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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「国民国家」概念の起源⑧ 「想像されたもの」としての「市民革命」と「公的ナショナリズム」

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米国の政治学ベネディクト・アンダーソンは「想像の共同体(Imagined Communities: Reflections on the Origin and Spread of Nationalism、1983年)」の冒頭でこう述べています。

わたしの理論的出発点は、ナショナリティ、あるいはこの言葉が多義的であることからすれば、国民を構成することと言ってもよいが、それがナショナリズム国民主義)と共に、特殊な文化的人造物であるということである…

ナショナリティナショナリズムといった人造物は、個々別々の歴史的諸力が複雑に『交叉』するなかで、18世紀末にいたっておのずと蒸留されて創り出され、しかし、ひとたび創り出されると「モジュール(規格化され独自の機能をもつ交換可能な構成要素)」となって、多かれ少なかれ自覚的に、きわめて多様な社会的土壌に移植できるようになり、こうして、これまたきわめて多様な、政治的、イデオロギー的パターンと合体し、またこれに合体されていったのだと。

そしてまた、この文化的人造物が、これほど深い愛着を人々に引き起こしてきたのはなぜか、これが以下においてわたしの論じたいと思うことである。

さらに興味深いのは出版資本主義(Print Capital)との関連で「フランス革命が実際にどうであったかとは無関係に、それへの言及の積み重ねが目指すべき新たな目標設定を可能とした」と述べてる点。

日本におけるナショナリズムと歴史認識

国民国家が最初に形成されたのが18世紀後半の北米大陸とフランスであったことはいうまでもない。そこでは市民に主導された革命過程が、多くの一つ一つは孤立した事件を伴いながら、ジグザグコースをとってあらたな国家をつくりだした。

しかしこの様にして国家が誕生したのはそこまでだった。これ以降はこの二つの市民革命の過程が明確な筋書きをもつ物語として語られ、理想化され、その結果として「国民国家モデル」が出来上がると、このモデルが支配者にとっても、被支配者にとっても、達成すべき普遍的な価値、いわゆるグローバル・スタンダードとして強圧的な影響力を有する様になった。

そういえば、Wikipediaにおける「市民革命」の項目なんて、中々見応えがあります。

市民革命(ブルジョワ革命、民主主義革命)

封建的・絶対主義的国家体制を解体して、近代的市民社会をめざす革命を指す歴史用語である。一般的に、啓蒙思想に基づく、人権、政治参加権あるいは経済的自由を主張した「市民」が主体となって推し進めた革命と定義される。代表的なものは、イギリス革命(清教徒革命・名誉革命)、アメリカ独立革命フランス革命などである。

  • ここでいう「市民」は、封建・絶対主義から解放され、自立した個人という意味および商人・資本家という意味を持っているため、市民革命の定義も二義性を持つ。

  • 一方で、この二義性は表裏一体をなす。すなわち、革命をなすための市民社会の形成には資本主義の発達が不可欠であり、私的所有の絶対を原則とする資本主義社会の成立が必要だったのである。

  • ブルジョワジーの誕生と市民社会の形成とは相支え合う要素であり、ともに市民革命の要件とされる。ブルジョワジーが発展するためには労働力の移動、流通の自由や私的所有などが認められていなければならず、これは市民社会の成長を要件としている。いっぽうで、市民社会がつくられるためには封建的支配者の打倒が必要であるが、それは経済力を持ったブルジョワジーの力が必要であった。

    ブルジョワジーの誕生」…個人が社会の構成要素として、一定の経済力を持ったかたちで主体的に行動することが封建制・絶対主義を覆すための前提となる。したがって市民革命には革命の主体となるブルジョワジーの誕生が前提となる。

    市民社会の形成」封建制・絶対主義の恣意的な支配から脱却し、意志を持った個人の自由なまとまりとしての社会をめざすためには市民社会の成長が要件となる。個人の社会的・経済的自由に啓蒙思想が寄与し、各地で出版などメディアの成長がみられた。革命の結果、権利章典・アメリカ独立宣言・フランス人権宣言などが実現された。

  • ロシア革命もこれに分類されることがある。

市民革命は、また、資本主義社会から社会主義共産主義社会の実現をめざしたプロレタリア革命とは性格を異にする。

  • 1848年革命、パリ・コミューンなどは一般的にプロレタリア革命に類される。

  • 封建制・絶対主義体制から個の自由をめざしたのが市民革命であり、資本主義と労働者が対立しておこった革命はプロレタリア革命とされる。

  • ドイツやオーストリアでの1848年革命はプロレタリア革命的色彩が強く、ロシア革命は資本主義の段階を経ないでおこったプロレタリア革命といわれる。

  • こうした革命の定義は西ヨーロッパ世界の様式を前提としており、辛亥革命明治維新など世界各地で起こった政治的変化・革命・独立戦争はこれらに分類しきれず、現在も議論の余地が残っている。

  • また、いわゆる共産貴族からの支配から脱した東欧革命は市民革命に同等であると考えられるが、むしろソビエト連邦からの独立革命といった意義が強いとも考えられ、20数年という時間において評価は定まっていない。

フランスなどのように、領主が支配する封建制の打破を目的として起こる場合、イギリスのように経済的・政治的独占状態を脱して「平等」の実現を目的として起こる場合、あるいは種々の民衆運動が肥大化した場合など様々なプロセスがあるが、いずれも政治的平等を目的としている点では同じである。

まさしく、どこから手をつけたら良いか分からないほど徹底的なまでに「想像されたもの」そのもの。

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  • フランス革命の真実】アンシャン・レジーム下で相応に育ったブルジョワ階層(官僚、法律家、国王庇護下で育った産業従事者など)はその多くが王党派やジロンド派に属し、サン・キュロット(浮浪小作層)主体の革命軍に容赦無く殺戮され、フランスにおける産業革命開始を半世紀以上遅らせた。

    http://www5a.biglobe.ne.jp/~french/cham/ver/gallery/img/01.jpg

  • 二月革命の真実】フランス革命に際して自らの宮殿の庭からバスチューユ襲撃(7月)とヴェルサイユ行進(10月)の実行部隊を進発させたオルレアン公がやっとブルボン家に対する王統交代に成功。ちなみに蜂起を先導した炭焼党(イタリア語カルボナリ(Carbonari)、フランス語シャルボンヌリー(Charbonnerie))もまた、オルレアン公の息のかかった団体だった。

    http://imgtu.lishiquwen.com/20160329/38d0cd8c776ed1d8e25569488389ab9d.jpg

  • 三月革命の真実】ウィーンで蜂起した群衆は、ただ訳も分からず暴れまわっていただけだった。ドイツ語圏における蜂起の主体はむしろ農民で、領主から相応の譲渡を引き出すといち早く撤収。二階に上げられ梯子を外された形となった都市住民と労働者は政府軍によって容赦なく包囲殲滅される展開に。

    意味不明だった1848年のウィーン革命

    http://www.onyx.dti.ne.jp/sissi/episode-60.jpg

  • 第二帝政開始の真実】サン・キュロット兵士の多くが革命戦争からナポレオン戦争にかけての恩給で自作農化し、二月/三月革命(1948年〜1949年)後の四月革命でルイ・ナポレオン候補(後の皇帝ナポレオン三世)を当選させる。ただしこの選挙では領民や教区の組織票によって時代を巻き戻そうと企図する王党派や教皇至上主義者も多数当選。ルイ・ナポレオン大統領は彼らの影響を振り切る為にクーデターを起こし、帝政に踏み切ったのだった。

最近の歴史観ではこんな感じ。そもそも…

市民革命/ブルジョワ革命

日本では「市民」概念に混乱があるため、マルクス主義で言うブルジョワ革命の訳語として「市民革命」があてられたが、西欧ではそのままの「市民革命」ということばはなく、それは日本語だという指摘もある。
*そもそも「日本にしか存在しない世界史概念」である可能性すら指摘されている?

それでも、とりあえず「こういうもの」という思い込みさえ広がれば革命は起こせます。もちろん、それだけじゃ「市民社会(Civil Society)」や「国民国家(Nation State)」の建設など覚束ず、それで「革命自体は起こせたけど、その後延々と内乱が続くだけの世界最貧国と化した国」とか「革命前より酷い独裁国家が誕生した国」なんてのが次々と量産される羽目に陥る訳です。

国民国家(nation state)

「主権、国民、国境」という三要素を備えた国家において、国民主権が確立し、憲法と議会政治が実現した国家。

西ヨーロッパでは19世紀までに国民国家が形成されたが、東ヨーロッパにおいては20世紀前半の第1次世界大戦後がその時期に当たり、アジアでは日本などは19世紀に曲がりなりにも国民国家を形成させたが、多くは植民地か半植民地状態にあったため、20世紀後半の第2次世界大戦後に国民国家となっていく。

なお、最近の議論で、「国家」や「国民」とは、人工的に作られた「想像の共同体」にすぎない、という見解が注目を集めている(ベネディクト=アンダーソン『想像の共同体』1983)。「国民国家」概念も含め、まだ論議の途上にあるといえる。

市民階級/有産市民層/ブルジョワ/ブルジョワジー

「市民」や「市民社会」の概念は幅が広く、また多面的であり、用いられる場面で意味が異なってくる。概ね世界史用語ではブルジョワジーを指すが、英語の civil の訳語に当たる「市民」概念は、現在でも一般に「市民運動」とか「市民会館」などのように使われている。

これは「国家権力」や「行政」に対する、一定の地域住民の集合を言う場合である。本来は都市の住民という言う意味であった市民概念であるが、このような意味合いでは現代では農村の住民も「市民」と言われる。

civil という語はもとは聖職者に対する俗人を意味し、文明という意味もある。さらに、civilian とえいば文官、文民(武官、軍人に対して)となる。

市民社会(Civil Society)の定義がこれでは良くわかりません。

児玉 由佳 「市民社会」の概念の変遷と「開発」との関連

市民社会」という言葉自体の起源は古く、長い歴史を持つ。

古代における「市民社会

市民社会」の起源は古代ギリシャまでさかのぼることができるが、ここでの「市民社会」は政治とほぼ同義であった(Van Rooy[1998:7])。「市民」は、法の遵守や軍務への貢献という責務とともに、政治活動への参加という特権を与えられていた。

ただし、彼ら「市民」の支配下に非「市民」である奴隷 が多数存在し、また、女性も除外されていたことからも明らかなように、共同体内の成員は互いに平等であるものの、その資格はひじょうに限定的であった(岡野[2003])。

この辺りに迂闊に憧憬心を抱くと「政治的意識が高い(というより「政治的意識しか存在しない」)市民」なんて飛んでもない存在が誕生する事があります。

ペリクレスを理想視する「政治的市民」とプラトンの「詩人追放論」

古代アテナイに軍事民主主義の全盛期を顕現させた政治家ペリクレス(紀元前495年?〜紀元前429年)はその名演説でも知られる。

  • 「貧しいことは恥ずべきことではない。しかし、その貧しさから脱しようと努めず、安住することこそ恥ずべきことであるとアテナイ人は考える」

  • アテナイの住民は富を追求する。しかしそれは可能性を保持するためであって、愚かしくも虚栄に酔いしれるためではない」

  • アテナイの住民は私的利益を尊重するが、それは公的利益への関心を高めるためでもある。なぜなら私益追求を目的として培われた能力であっても、公的な活動に応用可能であるからだ」

  • アテナイでは政治に関心を持たない者は市民として意味を持たないものとされる」

実際には対ペルシア防衛機関として設立されたデロス同盟の同盟基金パルテノン神殿などの公共工事に公然と横流ししてアテナイ市民の懐を潤しつつこれを言ってる。それを原因としてペロポネソス戦争(431年〜404年)が勃発して敗戦と同時にアテナイ全盛期が終わる事を思えば格調高さも半減である。
デロス同盟の同盟基金…最初はデロス島で第三者が管理していたが、やがてアテナイに移されアテナイ人が管理する様に。

  • 特に最期のがいけない。サルトルの「アンガージュマン(Engagement)」論の様な「市民は何でも政治に結びつけて政争に持ち込んでこそ、その責務を果たす」みたいな粗雑な理論としばしば結びつけて語られてきたからである。
    マンハイムは「進歩主義は平等を目指せるのは(基準のはっきりした)政治と経済の分野だけである(後は放っておくしかない)という立場に立つ」としたが、歴史の何処かの時点でバリエーションとして「人類の平等を達成するには全てを経済化して政治課題に掲げるしかない」みたいな逆転の発想が生じた感がある。
  • こうした考え方とプラトン「国家」の中で語られる「詩人追放論(「神々が姦淫したり、「詩人が称揚するのは人間が酒を飲んだり、悪巧みする様な不道徳な物語ばかりで、こういう話は可能な限り語られるべきではない、ホメーロスはじめ、多くの詩人を我々はポリスから追い払わなければならない」とする極論)」の組み合わせがまた最悪に近い。

  • 「詩人追放論」の背景にあるのは「美には真に正しい一つだけの正解が必ずある」とするイデア論であり、だから「政治性や寓意性や神話性を備えた美の方がそうでない美より正解に近い」とか「正解に近い美術様式だけが尊ばれなければならない」なんて極論に行き着いてしまうのである。

科学的マルクス主義も、明らかに同種の強迫概念を含む。ホイジンガ「中世の秋」に登場する「全ての体験にキリスト教学的解釈を求める中世的知識人」を連想させる。

近代的市民社会

現在の「市民社会」の議論の出発点として、18 世紀スコットランド啓蒙の時代のアダム・ファーガソンの名前が挙げられることが多い(Van Rooy[1998:8]、 山口[2004:1])。
*アダム・ファーガソン(Adam Ferguson、1723年〜1815年)…「市民社会論(Essay on Civil Society、1767年)」において「自然状態(states of nature)」論や社会契約論やデビッド・ヒュームの功利主義を否定して人間の振る舞いはむしろ「力への意志(will to power)」「冒険心( aggressiveness)」「敵愾心(animosity)」「闘争心(a instictive desire for conflict)」「自らの脆弱性への配慮(a susceptibility to corruption)」などによって駆動されているとした。

近代的な市民社会が議論された時期は、18世紀から、ヘーゲルマルクスが活躍した19 世紀末までが該当するといえよう。利己的であると同時に合理的で自己を確立した個人が想定された(Howell and Pearce [2001: 18])。このような市民が活動する場が市民社会であり、国家との関係が主に議論の対象となった(山口[2004:138-139])。ここでは、経済分野における国家に対する市民社会の自律の獲得が議論の中心である。想定されている市民社会の活動範囲は、政治とは一線を画した分野(=経済)となる。したがって、近代的市民社会論では、市民社会と国家の二元論をとることが多い(Howell and Pearce [2001:76]、山口[2004:151]、篠原[2004:93-97])。
*西ヨーロッパにおいてはそもそも「国民国家」と「市民社会」は、相互影響を与えつつ発展してきたとはいえ起源が全く異なる。アメリカ開拓地は政府の手が及ばない半独立状態で、ドイツ語圏や日本は無数の領邦国家に分断されていた。当時の近代的市民社会論は、これらをまとめて一緒くたに語ろうとしたのである。

Hyden[1997]は、国家と市民社会との関係性を示す座標軸に、私的経済志向とアソシエーション志向という座標軸を加えて、近代市民社会論の4類型を挙げている。

さらにこの4類型に加えて、マルクスは、市民社会を「過去の歴史を通じて既存の生産力によって決定され、同時に決定してきた形態」(Marx、Elster[1986:182]より引用)であるとして「ブルジョア社会」と等置し、打倒すべきものとしている(山口[2004:141])。
マルクスにとっては「革命に動員不可能な(あるいは動員は可能でも個人的欲求が満たされれば勝手に離脱してしまう)存在」は全て敵という設定。この基準から(独自の判断基準で動く)「ブルジョワ階層」や「農村」を切り捨てたのであって、そこに実態の詳細を知ろうという意欲は全く見られない。あと当時のドイツには「ブルジョワ階層=収入制限選挙にかこつけて議席を独占し、獲得した政治力を私利私欲を満たす為だけに使ってるエゴイスト」なんてイメージもあった。

マルクスに限らず、近代的市民社会論における市民社会は「ブルジョア市民社会」の性格をもつ(浅野・篠田[1998:30]、篠原[2004:100])。ここで想定されている市民は、「『財産と教養(Besitz und Bildung)』という表現に集約されうる上層市民層に属する人々」(山口[2004:163])である。これは、古代市民社会論における限定的な市民の定義から続く流れであるともいえよう。
*「『財産と教養(Besitz und Bildung)』という表現に集約されうる上層市民層に属する人々」…確かにこの条件なら上掲4グループとも満たす。逆を言えばそれくらいしか共通点がないとも。

https://www.parlament.gv.at/POOL/BILDER/41334/4133437_384.jpg

ただしこうした近代的市民社会の議論は、産業革命の進展による社会の大きな変容とともに、19 世紀後半にはほとんど姿を消すこととなる(Van Rooy[1998:10])。

なかなか良い要約で、これまでの投稿の内容整理にも役立ちました。

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ところで、米国の政治学ベネディクト・アンダーソンは「想像の共同体」において「公定ナショナリズム=共同体が国民的に想像されるようになるにしたがって、その周辺においやられか、そこから排除されるかの脅威に直面した支配集団が、予防措置として採用する戦略」なる概念を提唱しています。

日本におけるナショナリズムと歴史認識

19世紀に入ると複雑に入り組んだ多言語領域を支配するヨーロッパやロシアの王朝国家も国民国家モデル」に否応無く対応せざるを得なくなった。

それで民衆的ナショナリズムの高揚に抗して支配的地位を維持しようとして帝国領土の広がりに対応する想像の共同体を創出し、幾つもの異質な地域からなる帝国の全領土をそのまま「国民国家」に変貌させようとした。

この壮大な奇術に「公的ナショナリズム」という呼び名を与えたのはシートン・ワトソン(Hugh Seton-Watson )だった。この施策を成功させる為の最大の手段が公的性格を有する教育だった事はいうまでもあるまい。これに成功したら民衆の間にそれに呼応した同胞愛や共同体意識が芽生えた筈であったが、結局王朝国家が19世紀半ばに達成した事業は短命に終わり、20世紀前半には王朝国家の側が消滅の憂き目を見たのだった。

しかしアンダーソンによれば、同様の試みは「ロンドン、パリ、ベルリン、マドリード、ワシントン」でもまた追求されたという。

 ところが割とこれが応用の効かない困った概念なんですね。

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  • 貴族や王家は境界内では「身分差」を強調するが「国際的存在」である。
    *欧州の貴族・王族は国を超えて貴族同士王家同士婚姻した。イギリスの現在の王家はドイツ王家から来たし、スウェーデン王家は平民出身のフランス人(ナポレオン軍の将軍)である。

    https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/58/The_British_royal_family_on_the_balcony_of_Buckingham_Palace.JPG/1200px-The_British_royal_family_on_the_balcony_of_Buckingham_Palace.JPG

  • 「身分差の維持」を主張する(国内)大貴族連合も、「身分差の廃絶」を目指す(国内)庶民も、境界を強調し「排外的」である点は変わらない。
    *フランスでは「ゲルマン系のフランク人がケルト系のローマ・ガリア人を征服した」歴史を共有しつつ前者は「貴族の先天的優越を強調する歴史観」、後者は「第三身分の最終的勝利を強調する歴史観」を育んできた(「2つのフランス」論)。

    http://www.agij-paris.com/paris03/image/23-01.jpg

  • 二月/三月革命(1848年〜1849年)まで東ヨーロッパ諸国では領邦国家状態が保たれ、その秩序を乱す自由主義思想やナショナリズム(国民統合運動)は厳重に取り締まられていた。またドイツ帝国建国時、宰相ビスマルクに皇帝に据えられたプロイセン国王が「所領の経営が留守になるから」という理由で最後まで即位を渋っていたのは有名な話。
    *そして19世紀後半に流行した「リソルジメント(Risorgimento、イタリア統一運動)」や「ドイツ統一運動(大ドイツ主義と小ドイツ主義に分裂)」や「汎スカンディナヴィア主義」といった諸概念もまた「民衆ナショナリズムの概念」にも「公定ナショナリズム」の概念にも合致しない。

さて、これはどういう事なのか?

中島成久「国民国家と人種主義(Nation-StateandRacism)」

アンダーソンのナショナリズム論の根底に「死」をめぐる議論がある。アンダーソンはその著書このいたるところで、「人々はなぜ想像の産物である国民というもののために死ぬことができるのか」と間うている.20世紀はiii比争の世紀であったが、戦争の犠牲者を国のために殉じた殉教者としてたたえ、その愛国心的な行為を賛美し、その行為の純粋性が強調されるほど、その悲劇性は軽減される。ここに愛国心ナショナリズムは結合する。

アンダーソンは、植民地支配者の人種主義的愛国心と、被支配者のゲマインシャフト的表象に満ち溢れたナショナリズムの違いに注目している。帝国主義的支配や戦争を賛美する数多くの文学、音楽、芸術作品のなかに人種主義的感`情が満ちているのは当然である。だが、植民地支配から立ち上がろうとする植民地ナショナリズムの側には、支配者への憎しみが鴬くほどないとアンダーソンは断言する。国民への愛は膚の色とか、血統などと同化される。つまりゲマインシャフトを想起する用語が多用される。

処刑前のホセ・リサールの詩にあるように、政治的な愛の表現は親族関係の用語(雌国、父の国、Patria)や故郷に関する用語(故郷、タナー・アイールIC)などで表現される。かくして国民であることは膚の色とか、ジェンダー(性別)、血統などと同化させられる。いずれも個人が選べない物である。つまり、ゲマインシャフトを想起させる用語と結びつく

ところが、植民地支配者の側からはすさまじいほどの人種主義的表現が発せられている。そうした人種主義的表現は植民地支配者の側から被支配者に向けられた軽蔑と憎悪、優越の表現であるのみならず、植民地争奪liif争を繰り返した帝国主義者の間でも同様にお互いの敵を憎悪する表現のうちに見出された。

フランスやアメリカの植民地主義者は、多くのベトナム人を何年もの間殺しつづけたが、ベトナム語の「不可解さ」ヘの憤激が噴出し、死につつある植民地主義に関する隠語「グークス(東洋人め!)」が多用された。

そうした悪口雑言は基本的に人鈍主義的である。「スラント」という言葉は「目の細い(スラント・アイド)」の縮小された言葉であるが、単に政治的敵をさすだけではない。その言葉は肉体的な外観に敵を帰すことでその国家性を消し去る。肉体的な特徴に言及することでベトナム人を否定する。ちょうどratonがアルジェリア人であることを消し去るように。

こうした語彙の特徴はベトナム戦争期の「チャーリー(ベトコン)」とか「VC(ベトコン)」のような他の言葉と対比される。それはより以前のボシェズBoches「(ドイツ人の)木偶の坊」、フンズHuns「第二次世界大戦中のドイツ兵」、「ジャップス」、フロッグズ(フランス人)といった薑言葉と同じく、ある一つの国民に対して用いられる侮蔑語であるが、敵の成員への蔑称である。

ここでのアンダーソンの議論は、太平洋戦争当時の日米間の人種主義的差別と偏見の問題を分析したジョン・ダワーの議論と通じ合う。

  • 商業主義的配慮から『人種偏見」と邦訳書の題名がつけられたこの本の原題を直訳すると「無慈悲な戦争_太平洋戦争における人種と力関係」となる。この原題からも推察されるように、ダワーのこの本は「人種戦争の真相を明らかにし、太平洋戦争における日米両国の憎悪の構造を分析し、人種主義再生の危険性に警鐘を鳴らす問題作」(同書コピーより)であるのだ。

  • 欧米人が日本人(軍)を、「猿、劣等人種、狂人」として表現するのに対して、神州不滅を唱える日本人(軍)は欧米人(軍)を「鬼、エゴイスト、道義なき人々」と見る傾向が強かった。

だが、アンダーソンとダワーは次の点で決定的に異なる。つまり、ダワーが日米間の人種的偏見、差別の問題を分析したのにとどまったのに対して、アンダーソンはナショナリズム全体の問題との関連性を追及する。

  • ここでアンダーソンは、オフイシャル・ナショナリズムとそれに由来する人種主義を、植民地支配者側の人種主義に対して、相互に関連はするが別々の現象として捉えようとする。

  • オフィシャル・ナショナリズムの成立の背景にはポピュラー・ナショナリズムの流行がある。

  • そのポピュラーナショナリズムと関連して20世紀に植民地解放運動という形をとって植民地ナショナリズムが登場する。

  • こうした歴史的素描の影で、オフイシャル・ナショナリズムは人種主義をその不可欠なパートナーとしながら、帝国の栄光と植民地支配の正当性の根拠として成立する。

人種主義が19世紀にヨーロッパの外で発達したとき、二つの相互に関連する理由からそれは常にヨーロッパの支配と結びついていた。

第一で最も重要なことはオフイシャル・ナショナリズムと植民地への支配者の言語の押し付けである。

オフィシャル・ナショナリズムは存立を脅かされている王朝と貴族層一上流階級一の大衆的で一般庶民のナショナリズムに対する典型的な反応である。

植民地人種主義は王朝の正統性と国民的な共同体を接合させる「帝国」という観念の点ではもっとも主要な要素である。それによって英国領主は他の英国人よりも優れていると思い込む。

後期植民地帝国の存在はその地の貴族層の保塁を支えるのに役立った。というのは植民地貴族層の保塁はグローバルでモダーンな舞台に古い権力と特権を保持しようと現われてきたからである。

植民地ナショナリズムは植民地解放、帝国主義打倒を叫びこそするけれども、決して人種主義批判をすることがなかったというのは「驚くべきことだ」、とアンダーゾンは言う。これは彼らの寛容`性の表れでは決してなく、植民地ナショナリズムの限界を露呈している。植民地ナショナリズム成立の際にも、共通の過去、同胞といった意識が「想像」され、心地よい永遠の時間のサイクルが回っていく。

植民地的イデオロギーの表明以外は、反植民地運動の中には「反人種主義」はほとんど表明されていないことは驚くべきことだ。

このことは言語の中にも見出される。例えばジャワ語のlondo(HollanderとかNederlanderから派生)はオランダ人のみならず、「白人」をも意味する。ジャワの農民にとってオランダ人以外の「白人」に出会う機会はめったにないわけで、その二つの意味は重なっている。同じようにフランスの植民地領で「白人(レ・プラン)」はフランス人と白人`性を分離できず、支配者を意味している。どの場合にも「ロンド」や「プラン」が育ちに関する侮蔑語的意味を失うことはなかった。

スペイン語を話す混血メキシコ人は征服者よりも半ば滅んでしまったアズテカやマヤなどにその祖先を求める。ウルグウアイの革命的な愛国者クレオールであるが、彼らは1781年凄仙惨な拷問を受けて死んだ原住民反乱指導者のチユパック・アマルの名前を採っている。

こうしたすべての愛着の対象となる「想像されたもの」であることは逆説的である。タガログ人、滅ぼされた部族、母なるロシア、タナー・アイール。「愛国心」はこうした感情と変わるものではない。愛国心のなかには`常に好感への想像がある。例え平凡な男女であっても恋人の目は特別だ。どんな言語であろうと、愛国者にとって彼/彼女の母語は特別だ。その言葉を通して母の膝に出会い、一人で墓に入っていく。過去はよみがえり、仲間意識は想像され、将来が夢想される。

アンダーソンは愛国心がその言語的表現として人種主義に転化するといっているが、現実はそうではない。ナショナリズムが前提とする「想像された共同体」として「国民」は、「国民」の普遍性を追及していく際に人種主義を生み出していく。ナショナリズムはそうした矛盾を絶えず内包しながら、存在していく。

 つまりこういう事みたいですね。

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  • 「公定ナショナリズム(Official Nationarism)」とは、何よりもまず「植民地において統治側の多くが民衆ナショナリズムの高まりを抑え込む為に実際に実施した施策」を指す。
    *ただ実は大日本帝国が「国民総動員体制」完備の為に台湾と朝鮮半島で遂行した「皇民化運動」も厳密に言うとこの範疇には入らない。
    皇民化教育 - Wikipedia

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  • アンダーソンはそうした施策の源流が「各統治者の祖国において領主が領民に対して行った措置」に由来する可能性を示唆しているが、実際にほとんど実例を挙げてないし、詳しく検証している訳でもない。
    *ここでは英国における領主と領民の関係を例に挙げているが、まずこの例からして現実から逸脱している。「植民地で財を築いて王侯貴族の様に暮らしている英国人支配者」はむしろ植民地にしかいなかったというのが現実。ただフランス人やスペイン人はまた別で、産業革命によって財をなしたアメリカの成金がその住居やライフスタイルを真似るといった展開はあった模様。

    *ここでもやはり大日本帝国が奇妙な例外として浮かび上がってくる。多くの植民地統治者は確かに故郷から荘厳な建築様式や儀礼を持ち込む事で被統治者を圧倒しようと試みたが(絶対王政的方法論!!)、大日本帝国被統治者に「未来」を観せるのを最優先課題と考え、下手したら内地より立派な公共物を次々と建築していったのだった。

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  • だが別にアンダーソンの論法からすればこれは問題とならない。何故ならばそれでもそれが植民地統治者にとって「想像されたもの」だったのは確かで、どれだけそれが実際の歴史展開と異なっていたとしても、その施策が特定の時期に特定の役割を果たした歴史的事実は動かないからであった。
    *実際には「故郷から荘厳な建築様式や儀礼を持ち込む絶対王政的威圧法」は、尊厳を勝ち取るどころか現地人の間で陰で嗤われる事も多かった。大日本帝国の外地においては特にそうで、そんな虚飾より水路を整備したり、植林したり、鉄道を敷設したり、水力発電所を建設して電気を通したり、化学肥料を量産したり、冷蔵設備を敷設した方がよっぽど住民を心服させる力がよっぽど「統治者としての威厳」を示す力が強かったと考えられている。

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まぁ大日本帝国の場合「統治側と被統治側の文明差が欧米列強と植民地ほど開いてなかった」「日本も欧米列強に追いつこうとしてる最中で、それは被統治者の目にも明らかだった」とか色々特殊事情が付帯してるせいでこうなる訳ですが。
近代国家の形成とナショナリズムのあり方
植民地インドのナショナリズムとイギリス帝国観 -ガーンディー以前の自治構想

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それにつけても、まだまだ「国家神道=公定ナショナリズム」説、根強い…ところが実は本物の「大日本帝国の公定ナショナリズム」なるもの、もっともっと遥かに恐るべき代物だったりするのでした。

紀平正美(1874年〜1949年)

日本の哲学者。元学習院教授、国民精神文化研究所所員。文学博士。三重県出身。日本におけるヘーゲル哲学研究の先駆者。

1900年、東京帝国大学文科大学哲学科卒業。

1905年、「エンチクロペディー」の一部を共同で翻訳。

「哲學大辭書(1912年)」の編纂においては、論理学・認識論に関する記事の執筆を担当。

國學院大學東洋大学などの講師を経て、1919年に学習院教授に就任。

松尾秀明「日本仏教と国民精神」

東大でも講義していたが、生五来助によればその内容は「精神現象学(Phänomenologie des Geistes、1807年)をテキストにして、内容は日本精神論」であり「とくにヘーゲル弁証法の説明では、日本神話が例にとられる事が多かった」といった内容だったという。

要するに「ヘーゲル弁証法を用いた日本主義」の起源は、日本が軍国化するはるか以前まで遡る。 

1932年から国民精神文化研究所所員。同所事業部長をつとめる。

松尾秀明「日本仏教と国民精神」

国民精神文化研究所は文部省の直轄で、その組織は研究部と事業部に分かれ、事業部には全国中等学校講師の再教育を行う教員研究科や、いわゆる「左翼学生」の指導矯正の為の研究生指導科があった。一方研究部には歴史、国文、芸術、教育、法政、経済、自然科学、思想の九つの科に分かれ、それぞれに所員、研究嘱託、助手が置かれた。

國學院教授で研究所の研究嘱託を務めた河野省三が研究所職員は「国民精神分野に従事し、日本精神文化を培養して、皇道の本義を発揚するつとめ」と述べている様に、その目的は国体・国民精神の原理を明らかにし、マルクシズムに対抗する理論体系を確立する事にあったと思われる。 

戦時下は国民精神を鼓吹する国民精神文化研究所において中心的存在であった(1943年の改組による閉鎖まで在籍)。

松尾秀明「日本仏教と国民精神」

紀平正美は日本主義者として、徹底的に日本の優越を説く立場にあった。

  • 仏教については大乗仏教が伝来すると人々がただちに「容易にこれを了解しえたる事」をもって当時の日本文化が「決して弱小にはあらざりし事を証明した」とする。儒教に至っては「その精神は中国では実現せず、日本において実現された」とする。

  • 何故なら「日本的なるもの」が儒教仏教に先立って存在していたからである。「日本的なるものは、仏教者や儒教者がいうが如くに彼らより得たるものにあらずして、彼らによって自己を覚醒せしめ、自己を深化せしめたるものに他ならない」。

  • ならば日本的なるもの」とは何か。「和」の精神に他ならないという。聖徳太子も「日本人が「和」の本質をよく顕している事について「帰依則行善」と考え、衆ともに生き様と決意した」。「安んじて行ぜられるる意識の立場をば、三世十万の諸仏が皆蓮花王座の上に安住して、各自の世界を構成し居るという意味の芸術表現である」。
    *「蓮花王座」…「華厳経」の宇宙観においては「宇宙神毘盧遮那仏の座する「蓮華蔵世界」を中心とする東・南・西・北・東南・西南・西北・東北・下・上の十方(じっぽう)にそれぞれ他の仏が教えを説く別世界が存在し、これが糾合される形で大宇宙が成立している。
    木村清孝「華厳経をよむ」1997年

  • そして「蓮花王座」とは聖武天皇が(「宇宙神毘盧遮那仏を大仏殿に祀る)東大寺を中心として全国に国分寺/国分尼寺を建立する事によって示そうとした宇宙観、すなわち「(天皇の座する)高御座(たかみくら)」をムスビ(産霊)の中心と選んで各臣民が主体的に没入する事によって現出する君民一如の民族統合ネットワークに他ならない。これこそが日本民族自主の客観的根本要因たる「和の精神」の本質であり「高御座の思想」として訓ぜられるべきである。

また「日本における絶対的なもの」の基準を「日本人の生活それ自体、すなわち基本的欲求」に置き「かかる絶対者はそれ故に知識の対象でなく行によって顕されるところのものである」と結論付ける。

戦後、公職追放

「高御座=ムスビ(産霊)の神」論

平田篤胤イエズス会マテオ・リッチの「天主実義(1604年)」より援用する形で国学に導入したスコラ学に立脚する機械的宇宙論
*スコラ学の大源流は(古代ギリシャ哲学に立脚するヘレニズム思想とイスラム教学の止揚を目指した)アラビア哲学にあり、そこで扱われた主題は多民族帝国の割拠する4世紀頃の中央アジアで編纂された華厳経とかなり重複している。

①龍樹の仏教的因果論同様、宇宙を「原因が結果を生じ、その結果が原因となりまた結果を生じるといった連鎖」として説明するが、この考え方を極限まで突き詰めると「宇宙の始まりは、原因なくして結果を生じた、つまり無から有が生じたのか?」という根本的疑問に突き当たる。

②スコラ学はこれこそ神が実在する証明とし、その考え方から分岐する形で「神はこの世界を創造したに過ぎず、その後は一切干渉してない」なる逆転の発想から人間の主体性を重視する理神論(Deism)が成立し、フランス啓蒙主義を主導する展開となる。

第18講 啓蒙思想によるキリスト教教理の変質

平田篤胤はこうした思考様式を日本神話冒頭にのみ登場する「ムスビ(産霊)の神」、すなわち古事記における高御産巣日神日本書紀における高皇産霊尊、葦原中津国平定・天孫降臨神話における高木神(たかぎのかみ)などと結びつけたのである。

大日本帝国時代の日本主義者達は、さらにこの思考様式を発展させ高御座(たかみくら、天皇位を象徴する玉座)と結びつけた訳である。

高御座(たかみくら)- Wikipedia

天皇位を象徴する玉座のこと。調度品としては、歴史的に伝統的な皇位継承儀式の中核で、いわゆる即位礼において用いられるものであり、皇位と密接に結びついている。京都府京都市京都御所に常設されている。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/66/Takamikura.jpg/320px-Takamikura.jpg

  • 平城京では平城宮大極殿に、平安京では平安宮(大内裏)の大極殿、豊楽殿、のちに内裏の紫宸殿に安置され、即位・朝賀・蕃客引見(外国使節に謁見)など大礼の際に天皇が着座した。内裏の荒廃した鎌倉時代中期よりのちは京都御所紫宸殿へと移された。

  • 平安時代にあっては、天皇着座の際、摂関家藤原兼家が近侍していたとの記載が史書にみられるものの、即位式の際には摂関は高御座後方の北廂東幔内にて控えるのが例であり、天皇に御笏を献じる一時を除けば高御座に足を踏み入れることはなかった。しかし、院政成立後の堀河天皇即位の際には摂政藤原師実が、鳥羽天皇即位の際にはやはり摂政藤原忠実が高御座の中層にまで登っており、以後、摂政職にある者が高御座に登壇するしきたりとなった。遅くとも鎌倉時代の後期には高御座に着座した新帝に摂政が印明を授ける即位灌頂がおこなわれるようになった。

  • 現在の高御座は、大正天皇即位の際に、古式に則って制作された物であるが、玉座は茵(しとね)から椅子に代わり、新たに皇后が着座する御帳台(みちょうだい)が併置された。こんにち京都御所の紫宸殿に常設されており、春・秋の一般公開時に見ることが出来る。

  • 高御座の構造は、三層の黒塗断壇の上に御輿型の八角形の黒塗屋形が載せられていて、鳳凰・鏡・椅子などで飾られている。椅子については古くから椅子座であり大陸文化の影響、と考える人がいるが、『延喜式』巻第16内匠寮に高御座には敷物として「上敷両面二条、下敷布帳一条」と記され二種類の敷物を重ねる平敷であり椅子ではない。伊勢奉幣のさいの子安殿の御座や清涼殿神事のさいの天皇座は敷物二種類を直接敷き重ねるもので、大極殿の御座もこれに類する。

調度品としての「高御座」の保管場所そのものから天皇の正式な在所を権威づけるだけの伝統的・文献的根拠は明確ではない。

  • 仁藤敦史によれば古代日本では高御座と京職などの存在することが首都の要件であったとする。

  • 高御座は天皇の所在地を示すものという見方があり、これに従えば古代から大極殿に高御座は常設されていたとなるが、延喜式や中世の史料によれば高御座は組み立て式で、即位や朝賀などの重要な儀式のときだけ使われ、終われば撤去されるものであったとされる。

  • 高御座の成立は大極殿の成立より早いと見られているが、国家的儀式を大内裏大極殿で開催されるようになってからは大極殿で、大極殿の廃絶後は様々な殿舎で行われ、中世では太政官庁、南北朝の代には天皇即位の際に南朝北朝の双方に設営されていた。

  • 後柏原天皇(在位1464年〜1528年)が紫宸殿で即位式をおこない高御座は紫宸殿に移され、以降高御座は紫宸殿にある。

  • 天明の大火(天明8年、1788年)の際に焼失し、復元された。

  • 近代に入ってからも、明治天皇大正天皇昭和天皇の即位の大礼は、高御座のある京都御所で行われた。

  • 今上天皇の際は、警備上の問題から、東京の皇居で即位の礼が行われたが、高御座と御帳台は陸上自衛隊のヘリコプターによって皇居まで運ばれ、大礼終了後に京都御所の紫宸殿に戻された。

現在も高御座は、京都御所内の紫宸殿に安置されている。

紀平正美「皇国日本のすがた(1935年)」

個人主義的の理論から云へば、人と人とは始めから対立せしめられて居る、従つて人と自然とも対立的であり、自然科学を其儘に応用して、自然から利益を奪ひ取るのが、人の仕事である、即ち斯くて欧米の文明は出来上がつたのである。 

紀平正美「臣民の道通義(1942年)」

端的に云へば国防国家体制とは、近世世界を打破するわが国の使命を達成するために、一切の政府機関は勿論のこと、民間の諸機関、諸団体が、全機能を集中し得る体制である。換言すれば、一切の個人主義的、自由主義セクショナリズムの否定である。

十数年前、河村幹雄氏は眞の国防は教育にありと唱破し、学問をすることが人間を立派にしない当時の教育を嘆き、学問が身に付かぬことを憂へて、国民教育の刷新を提唱した。

河村 幹雄(1886年〜1931年)…日本の大正、昭和期を代表する地質学者・教育者・哲学者・宗教家である。九州帝国大学名誉教授であり、理学博士。明治19年(1886年)、北海道に生まれる。私立海軍予備校を経て、明治44年(1911年)に東京帝国大学を卒業。卒業後、九州帝国大学の講師となり、後、九州帝国大学教授に就任し、工学部長などを歴任。地質学者である一方「教育の他に何者もなし」の信念の元、教育者としても名高い。昭和6年(1931年)に若くして亡くなった。没後、名誉教授の栄誉を受ける。また、榎本隆一郎海軍中将など多くの逸材を育てた。右翼との交流もあり、海軍中尉藤井斉の紹介により、のちに井上日召の手先として血盟団事件を引き起こす四元義隆に面会している

何この「和洋折衷」どころか洋折衷」状態? まさしく迂闊に足を踏み入れたら生きては戻れぬ「諸概念の迷宮」状態。
*ちゃんと相応の準備した上で足を踏み入れないと「(植民地上流階層婦人が夢想した)サハラ砂漠の御茶会」になってしまう。「全員が死に絶え、後に残されたティーカップを満たしたのは砂だけだったのです」という残酷極まりない結末…

①とにかく基底にあるのが「人間の幸福は、民族精神(Volksgeist)ないしは時代精神Zeitgeist)とも呼ばれる絶対精神(bsoluter Geist)と完全なる合一を果たし、自らの役割を与えられる事によってのみ達せされる」としたヘーゲル哲学である事実は動かない。それは復古王政期(1815年〜1848年)のドイツで形成された保守主義的思想である以上「王権に対する貴族連合や第三身分の反逆可能性の枝狩り」を前提とせざるを得ないという時代的制約を受けていた。

②もう一つ見逃してはいけない判断基準、それはこれが(おそらく柳田國男の「常民」思想に立脚する形で)フランスの「(貴族主義と第三身分至上主義の対峙を織り込んだ)二つのフランス史」における後者を選んだ思考様式だという事である。大日本帝国時代の軍国主義化プロセスについては、しばしば「天皇を頂点とし、家父長制を末端とする絶対的上意下達を旨とする権威主義ヒエラルキーの暴走」と乱暴に要約されるが、それだけに偏っては「上意下達ネットワークにおける最末端だった筈の)軍人と官僚の暴走によって大日本帝国全体がズルズルと奈落に引きずり込まれていった実際の風景」が全く説明出来なくなってしまう。
*これはフランス革命(1789年〜1794年)の主導権が革命戦争(1792年〜1802年)勃発によって(兵士供給階層たる)サン・キュロット(浮浪小作人層)によって奪われた結果、何が起こったか検証する作業と似ているとも。要するに「想像された市民革命」のイメージに執着し続ける限り「実際に何があったか」は決して視野内に入ってこない。

③ここで興味深いのは「二つのフランス論における第三身分至上主義側への舵切り」に聖武天皇代(724年〜749年)に国学だった華厳経教学が投入された点にある。その結果、直接「天皇制」を攻撃しても「世界に報復してやる!!」と叫びながら地球儀をパンチングボールにして自己満足に浸ってる景色しか現出させられなくなってしまった。まずこの事実を認めない限り、先には一歩も進めなくなってしまう。
*「あえて地球儀を差し出してパンチングボールにさせて悦に入らせる罠…そもそも「奈良の大仏毘盧遮那仏の仏像」に「大宇宙の見取り図=ある種の地球儀か天体図」以上の意味合いが存在しないのだから、当然そうなる。ある意味「朝廷内の権力闘争に嫌気が差して、純然たる救済しか要求しない大衆(敬虔な仏教信徒)への没入に救済可能性を見出した聖武天皇が放った壮大なデコイ(decoy、狩猟で囮に使う鳥などの模型)」とも。最初の構想では朝鮮式に地中に隠して「秘められた叡智」の象徴に仕立て上げる予定だったが、途中でその形式では「大衆からの寄進によって建立する」というもう一つの夢が達成出来ないと気づき、現在の様に大仏殿が見晴らしの良い平原の真ん中にデンと君臨する配置となった。まぁ「デコイ」だからこそ、目立ってなんぼなんである。冷静に考えてみると割とフランス絶対王政の「王的支配(Dominum regale)」にも似た側面なら存在する。
聖武天皇 - Wikipedia

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④さらなる古層には「(アラビア哲学に由来する)スコラ学の機械的宇宙論」をイエズス会マテオ・リッチの「天主実義(1604年)」経由で受容し日本神話における「ムスビ(産霊)の神」と結びつけた平田国学が見て取れる。要するに日本民族の起源を部族社会段階まで遡る事で「多民族帝国の統合原理」の発動を狙った訳である。実際「高木神(たかぎのかみ)」伝承の大源流は出雲の「心の御柱」信仰であり、それは南方系のトーテム信仰と北方系の流木信仰の統合によって達成されたとする仮説も存在する。
*ここでまさかの「ギリシャアイルランド人の乱入」展開。しかも提唱者はドイツ人学者という壮絶なグローカル(Glocal=Global+Local)展開と相成る。

⑤ところでヘルムート・プレスナー「ドイツロマン主義とナチズム、遅れてきた国民(Die verspätete Nation. Über die politische Verführbarkeit bürgerlichen Geistes 1935年)」によれば、ドイツ思想界があっけなく「(「生存競争」とか「人種間の世界最終戦」といったくだらない似非科学ばかり振り翳(かざ)す)民族生物学」に敗北して見捨てられたのは、明らかに眼前にドイツ民族存続の危機が迫っているのに「有事に対応した苛烈な行動を促するモチベーション創出」に一切関心を示さなかったからだという。その点、日本の公的ナショナリズムは「日本民族が根本的に共有する価値観たる「和の精神」は、知識によってではなく、実際の行動によってのみ立証される」という立場を明確に打ち出す事によって主導的立場を掌握する事に成功したとも。
*かかる反知性主義的行動主義イデオロギーこそが「(本来、大日本帝国権威主義ヒエラルキーの末端にあるべき筈の)軍人と官僚の暴走」を加速させた可能性に思い当たって初めて「大日本帝国における軍国主義の暴走」の本質が眼前に浮かび上がってくるのでは、あるまいか?

*最後の「反知性主義的行動主義イデオロギーの導出プロセス」については、当時の史料においてあまり体系的に語られていない。推察するにおそらく東洋哲学の禅思想か、戦後坂口安吾が「堕落論(1947年)」などで語った「肉体に思考させよ。肉体にとっては行動が言葉。それだけが新たな知性と倫理を紡ぎ出す」式のフランス行動主義あたりが起源と思われる。「教育勅語(1890年10月30日)」における「一旦緩󠄁急󠄁アレハ義勇󠄁公󠄁ニ奉シ以テ天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ」なる一節と結びつけて考える向きもあるが「(実際有事に直面して)肩を叩かれたがってる臣民」を前にして、あえてそれを黙殺しようとした「ナチス台頭期のドイツ思想界」の辿った悲惨な末路を視野に入れるなら、インテリ層にそれほど多くの選択肢が残されていたとも思えなかったりする。

*こうして全体像を俯瞰してみると、現代のインテリ層は何よりもまず、こうした状況下あえて「日本憲政史上初の第3極」社会大衆党支持を打ち出した「戦前を代表するマルクス主義学者」戸坂潤の判断の是非を問わねばならないのかもしれない。

⑥いずれにせよ、こうした大日本帝国の公的ナショナリズムは、大日本帝国臣民に総力戦の覚悟を決めさせる一助を為した。「実際にあった歴史」より「想像されたもの」が人心を駆動するとしたベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体(Imagined Communities: Reflections on the Origin and Spread of Nationalism、1983年)」の瑕疵をあえて探すなら(第二次世界大戦後の植民地独立運動を出発点とするが故に)総力戦体制時代(1910年代〜1970年代)独特の切迫感に少しばかり鈍感過ぎるきらいがある点かもしれない。

⑦ところでヘーゲルは「当初はイスラム文明の方が先進的で、欧州はその模倣(パクリ)を通じて文明化した側面がある(特に12世紀ルネサンス前後)」という点について「本当の文明が構築可能なのは欧州人のみ。イスラム文明はその露払い的役割を演じたに過ぎない」と豪語していたという。紀平正美の「仏教儒教も日本の「和の精神」の覚醒を助産したに過ぎない」なる言い回しも、これに由来するのかもしれない。

こうした大日本帝国における「公的ナショナリズム」の展開と比べると、ドイツ史のまた別側面が浮かび上がってきたりします。

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  • かくも「大日本帝国軍国主義化(軍人と官僚の暴走)」において重要な役割を果たしたヘーゲル哲学だったが、それが発表された復古王政期(1815年〜1848年)のドイツ庶民からゲーテの古典主義作品同様に完全黙殺されている。時はまさにビーダーマイヤー期(Biedermeier)。彼らは軍人や官僚の権威主義的命令には盲目的に服従しつつ、その合間を縫って財力の許す限り個人的享楽の追求に励んだ。なにしろ「(国王と教会の権威に基づいて)領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的秩序」の維持が最優先課題に掲げられ、それを揺るがす可能性のある自由主義思想やナショナリズム(民族統合運動)が絶対悪のレッテルを貼られ厳格に取り締まられていた時代の事である。幕末期の江戸町人が幕府歩兵隊にこぞって入隊したり、武蔵地方の喧嘩自慢連中が「新撰組」で活躍したり、幕軍への兵力供給階層に割り込んだ非人頭達がムクムクと士分を勝ち取ったり…こうした種類の「(ある種の生臭さに満ちた)愛国心」の片鱗が窺えた方がかえって嘘臭いとさえいえよう。
    678夜『ビーダーマイヤー時代』マックス・フォン・ベーン|松岡正剛の千夜千冊

  • それでは、こうした身分制社会独特の閉塞感は、二月/三月革命(1848年〜1849年)とウィーン体制崩壊を経た19世紀後半には劇的に改善されたのだろうか? 以降の歴史展開から逆算するに、到底そうとは思えないのである。ベネディクト・アンダーソンは公定ナショナリズムの起源をこの時代のドイツ語圏や帝政ロシアに見るが、そこにはサン=キュロット(浮浪小作層)が革命戦争やナポレオン戦争の恩給で自作農化し、四月選挙でルイ・ナポレオン候補を選んで当選させたフランス政治史や、(見捨てられた旧軍事力供給階層が起こした)士族反乱を(新たに軍事力供給階層として選ばれた農民中心の)鎮台兵が鎮圧した明治日本史には確かに息づいている「下克上ダイナミズム」が明らかに欠けているのであった。確かにオーストリア皇帝は「ヴッェネツィアは紛れもなくオーストリア領」みたいな石碑をあちこちに建てさせ、それが今日なお史跡として観光スポットになっていたりする。だが両者は同じ次元で比べて良い事象なのだろうか?

    *ドイツ人歴史家の多くも「むしろそれが最初に本格的に爆発したのはドイツ革命(1918年)の時だった」と認めるのにそれほど吝かではない様である。要するにドイツ語圏に伝統的に根付いてきた権威主義の打倒には、第3代ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世(在位1888年〜1918年)なる「バカ殿」の登場や、第一次世界大戦(1914年〜1918年)における敗色隠蔽といった自打球による威信喪失が必要不可欠だったといえる。そう、まさしく明治維新がおそらく「桜田門外の変(1860年)」によって大老井伊直弼が討ち取られ、天狗党の乱(1864年〜1865年)において田沼意尊が無慈悲な虐殺を遂行して幕府の威信が地に落ちねば成立しなかった様に。
    桜田門外の変 - Wikipedia
    天狗党の乱 - Wikipedia

  • だが一旦地に落ちた威信の回復に成功しない限り、国政の安定はない。日本の「薩長土肥幕府」は朝廷の権威を担ぎ出したりして少なくともそれには成功し、その結果として大日本帝国が発足する運びとなった。(第一次世界大戦中に自ら戦争協力を申し出た)社会民主党が主導したヴァイマル共和政(1919年〜1933年)へのドイツ国内の評価は今でも揺らいでいる。カール・シュミットが絶賛した独裁制への移行もヴァイマル共和政の「業績」の一つで、ナチスはそれを乗っ取ったに過ぎなかったりする。

  • ナチスみたいな「ええとこどり」政権について、主要イデオロギーが何だったのか考えるだけ時間の無駄。とはいえ宣伝相ゲッベルスの「大衆主義」はとりわけ悪魔的だったという点で特筆に値する。

    ①彼は「大衆」の本質は「権威には盲従するが、その対価として個人的享楽を要求する」ビーダーマイヤー期の庶民と大差ないと考え、娯楽の供給を重視した。あくまで国民に「滅私奉公」のみを要求し続けた軍国主義時代の第日本帝国より遥かにリアリストだったのである。

    https://pedsocial.files.wordpress.com/2013/08/aventures-fantastiques-du-baron-munchhausen-1943-04.jpg

    ②その一方で敗色が濃くなる最中「現在払いつつある犠牲は(例えナチス・ドイツが敗亡したとしても)決して無駄にはならない。未来のドイツ人に英雄視されたくはないか?」なるキャンペーンを展開。ある意味「時空間を超越して「想像されたもの」の威信を紡ぐ」公定ナショナリズムの極意を究極の形で残したともいえる。
    *「コルベルク(Kolberg、完成1945年4月17日)」ラストシーンで恋人を戦場に送り出したヒロインは父親とこういう会話を交わす。「彼はあそこにいるのかしら」「そうだ」「お前は全てを与えたが決して無駄ではなったのだ」「死と勝利は織り合わさっている。偉大さは常に苦しみから生まれるのだ」

    http://mountainx.com/wp-content/uploads/2015/03/kolberg4.jpg

果たしてこの時代における「勝者」とは一体誰だったんでしょうか…「実際にあった歴史」より「想像されたもの」が人心を駆動するとしたベネディクト・アンダーソンの思考様式を採用する限り、この問題はどこまでも人心を脅かし続ける展開となるのです。

(辻田)1931年満州事変、1937年日中戦争、1941年太平洋戦争的な、受験的な知識もありますけど。まあ、戦争の時代ですよね。しかし、この時代は同時に日本が音楽大国でもあったんですね。

宇多丸)ほおー。

(辻田)具体的に言うと、たとえば1920年代、その前ですけど。から1930年代初頭にかけて、いまにあるようなレコード会社。たとえばキング、コロンビア、ビクター、テイチク、ポリドールみたいなのができた時代で。で、それがいまにつながっているわけです。で、しかも1935年にはですね、日本のレコードの製造数って世界トップになるんです。

宇多丸)へー!あ、それは知らなかったですね。

(辻田)輸出も含めてなんですけど。製造しているのは単純に世界トップだっていう風に当時の内務省の検閲官が言ってるんですね。新聞で。

宇多丸)じゃあ、音楽産業全体が盛り上がっていたというか。

(辻田)そうですね。かなり、世界的に見ても大きな音楽産業のある国で。たとえば、当時の音楽雑誌の数って20誌以上あったりとかですね。フランスよりも音楽雑誌の発行が早かったりとか。つまり、音楽大国としてすごい盛り上がっていて。レコード会社も規模が大きく、そして歌手とかもいっぱい養っている中で戦争がドーン!ときたわけですよ。つまり、必然的に軍歌大国になると。

宇多丸)なるほどなるほど。

(辻田)で、普通のね、勇ましい軍歌もあったんですけど、ちょっとおかしくなっちゃってですね。変な曲を作ってしまうってことがあって。

宇多丸)やっぱりね、いっぱい作るとその中にはね、変なのも混ざってきちゃうっていう(笑)。

(辻田)そうです。やっぱり規格なので毎年、ダメだなと思っても作らざるを得ないんですよ。どうしても。作らないと会社が潰れちゃうんで。

宇多丸)回していくためには。

ヒトラーユーゲント - Wikipedia

1936年(昭和11年)の日独防共協定の締結に伴う日本(大日本帝国)とドイツ(後にイタリア王国も参画)の同盟強化に伴い、青少年相互訪問の一環として1938年(昭和13年)にはヒトラーユーゲントの訪日が行われた。

朝日新聞社の依頼により、北原白秋作詞、高階哲夫作曲、藤原義江歌唱による歓迎歌『萬歳ヒットラー・ユウゲント:獨逸青少年團歡迎の歌』が作られ、1938年(昭和13年)10月には日本ビクターからレコードが販売されるなど日本国民を挙げての大歓迎を受け、親独気運の醸成に大きく寄与。
*ドイツ本国から「ナチスは蔑称なんでやめてくれ」というクレームが入ったが、北原白秋はあくまで歌詞変更を拒絶したという。「せめてハーケンクロイツとかナチスとかドイツ語発音でやってくれ」と懇願されるとかえって逆上して「これが日本語なんだ。ドイツごときの巻き舌で巻かれてなるものか!!」と、当時の新聞に発表する展開に。ナショナリズムって一体何なの?

同時期に日本からは各地の学生、青少年団体職員、若手公務員から成る「大日本連合青年団」(現在の日本青年団協議会)の訪独団がドイツに派遣され、ナチス党大会の参観、ヒトラーと会見して同盟国のドイツの見聞を広めた。

考えてみれば「想像されたもの」 より「実際にあった歴史」の展開の方が遥かに複雑怪奇なのなんて当たり前の話とも?

さて、私たちはいったいどちらに向けて漂流しているのでしょうか…