諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【機械学習】【データマイニング】「16BitCPUの時代の歴史」の再来?

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機械学習処理のボトルネックは、要するに「(幾らでも並行処理可能なテンソル解析Tensor calculus, Tensor analysis、ベクトル解析をテンソル場(時空などの多様体上を変化するテンソル)に対して拡張したもの)」となる様です。
テンソル(Tensor) - Wikipedia

線形的な量または線形的な幾何概念を一般化したもので、基底を選べば、多次元の配列として表現できるようなものである。しかし、テンソル自身は、特定の座標系によらないで定まる対象である。個々のテンソルについて、対応する量を記述するのに必要な配列の添字の組の数は、そのテンソルの階数とよばれる。

例えば、質量や温度などのスカラー量は階数0のテンソルだと理解される。同様にして力や運動量などのベクトル的な量は階数1のテンソルであり、力や加速度ベクトルの間の異方的な関係などをあらわす線型変換は階数2のテンソルで表される。一方、物理学や工学においてしばしば「テンソル」と呼ばれているものは、実際には位置や時刻を引数としテンソル量を返す関数である「テンソル場」であることに注意しなければならない。

テンソルという言葉は、1846年にウィリアム・ローワン・ハミルトンによって特定の種類の代数系やがてクリフォード代数として知られるようになる)におけるノルム操作を記述するために導入された。

現在の意味で使われるようになったのは1899年のヴォルデマール・フォークトからであり、その記法は1890年ごろにグレゴリオ・リッチ=クルバストロによって絶対微分という名の下に発展させられ、トゥーリオ・レヴィ=チヴィタによる1900年の古典的な同名の著作によって多くの数学者たちに知られるようになった。

20世紀に入ってからはこの分野はテンソル解析として知られるようになり、1915年頃のアルベルト・アインシュタインによる一般相対性理論の導入によって広く知られるようになった。一般相対性理論は完全にテンソルの言葉を用いて定式化される。アインシュタインは苦労の末にマルセル・グロスマンから (あるいはレヴィ=チビタ自身からテンソルの理論を学んだとされている。テンソルは連続体力学など他の分野でも使われている。

要するに「CPUCentral Processing Unit=中央処理装置、1960年代以降の半導体メーカー間のマイクロプロセッサ開発競争の産物)」より「GPUGraphics Processing Unit=画像処理装置、1999年に半導体メーカーであるNVIDIA Corporation(エヌビディアコーポレーション)が開発)」が得意とする分野…

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ここで急浮上してくるのが「GPU並列処理専門サーバ」なる概念…

かくして問題はマシン構築技術の次元までスケールダウン?

そしてどうやらデータ・マイニングの世界でも同種の問題が展開中らしいのです。

冷却問題が焦点になり過ぎて「(水が綺麗で穀倉地帯や半導体生産地域と重なる河川上流域」や「(南極点や北極点に近い北国」がデータセンター設定場所として荒稼ぎ?

そういえば、過去にはこんなハードウェア・アーキテクチャーも… 

Amigaアミガ)という名前を聞いたことはありますか。1985年に米国のCommodore(コモドール)という会社から発売された16ビットコンピューターです。同社は「PET 20011977年発売)」や「VIC-201981年発売)」、「Commodore 641982年発売)」など米国の8ビットコンピューター市場をリードしてきました。しかし、創業者であるJack Tramiel(故人 ジャック・トラミエル氏 2012年4月8日死去)氏は社内動乱で同社を退社。同時に多くのエンジニアを引き抜いて、新たにTramel Technology(トラメル・テクノロジー)社を設立しました。

その一方でCommodore社はスタッフが大幅に減り、次世代コンピューターの開発で遅れを取ることに。そこで目を付けたのが、Atariアタリ)社で「Atari 400」などを設計したJay Miner(ジェイ・マイナー)氏が独立して立ち上げたAmiga社です。同社は当初、家庭用ゲーム機として「Lorraineロレーヌ)」の開発を始めましたが、プロジェクトを進める上で単なるゲーム機からコンピューターへと変化し、完成した頃には会社の運営資金が底をついてしまいました。

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一方、次世代コンピューターの開発に手をこまねいていたCommodore社が資金難で苦しんでいたAmiga社を買収し、子会社となる「Commodore-Amiga, Inc」を設立。これがAmigaというコンピューターの始まりです。しかし、一筋縄では行きませんでした。Tramel Technology社はAmiga社とCommodore社の契約を無効として告訴したからです。この背景には、Atariの家庭用ゲームやコンピューター部門を買収したTramel Technology社(この時点でAtari Corp:アタリコープに社名変更)が、Amigaと同年に発売した「Atari 520ST」を市場に投入し、Amigaの発売を妨害するための戦略がありました。

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こういった経緯からAmigaAtari STという構図が生まれ、同社の法廷戦争も1987年まで続きますが、この間の1985年秋に登場したのが「Amiga 1000」です。

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1985年当時としてはスタイリッシュなデザインで、PC-9801シリーズやMacintosh IIに似た筐体(きょうたい)にMotorolaモトローラ)製の16ビットCPU「MC68000」を搭載。12ビットカラーパレット(4,096色)を持つグラフィック機能は、多くの映像系クリエーターに衝撃を与え、後のデモ文化につながりました。前述のAtari 520STも16ビットコンピューターであり、パーソナルコンピューターの雄に数えられていたAppleアップル)社も16ビット化したApple II GSを発売しています。ちょうど1985年はパーソナルコンピューターが16ビット化する時代でした。

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後の1987年には廉価版となる「Amiga 500」を発売。当時は海外からコンピューターを並行輸入する好事家も多く、筆者が初めて目にしたAmigaも同モデルです。699ドル(当時の平均為替レートは142.72円なので約10万円)というハイスペックコンピューターとしては低価格で、筆者も友人宅で触らせてもらったことを懐かしくも覚えています。
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そのとき目にしたのが、英国の鬼才Peter Molyneux(ピーター・モリニュー)の「Populousポピュラス、1989年)」というPCゲーム。プレイヤーが神の視点を持ち、民族を繁栄させるために神の力を振るう様は斬新でした。

ポピュラス(Populous、1989年) - Wikipedia

イギリスのブルフロッグが開発、エレクトロニック・アーツが発売したコンピュータゲームソフトである。デザイナーはピーター・モリニュー。初期はパソコン(コモドール Amiga、アタリST、そしてIBM PC)用ゲームソフトとして発売されたが、後に広範囲の国内パソコン、コンシューマゲーム機に移植された。ミニスケープゲーム及びゴッドゲームの代表作である。

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このようにホビー色の強いAmigaでしたが、その一方でひとつの文化を創り上げたのが「Megademoメガデモ)」という存在です。小さいソースコードで派手なアニメーションを描き出すデモ文化は、コンピューター歴史の暗部であるクラック文化を温床に自身の技術力を誇示するユーザーの新しい舞台でした。前述した16ビットコンピューターの台頭でデモシーンは進化し、1MB足らず(Amiga 500のFDDは880KB)のディスク一枚に音楽とアニメーションを詰め込む多くのユーザーがAmigaを使うようになったのがMEGADEMOメガデモ)の由来です。

デモシーン(Demoscene) - Wikipedia

デモDemo)」 とは、主に音楽を伴った美しいCGアニメーションをリアルタイムに表示するプログラムのこと。そして「デモシーンDemoscene)」とは、デモ、デモを作成するデモグループ、デモの見せ合いの場であるデモパーティ、デモの分類のひとつでありそれぞれが特筆すべき歴史を背負ったイントロやメガデモなどの諸要素を総合した文化のことである。

  • サブカルチャーのひとつであり、デモはデモグループと呼ばれる高度な技術を持った人々の集まりによって作られる。デモグループは少なくともプログラミングを担当するコーダー、CGを担当するグラフィッカー、音楽を担当する作曲者で構成される。また、個人で製作を行う場合もあり、その場合はデモメーカーと呼ばれる。ヨーロッパではこのデモシーンにおいて際立った技術力を持った人がコンピュータ業界(特にコンピュータゲーム業界)に就職して活躍することもある。
  • 源流は1950年代に行われたDisplay hackにまで遡ることが出来るが、この文化の直接的な起源は、8ビットホビーパソコンの販売が開始された1970年代末ごろから、8ビットホビーパソコン全盛期となった1980年代初期にかけて起こった。寒い気候のために家庭内でコンピューターで遊ぶことが多い北欧の若者たちの間で、Apple IIコモドール64をはじめとするコンピューター用のソフトウェア(特にゲームソフト)のクレジット表示を自らの署名に書き換え、友人間で見せ合うクラッキングが1980年代前半まで流行った。この「署名」は時代が下るにつれ徐々に高度なプログラミングテクニックを用いるようになり、後に「イントロ」と呼ばれるデモの一要素に発展する。また「見せ合い」は後にデモパーティーに発展することになる。この当時、ディスクを挿入したときに最初に読み込まれるイントロ部分は512バイトから4096バイト程度なのが普通であり、クラッカーはその容量の範囲でクラックトロ(クラックされたイントロ)を作成していた。

その後、クラッキングとは別に自らオリジナルのグラフィックや音楽を作成した上で署名を入れたものが作られるようになる。この頃はグラフィックは2Dであり、単純にスクロールや簡単なラスター画像を表示するものであった。1980年代後半にはAmigaAtari STなどの高性能な16ビット機が発売され、利用できるメモリやファイルサイズも増大してより高度なデモが作られるようになる。これらを称して「メガデモ」と呼ばれるようになった。「State of the Art1992年度「The Party」優勝作品)」などがメガデモの傑作として知られている。

1990年代に入り、パーソナルコンピュータの性能が上がるにつれ、3Dグラフィックスを取り入れた作品が登場するようになる。また、IBM PC互換機の性能が向上し、MS-DOS上で動く「PC demo」が「Amiga demo」や「Atari demo」に代わってデモシーンの主流となった。「Second Reality1993年度「Assembly」優勝作品)」などがPC-demoの傑作として知られている。

その後はWindowsを搭載したIBM PC互換機がパソコン市場を寡占したことや、高性能なGPUが普及したため、それらの環境の上で動くデモが標準となっている(わざわざ「PC-demo」と呼ぶこともなくなっている)。現在でもデモの主流は3Dグラフィックであるが、かつての2Dグラフィックによる表現方法を好む人も多く、そのような作品は"Oldschool"と呼ばれている。また、今もなおコモドール64Amigaなど旧機種のデモを製作しているデモグループも存在する。

日本における「デモDemo)」文化

日本ではデモシーンのような文化は発生しなかった。デモシーンの中心地は欧州であるが、初期のデモはコモドール64Apple IIやZX Spectrum等の、日本で全く普及していない海外製ホビーパソコンで開発されていた。当時の日本はNECPC-8801シリーズやPC-9801シリーズなど日本でしか普及していないパソコン御三家が主流であり、また日本発の国際標準規格であるMSXは国外どころか日本でも主流足りえていないという状況で、1980年代中盤以前の日本には海外製デモを閲覧する環境は無く、従って欧州のデモシーンの動きが日本まで知られる事もなかった。

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しかし1985年に発売され、欧州のデモシーンを席巻したAmigaは日本人のアーティストらを中心にいくらか普及したため、彼らを通じてAmiga用の「メガデモ」が1980年代末ごろに日本に流入した。Amigaの熱狂的なファンとして知られる平沢進は80年代後半ごろから秋元きつねら周囲の人に『Jaggler』などのメガデモを見せびらかしており、1990年代中番にはビデオジョッキーの藤原ヒロシスペースシャワーTVの番組「BUM」で『State of the Art』などの著名なメガデモをいくつか紹介するなどしている。PC-demoがインターネットを通じて流通するようになった現在でも、その頃の名残でデモ全般を「メガデモ」と呼ぶことも多い。

1983年ヨーロッパ最大の家電メーカーであるオランダのフィリップスがMSXをニューメディアと位置づけ販売を開始した。その為、オランダやスペインやブラジルを中心にヨーロッパや南米でMSXは普及した。特に1980年代、MSXはオランダで最も人気のあったコンピューターであり、コモドール社のコモドール64やシンクレア社の ZX Spectrum よりも人気があった。ヨーロッパでメガデモのブームがおこると、ヨーロッパのMSXクリエイターも各種メガデモを開発した。MSX Club GHQという同人サークルが1980年代後半に会報誌や「MSX・FAN」や「MSXマガジン」などの雑誌を通じて欧州製MSXメガデモを紹介したり「ソフトベンダーTAKERU」にて同人ソフトの扱いで販売したりもしていた。特に「MSX・FAN」誌では海外MSXシーンの動向を紹介する「KOKUSAIKA」と言うコーナーでこのサークルの活動がしばしば取り上げられ、さらには「MSX・FAN」1992年11月号の付録ディスクとして、MSX Club GHQによる『ANMA'S AMUSEMENT DISK』が収録されるといった動きがあった。『ANMA'S AMUSEMENT DISK』は後にパソコン通信上に流出して広く閲覧された。当時まだラスタースクロールなどの技術が日本では知られていなかった為、、日本のMSXユーザーを大いに驚かせた。MSX発祥の地である日本ですら、MSX用デモよりAmiga用デモの方が有名であることは『MSXマガジン』の編集者も認めるところであるが、MSX20周年である2003年にはオランダでなおも活動するデモグループによる『MSX 20th Anniversary Demo』が『MSXマガジン』によって日本に紹介され、その健在振りを示した。

現在の日本では動画共有サイトの存在によって実機を所有していなくともデモを閲覧することが可能である。またネット掲示板twitterの存在によってデモ製作者同士の連携も容易となっている。2ちゃんねる掲示板にはデモシーンに関するスレッドがあり、2009年には有志によってオンラインでのデモパーティ「2chparty」が開かれた。2011年にはついにオフラインにて、日本初の本格的なデモパーティとなる「Tokyo Demo Fest」が開かれた。

もちろんほかのコンピューターを使ったデモも多数発表され、1991年には優れたデモを決めるThe Party、翌年からは現在に続くAssemblyが開催されるようになりました。現在では高性能なGPUが普及したため、当時ほどの熱狂的な熱はありませんが、ホビーコンピューターを語る上で欠かせない歴史のひとつです。

Amiga OSをベースに誕生した「AROS

その後のAmigaは加速的に進むコンピューターの進化に追従できず、舞台から降りてしまいますが、そのAmigaのホビーシーンを大きく支えていたのがAmiga OS(Amiga DOS)です。Amiga OSは起動用のファームウェアROMであるKickstartキックスタート)と、デスクトップ環境となるWorkBench(ワークベンチ)のふたつで構成されており、バージョンアップ時には新しいWorkBenchと一緒にROMを配布するという、現在からすれば変わったスタイルを採用していました。

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Amiga OSの中核となるAmigaDOSは、文字どおりディスクシステムを担う部分であり、UNIX風のワイルドカードを用いるなど、先進的な拡張を施しています。その一方でデスクトップ環境を担うWorkBenchは、Windows OSにおけるExplorerMac OSのFinderに近い存在ととらえるとわかりやすいでしょう。名前が表すように作業台をイメージし、FDやHDDなどはWorkBench上に並び、X Window Systemの仮想デスクトップ(ワークスペース)風のマルチスクリーン機能を備えるあたりも群を抜いていました。

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優れたOSを持ちながらも、Amiga自体がホビー向けコンピューターでしたので、Amigaを支える多くのユーザーは1990年に欧州で発売されたメガドライブ日本では1988年)の大ヒットにより、ユーザーの移行が始まりました。また、コンピューターとしても32ビット化した上位モデルが奮わないと同時に、PC/AT互換機現在の一般的なPC)の普及により敗戦が続きます。業績不振とは関係ありませんが、1994年にはAmigaの生みの親でもあるJay Miner氏も亡くなり、Commodore社も倒産。その後各社が新OSを搭載したAmigaの復活を試みますが、いずれも成功に至ることはありませんでした。
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ところでAmigaコンピューターのアーキテクチャー上の最大の特徴は「ハードウェア上においてOSカーネルのメインループ以外にも複数のイベント待ちループが回る」並列処理環境だったという事。
*メインコンピューターが「複数のバッチ処理を互いに排他的かつ相互不可視な形で走らせるタイムシェアリング・システム」に過ぎなかったインターネット・プロトコル確立期、相互通信を成立させる為のイベント待ちループが走るコミュニケーション・サーバと、これらにインタラクティブにアクセスして必要な操作を行うインタープリターが走る端末がそれぞれ別ハードだった事を彷彿とさせる。

ここで思い出すべきは「歴史は繰り返さないが韻を踏む」なる名言とも?