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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【年表】【トマス・ピケティ】【ラスティニャックのジレンマ】【ジェーン・オスティンの性淘汰】【黒澤明】【天国と地獄】「ビニール革命」と「プラスティック革命」がもたらした問題先送り?

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 ロマン主義運動(英Romanticism、仏Romantisme、独Romantik、伊Romanticismo、西Romanticismo、葡Romantismo)、自然主義運動(仏Naturalisme 英Naturalism)、ハードボイルド運動(Hardboiled)は、それぞれそのカウンター・カルチャー的側面故に共通の「事象の地平線(Event Horizon)」を抱えていました。

ラスティニャックのジレンマ(The Dilemma of Rastignac)

ラスティニャックとは、19世紀フランスの文豪オノレ・ド・バルザックの代表作「ゴリオ爺さん(Le Père Goriot、1984年)」に登場する法律を勉強する苦学生。勉強と労働で功成り名を遂げ、安寧な生活を得るのが効率的か、資産家の娘と結婚することで相続で不自由しない生活を手に入れるべきか、の二者択一で悩む。トマス・ピケティはジェーン・オスティンが描いた英国郷紳(Gentlemen)の娘達が繰り広げた性淘汰(Sex Selection)の世界と合わせてこのエピソードを紹介し、後者を「封建社会から資本主義社会への発展途上だった19世紀的サクセス・ストーリー」、前者を「その呪縛から逃れた20世紀的サクセス・ストーリー」とし、21世紀を「19世紀的サクセス・ストーリー」の方が有効な時代へに退行しつつある時期と規定する。

モーリス・ルブランのジレンマ(The Dilemma of Maurice Leblanc)

中年まで売れない純文学的作家として過ごしてきたモーリス・ルブラン。それまで蓄えてきた怨念をぶつける形で泥棒紳士ルパンなる「金持ちからしか盗まない庶民の味方」を創造して大儲けしたが、自らも素封家名士の仲間入りを果たすと、毎夜「ルパンが盗みにやってくる悪夢」に魘(うな)される様になったという。

実はこの問題、ダシール・ハメットを断筆に追い込んだ末に米国共産党に入れこませ、フランク・キャプラ監督を「社会派」に追い込み、レイモンド・チャンドラーが晩年に本気で取り組んだ「人間は成功してなおそれ以前の必死さを保てるか?」問題そのもの。

椿三十郎(1962年)」 以降、「世界のクロサワ」と例えられた黒澤明監督が突き当たったのも、やはりこの壁だったのかもしれません。それはまだまだ大恐慌の傷跡深き1930年代の暗い世相の最中、あえて楽天主義、アメリカン・ドリーム、ユーモア、ヒューマニズムをふんだんに取り入れて成功したフランク・キャプラ監督のキャプラスク(Capraesque)が、どうして敗北を迎えざるを得なかったかとも重なってくるのです。

天国と地獄 (1963年) - Wikipedia

「用心棒(1961年)」「椿三十郎(1962年)」と娯楽時代劇を世に送り、次回作には現代劇を構想していた黒澤明監督が、たまたま読んだというエド・マクベインの小説「キングの身代金(1959年、「87分署シリーズ」の1つ)」に触発され、映画化した作品である。

映画化の動機は2点あり「徹底的に細部にこだわった推理映画を作ってみよう」ということと「当時の誘拐罪に対する刑の軽さ」(未成年者略取誘拐罪で3ヶ月以上5年以下の懲役〈刑法第224条〉、営利略取誘拐罪で1年以上10年以下の懲役〈刑法第225条〉)に対する憤り」(劇場公開時のパンフレットでも誘拐行為を批判している)だという。

映画は興行的には成功を収めたものの、公開の翌4月には都内を中心に誘拐事件が多発。映画の公開は中止されなかったが、国会でも問題として取り上げられ、1964年の刑法一部改正(「身代金目的の略取(無期または3年以上の懲役)」を追加)のきっかけになったという。

この映画で用いられた「走っている電車等から現金等を落とす」という手法は、1955年の内川清一郎監督の『悪魔の囁き』のなかで使われたものであるが、この後のフィクション作品だけでなく、現実の現金受渡し目的の犯罪で数多く模倣されている。1963年9月の草加次郎事件、1965年の新潟デザイナー誘拐殺人事件、1984年のグリコ・森永事件、1993年の甲府信金OL誘拐殺人事件、2002年の新城市会社役員誘拐殺人事件、2004年の大阪パチンコ店部長誘拐事件などの例がある。手法の模倣ではないが、映画の影響を受けて身代金誘拐に及んだ者もおり、1963年の吉展ちゃん誘拐殺人事件、1980年の名古屋女子大生誘拐殺人事件などの例がある。

ここで重要となってくるのが、三船敏郎演じる権藤金吾の人物造形。 

michael pitt

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  • 製靴会社「ナショナル・シューズ」の工場担当常務。16歳で見習い工として入社した叩き上げで、仕事に生きがいを感じており権力闘争にも余念がないが、それは権力欲ではなく「理想の靴」を作りたいという思いから来ている。

    天国と地獄 (映画) - Wikipedia

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  • 問題は、ここでいう「理想の靴」とは何かなのである。戦前、軍靴製造で財をなした社長は「兵隊靴屋」の発想から抜け切れず「丈夫で長持ちする事」しか考えない。一方他の重役達は営利を追求するあまり「デザインが美しく」「製造コストが安く」「(丈夫で長持ちする要素を排除したが故に)すぐに壊れ、買い替えサイクルが早い」靴を理想視する。金吾はどちらも「考え方が偏り過ぎている」と思い、自らが株主総会を掌握して実権を握り、バランスの取れた靴を製造しようと考え始めるのである。

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    *実は軍靴製造業には「江戸時代まで差別を受ける対価として皮革産業の独占を許されてきた新平民(人間や牛馬の死体処理を任されてきた江戸時代の穢多非人)からその特権的地位を奪った」なる思わぬ「原罪」が存在する。その一方で「大量生産・大量消費」の時代には薄利多売で業績を上げるライバルとの競争にさらされる事に。

    黒澤明は知らない間に「靴屋の原罪」問題に巻き込まれていた事に気付いてしまったのかもしれない。そう「用心棒(1961年)」で徹底的に揶揄され抜いた「(抗争によって死体が出るほど喜ぶ)棺桶屋」の存在。まぁこれは西部劇における「お約束キャラクター」なのだが、日系アメリカ人漫画家スタン坂井の描く「兎用心棒(Usagi Yojimbo)」では斬り合いの後の「Call Eta!!(穢多を呼べ!!)」が定型句となっており、その都度欄外に「Eta is body remover(穢多は死体処分担当)」という注釈がついているのである。

    兎用心棒 - Wikipedia

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  • それにしても製造しているのは女性靴なのに、こうした重要な経営判断の場に女性が参加してない辺り、皮肉が効いている。その一方でアメリカ文化に夢中の息子達は「保安官と悪党ごっこ」に夢中。これは勧善懲悪実現の為に「正義の味方」が「悪党」を一方的に叩き潰すという内容で、不公平にならない様に二人が役割を交代しながら行うというものだった。

    michael pitt

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    *ここには「ライバル意識からTVへの番組提供を拒み、かえって米国産ドラマにTV番組を独占されてしまった」日本映画界への皮肉も込められているのかもしれない。

  • たまたま悪党側に回った息子に金吾は「今度はお前が追われる番か? 追われる側に回ったからといって逃げてばかりいちゃ駄目だぞ。うまく待ち伏せして保安官なんてやっつけるんだ。男はなぁ、やっつけるか、やっつけられるかだ。さぁいけ、どっちも負けるな」と発破をかける。その光景を目の当たりにして呆然とした妻の伶子は「貴方だんだん酷くなるのね、お仕事のやり方。私、これ以上人を蹴落としてまで出世して頂かなくていいわ」。それに対して金吾はこう言い返す。女には分からん。俺は専務になりたい訳でも社長になりたい訳でもない。ただ理想の靴を作りたいだけなんだ」。そして全財産を賭けた一世一代の大博打に打って出た事を告白するのだった。まさしく伶子がぼやく通り「殿方は殺し合いの事ばかり考えている」世界。同席していた秘書がのちに裏切るのも「これはもうついていけない」と思ったからとも。
    *中国での泥沼状態の政争を目の当たりにした魯迅1881年〜1936年)は「奴隷と主人が役割交換するだけでは奴隷制度はなくせない」と嘆いた。この問題はウルトラ・フェミニズムとかラディカル・フェミニズムのジレンマとも関わってくる。
  • もしかした「叩き上げ」の金吾には「それ故に社長とウマがあって政略結婚によって大抜擢された」側面があり、その事に対するコンプレックスが「裕福な家庭で育ち、金銭や地位に執着しない」伶子との間に軋轢を生んだり、彼をさらなる権力闘争に向かわせているのかもしれない。まさにモーリス・ルブランに「成功後の悪夢」をもたらし、ダシール・ハメットを断筆に追い込んだ末に米国共産党に入れこませ、フランク・キャプラ監督を「社会派」に追い込み、レイモンド・チャンドラーが晩年に本気で取り組んだ「人間は成功してなおそれ以前の必死さを保てるか?」問題そのもの。

黒澤明監督は、前作「椿三十郎(1962年)」で国家老の奥方に「いけませんよ、すぐに人を斬るのは悪い癖です。…貴方はなんだかギラギラし過ぎていますね、抜き身みたいに。…貴方は鞘のない刀みたいな人…よく斬れます…でも本当にいい刀は鞘に入っているもんですよ」と言わせています。その都合上、この問題にはどうしても取り組まざるを得なかったのかもしれません。

*その情熱は英国作家ミッキー・スピレイン系のバイオレンス系ハードボイルド作品の作家として大成功を収めながらレイモンド・チャンドラーの未完の遺作「プードル・スプリングス物語(Poodle Springs、1989年)」完成に向かわせた心境とも重なってくる。
プードル・スプリングス物語 - Wikipedia

*そして1990年代に入るとその危惧感はハードボイルド小説ジャンルばかりか、TV系サイバーパンクやファンタジーといったジャンルまで覆い尽くす事になるのだった。

ところで、この物語の中で権藤金吾が直面した問題は製造業界そのものにとって他人事じゃありません。例えば「ソニー・タイマー(Sony Timer)」の話な訳ですから。

ソニータイマー - Wikipedia

日本の製造業はこの危機をどうやって乗り越えたのでしょうか? キーワードの一つとして浮上してくるのが「素材革命」なる言葉。確かに「丈夫さとコストのジレンマをどう解決するか?」という設問に対しする当時なりの回答はビニール素材とプラスティック素材の導入だったのかもしれません。特に玩具業界においては。

ブリキの玩具

日本国内ではブリキの板をロボットや自動車・鉄道車両(電車など)・船舶・航空機など乗り物のような形に成形・塗装した玩具を「ブリキのおもちゃ」と呼び、懐古趣味的に愛好する人々がいる。昭和初期~中期の生活史を懐かしむ文脈に、ブリキのおもちゃは現れる。19世紀から20世紀初頭にかけてドイツのメーカーが主戦場を築き上げたが、日本におけるブリキの玩具の登場は明治5年(1872年)~明治6年(1873年)頃とされる。このころ石油ランプの普及により大量の石油缶の空缶が廃棄されていたがこれに玩具業者が注目、再利用して玩具を製造したという。明治7-8年頃ブリキ板が輸入されるようになったが、高価なため古ブリキによる玩具の製造は日清戦争のころまでつづけられた。

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第一次世界大戦後、日本のメーカーが台頭して重要な輸出品になった。全盛期は戦後1950年代~1960年代(昭和20~30年代)で、その郷愁を意欲的に追求するために金銭と労力を投入してでもブリキのおもちゃを蒐集する愛好家も存在し、彼らの中で稀少価値の高い品が高値で売買されている。また戦後復興期においてブリキ製玩具の輸出は外貨獲得に貢献した。当時の玩具に錆びやすいブリキが使用されていた理由はコスト面だけでなく、主力産業へ優先して供給すべき伸銅製品の使用が玩具には制限されていた事も一因と思われる(玩具ではなく教材として販売する場合は伸銅の使用は認められていた)。

made in occupied Japan - Google 検索

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有名メーカーは下記。

  • アサヒ玩具…後にママレンジシリーズを発売後ブリキ玩具から撤退。

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  • バンダイ…後発だが赤箱シリーズの発売により台頭し、後に米国3大メーカーの一社TONKAと提携JAPAN TONKAを発売の後、キャラクター玩具中心となる。

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  • イチコー…最後までブリキにこだわり、子供服のMIKIHOUSEとのコラボでも活躍。

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  • 増田屋コーポレーション…ラジコン=ラジオコントロールを1955年に世界に先駆けて玩具に応用し、商標も保有。
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ブリキの玩具は資本投下も少なく、金型の製造以外は高度な技術や熟練した工程も少ない。そのため発展途上国が工業化・近代化を促す第一歩として最適な産業と言えよう。戦後日本の輸出を支えたのは燕の洋食器とブリキ玩具とも言われている。その後高度成長期において人件費の高騰によりプラスチックなど主に石油を原料とした作業工程も少なく、人件費のかからないものがブリキにかわり玩具の主流となっていった。

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昨今一部の蒐集家によりブリキの玩具は過去のものというイメージが強いが現在でも日本を始めとしてマニア向けの復刻版だけでなく、少数ではあるが幼児用の商品が生産されている。ただ、人件費の安い海外製のものも多くなっており、それらはST(玩具安全基準)を満たしていないものもあるので幼児に与えるには注意が必要と思われる。

そういえば日本はそもそも「蝋細工」の分野でも早くから頭角を現していました。

日本玩具業界における「ビニール革命」と「プラスティック革命」

アメリカン・ニューシネマ(New Hollywood)代表作の一つ「卒業(1967年)」ではダスティ・ホフマン演じる主人公が卒業パーティでプラスティック業界に誘われて「そんなの前途ある若者が生涯を賭して取り組むべき生業じゃない」と呟く。ところが実際にはむしろアメリカン・ニューシネマの方が70年代中盤に頭打ちとなってしまう。

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その一方で1960年代後半には、まず日本の玩具業界を「ビニール革命」が席巻。すなわち「第一次怪獣ブーム(1966年〜1968年)」に便乗したソフビ怪獣人形のブームとタカラのリカちゃん人形発売(1967年)が新時代到来を予測する形となった。

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  • 第一次怪獣ブーム(1966年〜1968年)…映画「ゴジラシリーズ」の生みの親である円谷英二が設立した「円谷特技プロダクション」が、TBSで「ウルトラQ(1966年)」を放映。これに虫プロアニメ第三弾「W3(原作1965年、アニメ版1965年〜1966年全52話)」が大敗したのを受けてフジテレビも特撮実写ドラマ「マグマ大使(1966年~1967年)」の製作を手掛け、その出来には原作者手塚治虫も相応の納得を示した。かくしてそれまで映画でしか見られなかった怪獣達が毎週テレビに登場する様になり、TBSの「ウルトラマン(1966年~1967年)」の放映によって、子供たちの間で「忍者ブーム」が終わって怪獣のソフビ人形が爆発的に売れる時代が到来したのである。しかし皮肉にも作品内容の子供向けシフト、少年探偵物同様の粗製濫造による品質低下を背景として日本の特撮業界は肝心の国際的競争力を喪失。ブーム終焉後に残ったのは何故か水木しげるの妖怪物や英国ハマープロといったカラー恐怖映画などで、ここから70年代オカルト・ブームが萌芽するのだった。

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  • リカちゃん人形発売(1967年)…1966年、元々ダッコちゃん等のビニール玩具のメーカーだったタカラ(旧タカラビニール - 1966年)は、そのビニール加工のノウハウを生かして着せ替え人形市場への参入を計画していた。当初は米マテル社のバービーや、米旧アイデアル社のタミー等の他社の着せ替え人形用の、子供が持ち運びできるドールハウスを企画していたが、既存の人形のサイズに合わせると、ハウス自体のサイズが相当大きくなることが予想され、これが日本の住宅事情や子供の持ち運びに適さないとして根本的に企画が見直され、日本の事情に見合った大きさのドールハウスと、それに合ったサイズの独自の着せ替え人形として1967年に企画・開発された。企画にあたり、日本の少女たちがより身近に感じられるようなファッションドールというテーマが掲げられ、小学生という設定と、小さな女の子の手の平の中に収まる身長21cmという大きさと、当時流行していた少女漫画のヒロインのような顔立ちが採用された。漫画家の牧美也子が発売当時の広告のイラストを担当し、広告には「牧先生監修」という表記がされていた。「リカちゃん」という名前は月刊少女漫画雑誌「りぼん」の1967年7月号誌上の一般公募で決定されたことになっているが、実際には発表号をずらして、読者でなくタカラ側が命名したものである。日本人でも外国人でも通用する名前をということでリカとなった。親しみやすい仕様が日本の子供に受け入れられた事と、マテル社が生産拠点を他国に移して日本でのバービーの販売に力を入れなくなったという市場の追い風を受け、発売から2年後の1969年には日本での売り上げでリカちゃんがバービーを上回った。その年の年末商戦でも他の人形を圧倒し、それ以降、事実上日本の着せ替え人形の女王として君臨しはじめる。因みに、それ以前に売上トップを飾った着せ替え人形は、中嶋製作所(現ナカジマコーポレーション)の「スカーレットちゃん」とアイデアル社の「タミーちゃん」だった。

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プラスティックという可塑性の極めて高い素材の登場は製造技術上の改革だけに終わらず、消費者の要求する「商品における解像度の様なもの」の水準そのものを引き上げ「鉄人28号のサイズなんてカットごとにまちまち」といった粗雑さを駆逐するに到ったのである。そして1970年代の終わりには「スターウォーズ(1977年)」や「未知との遭遇(1978年)」が到来し「人間対宇宙人」でなく「人間対人間」の戦争を描いた「機動戦士ガンダム(1979年)」が放映される。

http://st-mikan.tumblr.com/post/137399297106/もしもし私リカちゃん価値観過渡期の1960年代後半の日本においてバービー人形を手本としながら短軀

st-mikan.tumblr.com

トランジスターグラマー( transistor glamour)…身長は低いがグラマーな女性を表す1959年(昭和34年)の流行語。1955年(昭和30年)、日本初のトランジスタラジオ(東京通信工業(現:ソニー)・TR-52)の販売で発生したブームにより「小さくて高機能なトランジスタのように小柄で均整の取れた体つきの女性」を表現する言葉として誕生。ちなみにトランジスターの発明は1948年。発明者として名を連ねるウィリアム・ショックレー(William Shockley)、ジョン・ハーディーン(John Bardeen)、ウォルター・ブラッテン(Walter Brattain)の3人はのちにノーベル物理学賞を受賞している。

「総合模型メーカー」株式会社タミヤ(TAMIYA INC.)の歴史

旧社名は「株式会社田宮模型」。静岡県静岡市に本社を置く模型・プラモデルメーカー。世界有数の総合模型メーカーである。艦艇、飛行機、AFV(Armored Fighting Vehicle)、車などのプラモデル、ラジコン・ミニ四駆ダンガンレーサーといった可動模型、「楽しい工作シリーズ」といった工作用パーツ類・キット、プラバンなどの素材、塗料・エアブラシ・コンプレッサーなどの塗装道具と模型に関連する広範囲の商品を扱っている。「初心者にも分かりやすく作りやすい」をコンセプトに企画から金型製作、ボックスアートまで自社一貫体制で対応しており、日本国内では随一の開発力を持つ。

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①創業者である田宮義雄は、第二次世界大戦以前には運送業を営んでいたが、1945年6月の静岡大空襲で事業基盤の大半を焼失、戦後は製材業に転じ1946年に「田宮商事合資会社」を設立。翌1947年には木製木工部門を設立し主に船舶や飛行機の木製模型を手掛ける。

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②1951年に漏電が原因で火災が発生。会社社屋や在庫の木材等を焼失したため大きな借金を抱え、材木の仕入れにも支障をきたすようになって1953年には一般建築材の製材販売を廃し、模型専業メーカーとなる。しかし1950年代半ばから外国製プラスチックモデルが輸入され始め、木製模型の売上が減少。プラスチックモデル製造に傾注する事が1959年に決定され、翌1960年にタミヤのプラモデル第1作目として1/800スケールの戦艦大和が発売された(創業者田宮義雄の自伝にはタミヤ第一弾プラモデルは武蔵だったと記されているが「田宮模型全仕事」の編集中に大和が同社第一弾だった事が確認されている)。とはいえ同時期に栃木の模型メーカー・日本模型(略称ニチモ)も同型艦武蔵の1/750スケールキットを350円で発売しており、タミヤも赤字覚悟で同価格に設定したが、売上は届かず惨敗となった。金型製作費の回収ができなかった為に再び木製模型の商品化に戻ったが、その間にも当時の模型業界の流れはプラモデルへと推移。

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  • ロゴマークに表現された「精密さに掛ける情熱」タミヤがプラモデルを初めて発売するにあたって田宮俊作(義雄の子、後に社長。現会長)は、新しいマークを当時東京芸術大学デザイン科の学生だった弟の田宮督夫(まさお)に依頼。この時誕生したのが「星のマーク」であり、当初はマークの周りに英文があしらわれていたが、1960年代のスロットレーシングカー発売のときにデザインを変更、現在のものになった。左側の赤い星は「情熱」右側の青い星は「精密」を表している。アメリカ国籍のエコノミスト野村総合研究所研究創発センター主席研究員にしてチーフエコノミストリチャード・クーが「世界中どこに行っても、このマークが店頭に飾ってあれば、その店は模型店以外の何者でもない」「一企業のマークが業界全体を表すシンボルマークとなっており、このような例は他にない」と指摘している様に現在では日本に留まらず世界的に高い認知度を誇っている。

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③1960年代に入ると、ひょんな事からプラスチック玩具の不要になった金型を借り受けることができ、それを利用して発売したレーシングカーのミニ・キットが幸運にもヒットし、資金的に次のプラモデル製作の目処が立った。第2作目のプラモデルは形状が直線的で金型が作りやすいパンサー戦車に決定し、箱絵はイラストレータ小松崎茂に依頼された。1962年の正月に発売された同キットは、モーターを搭載し、よく走ること、組み立てやすく説明文が丁寧であることから好評となった。また1963年には傑作機シリーズ第一弾として「 1/50 零式艦上戦闘機52型」を発売。

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  • 「スケール感」…後に国際的にミリタリーミニチュアシリーズ(MM)のスケールモデルの定番となる1/35というスケールはこの時に生まれたのである。このサイズは戦車内部に単二形乾電池が2本収まることを考えた設計の為であり、当時は正確なスケールを求める模型ファンは少なくこのスケールは全く偶然の産物だったが、後にこれに合わせて1/35戦車シリーズが展開され一般化していく(当時このクラスの戦車模型に標準スケールは存在せず、日本国外のメーカーがそれぞれ1/32~1/40スケールでシリーズを展開していたが、やがてタミヤがシリーズ点数で圧倒的優位を誇る様になり、組み立てやすさと完成後の姿の良さ、そして部品精度の良さといった理由で好評を得るに従い、このスケールが世界でも受け入れられていった)。この時代流行していた手塚治虫鉄腕アトム(1951年〜1968年)」も横山光輝鉄人28号(1955年〜1964年)」もスケール感には無頓着。ある意味そういう「大雑把さ」が通用しなくなっていくのが1970年代ともいえる訳である。

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  • 「金型の自作」…現在では金型の精度が極めて高いことで知られ、その事が組み上げた際の仕上がり具合において他社製品に対する圧倒的優位となっている。例えば設計図と金型職人の職人芸によってプラモデルが製造されていた時代、他社製品が細部のボルトをリベットと同様に単なる半球の突起で表現していた頃、既にきちんと小さな六角柱で表現していた。しかし当時は金型を外注しており、他者同様に外注先の納期遅れや品質や価格設定の不透明さに苦労していたのである。この問題を解決する為に金型職人をスカウトし1964年に金型部が発足。1966年から社員数人を金型製造工場に出向させ、徐々にノウハウを蓄積し自社で金型製造を行うようになった(現在ではCAD/CAMシステムも導入)。

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  • 「ボックスアート」…初期のタミヤ製品(1961年 - 1967年)は外注で対応しており、主に小松崎茂高荷義之上田信、平野光一などが担当。商品イメージ・世界観を広げる「動きのある構図・絵物語風」な迫力のあるボックスアートが主流を占め、タミヤの商品イメージ向上に大いに貢献。ちなみにこれらの絵師は少年向け月刊誌の挿絵作家であると同時に1960年代後半から週刊少年漫画誌が仕掛けた「怪奇ブーム」の仕掛け人でもあった。

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  • 「ホワイトパッケージ」…1968年発売のスロットレーシングカーから背景を書かず商品だけを描いた白バック「ホワイトパッケージ」が登場。より精密に書き込まれたボックスアートへの路線変更が行われた。この試みは評判がよく、その後発売されるタミヤ製品は航空機・艦船模型など一部の模型を除きホワイトパッケージに切り替わっていく。初期のタミヤブランドイメージ作りに寄与した小松崎茂のボックスアートはこうしたボックスアート戦略の変更と当時の商品の絶版に伴い現在のタミヤ製品からは殆ど姿を消していく。さらには1970年代以降、欧米においてボックスアートの背景に描かれた「箱に入っていないアイテム」が「誇大広告」に該当する可能性があると問題になり始め、タミヤ製品も輸出に際して指摘を受け、一部戦車模型の背景のアイテムを加筆修正で消す処理が行われている。

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タミヤを特徴付ける「実写取材」が始まるのも1960年代まで遡る。

  • 「最初はAFV」…リアルな表現のための日本国外での実車取材は、1966年のアメリカ、メリーランド州アバディーン戦車博物館からスタート。軍事機密等のため撮影もスケッチも不許可で見るだけとなった取材の場合は、現場を出てすぐにスケッチを描き資料としている。この取材は、博物館の展示品や復元した物、ゲートガードに使用されている機材が中心となるため、微妙な個体差によりパッケージの物とキットが異なる(パッケージはXX戦線のAという車両だが、取材した車両を基にしたキットは○○戦線にしかいなかったA'という車両)場合がある。ちなみに冷戦時代には旧ソ連の戦車の取材は困難を極めたという。過去には旧ソ連製AFVの製品化の際に当時のソビエト大使館を訪れて取材を申し込んだところ、取材を断られた上に大使館を出たところで(日本の)警察の職務質問を受け、その後しばらく公安警察による監視・尾行が付いたこともある。そのため当時はソ連の戦車が取材できると聞くと世界中を飛び回ることが珍しくなく、第三次中東戦争直後にイスラエル軍が鹵獲した旧ソ連T-34-85型戦車を街頭展示していることを聞きつけてテルアビブに飛んだりしたこともあるという。博物館での実車取材の際には同時に寄付を行うことが多く、特に1990年にはイギリスのボービントン戦車博物館の新館建設に当たり2000万円を拠出したことから、新館には「タミヤホール」の名が付けられた。またアメリカ・スミソニアン博物館内の国立航空宇宙博物館にて行われていた、日本の水上攻撃機晴嵐の復元作業にも資金を提供している。1/16RC戦車レオパルト2A6は、実車の製造元であるクラウス・マッファイ・ヴェグマン社からのオファーで開発され、同社の協力により詳細な取材が行われた。各種サウンドに関してはエンジン音のみならず、砲塔旋回音、砲身俯仰の作動音、さらには主砲発射音、主砲同軸機銃発射音まで実車からのサンプリングが行われている。

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  • 「そしてスポーツカー」実車取材を元とする精密な再現で「技術のタミヤ」を印象付けた「1/12 ホンダF-1(1967年)」が最初の成功作となった。ポルシェ・934の模型化において、ポルシェのツッフェンハウゼン工場へ幾度も設計担当者を派遣し、それでも不明だった点はポルシェ・911実車を購入して完全に分解、元に戻せるわけもなくポルシェのディーラーの整備士に組み直してもらったというエピソードがある。このポルシェはその後1976年のF1日本GPの際に田宮俊作現会長がジョディ・シェクター夫妻を送迎するために使われたり、同社の滝文人がRCカーのイベントに参加する際に社用車代わりに使われたりもした。現在はタミヤ本社ロビーに展示されている。1960年代のホンダF1(RA273)を皮切りに数多くのF1マシンのプラモデル化を手がけてきた関係から、1991年には当時経営難に陥っていたチーム・ロータスのスポンサーになったこともある。また1976年のティレル・P34からは、F1マシンのモデル化に当たりロイヤルティーをチーム側に支払うようになっている。完成したモデルのクオリティの高さなどもあってF1チームとは概ね良好な関係を築いており、F1チームが機密保持に厳しくなった後も「模型メーカーで唯一タミヤだけはF1マシンの設計図面(CADデータ)を見せてもらえる」と評されるほどだったが、近年ではタミヤといえどチームからの設計図面の提供を受けられなくなり、報道写真等を元にしたモデル化を行わざるを得なくなっている。長期間F1マシンの新製品が発売されなかったことについて、チーム側からのロイヤルティー条件が厳しくなったため商売として成り立ちにくいからとしている。実際2003年5月にウィリアムズ・FW24の1/20モデルを発売して以降は過去に発売したキットの再発売が長らく続き、F1マシンの新製品は2009年12月発売のフェラーリ・F60まで約6年半もの間が空いている。

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  • 「近年の苦悩」…同様の問題は一部の航空機や軍用車両の模型でも発生しており、1/48のB-17は決定版と呼べるほどのキットを出せるだけの資料が集まっているが、ボーイングからのロイヤルティーの要求が厳しいため商品化できない、と、同社社長がイベントで吐露したり、1/48のジープを小型四輪駆動車の名称でフィギュアセットのおまけとして出荷するなど、金銭が絡む問題での商品化の見送りや、単品販売を断念せざるを得ない例が増えている。

⑤ディスプレイ専用のMMシリーズは、当初は1/35戦車シリーズに添えるアクセサリーとして兵士や砲、小型車両のキットを出すだけのものだったが、モーターライズせずにディスプレイ専用に組み立てる方が戦車模型趣味の主流となるにつれ、通常の戦車もこちらのシリーズで発売されることになった。しかしその後もしばらくは、MMシリーズで出る戦車と1/35戦車シリーズで出る戦車は基本的に同一キットで、単にギアボックス等のパーツが同梱されているか否かの差であることが多かった。ただし、モーターライズを前提に設計されていながら、MMシリーズで発売されたのみで戦車シリーズでは出されなかったキットもある。戦車キットに限らず、製品によっては完成後の見栄えを良くするためのデフォルメも加えられている。2004年からは新たに1/48スケールのシリーズを開始、大戦物アイテムをリリースしている。2000年代に入ってタイガーI初期型から始まる1/16フルオペレーションRC戦車シリーズをラインナップ。1/16ビッグタンクシリーズと金型を共有してはいるがキットサイズが大きい事もあって、プロポーションを崩すことなくRCメカを組み込むことに成功している。また同シリーズは見た目と同時に音、動き、発光にもリアルさを求めており、エンジン音等現存する実車からサンプリングされている。大戦中のドイツ戦車はすべてフランスのソミュール戦車博物館に現存するキングタイガーからサンプリングされたエンジン音を共用している。また静岡模型教材協同組合に属するタミヤアオシマ、ハセガワのメーカー3社が分担して開発を行い、殆どのボックスアートを艦船に造詣の深い上田毅八郎が手がけたウォーターラインシリーズでも1/700という小さな製品ながらタミヤの技術力は遺憾なく発揮された。

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  • 「模型塗料」…1970年代初めからアメリカのパクトラ社と提携し、同社の模型用エナメル塗料をパクトラタミヤとして国内販売していたが、1984年に提携を解消した後は国産のエナメル塗料をタミヤカラーとして引き続き販売している。また、1981年には水溶性のアクリル塗料を発売。これらはパクトラタミヤの色番号を継承しており、航空機、艦船、軍用車両等の専用色が充実している。さらに、ラッカー系のスプレー塗料や、ラジコンカーのボディ等のポリカーボネート用の塗料も発売されており、ビン入りのラッカー系を除き、模型用塗料のほぼ全てのタイプが揃えられている。

    http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-25-5a/bakatareken72/folder/880656/46/9020746/img_1?1266652923

  • 「自社製品に関する情報誌」…「タミヤニュース」を月1回発行。1967年創刊で当初は隔月刊で、臨時増刊号も発行された。長らく一部50円で、のちに100円に値上げされた。独特の細長い判型は、定形郵便物として発送するために封筒に合わせたものである。新製品、模型店、模型クラブの紹介記事のほか、模型改造の記事、有名・無名の模型愛好家の記事などがある。姉妹誌として、ミニ四駆ダンガンレーサーの記事を中心に扱うフリーペーパーの「タミヤ・ジュニアニュース」がある。かつては模型店で20円で販売されていたが、現在はタミヤのサイトからPDF形式ファイルでダウンロード可能である。その他、模型に関連する刊行物として、自社で行った人形改造コンテスト、情景写真コンテストなどの結果発表用の冊子を発行している。

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  • 「モデルショップ」…模型文化の発信と新たな客層の開拓のため、自社ブランド製品の専売店舗「タミヤプラモデルファクトリー」の店舗プロデュースを手掛けている。2008年に神奈川県横浜市トレッサ横浜店と東京都港区の新橋店の2店舗を開業。トレッサ横浜店では企画協力にセガ、店舗の開発・運営に今関商会が携わり、新橋店では店舗の開発・運営に子会社の「タミヤプラモデルファクトリー株式会社」が携わる。

    http://toy.hobidas.com/blog/team/090325-TPF-Shinbashi-night-thumb.JPG

⑥1974年には電動RC(ラジオコントロール)モデルの第一弾としてM4シャーマン戦車を発売しラジコン市場に参入。当初はドイツのマンモス戦車・マウスをRC化する予定だったが、「マウスよりもシャーマンの方がRCに向いている」という同社の滝文人の進言によりシャーマンに変更されたという。そして1976年には電動RCカーの第一弾として「ポルシェ934ターボRSR」のシャーシキットを発売したところ、これが高価ながら初年度に約10万台を売り上げる大ヒットとなる。機構的にはシンプルなオンロード車でありながらベースとなったのが高度に細かく模型化されていたシリーズだった事が高評価につながり、走行させるために必要なRC装置も同様に売れた事でジャンル成立の下地が出来上がった。以後タミヤでは継続してRCカーをリリースし続け、登場してから30年以上を経た現在では日本国内・国外RC市場で販売され、現在のタミヤの成長を支える大きな収益源の一つにまで成長した。国内外で高いシェアを持つ為、RCカー競技のレギュレーションはタミヤの製品が基準となることが多々あり、RS540サイズモーター、1/12オンロードカー、1/10ツーリングカー等がそれに該当する。日本国内のストックモーターのレギュレーションにおける巻き数23T・メタル軸受けという基準も、タミヤスポーツチューンモーターのスペックを基準にしている。これまで発売されてきたRCカーで培った技術、経験を生かした「RCカー30周年」を記念したモデルを2006年12月に限定発売した。タミヤラジコン開発史の1ページを飾った「ポルシェターボRSR934レーシング」を現在のタミヤ技術を集めたフラッグシップモデルとして新規に開発。かつてRCヨットやRCモーターグライダーをリリースしていた時期があったが、基本的には地上RCのみラインナップを揃えており、航空機や船舶のRCモデルは現時点では存在しない。一方、1/16フルオペレーションRC戦車、1/35RC戦車のラインナップが充実している。タミヤ製RCカーは電動式が圧倒的に多く、エンジンカーは1/10ナイトロフォースやXB-Gシリーズがあり、かつては1/8スケールもあった。1990年代にはイタリアBMT社のGPレーシングカーの輸入代理店業務を行っていたが、BMT社の業績悪化などから現在では輸入されていない。なお、RCカーの世界では京商とは常にライバル関係にあり、京商ミニッツシリーズに対してはタムテックギアで対抗している。こちらは田宮模型時代の過去モデルを小型化したボディが採用されることが多く、過去これらで遊んでいたファンが所有することが多い。近年では1980年代に一世を風靡したホーネットやグラスホッパーマイティフロッグ、ホットショットが再発売された。

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  • 「ラジコン」…その呼称自体は(実際上はおおむね商標の普通名称化が起きてはいるとはいえ)今なお株式会社増田屋コーポレーションが商標権を持っており、おもちゃその他の区分で商標登録もされている(日本:第482788号)。一般の愛好者の人々が日常的に言葉をどう使うかまでは実際上はなかなか規制できない(それによって、商標の普通名称化という現象が起きる)ものの、他のメーカーが商業的に使えるかという次元では、やはりきっちり法律を守らなければならず、結果として他メーカーはカタカナ4文字の「ラジコン」という言葉を自社製品に関して使用することはできないので、例えばタミヤは「RCモデル」、京商は「R/Cモデル」と表現している。なお、NHKは特定の民間企業の商品や商標の宣伝はしてはいけない、という内部規定を持っているので、商標である「ラジコン」という言葉は避け「無線操縦」「ラジオ コントロール」などと表現している。

  • 「無線操縦船舶に始まる黎明期の歴史」…基本的な送受信機はデイビッド・エドワード・ヒューズが火花送信機(1878年)、オリバー・ロッジがコヒーラ検波器(1894年)を開発する事で出揃った(1890年のロンドンを舞台とする英米合作映画「シャーロック・ホームズ(2006年)」にも重要なアイテムとして登場)。古くは1898年にマディソン・スクエア・ガーデンニコラ・テスラが小型の無線操縦の船を実演した記録があり、興行師的センスも備えていたテスラは観客に、あたかも観客からの指示に従って航行するかのような演出をしたが、実際にはテスラによって船内に設置された受信機を介して制御されていた。12歳の時にトーマス・エジソンの見習いになった「無線操縦の父」John Hays Hammond Jrはテスラの親友でもあり彼との交流を通して多くの事を学んだ。テスラは1898年7月1日にこの発明の特許を取得。そして1903年にはスペインの技術者レオナルド・トーレス・ケベードが"Telekino"をパリ科学アカデミーで実演しフランス、スペイン、イギリス、アメリカにおいて特許を取得した。 1904年にはBatというWindermereの蒸気船が実験的な無線操縦装置を備え発明家Jack Kitchenによって操縦されている。

  • 「軍事応用の開始」…1909年にフランスの発明家Gabetが"Torpille Radio-Automatique"と称される無線操縦式魚雷を実演。 1917年にイギリス陸軍航空隊の実験部のアーチボルド・ロウが航空機の無線操縦飛行を成功させた最初の人物になった。1920年代に多様な無線操縦船舶が海軍の標的実習に使用されている。1922年にはアメリカ海軍の戦艦アイオワが無線操縦装置を備えた最初の標的艦になった。無線技術者のJohn Hays Hammond, Jr.によって開発された無線操縦装置が設置され、1923年3月の射撃演習によって沈むまで使用されている。そして1930年代に入ると冬戦争や第二次世界大戦初期にソ連赤軍が対フィンランド戦でテレタンクと呼ばれる無線制御の無人戦車を投入。テレタンクは500–1,500mの距離から操縦でき2人のテレメカニカルグループによって操縦された。同様に遠隔操作式切断装置や実験的遠隔操作飛行機が赤軍に存在している。同時期のイギリスも無線操縦式のタイガーモスであるQueen Beeを艦隊の射撃訓練のために開発。後により高性能な標的機Queen Waspに置き換えられた。ドイツ軍も大戦中に無線誘導弾フリッツXやヘンシェル Hs 293、フンクレンクパンツァー無線誘導戦車を実戦に投入。フリッツXはイタリアの戦艦「ローマ」を撃沈するなどの戦果を上げた。日本でも無線操縦式の魚雷「無敵魚雷」の実験から、1937年に無線操縦の標的艦に改造された「攝津」が実際に運用されたり、1930年に日比谷公園で無線操縦戦車の長山号の公開実験がおこなわれた記録があり、1944年にはイ号一型乙無線誘導弾、イ号一型甲無線誘導弾も開発された。同時期には趣味の分野での無線操縦装置として1937年、朝日屋から出版されていた科学雑誌「科学と模型」誌に工作少年を対象に火花送信機とコヒーラ検波器を使用した科学模型の製作記事が掲載されている。戦後こうした技術が波及し現在に至るのである。1940年代から小型のニトロメタン燃料のエンジン(グロー・エンジン)が市販されるようになったのがその端緒となったとも。

  • 「ホビー用ラジコンの登場」…増田屋斎藤貿易(現在の増田屋コーポレーション)が1955年に世界初の無線操縦型玩具としてラジコンバスを発売。当時、高価だったトランジスタ真空管を使用せず火花送信機とコヒーラ検波器を使用し、立て続けに無線操縦できるセダン型自動車や戦車の玩具も商品化している。当時の所得水準から判断すると高価で主に輸出され、外貨獲得に貢献。日本国内での電波法の認可は順調に取れたが、米国では認可に時間がかかり、翌年の夏に発売されている。ソニーの創業者達も分解してその構造に驚いたという。また増田屋は他に、専用の笛から出る音で操縦するソニコンも製造した。ラジコン、ソニコンはそれぞれ当時、同社の主力製品だったブリキ製のバスや自動車、ロボット、戦車等に搭載された。そして1960年代中頃にはイタリアのRoggio EmiliaのEl-Gi (Electronica-Giocattoli) 社製品が出現。最初は1/12縮尺のフェラーリ250LM車で、イギリスでは1966年12月にロンドンで「Motor Books and Accessories」輸入のものが、1967年初めにはスワンシーのAtkin's 模型店経由のものが購入できた。またEl-Gi社は1967年初頭のミラノ・トイ・フェアに、1/10縮尺のフェラーリP4車を出品。また1968年後半にはイギリス・レスターのMardave社がグロー・エンジンを登載したRC車の商業生産に成功。1970年には一部地域で販売された。1970年代にはアメリカの小企業も参入。これらは元はスロット・レーシング車のメーカーで、それが衰退したのでRC車の分野に鞍替えしたものでAssociated Electrics,Thorp,Dynamic,Taurus,Delta,Scorpionの各社があった。このグループの初期のキットは、1/8縮尺のニトロ燃料車(当時は「ガス」と呼ばれた)で、アルミ・パン構造であった。エンジンは0.21立方インチ以下で、K&B、Veco、McCoyが多かった。ボディーはポリカーボネート製で、Lexan社の製品が多かった。この種のRC車の競走を初めて組織・裁定した団体は、Remotely Operated Auto Racers (ROAR) である。1973年から1974年にかけて、ワシントン州のJerobee社がCox049エンジンを使った1/12縮尺のニトロ燃料車を製造。この車のために、後発メーカーがLexanの透明ボディー、ヒートシンク、大容量の燃料タンクなどの付属部品を製造・供給した。1976年から1977年にかけてはAssociated Electrics社がRC12Eを発売し、1/12縮尺車の電動レースを始め、Jerobee社もJomac社となり独自の電動車キットを製造した。1970年代末になると、1/12縮尺の電動車レースの人気が1/8縮尺燃料車同様に高くなったが当時は競技クラスが1つだけであったので、冬の競技シーズンを通して異質な両車が混走せざるを得なかった。そのために「ウインター・ナショナル・シリーズ」が発足成長し、自作車が多数登場してくる。

  • 「オフロードカーという新機軸」…1976年に精密な外観を持つプラモデルをベースとしたキットでRCカーに参入したタミヤは、続いてもっと機能的なRCカーに着手。本格的なサスペンションの付いた最初の電動オフロード車「コンバットバギー」を販売した。RCカーの新分野であるオフロードへの進出の始まりで、RCカーは舗装路面でなくても走れるようになり、ファンの人口を急増させることになる。タミヤ最初の本格的オフロード車は1979年発売の、バギーチャンプとワーゲンオフローダーで、レーシングデューンバギーの形を正確に再現している。タミヤは、実車のように機能するサスペンション、強力なモーター、トレッドパターンの付いたオフロードタイヤなどを装備した、デューンバギー系の各種のオフロード車ラインナップを増やしていった。さらに、実物通りの3速ギヤ、リーフ・スプリング・サスペンションを装備したトヨタ・ハイラックスも生産。これらの車は、実物感、耐久性、簡単な組み立て、改造や修理が容易などの特徴があり、1980年代前半に広く普及してブームを作り、現在のRCカー市場の基礎を基礎付ける。大量に売れたタミヤ車の中にはデューンバギー系のグラスホッパーやホーネット、巨大トラックのブラックフットやクラッドバスターがある。タミヤの初期のRC車は、クラシックRC車の収集家の間では高い人気があり、未組立状態の美品は30万円以上の高価格で取引されることも珍しくない。このような人気に応えて、タミヤは2005年以降に多少の変更点のある復刻版を出している。一方、イギリスのSchumacher Racing社が1980年に初めて、多くの路面状況に対応できるLSD効果のある調整式のボール式差動装置を開発。当時は、大部分のオンロード車の駆動軸は差動装置が付かない固定式であり、オフロード車はLSD効果の無い歯車式の差動装置を使っていた。Associated Electrics社は、1984年にRC10レーシングバギーに追随し採用している。そして1991年にはタミヤがオフロードバギーを基に、実車に近い縦横比のボディ・リアルなゴムタイヤ・4輪独立サスペンションを装備したオンロード車「ニッサン スカイラインGT-Rニスモ (TA01)」を発売。当時のオンロード車は競技志向が強く空気力学的に有利になるような実車とはかけ離れた形のボディ、軽量且つ効率を高めるための簡素な構造のサスペンションが主流だったが、実車の雰囲気を良くあらわしている当製品は画期的だった。後に他社からも同様な構成の製品が多数発売され、バギーブーム以来のRCカーブームが訪れる。4輪独立サスペンションを採用し、リアルなボディ、ゴムタイヤを用いるオンロードカーは、ツーリングカーという新たなジャンルを確立し世界選手権も行われるようになった。

こうして世界にその名を知られた「総合模型メーカー」タミヤはそのブランド性を確立していくに至ったのだった。

 1970年代のミリタリー・ブーム

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1970年代に入るとプラモデル業界では第二次大戦中のミリタリーと航空機のブームが起こる。また71年にはウォーターラインシリーズも開始。もちろんそれまでも戦車や戦闘機のプラモデルはあったのだが、71年ごろから特にミリタリー分野ではジオラマが流行。小さな頃から動力付きのプラモに慣れ親しんできた50~60年代生まれの少年達は成長し、動きよりもリアリティを重視するようになったのである。

タミヤ「1/35ミリタリーミニチュア(MM)シリーズ」

当初、「1/35戦車シリーズ」(走行可能なモーターライズキット)のアクセサリー的な物としてスタートした。シリーズNo.1の「ドイツ戦車兵セット」は1968年9月に発売され、以降No.3の「シュビムワーゲン」がソフトスキン(非装甲車両)として初めてシリーズに加わると大きな反響を呼び、No.9ではモーターライズ機構を除いて代わりに歩兵フィギュアを追加した「ドイツII号戦車」が発売され、それまでの動かして楽しむという戦車模型の概念に一石を投じ、ディスプレイという新たな楽しみ方を確立する。その後も同様にモーターライズ機構を廃したりフィギュアをセットする他、最初からディスプレイ専用に設計されたシャーシ部品の戦車や戦闘車輌、大砲のキットも次々と加わり、シリーズを固めていった。

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①アニメーター及びキャラクターデザイナーとして有名な大塚康生東映動画アニメーター第一期生)は、田宮模型初代社長である田宮義雄の息子の一人が東映動画に勤務している縁から田宮模型のジープ型ラジコンカー『ワイルドウィリス』のデザインを手がけたり、ミリタリーミニチュアシリーズで、兵士フィギュアのポーズ監修を担当したり、ミニ四駆のボディを実車をデフォルメしたものにするようにアドバイスを与えたりしている。

②1972年にはシリーズNo.17「88ミリ砲Flak36/37」を発売し精密感、ボリュームと組み易さで他社のミリタリーモデルとは一線を画す様になり、またフィギュアの出来も向上した。以後も続々と新製品が発売されるが、ベトナム戦争が終結し、ミリタリーモデルを楽しんでいた中心世代が進学・就職・結婚など人生の転機を迎える'80年代にさしかかり、またスーパーカーブームやアニメブーム等におされシリーズの展開は次第に鈍化していき「ミリタリー冬の時代」と呼ばれる時期に入ってしまった。

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③やがて、市場調査を兼ねた限定生産品などを発売し、ミリタリーモデルの需要が見込まれると判断したタミヤは1989年12月、No.146「タイガーI後期生産型」を発売した。このキットは、それまでのMMシリーズの戦車キットの金型の多くがモーターライズキットの物を兼ねるという制約から、スケールや精密感が一部スポイルされていたのに対し、実車に対し忠実かつ精密かつ組み立て易く設計されていた。履帯もそれまでモーターライズ兼用のポリプロピレン製の物だったのが、本作で初めてプラ製の組立式が採用された。ただし、組み立て式履帯は初心者向きではなかったため、後の新パンサー、新キングタイガーではこれを別売りにしている。また従来のベルト式も、新製品では材質が変更され接着や塗装が可能になっている。ただし、この新素材には従来品より劣化が激しく、数年でクッキー菓子の様にボロボロに割れるという従来品ではなかった現象が確認されている(2007年以降発売されたヘッツァー駆逐戦車やJS-2重戦車などではベルト式と部分連結式の双方が同梱されている)。 タイガーI以降のシリーズは俗にそれまでのシリーズに対し「新MMシリーズ」等と呼ばれ、それまで諸般の事情で模型製作から遠ざかっていた人が再び模型製作を再開する、いわゆる「出戻りモデラー」を生み出す一助になった。現在では、精密感や組易さを改善したドラゴンの製品や、AFVクラブ、トランペッター等の中国や台湾を拠点とするメーカーとの競合が激しくなっている。

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  • かつての1/35戦車シリーズの中には、電動モーターによる走行を前提として設計していたため、電池やギアボックスの収納の関係で実際は1/32相当のもの(M4A3E8やM36、M10等)も含まれており、これらは一部を除いてMMシリーズには加えられていない。ただし近年、モーターライズ機構を廃した限定販売キットとして(MMとしてではなく)発売されることがある。 しばしばレギュラー商品の生産が一時中断されるが、そういった物に関してはスポット生産による再版で対応されている。非常に入手困難な物が手に入るようになるため多くのモデラーから概ね歓迎されてはいるが、消費者からのリクエストに応える類のものではないため、時として限定商品なども再版されてしまうため必ずしも消費者のニーズにあったものではない。そういった再版体勢に対しての苦言を2ちゃんねるなどの匿名掲示板や個人ウェブサイト、MIXIなどのSNSやその他のユーザー間の交流を通して多く聞くことができることも事実である。

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④近年は、サードパーティ製オプションパーツ(エッチングパーツや金属製キャタピラなど)を同梱したパッケージや、フィリピン工場で製作された塗装済み完成品も発売されている。それに加えて「ガルパン特需」という追い風もあった。

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 ウォーターラインシリーズ(WATER LINE SERIES)

ウォーターラインとは喫水線の事。シリーズ名が示すように、艦船の喫水線より下を省略し、水面より上のみをプラモデル化しており、水面に浮かんでいる姿を手軽に再現できるのが特徴である。1/700という小さなプラモデルシリーズであるが、静岡模型教材協同組合に属するタミヤアオシマ、ハセガワのメーカー3社が分担して開発を行っており、殆どのボックスアートを艦船に造詣の深い上田毅八郎が手がけている。

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田宮模型(現タミヤ)社長の田宮俊作が提案し、1971年より静岡に本社がある静岡模型教材協同組合に属する青島文化教材社田宮模型長谷川製作所フジミ模型の4社の合同企画としてスタートした。シリーズ開始に当たって、各社が担当する艦はくじ引きで公平に決められたが、大和型戦艦に関しては提案者特権でタミヤが担当したことを暗に匂わせる発言を田宮俊作がしている。

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  • 当時艦船模型に国際的な標準スケールは存在せず、本シリーズの充実によって1/700が事実上の国際標準スケールとなった。小さいことから企画開始当初は比較的安価な価格帯で、シリーズ開始当初の1971~72年の価格は駆逐艦100円、重巡250円、戦艦・空母400~600円だった。オイルショック後の1980年代中盤~後半には駆逐艦・潜水艦および輸送艦250円、巡洋艦500円、護衛空母・客船650円、戦艦・空母750円だった。その後原材料の高騰などにより価格は更に上昇し、2013年現在では駆逐艦が1000円前後、空母などでは3000円台の商品もある。部品点数は大きさの割りに多く、また細かい部品も多い事から組み立て難度は高く、ピンセットと爪楊枝(接着剤を部品に付ける際に利用される)を使って組み立てる。また近年は別売りのエッチングパーツを利用した細密工作も行われている。下は小学校高学年から、上は社会人や高齢者の趣味として利用され、また実史に基くジオラマ作成にも用いられ、博物館などに収められているものも見られる。
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  • 重巡を皮切りに、戦艦、空母、駆逐艦軽巡、潜水艦と旧日本海軍艦艇の製品化を積極的に進め、1973年には駆逐艦以上については改装空母軽巡の一部を除いて太平洋戦争に参加した殆どのタイプの製品化を終えたため、1974年からは外国艦へと移行したが外国艦は期待したほどの売り上げを上げられず、米、英、独の主要な戦艦と空母を製品化したのみで、1976年ごろにはシリーズは事実上の休止状態となった。1979年5月の静岡プラスチックモデル見本市では、シリーズの再出発を図るべくタミヤから空母ミッドウェイ、特設潜水母艦靖国丸、一等/二等輸送艦、ハセガワから原子力空母エンタープライズ工作艦明石、病院船氷川丸、フジミから原子力空母ニミッツ給糧艦伊良湖軽巡大淀、青島から空母キエフミンスク潜水母艦長鯨/迅鯨、水上機母艦千歳/千代田等、現用空母と補助艦艇を中心とした多くの艦が企画中として公表されたが、実際に発売されたのはその半数程度であり、この計画は尻すぼみに終わった。1980年代に入ると、前半には散発的に10点ほどの新製品が発売されたが、後半には全く新製品は発売されなくなった。MMシリーズを衰退させた「冬の時代」はウォーターラインシリーズをも容赦なく襲ったのである。
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  • 1992年にフジミ模型静岡模型教材協同組合から脱退し、自社担当分のキットもウォーターラインから引き揚げてシーウェイモデルシリーズという名称に変更した。残る3社はフジミ担当分の欠落を補う目的で新製品の発売を再開し、旧製品についても新たに開発した兵装等の共通部品をセットしてリニューアルを行った。フジミ担当分のリメイクは概ね好評を以て迎えられ、潜在需要を掘り起こす結果を生み、フジミ分の補完が一段落した後も、初期に発売された自社製品のリメイクや海上自衛隊艦艇などの発売を続けている。

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②2000年代後半以降は、タミヤとハセガワの製品開発が低調になる中で、青島がシーウェイモデルシリーズやピットロードのスカイウェーブシリーズに対抗する形で、また近年では間宮のように艦これが商品化の追い風になるケースもありリメイクやリテイクを含めた新製品開発を活発に行い、本シリーズのけん引役となっている。

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2013年より一部の艦について、ブラウザゲーム艦隊これくしょん -艦これ-』に登場する「艦娘」を描いたパッケージを使用し、「艦娘」のカードやシール、エッチングプレートなどを追加したバージョンがアオシマから発売されている。入っている艦はその艦娘の元ネタであり、艦によってはタミヤ製、ハセガワ製の場合もあるが、あくまでアオシマ製品の扱いであり、パッケージには問い合わせ先がアオシマである旨の注意書きがある。なお、アオシマ以外の製造メーカーもパッケージにコラボ製品と銘打って明記されている。元来アオシマ製のものについては専用デザインのパッケージとなっているのに対し、他2社の製品を流用したものはウォーターラインシリーズのそれを専用スリーブに入れたのみで、横から見ると艦これロゴステッカーが追加された以外は通常商品そのままの外見である。

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1970年代におけるバンダイ・タカラ=アオシマ紛争

これタカラ側やアオシマ側が今日なお敗北を認めてないせいで、世論的には一応「まだ決着が突いてない」扱いとなっている。

バンダイ側の歴史観

1969年にイマイが倒産するとバンダイが工場及び一部の金型等を引き取った。その結果、大阪万博(1970年)のロボット人気にあやかる形でスーパーロボット大戦の先駆ともいうべきロボット軍団シリーズが発売された。

キャラクターミニカー秘密基地 バンダイ最初のロボット軍団

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バンダイ模型は原則として初期から「プラモデルはオモチャではない」「精密なスケールモデルこそ模型の王道」といった意識が強く、「撮影用小道具」という「実物」が存在した1971年から1972年にかけての第二次怪獣ブームから変身ブームでその理念を実践。しかしその一方で1973年から取り組んだ巨大ロボットのプラモデルではオリジナル形状を保つ事よりイマイの歩行ギミックの流用が優先された。 

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その隙を突いて躍進したのが同じバンダイから独立したポピーで、より「リアルさ」「大きさ」「重さ」といった付加価値を追求した「超合金」と「ジャンボマシンダー」というヒット商品である。

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こうした動きに対抗すべくバンダイ模型は、ライバル企業タカラの変身サイボーグやミクロマンの成功を参考に1975年からジョイントモデルの販売を開始した。

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ところで1970年代には進学率の急増が「余暇を有意義に使いたがってる中高生」という新市場を台頭させる。そして1950年代~1960年代に生まれ、走行ギミック付きの玩具で遊んできた世代は1970年代に入るとミリタリー・ジオラマやウォーターライン軍艦の陳列に目覚めた男子は、同様のクオリティをアニメ関連グッズにも求める様になっていく。この波に乗ってバンダイ宇宙戦艦ヤマトガンダム関連のプラモデルを売りまくり、経営危機を脱したのだった。

タカラ・アオシマ側の歴史観

子供たちにプラモデルで遊んで楽しんでもらう事を主眼に置くなら、作品世界を忠実に再現しようとするスケールモデルの世界だけが正解とは限らない。

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①タカラは画期的な玩具ありきで企画を進め漫画連載やアニメ化を追随させる技法で「鋼鉄ジーグ」「トランスフォーマー」「ビーダマン」「ミクロマン」「ベイブレード」などを成功させてきた。その嚆矢となった「鋼鉄ジーグ(1975年~1976年)」も「マグネモ」という自由にポーズがつけられる関節機構のフィギュアの量産見込みが立ったからこそスタートし得た企画であり(「鋼鉄ジーグ」の世界設定を担当した)ダイナミックプロや(「ゴワッパー5(1976年)」の世界設定を担当した)タツノコプロはあくまでライセンシーでなくライセンサーに過ぎないと考える。

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アオシマも初期ウォーターラインシリーズでの考証不足や金型製造技術の低さ、人気TV作品に登場するメカによく似た製品の投入、オリジナル作品の設定からは考えられない分割を特徴とする「合体」シリーズの存在によって同業他社より低く見られがちだが、例えば「合体」シリーズひとつとっても「(タカラのマグネモシリーズなどにも共通する)余った部品を組み合わせて自分だけのメカを作る有形ブロック遊び」などを創造してきたといえる。

タカラ「マグネモ」シリーズ(1975年〜1978年)の興亡

ライバル商品である超合金や他社の合金商品のようにダイカストは使用していなかったが、磁石の球体関節により可動範囲が広く、またシリーズ商品であればタカラのオリジナル商品「ミクロマン」など別作品のキャラクターとも互換性があるため自由度の高いパーツチェンジを楽しめることから人気を博した 。売上げはポピーの「超合金」マジンガーシリーズを上回るほどで、視聴率的に恵まれたとは言えなかった本作が、一部路線変更の上続いたのは、玩具の売り上げ実績の優秀さに起因している。ジーグのマグネモは特に人気が高く、1998年にはコレクター向けに「鋼鉄ジーグ」「パーンサロイド」の復刻版が発売された。バリエーションとしてジーグの「クリアバージョン」および「ブラックバージョン」も後に発売されている。司馬宙を演じた古谷徹も、再発売されたマグネモ・ジーグを購入したという。

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①「鋼鉄ジーグ(1975年~1976年)」…1975年(昭和50年)10月5日から1976年(昭和51年)8月29日までNET(現:テレビ朝日)系で毎週日曜日18時00分から18時25分に全46話が放送された、原作:永井豪・安田達矢とダイナミック企画、製作:東映動画によるロボットアニメ、および作品内に登場する架空のロボットの名称。

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  • サイボーグ化した主人公が変形した頭部パーツに、磁石の力で体の各種パーツが合体して巨大ロボット化するというコンセプトが特徴的。

  • 2007年4月5日よりWOWOWで放送された『鋼鉄神ジーグ』はテレビアニメーションではなく、コミック(安田達矢版)の続編にあたる(ただし安田自身は『鋼鉄神〜』には参加していない)。

  • 玩具メーカーのタカラ(現タカラトミー)が、磁石を使った合体ロボット「マグネモ」の企画を、講談社の児童向け雑誌『テレビマガジン』編集部に持ち込んだところ、ダイナミック企画を紹介され、永井豪と安田達矢を中心にロボットがデザインされた。安田は、当時アシスタントとしてのキャリアは2年少々であったが、ライオンをモチーフにした印象的な顔のデザインが採用され、そのままマンガ作品を『テレビマガジン』にデビュー連載することとなる。マンガ連載と合わせて、ジーグの玩具も誌上で推す形で好調なスタートを切る。さらにダイナミック企画と当時蜜月の関係であった東映動画への企画プレゼンテーションが行われ、アニメ化が決定された。

  • この時期、東映動画で制作体制の再編成が行われ、本作と同日(1975年10月5日)に放送をスタートした『UFOロボ グレンダイザー』を『ゲッターロボG』のスタッフが制作することになり、それまで「マジンガー」シリーズを手がけていたスタッフが『ジーグ』の制作に移動した。

  • この時期、東映動画で制作体制の再編成が行われ、横山賢二プロデューサー率いる『マジンガー』系列のスタッフが本作を、勝田稔男プロデューサー率いる『ゲッターロボ』のスタッフが『UFOロボ グレンダイザー』を担当した。そのため、『グレートマジンガー』の戦闘を重視したハードな空気は本作に受け継がれている。また、宙のサイボーグとしての宿命や敵側の悲劇など、ストーリーもかなり過酷かつ壮烈なものだった。

  • 本作の立ち上げに際し、タカラは「鋼鉄ジーグ事業部」を設立、強い意気込みで制作に臨んだ。従来の東映動画-ダイナミック企画作品『デビルマン』や『マジンガーZ』などと異なり、玩具とマンガ連載ありきでアニメ化が後に続く手法は、後年の『トランスフォーマー』『ビーダマン』『ミクロマン』『ベイブレード』などでも用いられ、『タカラの山』(ISBN 4-02-257797-5)はこれを「タカラ的な手法」としている。

  • 玩具はタカラから「マグネモシリーズ」として、ポピー(現:バンダイ)の超合金シリーズに対抗する商品として発売された。レギュラーサイズで発売されたのは「鋼鉄ジーグ」(マッハドリル付)、「ビッグシューター」、「パーンサロイド」(鋼鉄ジーグと合体可)に留まり、他の形態は一回り小さい商品でスタンダードとして発売された。「メカドン」に関しては2号のみ玩具化されている。

  • 『ジーグ』の後番組もマグネモシリーズをもとにした『マグネロボ ガ・キーン』『超人戦隊バラタック』が制作され、「マグネロボシリーズ」と総称されるが、ダイナミック企画が関与したのは『ジーグ』のみである。また、玩具のマグネモシリーズは、『ゴワッパー5 ゴーダム』など、東映動画以外の作品でも展開された。他にアオシマからは合体ロボ、合体マシンのジーグやビルドマシンが発売された。ビルドマシンの機首にジーグの頭が乗っているなどシュールなプラモデルであった。

  • また、「ロボットがロボットの頭部に変形する」というアイデアは、後年、『トランスフォーマー』シリーズのヘッドマスターのヒントになった。

  • フランスで大人気を誇った『UFOロボ グレンダイザー』に対し本作はイタリアで大ヒットしている。

②「ゴワッパー5 ゴーダム(1976年)」…1976年4月4日から同年12月29日まで、朝日放送(ABC)、NETテレビ(現・テレビ朝日)系で、全36話が放送された、タツノコプロ製作のロボットアニメ。放送日時は23話までが、毎週日曜日19時00分から19時30分。24話からは毎週水曜日18時00分から18時30分。

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  • タツノコプロ初のロボットアニメであり、女性がリーダーになった、初のロボットアニメでもある。少年たちによって結成されたグループが悪と戦うという設定はタツノコ作品では『科学忍者隊ガッチャマン』や吉田竜夫九里一平の漫画作品にも多く見られるが、2008年現在、女性がリーダーである作品は、本作と『タイムボカン2000 怪盗きらめきマン』だけである。明るい主題歌とシチュエーションを持つ作品だが、物語にはシリアスな要素も含まれており、中には後味の悪い結末のエピソードもある。

  • 本作タイトルおよび少年たちのグループ名の『ゴワッパー』とは、『五童(ごわっぱ)』すなわち『五人の小童(こわっぱ)』である。本作作品名は企画時の候補として『アバレンジャー』があった。当初から、5人の少年少女(子供達)を主役級の扱いとしていた。『〜ゴーダム』初回放送以前の番宣メディアの幾つかで、この『アバレンジャー』が用いられたものが存在している。なお、『アバレンジャー』の名称はその後『ゴールドライタン』の企画タイトルとなり、2003年、テレビ朝日東映制作『スーパー戦隊シリーズ』の第27作で使用されることになる。

  • 放送途中で、日曜夜から水曜夕方に移動。両局の全国ネット番組の編成枠の事情により、制作局がABCからNET(現:テレビ朝日)に変わっている。後半はゴーダムを合体ロボットにして活躍の幅を広げようとしたが、視聴率を取り戻すことはできず、3クールで終了した。

  • そもそも「ゴーダム」は「巨大ロボ」ではなく「人型要塞」としてデザインされている為、とてつもなくアクションには不向きであった。よって玩具の売上もいまいちだったのだが、そこでマグネットによる組換え変形「ゴーダムドラゴン」が登場。番組中では「体内で各パーツを組み立てている」という力ワザ設定で第2形態「ゴーダムタイガー」も登場した。

  • 以降、NET→テレビ朝日でのタツノコアニメは、テレビ朝日制作では「昭和アホ草紙あかぬけ一番!」まで9年間。ABC制作では「光の伝説」まで、10年間途切れている。なお、本作品に限らず、NET・テレビ朝日系で放送されたタツノコアニメは視聴率的に苦戦した作品が多い。

③「マグネロボ ガ・キーン(1976年~1977年)」…スポンサーのタカラ(現・タカラトミー)のマグネモシリーズ第三弾。1976年(昭和51年)9月5日から1977年(昭和52年)6月26日までNET→テレビ朝日系で毎週日曜日18時00分から18時25分に全39話が放送された、東映動画製作のロボットアニメ。マグネロボシリーズというのは本作のタイトルから取っている。

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  • 男女が力をあわせることで初めて敵(イザール)を倒すことができるという、当時としては異色の作品であり、それを最後まで描ききった初の作品でもある。[要出典]また、物語の中で「マグネマンダミー」と呼ばれるメカが登場するが、その結果、ガ・キーンのメンタルバランスが取れなくなってピンチに陥る、という場面が見られた。そのことにより、『ガ・キーン』が、男性なら力強さ・たくましさ、女性なら優しさ・可憐さなど、男女のメンタル部分を併せ持たなければその力を十分に発揮できないロボットである事を強調しているといえる。

  • 視聴率は前作より苦戦し、後半の数々のパワーアップ劇をもってしても上げることができなかった。なお、わずか一話しか登場しなかった武装もあった。ただし、武道家の生き様や男女関係の描写には気を遣われており、男性が持つ女性的面や、女性が持つ男性的側面を描く事で、男女の基本的平等を謳っていた点が特徴的である。

④「超人戦隊バラタック(1977年~1978年)」…『鋼鉄ジーグ』『マグネロボ ガ・キーン』に続くマグネロボシリーズの第三弾。また、スポンサーのタカラの「マグネモシリーズ第4弾」と当時の広告に記載されている。1977年(昭和52年)7月3日から1978年(昭和53年)3月26日までテレビ朝日系で毎週日曜日18時00分から18時25分に全31話が放送された、東映動画製作のロボットアニメ。

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  • ダイナミック企画や渡辺宙明がスタッフから外れるなど、『マジンガーZ』『鋼鉄ジーグ』などと比べ、かなり作品のカラーが異なってきている。磁石で各パーツが合体したり、状況にあわせてパーツを交換するのは一緒であるが、ジーグやガ・キーンが、操縦者がロボットと合体して操縦する形式なのに対し、バラタックは司令機からテレパシーで遠隔操縦する形式となっている。

  • 放送中にも主要スタッフが大幅に変動しており、『ガ・キーン』まで参加していた山浦弘靖は他のアニメ作品の参加をする為、降板し、さらに、星山も『無敵超人ザンボット3』の参加を専念するために第28話で降板し、残りの脚本は藤川、安藤の二人のローテーションになった。特にマグネロボシリーズの前2作と比較して、コメディ色が強い作品になっている。これは敵側(ゴルテウス側)に顕著で、主人公側(バラタックシークレット側)は基本的に真面目に地球防衛しており、敵味方側の温度差の違いが本編の売りだといえる。なお、原作の池原自身によるコミカライズがなされているが、こちらはシリアスな内容となっている。

  • 本作は31話で制作を終了している。放送期間当時は3回の再放送、および最終回後に3回の再放送を加わえて3クール全37話分が放送されていた。

  • 本作の主人公ユージはリーダーではなく、チームのリーダーおよびメインパイロットはサブキャラであるマックが担っており、主人公が戦闘シーンにおいてバラタックを操縦することはほとんどない。戦闘用の巨大ロボットが出てくる他の特撮やアニメでも、名目上、主人公が戦闘チームのリーダーでない作品はあるが、バラタックのようにメインパイロットですらない主人公は珍しいといえる。カラーは同じ東映作品である『秘密戦隊ゴレンジャー』を踏襲しているが、リーダーが「青」というのは5人組のチームでは本作以外に例をみない。『氷河戦士ガイスラッガー』においても、やはりリーダーは赤であった。バラタックのデフォルトアタッチメントが左手はドリル・右手はグラップルという点はゲッターロボ(ゲッター2)と同一。

  • 放送終了後の数年間は再放送枠や、夏休み朝の特別編成『夏休みまんが大会』で何度か放送されたが、1980年代初頭に放送されたのを最後に地上波やBS・CS含めて放送映されることはなかった。またマグネロボシリーズの中で唯一ソフト化されていない作品のため、長らく視聴が困難だった。

いつの間にか子供達は「玩具のギミック性」だけで夢中になってはくれなくなっていたとも。

70年代にあった「アオシマの合体プラモデル」シリーズ

アオシマでは一貫してユーザーを楽しませる、子供たちにプラモデルで遊んでもらうことを主眼におき商品開発を行なっているが、初期ウォーターラインシリーズでの考証不足や金型製造技術の低さ、人気TV作品に登場するメカによく似た製品や子供に人気の「合体」シリーズの存在などから、かつては同業他社より一段低く見られる事もあった。

  • 「合体」シリーズではアニメ・特撮作品では考えられない分割やデザインの商品を生み出したが、忠実に作品世界を再現しようとするスケールモデルの世界ではこうしたメーカーサイドが提案する「遊び」は道を外れている、とみなされる場合もあったのである。

  • しかし、余った部品を組み合わせて自分だけのメカを作る「合体」シリーズの有形ブロック遊びは、タカラのマグネモシリーズなどにも共通する、ユーザーに好まれる遊びであることは事実である。アオシマのキャッチフレーズだった「創造のプラモデル」はプラモデルを通した遊びを追求した結果生まれた理念でもあった。

  • 逆説的に言えば、上位メーカーと違い型や業界のセオリーに囚われない自由な発想の商品をリリースできるのが強みともいえ、他社にはできない、挑戦的な新ジャンル・新シリーズを度々発表し話題をさらい「ユニーク商品の常連」として名を馳せる事となったのである。

最初は首と上半身がセット。

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変化が起こったのは「鋼鉄ジーグ(1975年)」以降。

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こうなるともはや後は際限なし… 

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こうしたデザイン感覚が本編に繁栄されたのが、当時の怪奇/オカルト/超能力/UFOブームの影響を受けて操縦方法が「主人公ユージを含めた5人の超能力者の遠隔操縦」に変更された「超人戦隊バラタック(1977年〜1978年)」。これに登場するメインメカは基本の人型形態に加え地上・地中での「ブラックバラタック」、空中での形態「ブルーバラタック」、水中戦形態「グリーンバラタック」の4形態なのだが、基本形態が「ゲッター2」の様な左右非対称で残りは「生首メカ」なのだった。

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ブラックバラタック         

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グリーンバラタック

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ブルーバラタック

そして宇宙戦艦ヤマトがブームになると便乗して「切り身」シリーズが始まる。

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サンリオ - Wikipedia

山梨県の職員だった辻信太郎が、同県の物産である絹製品を販売する同県の外郭団体だった山梨シルクセンターを株式会社化。社名をそのまま引き継いで、創業したのが始まりである。だがその本業で同社は早々に失敗し、小物雑貨の販売に転じた。最初の成功は花柄を付けたゴム草履だったという。きれいでかわいいイラストを付けることで売れ行きが大きく伸びることを知った辻は、キャラクター商品の開発に乗り出した。当初は水森亜土やなせたかし・トシコ ムトーら、外部のイラストレーターや漫画家にデザインを依頼していたが、やがて自社が著作権を持つキャラクターの開発を目指すようになった。この方針のもとで、山梨シルクセンターは、1973年(昭和48年)に国際的に通用しやすい名前を求めて「サンリオ」に変更し、本社を甲府から東京の五反田に移転した。
山梨県産の絹製品を扱う会社が「キャラクター商品の方が儲かる」と気付いてそちらに主軸を移してプラスティック成形技術発展の恩恵を受ける…当時はそういう時代でもあったのである。

宇宙戦艦ヤマト(TV放映1974年、劇場公開1977年)』の制作経緯

虫プロ商事と瑞鷹エンタープライズの両方に籍を置くオフィスアカデミーのプロデューサー西崎義展が前2作(『海のトリトン(1972年)』と『ワンサくん(1973年)』)を商業的に失敗で終えた厳しい立場ながら虫プロダクション山本暎一に声をかけ1973年の初め頃に企画を立ち上げた。
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①西崎は子供の頃に海野十三南洋一郎によるSF冒険作品の影響を受けており透明な飛行機や空飛ぶ戦艦などに憧れていた。その関係でロバート・A・ハインラインの「地球脱出(後に『メトセラの子ら(Methuselah's Children)』に改題)」における「地球の危機的状況から脱出して宇宙に移住の地を求める」という筋書きに触発されて当時アニメ界から離れていた豊田有恒(テレビアニメ草創期に虫プロでアニメの脚本を執筆しており、西崎と虫プロ出身の山本暎一の要請に応える形で参加)とスタジオぬえのメンバーを巻き込んだのだった。

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②最初の企画案は、藤川桂介豊田有恒が競合する形で創られた。藤川案におけるタイトルは『宇宙戦艦コスモ(仮題)』。豊田案におけるタイトルは『アステロイド6』。後者は西遊記を下敷きにして遠い異星に人類を救う放射能除去装置を取りに行くという基本ストーリーで、この段階での敵はコンピュータだった。宇宙船は、小惑星そのものにエンジンを組み込んだもので「岩石宇宙船イカルス」と呼ばれていた。そして豊田案が提出用企画書の原案となる。

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③宇宙船のデザインはスタジオぬえ松崎健一が行い、戦艦「三笠」のイメージから「長門」らしくなり、最終的には「大和」となり、岩石宇宙船の内部に戦艦が内蔵された「アステロイドシップヤマト」へと発展した(その名残りがアステロイドリングに見られる)。

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④1970年代前半には公害問題やオイルショックなど大規模な社会問題が頻発し『ゴジラヘドラ』『日本沈没』『ノストラダムスの大予言』『漂流教室』など“滅亡”や“公害”をテーマにした作品がブームとなっていた。放射能汚染による地球の滅亡と復活というテーマが選ばれたのはそうした世相の反映である。

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⑤そして元虫プロの作家の石津嵐、脚本家の藤川桂介、イラストの斉藤和明、背景美術の槻間八郎が加わり検討が繰り返された結果、敵は異星人となり、放射能汚染された地球を救うためにヤマトが放射能除去装置を求めてイスカンダル星を目指すという大筋が完成した。この時点までにワープ航法や波動砲といったヤマトを象徴するギミックも考案されている。

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⑥1973年夏の終わり頃までに『宇宙戦艦ヤマト』の名を冠した企画書が完成。全45ページにおよぶ同企画書は『ポセイドン・アドベンチャー(1972年)』や『日本沈没(1973年)』に触れる導入部から始まり、全52話のプロット、ヤマト艦内の命令系統図、ヤマト本体のスペック、イスカンダル到着までの日程・行程、乗組員の制服・武器、さまざまな惑星・異星人・宇宙船などに関する諸設定がイメージ・イラスト付きでまとめられていた。

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松本零士が設定制作の野崎欣宏の推薦によってデザインスタッフとして参加依頼を受けたのは1974年の4月頃になってからだった。監督を務める予定だった山本暎一が他の仕事の為に1974年6月末に抜けると、松本零士石黒昇のサポートを受けながら監督を務める事になり、キャラクターやメカのデザインを手掛けながら司馬遼太郎新選組血風録(1962年)』を参考に若者の集団劇を構築していくことになった。一説によれば『セクサロイド』に感銘した西崎が松本にデザイン監修を持ちかけたところ「全てを任せてもらえるのでなければ」といったん断られたが、山本が離脱したため、西崎が松本の条件を受け入れたという。これについて西崎は1978年のエッセイで、『セクサロイド』で機械と人間がうまく共存している描写に共感を覚え、また同作における女性のイメージが自分の理想像になったと述べている。

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かくして企画書の中身は松本零士の手で一新され,1974年5月21日には「ガミラス」という名称が初めて使われた基本ストーリーの初稿が脱稿。西崎がテレビ局へ企画を持ち込んで1974年8月に読売テレビに売り込むためのパイロットフィルムが制作され、最終的に放映枠は日本テレビ系の日曜19時半と決まった。

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  • 当初の企画書では全52話だったが放送決定時には全39話に短縮され、なおかつ「アルプスの少女ハイジ」の裏番組になったためその視聴者たる幼児をターゲットと出来なくなって「ルパン三世(旧)」「ゼロテスター」同様、中学生以上の取り込みを狙う事になったのである。しかし低視聴率に加え製作状況が過酷で1話あたりの制作費も予算を大幅にオーバーした事から第3クールへの延長は第1クール中に断念され、終盤への伏線を削除して全26話に再構成の上で製作・放映された。しかしSFファンからは人気を得て、日本SF大会のファン投票で星雲賞を受賞する。

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  • 1975年夏に近畿地方から再放送が始まり,1975年秋から全国的に人気が高まり始め全国各地でファンクラブが結成された。最盛期には全国で851団体、15万人を数え、西崎プロデューサーの呼びかけに応えて主題歌のラジオ番組へのリクエストや映画公開の際にはポスター貼りなどを行いヤマトブームの盛り上げに一役買ったとされる。1977年12月には、オフィスアカデミー主宰で西崎が会長の公式ファンクラブ「宇宙戦艦ヤマト・ファンクラブ本部」が発足し、機関誌「宇宙戦艦ヤマト」も発行された。

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  • 再放送や映画化により社会現象とも言える人気を得てアニメ史上にさまざまな影響をもたらした。例えば1975年に第一回が開催された同人誌即売会コミックマーケット)は当初少女マンガ中心であったが、本作などの影響でアニメのサークルの参加が増え始めたとされているし、1970年代から1980年代にかけての声優ブームへも少なからぬ影響を与えている。

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  • 本作が当時の中高校生・ハイティーン世代に人気を博した理由について社会学者が「モラトリアムの拡大」を指摘している。当時は高校進学率や大学進学率が大きく伸びており、その結果として中高生に本作のようなアニメを楽しむ余裕が産まれたというのである。そのブームを引き継ぐ形で数々のアニメ誌が創刊される事になるが、それまで児童向けのテレビ雑誌『テレビマガジン』『テレビランド』『冒険王』などしかなかった関係から『月刊OUT』などはサブカルチャー雑誌としてスタートしている。

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  • 普通の能力の人が、普通じゃないふりすると、結局、死と性とオカルトしかない」をモットーとして1970年代の「怪奇/超能力/UFOブーム」の波に乗ってきた月刊OUTが1977年6月号(創刊第2号)でヤマト特集を行ったが、若者向けの商業誌で本格的にヤマトが取り上げられたのは初めてであり、同年8月に発売されたテレビランド増刊『ロマンアルバム宇宙戦艦ヤマト』と併せてさらなるファン層拡大に貢献した。

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  • 一方、アニメブームのきっかけとなり社会現象を巻き起こした「宇宙戦艦ヤマト劇場版(1977年)」の成功のおかげでアニメ制作会社の東映動画にイメージクリエイターとして起用された松本零士は「惑星ロボ ダンガードA(1977年~1978年)」や「SF西遊記スタージンガー(1978年~1979年)」にデザインを提供。また、自らも企画として温めていた「銀河鉄道999(1977年~1981年)」や「宇宙海賊キャプテンハーロック(1977年~1979年)」がヤマト人気によりアニメ化された。ただしこうした松本アニメブームは1982年の「わが青春のアルカディア」「わが青春のアルカディア 無限軌道SSX」の頃までにすっかり下火となり、1983年夏の劇場アニメ映画として企画されていた「クイーン・エメラルダス」は頓挫して、ブーム終焉を迎える事に。その分岐点となったのは、ヤマトの成功面と失敗面を研究して企画され「新竹取物語1000年女王(1980年~1983年)」を退けて勝利を飾った「機動戦士ガンダム(1979年)」だったと日本サンライズに在籍していた飯塚正夫や元社長の山浦栄二と吉井孝幸は証言する。元々『機動戦士ガンダム』の企画が宇宙空母ペガサスを主役に据えたものだったのもその影響で、ヤマトのプラモデル展開のノウハウもガンプラに活かされる事となったのである。

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  • さまざまなサブカルチャーの影響を受けて成長してきたオウム真理教もまたこの作品の影響を著しく受けており、具体的には空気清浄機のコスモクリーナー、行動部隊の白い愛の戦士という名称、教団の自主アニメにおける宇宙船のコクピットとコスチューム、滅びに瀕した人類を救うというモチーフなどを借用している。

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  • アメリカで1977年に再編集した劇場版『Space Cruiser Yamato』が公開され,1979年より『Star Blazers』という題名で、シンジケーション番組としての都市部でテレビ放映されたが視聴率はさほどでもなく、その人気は東海岸を中心にしたものにとどまった。『科学忍者隊ガッチャマン』の改変に比較するとその改変は暴力的な描写や戦艦大和の削除などわずかにとどまったが、宇宙戦艦ヤマトの艦名はギリシア神話に登場するArgo(アルゴー船)に変更され、登場人物もWASP風に改名されている。

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まとめるとこういう事になる。

  • 1970年代後半のアニメブームは基本的に「海のトリトン(1972年)」と「ワンサくん(1973年)」の二作が商業的に失敗で終わった西崎義展プロデューサーにとって「宇宙戦艦ヤマト(1974年)」が背水の陣であった事、そのヤマトが「アルプスの少女ハイジ」の裏版文となってターゲットを中学生以上に絞るしかなくなった事、高校や大学への進学率が上昇して余暇に打ち込む余裕のある中高生やハイティーン層が急増しつつあった事などが重なって発生したといえそうである。こうして掘り起こされた客層を「銀河鉄道999(原作1977年~1981年)」や「機動戦士ガンダム(1979年)」が継承する事に成功した事が1980年代のアニメブームににつながっていく。コミケも当初は少女漫画一色だったが、次第にアニメ系サークルが増えて男女比がバランスする様になっていったが、そうなる鍵を握ったのは案外プラモデル人気だったのかもしれない。

  • 企画の出発点はロバート・A・ハインラインメトセラの子ら」における「地球の危機的状況から脱出して宇宙に移住の地を求める」と公害問題やオイルショックなどの大規模社会問題が頻発し『ゴジラヘドラ』『日本沈没』『ノストラダムスの大予言』『漂流教室』といった滅亡や公害をテーマとする作品がブームとなっていた1970年代前半の世相である。これに豊田有恒が「西遊記」、松本零士司馬遼太郎新選組血風録(1962年)」の要素を追加した。ちなみに米国放映時、この作品は「アルゴノート号の黄金の羊の毛皮を求めての旅」に擬えられる事となった。

  • 当初メインとなる宇宙船はアステロイドにエンジンを取り付けただけの無骨な物に過ぎなかったが、西崎プロデューサーが子供時代に海野十三南洋一郎によるSF冒険作品の影響を受けていた事もありそれは「三笠」「長門」の段階を経て最終的に「大和」の姿を取る事となった。

何たる混沌とした矍鑠(かくしゃく)…

http://tnoma.tumblr.com/post/38342875926/宮武西崎さんは菊の御紋が無いとヤマトではない絶対に必要だと

tnoma.tumblr.com

宇宙戦艦ヤマトからガンプラへ

1970年代には進学率の急増が「余暇を有意義に使いたがってる中高生」という新市場を台頭させた。そして1950年代~1960年代に生まれ、走行ギミック付きの玩具で遊んできた世代は1970年代に入るとミリタリー・ジオラマやウォーターライン軍艦の陳列に目覚めた男子が同様のクオリティをアニメ関連グッズにも求める様になっていく。この波に乗ってバンダイ宇宙戦艦ヤマトガンダム関連のプラモデルを売りまくり、経営危機を脱したのだった。
*一時期「アニメブームは学生運動を殲滅せんとする日本政府の卑劣な企み」なんて陰謀論があったが、確かに1960年代だったら学生運動に動員できてた層がそっくりサブカル方面にシフトした流れなら実在したのだった。

レコード・CD

6作品がオリコンLPチャートで10位以内にランクインし、関連レコードは総売上は300万枚に達した。これを受け発売元の日本コロムビアでは、アニメーション作品や特撮の劇中音楽をステレオ録音し、アルバムとして続々とリリースしていった。

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  • 宇宙戦艦ヤマト』(CS-7033) 1位

  • さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』(CQ-7011) 2位

  • さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち ドラマ編』(CS-7077-8) 2位。家庭用ビデオデッキ及び、ビデオ収録された作品が商品として発売される以前に、劇場の音源を収録したLPレコード。

  • 『交響組曲 宇宙戦艦ヤマト』(CQ-7001) 3位。作曲・編曲 - 宮川泰 / 演奏 - シンフォニック・オーケストラ・ヤマト(特別編成オケ)。インスト曲ばかりで、全12曲構成。アニメ作品の同種企画の先駆けとなった。これらの企画は「宇宙戦艦ヤマト三部作」として、第20回日本レコード大賞企画賞を受賞している。

  • 『ヤマトよ永遠に 音楽集 Part.1』(CQ-7051) 10位

  • 宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち』(CQ-7029) 10位

  • オリコン・チャートブック LP編 昭和45年-平成1年』オリジナル・コンフィデンス、1990年、151頁・331-341頁。ISBN 4-87131-025-6。

  • 交響曲 宇宙戦艦ヤマト
    第1楽章「誕生」
    第2楽章「戦い」(スケルツォ
    第3楽章「祈り」(アダージョ
    第4楽章「明日への希望」(ドッペルコンチェルト)
    羽田健太郎作曲(テーマモチーフ作曲:宮川泰羽田健太郎)。演奏 - 羽田健太郎(ピアノ独奏 - 第4楽章)、徳永二男(ヴァイオリン独奏 - 第4楽章)、川島和子(ヴォカリーズ - 第3楽章)、NHK交響楽団管弦楽)、大友直人(指揮)。1984年5月4日、五反田簡易保険ホールにおける演奏会ライブ録音・録画。LP(後にCD)/ VHS(/Beta) / LD発売、DVD復刻発売。1992年NHK衛星第二放送での宇宙戦艦ヤマト特集にて放送。4楽章構成の交響曲で、第1楽章はソナタ形式、第2楽章はスケルツォとして『完結編』のコスモタイガーのテーマを急速な3拍子に編曲。第3楽章アダージョにはスターシャのテーマとして女声ヴォカリーズを挿入(レコードやビデオのクレジットにはジャズ用語のスキャットとして表記されているが、リズムを刻むための子音を挿むわけではないのでヴォカリーズが正しい)、そして第4楽章は作曲者羽田健太郎のピアノと当時N響のソロコンサートマスターだった徳永二男のヴァイオリンによる「ドッペルコンチェルト(二重協奏曲)」という構成になっている。アニメ劇伴をオーケストラ音楽として鑑賞する先駆けとなった作品。なお多くのモチーフは宮川泰作曲のオリジナル劇伴を流用しているが、ソナタ形式などにのっとった交響曲としての構成での作曲は羽田によるもの。第2楽章は『完結編』のモチーフを流用しており、これはもともと羽田の作曲である。映像演出は実相寺昭雄。「オーケストラがやってきた」等で鳴らした腕を存分に生かした出来となっている。なお、本人によれば「N響を撮った民放ディレクター一番乗り」との事。

  • 交響曲宇宙戦艦ヤマト-ライブ録音-トラックダウン・バージョン」が2004年11月25日発売の「生誕30周年記念 ETERNAL EDITION PREMIUM 宇宙戦艦ヤマトCD-BOX」のボーナスディスクとして収録されている。その後、『宇宙戦艦ヤマト 復活編』公開に当たり、大友直人指揮、日本フィルハーモニー交響楽団演奏にて、『交響曲ヤマト2009』として再録音されている。

こうしてアニメ業界と音楽業界は一蓮托生の関係を構築する事になったのである。

玩具

前後してキャラクターグッズ類も多数製作された。しかし本放送時に発売されたバンダイのプラモデルは、当初ゼンマイによる走行ギミックを持つなど、「ブリキの時代」に起源を有するキャラクタープラモデルと同じ考えに立ったものだった。ゼンマイ走行するヤマトと、コスモゼロ、ブラックタイガー、アナライザーがそれぞれ500円で発売された。しかも第1作テレビアニメの番組打ち切りにより特に注目されることなく、市場からいったんは姿を消した。

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ヤマトブーム下での1977年の映画公開に合わせて、バンダイが本放送時発売のゼンマイ走行ヤマトを再発売すると、瞬時に完売、1ヵ月未満で追加生産となる。追加生産時にヤマトファンからの意見を取り入れ、ゼンマイ走行部をオミットした部分に第三艦橋を追加造型し、全体にブロンズ塗装を施した、ディスプレイモデルに改修された(「銀河モデル」)。そして1978年の『さらば宇宙戦艦ヤマト』公開時以降は、スケールモデル的手法で新規開発されたヤマト以外のメカのキットが多数発売された。さらにはポスター等で多く描かれる斜め前方からのイメージを重視したデフォルメモデルは、3,000円の高価格(当時)にもかかわらず、初回出荷10万個が1ヶ月で完売、1年で25万個、のちの1/700スケール表示のヤマトは初年で31万個、1個100円のヤマトメカコレクションは初年度で合計850万個と大ヒット商品で、当時経営不振だったバンダイ模型の売上げを回復した、救世主商品となった。

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バンダイによるプラモデルは4年間にわたって販売される人気商品となった。このヤマトのスケールモデルは、大ヒット商品『機動戦士ガンダム』のプラモデルのガンプラの先駆けとなって、開発やマーケティングのノウハウが活用された。ガンプラはヤマトのスケールモデル的手法を活かし、さらに統一されていなかったスケールを統一する形でリリースされたものである。

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  • 1978年の映画「さらば…」公開の際しては、野村トーイから、ヤマト、アンドロメダ(大小2種)、ナスカ(敵空母)が発売され、細部成形が評価されたが、版権問題でバンダイと揉めた結果市場に出回った数が限られた幻のモデルとなっており、現在もオークションサイト等で高額で取引されることがある。

  • 宇宙戦艦ヤマト2199』では、1/1000の統一スケールでプラモデルを展開。バンダイの担当者は「全てのメカを出す」という意気込みを見せており、その意思表示としてガミラス側プラモの2番手にメジャーなメカとは言い難いポルメリア級を出すという挑戦をし、本作の総監督である出渕裕から苦笑されている。

  • また、子供向けに販売されていた「ポピニカ」と「超合金」をそれぞれ大人向け(15歳以上)の企画、「ポピニカ魂」と「超合金魂」の中で以下が発売されている。
    ◎ポピニカ魂
     BPX-01「宇宙戦艦ヤマト松本零士監修)」2001年4月発売。
    超合金魂
     GX-57「宇宙戦艦ヤマト」2010年11月27日発売。
     GX-58「地球防衛軍旗艦アンドロメダ」2011年2月5日発売。
     GX-64「宇宙戦艦ヤマト2199」2014年1月25日発売。

そしてバンダイから「メカコレクション」が発売される。

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  • バンダイから1979年より展開されたプラモデルシリーズで、略称は「メカコレ」。全長12cm前後の手の平サイズのプラモデルで、100円という低価格。当時としては精巧なプラモデルだったため、中高生ファンや児童に人気を博した。2014年現在、全33種が発売されている。

  • 1979年1月末に発売した『さらば宇宙戦艦ヤマト』の登場メカ10種を皮切りに、同年7月に『宇宙戦艦ヤマト2』の登場メカ5種、同年10月に『新たなる旅立ち』の登場メカ3種、80年5、6月に第1作『宇宙戦艦ヤマト』および『ヤマト2』の登場メカ4種、81年5、6月に『宇宙戦艦ヤマトIII』の登場メカ8種の計30種が発売され、さらに79年4 - 8月にはメカコレ5種と背景をセットにした「スペース・パノラマ」が5セット発売された。

  • メカコレシリーズはNo.30「ガルマン・ガミラス帝国 惑星破壊ミサイル」をもって終了となったが、人気の高さからその後も再版されており、2013年には『宇宙戦艦ヤマト2199』の展開に伴い全メカコレをセットにした「ヤマトメカコレスペシャルボックス」が発売された。さらにこの商品には新規造形メカコレとして「ドメラーズII世」「ブラックタイガー」「コスモクリーナーD」の3種類のメカが含まれており、実におよそ30年振りにメカコレシリーズの新商品が登場することとなった。また、「1/1000Scale 宇宙戦艦ヤマト2199」にはNo.18「ガミラス帝国軍 デスラー三段空母」が付属しており、箱にはメカコレのパッケージがプリントされ、切り取って組み立てることでパッケージも再現できるようになっている。また、その他の1/1000スケールのプラモの一部にも、正式なシリーズではないものの「メカコレサイズ」と称されるプラモが付属している。

  • 2014年からは『宇宙戦艦ヤマト2199』のメカを商品化する新シリーズを展開。旧来のメカコレとは異なり、大半のパーツは接着剤不要のスナップフィットとなっている。

 こうしてプラモデル業界のトレンドは「ミリタリー」から「アニメ」に推移したのである。

 こうした展開について象徴的なエピソードがあります。

  • 月光仮面(1958年〜1959年)」放映時、マーチャンダイジング収益は皆無に近かった。それは「(縁日などに欠かせない)テキヤの取り分」とされ、迂闊に踏み込む訳にもいかなかったのである。

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  • 機動戦士ガンダム(MOBILE SUIT GUNDAM、1979年)」放映時も「便乗シリーズ」を売り出すプラモデル・メーカーがまだまだ少なくなかった。

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    東京マルイの「モビルフォース ガンガル(1980年頃)」東京マルイが過去に販売していた「超メカモデル」シリーズなどの箱絵を変えて発売したもの。縮尺は1/177と1/250の2種類があったが、ただし実寸は明記されていない。

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    アリイ(有井製作所、現・マイクロエース)の「太陽系戦隊ガルダン(1981年春)」…新規に設計されたキットではなく、1975年のロボットブーム時期に製作された商品「合体ロボシリーズ」の金型をそのまま流用。そのため、頭部の意匠やアウトラインは『マジンガーZ』や『ゲッターロボ』、『電人ザボーガー』など一昔前のキャラクターを模倣したものとなっている。ガンプラに見せるために箱絵をそっくりにデザインして再発売した。

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    同じくアリイの「ザ★アニメージ(1981年7月)」…「超銀河伝説バイソン」という「架空のアニメ」のキャラクターモデル。本シリーズでの定冠詞「The」の表記は、「アニメージ」という先頭が母音の単語の前に来るにもかかわらず、「ジ」でなく「ザ」である。また、アニメージの英文表記はAnimageであり、アニメ雑誌の「アニメージュ」と同一である。その後も類似展開が続く。

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    イマイの「銀河の鷲 メガロ・ザマック(1982年)」…『機動戦士ガンダム』から時間が経ってからの企画のために、どちらかといえば『太陽の牙ダグラム』、『伝説巨神イデオン』、『戦闘メカ ザブングル』といったアニメに影響を受けている。同時期にイマイは『超時空要塞マクロス』のスポンサーとなり、その後超時空シリーズを手がける。そのためまもなくTVアニメ提携商品が主流となり本品は姿を消した。

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    アオシマの「超攻戦士ザクレス(1983年)」…100円。それまでの人気アニメによく似たデザインが特徴。のちにパッケージを変更し、「スペースクロス(Space Cross)」というシリーズとして、同じ100円で販売された。さらに後年、フルタ製菓より本製品が同梱された食玩として、「マイプラモデルチョコ」が発売された。シリーズ名は『超攻戦士ザクレス』だが、「DIMENSION MODEL」という別の肩書きもあった。
  • しかし1980年代後半以降、次第に日本の模型屋では「正規品」しか見掛けなくなっていく。

これもまた「工業化による大量生産・大量消費の定着」の一例。穿った見方をすれば「21世紀資本主義は19世紀資本主義に回帰しつつある」傍証とも?

 ──会社の業績は上向いているといえるのでしょうか?
井上:失敗はしなかったことが、会社としては大きかったですね。会社にお金がないとわかって、借金や税金の滞納がわかってから手がけたフィギュアは、どれもこれも売上がすごくよい成績ではなかったけれど、逆にいえば悪くもなかった。そのなかで、もっとも売れ行きがよかったのは艦隊これくしょんの「那珂ちゃん」フィギュアでしたが、それも爆発的にうまくいったわけではありませんでした。

──業績好調とは言い難いのでしょうか?
井上:フィギュア業界は、いまどこもとても厳しい。その理由は何より、全体的に完成フィギュアという商品が売れなくなってきていることにあります。正直、うちのような小さいメーカーだと、もう、やっていく理由はありません。いま進行している企画が終わったら、もうフィギュア製造販売はやめます。僕は社員をかかえず、一人きりで描いているという事情もありますが、漫画のほうが儲かります。一年前には想像もしていなかった事態です。

──2014年から拠点にしていた広東省深センを引き上げ、日本に戻ってきたのはフィギュア部門をたたむことが理由なのでしょうか?
井上:いちばんの原因は家賃が急激に上がったことですが、仕事の都合もあります。

──とはいえ、井上さんが今年5月に予約販売した艦これの「那珂ちゃん」フィギュアは人気キャラクターです。予約好調に見えましたが、それでも厳しいのでしょうか?
井上: 正直なところ、那珂ちゃんはもっと売れると思っていたので、反応の鈍さに驚きました。それでも同業者からは「その価格でこれだけ売れれば大ヒットだ」といわれました。確かに一体1万7千円は高額な部類なのでしょうが、今やフィギュアは一体1万円超が当たり前です。でも、最近のフィギュアの売れ方をみていると、1万円を超えた途端に売れなくなります。だから、那珂ちゃんを買ってくれたお客さんは、本当に大決心してくれたんだと思います。

──オタク経済圏は数十億円の市場だと期待された時期もありましたが、そう楽観的でもなくなっているのでしょうか?
井上:お金に余裕がなくなっているからなのか、使うときはものすごく慎重です。今回の那珂ちゃんの場合、予約開始直後は反応が悪かったですね。予約終了時間が近づくにつれ、しり上がりによくなって持ち直しました。今は、人気キャラクターのフィギュアであっても、締め切り間際に買う人が多い。最後の最後まで悩んで、最後の最後で買うと決める。その様子をみて俺も買おうと決心する。この売れ方は、最近の傾向だと思います。

──とはいえ、オタク部屋といえばお気に入りキャラクターのフィギュアが飾るのが定番という印象ですが、フィギュアを飾らなくなっているのでしょうか?
井上:最近はキャラクター人気の入れ替わりがすごく激しいので、お客さんからみると、そのたびに1万円超するフィギュアは買っていられないという事情もあると思います。製造販売する側からみると、人気が出たキャラクターを開発しても、商品化できたころにはブームが終わっていることが多いため、割にあわない商売になってしまいました。ひとつのフィギュアを開発するのに半年以上かかります。でも、それではキャラクター人気の旬を逃してしまう。大手メーカーの場合、たとえばアニメ化するなどの事前情報をもとに、アニメ制作そのものに出資するなどして、世間には公表していないフィギュアを先行して開発するんです。資本力があるからできることですが、ヒットするかどうかは運次第です。

──大手といえども厳しいのでは、中小メーカーはどうやって生き残るのでしょう?
井上:うちのような小さいメーカーとしては、なるべくヒット作品を連発して開発費を回収して利益を出さないとならない。ところが、最近はヒットしても利幅が小さい。以前は、フィギュアの製造販売といえばハイリスクハイリターンな賭けで、一度あたるとしばらくやっていける利益が出ました。でも今は、ハイリスクローリターンな賭けになってしまいました。

──フィギュア業界が生き残る方法はあるのでしょうか?
井上:すごく小さいフィギュアを高額で売るなど、ありえない勝負が必要かもしれません。フィギュアといえば実物の6分の1が普通だったんですが、いまはひと回り小さい8分の1ぐらいが中心です。小さくなっているのは、最も高い金型ではなく樹脂やゴム型でつくれるからです。業界最大手は2頭身や3頭身の小さいフィギュアを主力商品にしています。スケールフィギュアといわれる通常のフィギュアは、収益が悪すぎて、もはやメインではないです。

──海外で売るという選択肢は活路にならないでしょうか?
井上:販路を持っていれば可能性はあります。でも、小さいメーカーは問屋が存在しない、または高額な中間マージンが発生するので難しい。フィギュア業界の場合、頑張っているところはあるし、他社と比べると儲かっているといえるところもあるかもしれないですが、その会社の前年度と比べると業績がよくないところが多いです。

──中国市場ではどうでしょうか?
井上:今は勝手にコピー製品がつくられている状態ですが、比較的、高級な偽物がつくられるようになってきたので、中国人の目も肥えてきているのを感じています。だから、中国人に向けてのフィギュアは可能かもしれません。少し安い価格で、日本と同じものを中国人のためにつくるんです。とはいえ、まだ欲しがる人数が少ないので、版権をとっての商売は偽物に圧迫されるので、かなり難しいと思います。大資本ならば、日本のスタッフで制作する中国向けアニメに出資し、偽物を作る暇がないタイミングでフィギュアを売る。その方法なら中国でもフィギュア販売が可能かもしれません。

結局、 黒澤明が「天国と地獄(1963年)」で提示した問題は「素材革命」によって解決が先送りになっただけで本質的解決を見てない様です。むしろこれから改めて突きつけられる事になりそう?