ゴルディアスの結び目
これが「魔法少女まどかマギカ」の原型と言われた作品です。少女の絶望による感情エネルギーが空間をも収縮させる無限力に永久に閉じ込められるまでの顛末が描かれます。
サイコダイバーが入り込んだ世界はエログロ大増量の犬カレー空間のようで、なるほど要素要素では似ていると分かります。分かりはするのですが、そもそも「サイコダイバーがシュールな精神世界を冒険して問題を解決する」という構造を真っ直ぐに押し出した作品を後年に書かれたもので多数見てしまったため、ほとんど新味が感じられませんでした。
サイコダイバーの発想の源は、1978年に第9回星雲賞(日本短編部門)を受賞した小松左京の短編SF小説『ゴルディアスの結び目』に登場したサイコ・デテクティブという職業であり、これからいただいたものだと夢枕獏は述べている。サイコ・デテクティブは、サイコダイバーと同じく、コンバーターと呼ばれる機械を用いて被験者の精神に浸透(インベスティゲイション)する。なお「サイコ・デテクティブ」を自称する主人公が自らの仕事を水槽の汚れを掃除する「潜水夫」みたいなものと説明している。
*最近良く見かける「手塚治虫や大友克洋のどこが斬新なんですか? ありきたりの表現ばっかりじゃないですか。」パターンの一つ?
「ゴルディアスの結び目(1977年)」における「憑き物」。そして「魔法少女まどかマギカ(2011年〜)」における「魔女」。おそらく両者のさらなる源流を探すとこれに辿り着くのでしょう。
「実は『エクソシスト(The Exorcist、1973年)』という映画は少女に悪魔が取り付く話だから大ヒットしたのではない」と看破したのはたしかスティーブン・キングだった。
本当は、それまで可愛かった娘が、思春期(12歳)になった途端、汚い言葉を吐き、親に暴力をふるい、セックスをし、自傷行為に及ぶようになる、という親の恐怖を描いていたから、あれほどヒットしたのだと。
*そしてその思いつきがスティーヴン・キングの処女作「キャリー(Carrie、1974年、映画化1976年)」を生んだ?
さらには「ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅(Fantastic Beasts & Where to Find Them)」におけるオブスキュラス(Obscurus)の元イメージとも。
国際SNS上の関心空間にもよく徘徊してます。匿名アカウントなのを良い事に(顔出しを避けつつ)暴れるだけ暴れて満足するとアカウントを削除して 黒歴史化を未然に予防。まぁそういう使い方もアリかなという感じ。
ところで、ここで紹介した小松左京「ゴルディアスの結び目(1977年)」なる作品、1960年代末から始まった「怪奇/オカルト/超能力/UFOブーム」が月刊ムー刊行(1979年)を経て、もっと疑似科学というか、擬似宗教というかそういう体裁を整えていった時代の貴重な同時代証言としても、中々興味深いものがあるのです。
*要するに少年向け漫画週刊誌の特集記事や、ジャガーバックス(1972年頃〜83年頃)や、ドラゴンブックス(1974年〜1975年)で育った世代がさらなる「大人向けの娯楽」を求めた結果?
時はまさしく深作欣二監督が「宇宙からのメッセージ (1978年)」と「魔界転生 (1981年)」の狭間に「復活の日 (1980年)」を撮影した時代。そういえば原作に選ばれた「復活の日(1964年)」の著者もまた小松左京でした。映画中で語られる内容にも妙に「ゴルディアスの結び目(1977年)」に収録された4編の短編で語れらる「世界の滅亡と再生のイメージ」と妙に連続性があったりして…
小松左京短編集「ゴルディアスの結び目(1977年)」あとがき
加速度的に量と精度をあげて行く物質、生命、人類、地球、宇宙についての、今日的情報は、私にとって、たえまなく「 新生」へとうまれ変りつづける事をつげるメッセージ の大シンフォニーのようなものだ。─ ─ もし「旅」が、時空間移動プラス「新しい情報との遭遇」を意味するなら、私たちは今、めくるめくばかりに壮大で高速の旅へのり出した事になる。
私自身は、無数の科学者や専門家たちによって運航されているこの「 探索船」の展望 ラウンジに、小さな乗船券をにぎりしめて腰をおろし、行く手につぎつぎにあらわれて くる、不思議なものの形に、あれこれ眼をうばわ れ胸をおどらせ ている乗客にすぎ ないのだが、運航には何の役も立たない乗客にも、こう問いかける事はできる。─ ─この「 旅」の行きつく果てはどこだろう? この「 旅」の宇宙全体にとっての「 意義」は 何だろう? なぜ私たちは、こう言った「 旅」をはじめてしまったのだろだろう? ─ ─ そして、この「 旅」を通じて、つぎつぎに出あうものに、自分は、なぜこれほど「 感動」 するのだろう? 人間の「 感動」とは、そもそも、この宇宙にとって何なの だろう?
- スティーブン・スピルバーグ監督作品「 未知との遭遇(Close Encounters of the Third Kind、1977年)」の影響が色濃く感じられる。この作品と天文学者カール・セーガン監修のTVドキュメンタリー「コスモス(COSMOS、1980年)」は国際的に世相に強い影響を与えた。
*前者は「第一次・第二次接近遭遇」「ファーストコンタクト」、後者は「核の冬」「地球工学によるテラ・フォーミング」「宇宙カレンダー」といった概念を世界中に広めサイエンス・フィクションの概念を一変させてしまった。そして1981年には科学雑誌「ニュートン(Newton)」が創刊される。
- そもそも、こういう展開の下地はアーサー・C・クラーク「幼年期の終り(Childhood's End、1953年)」、「2001年宇宙の旅(2001: A Space Odyssey、1968年)」、1960年代後半を彩ったニューウェーブSF小説などが築いてきたものだったが、この時期、その影響力はフィクションの世界を乗り越えたのだった。
収録作品「岬より」。生体内化学反応としての精神の基礎的作用
「精神の基礎的作用は、また十九世紀のように、一つの複雑な生体内化学反応としてつかまえられようとしている。─ ─植物のつくり出したさまざまな化学物質が、人間の 大脳の生理、生化学過程に作用して、興奮させたり、鎮静させたり、笑わせたり、泣かせたり、幻覚を見させたりすることができるのが 不思議だ、と思うべきだ。そういう現象は、外界に対する反応として、別に植物アルカロイドや向精神物質の助けをかりずに 起るのだから、その時、植物から抽出され た向精神物質を投与した時と同じような化学物質が、自然に合成されている、と考える方が自然だろう。植物は、実に不思議な物質 を無限につくり出す。─ ─ 今だって、進化によって、無限に奇妙な物質の組み合わせを 新しくうみつつあるにちがいないんだ。
だが、植物の中に無限に存在する奇妙な物質と、動物や人間との〝 出会い〟は、まだ ごくわずかだ。─ ─いま欧米ではやっているLSDだって、一九四〇年代に、ホフマン が、麦角の処理をしていて偶然その作用を見つけるまで、そんな物質が麦角にあり、大脳にそんな作用を起すとは全然知られなかったんだから……。 ライムギに子囊菌という カビがつくことによって生ずる病気によって麦角ができることはずいぶん古くから知ら れていたし、この中にたくさんあるアルカロイドを、子宮収縮剤としてつかうことも、かなり古くから知られていたのに……」
「ネコ科の動物に対するマタタビの作用も不思議なものだな……」と私は煙管をルネ神父にまわしながら言った。「あれの〝 出会い〟は、自然に起っ たものかね?─ ─人間 が発見したものじゃないかな? また どうして、 マタタビが、ネコ科の動物を選択的 に酩酊させるんだろう? イヌ科は、全然何ともないんだ……」
「本当か噓かよく知らんが、もし本当なら、動物と植物の奇妙な〝自然の出会い〟が、 食性によって起っ ている例があるという……」神父が阿片を吸いながら言った。「 オーストラリアのコアラと、南米のナマケモノだ。─ ─どちらも、木にぶらさがって、あたりの葉を食べ ちゃ、一生うつらうつらしている。コアラの場合、食べるユーカリの 葉の油の中に、一種の麻酔成分があって、それで動作が緩慢になり、眠ってばかりいる んだそうだ。ナマケモノの食べる葉にも、同じように麻薬的成分があるという説がある……」
「まさに酔生夢死だ な……」 と 私 は言った。「 人類にも食わせるといい。世の中が少しは平和になるだろう」 部屋の中 に、軽い笑い声が起った。
- 1960年代後半に盛り上がったヒッピー運動やニューウェーブSF小説との連続性を感じさせる内容。当時はまだティモシー・リアリー博士も「麻薬を使った意識拡張路線」から「コンピューターを用いた脳神経再プログラミング路線」へと乗り換えていない。
*そういえば短編集「ゴルディアスの結び目」には大型コンピューターは登場してもパソコンは登場しない。世界で初めて、個人向けに完成品として大量生産・大量販売されたパーソナル・コンピュータApple IIが発売されたのが1978年、IBM PC(IBM Personal Computer)発売が1981年。
- その一方でこうした記述には、当時すでに盛り上がりつつあった「クオリアを巡る論争」を連想させるものがある。そうした流れがやがて1980年代から1990年代前半にかけての「人間の知性を模倣した」人工知能開発競争へと結びついていくのである。
同じく「岬より」。文明が忘れた「人間らしい死に方」
「私たちは年をとりに、この島へ来た。あのごたごたした文明の中では、人間は〝 老人〟 にさえなれ ん……。年齢だけが見ることを可能にしてくれるものを、あの喧騒が邪魔 して見させてくれんのだ……。年さえとれない、ということは、〝 老人の未来〟をうばうことだ。で ─ ─ 私たちは、老年の未来をとりもどしにこの島へ ─ ─〝 岬〟へ 来 た……。人間は、自ら意志し、自らの人生を守る賢明さを持たなければ、せっかく長生きした人間にのこされている〝 老人に なる〟可能性可能性 さえ無茶苦茶にして しまうのだ。肉体が衰え、頭がぼけ、暦数年齢だけふえて、まだ青壮時の我欲、煩悩に 苛まれながら、醜い妄執の中で死ななければならん……」
「年をとると宇宙が問題になりますか?」
「近代物理学で言っている宇宙ではないよ。─ ─宇宙のイメージだ……物理学 は、イメージをつくる手段の一つにすぎん……。問題になるのは、その中に自分が含まれ、自分の中を貫いて流れて行くことを感じさせる宇宙だ……。人間が、ずっと古代 から、…… まだ文明もきずきあげぬころから、野獣や鳥たちと一緒に感じていた、あの宇宙 だ……。生れ、生き、人生をきずいた上で、さらにその先に年をとって死んで行くには、宇宙の一番よく見える所で、毎日それを眺め、呼吸しなくてはならん。幸福な死に 方というものは、突然死ぬことではなくて、次第次第に、地上の存在を消して行き、透明になって宇宙の中へ消えて行くことだ……」
- 最後の短編「あなろぐ・らう゛─ ─ または、〝 こす もご に あ Ⅱ〟 ─ ─」へとつながっていく伏線。ルーディ・ラッカー「ソフトウェア(Software、1982年)」もそうだが「ヒッピー世代はどういう老後を迎えるのか?」みたいな内容。
- 上掲の「あとがき」は「自分が、数多くの専門家によってもたらされる「情報」を手がかりにこの「旅」に出発してしまっていると気付いたのは、地球上をあちこち旅して回っている時だった…地球上にはまだ、この天体がじかにむきだしに「宇宙」と向かい合っている場所がいくつか残されている…三億年前の古代地質が「恒星空間」に裸で対峙しているオーストラリア中央砂漠…海面下4千メートルに広がる太平洋プレートの6千万年に渡る「沈黙の旅」を感じさせてくれるハワイ島のファラライ溶岩流…」と続く。この短編の舞台となる「岬」も、そういう場所として設定されている。
収録作品「ゴルディアスの結び目」。〝 憑 きもの〟の落とし方。
「〝 憑 きもの〟というやつの大部分は……ある特定社会の、集団的無意識の中にのこっている、古い、歴史的文化的な情念や思考の〝 型〟と、ずっと奥の方でつながって います。ですから、誰かその〝 型〟をささえるものなしで ─ ─つまり人眼のない所 で、〝 憑かれた〟症状を起すケースはめったにありません。ほとんどの場合は、必ず〝 観客〟が必要なんです。でも、そうなると、完全に症状を除去しようと思えば、ある地域集団全体の、下意識の改変をおこなわなければならない。そんな事はとてもできませ んからね。で、〝 憑 きもの〟の凶暴性、邪悪さ、というものを慰撫して、周囲との〝 融和〟をはかる。つまり、おとなしい憑きもの、できるだけ愛すべき憑きものに変える わけです。 ─ ─ そのためには、周囲の恐怖心をとりのぞかなければなりません。もし〝 愛すべきいたずらものの霊〟のイメージが、その地域文化の伝説や神話の中にあれ ば、それと入れかえ ます」
- これも最後の短編「あなろぐ・らう゛─ ─ または、〝 こす もご に あ Ⅱ〟 ─ ─」へとつながっていく重要な伏線。ある種の「ポジティブ思考」の重要性が説かれる。
*アメリカの科学万能主義(Scientism)を支えてきた「なんとかなる」精神とは明らかに起源が異なるが、日本人には同じ結果を出すのにこういうアプローチの方が向いているのかもしれない。
弁護士Kの極私的文学館:神への長い道 - この種の「ポジティブ思考」は、例えば「妖精譚はどうして生まれたか」考える上でも重要だったりする。
同じく「ゴルディアスの結び目」。〝 憑 きもの〟の力の源。
「潜在意識の中に秘められた、強い欲望が、さまざまな怪現象をひきおこすのではない か、という説 がだいぶ前からありますね……」左大腿部の傷に自分で包帯をまきながら、彼はつぶやいた。「 特に、思春期の女性のそれが……」
- 実は「思春期の少女の意識の奥底が地獄の入り口となる」設定、作中のめくるめくエログロ描写と併せ、英国怪奇小説家アーサー・マッケンの「パンの大神(The Great God Pan、1890年発表、1894年刊行)」起源と考えるべきかもしれない。
アーサー・マッケン パンの大神
- この「パンの大神」なる作品、「ノーデンスの石板」といった後にクトゥルー神話に流用されるギミックの宝庫でH.P.ラブクラフトにCosmic Horror執筆を思い立たせた契機の一つに数えられている。その一方で、その猥褻描写が当時物議を醸した事を反省しCosmic Horrorではそういう描写が抑えられたとも。
- また「ゴルディアスの結び目」の主人公が最後までヒロイン救出に執着し続けるのは、「パンの大神」におけるヒロインの扱いが余りにも酷過ぎた反動とも見て取れる。
収録作品「あなろぐ・らう゛─ ─ または、〝 こす もご に あ Ⅱ〟 ─ ─」
何とでも考えたらいいだろう……。と「 気配」はあまり気のりしないように答えた。 ─ ─ 君の言っている事は、比喩 だ からね。比喩は、要するに〝 感じ〟が大切だ。〝 感じ〟として、ぴったりいっていれば、多少事実と食いちがっていても、かまわないわけだから……。
「でも、ある〝 態度〟の文脈を通じて、物事をつきつめて行くと、窮極的には、〝 感じ〟だけが、その〝 態度〟の結論をきめるきめる ものとなりますよ。─ ─科学だって、人間によって、人間を通じて進展していく以上、最終的にはその〝 感じ〟にたよら ざるを得ない。ここから先は、当分の間わからない。自分が生きている間はおろか、人類なら人類という〝 知性種〟が種として存続し得る間に解明できるかどうかわからない、という、〝 諦念〟や〝 絶望〟、有限の知性の解明能力をこえて、なお彼方に〝 超越的なもの〟が横たわっている、という〝 畏怖 感〟、しかも なお、自己 の有限、知性 種の有限を悟った上で、やれるだけの事を精一杯つとめる、という〝 敬虔の情〟、あるいは、突然、眼の前が洗われたように出現してくる ─ ─ 部分的ではあるでしょうが ─ ─ 宇宙の構造に、ぴったりの理論が見つかった、という〝 整合 感〟……。そういった ものが、科学〝 者〟たちを、さまざまな方向へかりたて、ある場合には、そういった〝 感じ〟に たよって、理論の積木をくみたて、また理論のレース編みを編みあげて行く……。〝 感じ〟というのは、だから、人間と宇宙を関係づけるものの中で、かなり 大切なものじゃないかな……」
─ ─ 私は別に、その事に反対じゃない。が、比喩は、論理よりもっと規制のゆるやか なものじゃないかな?
「でも、比喩にだって、規制はあります。 ─ ─〝ぴったり〟だ、とか、〝 うがち〟だ とか、〝 眼が洗われるよう〟だとか…… 何よりも重要なのは、何やら〝意味ありげ〟という〝 感じ〟でしょうね……。何か、〝 対応がつけられそうだ〟という予感でしょ うか……。そして、比喩だって、自己増殖して行く〝 文法〟があって、最初にある〝 やり方〟と〝 方向〟が決定されると、いくらでも、その文法と文脈で、比喩を拡大し て行ける……」
─ ─ ある種の宗教的予言者のやる事は、まさにそれだろうな……。と「 気配」はうなずいた。
─ ─ が、あまりその自己増殖が拡大しすぎると、ついに は、〝 比喩の体系〟と実際 の現象との間に大きなひずみや食いちがいができてしまって、比喩は、現実の一こま 一こまを、不可思議な光と、興奮をさそう〝 意味ありげな知的問題〟の相のもとにかがやかせ、きわだたせる事ができ なくなってしまう。比喩は、〝 言葉やイメージのがたぴ して、矛盾した組み合わせ〟以外 の何の意味も持たなくなる。─ ─ 呪具としてのあやしい、秘密の雰囲気を失って、稚拙でうすよごれ た、木や泥の人形となってしまうの だ。
「ある種の文学─ ─小説や詩や、物語だってそうでしょう。〝 妖精〟を信じなけれ ば、妖精譚は、ばかばかしい、荒唐無稽で退屈な物語にすぎないでしょ うし、英雄 ─ ─ 主人公というものが見る人間の心をつかまえそこなえば、ドラマも小説もがたぴし したものになります。しかし……」
─ ─ しかし…… 何だ ね?
「最終 的 には、 人間 は、 宇宙 を 巨大 な 比喩 として…… 人間的 な〝 意味〟 を 付与 さ れ た イメージ として 呈示 する 以外 に、 宇宙 との 間 に、〝 決着〟 を つけ られ ない ん じゃ ない です かね。─ ─〝 科学〟というもの は、一人の人間が死んでも、その先を組みたてて行くものがあればいくらでものびて行く、〝 開かれた構築物〟です が、人間一人一人の 生は、不慮の死でもとげないかぎり、〝 有限だが完結し得る〟ものでしょう。それに対して、人間の寿命と認識限界に比べれば、相対的に〝 無限〟で ある宇宙との間に、最後に決着をつけるためには…… 人間の例の〝 完結〟を達成する のには、二次元 平面 を、球面 として閉じさせるための〝 一つの点〟のようなものを つけ加えなければならない。それは…… 最終的には、比喩としての〝 宇宙のイメージ〟の形をとるよりしかたがないんじゃないか……」
─ ─ 苦しい な……。と「 気配」はからかうように言った。─ ─比喩やイメージは、 どうにでもなるが、そいつは結局、ほころび を糊塗する事にすぎんのじゃ ないかね。
「でも、最後にその一点をつけくわえたとたんに、実体としての宇宙そのものと、宇宙 に関しての、あらゆる科学的、理論的知識や未解決の問題は、全体として、壮大な〝 イメージ〟に変貌するんですよ。自分をもふくむ、宇宙の一切が、巨大な比喩として〝 完成〟し、〝 完結〟する……。その瞬間、宇宙は、もう自分の前にある〝 探求さ れるべき対象〟として、無限に後退しつつ人間を〝 解けぬ疑問〟の道へといざない、焦ら せ、苦しませる存在ではなく、自己と一体化し、今ある自己は、無限の時空を貫いて顕現して行く宇宙の、ほんの小さな、須臾の瞬間のあらわれにすぎ ない、しかしその小さな自己を貫いて、〝 宇宙〟そのものが顕現して行くのだという事が自覚されます。地球 上の自分は、宇宙の広大さ、変化の豊かさにくらべれ ば、ほんの〝 微塵〟にすぎない が、にもかかわらず、自分は宇宙と同じものである……〝 我れは宇宙〟……この一体感が、─ ─それ は、まさに一瞬に出現出現するイメージ であり、比喩でしかありません が ─ ─形成され たとたん、宇宙はもう、無限の彼方にひろがり、人間をこえて存在する、冷たく、荒涼として、敵対的な存在ではなくなり、有限にして微小な人間存在と、 宇宙との、最終的で完全な〝 和解〟が達成する……」
- ある意味1960年代末に始まった「怪奇/オカルト/超能力/UFOブーム」が1980年代にかけて次第に疑似科学というか擬似宗教というか、そういう体裁にまとめられ最後は自壊していくメカニズムを語り尽くしている側面もある。当時の表現としては「サイキック・パワー・ブーム」という事になる。
*フィクションの世界における有名例としてはSF作家平井和正と漫画家石森章太郎の共作漫画として始まり1983年のアニメ化によって「ハルマゲドン」という言葉を日本じゅうに広めた「幻魔大戦(1967年〜未完)」あたり? そういえば荒俣宏「帝都物語シリーズ(1985年〜)」にも角川春樹社長当人が「(魔人加藤が引き起こす)ハルマゲドンに対抗する教祖役(奈須香宇宙大神宮大宮司)として登場する。この流れには角川春樹社長逮捕(1993年8月29日)やオウム真理教サリン散布事件(1994年〜1995年)まで続いた側面も?
- そして破綻を免れた(上手く当時の世相を乗り切った)作品だけが後世に語り継がれていく事に。まさしく「怪奇/オカルト/超能力/UFOブーム」のパロディとして始まりながら時勢を読んでたちまちラブコメ路線に舵を切った高橋留美子「うる星やつら(1978年〜1987年)」、大友克洋「AKIRA( 1982年〜1990年)」、士郎正宗「攻殻機動隊(Ghost in the Shell、1989年〜)」…
*大事なのは「(サイキック・パワーっぽい)威力のある技」。その路線で「 北斗の拳ん(1983年〜1988年)」や「ドラゴン・ボール (1984年〜1995年)」を範疇に含むとも。そういえば当時は「マッドマックス(Mad Max)シリーズ(1979年〜)」の影響を受けた「世界終末物」やスプラッタ・ホラーも流行していたのである。
*フィクションの世界においては、基本的にはあくまで体裁(パッケージング)の問題に過ぎず、別に日本だけに限った展開でもなかった。デビッド・クローネンバーグ監督作品「スキャナーズ(Scanners、1981年)」やオリヴァー・ストーン脚本作品「コナン・ザ・グレート(Conan the Barbarian、1982年)」では強大なカルト教団が敵として登場。この分類だと宮崎駿監督作品「On Your Mark」が掉尾を飾る事に。
今から思えば、星野之宣「2001夜物語(1984年〜1986年)」収録作品「 豊穣の海」とは、このテーマに果敢に取り組んだ意欲作だったのかもしれません。
このエピソードの登場人物は月で事故死を遂げるのですが、その直前に満足しきった口調で「俺は沈んでいく…深い蒼い海の底へ…生命の群れがきらめく豊かな海の底へ…」と通信。それまで「月は人の心を凍らせる」とばかり呟いていた彼の心にいかなる心境変化が訪れたのか。当時SFファンの多くが「これぞSF!!」と思わず膝を打った名作。そしておそらくこれこそが小松左京が「ゴルディアスの結び目」に込めた本来のメッセージで「2001夜物語」の他のエピソードにもその影響が端々に…