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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

古代日本祭政史⑦【網野史観】中世日本に刻まれた「古代の息吹」

戦後(特に1978年以降)から20世紀一杯にかけて日本史の世界では「網野史観」なるものが支配的でした。

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網野 善彦(1928年〜2004年)

中世日本史を専攻した歴史学者。旧制東京高等学校高等科文科卒業後、1947年(昭和22年)、東京大学文学部国史学科入学。学生時代は石母田正に私淑(網野善彦著作集より)。またこのころ日本共産党に入党し、山村工作隊の指揮や階級闘争による国民的歴史学運動に携わる。民主主義学生同盟副委員長兼組織部長となったが、のち運動から脱落する。

  • 1950年(昭和25年)3月に東京大学文学部国史学科を卒業。同年4月から渋沢敬三が主宰する財団法人日本常民文化研究所の月島分室に勤務した。1954年(昭和29年)に水産庁からの予算打ち切りが決まると同研究所を辞し、翌年4月から永原慶二の世話で東京都立北園高等学校の非常勤講師(日本史)として勤務。同年5月には日本常民文化研究所の同僚だった中沢真知子と結婚する。エンゲージリングが買えないほど貧しかったため、代わりにカーテンリングを贈ったという。

  • 1956年(昭和31年)6月、正式な教諭となり、日本史の授業以外にも社会科学研究会や部落解放研究会などの顧問を務める。勤務の傍ら東京大学史料編纂所に通って古文書を筆写、1966年に『中世荘園の様相』を著す。

  • 1967年(昭和42年)1月に同校を退職し、同年2月に名古屋大学文学部助教授に就任し、名古屋に転居。1973年(昭和48年)には中世史研究会発足に参加している。

  • 1978年(昭和53年)に『無縁・公界・楽――日本中世の自由と平和』が学術書としては異例のヒットを記録。

  • 1979年(昭和54年)、神奈川大学日本常民文化研究所を招致することが決まり、名古屋大学を辞任し、1980年(昭和55年)10月に神奈川大学短期大学部教授に就任。1993年(平成5年)4月に神奈川大学大学院歴史民俗資料学研究科を開設し、1995年から同大学経済学部特任教授となり、1998年(平成10年)3月に定年退職。

  • 2000年(平成12年)2月に宮田登の葬儀委員長を務めるが、その翌月に自身が肺癌だと分かり闘病生活に入る。

  • 2004年(平成16年)、東京都内の病院にて死去。享年76。死去時には、ル・モンド誌にも記事が掲載された。遺骸は本人の遺志によって献体された。

概ね一般的には「マルクス史観から出発しながらその限界に直面し、民俗学やフランス・アナール学派の手法を採用して独自の歴史観を構築した日本史学者」と理解されている。

 特に興味深いのは古代と中世の境界線たる鎌倉時代の研究を通じて「印字打ち(投石)」「強訴(神輿担ぎ)」「賭博(確率遊戯)」などに「神事から人事への推移」を見て取った辺り。古代は古代だけで完結した歴史区分ではなかった?

 印字打ち(投石)

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印地(いんじ)

日本で石を投擲することによって対象を殺傷する戦闘技術、行為、行事。手で投げることを始めとして、投石器を使用するもの、日本手ぬぐいや畚(もっこ)をもってそれに代用するもの、女性が領巾(ひれ)を使用するもの、砲丸投げのように重量のある物を投げつけるもの、など様々な形態があった。

  • 手で投擲することに関しては、野球の投手を見ればわかる通り、それだけで脅威であるが、西洋のものと同様の投石器を使用する場合は、布の両端に紐を付けたものを使用し、片方の紐を手首に縛り、もう片方は同じ手に握る。中央の布部分に手頃な石を包み、頭上でそれを回転させる(身体の脇で回転させる技法もある)。十分に速度がついたところで手を放すと、加速された石が弾丸のように飛んでいく。投石器自体は手首に縛り付けてあるので手元に残り、新たな石を挟むことで、即座に次の石を投擲出来る。

  • 簡単なものでは、日本手ぬぐいなどでそのまま代用出来たらしく、戦場以外でも喧嘩や抗争に多用された記録が残っている。

  • ちなみに、投擲する方法以外にも、近距離では分銅術として使用する方法や、石を紐で縛ったものを大量に用意しておくことで次々に投げつける方法、また、現在でいうハンマー投げのように大きなものを投げつける方法などもある。

  • 微塵の接近戦と同じように、投げずに搦めて捕縛する目的で、女性の領巾と小豆が入った小袋の錘がセットで用いられる護身術もあり、幾つかの神社で神事として伝承されている。

  • 合戦においては、そのローコストさで非常に使いやすかったらしく(河原にいけば、簡単に石は確保出来た)また、熟達した兵士が使用した場合は弓よりも飛距離があった上、甲冑の上からでも衝撃が伝わったということで、多用されたらしい。近世の城郭では、印地用の石を城内に蓄積している。近年の研究によって、戦場では、弓矢、鉄砲に次ぐ兵器として、盛んに使われたとされている。軍用に加工した飛礫種は、約3寸(約9cm)の平たい丸石で縁欠いてある。

  • 近代では、石の代わりに火薬や油壺を投げたりもされたらしい。安保闘争などで、過激派が火炎瓶、投擲爆弾、発煙筒などでも使用したとされる。

  • 印地による紛争や行事は、印地、印地打ち、印地合戦、石うち、石合戦、向かいつぶて、向かいつぶて合戦などと呼ばれる。正月や5月5日に印地を行う行事が存在した[1]。子供の遊びや慣習としても存在した。5月5日に大勢の子供が集まり、合戦をまねて二手に分かれて石を投げ合う行事は、大人たちもこれに参加していたが、負傷や死亡も相次いでいたという。近代は子供の遊びとなり、現代では廃れてしまっている。

こうした投石技術に熟達した者を、印地打ち(印地撃ち)、印地使い(印地遣い)等とも呼んだ。印地の使い手を印地と呼んだり、技術や行為を印地打ちと呼ぶこともある。印字、因地、伊牟地とも書かれる。

石合戦(いしがっせん)

戦国時代の合戦を模して、二手に分かれて石をぶつけ合うこと。5月5日には、行事として行われる。印地。

  • 武田信玄は石礫隊(投石衆)を組織しており、三方ヶ原の戦いでは徳川軍を挑発して誘い出すなど、実戦で活躍したと伝わる。
    *『信長公記』では、三方ヶ原の戦いの武田軍が、水股の者と呼ばれる300名に飛礫を打たせた(投げさせた)と記されている。

  • 一説に依れば、織田信長も、幼少時代にこの石合戦を好み、近隣の子供らを集めて良く行った(模擬実戦として最適であった)とも言われている。

  • 徳川家康は少年たちによる石合戦を見に行き、少人数の側が勝つと言い当てた。これは少人数ゆえに仲間が協力し合っている点を瞬時に見抜いたからだと言われている。 

かつては、大人達が行い「向かい飛礫(つぶて)」と呼ばれていた。頑丈な石を投げ合うため死亡者・負傷者が出る事も少なくなく、大規模な喧嘩に発展することも多かった。そのため、鎌倉幕府3代執権北条泰時などは、向い飛礫を禁止する条例を発布した。水の権利・土地争いなどを解決する手段として石合戦が採用されるケースもあった。
*『吾妻鏡』文永3年(1266年)4月21日条に、飛礫(つぶて)は争いや狼藉に繋がるとして、禁止された記述があり、関東においては武家法により件数が減ったが、京都の方では未だ行われているとも記されている。13世紀末以降は禁制となっている。

 「戦国時代発祥」としながら「鎌倉時代に加熱して禁令が出た」。フロイトじゃありませんが、この種の言い間違いは背後に何かがある事を想定させるのです。

強訴(神輿担ぎ)

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強訴(ごうそ)

「嗷訴」とも。強硬な態度で相手に訴えかける行動を指す。特に平安時代中期以後、僧兵・神人らが仏神の権威を誇示し、集団で朝廷・幕府に対して行なった訴えや要求、江戸時代に農民が領主に対して年貢減免などを要求したことを指す。

  • 寺社の僧や僧兵、神人は、仏罰・神罰や武力を振りかざして、朝廷や幕府に対し自らの要求を通そうとした。自分たちの寺社に関わる何らかの問題が発生した場合、僧兵たちは裹頭(かとう)と呼ばれる覆面をつけ、声色を変えた上で提起を行い、賛成のものは「尤も尤も」、反対のものは「謂われなし」と声を上げ、ひとたび決した議決には異論を差し挟まず即座に行動に出た。

  • 特に「南都北嶺」と並び称された南都興福寺比叡山延暦寺は強訴の常連で、興福寺春日大社の神木(春日神木)、延暦寺日吉大社の神輿などの「神威」をかざして洛中内裏に押し掛けて要求を行い、それが通らない時は、神木・神輿を御所の門前に放置し、政治機能を実質上停止させるなどの手段に出た。神木を使う前者を「榊振り」、神輿を使う後者を「神輿振り」とも呼び、神輿振りは1095年の強訴が最初とされる。白河法皇は「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にままならぬもの」という言葉を残しているが、これは延暦寺の強訴を嘆いての事である。

  • 興福寺の榊振りの場合は、まず訴訟の宣言として、神木を本殿から移殿へ移し(御遷座)、訴えが聞き入れられれば本殿へ戻し(御帰座)、聞き入れられなければ興福寺前の金堂に移し、それでもまだ聞き入れられない場合は神木を先頭にして京に向かって大行進を始め、木津で一旦駐留し(御進発)、それでもまだ聞き入れられないなら宇治平等院まで北上し、それでもだめな場合にいよいよ入洛する、という手順だった。

  • 強訴の理由は寺社の荘園を国司が侵害したり、競合する寺社が今までより優遇措置を得ることなどである。朝廷は、強訴を押さえるため、武士の武力を重用した。これは、新興勢力の武士が、仏罰や神威を恐れなかったためである。これにより、武士が中央政界での発言権を徐々に持つようになる。

寺社の強訴は平安時代から室町時代ごろまで盛んだったが、その後寺社権門の衰退と共に廃れていった。

強訴(ごうそ)年表

安和元年(968年)7月15日… 興福寺 寺田を巡る東大寺との抗争(大宮文書)

天元4年(981年)12月15日…延暦寺 円仁派による法性寺座主・余慶(円珍派)の罷免要求(扶桑略記)

寛和2年(986年)2月26日 興福寺 備前国鹿田荘における備前守・藤原理兼の濫行を訴える(日本紀略

寛弘元年(1004年)2月26日 摂津住吉社 神人を負傷させた摂津守・藤原説孝を訴える(御堂関白記

寛弘3年(1006年)7月13日 興福寺 藤原道長に国内の田畑損亡を愁訴(日本紀略

寛仁元年(1017年) 6月22日 興福寺 神木を奉じて入洛(理由不明)大宮文書)

万寿4年(1027年) 4月26日 延暦寺 法成寺の尼戒壇設立に抗議小右記)

長元元年(1028年)10月13日 金峰山 大和守・藤原保昌の苛政を訴える左経記)

長暦3年(1039年)2月18日 延暦寺 藤原頼通に明尊(寺門派)の天台座主補任を抗議。3月16日、僧徒が頼通の高陽院邸に放火扶桑略記)

治暦2年(1066年)1月7日 興福寺 神木を奉じて入洛(理由不明)大宮文書)

承暦3年(1079年)6月2日 延暦寺 祇園別当職の譲補を要求為房卿記)

永保元年(1081年)3月25日 多武峰 興福寺の濫行を訴える帥記)

永保2年(1082年)3月25日 熊野 尾張国館人の熊野神人殺害に抗議(扶桑略記)

応徳2年(1085年)7月20日 興福寺 寺家荘園の押領を訴える為房卿記)

寛治2年(1088年)2月1日 宇佐八幡宮 宇佐神輿を射たとして、前大宰大弐・藤原実政を訴える。11月30日、実政を伊豆に配流中右記

寛治6年(1092年)9月18日 日吉社 藤原為房・仲実の下人による神人暴行を訴える。為房を阿波権守に左遷、仲実を安芸に配流中右記

寛治7年(1093年)8月26日 興福寺 近江守・高階為家による春日神人暴行を訴える。為家を土佐に配流後二条師通記)

嘉保2年(1095年)10月24日 延暦寺 美濃守・源義綱の流罪を要求(初の日吉神輿入洛)。中務丞・源頼治が防ぎ、僧徒を射殺(頼治は4年後に佐渡へ配流)中右記

康和4年(1102年)5月8日 延暦寺 藤原忠実に仁源の法成寺長吏補任を要求 中右記

長治元年(1104年) 2月15日 石清水八幡宮 高信の修理別当補任に反対。2月22日、朝廷が高信の補任を撤回中右記

  • 6月19日 越前気比社 国守・高階為家の非法を訴える中右記

長治2年(1105年)1月1日…延暦寺 祇園神輿を奉じて入洛。円僧寺探題・証観の罷免を要求。1月2日、朝廷認可により神輿帰座殿暦)

天仁元年(1108年)3月23日 延暦寺園城寺 東寺の僧が尊勝寺灌頂阿闍梨となった事を咎める中右記

  • 4月1日 延暦寺 大衆数千人が神輿を奉じて入洛。朝廷、源平二氏の兵を派遣して防御中右記

天永3年(1112年)3月13日 延暦寺 尊勝寺灌頂阿闍梨の事を訴える中右記

永久元年(1113年)閏3月20日 興福寺 清水寺別当・円勢(延暦寺系)の罷免を要求。閏3月22日、円勢に代えて永縁(興福寺系)を補任殿暦)

永久2年(1114年)3月30日 興福寺 金峰山別当の不法を訴える(中右記

永久4年(1116年)8月13日 興福寺 讃岐守・藤原顕能を訴える(殿暦)

  • 10月16日 園城寺 法勝寺を訴える(殿暦)

永久5年(1117年)6月1日 興福寺 春日神人を暴行した丹波雅康を訴える(殿暦)

保安元年(1120年)8月22日 興福寺 和泉守・藤原雅隆による春日神人暴行を訴える。雅隆、罷免中右記

保安4年(1123年)7月18日 延暦寺 越前守・平忠盛が逮捕した悪僧の釈放を要求。忠盛と源為義に撃退され、神輿を棄てて逃走。9月12日、白河法皇、神輿を修造して日吉社に返還百錬抄

保延3年(1137年)2月9日 興福寺 権僧正・定海が権僧正・玄覚を超えて僧正に任じられたことに抗議。2月16日、定海に代わり、玄覚を僧正に任命中右記

保延4年(1138年)4月29日 延暦寺 加茂社領下司の日吉祭参加停止を要求。朝廷認可により帰山の途中、加茂神人の家宅を破壊百錬抄

天養元年(1144年)11月6日 興福寺 藤原頼長に荘園検注を実施した大和守・源忠清を流罪にするよう要求台記

久安3年(1147年)4月7日 延暦寺 加賀白山社を末社にする事を要求。5月4日、鳥羽法皇、認可。台記

久安4年(1148年)8月26日 興福寺 入京を図る(理由不明)。27日、藤原忠実が慰撫台記

久安6年(1150年)8月5日 興福寺・春日社 同寺別当の長期空席を訴える。16日、隆覚を別当に補任台記

久寿元年(1154年)9月7日 延暦寺 加賀国住人・林大夫光家が赦免された事に抗議。光家、再び禁固(兵範記)

永暦元1160年)10月12日 延暦寺 筑前竈門宮・安楽寺の焼亡、および菅原貞衡の事を訴える百錬抄

応保元1161年)10月12日 延暦寺 日吉神輿を奉じて入洛、菅原資成と菅原貞衡の処分を訴える。17日、資成配流、貞衡解官百錬抄

応保21162年)閏2月1日 延暦寺 覚忠の天台座主補任を拒絶百錬抄

長寛元1163年)3月3日 延暦寺 園城寺の僧を比叡山で受戒させる事を要求。5月22日、園城寺延暦寺での受戒を命令山門日吉活套記)

永万元1165年)8月9日 延暦寺興福寺 8月7日の二条天皇葬儀において墓所に掛ける寺額の順序を巡る争論により、延暦寺大衆が清水寺を焼き討ち。興福寺衆徒も入京するが、朝廷が制止顕広王記)

仁安21167年)5月13日 興福寺別当・恵信の流罪を訴える。25日、恵信を伊豆へ配流(古今最要抄)

嘉応元1169年)12月23日 延暦寺 尾張国目代が美濃国平野荘住人を暴行した事件につき、尾張知行国主・藤原成親の処罰を訴えて内裏に乱入(嘉応の強訴)。24日、成親を備中に配流。目代・政友は禁獄。28日、事件を処理した平時忠平信範に奏事不実があったとして両名を配流。成親召還(玉葉

嘉応21170年)1月7日 延暦寺 裁定逆転に抗議。朝廷、武士を鴨河原に派遣して防御。2月6日、時忠・信範召還、成親解官。4月28日、成親還任玉葉

承安元1171年)9月21日 興福寺 前下野守・信遠の処罰および末寺荘園50余箇所の立券を求める。松殿基房が慰撫玉葉

承安21172年)12月21日 興福寺 平重盛の家人による春日神人殺害を訴える。朝廷、武士を派遣して制止玉葉

承安31173年)7月12日 延暦寺 6月25日の興福寺による多武峰攻撃に対して報復を企図。朝廷、延暦寺を慰撫。10月9日、多武峰襲撃の首謀者・覚輿を播磨に配流玉葉

治承元1177年)3月27日 加賀白山社 白山神輿を奉じ、加賀国目代・藤原師経の不法を訴える(白山事件)。30日、師経を備前に配流玉葉

  • 4月13日 延暦寺 日吉社・白山社の神輿を奉じて入洛、加賀守・藤原師高の流罪を訴える(兵の放った矢が神輿に当たる)。20日、師高を尾張に配流。5月6日、後白河法皇、西光の訴えにより天台座主・明雲を罷免。21日、明雲を伊豆に配流玉葉
  • 5月23日 延暦寺 近江国・粟津で大衆が明雲を奪還。29日、後白河法皇延暦寺攻撃を企図し武器を携帯して京中を往来する輩の捕縛、諸国司への延暦寺の末寺・荘園の注進、近江・越前・美濃の国内武士動員を行う。6月1日、鹿ケ谷の陰謀が発覚。5日、明雲召還玉葉

治承21178年)1月20日 延暦寺 後白河法皇園城寺で灌頂を受けることに反発し、園城寺攻撃を企図。朝廷、使者を派遣して慰撫(玉葉

治承31179年)11月27日 興福寺 治承三年の政変で配流された前関白・松殿基房の帰京を求める(玉葉

治承4年(1180年)5月15日… 園城寺 平氏討伐計画が露見した以仁王園城寺に逃げ込む(以仁王の挙兵)。18日、延暦寺興福寺に救援を要請(玉葉

文治元 1185年 6月9日…興福寺 南都焼討をした平重衡の身柄引き渡しを要求。23日、重衡斬刑(吾妻鏡

文治4年(1188年)8月5日… 石清水八幡宮 頼朝の御家人・松井宗長を訴える。朝廷、宗長を土佐に配流(吾妻鏡

建久21191年)4月26日… 延暦寺 日吉・祇園・北野の神輿を奉じて入洛。日吉社の神鏡を破損させた佐々木定綱・定重父子の断罪を訴える(建久二年の強訴)。29日、定綱は薩摩、その子息広綱は隠岐、定重は対馬、定高は土佐に配流。5月20日、定重は配流の途上で処刑(吾妻鏡

建久51194年)7月5日… 延暦寺 栄西・能忍による禅宗布教を糾弾。朝廷、布教を禁止(百錬抄

建久91198年)9月16日… 延暦寺 西塔・横川の大衆が執当・実誓を訴える。実誓、禁獄(天台座主記)

  • 10月16日… 興福寺 和泉守・平宗信を訴える。宗信、罷免(自暦記)

正治2 1200年年(6月25日)… 延暦寺中納言・徳大寺公継を訴える。公継、処罰(百錬抄

建仁元年(1201年)9月30日… 興福寺 訴える事あり(理由不明)。神木を金堂前に遷座(大宮文書)

建仁21202年)10月7日… 延暦寺興福寺 祇園社清水寺の境界争いに、両寺の僧徒が介入。朝廷、裁決を下す(猪隈関白記)

建仁31203年)8月28日… 延暦寺 寺内の学生と堂衆の抗争につき、学生が堂衆の横暴を訴える。10月15日、朝廷、佐々木経高・盛綱らの兵を派遣して堂衆を討伐。翌年1月21日、近江守護・佐々木定綱が勅命により堂衆を攻撃(明月記)

元久21205年)10月… 興福寺 法然の唱える専修念仏の禁制を要求 興福寺奏状
建暦元1211年)8月20日… 延暦寺 学生が堂衆の帰山許可に抗議。朝廷、慰撫(明月記)

建保元年(1213年)3月29日… 延暦寺 越前守護代官と抗争。朝廷、代官を処罰 明月記
11月16日… 興福寺 延暦寺清水寺を末寺とした事を訴える。18日、朝廷、葉室光親を宇治に派遣して慰撫。天台座主・公円を罷免(明月記)

建保21214年 4月16日)… 延暦寺 大衆が園城寺を襲撃して堂宇房舎を焼く。5月7日、朝廷、幕府に園城寺の造営を命じる(吾妻鏡
8月7日… 興福寺 園城寺の要請に応じ、神木入洛を図る。朝廷、宇治・勢多・淀に兵を派遣して制止(吾妻鏡

建保61218年)9月16日… 延暦寺 石清水領筥崎宮留守・行偏らによる、延暦寺末寺・大山寺僧の殺害に抗議して、日吉・祇園・北野の神輿を奉じて入洛(吾妻鏡

承久元1219年)8月16日… 熊野 湯浅宗光を訴える。宗光、対馬に配流 高野山文書
嘉禄21226年)8月6日 金峰山 高野山衆徒による吉野蔵王堂放火に抗議。入京を図るが、制止。15日、朝廷、高野山衆徒の帰住と覚観の捕縛を命じる(高野山文書)

安貞元1227年)2月15日 熊野 神輿入洛を図る(理由不明)。六波羅探題、制止(吾妻鏡

  • 6月22日… 延暦寺 専修念仏の禁制を要求して蜂起。法然の大谷墳墓を破壊。7月6日、隆寛を陸奥、空阿弥陀仏を薩摩、幸西を壱岐へ配流(嘉禄の法難)(明月記)

安貞2年(1228年)5月10日… 興福寺 多武峰襲撃の件で罷免された別当・実尊の還補を訴える(大宮文書)

文暦元年(1234年)6月4日… 興福寺 大安寺相論の事につき神木動座(大宮文書)

嘉禎元年(1235年)7月23日 延暦寺 佐々木信綱の子・高信による日吉社宮仕殺害に抗議して、神輿を奉じて入洛。武士と交戦。8月8日、朝廷、高信を豊後に配流(吾妻鏡

  • 7月27日… 興福寺 寺領について訴えるため、神木動座(大宮文書)
  • 12月22日… 興福寺 石清水神人との水利争いを訴えて、神木を奉じて入洛。朝廷、六波羅探題に命じて制止(明月記)

嘉禎2年(1236年)8月8日… 延暦寺 前年の強訴における首謀者の宥免を幕府に愁訴(百錬抄

  • 9月… 興福寺 衆徒が城を築き兵具を備える。幕府、同寺の荘園を没収して、衆徒を鎮圧(吾妻鏡
  • 10月5日… 興福寺 衆徒が再蜂起。幕府、大和に守護・地頭を設置。11月14日、南都鎮静化により、大和の守護・地頭を撤廃。荘園を返還(吾妻鏡

延応元年(1239年)9月20日… 延暦寺 四天王寺別当職の人事について、入洛を企図。六波羅探題、兵を派遣して防備(百錬抄

仁治元年(1240年)5月14日… 延暦寺 幕府に専修念仏禁制を要請(新編式目追加)

建長元年(1249年)8月14日… 延暦寺 四天王寺別当職の人事について訴える(百錬抄

建長7年(1255年)8月15日… 金峰山 神領地頭・源資国を訴える(不知記)

康元元年(1256年)3月23日… 北野宮 検非違使・章国を訴える。章国、越前へ配流(百錬抄

正嘉元1257年)3月27日… 園城寺 戒壇設立の勅許を求める。朝廷、六波羅探題に命じて鎮定(経俊卿記)

  • 5月11日… 興福寺 寺領の事につき、神木遷座(古今最要抄)

正嘉21258年)4月17日… 延暦寺 園城寺戒壇の設立中止を訴えて、日吉神輿を奉じて入洛。5月1日、朝廷、園城寺戒壇宣下を停止(百錬抄

  • 9月… 園城寺 戒壇設立の勅許を求め、幕府に訴える(三井続灯記)

文応元1260年)1月6日…延暦寺 園城寺への三摩耶戒壇建立許可に抗議して、日吉・祇園・北野の神輿を奉じて入洛。六波羅探題、鎮定。19日、朝廷、戒壇勅許を撤回。代償として四天王寺別当職を園城寺に与える(深心院関白記)

文永元1264年)3月23日 延暦寺 四天王寺別当職を園城寺に付与した事、前権大納言・藤原実藤による宮仕殺害を訴える。4月6日、四天王寺別当職を延暦寺に移管。実藤、淡路へ配流(外記日記)

  • 9月22日… 興福寺 別当・円実を訴える。朝廷、円実の寺務を停止(外記日記)

文永31266年)4月4日… 興福寺別当・円実の流罪を要求(外記日記)

文永41267年)6月25日… 延暦寺 天台座主・澄覚の罷免を要求。澄覚、辞任(吉続記)

文永51268年)6月17日… 北野社 上皇御所に群参して、社堂修造を要請。許可(続史愚抄

文永6年(1269年)6月17日… 延暦寺 青蓮・梶井両門跡の人事につき天台座主・慈禅を訴えて、神輿を奉じて入洛。六波羅探題、出兵して制止(続史愚抄

建治元1275年)5月15日… 興福寺 寺領の事につき、神木遷座(古今最要抄)

建治31277年)5月8日… 興福寺 訴える事あり(理由不明)、神木遷座 続史愚抄
弘安元年1278年 5月12日 延暦寺 園城寺金堂供養を勅会に準じる措置に反発して、神輿を奉じて入洛。15日、朝廷、園城寺に与えた宣旨を撤回(勘仲記)

  • 7月22日… 興福寺 参議・葉室頼親を訴えて、神木を奉じて入洛。頼親、安芸へ配流(大宮文書)

弘安21279年)5月4日… 石清水八幡宮 赤山神人との裁判遅延に抗議して、神輿を奉じて入洛。撃退され、神輿を棄てて逃走(一代要記

弘安4年(1281年)10月4日… 興福寺 石清水神人の事を訴えて、神木を奉じて入洛(続史愚抄

弘安5年(1282年)10月26日… 延暦寺 四天王寺別当職の延暦寺所属を要求 勘仲記

  • 12月19日… 興福寺 源具房・源資平を訴える。具房を安芸、資平を越前に配流(翌年3月11日、両名とも召還)(勘仲記)
  • 12月20日… 石清水八幡宮 源氏公卿配流に抗議して、神輿を奉じて入洛(続史愚抄

弘安6年(1283年) 1月6日… 延暦寺 四天王寺別当職の人事につき、神輿を奉じて禁中に乱入し、四脚門破壊など乱暴狼藉。後宇多天皇、近衛殿に避難(勘仲記)

正応4年(1291年)1月14日… 興福寺 寺領吉田荘伝教院の事を訴える(古今最要抄)

  • 3月8日… 延暦寺 四天王寺別当職の人事について訴える(実躬卿記)
  • 12月27日… 興福寺 公卿の処罰を求めて、神木を奉じて入洛。翌年1月14日、藤原冬季・教経・光泰・宗冬・資高の5名を放氏に処す。4月22日、継氏(処分解除) (実躬卿記)

正応5年(1292年)4月6日… 延暦寺 神輿を動座。洛中騒動(伏見院御記)

永仁2年(1294年)7月13日… 東大寺 同寺八幡宮神輿を奉じて入洛(勘仲記)

  • 10月5日… 興福寺 木津に神木を動座(古今最要抄)

永仁5年(1297年)6月19日… 多武峰 神宝を奉じて入洛(歴代皇紀裏書)

正安3年(1301年)4月5日… 興福寺 大和の民と闘争、神木遷座(春日社司祐春紀)

乾元元年(1302年)3月15日… 興福寺 神木遷座(理由不明)(古今最要抄)

嘉元元年(1303年)4月11日… 興福寺 神木遷座(理由不明)(興福寺略年代記)

  • 8月19日… 興福寺 河内坂田二荘において税を強奪した延暦寺僧、慈俊・頼俊を訴える。両名、配流(古今最要抄)

嘉元2年(1304年)9月26日… 興福寺 6月に配流された興福寺僧の所領跡における地頭職の撤廃を求める。幕府、地頭職停止(続史愚抄

徳治2 1307年 12月5日… 興福寺 近江守護・佐々木頼綱、達磨寺・仙海を訴えて、神木を宇治平等院遷座。官兵、宇治橋を壊して防備。翌年7月12日、頼綱を尾張、仙海を三河へ配流(古今最要抄)

延慶元年(1308年)10月24日… 延暦寺 東寺故僧正・益信へ本覚大師の号を贈った事に抗議。益信の大師号停止(本覚大師裏書)

延慶2年(1309年)2月29日 東大寺 八幡宮神輿を奉じて入洛。益信の大師号回復を要請。7月20日、朝廷、益信の大師号を回復(皇年代私記)

  • 7月28日… 延暦寺 益信の復号停止を訴えて、神輿を奉じて入洛 皇年代私記
  • 12月5日… 延暦寺 益信の復号停止を訴えて、再び入洛。翌年4月2日、延暦寺仁和寺が益信大師号につき争論。11月30日、東寺が益信の大師号を辞退(皇年代私記)

正和元年(1312年)4月13日… 興福寺 多武峰を訴える。6月9日、衆徒が多武峰を襲撃 (続史愚抄

正和3年(1314年)3月17日… 興福寺 神木を奉じて入洛。多武峰を訴える 花園天皇宸記

正和4 1315年 12月18日… 東大寺 幕府が摂津渡辺・兵庫尼崎の関を停止した事に抗議、神輿を奉じて入洛(園太暦)

文保元年(1317年)5月30日…興福寺 大納言・花山院師信を訴えて、放氏とする。6月12日、継氏(園太暦)

文保2年(1318年) 7月13日… 興福寺 神木を金堂前に動座(園太暦)

元応元年(1319年)1月18日… 東大寺 兵庫関の大覚寺への寄進に反対し、神輿を奉じて入洛。19日、六波羅探題、七条河原で制止(花園天皇宸記)

  • 4月5日 石清水八幡宮 神輿を奉じて入洛。検校栄清が防ぎ、神人を殺傷(武家年代記)

元応2年(1320年)2月14日… 興福寺 神木を動座(古今最要抄)

元亨元年(1321年)8月7日 興福寺 神木を動座(古今最要抄)

正中2年(1325年)6月23日 興福寺門主別当覚尊を奉じて禅定院を襲撃し、現門主・聖信を追放。神木を金堂に動座。7月、聖信の党が禅定院・竜華樹院を焼く(花園天皇宸記)

嘉暦2年(1327年)8月22日 興福寺 神木を木津に動座(古今最要抄)

元徳2年(1330年)6月22日 延暦寺 一向宗徒追放を訴える(東寺執行日記)

元弘3年(1333年)3月28日 延暦寺 護良親王に呼応して六波羅探題と合戦。法勝寺で敗退(太平記

建武2年(1335年)6月20日 興福寺 楠木正成の「井水違乱」を訴える。神木を木津に動座(古今最要抄)

建武3年(1336年)11月27日 興福寺 神木動座(古今最要抄)

暦応2年(1339年)11月9日 興福寺 神木を移殿に動座園太暦)

暦応3年(1340年)10月23日 興福寺 開住西阿の寺領押領を訴えて、神木を木津に動座。入洛(園太暦)

  • 10月25日 東大寺 幕府による伊賀党処罰緩和に抗議、神輿を大仏殿に移す(東大寺文書)
  • 10月26日 延暦寺 佐々木道誉・秀綱父子による妙法院焼き討ちを訴える。両名、配流(中院一品記)
  • 12月19日 興福寺 神木を奉じて入洛。西阿の寺領押領を訴える(中院一品記)

康永2年(1343年)3月18日 興福寺 神木を金堂、次いで宇治平等院に動座(師守記)

康永3年(1344年)8月15日… 東大寺 伊賀国名張郡の事を訴えて、神輿を奉じて入洛。幕府、仁木義長を派遣して制止。神輿は五条橋に棄てられ、東寺遷座(園太暦)

  • 11月18日 興福寺 摂津国鵜殿関を所望のため、神木を金堂に動座。不許可。翌年1月、神木・神輿在京により、朝廷の正月儀式行事が停止(園太暦)

貞和元年(1345年)7月8日 延暦寺 神輿を動座して天龍寺造営供養への光厳上皇臨幸阻止と、開山・夢窓疎石の処罰を要求。東大寺興福寺も同調。8月14日、上皇臨幸中止(園太暦)

貞和2年(1346年)8月11日 石清水八幡宮 検非違使庁下部が駒形神人を刃傷させた事に抗議(園太暦)

貞和3年(1347年)7月2日 興福寺 神木動座(園太暦)

貞和4年(1348年)4月14日 延暦寺 神輿を横川に動座、近江国栗見本荘の事を訴える。17日、帰座(大宮文書)

  • 7月8日 興福寺 神木動座(園太暦目録)

貞和5年(1349年)5月27日 延暦寺 毘沙門堂実尊による児童殺害を訴え、神輿を山上に移す。8月18日、北朝、実尊を信濃へ配流(園太暦)

観応2年(1351年)5月20日 延暦寺 神輿を山上に動座して、佐々木氏頼の濫妨を訴える(園太暦)

文和4年(1355年)5月20日 延暦寺興福寺 両寺がそれぞれ神輿・神木を動座(愚管記)

延文元年(1356年)7月13日 興福寺 神木を金堂に動座、寺領越前坪井・川口両荘の事を訴える(愚管記)

  • 7月18日 東大寺 伊賀国人の同寺八幡宮神人殺害を訴え、神輿を奉じて入洛。延文5年(1360年)2月3日、帰座(園太暦)

延文2年(1357年)4月24日 石清水八幡宮 神人が日吉社の騎馬役を拒否し、神輿を奉じて入洛(園太暦)

  • 9月8日 延暦寺 近江守護・佐々木氏頼による寺領押領と日吉神人殺害を訴え、神輿を山上に動座(園太暦)

延文3年(1358年)2月3日 延暦寺 佐々木氏頼の断罪を訴え、入京を図る(愚管記)

康安元年(1361年)6月9日 興福寺 近江守護が寺領近江坂田・大国両荘に侵入し、神人を殺害して民家を焼いた事を訴え、神木を奉じて入洛。朝廷、幕府に命じて制止(後愚昧記)

貞治2年(1363年)6月17日 石清水八幡宮 祇園社馬上役を拒否し、神輿を奉じて入洛。神輿を投棄(古今最要抄)

貞治3年(1364年)6月17日 興福寺 神木を奉じて入洛し、越前守護・斯波高経の河口荘掠奪を訴える(師守記)

貞治6年(1367年)6月26日 南禅寺 園城寺衆徒が南禅寺設置の関二ヶ所を破壊し、禅僧を殺害した事を訴える。幕府、園城寺の三関を焼く(愚管記)

  • 7月5日… 石清水八幡宮 播磨社領の事を訴え、神輿を奉じて入洛。20日、帰座(師守記)

応安元 1368年 6月19日 石清水八幡宮 神輿を奉じて入洛。幕府、兵を派遣して制止( 花営三代記)

  • 7月26日 延暦寺 南禅寺の定山祖禅が『続正法論』で諸宗を非難していることに反発し、祖禅と春屋妙葩の流罪を要求。朝廷、天台座主を通じて慰撫。8月26日、大衆が神輿を奉じて入洛(後愚昧記)

応安2年(1369年)4月20日 延暦寺 神輿を奉じて入洛し、南禅寺を訴える。法成寺で土岐義行に防がれ、火を放って撤退(後愚昧記)

応安3年(1370年)6月17日 石清水八幡宮 負物催促(借金取立て)と称し、神輿を奉じて入洛。社務栄清が大渡で防ぎ、交戦(花営三代記)

応安4年(1371年)12月2日 興福寺 一乗院門主・実玄と大乗院門主・教信の罷免を求め、神木を奉じて入洛。さらに両院を攻撃し、両人の流刑を要求。翌年1月22日、両門主を還俗させ、実玄を伊豆、教信を土佐、頼乗を隠岐、覚成を佐渡へ配流(花営三代記)

応安7年(1374年)6月20日 延暦寺 神輿修造の延滞を訴え、日吉・祇園・北野の神人とともに神輿六基を奉じて入洛(後愚昧記)

  • 11月15日 興福寺 大乗院教信、前参議・安居院行知、三宝院僧正・光済らを訴える。教信以下、流罪(後愚昧記)

永和3年(1377年)9月27日 興福寺 東北院兼円の処罰を訴え、神木を宇治に動座。10月10日、細川頼元が討伐。11月26日、神木帰座(愚管記)

永和4年(1378年 )10月9日 興福寺 寺社領の事を訴え、神木動座(愚管記)

康暦元年(1379年)8月14日 興福寺 幕府が要求を聞き入れない事に怒り、神木を奉じて入洛。翌年12月15日、神木帰座(愚管記)

永徳元年(1381年)5月18日 石清水八幡宮 神輿を奉じて入洛(続史愚抄

至徳元年(1384年)5月28日 石清水八幡宮 神輿を奉じて入洛。東寺に入る(後鑑)

応永20年(1413年)6月25日 延暦寺 日蓮宗妙本寺・具覚の僧正補任撤回を要求。配下の犬神人が、法華堂を破壊(満済准后日記)

応永22年(1415年)6月13日 延暦寺 近江守護・六角満高を訴え、神輿を奉じて入洛。24日、幕府制止(満済准后日記)

応永25年(1418年)4月18日熊野 守護・畠山満家による社領違乱を訴え、神輿を奉じて田辺に至り、満家の兵と交戦。幕府、両者を和解させる(看聞日記)

応永31年(1424年)6月14日 石清水八幡宮 薬師堂に集結し、幕府に新座米売買停止などを要求(看聞日記)

  • 10月14日 石清水八幡宮 再び強訴。幕府、兵を派遣して制止(看聞日記)

応永34年(1427年)6月27日 延暦寺 前参議・高倉永藤を訴える。永藤、流罪(後鑑)

永享5年(1433年)7月19日 延暦寺 十二ヶ条からなる訴状を掲げ、光聚院猷秀、飯尾為種、赤松満政らの処罰を求める。25日、幕府、園城寺衆徒に命じて勢多橋を警固(看聞日記)

  • 閏7月7日 延暦寺 再び光聚院猷秀らの処罰を要求。26日、猷秀を土佐、飯尾為種尾張へ配流。赤松満政、幽閉(看聞日記)
  • 8月12日 延暦寺 園城寺の強訴不参加を責めて同寺を襲撃。幕府、斯波義淳に命じて園城寺救援。11月27日、幕府、山名・斯波氏の軍を派遣して延暦寺を攻撃。12月12日、大衆降伏。首謀者の僧・兼宗を捕縛(看聞日記)

永享6年(1434年)8月23日 延暦寺 鎌倉と通じて将軍・足利義教を呪詛。幕府、六角満綱・京極持高らを派遣して寺領を没収。大衆、抗議のため日吉神輿を奉じて入洛(看聞日記)

  • 10月4日 延暦寺 神輿を奉じて入洛。幕府の兵に撃退され、神輿を棄てて逃走(看聞日記)
  • 11月6日 延暦寺 大衆、根本中堂に立て籠もる。19日、幕府、諸将を派遣して攻撃。26日、土岐持頼・持益の軍が坂本を攻撃。12月6日、大衆降伏。18日、幕府、没収した寺領を返付(看聞日記)

永享7年(1435年)2月5日 延暦寺 2月4日に幕府が延暦寺僧を捕らえて処刑した事に抗議し、大衆が総持院・根本中堂を焼いて24人自害。翌年10月11日、根本中堂上棟式 (看聞日記)

嘉吉3年(1443年)9月19日 園城寺 金堂に集結して訴える(看聞日記)

文安元年(1444年)4月7日 延暦寺 釈迦堂に集結して訴える(文安の麹騒動)(康富記)

宝徳元年(1449年)6月 延暦寺 訴える事あり(高野春秋)

宝徳2年(1450年)7月17日 熊野 諸国の山伏が新熊野に参集し、神輿を奉じて和泉半国守護・細川常有邸の襲撃を図る(康富記)

宝徳3年(1451年)8月 延暦寺 訴える事あり、神輿動座(康富記)

  • 9月6日 興福寺 幕府による兵庫関接収に抗議し、神木を奉じて入洛。幕府、関を返還(康富記)
  • 11月13日 延暦寺 神輿を奉じて入洛。幕府、綸旨を請い、天台座主を通じて慰撫 (師郷記)

康正元年(1455年)7月26日 興福寺 大和七大寺の衆徒が畠山義就による片岡某討伐を阻止するため、神木を奉じて入洛。管領細川勝元、制止康富記)

  • 12月19日延暦寺 幕府が同寺領・近江中荘を円明坊に与えた事に反発し、神輿動座。幕府、同荘を延暦寺に還付大乗院日記目録)

康正2年(1456年)6月5日興福寺 幕府の用銭賦課を拒否して蜂起。幕府、僧・懐賢を処刑師郷記)

長禄2年(1458年)12月23日 延暦寺 延暦寺領とされていた東寺領・京都八条唐橋の田地の件で訴える。幕府、東寺に同地を還付大乗院寺社雑事記)

寛正4年(1463年)12月23日 興福寺 細川勝元の寺訴阻止に反発し、春日社の門を閉ざして神木動座高野春秋)

文正元年(1466年)12月12日 延暦寺 京極持清の不法を訴え、神輿を奉じて入洛。祇園社に集結して、持清邸襲撃を企図。侍所所司代・多賀高忠逃亡。失火により祇園社焼失大乗院寺社雑事記)

応仁元年(1467年)12月11日 延暦寺 日吉神輿を奉じて入洛大乗院寺社雑事記)

文明3年(1471年)10月11日 延暦寺 東路を塞ぎ、真野新関の廃止を求める。幕府、認可大乗院寺社雑事記)

文明14年(1482年)10月11日 延暦寺 神輿を横川中堂に動座し、近江守護・六角高頼による寺領押領を訴える。闘争・放火により中堂・神輿が焼失大乗院寺社雑事記)

文明17年(1485年)8月25日 興福寺 幕府が興福寺所管の兵庫関月保銭を没収して、等持寺・相国寺・北野社などに与えた事に抗議。幕府、興福寺に返還大乗院寺社雑事記)

明応8年(1499年)7月20日 延暦寺 前将軍・足利義尹に呼応。管領細川政元、兵を派遣して根本中堂以下の堂宇を焼く実隆公記)

文亀元年(1501年)2月28日 興福寺 細川政元配下の赤沢朝経による寺領押領を訴え、神木を別殿に動座。6月5日、神木帰座(最後の神木移座)実隆公記)

文亀2年(1502年)7月18日 興福寺 幕府が赤沢朝経を処罰しない事に反発。南都七大寺および春日社が全ての門を閉鎖実隆公記)

永正2年(1505年)4月19日 東大寺 多武峰衆徒が末寺の崇敬寺・阿倍寺を焼いた事を訴える宣胤卿記)

永正14年(1517年)4月12日 興福寺 山城普賢寺悪党成敗の遅延に対し、七大寺・十五大寺の衆徒とともに訴える 東寺過去帳
大永4年(1524年)7月23日 延暦寺 日蓮宗徒の追放を管領・細川高国を通じて朝廷に奏請後鑑)

天文5年(1536年)7月27日 延暦寺 日蓮宗法華宗号停止を幕府に訴える。不許可により、兵を率いて入京。日蓮衆徒を攻撃し、寺院21ヶ所を焼く(天文法華の乱)厳助往年記)

天文8年(1539年)10月 延暦寺 朝廷が知恩院始祖・法然に光照菩薩号を贈ろうとした事に抗議。贈号中止厳助往年記)

天文9年(1540年)10月20日 延暦寺 朝廷が根来寺開祖・覚鑁に自性大師号を贈った事に反発し、神輿を奉じて訴える。朝廷、大師号の授与を停止言継卿記)

永禄11年(1568年)9月 延暦寺 永禄寺が年号を寺号に用いた事に反発し、朝廷に訴える。南蛮寺に改称多聞院日記)

永禄12年(1569年)10月24日 延暦寺 織田信長による寺社領没収を朝廷に訴える。翌年9月25日、信長、比叡山を包囲して降伏を勧告。僧徒拒否多聞院日記)

元亀2年(1571年)9月12日 延暦寺 朝倉氏に呼応。織田信長比叡山を攻撃して全山焼尽(比叡山焼き討ち) (言継卿記)

①まず第一に藤原氏の氏寺から出発した法相宗大本山興福寺奈良県奈良市登大路町)の御神体が「春日神木」というのが興味深い。そこに前方後円墳国家時代(3世紀〜5世紀)まで遡る「(東北や上越の流木信仰、出雲起源とされる事が多い「心の御柱信仰」などに由来する)高木信仰」や、そこから発した「仏塔信仰」が見て取れるからである。

春日神木(かすがのしんぼく)

http://www.narahaku.go.jp/photo/exhibition/D017052.jpg

奈良春日大社において、榊(もしくは梛)の枝に春日明神の御神体(依代)である神鏡を付けて注連をかけて神木とした物。強訴の際の神威として掲げられることも多かった。

  • 春日大社藤原氏の氏社として知られ、明治維新以前は隣接する同氏の氏寺である興福寺と一体の存在であった。

  • 興福寺の衆徒が強訴を行う際には、春日神木を動かして示威行動を取ることが知られており、これを神木動座(しんぼくどうざ)と称し、中世を通じてしばしば行われた。

  • 興福寺全体の利害に関わる問題が生じた場合、全僧侶を召集して満山集会(まんざんしゅうえ)を開催する。集会では大衆僉議を開から、朝廷などに対する要求を決定した。要求が受け入れられなかった場合には、衆徒たちは春日大社の社司に要請して大社の本殿及び大宮四所にそれぞれ安置されている神鏡を取り出して神木をあつらえさせ、これを大社本殿脇の移殿(うつしどの)へ移す遷座の儀を行って公武に強訴の予告を行う(神木動座の強訴)。この時点で要求が認められれば神木に付けられた神鏡は本殿に還御して終了となるが、それが無い場合には神木を興福寺金堂に移し、石上神宮・吉野勝手明神両社に神輿の派遣を要請、更に場合によっては東大寺などの南都七大寺にも支援を要請する。また、衆徒以外にも興福寺領の荘官が農民田堵を動員して人数を揃えたと考えられている。準備が整うと、興福寺僧綱を前面に出し、春日大社社司・神人に神木を奉じさせて衆徒・神人が法螺貝の音とともに隊伍を組んで京都に向かって進発する。奈良坂・木津などを経由して、途中一旦宇治の平等院に入り、交渉を行って様子を見るが、ここにおいても要求が受け入れられない場合には、京都に神木ごと入洛することになる。通常は勧学院(法成寺や長講堂に置かれる場合もあった)に神木を安置するのが慣例であるが、場合によっては御所の前に神木をかざして朝廷を威圧した。なおも、要求が認められない場合には神木を京都に安置したまま社司らが奈良に引き上げること(「振り棄て」と呼ばれる)で心理的圧迫を加えた。

  • 春日神木の動座が行われた場合、特に入洛中は藤原氏の公卿・官人は謹慎・籠居となり、これに従わない者、強訴を非難・無視する者は放氏処分とされた。当時は藤原氏の公卿・官人が朝廷の過半を占めていたから、神木の入洛中は朝廷は廃朝状態となり国政は麻痺した。また、検非違使武家も宇治などに兵を固めて入洛を阻止する姿勢を見せたが、実際に衆徒・大衆に武器を向ければ、今度はその武家を死罪・流罪などの重罪に処する様に求める強訴を引き起こすことになるため、最終的には興福寺側からのどのような無理な要求でも罷り通ったのである。これを皮肉を込めて「山階道理」(山階寺は平安遷都よりも遥か以前に山階にあった興福寺の前身)と呼ばれた。なお、神木が奈良に戻る「神木帰座」の際には藤原氏の公卿・殿上人が洛外あるいは奈良まで供奉して春日大社に祈謝する事とされていた。また、奉幣使が春日大社及び京都における分社である大原野神社吉田神社の両社に派遣された。

  • 神木入洛強訴の最初は安和元年(968年)に発生した東大寺との抗争の際に、同年7月15日に神木をもって入洛した(『日本紀略』)のが最初とされているが、寛治7年(1093年)の強訴を最初とする異説もある(『康富記』)。更に『神木動座之記』(内閣文庫所蔵)という書物によれば、寛弘3年(1006年)に大和守源頼親の国守解任などを求めて木幡山大谷(現在の京都市伏見区)まで進んだ神木動座が最古の例とされている。この時の強訴については、藤原道長の『御堂関白記』同年7月12日条にある「寺侍法師等、只今来申云、大衆参上木幡山大谷云所、二千許参着云々」という記述が対応すると考えられている。

  • 院政期から鎌倉時代にかけて盛んに行われた。ところが、南北朝時代の康暦元年8月14日(1379年)に行われた神木入洛は異常な展開を見せた。朝廷側の交渉前面に登場したのは、権大納言でもあった室町幕府将軍足利義満であり、親幕府派の二条良基の要望もあって一旦は12月に交渉は成立した。ところが、年が明けて後光厳上皇の7回忌を巡って興福寺側が帰座の約束を破棄すると、義満は積極的に朝廷に参与して自らが主導する態度を見せ始めた。興福寺側は源氏であって藤原氏ではない義満を放氏することが出来ず、義満の許で朝廷が運営される状況を見せられた挙句、康暦2年12月15日(1380年)に実質上の全面敗北のまま帰座に追い込まれてしまった。この件が興福寺春日大社側の打撃となり、以後の神木動座は平等院までに留められた。それも戦国時代に入ると、神木動座を行うこと自体が困難となり、文亀元年(1501年)を最後に姿を消すに至った。

なお、これとは別に興福寺春日大社の領内で他者による侵奪や年貢の未進・横領が発生すると、黄衣を着た春日大社の神人が現地に派遣され、春日大社の榊に四手をかけた簡易な仕立の神木を問題の田畠の中央部に立てた。これを「注連を立つ」「神木を振る」と呼んだ。これによってその田畠及び作物は神人以外は手に触れてはならない神聖不可侵な場所・物となり、これを犯す者は「神木犯穢」の罪で清祓料を徴収し、納税や返還の実行あるいは誓約が行われ神木が撤去される際にも「注連の本(もと)」と呼ばれる一種の手数料を徴収するなど、相手側に金銭的な制裁を課した。

②「神輿」の起源はさらに複雑で山岳信仰道教の混合が見受けられる。そしてそれを集落の拠り所とする「社稷信仰」が室町時代までに全国規模で広く浸透していく。

「山車(だし)の原型」山(やま)の歴史

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自然の山岳を模して造られた依り代で、祭礼などで用いられてきた。

  • 古来の民間信仰では、神は山岳や山頂の岩や木を依り代として天から降臨するという考えがあり、山上や山麓に斎場を設け祭祀が行われていた。これらは山岳信仰として、或いは山岳を神体とする神社として残っている。代表的な例では大神神社三輪山)などがあり、小さな神社でも山麓にあるものは山頂に磐座や神木を持つことが多い。

  • 村落が発達すると平野部においても祭祀が行われるようになり、臨時の斎場が設けられた。このときにも降臨を仰ぐために依り代を立てており、これが恒久化して現在の神社のような施設ができる。この依り代の1つに、山岳を模して造られた山(やま、造り山・飾り山)がある。恒久的である神殿内部の依り代と並行して、この山は神の降臨を表現する、或いは、再確認する臨時の依り代として祭礼などで用いられるようになる。元来は実際に盛り土(築山)をし、祈願していたが、後に祭壇を築山と見做すようになる。

  • 記録に残っている最初の山は『古事記』の垂仁天皇の条にある「青葉山」で、出雲国造の祖である岐比佐都美が葦原色男(大国主)を祀る庭として青葉で飾った山を造ったとある。

  • 本来の意味の残る希有な例として、栃木県那須烏山市の「烏山の山あげ行事」(通称「山あげ祭」、国の重要無形民俗文化財)がある。この祭では元来、実際に土を盛った築山を街に作り奉納していたが、経済の隆盛とともに地元特産の和紙(程村紙)を使って木材と竹で作った枠に貼付け「山をあげる」ようになった。その大きさは最大で幅は道幅一杯の7m、高さは10m以上に及ぶ。現在は奥行き100mに渡って複数の「山」と舞台装置を組み合わせ、余興(所作狂言、神楽など)が奉納されている。また、これらの「山」は他所の曳山などと同様、町中を巡行する。全て手作りの幅7m、高さ10m以上、奥行き100mの山と舞台装置一式を毎回組み立てて、余興を催し、解体、移動を一日最大6回、3日間の祭礼で最大18回に渡ってくり返し、移動総延長は20kmにも及ぶ。6町年番制で町ごとに山を含む舞台装置は全て異なるが、全ての「山」には滝が描かれ、全ての町にあまねく山の恵みが行き渡るように、との願いが込められている。昭和初期までは祭りのたびに山を焼き、灰を縁起物として配っていた。

  • 体形的な祭礼の物で記録に残っている最初の山では、『続日本後紀』天長10年(833年)11月戌申条、仁明天皇の大嘗会に曳きたてられた「標山(しるしのやま・ひょうのやま・しめやま)」がある。標山には移動神座のような役割があり、山車の原型であるといわれている。大嘗会には中断された時期があり、このときに標山は廃止されたようである。

  • 民間の祭礼にも同じようなものが登場し、形態は山との関連と運行形態から一時的に祭壇のような築山を設ける「置き山」、引く形式の「曳き山」、担ぐ形式の「舁き山」などと呼ばれ、また「だし」とも呼ばれるが、その漢字には山車が使われた。現在の祭礼では、巡行されない置き山は数が少なく、巡行される山車がほとんどである。

  • 富山県 射水市の放生津八幡宮高岡市二上射水神社では古代信仰の形態である築山行事が現在も行われている。放生津八幡宮祭礼曳山ならびに御車山は、この築山行事の形態を移動できるように発展させたものと考えられており、起源はよくわかっていないが、放生津八幡宮の築山神事は江戸時代初期より行われていたことが、1721年(享保6年)の「東八幡宮記録」や「築山古老伝記」に記録されている。

  • 放生津八幡宮では大きな松の木、二上射水神社では大きな3本の杉の木の前に臨時の築山(祭壇)を設置し神様を迎え入れる。どちらの築山も祭壇が2段になっており、下段には共にそれぞれ面をつけた仏門守護の四天王(持国天増長天広目天多聞天)を配し、上段中央には共に唐破風屋根の神殿(祠)の上に、放生津八幡宮は鬼女(狂女)の面に白髪を振り乱し、金襴の内掛けをはおり、御幣を取付けた長い竹竿を持った姥神(オンババともいわれる)を、二上射水神社は斧を振り上げた天狗の主神を祀り神事を執り行う。なおいずれの築山行事も神事が終わるとそれぞれの神が暴れるとされる言い伝えにより、築山は大急ぎで解体される。

  • この行事は能登にある石動山(せきどうざん又はいするぎやま)の伊須流岐比古(いするぎひこ)神社でも行われていたが明治期に廃絶、富山県内でも放生津八幡宮と、明治期に休止となり1956年(昭和31年)より復活した二上射水神社で行われているだけであり、いずれも1982年(昭和57年)1月18日に富山県の無形民俗文化財に指定されている全国的にも稀有な行事である。なお3ケ所の主神の見た目から、放生津の「足なし」、二上山の「手なし」、石動山の「口なし」と云われてきた。 

祇園祭の象徴たる「山鉾」を想起させる。

祇園祭(ぎおんまつり)

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京都市東山区の八坂神社(祇園社)の祭礼で、明治までは「祇園御霊会(御霊会)」と呼ばれた。貞観年間(9世紀)より続く。京都の夏の風物詩で、7月1日から1か月間にわたって行われる長い祭である。祭行事は八坂神社が主催するものと、山鉾町が主催するものに大別される。一般的には山鉾町が主催する行事が「祇園祭」と認識されることが多く、その中の山鉾行事だけが重要無形民俗文化財に指定されている。

  • 祇園祭という名称は、八坂神社が神仏習合の時代、比叡山に属して祇園社と呼ばれていたことに由来する。祇園社の祭神の牛頭天王仏教の聖地である祇園精舎の守護神であるとされていたので、祇園神とも呼ばれ、神社名や周辺の地名も祇園となり、祭礼の名も祇園御霊会となったのである。その後明治維新による神仏分離令により神社名が八坂神社となった際に、祭礼名も仏教色を排除するため「祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)」から「祇園祭」に変更された。ただし「祇園」という名称自体は前述のとおりあくまで仏教由来。

  • 疫病の流行により朝廷は863年(貞観5年)、神泉苑で初の御霊会(ごりょうえ)を行った。御霊会は疫神や死者の怨霊などを鎮めなだめるために行う祭で、疫病も恨みを現世に残したまま亡くなった人々の怨霊の祟りであると考えられていた。しかし、その後も疫病の流行が続いたために牛頭天王を祀り、御霊会を行って無病息災を祈念した。
    *御霊会が生まれた直接の背景は、平安京がもともとが内陸の湿地であったために高温多湿の地域であったこと、建都による人口の集中、上下水道の不備(汚水と飲料水の混合)などにより、瘧(わらわやみ=マラリア)、裳瘡(天然痘)、咳病(インフルエンザ)、赤痢、麻疹などが大流行したこと。その原因が、先に大水害により挫折した長岡京遷都工事中に起きた藤原種継暗殺事件で無実を訴えながら亡くなった早良親王ら6人の怨霊の仕業との陰陽師らによる権威ある卜占があったこと、などである。さらに、1世紀後の970年(安和3年)からは毎年行うようになったとされる。これらの祭式は神仏混淆の儀式として成り立っていた。真夏の祭となったのは、上水道も冷蔵庫もなかった時代は、真夏に多くの感染症が流行し多くの人々が脱水症状等で亡くなったことが原因の一つと考えられる。

  • 869年(貞観11年)貞観地震などが発生したりして、全国の国の数を表す66本の矛を卜部日良麿が立て、その矛に諸国の悪霊を移し宿らせることで諸国の穢れを祓い、神輿3基を送り薬師如来を本地とする牛頭天王を祀り御霊会を執り行った。この869年(貞観11年)の御霊会が祇園祭の起源とされている。

  • 中世の一時期、祇園社(現・八坂神社)は北野天満宮と共に比叡山の支配下に置かれた時期があった。この時期、祇園社日吉神社末社とされ、日吉神社山王祭が行われない時に祇園御霊会も中止・延期させられる原因となった。

  • さらに室町時代に至り、四条室町を中心とする(旧)下京地区に商工業者(町衆)の自治組織両側町が成立すると、町ごとに風情を凝らした山鉾を作って巡行させるようになった。応仁の乱の中断後の1533年(天文2年)には、先述の理由による延暦寺側の訴えにより、祇園社の祭礼が中止に追い込まれたが、町衆は「神事これ無くとも山鉾渡したし(神社の行事がなくても、山鉾巡行だけは行いたい)」という声明を出し、山鉾行事が既に町衆が主体の祭となっていたことを伺わせる。応仁の乱での33年の中断や第二次世界大戦での中断等はあるものの、廃絶することなく現在まで続けられており、1000年を超える歴史がある。

  • 室町時代以来、祇園祭のクライマックスは山鉾巡行であるが、現在では「巡行の前夜祭」である宵山に毎年40万人以上の人が集まるため、祇園祭といえば宵山を先に思い描く人も多い。

  • 第二次世界大戦後、京都市の中心部もドーナツ化現象が進んだことにより、多くの山鉾町の居住者が減少し、山鉾行事の運営に支障が出た。そのため曳き手をアルバイトに頼ったり町内にある企業に応援を依頼することが増えた。その後町内にマンションが建った場合も新しく転入した住民は「新住民」などと呼ばれ、以前は山鉾保存会に入会できなかった。1986年(昭和61年)以降、各山鉾町は順次新住民の保存会加入を認めるようになり、現在では新しく建つマンションの居住者に保存会加入を条件付けるところが多くなっている。近年は住居の都心回帰が進み、マンションの新設により多くの山鉾町が保存会会員不足から脱している。

不思議とタミル人の祭事「ジャガーノート」と重ねられる事が多い。

神輿の起源は諸説あるのですが、文献上はじめに確認できるのは奈良時代元正天皇の時代だと言われています。この時代に九州地方で起こった反乱を鎮圧するために、神さまのご加護を得るために神輿が作られたという記録が残っています。
元正天皇(在位715年〜724年)…父は天武天皇持統天皇の子である草壁皇子、母は元明天皇文武天皇の姉。諱は氷高(ひたか)・日高、又は新家(にいのみ)。和風諱号は日本根子高瑞浄足姫天皇(やまとねこたまみずきよたらしひめのすめらみこと)。日本の女帝としては5人目だがそれまでの女帝が皇后や皇太子妃であったのに対し、結婚経験は無く、独身で即位した初めての女性天皇となる。藤原不比等らが中心となって養老律令の編纂を始め、日本書紀が完成した時期(720年)でもあった。それまで常に実務の中心にあった藤原不比等が病に倒れ亡くなると、その息子達がまだ若かった為に(従兄弟で妹・吉備内親王の夫だった)長屋王が事実上政務を任される。養老8年/神亀元年(724年)2月4日に皇太子(聖武天皇)へと譲位した後も。病気がちで政務が行えず仏教信仰に傾きがだった聖武天皇に代わって政務を見続けた。天平15年(743年)に聖武天皇が病気で職務がとれなくなると上皇は「我子」天皇を擁護する詔を出し、翌年には病気の天皇の名代として難波京遷都の勅を発している。この時期の上皇橘諸兄藤原仲麻呂らと政務を遂行していたと見られている。

  • 平安時代になると奈良、京都などでも神輿が作られるようになりますが、いわゆる村祭りなどで神輿を担ぐようになったのは室町時代と言われています。

  • そもそも室町時代というのは、現代の私達の生活スタイルを作った時代とされています。この時代には農業生産が飛躍的に増え、庶民が団結しはじめることで、今に伝わる村社会の掟や習慣が出来上がりました。また、村人が団結することで、村の自治を領主に代わって行うようになり、村祭りで神輿を担ぐなども一般的になったと思われます。

  • また、戦時中には神輿の担ぎ手や兵器などで金属類を使った事により、神輿の数自体が減少した事もありました。

神輿の歴史は、その時代ごとの情勢によっても左右されていたのですね。

比叡山延暦寺/日枝神社)も近江や琵琶湖沿岸との関係の深さを武器にこうした流れに合流してくる。

比叡山 - Wikipedia

比叡山の別称である天台山、ならびに四明岳の名称は、天台宗ゆかりの霊山である中国の天台山、四明山に由来する。

  • 古事記では比叡山は日枝山(ひえのやま)と表記され、大山咋神近江国の日枝山に鎮座し、鳴鏑を神体とすると記されている。

  • 平安遷都後、最澄が堂塔を建て天台宗を開いて以来、王城の鬼門を抑える国家鎮護の寺地となった。京都の鬼門にあたる北東に位置することもあり、比叡山は王城鎮護の山とされた。

  • 延暦寺が日枝山に開かれて以降、大比叡大物主神とし小比叡を大山咋神とし地主神として天台宗延暦寺の守護神とされ、大山咋神に対する山王信仰が広まった。また比叡山山頂の諸堂や山麓の日吉大社などを参拝して歩く回峰行も行われ信仰の山である。

  • 「世の中に山てふ山は多かれど山とは比叡のみ山をぞいふ」と慈円が詠んだことでも知られる。

伊勢に息子の信孝を送り込んだ織田信長は、比叡山焼き討ち (1571年) 後の琵琶湖沿岸(比叡山後背地)に明智光秀木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)といった精鋭を送り込んでいる。近畿一帯では古代より宗教的重要拠点が経済的要所を兼ねる事が多く、これを接収して活用しようとした結果であったとも。
東海道の昔の話(133)
東海道の昔の話(135)

④現代においてこうした当時の歴史を追跡するのを困難としているのは、大日本帝国時代における宗教政策で当初は「神仏分離」が追求されたせい。

賭博(確率遊戯)

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賭博の歴史

賭博はもともと「占い」から発祥したと言われている。古代では人知の及ばない自然現象をあらかじめ予想するもの、また神の意思を確認する手段として占いが広く行われた。

  • 神意を占い、信託を受けるためにさまざまな方法が用いられ、その中から賭けの萌芽がみられるようになる。古代では賭けは神意を占う重要な儀式の1つであった。古代インドでは各国の利害調整に賭けが用いられ、博戯に通じることは王侯の重要な素養の一つであったという。

  • こうして誕生した賭けはしだいに娯楽として捉えられるようになる。日本でもっとも古い賭博に関する資料は「日本書紀」に天武天皇(685年)が紫宸殿で諸官を集めて博戯を催したとあり、持統天皇の項(689年)には賽六(すごろく)が禁止されている。なお、賽六とは現代のバックギャモンであり、この頃から江戸中期まで広く遊ばれたが江戸後期には消滅したゲームである。

  • このように古くから博戯は庶民から支配階級を含めて流行を極めた。現代日本と異なり、江戸以前には賭博は眉をひそめるような日陰の立場には無く、博打打ちは一芸に秀でる職人として市民権を得ていた。江戸後期には幕府からの禁止令があるにもかかわらず人々は賭博に熱中し、「ばくち知らぬ者は野暮という」などと言われるほどであった。

これから伺えるように、賭博を忌避する現代の倫理観は明治以降に植え付けられたもので、決して古代から受け継がれたものではない。現代においても公営ギャンブルをはじめとしてパチンコが隆盛を極めている。このことからも人々のギャンブル(賭博)に対する熱意が伺われる。

人類史上初めてギャンブルが行われた地域は定かではありませんが、世界中の洞窟壁画、遺跡の出土品、文献などでギャンブルに興じる神々や人々の描写がなされていることから、むしろ各地の文明にて同時多発的に生まれたとも考えられています。

古代エジプトの墳墓からは神々がダイスを振ってギャンブルをしている様子が描かれた陶器が出土し、中国では司馬遷の「司馬記」にギャンブル狂いの諸侯の話が、日本では「日本書紀」に天武天皇の賭博に関する話が書かれています。ギリシャ、そしてその後地中海沿岸を統治するローマ帝国にも同様にギャンブルに関して記された文献が残されており、その数は挙げればキリがありません。

古代インドの叙事詩Mahabharata(マハーバーラタ)にはギャンブルで身を滅ぼした男の物語が記され、また同地域の4世紀頃の書物である実利論Arthashastra(アルタ・シャースートラ)にはギャンブルから税を徴収してコントロールすべきといった、現代国家が実践している賭博管理システムについての記述がすでに記されています。

人類が始めてギャンブルに用いた道具はダイス(サイコロ)だったようです。ギャンブルはモノを投げて吉凶を占うという行為から派生したため、投げて使う占いの道具がギャンブルに転用されるのは自然な流れだったのでしょう。

  • 世界各地の遺跡から様々な形のダイスが出土しており、それらを用いてゲームに興じる神々を描いた洞窟壁画、器なども多数発見されています。最初期のダイスは現在のような正六面体ではなく、木の実などを着色して出目をわかるようにした簡単なものでした。これらと共に、動物の骨を用いたもの、石でできたものなども出土していることから、各地でさまざまな形のダイスが使われていたようです。

  • アストラガルと呼ばれる、羊や牛の後ろ足のくるぶしの骨(距骨:きょこつ)を用いたいびつな4面のダイスは各地の遺跡、特に地中海沿岸部の壁画や、またエジプトの王の副葬品としても見つかっており、これが現在のダイスの起源とする説もあります。

  • 六面体のダイスは紀元3000年頃のインド、中東地域から出土しており、さらに1の裏が6、2の裏が5、3の裏が4で両面足して7になるものは紀元1400年頃の遺跡からも見つかっています。

  • 古代文明において、”出目”は予測不能で神の意志が宿ると考えられており、王侯貴族は占いにも、そして遊戯にもとにかくダイスを使っていました。

  • ローマ帝国の歴代の皇帝たちは皆揃ってダイスによるギャンブルに心酔し、第4代皇帝のクラウディウスは攻略法をまとめた書籍を作ったとも言われています。

  • 今日のカジノで人気のクラップス(2つのダイスを用いたギャンブル)も歴史は古く、その原型は12世紀にエルサレム奪還を目指してアラビアへ遠征した十字軍の遊びに遡ります。彼らがイスラム諸国で興じられていたダイス遊びをヨーロッパへ持ち帰ったことが起源と言われ、イギリスで流行ったのちにアメリカへ持ち込まれ、ルールが整備されて現在の形となりました。ちなみにこのゲームで特別なアタリ目とされる7と11は、日本でも有名なとあるコンビニの名前の由来です。アメリカのサウスランド社が世界ではじめてコンビニを設立し、店名をセブン・イレブンとしたのは縁起かつぎとしてクラップスのアタリ目を拝借したと”言われています”。「7時から11時まで営業」というのが“当たり障りのない定説”となっていますが、どちらが本当なのでしょうね。

この例に留まらず、ダイスを用いたギャンブル、ダイスから派生した文化は現在でも日常に溢れています。

確率の歴史 - Wikipedia

確率という言葉には二つの意味合いがある。

  1. ある仮説の、それにまつわる判断材料から導かれる蓋然性
  2. サイコロやコインを投げることのような 確率過程的なふるまい

証拠法のような前者の研究は歴史的により古い一方で、サイコロの数学的とり扱いは1650年代にパスカルフェルマー著作で始まった。確率は統計学とは区別される。統計学がデータやそれによる推測を取り扱うのに対し(確率論的な)確率はデータやその結果の裏にある確率論的(ランダム)な過程を取り扱うのである。

  • 確率を示す英語であるprobabilityやその元となるprobableや、他の現代の言語の同語源語はラテン語のprobabilisが由来であり、キケロに由来し、一般的に「もっともらしさ」あるいは 「一般的に認められること」を意味する意見に応用される。 その単語が数学的な意味を持ったのは1718年からである。18世紀にはchanceという単語もまた"probability"の意味で数学的に使われていた(そして確率の学説はDoctrine of Chancesと呼ばれた)。この単語は結局ラテン語のcadentiaすなわち「落下」から来ている。英語の形容詞likelyはドイツ語に起源を有し, 最も信頼できるのは古ノルド語の単語であるlikligrから来たという説だ(古英語にはgeliclicという同じ意味の単語があった)。この単語は元々は「強そうだったり有能そうだったりする外見である」「似たような外見的質を持つ」という意味であり、「確率」の意味は14世紀後半に記録されている。 同じように、派生してできた名詞likelihoodは「類似性」の意味を持っている。しかし15世紀半ばから「確率」の意味でも使われるようになった。

  • 古代と中世の証拠法(law evidence)は裁判で不確かな証拠をうまく扱うために証拠、確率、見込みそして確信が持てない証拠(half-proof)の信憑性の等級化を促進した。

  • ルネサンス期には、賭け事は「十中八九」のようなオッズの観点から議論された。海事保険の保険料は直感的危険に基づいて見積もられるが、そうしてオッズや保険料を算出する方法の学説など存在しなかったのだ。確率の数学的手法は、勝負が中止になってしまった際の運要素の強いゲームにおける賭け金の公平な分配の問題についてのフェルマーパスカル(1654年)の文通を通じて起こった。クリスティアーン・ホイヘンス(1657年)はその主題に対して包括的に取り扱った。

  • F. N. デイビッド(F. N. David)の"Games, Gods and Gambling(1962年)"には以下のような記述がある。

    http://images.paperbackswap.com/l/64/5664/9780195205664.jpg

    ①「古代においてはアストラガリ(astragali)や距骨を使うゲームがあった。古代ギリシャの詩(Poettery of ancient Greece)がそれを示す証拠である。床に描かれた円があり ちょうどビー玉遊びのようにアストラガリがこの円に投げ入れられるというものだ。 エジプトでは、墓の発掘者が「猟犬とジャッカル」と呼ばれていたゲームを見つけた。そしてそれは現在のゲームである蛇と梯子ととてもよく似ている。これがサイコロの創造の早期の段階だと思われる」。

    http://www.pitt.edu/~pittcntr/Images/Donuts/2014-15/02-27-15_dice/astragali.jpg

    ②最初にサイコロゲームが西暦時代の文学で言及されたのはHazardと呼ばれるゲームで、これは2、3個のサイコロを使う。十字軍からの騎士の帰還によってヨーロッパにもたらされたのだと思われる。ダンテ (1265年〜1321年)もこのゲームに注釈しているが、このゲームに対する考え方をさらに深化させた。その考えとは以下のようなものだ。サイコロ3つを振って得られる最小の数字は3で、それぞれのサイの目は1。3回の試行で合計が4になるように出すことはひとつのサイコロで2が、残り2つのサイコロで1が出ることで達成される。
    カルダーノもまた3つのサイコロを投げることについて考えた。3つのサイコロが投げられる。投げた合計が9になる目の出方と10になる目の出方は同じ数だけある。9については、(621) (531) (522) (441) (432) (333) の6通りであり、10については (631) (622) (541) (532) (442) (433) の6通りだ。ここから、カルダーノは投げて出た目の合計が9になる確率は出た目の合計が10になる確率よりも低いことを発見した。彼はまたオッズを結果のありそうさ、ありそうでなさの比率として定義する有効性を示した(それはまたある出来事の確率はすべての起こりうる結果のうちのありそうな結果の割合より得られることを示している)。

    http://vignette2.wikia.nocookie.net/assassinscreed/images/f/f5/ACB-La_Volpe_Addormentata_2.png/revision/latest?cb=20121108013456

    ④さらに, かの有名なガリレオ・ガリレイGalileo Galilei、1564年〜1642年)が1613年から1623年の間のいつかにサイコロ投げについて書いた。本質的に出た目の合計が9になる確率が10になる確率よりも少ないというカルダーノの問題について考えた。ガリレオは次のように言った。特定の数字は、その数字を作り出す方法がより多いがためにサイコロを投げられたときに目の合計数字としてより多く出てくる能力を持っている。9と10は作り出すのに同じだけの目の出方の方法があるが、10はサイコロを振る者にとって9よりもありふれていると考えられている。

    https://www.antiwarsongs.org/img/upl/Galileo.png

  • 18世紀に入るとヤコブ・ベルヌーイのArs Conjectandi(死後、1713年)や アブラーム・ド・モアブルのThe Doctrine of Chances(1718年)が数学的基礎、広範囲の複雑な確率の計算の仕方を示しながら確率論にしっかりした基礎を築いた。ベルヌーイは基礎的な大数の法則の解釈を証明した。その解釈とは沢山の試行においては結果の平均値は予測された値に非常に近くなりそうだと述べるものである。たとえば、表裏の出る確率が同様に確からしいコインを1000回投げる試行において、表は500回近く出そうで、試行回数が増えれば増えるほど、割合は半分ずつに近づいていきそうだということだ。

  • 19世紀に入ると不確かなものを扱う際の確率論的手法の力は数回の観察によるカール・フリードリッヒ・ガウスのケレスの軌道の測定で示された。誤差論(theory of error)は最小二乗法を誤りがちな観察を正すために使い、特に天文学の分野においては、エラーが正規分布するという前提のもと最も真の値でありそうなものを測定した。1812年には、ラプラスが彼が瞬間積率母関数や最小二乗法、帰納的確率論、仮説の検証といった確率や統計における多くの基礎的結果を統合し打ち立てた“Théorie analytique des probabilities”を出版。19世紀の終わり頃に、多くの粒子がランダムに動くという観点から温度などのガスの特性を説明したルートヴィッヒ・ボルツマンとウィラード・ギブズの統計力学は、確率についての説明として大成功したと言えるものであった。確率の歴史の分野自体はI.トドハンター(Isaac Todhunter)の不朽のHistory of the Mathematical Theory of Probability from the Time of Pascal to that of Lagrange (1865) で確立された。

  • 20世紀に入ると確率と統計はロナルド・フィッシャーとイェジ・ネイマンの統計的仮説検定の作業を通して密接に繋がった。そして現在広く生物学や心理学の実験や薬の治験、経済学や他のすべての分野においても同様に応用されている。たとえばある薬がいつも効果的だという仮説は、もしそれが正しければ観察されるであろう確率分布を引き起こす。もし観察がおおよそ仮説に合致していれば仮説は裏付けられたことになり、もし合致していなければ仮説は棄却される。確率過程論は マルコフ過程や、液体の中で浮遊する微粒子の不規則な動きであるブラウン運動のような領域の方へ広がった。そのことが株式市場における不規則な変動の研究のためのモデルを提供した。同時にオプション評価(valuation of option)のための広範に使用されるブラック-ショールズ方程式としての成功を含む金融工学における洗練された確率論のモデルの使用へ導いた。

  • 20世紀にはまた確率解釈における長期にわたる論争があった。20世紀中盤には 頻度主義が支配的だった。そして確率が長期にわたる沢山の試行の相対的な頻度を意味するということが伴った。20世紀の最後には ベイズ確率の観点の復興があった。ベイズ確率によれば、根本的な確率概念というのはその根拠によって命題がどれほどよく支えられているかによる。

数学的な確率の扱いは、特に限りなく多くの起こりうる結果があるときは、コルモゴロフによる公理的確率論 (1933) の導入によって容易になった。

フランスでは「世界中の既存知識を統合する事により(パラダイムシフトを引き起こす)未知の領域を完全駆逐する啓蒙主義と対立したロマン主義者達にこの方面への耽溺が見受けられました。そういえばメリメがフランスに紹介しスタンダール「赤と黒(1930年)」プーシキンの「スペードの女王Queen of the spade 1834年)」 も賭博を主題とする作品でしたし、ロシアの文豪ドストエフスキーも賭博狂として歴史に名前を残していたりします。そして何より19世紀と言ったら確率論と生物学の融合ともいうべき進化論の形成期だったのです。
353夜『スペ-ドの女王 ベールキン物語』アレクサンドル・プーシキン|松岡正剛の千夜千冊
プーシキン Alexander S Pushkin 岡本綺堂訳 世界怪談名作集 スペードの女王

さて網野善彦はこうした「古代の息吹」とフォイエルバッハ的・マルクス主義的人間解放論を重ねていたのでしょうか。それへの回帰を真の意味での人間性の回復と考えていたのでしょうか?