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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【この世界の片隅に】【君の名は】【聲の形】【シンゴジラ】【リップヴァンビンクルの花嫁】【神々の山嶺】思わぬ共通項:「日常の裂け目」との邂逅

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イデオンといえばこのエピソード。これが1970年代末から1980年代初頭にかけてのアニメ制作現場。思えば随分遠くに来たもんだ…

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調べるうちに分かった事。まずは言葉の定義から。

  • エドマンド・バーク(Edmund Burke)は「崇高と美の観念の起原(A Philosophical Inquiry into the Origin of Our Ideas of the Sublime and Beautiful、1757年)」の中で「崇高(Sublime)には美と戦慄が同居する」と述べている。原初のイメージの源泉はスコットランドあたりの峻険な山岳地帯あたり。
    *実は同時代に併行進化的に成立したピクチャレスク(Picturesque)の概念は、この理念の影響を濃厚に受けつつも、それそのものではなかったりする。

  • カント(Immanuel Kant)は 「美と崇高の感情に関する観察(Beobachtungen über das Gefühl des Schönen und Erhabenen、1764年)」の中でこれについて触れ、認識可能な「物(独Ding、英Thing)の世界」の外側に茫漠と広がる認識不可能な「物自体(独Ding an sich、英Thing-in-itself)の世界」を想起する踏み台として利用した。
    *当時のドイツは、英国と同君統治状態にあったハノーファー王国(1714年〜1837年)」経由で英国思想が際限なく流入してくる状態にあったので、強い違和感を惹起する代物が流れてくるとたちまち激しい論争が巻き起こった。エドマンド・バークが「フランス革命省察(Reflections on the Revolution in France、1790年)」の中で示した「(ある世代が自分たちの知力において改変することが容易には許されない)時効の憲法(prescriptive Constitution)」概念についても激論が交わされており、ヘーゲル哲学流に「それが民族精神(Volksgeist)と合致するなら誰にも変更は許されないが、たまたま時代精神Zeitgeist)と合致しただけならその変遷に従って変わっていくだろう」と結論付けられ、ラッサールが「既得権の体系全2巻(Das System der erworbenen Rechte、1861年)」 の中で示した「正しい私的所有の範囲は時代によって変遷してきた」とする態度や、マックス・ウェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(Die protestantische Ethik und der 'Geist' des Kapitalismus、1904年~1905年)」の中で示した鋼鉄の檻(Gehäuse)理論にも影響を与えた可能性が指摘されている。

  • H.P.ラヴクラフト(Howard Phillips Lovecraft、1890年〜1937年)は、自らの開拓した「宇宙的恐怖(Cosmic Horror)」の極意について「ピクチャレスク(Picturesque)だ。普段は視野外だが、意識し出すと途端に決っして目が離せなくなる様な何か」と端的に述べている。この時点で初めて「崇高(Sublime)=ピクチャレスク(Picturesque)」の等式が成立。
    E.T.A.ホフマン経由で江戸川乱歩が日本へも広めた恐怖概念。フロイトが解明した神経症の病理そのものとも。

    *こちらは「(百鬼夜行型怪異の目撃譚を誘発する)暗闇とそれに対する恐怖」「古塚や丘に何か棲んでそうな感じ」「家に何か憑いてる感じ」「人里離れた森や湖に何か集まってる感じ」「場違いの場所にある祭祀施設の違和感」「不気味の谷の境界線上を彷徨う人形達が引き起こす不安」などをトリガーに発動する。

正直、神中心主義の世界に生きる前近代の人達には想像すら不可能な世界。

  • 神中心主義の世界観の崩壊は、かえって「人間の幸福とは民族精神(Volksgeist)ないしは、時代精神Zeitgeist)との合一化を完全に果たし、果たすべき使命を与えられる事である」と提唱するヘーゲル哲学の流行を生んだ。
    *ヘルムート・プレスナー(Helmuth Plessner, 1892年~1985年)の「ドイツロマン主義とナチズム、遅れてきた国民(Die verspätete Nation. Über die politische Verführbarkeit bürgerlichen Geistes 1935年)」によれば、要するに「それでも超越的存在に依存したがる人々向けに表面だけリニューアルした代替物」。ナチス台頭という当時におけるその最新版の動きを目前にしての提言なだけに手厳しい。

  • それに対抗して「我々が自由意思や個性と信じ込んでいるものは、実は社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない」と提唱したマルクスすら「そんな社会への迎合は最悪の絶対悪、それへの抵抗こそ至高の絶対正義」といった伝統的勧善懲悪観を持ち込まずにはいられなかった。
    社会学はその部分を黙殺する事から始まったが、ヘルムート・プレスナーの上掲書は「それによって大衆が寄り付けなくなったのは失敗だったかもしれない」と指摘する。これは「科学とは何か」まで踏み込む問題とも。

  • いずれにせよ近代化とは、さらに「自らの認識外の領域の急拡大」を強要する代物だった。社会学だけではない。細菌学や量子力学の発展、無意識の世界の発見…「むしろ現代人の生きている世界は、理解不能の恐怖に囲まれながら生きて行く事を強要された未開人のそれに退行してしまったのかもしれない」と指摘する向きすらある。最近でいうなら人工知能機械学習(Feature learning)の急発展辺りがそれに該当する?

それだけ歴史上においてこの問題についての「現実直視」は忌避されてきのです。ところが1990年代よりこの状況に亀裂が見られる様になり、2016年にはついにごく自然に作中で提示されるまでに至ったという次第。
*「聲の形」においてはこの部分が西宮硝子の妹の西宮結絃の「死体写真集め」趣味に集約されている感がある。「あれは結弦が硝子に「死んだらこんな風に気持ち悪い死体になる。だから、死のうとするのはよくない」と必死で伝えようとしていただけで、だから硝子の自殺を止められなかった時点で撮り続ける意味がなくなった」とする意見もある様だが、結絃は「私があんな写真ばっかり撮ってるから、姉ちゃんは自殺を思い立ったんだ!!(もう撮り続けられない!!)」とも叫んでおり、そう簡単に繕えない「日常の裂け目」を感じずにはいられない。

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*一方、岩井俊二監督作品「リップヴァンビンクルの花嫁」では里中真白役のCoccoそのものが「姿を現しただけで日常が勝手に切り裂かれるナイフ」みたいな存在と写った。あえて意識してのキャスティングだったらしい。
スペシャル対談:『リップヴァンウィンクルの花嫁』岩井俊二監督インタビュー<中編> | シネマズ by 松竹

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ところで大源流たるエドモンド・バークの「崇高(Sublime)」やカント哲学の「物自体(独Ding an sich、英Thing-in-itself)」まで遡ると、当時の欧州人全員なら一斉に思い浮かべた「原型」に辿り着かざるを得なかったりします。1755年11月1日、リスボン地震ポルトガル)。推定マグネチュード8.5〜9.0、推定死者数5万5千人〜6万2千人(津波の犠牲者1万人を含む)。

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否が応でも東北地方太平洋沖地震(2011年3月11日)と景色が重なります。

 割と一番肝心なのは、2016年になってやっと「惨災ももたらすが、それ自体はただひたすら美しいだけのティアマト彗星」や「次の振る舞いが全く予測出来ないゴジラ」や「西宮結絃の死体写真集め趣味」や「戦時下第日本帝国臣民にとっての空襲」や「姿を現しただけで日常が切り裂かれるCocco」が「すさまじきもの」として等価で語り得る環境が整ったという事かもしれません。こうして観測点が多様になって初めて、リスボン大震災を契機としてカントが想起したであろう「物自体(独Ding an sich、英Thing-in-itself)の世界」についての原イメージが復元可能となる次第。

*追伸…「ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅 (Fantastic Beasts & Where to Find Them)」もこちら側の作品でした。しかも「わたしたち〜(心の読める魔女)」「もしかして〜(パン屋の店長)」「(またカバンが)いれかわってる!!(主人公)」展開。

*この作品では魔力の暴走が生むオブスキュラスなる怪物が「すさまじきもの」の機能を果たす。という事は物語構造が似ている、岩明均「七夕の国(1996年〜1999年)」とか貴志祐介新世界より(2008年、アニメ化2012年〜2013年)」あたりも追加可能?

ビトリアと「インディオについての特別講義」覚え書き

ある―つの人間の生、あるいは思想を問題にするとき、筆者にいつも思い起こされるのは、オルテガゲーテについて述べた言葉である。

「すべての生は、多かれ少なかれ一つの廃墟であって、その人物がどのような人であったかは、その砕片の中に探るしかない。……いちばん面白いのは、その人と世界あるいは外的運命との闘いではなくて、その人とその天命との闘いなのだ。…おのが存在の中で難破したゲーテ、存在の中で道に迷い、次の瞬間に自分がどうなるか分からないようなゲーテ、自分を"不思議な波をかぶる魔法の牡蠣"になったように感じるゲーテ」、つまりは「ワイマール抜きのゲーテ」の内部に脈打つ彼の生の実像に迫ること、である。


もちろん訳者にとってビトリアの生の砕片とは、彼が残した言葉である。そんなことが可能かどうか予測もつかないが、心掛けるべきはビトリアを「彼の生の内側から」見ることであろう。そのためには、黄金世紀スぺインの持つ独特な精神構造、新世界発見という衝撃波を受けた当時の知識人たちの精神状態を押さえながら、ビトリアの言葉を丹念に解き明かしていく以外の方法はない。

ところで実は「崇高(Sublime)=ピクチャレスク(Picturesque)」の概念を原義まで遡ると、映画「エヴェレスト 神々の山嶺(原作1994年〜1997年、漫画化2000年〜2003年、映画化2016年)」こそが「王道中の王道」だった筈なのです。

 どうしてこの作品だけが「2016年の奇跡」の仲間入りを果たせなかったのか…
むしろ、今振り返るべきはそれかも?