皇に対して「フランス共和国はイタリアの自由を圧殺するためにローマに出兵したわけではない」と諌め、自由主義的な世俗政府の早期樹立を要求した。これを契機に秩序党(特にカトリックの正統王朝派)はルイ・ナポレオンを裏切り者として激しく批判するようになる。
    *意外とこの辺りの流れが重要。確かにルイ・ナポレオン大統領はマッツィーニやガリバルディの建てたローマ共和国を滅ぼした張本人だった事実は動かない。しかし元カルボナリ(炭焼党)の一員だった前歴とこういう形で筋を通した事が重なって存外恨みを買ってないのである。その逆に同じカルボナリ(炭焼党)の一員だった筈の急進派共和主義者達は「一国平和主義」を振り翳してそういうルイ・ナポレオン大統領に反逆した事から「イタリア独立運動の敵」の烙印を押され、ますます国際的孤立を余儀なくされていく。そもそも時期を同じくしてイタリア独立運動の主導権が急進派共和主義者達から「(後にルイ・ナポレオン大統領をハニートラップで陥落させ皇后を激怒させる一方で、産業革命導入の原資を確保すべく国王の意向を無視し王国内の教会領を次々と没収した)徹底的リアリスト」サルディーニャ宰相カヴァールに移った結果であった。だがそれだけではなく、実はフランス皇后もサルディーニャ国王も秩序党もウルトラモンタニズム(ultramontanism、教皇至上主義)側であった事こそが当時は政治的に重要で、これを「現時点における改革最大の敵」と認定し対決姿勢を打ち出すトレンドに乗り遅れた事こそが急進派共和主義者達の没落を招いたとも見て取れるのである。

  • ついで1849年10月にルイ・ナポレオンは今後議会多数派を考慮せずに大臣を任免していくと教書の中で宣言し、その予告通り11月1日にはバロー内閣を総辞職させて首相を置かず、事務官僚のみを集めた内閣を発足させた。行政機関の粛清人事も遂行。その一方で議会においては次々と保守的な法案を可決されていく。1850年3月にはファルー法が可決され、ナポレオン時代に分離されたカトリックと教育が再び結合された。これにより教師はカトリック聖職者の管理下に置かれ、共和派の教師は続々と教職を追われる事になる。
    *そう、共和派を粛清した主体は誰の目から見てもあくまで傀儡同然のルイ・ナポレオン大統領当人ではなくウルトラモンタニズム(ultramontanism、教皇至上主義)を奉ずる秩序党であった。そしてこの事が両者の対決が相打ちに終わり「どちらが勝ってもフランスの為にならない。皇帝独裁の方がまだマシだ」という空気を醸成していく事になったのだった。

  • さらに1850年5月31日に選挙法が改正され、選挙権の資格として3年以上同一住居であることが条件として加えられた。これによって季節ごとの出稼ぎ労働者など300万人が選挙権を奪われ男子普通選挙制度が骨抜きにされてしまう。また有権者数が減ったのに大統領選挙が有効となる最低得票数200万票の規定は変更されなかったので議会が大統領を選出する可能性も急増する事になった。
    *男子普通選挙を通じての民衆との直接的な結びつきのみが権力基盤があるルイ・ナポレオン大統領はこの選挙法改正には反対の立場だったが、この時点の彼の権力では阻止することは不可能だった。だがルイ・ナポレオンは議会に否決されるのを承知の上で選挙法改正廃止を議会に提案して国民の議会への不信感を煽る。そして「敵の敵は味方」という政治判断が同じウルトラモンタニズム(ultramontanism、教皇至上主義)を奉ずる勢力の弾圧下にあるルイ・ナポレオン大統領と共和主義者残党の合流という新たな展開を引き起こす事になるのである。そうまさにドイツ帝国成立前夜、収入制限選挙を武器に議会を独占し既得権益墨守の為にあらゆる手段を用いるブルジョワ勢力の「仮初めの勝利」が、王党派を代表するビスマルク宰相と労働運動急先鋒だったラッサールの間に共闘の余地を生じさせた様に。そして歴史のその時点においてなお「共産主義が最終的勝利を飾るその日まで神聖ローマ帝国は無敗であらねばならぬ。従ってイタリア王国独立も皇帝ナポレオン三世ドイツ帝国成立も全て絶対悪」なる誰からも同意が得られない矛盾に満ちた観念論を叫び続けるしかなかったマルクスは、その事によって自らが空想主義社会学者として歴史の掃き溜め送りとなり、ロンドンで餓死する悲壮な最期を宿命づけられたのだった。まぁビスマルク宰相と手を組んだパトロンのラッサールに対して「お前は歴史が絶対に許さない絶対悪へと変貌したから絶交を宣言するが、お願いですから仕送りは絶やさないでください」なんて手紙を送ってる時点で既に人間として完全に終わっていたという話もある。下手したら恋人を失って悲しんでいるエンゲルスに対して「いいから仕送りを忘れるな」と傲慢に告げた頃の方がまだ人間らしさが残っていたとも。

また議会を人民裁判所に告発するという脅迫を行いつつ、議会に対して自分の俸給を60万フランから300万フランに増額する様に要求。議会はこの要求を当初拒否していたが、結局今回限りの一時給与として216万フランの支給を認めるという弱腰を見せ、国民からの信頼をすっかり失ってしまう。
カール・マルクスはこのやり口を著書『ルイ・ボナパルトブリュメール18日』の中で手厳しく批判。マルクスによれば「国民一人から選挙権を奪う金額を1フランとして合計300万フランを要求した」のだという。

「ルイ・ボナパルトブリュメール18日のクーデター」

第二共和政の大統領の任期は4年しかなく、しかも大統領の連続再選が禁止されているため、このままでは秩序党の傀儡大統領として何もできないまま、終わってしまうことになる。ルイ・ナポレオンはかねてから連続再選禁止条項の改正を国民議会に提起していたが、議会からは否決されていた。また王党派がクーデタを起こしてルイ・ナポレオンを拘束したうえでルイ・フィリップ王の孫パリ伯爵をパリに迎えて王政復古宣言を行うという噂も流れていた。こうした危機感の高まりを背景としてルイ・ナポレオンはいよいよ水面下で議会に対するクーデターの準備を開始する。

  • 1850年8月の議会の夏休みを利用して積極的に遊説に出て、国民の人気取りに励みつつ、将校と下士官を次々とエリゼ宮に招いて葉巻やシャンパン、料理などを気前よく振る舞い、軍の取り込みも図った。

  • また「議会の議長の要請があり次第、いつでも大統領をヴァンセンヌ牢獄に投獄する」と豪語して憚らないパリ軍事総督シャンガルニエ将軍を命令不服従の容疑で1851年1月3日に解任した。解任に反対するティエールに対してルイ・ナポレオンは「君は私をヴァンセンヌにぶち込んでやると公言している男を私の配下に置いておけというのか」と言い放った。歴史のこの時点で国民議会は既に軍事力的裏付けを失い、丸腰状態に追い込まれてしまっていたのである。

  • しかしルイ・ナポレオンはすぐにはクーデタを起こさなかった。1851年の議会の夏休みも利用して慎重に軍隊と警察の取り込みに励んだのである。ド・ペルシニーの主導で植民地駐留軍をはじめとしてシャンガルニエの息の掛かっていない将軍らの取り込みと取り立てに着手。ド・サン=タルノー将軍を陸軍総司令官、マニャン将軍をパリ軍事総督に任じた。警察ではド・モーパをパリ警視総監に据えた。かつて二度の一揆の計画立案をド・ペルシニーに任せたルイ・ナポレオンだが、今回は失敗は許されないだけに猪突猛進型のド・ペルシニーではなく、異父弟シャルル・ド・モルニー伯爵に計画立案を任せ、彼を内務大臣に任じている。

  • クーデターの計画はド・モルニー内務大臣、ド・ペルシニー、陸軍総司令官ド・サン=タルノー将軍、パリ軍事総督マニャン将軍、ド・モーパ警視総監、そしてルイ・ナポレオンが中心になって練られていった。クーデタのための資金は愛人ミス・ハワード、従兄妹のマチルド、大蔵大臣として入閣していた金融業者アシーユ・フールなどの資金援助を受けて拠出した。
    *ここでまさかのボールガール伯爵アン・ハリエット・ハワード(1823年~1865ルイ・ナポレオンの愛妾だった時期1846年~1852)の名前が挙がるとは…

    https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b0/Cappelaere_Portrait_Miss_Haryett_Howard.jpg

    *祖父はブライトン・ホテルのオーナーで、父親が靴工場経営者という英国ブルジョワ家庭の出身。15歳の時に騎手のジェム・メーソンとロンドンヘ駆落ちして憧れの女優となるも18歳でパトロンだった陸軍少佐マウントジョイ・マーティンと結婚。子供も生まれて社交界でも人気者になり、しばらくは平穏な生活を送っていたが23歳の時にパーティーで追放生活中のルイ・ナポレオンと出会い恋に落ちる。ハリエットがナポレオンへの気持ちを正直に打ち明けるとマーティン少佐は彼女の気持ちを理解して財産まで与えて身を引いた。その一方でルイ・ナポレオンはハリエットの館に引っ越して来て連日のどんちゃん騒ぎと大盤振る舞い。フランス帰国に際しての人脈づくりの為だったともいわれているが、この時期のハリエットはハムの監獄にいたナポレオンの息子まで引きとって育てている。ルイ・ナポレオンが大統領選に勝てたのも皇帝に即位出来たのも彼女の財政援助あっての事だったが、その結果待っていたのは「身分に相応しい皇后を別に探し始める」という裏切り行為だったのである。パリには以前ナポレオンと婚約していた強敵マチルド皇女もいたが、本当の敵は「ウルトラモンタニズム(ultramontanism、教皇至上主義)勢力が送り込んだスペインの不良娘(しかも不良のくせに二つ名が「鉄の処女」)」ウージェニー・ド・モンティホだった。ナポレオンがウージェーニーと婚約した時、ハリエットはナポレオンの諸用でイギリスに行かされていて新聞で婚約を知らされ、帰国すると家が荒らされナポレオンからの手紙が持ち去られていたという。結局半年後、使ったお金は返却、ボールガール伯爵の称号下賜により貴族としてもらう事で和解が成立したが、英国帰国後再婚した馬ブリーダーのクラレンス・トリロニーも単なる屑の金食い虫で9年後離婚。その時点で既に末期癌に蝕まれており同年亡くなった。その直前、パリを訪れ思い出の地を見て歩いたが、オペラ座ナポレオン3世夫妻の前に顔を出して嫌がらせと言われている。実際には最後にナポレオンの姿を見ておきたかっただけとも。遺言で遺産は少女救済施設設立に使われた。
    *最近は何があっても「金をくれ」としか言わなかった「鋼の鉄面皮」いマルクスばかりが槍玉に挙げられるが、アンデルセン同様恋愛方面は不器用で駄目駄目だっただけ「姿を見かけたら娘も息子も隠せ」と恐れられたバイロン卿や「三人で仲良く暮らせばいいじゃないか」と正妻と愛妾に提案して「いや、その結論だけはないから」と二人から冷静に反論されたパーシー・シェリーや、詩人ランボーとの同性愛に夢中になり過ぎて妻子を捨て、最後は娼婦達のヒモになり果てた上に彼女らからさえ見捨てられ孤独死を迎えたヴェルレーヌよりはマシだったという話も。

  • クーデター決行日はナポレオンの戴冠式の日、またアウステルリッツの戦いの日でもある12月2日に定められた。ルイ・ナポレオンとしては「血塗られた皇帝」にならぬため、できれば無血でクーデターを成し遂げたかった。

そして1851年12月2日早朝、ルイ・ナポレオンと内務大臣ド・モルニーの名において議会の解散と普通選挙の復活が布告されると同時に警察が大物議員たちの寝所を襲い次々と逮捕していった。ティエールやシャンガルニエ将軍、カヴェニャック将軍などが逮捕された。パリ十区の区役所では議員200人以上が立てこもったが、警察によって全員逮捕されている。

  • 議員の中にはパリ市民に決起を促す者もいたが、ほとんどの市民は関心を持たず、12月2日にはそうした決起は発生しなかった。しかし12月3日には左翼議員たちが一部の労働者を取り込むことに成功し、バリケードを築いて蜂起を開始し、その鎮圧のさなかにジャン・バティスト・ボダン議員が銃殺された。さらに12月4日には発砲されたことに動揺した軍隊が民衆に向かって発砲し、数百人の死者が出る事態となった。ルイ・ナポレオンはこの惨劇を聞いて困惑し、秘密投票の復活を告知するビラ貼りを徹底させたが手遅れ。この時の虐殺は1871年の帝政崩壊までナポレオン3世に血のイメージを付きまとわせる事になる。
    *実はウルトラモンタニズム(ultramontanism、教皇至上主義)と共産主義は「絶対的正義実現の大義名分を掲げ国民を超越主義的に強硬支配しようとする権威主義体制」なる基本的志向性が一致するので思うより共通点が多く実際第二次世界大戦後のイタリアでは連立政権まで成立している。「要するにトップが教皇か書記長かだけの違いだろ?」という考え方の方がむしろ国際常識なのである。「(味方の結束を固め権力掌握も容易だから)聖戦大好き」というイメージも一致するから「平和主義者」と誤解される事もまずない。

  • だがそれでも1851年12月20日と21日に行われたクーデタの信任投票では743万票の賛成、64万票の反対、170万票の棄権という圧倒的信任を受けた。
    *この戦いもカウントしたら「7度目の正直」になってしまう? それにしても本当に対立勢力の結束を固める役にしか立ってない。

  • さらにド・モルニーは1851年末から1852年初めにかけて共和主義者の弾圧を遂行。そもそもこのクーデタは12月2日に発動された直後には議会内右翼の秩序党をターゲットにした物だったはずだが、いつの間にかターゲットは左翼に転換されていった。結局「最良の帝政支持者」となるのは右翼しかいないのだから彼らに対しては牽制はしても潰してはならないのである。実際この激しい左翼弾圧を見て秩序党もルイ・ナポレオンへの警戒を緩め、彼のクーデタを支持するようになった。右翼と左翼の対立をうまく煽ることで反クーデター派を分断したのである。
    *こうした権力の掌握の仕方、意外とフライコール(ドイツ義勇兵)と(極左勢力との内ゲバに夢中になっていた)ワイマール政権の双方を出し抜いたヒトラーの勝法と似ている。鍵はシェークスピアの「リチャード3世(The Tragedy of King Richard the Third、初演1591年)」の如く、誰からも「こいつは利用価値こそあるが自ら大事を企む事はない小悪党」と思われる事だったりするのである。考えてみればハプスブルグ家もこの手で神聖ローマ帝国皇統の座を獲得したのだった。

このクーデタにより多くの者がフランスを追われた。2万5000人が逮捕され、約1万人がフランス植民地アルジェリアに流刑となったという。ヴィクトル・ユゴーもベルギーへ亡命していった。
2万5000人が逮捕され、約1万人がフランス植民地アルジェリアに流刑となった…実は規模でいうと急進派共和派が粛清された六月蜂起(1848年)ほど大規模ではなかったのである。

1852年憲法と独裁体制の樹立

クーデタに成功したルイ・ナポレオンは伯父ナポレオンが制定した共和暦8年憲法をモデルにした憲法草案を作らせ、これを1851年12月21日と22日に国民投票にかけて92%の賛成票を得たうえで、1852年1月14日に新憲法として公布。これにより大統領の任期は10年に延ばされた。

  • 大統領には行政権全てと立法権の一部が与えられた。立法機関は法律の起草を行う国務院、国務院で起草された法案を審議する立法院(法案修正には国務院の許可が必要)、立法院を通過した法律が憲法に適合しているかどうかチェックする元老院違憲と判断した場合には法律を廃止できる。また植民地に対してはここが立法院の役割を果たす)の3つに分けられた。うち男子普通選挙で選出されるのは立法院のみであり、国務院や元老院は大統領から任命を受けた者によって構成された。すなわち法律の起草と最終チェックを大統領が掌握する様になったのみならず、この3機関を通過した法律であっても大統領には拒否権があり、かつ何の制約も受けない大統領令を自由に出すことができた。さらに大統領は立法院解散権も有するが、立法院の側には行政を掣肘(せいちゅう・傍から干渉して自由に行動させないこと〈広辞苑第5版〉)する手段は一切なかった。また司法機関である司法高等法院は「大統領と国家に対する陰謀」に対して裁判なしで刑罰を与えることができるとされていた。

  • この憲法により大統領はほとんど絶対君主も同然の独裁権を得た。あとは任期を廃して世襲とし、職名を皇帝に変更すれば悲願が達成されることになるが、ルイ・ナポレオンはクーデタ後すぐさま帝政復古させることには慎重であり、まず世論を調整しなければならないと考えていた。一方ド・ペルシニーはルイ・ナポレオンのこうした不明瞭な態度にイライラしており「本人が嫌だと言っても皇帝に即位させる」などと公言していた。

  • 憲法が制定されてまもない1852年1月23日にルイ・ナポレオンは早速大統領令を出し、オルレアン家のフランス国内の財産を没収した。オルレアン派であったド・モルニーがこの大統領令に強く反発し、内務大臣辞職を申し出た。ルイ・ナポレオンはド・モルニーのせいで自分の新体制が血で汚されたと恨んでいたので慰留することなく彼の辞職を認め、後任にはド・ペルシニーを任じた。なおオルレアン家から没収した財産は相互扶助組合や労働者住宅など労働者階級のために使用された。

  • 一方1852年2月8日の大統領令で7月王政下の官選候補制度を復活させた。これにより知事は立法院の選挙において官選候補に様々な優遇を与える一方、非官選候補には様々な妨害を加えるようになった。非官選候補者の当選は極めて困難であり、また当選したとしても立法院議員は全員大統領に忠誠宣誓することを義務付けられていたため、大統領の政策に反対する事はできなかった。

  • 続いて2月17日には新聞規制の大統領令を発令し、1848年革命で認められた報道の自由を再び制限した。これにより新聞の発刊には政府の事前許可と多額の保証金が必要となった。各紙毎号、政府のコミュニケを無償で掲載することが義務付けられ[、政府から不適当な記事であると3度警告された新聞は発行停止されることになったのである。集会や結社も厳しく制限・監視された。

こうした制度の下で1852年3月に行われた立法院選挙はボナパルティストが議席の3分の1、オルレアン派が2分の1を確保し、ルイ・ナポレオンの明確な反対派は立法院から消滅することとなった。非官選候補者は8人しか当選できず、またその中でも大統領への忠誠宣誓を拒否した者は議員辞職したからである。
*とはいえその一方で、古き良き時代の伝統に反する「近代詩の父」ヴォードレールや「近代小説の父」フローベールや「近代絵画の父」マネが訴訟やマスコミを挙げてのネガティブ・キャンペーンによって潰されかけたり、ワーグナータンホイザー(Tannhäuser、初演1845年)」のパリ初演が「鞭を振り回す貴族達」の乱入によって中断に追い込まれたのを見ても守旧派は完全に息の根を絶たれた訳ではなかったのである。

*ただ守旧派は存続こそ許されても二月/三月革命(1848年〜1849年)当初から国民が求め続けてきた「統治の安定」と「経済の再建」についての代案を持っていなかったので政治的挽回を図る事は出来なかった。また産業革命が軌道に乗って副作用として貧富格差の拡大が進行すると労働者に基盤を有する急進派共和主義者達が勢いを取り戻したが、残念ながらその様子を見て「これでフランス人もやっと私有財産を放棄して農本主義的共同生活に回帰する準備が整った」と確信した彼らこそ完全に時代遅れの存在であり、英国で進んでいた労働環境整備の成功を見習った国家福祉充実に「卑怯なり!! 正々堂々と労働者達を地獄のどん底に突き落とせ!!」と怨嗟の声を上げる事しか出来なかったのだった。

第二帝政皇帝

はじめルイ・ナポレオンは任期10年で連続再選が可能の大統領制のままで良いかのような発言をしていたが、ド・ペルシニーが訪問先で「皇帝万歳」の声が上がるよう工作し続けたこともあって徐々にルイ・ナポレオンもその気になってきた。

  • 1852年10月9日のボルドーの演説では「『帝国とは戦争だ』という人々がいますが、私はこう言いたいです。『帝国とは平和』であると。」と帝国復活に前向きな発言を行っている。

  • 1852年11月に入るとルイ・ナポレオンは皇帝即位を最終的に決断し、11月5日に元老院に対して帝国復活の検討に入るよう指示。11月7日の元老院令によって1852年憲法の大統領に関する規定が改正され、任期10年の大統領に代わって世襲制の皇帝制が導入され、またその是非を国民投票にかけることが決議された。国民投票は11月21日と22日に行われ、782万票の賛成、25万票の反対、200万票の棄権により国民から承認された。

  • ルイ・ナポレオンは12月1日午後8時半にサン=クルー城において元老院議員、国務院議員、立法院議員が居並ぶ中、元老院議長ビヨーよりこの国民投票の結果報告を受けた。これに対してルイ・ナポレオンは皇帝即位を受諾し「私の治世は1815年に始まるのではない。諸君が私に国民の意思を伝えた今この瞬間から始まったのだ」と語り、国民の意思によって皇帝に即位することを強調した。

  • ついで施政方針演説を行い「私は寛容をもって統治に臨む。誰の意見にも耳を傾け、党派には属さない。政治犯は釈放する。フランスの過去に対して連帯責任を取り、どの時代も我が国の歴史の1ページとして否定しない。(略)諸君、どうか私を助けてほしい。たび重なる革命で何度も政府が転覆したこのフランスの大地に安定した政府を樹立することに協力してほしいのだ。新政府の基礎となるのは宗教、所有権、正義、そして貧困する階級への愛である。」といつもの如くよく聞き取れない声で語った。

  • 12月2日にルイ・ナポレオンはサン=クルー城を出てパリへ入り、正式に帝政宣言を行って「ナポレオン3世」と名乗るようになった。署名する場合には「ナポレオン、神の恩寵と国民的意思によるフランス国民皇帝」と記した。

  • 大統領が世襲の皇帝になったこと以外は1852年憲法のままであった。君主は通常誰に対しても責任を負わないものだが、大統領が改組された存在であるフランス第二帝政の皇帝は国民に対して責任を負っていた(皇帝は「国民の代表」と規定されていた)。ただその責任は皇帝の側からの一方的なものであり、国民の側から責任を問う手段はなかった。立法院選挙も皇帝の政策について問う選挙ではなかった。前述したように官選候補者制度によって選挙は政府に都合のいいようにコントロールされたし、そもそも立法院議員は全員皇帝に忠誠宣誓をしなければならなかった。1858年には元老院令によって立法院議員選挙に立候補するだけでも皇帝に忠誠宣誓することが義務付けられるようになった。国民投票も結局帝政末期の1870年6月まで行われなかった(その国民投票自由主義的な議会手続き導入の是非を問うもので70%の賛成票を得ている)。

このようなナポレオン3世を歴史家フランソワ・フュレは「ヨーロッパで唯一、民主主義という名の下における専制君主」と定義した。

皇帝ナポレオン三世が政権を手放さねばならなくなったのは、あくまで経済政策などの内政でつまずいたからではなく、不思議なまでに軍事的才能だけがすっぽり抜け落ちていたから。その一方で彼の成功は、まさに彼が育て上げた新興産業階層、すなわち「権力に到達したブルジョワジー(bougeoisie au pouvoir)」あるいは「二百家」と「呼ばれる新たな政治的エリート集団に継承されました。

 それでは皇帝ナポレオン三世は一体何を成し遂げたというのでしょうか?

  • 前近代においては「体制内反逆児」が英雄視されるものだし、それを王国貴族や聖職者、および彼らと縁戚関係にあったり、または縁戚関係を結ぼうと寄ってくる大ブルジョワが経済的に後援する図式そのものも別に珍しくはない。ルイ・ナポレオン大統領/皇帝ナポレオン三世の治世のうち、この部分には特に何の新しさもなかったと考えるべきであろう。ただし大権を得てやっと可能となったオルレアン公の所領没収などは確実に効いた。
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    *存外経済が高度な発達段階に到達していた江戸幕藩体制においてすら、最高の名誉が将軍家や諸藩大名に認められて身分上昇を果たす事であり「大名貸し」や「札差」といったその筋に特化した金融業者達が幅を利かせているうちは経済的ブレイクスルーなど起こり得る筈もなかった。イングランドが早くも16世紀には修道院領の没収を完了していた様に、日本も戦国時代のうちに既に(一円領主による)全国に散在する公家領や寺社領の押収を完了していたが、それでもまだ足らなかった。地味ながら明治政府による幕藩体制解体は「藩債処分(1871年)」と「秩禄処分(1876年)」をもって完了するのであり、近代資本主義が受容可能となったのはこれ以降と考えねばならないのである。
  •  皇帝ナポレオンが即位した時点でフランスに存在していなかったもの、すなわち「1830年代には既にフランスの産業革命は始まっていた」と言われながら欠けていた近代資本主義発展の必須要素、それは国王や教会や領主といった伝統的権威の裏付けなしに推進される産業インフラや事業に投資される産業資本だったのである。それまでなまじ宮廷銀行家として成功してきたフランス・ロスチャイルド家などは見向きもしなかったので、皇帝ナポレオン三世は(同じサン=シモン主義を信奉する)海外の産業資本家を噛ませ犬的に呼び込みつつ、鉄道敷設事業に新時代の担保性があると信じさせ様とした。これが当を得ていてフランスにおける産業革命が本格化し、新興産業階層の形成が始まったのだった。
    *鉄道敷設事業に新時代の担保性があると信じさせ様とした…砂糖産業や綿布産業でも起こった事だが、過当競争は必ず安売り合戦による採算割れを引き起こす。製鉄事業や鉄道敷設事業もこの宿命は逃れられず、その事が大不況 時代(1873年〜1896年)を引き起こしてしまうのである。

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  • フランスの新興産業階層はただ蓄財に励んだだけでなくその使い道を見出そうとした。 マリー・アントワネット王妃をこよなく敬愛したウジェニー皇后がリヴァイバルしビクトリア朝時代の英国まで広めた新古典主義(あるいはルイ16世紀様式)の生活文化、文豪達が築いてきたカフェ文化などがその表の顔。クルティザンヌやデミ・モンドといった高級遊女達の世界がその裏の顔。後者はマネが様々な風刺画で、エミール・ゾラがルーゴン=マッカール叢書(Les Rougon-Macquart、1870年〜1896年)で暴こうとした世界。そして全てが過ぎ去った後でマルセル・プルーストが両者の交錯を「失われた時を求めて(À la recherche du temps perdu、1913年〜1927年)」の中で切なく回顧した「ブルジョワの偽善的生活」の世界…必ずしも褒められた側面ばかりとは言えないが、当時「シック(chic)」と呼ばれたその表面的静謐さこそが18世紀末から19世紀中旬のフランスには欠けていたのではあるまいか? 実はそれこそが皇帝夫妻が当時のフランスにもたらした最高の贈り物だったのではあるまいか?
    *おそらく普仏戦争に敗れていなくても大不況時代到来でフランスは大変な事になってた筈。「フランスから多額の賠償金をふんだくったドイツ産業革命の急加速が最後の引き金を引いた」とする説もあるが、とにかく「不満の鬱積によって国民の信望を失った形の失脚ではなかった」事実は大きい。

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シックは秘密の箱に入っている。それを開けても、箱。箱、箱、箱……。なぜかそのような気がしてならない。

シック chic は英語でもあり、フランス語でもある。いや、フランスの「シック」がそのままイギリスに伝えられて、英語にもなったのだ。ということはフランスの「シック」は英語化できなかったわけである。それはちょうど英語の「ダンディ」がフランス語に翻訳不可能だったのに似ている。フランス語での「シック」は19世紀のはじめから使われているとのこと。これが英国に輸入されるのは、19世紀中頃のこと。『ラルース語源辞典』によれば、フランスでの「シック」は、1803年頃から使われているという。そしてシックは古いドイツ語の「シック」 schickから来ているらしい。そして今なおドイツ語の「シック」にも「洗練」の意味があるのだが。

「フランス語で、いかにも垢抜けた様子を『シック』chic という。非常によく使われる語であるが、フランス語らしくない音の語である。( 中略 ) この語はドイツ語で『秘儀』とか『作法』という意味の『Schick』がフランス語になったのではないかという説が有力である。」

坂部甲次郎著『おしゃれ語源抄』( 昭和三十八年刊 ) には、そのように書かれている。シックの源には「秘儀」の意味があったらしい。これは納得がゆく。秘儀であるからこそ、開けても開けても、まだ小箱に包まれているのだ。

「シックというものはある少数の人間が発散するものであって、そういう人間は、その友達とかその友達の友達の圏内……」

マルセル・プルースト井上究一郎訳 『失われた時を求めて』に出てくる一節である。ここからはじまって、プルーストは延々と、シックとは何かを語る。いや、小説の登場人物にも大いに語らせてもいる。言葉を換え、表現を換えて、語る。それでもまだシックは神秘の箱に包まれているのだ。
*14世紀ラインラント(ライン川流域)で誕生したゲルマン神秘主義や薔薇十字団の世界からリベルタンフロンドの乱絶対王政に政治的に敗れ刹那的快楽に耽る様になった放蕩貴族)に愛読されたヴィラール神父「ガバリス伯爵(1670年)」へ。ゲーテやホフマンのドイツ古典主義や英国ダンディ流儀からフランス政治浪漫主義へ。そして秘密結社カルボナリ(炭焼党)からオーギュスト・ブランキルイ・ナポレオンへ。マリー・アントワネット王妃からウジェニー皇后へ。そして「オカルトでも政治的でも権威主義的でもない洗練された本物の何か」だけが残り、ブルジョワ化した新興産業階層のスノビズムを掻き立てる事に? そして世紀末に流行したデカダンやオカルトの世界ではなくマルセル・プルーストの官能世界に行き着く?
ヴィラール神父「ガバリス伯爵(1670年)」

こうして全体像を俯瞰してみるとオーギュスト・ブランキもなかなか侮れません。

オーギュスト・ブランキ『天体による永遠』書評:阿部重夫発行人ブログ:FACTA online

晩年の芥川龍之介が読んでいたことは、アフォリズム集『侏儒の言葉』で明らかだ。

「宇宙の大は無限である。が、宇宙を造るものは六十幾つかの元素である。是等(これら)の元素の結合は如何に多数を極めたとしても、畢竟(ひっきょう)有限を脱することは出来ない。すると是等の元素から無限大の宇宙を造る為には、あらゆる結合を試みる外にも、その又あらゆる結合を無限に反覆して行かなければならぬ。〔中略〕これは六十七歳のブランキの夢みた宇宙観である。議論の是非は問う所ではない。唯(ただ)ブランキは牢獄の中にこう云う夢をペンにした時、あらゆる革命に絶望していた。このことだけは今日もなお何か我々の心の底へ滲(し)み渡る寂しさを蓄えている」

芥川の末期の目は正確だった。ブランキは遅れてきたサド侯爵かもしれない。

「何世紀も前から、我らが大気圏の柵につながれ、空しく自由もしくは歓待を求め続けている、哀れな囚人たちではないだろうか? 曙光と黄昏の光の中で、両回帰線間の太陽に照らし出される、あの蒼白きボヘミアンたち」

「我々の一人一人は、何十億という分身の形をとって無限に生きてきたし、生きているし、生き続けるであろう」

ブランキの言う「フォワイエ」(中心星)は国家であり、それを拒絶する彼はいくら「一揆主義」と貶められようと、マニフェスト(綱領)をつくらなかった。あらゆる政体を否定する陰謀家。その胸中には無限の宇宙に戦慄するニヒリズムが宿っていた。無限の時間の中で必然的に生じる有限の反復――永劫回帰の憂鬱。

本書の数年後にニーチェも、スイスの保養地で同じ戦慄に襲われた。いつかどこかの時間に生きていた己の分身、瓜二つの自分とすれ違ったという霊感である。ドイツの批評家、ヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ』も「倦怠、永劫回帰」の章で丹念に本書を抜粋し「地獄が神学の対象になるなら、これは神学的思弁と呼んでいい」と書いた。彼はボードレール論でも、この『パリの憂鬱』の詩人とブランキを並べて論じている。

彼らのニヒリズムに芥川も同期した。そのアフォリズムはこう結ばれる。

「夢は既に地上から去った。我々も慰めを求める為には何万億哩(マイル)の天上へ、――宇宙の夜に懸った第二の地球へ輝かしい夢を移さなければならぬ」

*「魂で自らの源流を探す」ドイツ流の秘儀めいたロマン主義無神論者であるが故に時間や空間を超越した先に視えてしまった三昧の世界。キェルケゴールにとっての「(イエス・キリストでもある)生命の本質」あるいは宮沢賢治にとっての「久遠の仏」…エンルスト・ユンガーの魔術的リアリズム(Magischer Realismus)…

 どうしてこんなに差がついた? そして最終的に勝ったのどっち?

そもそも第二帝政崩壊後、王政復古が実現しなかったのは共和主義者の功績ではありません。当時のフランス国民は「三色旗を(急進派共和主義の象徴たる)赤一色に塗り潰す」事を望んだパリ=コミューンの殲滅を明らかに喜んでいます。それと同様に(選挙の結果議会の圧倒的多数を占めるに至った)王党派(半分がブルボン家を支持するレジティミスト、残り半分がオルレアン家復興を支持するオルレアニスト)が選んだシャンボール伯アンリ(Henri d'Artois, 1820年〜1883年)が三色旗を(王党派の象徴たる)白一色に塗り潰す」事を望んだ為に肝心の支持基盤である王党派からも見捨てられたのが原因でした。ある意味、二月/三月革命期に第二共和制を樹立したラ・マルチーヌが残した歴史に残る名台詞「赤旗はシャン・ド・マルス広場を一周しただけだが、三色旗は栄光と祖国の自由の象徴として世界を一周した」こそが調和を重んじる近代フランスの出発点になったとも。

*それでは「三色旗の青」とは一体何なのか? 誰もフランス国旗を青一色に塗りつぶそうと試みた事はないので分からないままとなっている。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c3/Flag_of_France.svg/1280px-Flag_of_France.svg.png

ルイ・ナポレオンはどうして問題児から皇帝に成り上がる事が出来たのか? 案外その鍵は「ちゃんと三色旗に対する敬意を払い続けた」点にあったのかもしれません。いささか逆説じみてますが…