最近こういうの流行してるの?
「この世界の片隅に」見てからしばらく考えたけど、これやっぱ"映画インテリ"的な人向けに作られてて自分のようなアニメ素人はロクに楽しめないんじゃないか。なんか上から"かみしめろ、結論するな、感動が逃げてく"みたいなこと言われたけど、それは素人を大動員して延命するための建前なのでは。
— 雨邨彡 (@amemura_san) 2016年12月6日
現時点では「この世界の片隅に」はインテリ側の表現を越えていないように思う。なんだかヒラリーに見える。敢えて対応させるなら「君の名は。」はトランプやブレグジットに見える。岡田斗司夫はCNNに見える。 例によって映画行く前宣伝を見て"リアル版「ARIA」が見れる!"と思ったのだがねえ
— 雨邨彡 (@amemura_san) 2016年12月6日
大体"信じられなきゃ救われない"って構図は宗教の原理だよね。 「この世界の片隅に」"映画インテリ"向け記号が散りばめられている。背景が絵になったり呉に留まる宣言したりの意味は素人には想像できない。その記号を排して残るものって実はそんなにないのでは。そこは「かぐや姫」にずっと劣る。
— 雨邨彡 (@amemura_san) 2016年12月6日
「この世界の片隅に」を通じて得られる映像体験ってもっと生々しく普遍的。例えばドレスデン空襲(1945年2月13日〜15日)の記録映像を見ても「ああこれ、知ってる」と実感できる様になる感じなんですよね。
まぁ、これのバリエーションではあります。
こうしたTweetに飛びついてしまう私の反応も含めて、もしかしたら「ゼロ年代憧憬者特有の脊髄反射行動の残滓」って奴なのかもしれません。それくらい当時における「その筋の方々の活動」には目を見張るものがありました。
- J.K.ローリング「ハリー・ポッター・シリーズ(Harry Potter Series、原作1997年〜2007年、映画化2001年〜2011年)」が第4巻「ハリー・ポッターと炎のゴブレット(Harry Potter and the Goblet of Fire (2000年)」以降「闇も光の一部」などと言い出したので「国際正義を侮辱している。貴様の様な奴が子供の精神を汚染するのだ。一刻も早く元の路線に戻すか、断筆しろ」と脅迫する運動を国際的に執拗に展開。
*また決っして表立って語られる事はなかったが「ダンブルドア校長は同性愛者」と公表したのが、この運動に拍車をかけたともいわれている。また演劇化に際してハーマイオニー役に黒人役者がキャスティングされた時も一悶着あった。
- こうの史代「夕凪の街 桜の国(2003年)」が発表されると「日本人の悲劇しか描かれておらず朝鮮人が被ったさらなる悲劇への配慮に欠けている。お前の様な無神経な日本人が日本を滅ぼすのだ。一刻も早く断筆しろ」と脅迫する運動を執拗に展開。直接の因果関係は不明だが、当時のこうの史代は精神的に追い詰められ、実際に断筆を考えている。
*当時、日本教師の間では修学旅行先にあえて韓国を選び、立ち寄り先で土下座させて回るのが流行していた。まさに怖いもの知らず状態。もしこの時こうの史代が本当に断筆していたら「この世界の片隅に(2007年〜2009年)」が執筆される事もなかった。
- マイケル・クライトンが「恐怖の存在(State Of Fear、2004年)」において「環境保護利権に群がり、危険な疑似科学に染まって嬉々として大量虐殺を繰り返す環境テロリスト」を描いて当時加熱していた環境保護ブームに警鐘を鳴らすと「国際正義を侮辱している。貴様の様な奴が地球を滅ぼすのだ。一刻も早く断筆しろ」と脅迫する運動を国際的に執拗に展開。
いいかげん、でもいいかげん。 マイケル・クライトンの「恐怖の存在」についてマイケル・クライトンの主張
We know astonishingly little about every aspect of the environment, from its past histry, to its present state, to how to conserve and protect it.
地球環境のさまざまな分野については、その過去の歴史から現状まで、それをどうやって守っていくかなど、我々は驚くほど何も分かっていない。
We are also in the midst of a natural warming trend that began about 1850, as we emerged from a four-hundred-year cold spell known as the "little Ice Age."
我々は、温暖化トレンドの真っただ中にある。これは、400年ほどの周期で繰り返されるミニ氷河期が、1850年あたりに終わったため。
Nobody knows how much of the present warming trend might be a natural phenomenon.
現在の温暖化トレンドのどれだけが、自然現象によるものかは、誰も分かっていない。
Nobody knows how much of the present warming trend might be man-made.
現在の温暖化トレンドのどれだけが、人的活動によるものかは、誰も分かっていない。
Nobody knows how much warming will occur in the next century. Computer models vary by 400 percent, de fact proof that nobody knows.
21世紀にどれだけ温暖化か起きるのかは、誰も分かっていない。コンピュータモデルによっては、その数値に400%もの変動がある。これは事実上、誰も分かっていないということの証拠。
Before making expensive policy decisions on the basis of climate models, I think it is reasonable to require that those models predict future temperatures accurately for a period of ten years.
ある気候モデルにもとづいて、財政支出を要する政治決定をする場合には、その気候モデルは、直近の10年間の気候変動くらいは正確に予測できてもいいだろう。どうやらこうした指摘が逆鱗に触れた模様。
- アイルランド人のトム・ムーア監督が「ブレンダンとケルズの秘密(The Secret of Kells、2009年)」を発表すると「今や世界中のアニメーションがディズニー作品や日本の低俗アニメ作品に飲み込まれつつある。こんな状況を許しておいてよいものか!! もう二度と作品を作るな!!」と口々に叫ぶ映画評論家達がこの作品を集中的に弾劾。エコロジストとしてジブリ映画を崇拝するインテリ層中心の動きだった模様。
- 欧米において「クリスマスはキリスト教の行事であるため、公的な場所・機関、大手企業が「メリー・クリスマス」と発言するのは宗教差別」なる運動を執拗に展開。クリスマスカードの多くが「Season's Greeting(季節のご挨拶)」に書き換えられ、2004年の年末の記者会見では、ブッシュアメリカ合衆国大統領も「メリー・クリスマス」ではなく「(他の宗教の人たちも年末年始は休日になるので)ハッピー・ホリデーズ」と挨拶している。また、イタリアでは小学校の年末の演劇会において、例年恒例であったキリストの降誕劇を止めて『赤ずきん』に変えた例もある。そしてハロウィン時期にはインディアンやエスキモーに扮した白人の子供の投稿を見つけては集団で囲んで投稿が削除されるまで「レイシスト!!レイシスト!! レイシスト!!」と 罵倒し続けるのが大流行。
なんで国籍問わずこんなにも暴れ回ったのでしょうか。作家絡みでは「勝手に期待し、勝手に裏切られ、激昂のあまり集団化する」パターンが目立つ様です。もしかしたら「公敵を規定し、一致団結して攻撃し続ける事」でしか集団としてのアイデンティティを保てなくなりつつあったからかもしれません。
来年から発行されるイギリスの新5ポンド紙幣の印刷過程で動物の脂(獣脂)が使われていることが判明。菜食主義者の一部が強く反発し、反対の署名が集まっている。「もう5ポンド紙幣を受け取れない」と。これには当の菜食主義者達からも呆れる声が。https://t.co/cczW42xz3d
— スウェーデン政治経済情報 (@sweden_social) 2016年11月29日
②表現規制を推進しているのは、リベラル・フェミニズムとは水と油の関係にあるラディカル・フェミニズムであり、日本では括弧付きの「リベラル」と共闘関係にあります。
— ピルとのつきあい方(公式) (@ruriko_pillton) 2016年11月30日
国際SNS上の関心空間では「そりゃ、どんな集団にも馬鹿はいる。でも彼らの場合、どんなに少数でも声が大きい馬鹿が必ず勝って全体が一斉に馬鹿になるから危険なの」とまでいわれてます。ここでいう「彼ら」とは思想の左右を問わず「(何でも政治利用しようとする)主義者」の事。とはいえ、その一方で21世紀に入ってからそもそもネット上で「主義の対立による拮抗状態」なんて滅多に成立しなくなりました。そもそも「五感を通じって率直に彫られた情報」や「身体的要請に従っての行動」自体に思想性は内在しません。「この世界の片隅に」とはそれをただ黙々と積み重ねただけの物語であり、敗戦した日の叫び、すなわち原作では「この国から正義が飛び去っていく。暴力で従えとったという事か。じゃけぇ暴力に屈するいう事かね。それがこの国の正体かね」、アニメ版では「飛び去ってゆく。この国から正義が飛び去ってゆく…うちらのこれまでが。それでいいと思って来たものが、だから、がまんしようと思って来た、その理由が。ああ…海の向こうから来たお米…大豆…そんなもんで出来とるんじゃなぁ…うちは。じゃけえ暴力にも屈せんとならんのかね。ああ…何も考えん、ボーっとしたうちのまま死にたかったなぁ…」となっている叫びですらそうなのです。だけど(それ故に?)そうした展開が許せない人達がいる様です。あるいは「この世界の片隅には、既に我々に膝を屈っした作品。裏切りなんて許される筈がない」なる義憤が背景にあるのかも。それこすずのこの台詞の意味をよく考えてみろ、という話だと思います。
ところでこの展開、日本でだけあった独自展開とも関係が深そうです。
- 「世界初の映像倫理規定」Hays Codeがそうだった様に「良心的な親達の子供の教育環境改善要求運動」は国際的にタルドの模倣犯罪学、すなわち「犯罪者を生むのは遺伝的要因というより環境的要因(犯罪を容認したり、犯罪者を英雄視したりする周囲の雰囲気)」なる思考様式に基づいて「子供を悪から遠ざけようとする」傾向が強い。日本でも1960年代までは全面的にそうだった。
- ところが1970年代以降、何故か「子供の頃から戦争の悲惨さを脳裏に叩き込む必要がある」という考え方が台頭し、子供は略奪場面や合歓場面や虐殺場面を繰り返し見せられながら育てられる様になっていく。
*一体何があったのか。とにかく「戦争と人間三部作(1970年〜1973年)」が制作された頃がターニングポイントになってるらしい。いずれにせよ「どうしてそうしたか」についての説明は一切ない。
同時期、国際的にはこういう動きの方が主流でした。
ヨーロッパでは古くはR.オーエン,W.モリス,クロポトキン,近年ではA.ハクスリー,E.F.シューマッハーらが思想的源流とされるが、エコロジー運動が西側工業化社会を中心に世界的に拡大したのは、あくまで70年代以降である。
- 環境を汚染する商品はすべて製造・販売を禁止すべきであると考える。
- 破滅的な核戦争の接近をするどく意識し,戦争こそ環境・人間破壊の最大の要因だとして,反戦運動にも力を注ぐ。
- エネルギーや資源の浪費を批判するだけでなく,第三世界における資源の乱開発,そこへの有害な製品,技術,廃棄物のダンピングにも反対する。
- 原子力発電の即時廃止を要求する。
近年では、以下のイデオロギーが影響力を増しているとされる。
- 「ディープエコロジー」…ノルウェーの哲学者アルネ・ネスによって提唱された思想。「すべての生命存在は、人間と同等の価値を持つ。よって人間が、生命の固有価値を侵害することは許されない。環境保護は、それ自体が目的であり、人間の利益は結果にすぎないのである。」と考える。
- 「ソーシャルエコロジー」…マルクス主義など反資本主義の流れを汲み「資本主義体制下においての環境問題の解決は不可能であり、政治・経済システムをエコロジー的に変革してはじめて可能になる」と考える。
彼らの中には「議会制民主主義のルールを遵守する事は、憎むべき妥協であり、不正の事実上の追認である」と考える環境テロリスト達(Eco-Terrorists)も含まれ、放火、爆破、器物損壊といった暴力行為に手を染める事さえある。
背後には、フルシチョフのスターリン批判(1956年、1961年)以降の新左翼運動盛り上がりに伴う左翼陣営内におけるイデオロギーの理論面における瓦解があるとも。そこで彼らはそれぞれ、代わりに縋れる「無条件に正しい何か」に依存する様になっていったというのです。ある種のドーナツ現象とも。
「左翼が内部崩壊したあとで、東欧の反体制運動が起こり、元ゴーシスト(暴力を厭わない急進左派)たちの想像力をとらえた。そしてその文脈で、「権力」批判には人権が不可欠であるとの発見がなされたのである」
いずれにせよ、こうした動き全体が2010年代に入るとさらにおかしな展開を辿ります。
- ウォール街を占拠せよ(Occupy Wall Street)運動(2011年9月17日〜11月15日)のバリケードは浮浪者や犯罪者の立ち入りを放置していた為に後半は次々と凍死者を出し、しばしば銃撃事件が起こる壮絶な展開に。それでも主催者側(実は本拠地はカナダ)とマスコミが「この程度の犠牲は自由を勝ち取る為の些細な代償に過ぎない」とアナウンスし続けた為、リベラル陣営と国民感情の乖離がさらに決定的なものに。
*米国におけるデモがすぐ暴動に発展するのは「主義者」を装ったギャングが便乗して商店街などで略奪行為を働いてもリベラル派マスコミから擁護してもらえるせい。で、ますますそういう連中が喜んで入り込んでくるという悪循環。
- 米国の「韓国左派」は「障害者や日本人や黒人や東南アジア人を同じ人間扱いする方がレイシズム」と公言して憚らないのでリベラル派よりむしろKKK支持者や白人至上主義者達から「いずれにせよ劣等民族同士が殺し合ってその数を減らす事は世界平和に貢献する」と激賞されてきた。要するに使い捨ての玩具として面白がられてるだけなのだが「我々は良心的白人の選んだ名誉白人」と誤解し、さらに選民意識を強める。そして最近は「400万人デモ」成功によって世界中の左派の注目も集める展開に。
黒人新聞「生まれてこの方、韓国人ほど冷酷で愚劣で無分別で侮辱的で傲慢な人間に会ったことはない」韓国人強欲、社会貢献ゼロ、黒人蔑視 [転載禁止]©2ch.net
*「韓国左派」…一般の韓国人や韓国系アメリカ人からは忌避されていて、米国マスコミすら「おそらく中国か北朝鮮の資金で動いているか、これらの国々の後援を渇望している反体制派」と分析している。ちなみに北朝鮮の金正恩は「我が闘争」をバイブルとして崇めており、幹部にも精読を強要しているという。
*日本のマスコミは必死になって報道管制を敷いているが、そもそも韓国における「400万人デモ」の成功だって「そもそも女を男と同じ人間扱いしようとする姿勢そのものが間違っていたのだ」と主張する反動主義者まで味方につけたのを勝因としている。どんなに日本のマスコミが隠蔽に努力しようとも、こういう形で「左右合作」は世界規模で進行しているという次第。
- 日本のその筋の人達なら敬意を払う事を余儀なくされる「韓国左派」が影響力を増しているせいか、日本の一部リベラル層の間でも「健常者の若者が最も敬われない社会は不健全」なる考え方が横行しているらしく、障害者トイレに落書きしたり、あえて点字ブロックを塞ぐ様なデモを遂行する人々が英雄視される傾向が広まっている感がある。まさしく本来の意味でのタルド模倣犯罪学の好例?
*とはいえネット上で公然と「福島の被爆者は現地に封じ込め、他の日本人と結婚させるな!!」とか「海外派兵反対!! どうして肌の色の黒い遠くの国の外国人の為に日本人が死なないといけないの?」みたいなヒステリックな反応ならもっと幅広い層で観測されており、全てを韓国左派の影響とばかりもしてられない。そもそもアメリカのリベラル派にだって(その自浄力の低さゆえに)反ユダヤ主義者や(黒人や女性などを種として劣等とみなす)白人男性至上主義者が少なからぬ比率で混ざっている。
- 最近アメリカで「オルタナ右翼(Alt-Right)」と呼ばれている集団の構造は見た目より複雑。4chanや8chanやReggitに潜んでる匿名アカウント(少なくともそのうち比較的高品質な上澄みの部分)自身は、実は白人男性至上主義者でも同性愛反対派でもない。彼らはただ単にその種の扇動が(ファクトチェック能力に乏しい)Facebook上の保守派を暴力的な言動や行動に駆り立て、なおかつしそうした振る舞いを(重要なスポンサーでもあるFacebook社への配慮から)マスコミが歪曲した形でしか伝えない状況を嘲笑しているだけなのである。そこには「炎上騒ぎはネット広告収入UPにつながる」という計算まであったりする。彼らが左翼側を扇動対象として選ばれないのは、ただ単に彼らがこうしたタイプの扇動では動かせないないからに過ぎない。
*彼らの典型的イメージは「常にJokeを連発し続けて自らをHighな状態に保ってるが、その実何も信じてないニヒリスト」といった感じ。アメリカの現状について強烈な不満を抱いている事もあるが、決っして自らは如何なる主義にもかぶれない事から「ゲッベルス・タイプ」と呼ばれる事も。
*もしかしたら日本で左翼中心に「健常者の若者が最も敬われない社会は不健全」なる主張が広まる背景にも「(どれだけ政治的敗北が続いても、絶対に既存路線を改めない)権威主義的老人達」への不満の高まりが潜在してるのかもしれない。
著者は最初から最後まで、丸山眞男、柄谷行人、小熊英二、高橋源一郎、SEALDsら自身の公開された言説を丹念に拾い、検証する。そして、そこにこそリベラル勢力を劣化させている〝病巣〟が隠れていると指摘する。
著者の挙げる〝勝てない〟理由は大きく3点だ。
第1は、そもそも勝つ気があるのか、という疑問。権力を怯えさせるほどの実力を示せない運動には、権力を倒すことはできない。
第2は、行動の効果測定を避ける態度。目的と手段がいつの間にか転倒し、法案が成立しても敗北を認めて総括することなく、デモのある暮らしが理想であり、デモに集えたことが勝利だと讃え合ってしまう感覚だ。
第3は、大多数の生活者やビジネスマンの実感とかけ離れていることが理解できない認識。多くの国民は放射能や戦争を怖いとは思いながらも、それよりも景気や社会保障という目の前の現実を考えている。「あの戦争を繰り返すな」「戦争法案」というアピールは、叫んでいる人々の世界観を興奮させても、安倍政権をなんとなく支持する人々を振り向かせるものではなかった。それでもリベラルを自認する人々は、危機を訴える自分たちは目覚めていて、危機に目覚めない大衆は愚かな〝お花畑〟だと見ているのではないか。
おそらく全体の背景にあるのはこうした状況。
──賛同するのはどの部分ですか。
古谷:まず「リベラル系知識人はセカイ系だ」と看破した点ですね。日常を生きる普通の主人公がある日突然、危機に立たされた世界を救う救世主となるのが「セカイ系」と言われる物語の系譜で、アニメだと『新世紀エヴァンゲリオン』や『コードギアス』『交響詩篇エウレカセブン』が典型。それに倣えば、デモ参加者たちは戦争の危機から日本を救う主人公のつもりなんですかね。
「セカイ系」の特徴は、平穏な日常と「最終戦争」との間に中間過程がないことです。現実世界では、唐突にヒトラー政権が誕生するのではなく、画家志望だった青年の挫折からはじまり、一次大戦とミュンヘン一揆、ナチ党内部の抗争などといった中間過程がある。
でも、リベラルは法案ひとつ通っただけで、すぐにでも安倍さんがヒトラーのような独裁者になり、どこかに戦争を仕掛け、徴兵制を復活させる、などと話を進めるわけです。中間過程を無視した荒唐無稽な言説です。
──確かに「セカイ系」じゃない人にはピンときませんね。
古谷:ただ「セカイ系」は右にもいるのです。ある自衛隊関係者から聞いた話ですが、3.11のとき右系の知人が彼に電話をかけてきて「自分に一個大隊を任せて欲しい。東北を救うために俺が出る」と言ったそうです。「ただの市民が日本を救う」。これは右版のセカイ系ですね。
*本当の「セカイ系」はもっと複雑怪奇だけど、それについては後述。
ここまではこれまで断片的に触れてきた状況の要約。で、最近目立ってる動きが以下。
上掲の様に「米国右翼から可愛がられている」米国韓国左派が「400万人デモ」実現によって、アメリカの左翼系アカウントの関心を引き寄せる事に成功しつつあるという展開。もしかしたらそれを「(マスコミが秘匿してるだけで)実際は政府の弾圧に対抗する国民の一斉蜂起である」と信じ込ませる事にすら成功しつつあるのかもしれません。まぁ現段階では海外で大きなデモがあった時の通常対応の範囲内ですが、段々「左翼と右翼の境界」が曖昧になりつつある感は否めません。
そもそも欧州においては既に極左テロリストと極右テロリストの共闘態勢が実現し、イデオロギー上の境界線が曖昧になって政治上の対立軸も「(極左と極右を併せた)現状懐疑派」と「(保守派かリベラル派かを問わない)現状維持派」に再整理されつつある。アメリカも長期トレンドとしてはこの流れを追うという見方も存在する。
おそらく主義者集団たる「左派」と「右派」は合併したのではなく、どちらも求心点を見失って自分を保っていられなくなり、遂には混ざり合い始めてしまっただけなのです。その一方で「主義者でない人達」との心理的乖離が急速に進行中。
*「主義者でない人達」との心理的乖離が急速に進行中…そして本当にそれぞれが孤立した少数派になり果ててしまうと生き延びる為に立場を超えた提携を余儀なくされる。欧州で起こったのは要するにそういう事らしい。無論実際に互いに心を許し合っているとは限らず、むしろ米国のKKK支持者や白人至上主義者が「なんにせよ劣等民族同士が殺し合ってその数を減らす事は世界平和に貢献する」なんて立場から韓国左派の反日活動に声援を送る様な関係の方が多いとは推測される。
あれ? この景色なら日本でも見覚えがある?
そもそもこうした崩壊劇の発端は「(思想の左右を問わずThinker(思想家)として機能し得る)政治的インテリの消滅」だったのかもしれません。「ハリー・ポッター・シリーズ」においても「(選民意識が強く自己利益を最優先する)インテリの集う」レイブンクロー寮は「(同様に選民意識が強く闇に魅了されがちだが実力も凄い)貴族の集う」スリザリン寮以下の扱い。当然この世界にもThinker(思想家)は登場せず、すべては戦闘によって決着がつく肉体派展開。
現状からは想像もつきませんが、日本もこうした流れを追うのでしょうか。日本で極左と極右の共闘を描いた作品といえば、真っ先に脳裏に浮かぶのが村上龍「愛と幻想のファシズム(連載1984年〜1986年、単行本1987年)」です。
村上龍の小説「愛と幻想のファシズム」は、弱者と軟弱な民主主義を徹底的に否定し、独裁・ファシズム社会の確立を目指す政治結社「狩猟社」の「活躍」を描いた「SF政治経済小説」だ。世界恐慌という危機を迎え、極度の閉塞感に覆われた日本を舞台に、政治結社「狩猟社」は公然・非公然の謀略と暴力、テロの限りを尽くす。「新世紀エヴァンゲリオン」の庵野秀明監督は、この小説から登場人物の名前のいくつかを借りたと、各種インタビューなどに答えている。しかし小説を読んでみると、登場人物の名前だけでなく、ものの見方や考え方、小道具、場面設定まで、庵野監督は「新世紀エヴァンゲリオン」を作るに際して、この小説から相当な影響を受けていることが分かる。
- 政治結社「狩猟社」は、ハンターの鈴原冬二をカリスマ的な党首に、相田剣介(ゼロ)が代表になって組織された強大なファシスト集団だ。小説も「狩猟社」も、この2人が出会ったことからスタートする。エヴァに出てくる鈴原トウジ、相田ケンスケの名前は、もちろんこの2人の主人公から取られている。このほか、狩猟社ブレーンの洞木紘一、最初のスポンサーだった時田史郎の名前も、エヴァの脇役陣に使われている。
- 小説には、エヴァの底に流れる大きなテーマの一つである「父親を乗り越える」というエピソードが、繰り返し提示される。そもそも、小説の舞台設定として問題提起されているのが「日本という国の在り方」そのものであって、「米国という強い男にいいように蹂躙(じゅうりん)されている弱々しい女。それが、戦後から現在までの日本の姿だ」と冬二たちは考える。そして、そんな国で日本人はプライドを持って生きていけるのかとの強い思いが、「狩猟社」に集まるナショナリスト、ファシストたちの原動力になっているのだ。彼らにとって米国はまさに「強大な父親」である。父性の象徴だ。強大な米国の存在を乗り越えなければ日本の自主・独立はない、との信念が「狩猟社」を支える。一方、革新政権を樹立した首相の万田正臣に、冬二は父親、族長、王の姿を見る。「お前は何をあきらめたんだ?」と冬二は万田に問いかける。「巨大な敵と戦うことをあきらめて薄笑いを浮かべている父親には、恥の兆候が顔を覆っている、それがお前だ」と冬二は感じる。プライドをコントロールできない父親は刺殺されるのを待っている、分かり合うことなどできない、肩を抱くか殺すしかない、というのだ。冬二は「ギリシャ悲劇だ。母なる日本を犯して、父を殺すんだ」と決意する。まるで、「エヴァンゲリオン」の碇シンジだ。「父さんなんか嫌いだ」という気持ちと「父さんにほめられたい、分かってほしい」という願いと。シンジが父親のゲンドウに対して抱く複雑な感情を、そこに見る思いがする。
- こうした大きなテーマのほかに、小説のキーワードの一つとして何回も出てくる言葉が「シナリオ」だ。「全部シナリオ通りか?」「シナリオにはないな」「シナリオは変えない」…。「狩猟社」の謀略や破壊工作のすべては、綿密に練られた「シナリオ」に従って進められていく。シナリオと情報によって、暴力行為が遂行されるのだ。「エヴァンゲリオン」も「シナリオ」が重要なキーワードの一つと言っていい。「ゼーレ」のシナリオに従っているふりをしながら、ゲンドウにはゲンドウなりのシナリオが実はあって、ゲンドウは結局は自分のシナリオ通りに事を進めようとするのだが。
*錨ゲンドウ…よく考えてみれば「ニーベルングの指環(Ein Bühnenfestspiel für drei Tage und einen Vorabend "Der Ring des Nibelungen"、1848年〜1874年)」に例えると「父権の象徴」にして「大いなる計画」を遂行する「ヴァルハラの主人」ヴォーダンというより、忠臣の振りをしながら裏で何を考えているか分からない面従腹背のロキ、あるいはシェークスピア劇「マクベス(1606年頃成立)」に同様の立場で登場する「忠臣」ロスといった役回り。ここで軸ズレが発生するのは否めない。- もう一つ見逃せないのが、「他人の中の自分」という概念、イメージだ。小説では「他人の中にしか自分は見つけられないんじゃないかって、最近思うのよね」「あなたが知っているゼロと、あたしが知っているゼロと、それとゼロ自身と、ゼロは3人いるわけでしょ?」などとゼロの恋人のフルーツが、冬二に言う。他人(第三者)の意識の中に存在する自分という像はいくつもあって、それぞれがみんな違うんじゃないか、という問いかけである。「エヴァンゲリオン」にも何回も登場した。シンジが自分の内面を探究して試行錯誤を重ねていく場面に出てくる台詞だ。こんなところにも、小説の影響が強く出ている。
「プライドが違う。誇りを持っている」。この台詞に代表されるように、小説には「プライド」という言葉が何回も出てくる。これも間違いなくこの物語のキーワードの一つだ。人間が誇りを持って生きるためには、何が必要なのか。「愛と幻想のファシズム」は「ファシズム」という政治形態とその考え方を信奉する人間の行動を通して「人間の生き方はどうあるべきか」を読者に問いかけている。
海外のアニメ漫画GAMEファンによる「錨ゲンドウは最後のエイハブ船長(ロマン主義的英雄)」 なんて指摘を思い出します。そこに見受けられる(思想の左右を問わぬ)強烈な父権主義回復欲求。不思議とそれに該当する概念が見当たらないのが21世紀の現実。
こうした考え方よりむしろ上遠野浩平「ブギーポップ・シリーズ(1998年〜)」の世界の方が現状に近いとも。この作品において「目の前の現象についての解釈は目撃者の数だけある」なる多元解釈論はさらに推し進められ、直視の対象が現実から「セカイ」にスライドし、これを「変化を志向する意思」と「(現状の安定の全面破壊を伴うかもしれない)変化を恐れる感情」の拮抗状態と定義して1990年代の閉塞状態を説明。これがいわゆる「セカイ系」なる発想の発端となった訳です。
注目に値するのは、喧嘩をふっかける側が常に「ぼくは自動的なんだよ」と主張する点、この台詞を口にするブギーポップは作中で「君には夢がない。自分の夢を生きてないからだ」と言われてしまいますが(だからこそ彼は自分と同種の存在たる「歪曲王」が断罪出来ない)、まさしくブギーポップ(セカイ系英雄)とは、こうした時代精神の顕現を予告する存在だったのかもしれないという話。