諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】嫌煙ファシズムも菜食原理主義も感情的源流はナチズムと同じ?

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ヒトラーの率いたNSDAP(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei、国家社会主義ドイツ労働者党)の現象としての苛烈さ」には確実に日本人の想像を絶する部分が存在します。
*これまでの投稿では、主に「その政権奪取は対立陣営同士の潰し合いの漁夫の利を得る形で達成された」点に注目してた。とはいえもちろんそれは「ナチス的なるものの全体像」のごく一部に過ぎない。

①ここでむしろ振り返りたいのは「タビュレーティングマシン(パンチカードシステム)導入による統計学国勢調査の急速な発展(特に「移民の国」アメリカにおけるそれ)こそがユダヤ人へのホロコーストを可能とした」なる観点。要するに「科学主義(Scientism)」なる似非科学がどれだけ人類を振り回してきたかについての傍証。

 ②同時期には免疫学も急速に発展し「人体の健全性を保つには体内から一切の異物を排除すべき」なる新たなイデオロギー形成が進んできた。「一国資本主義=帝国主義」なる理念の形成が始まったのもまさにこうした時代。

*「国家間の競争が全て」の総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)は、こうしたプロセスを経て準備されてきた。その先陣を切ったのが「探検ナショナリズムへの国民の熱狂」であり、実際の移行の契機となったのが第一次世界大戦(1914年〜1918年)敗戦に伴うロシア帝国やハプスブルグ君主国やオスマン帝国といった(ドナウ川流域を巡って既得権益を争ってきた)旧体制の多民族帝国の解体だったとも考えられる。

③ヘルムート・プレスナー「ドイツロマン主義とナチズム、遅れてきた国民(Die verspätete Nation. Über die politische Verführbarkeit bürgerlichen Geistes 1935年)」によれば、当時のドイツでは既存の宗教や哲学の一切が「(「正しい国家を構築した最強の国民だけが生き延びる」とした最適者生存(Survival of the fittest)理論に立脚する似非科学としての)民族生物学」に敗北しつつあり、その事が共産主義やナチズムといった「似非科学を装った政治イデオロギー」台頭を準備したという側面もあるという。

  • 共産主義やナチズムといった)疑似科学を装った政治的イデオロギーの勝利」…要するに「同時代の生証人」ヘルムート・プレスナーによれば社会民主主義に立脚するヴァイマル共和政(1919年〜1933年)の存続を脅かしたのは「(守備範囲が狭過ぎて問題解決能力に乏しい)科学実証主義」や「(その科学実証主義に実用性を放棄してまで没頭しようとした)当時のドイツにおける社会学政治学のあり方」に対する国民の失望だった事になる。
    *そして「(当時の日本のインテリ層を魅了した講座派社会学や福本イズム同様、実際の政治的課題解決より党争における勝利を優先するカール・シュミット政治学」は、こうした停滞感に対する不満をヴァイマル共和制が独裁と強権主義によって乗り越えようとした状況を擁護するイデオロギーとして台頭してきたという次第。結果としてその展開こそが(独裁的体制に移行してなお現実問題の解決力に乏しいままで国民をますます苛立たせた)ヴァイマル共和制の社会民主主義や(ソ連共産党コミンテルンの指示に盲目的に従ってNASDAPと共闘してまでその打倒に邁進するだけだった)ドイツ共産党や(神聖ローマ帝国的分権状態への回帰を理想視したスパルタカス団や革命的オップロイテなどの)無政府主義的急進派の全てに最終的にナチズムが勝利する一本道を準備したとも。

    *最大の皮肉は中国共産党ベトナム共産党は、この意味合いにおける「(似非科学としての)科学マルクス主義」を放棄するという現実的選択によって余命を大幅に伸ばしたという事。その一方で「(似非科学としての)科学マルクス主義の形骸化」なる展開は資本主義圏の左翼陣営を「エコ原理主義派」「戦争絶対反対派」原発絶対反対派」などに分裂させる一方で「結局目指しているゴールは同じ」なる同床異夢の共同幻想を発達させる展開を生む。まさしく「(シンデレラ城が中心に据えられる一方で各ワールドが互いの視野から完全隔離された)ディズニーランド戦略」そのもの。

  • そしてユダヤ人や身障者や同性愛者といった「劣等な個体一切の粛清」を求める(似非科学としての)優生主義思想に対する熱狂の背景には(少なくともドイツ本国においては)それまでの歴史的経緯から欧州中にマイノリティとして散らばってきたドイツ系移民の「各国においてマジョリティに淘汰される恐怖」との表裏一体の関係意識が存在したのである。実際ヒトラーは(なまじ多民族国家であるが故に、元来は最大規模を誇るマジョリティーの筈のドイツ系市民を「冷遇」した)オーストリアハンガリー二重帝国の出身者だったし、NSDAP幹部もその多くが外交官や植民地商人の子弟として同種の屈辱を味わった人々によって占められていた。

    *動物学者コンラート・ローレンツ博士は同じ檻の中に一緒に幽閉しておくと(自らの爪や牙の威力を自覚する捕食動物で、群れで狩をする本能を備えた)狼と異なり(生存戦略として翼や脚を用いての「逃げ足の速さ」を発達させてきたが故に自らの攻撃性に無自覚で、かつ「違いが我慢し合う」集団行動を学ぶ機会がなかった)鳩が最後の一匹になるまで殺し合う事例を引き合いに出し「階級的憎悪を鬱積させてきた無力なマイノリティ」なる自意識こそが(現実的問題解決を選ばず自らの凶暴性解放に陶酔する)ホロコースト民族浄化運動を引き起こす心理の背景にある事を指摘する。そう考えるとナチスドイツからスケープゴートに選ばれたユダヤ人がどうしてパレスチナでは加害者に転じるかも上手く説明出来たりする。まさしく「弱い者達が夕暮れ、さらに弱い者を叩く。その音が響き渡ればブルーズは加速していく」世界。

    フランス革命に際してジャコバン派は「(革命戦争泥沼化を背景とする)背後からの一突きに対するヒステリックな恐怖の蔓延」を背景に独裁権を掌握したが、ある意味(迂闊にも)そうした勝利法を用いたが故に「(貴族と王党派ブルジョワ階層に対する)ギロチンと霞弾を用いてのホロコースト」や「(妊婦の腹を裂き、赤子を竃に放り込む)カソリック教徒に対する民族浄化政策」の当事者となる事を余儀なくされた。そして最終的にフランス革命は(自分達がスケープゴートとして粛清される事を恐れた)ホロコースト遂行部隊が(彼らを国民に対してスケープゴートとして捧げる事で自らの潔癖性を守り抜こうとした)インテリ統治者を先手を打って粛清するという最悪の形で終焉を迎える展開に。第二次世界大戦後にフランスのインテリ階層が「ナチス協力者狩り」を扇動しつつ自らの手を汚すのを嫌い、使い捨てにするつもりで「植民地帰りの破落戸」を実働部隊に抜擢したら彼らに政権を掌握されてしまった悲劇を思い出す。まさしく「歴史は繰り返す。1度目は悲劇として。2度目は茶番劇として」の世界。自らの立脚点の本質的欠陥を見直さない限り「馬鹿」は何度でも繰り返されるばかり。

    *ところで宣伝相ゲッベルスは、自らは一切の政治的イデオロギーを信じないニヒリスト型ながら、むしろそれ故に「政治的イデオロギーが人間を動員する力」に熱狂的なまでに没入。米国で元来「オルタナ右翼」と呼ばれていたのも同タイプの(匿名掲示板からFacebookアカウントの狂暴化を扇動してきた)人々だった。そして本当の暴走が始まった時点で彼らが残っていたためしがない。

  • 無論、こうした「赤信号、みんなで渡れば怖くない」理論の行き着く果ては見えている。「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマへの最終的到達は不可避。

    ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった
    私は共産主義者ではなかったから

    社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった
    私は社会民主主義ではなかったから

    彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった
    私は労働組合員ではなかったから

    そして、彼らが私を攻撃したとき
    私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった」

    マルティン・ニーメラー

 こうした「ナチズム再来に対する正しい恐れ方」を左翼陣営は故意に無視しようとし続けてきました。
*そもそも「ドイツにおける社会学政治学は科学的実証主義の徹底敷衍をこそ目指すべきで、現実の政治問題への対応力の有無で計られるべきではない」と断言し、ヘルムート・プレスナーから「彼らこそカール・シュミッツの党争最優先論やナチズムの台頭を許した戦犯」と弾劾されたマックス・ヴェーバーゾンバルトを「戦前唯一ナチズムに抗したドイツ的良心」と称揚してきた戦後日本のアカデミズム界にも問題はないでもなかった。

それは(似非科学的政治イデオロギーとしての)科学的マルクス主義の寿命が尽きた後、様々な似非科学的政治イデオロギーに分裂しつつ「最終的に目指してるゴールは同じ」と言い張ってきた共同幻想に立脚する、彼らなりの最後の矜持だったのかもしれません。しかしその連帯感こそがまさに要注意…

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ディズニーランドとの最大の相違点は「絶縁性の乏しさ」とも。だから来場客は全て「ファンタジーワールドのファンならウェスタンワールドのファンにもならねばならない」なるコンセンサスを強要され、嫌気がさしてしまうのです。だからもちろん「最終的に目指してるゴールは同じ」と信じる左翼陣営側のスクラムは話をこれだけで終わらせたりはしないのでした。

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そういえば、お流れで「人類の平等実現を達成する為、被爆した福島県人は全て隔離して断種せよ。そもそも奴らがまだのうのうと生き延びてる事自体が国際的にキモいんだ。絶対悪たるナチスとの徹底抗戦を誓った国民の総意が許さないといってるんだ」と主張してる連中も息を吹き返しつつある模様。最近の観光人気スポット化を見ても実際の「国民の総意」が向かっているのは「福島には何の問題もない」なるコンセンサスとしか思えないのですが「アンケートによれば沖縄独立を望む沖縄県民はたった4%しかいないというが、そんな数字96%を粛清すればたちまち100%になる」と言い張る連中にそんな人類全体が許さない明らかに見苦しいだけの言い訳」なんて通用する筈もないのでした。

そういえば、そもそもヒトラー自身が嫌煙家で菜食主義者だったとする説もある様です。肝心の嫌煙家団体や菜食主義者団体自体は「人道的に考えてそんな可能性など微塵もない(喫煙と肉食こそが絶対悪の根源なのは世界常識)」と主張してる様ですが。

アドルフ・ヒトラーのベジタリアニズム - Wikipedia

 アドルフ・ヒトラーは、酒を飲まず、煙草も嫌っていただけでなく、ベジタリアンであったとする説がある。リヒャルト・ワーグナーはドイツの未来とベジタリアニズムをむすびつけて歴史を論じているが、ヒトラーの食事もその理論に従っていたという仮説が立てられている。ヒトラーは菜食が個人的な健康問題を解消してくれ、魂の再生をもたらすものだと考えていた。

ベジタリアンとしてのヒトラー

1941年7月と1944年11月の間におこなわれたヒトラーとその側近の会話が速記録として残っており、ヒュー・トレヴァー=ローパーがそれを翻訳している(ヒトラーのテーブル・トーク)。ヒトラーベジタリアンを自称していたという説はこの記録にもとづくものである(一方でイギリスの歴史家であるアラン・ブロックは、ヒトラーがテープレコーダーを使わせたはずがなく、残っている速記録にはマルティン・ボルマンの手が入っていると主張している)。「君たちの総統がベジタリアンだったことはご存じかな、日頃から健康を心がけ動物たちの世界を愛するがゆえに肉というものをとらないのだが?君たちの総統はお手本のような動物たちの友人で、首相になってからも長年世話していた動物たちと仲違いしてはいないというのに?…総統は情熱をもって動物虐待に、なかんずく生体解剖に反対する。であればこそ、この現状を打破すると宣言してもいる…したがって動物たちの守護者としての役目を果たすということは、その絶え間ない、名状しがたき苦痛と悩みから救うということなのだ(Neugeist/Die Weisse Fahne (German magazine of the New Thought movement))」。1941年11月11日と記されたこの速記録によれば、ヒトラーは「ひとがその生を悔やむのはいつだろう、当然こうなるものだと思っていた未来の世界が実現しえないと気づいたときなのかもしれない。しかし、肉を食べる人間に予言できることが一つだけある。未来の世界はベジタリアンのものだ」と語っている。また1942年1月12日には、「不可能であるほうがよいものが一つだけある。それはなんぱな男たちと羊肉をつつきあうことだ。お前の分だとばかりベジタリアンの私に肉をとりわけてくるに決まっている」とある。

1942年1月22日には「ライオンはせいぜい15分しか走れないが、ゾウは一日8時間も走ることができる!先史時代の我々の祖先であるサルも純然たる草食動物である。日本の相撲取りは世界でも最強に数えられる闘士であるが、彼らも野菜しか食べない。一人でピアノを動かせるトルコ人のポーターも同様である。」と菜食の優越を語っている。

これらの記録で見られる内向きの会話ではヒトラーはしきりに生野菜や果物、穀物をとることのよさについて語っていた。とくに子供と兵士には向いているという。晩餐の招待客に嫌がらせをするため、皿に並んだ肉から飛び退いてみせてからかうこともあった。また伝えられるところでは、ウクライナの屠殺場を訪れたときの様子をなまなましい物語仕立てで語って聞かせたという。

フードライターのビー・ウィルソン(en:Bee Wilson)は、ヒトラーが「肉を遠ざけていたことは、動物への哀れみとは関係がない」と考えている。つまり、「食事どきにウクライナで訪れた屠殺場の(絵に描かれたように細部まで)自慢をするのがしばしばだった。肉が好きな客が食欲をなくすのをみて楽しんでいた」からである。しかしこの説はBBCのテレビ番組「ナチス:歴史からの警告」では支持されていない。このシリーズには好んで映画をみていたヒトラーのことを語る人間がでてくるのだが、たとえフィクションであっても、動物がひどいめにあったり死んだりという場面をみたならば、ヒトラーは誰かにその場面が終わったと教わるまで目をつむり、顔をそむけていたという証言がなされたのである。またこのドキュメンタリーはナチスが導入したドイツの動物福祉法についても言及しているが、この法律は当時としては画期的なものであった。

1938年11月、英字誌の「ホーム・アンド・ガーデン」にヒトラーの別荘ベルクホーフについての記事が載る。それによれば「終生のベジタリアンがテーブルについたことで、キッチンは様変わりし、何かをつくるにはずいぶん気の重いところになった。食事に肉がはいっていないときでもヒトラーがかなりの食通であることはかわらず、それはジョン・サイモンとアンソニー・エデンがベルリンの官邸でヒトラーと晩餐をともにして驚かされたときも同様だった。バイエルン出身のシェフ、ミスター・カンネンベルクが工夫を凝らした菜食者のための皿の数々は美しく並び、香りが良く色も鮮やかでパレットのように目を楽しませた。すべてヒトラーがもとめた料理の水準にかなう料理ばかりだったと2人は記している」のだった。

ヒトラーのテーブルトーク」には、ヒトラーが1942年4月25日にベジタリアニズムについて語っているとある。ローマの兵士たちは果物と穀類を食べていたという話や生野菜の重要性といった話にくわえ、彼が強調するのは自然主義者的な観察や化学的な効能といった科学にもとづいた議論だった。

同じ年の4月26日には、ヨーゼフ・ゲッベルスヒトラーを熱心なベジタリアンだと書いている記録がある。「つづく私たちの話題は、総統というベジタリアンの難問だった。肉食が人類に有害だとますます信じ込むようになっているのだ。戦時下で食材の組み立てにかまけている暇などまったくないことはもちろんおわかりだとはいえ、それが終わればこちらに取りかかろうとするだろう。間違ってはいないだろうが、はっきりしているのは自分の意見をおしつけにするだけの議論でもとにかく影響力をもっているということだ」。

官房長であった(そしてヒトラーの私設秘書でもある)マルティン・ボルマンは、多くの歴史家がドイツにおけるナチス党員のナンバー2であったと考える人物であるが、ベルヒテスガーデンにヒトラーのための巨大な温室をたてて戦争が続いても新鮮な野菜や果物を供給できるようにはからっている。温室を手入れするボルマンの子供たちのささやかな写真を残して、2005年にはこの施設はまわりでナチス指導力をうかがわせるものがみなそうであったように廃墟となっていた。

ついにヒトラーは日常生活のなかから肉を排除しようとする傾向さえみせるようになる。たとえば動物に由来する成分を含むと知るなり化粧品にも反対し、愛人であるエヴァ・ブラウンが化粧をする習慣をあげつらって困らせるのだった。

戦後の回想録である「ヒトラーエニグマ」を書いたベルギー人、レオン・ドグレルはこういう。「あの人には肉を食べることが我慢ならなかった。それは生き物の死を意味するからだ。兎やマスの一匹でも自分の食事に出すことを許さなかった。野菜のほかで食卓にならべてよいのは卵だけで、それはニワトリを殺すことなく産んだ卵を分けてもらえるからだ」。

ドイツ人の精神分析学者エーリヒ・フロムヒトラーにとってのベジタリアニズムは姪であったゲリ・ラウバルの死を悼むための手段だったと考えている。またベジタリアニズムは自分が人を殺すことなどできない人間だということを自身やまわりに証明する方法でもあったという 。

「倫理的に最低の状態にあったヒトラーが菜食主義者で嫌煙家だった筈がない」説

ヒトラーが倫理的な意味でベジタリアンであったはずがない」とベリーは断言し、ナチスの領袖は肉を絶っていたと信じる学者達への反論として、見逃すことのできない事実があるという。「非ベジタリアンたちは菜食主義そのものを窄めるためにナチスの問題を持ち出す傾向にある(Deborah Rudacille)」。 

ベジタリアンであり動物の権利を擁護している作家のリン・ベリー(en:Rynn Berry)は、ヒトラーが食事の肉を減らしたことがあったからといって、その後の長い人生でまったく肉を食べなかったわけではないと主張している。ベリーがいうには、歴史家が「ベジタリアン」というときはたいてい単に肉の消費量を減らした人間のことであり、それは言葉の正しい使い方ではない。

1991年にアイザック・バシェヴィス・シンガーが亡くなると、シンガーの死亡記事をめぐって議論が起こる。まずこの作家がベジタリアンであったことが省かれているという批判があり、ついにそれはヒトラーベジタリアンだと断定するにいたった。ニューヨーク・タイムズに一連の手紙を投稿したキャロル・ヤノヴィッツはこう書いている。「『美食家のための料理読本(1964年)の89ページでは、ドイツのハンブルクでホテルのシェフをしていたディオンヌ・ルーカスが第二次世界大戦前のつらい倹約を回想しています。『ひな鳥の詰め物なんかみせて食欲をなくした人がいたらごめんなさい。でもヒトラー氏がとても好きなメニューだったといえば興味ももつでしょう。よくホテルに食事をしにきたんですよ。それで立派な料理にこだわらなくてもいいって言ってくれたんです』。

作家のロバート・ペインはその伝記「アドルフ・ヒトラーの生と死(1973年)」のなかで、禁欲的なベジタリアンというヒトラーのイメージは、宣伝大臣であったゲッベルスによって周到につくりあげられたものだという仮説を述べている。

禁欲主義はヒトラーがドイツに投影していたイメージを形成するために重要な役割を果たした。広く信じられている伝説のなかのヒトラーは、煙草も酒もやらない人間で、肉も口にせず女性とは関係をもたないことになっていた。最初のものだけが正しい。ヒトラーはビールを飲んだし、薄めたワインもよく嗜んだ。バイエルン・ソーセージをことのほか喜んだし、愛人だって手放すことはなかった…。彼の禁欲主義はゲッベルスが総合的な敬意を高めるためにつくりだしたまやかしである。自制心や他者との距離などもそうだ…実際のところヒトラーは禁欲のこころなどかけらも持ち合わせておらず、自分をいたずらに甘やかしていた。その上やたらと太ったウィリイ・カンネンベルクというコックは、すばらしい料理もつくれば宮殿お抱えの道化役もこなせる男だった。ヒトラーはあまり肉は好まなかったが、ソーセージのかたちをしていれば話は別だった。魚も身は食べずにキャビアを楽しんだのである…(p. 346)

またOSS精神分析家が著した『アドルフ・ヒトラーの精神』には、「もし彼(ヒットラー)が肉やアルコールを口にせず、煙草も吸わないというのならば、それは無意識にある種の抑制がはたらいていたせいではなく、それが健康増進につながると信じていたからだ。肉などを控えたのは、偉大なドイツ人であるリヒャルト・ワーグナーに倣ってのことである。あるいは摂生することで新たなドイツ帝国をつくりあげることができるだけの気力や体力を取り戻すことができることに気づいていたからだ、といえる」とある。

1996年4月14日のニューヨーク・タイムズ日曜版では、ヒトラーの食事について書かれた記事(初出は1937年3月30日の「総統とお家で」)が紹介された。「ヒトラーベジタリアンで、酒も煙草もやらないというはとても有名です。ですから昼食も夕食も、ほとんどがスープ、鶏卵、野菜、ミネラルウォーターといったものになります。たまにはハムを一切れ口に運んだり、味気ない食事をキャビアのようなごちそうで紛らわすこともありました…」

1942年にヒトラーの秘書となったトラウデル・ユンゲは彼が「いつも肉を避けていた」と記しており、さらにオーストリア人のコック、クリューメルはブイヨンにわずかな肉や脂をくわえ、ヒトラーの食事に出すことがあったという。「ほとんどの場合総統はそのごまかしに気づいて、ひどくいやがり、お腹を気にしていました。けっきょくスープはそのまま片付けさせ、マッシュポテトだけ食べたのです」。

1943年にヒトラーの栄養士になっているマレーネ・フォン・エクスナーはそれと知らずにスープに骨髄を足したといわれている。マレーネが菜食を「見下していた」ためだという。

1936年から1945年にヒトラーが自殺するその直前まで、そのかかりつけ医であったテオドール・モレルは動物性の成分をふくむ「いんちきなサプリメント」を処方していた。動物由来のグルコノムなどをふくむ市販の強壮剤をモレルは毎日注射してもいる。注射可能物質にはビタミンB1ビタミンB2、ビタミンC、心臓、副腎、肝臓、膵臓が含まれていた。ほかにも胎盤やウシ由来のテストステロン、精嚢、前立腺を含む調合薬が抑鬱を治療するために注射されている。当時は動物の腺から抽出されたものは「若さのエリクシル」になると一般に信じられていたのである。

ヒトラーの政策がベジタリアニズムよりだったかどうかについてはいまも疑問が残る。

英国ベジタリアン協会は、ヒトラーはドイツにおけるベジタリアンの団体を弾圧し、解散させたと主張している。たとえば「Vegetarier-Bund Deutschlands」(ドイツ・ベジタリアン同盟)はナチスによって1936年に解散させられている。また、フランクフルトで出ていた主要なベジタリアン雑誌も発売禁止となった。しかし集会の禁止は全ての独立系組織に対して適用されており、ヒトラーが個人的に支持していたベジタリアニズムに敵意が向けられたという証拠にはならない。先の「Vegetarier-Bund Deutschlands」の活動がやっと合法となるのはナチス第二次世界大戦で敗れる後の1945年になってからのことだった。

マルゴット・ウェルクの証言

2012年、ベルリン在住の95歳の女性、マルゴット・ウェルクが、かつてヒトラーの毒味役であったことを公表した。1943年から1944年の約2年間、ヒトラーが東部戦線の指揮をとった現ポーランド北部の司令部・ヴォルフスシャンツェで毒見を行っていたといい、「ヒトラーは菜食主義者で、アスパラガスやニンジンの料理が多く、肉はなかった」と証言している。

一般的なベジタリアンの意見だと、「肉を食べると凶暴になり、攻撃的になる」というものだが、ベジタリアンヒトラーがこれだけ攻撃的だというのも実に面白い。これは菜食主義と温厚な性格というのはあまり関係ないことを表すケースではないだろうか。

ここで興味深いのが、坂口安吾が「欧米菜食主義者の攻撃性」について論じてる辺り。

坂口安吾 日本文化私観(1942年)

僕がまだ学生時代の話であるが、アテネ・フランセでロベール先生の歓迎会があり、テーブルには名札が置かれ席が定まっていて、どういうわけだか僕だけ外国人の間にはさまれ、真正面はコット先生であった。コット先生は菜食主義者だから、たった一人献立が別で、オートミルのようなものばかり食っている。僕は相手がなくて退屈だから、先生の食欲ばかり専もっぱら観察していたが、猛烈な速力で、一度匙をとりあげると口と皿の間を快速力で往復させ食べ終るまで下へ置かず、僕が肉を一きれ食ううちに、オートミルを一皿すすり込んでしまう。先生が胃弱になるのはもっともだと思った。

テーブルスピーチが始った。コット先生が立上った。と、先生の声は沈痛なもので、突然、クレマンソーの追悼演説を始めたのである。クレマンソーは前大戦のフランスの首相、虎とよばれた決闘好きの政治家だが、丁度その日の新聞に彼の死去が報ぜられたのであった。コット先生はボルテール流のニヒリストで、無神論者であった。エレジヤの詩を最も愛し、好んでボルテールのエピグラムを学生に教え、又、自ら好んで誦む。だから先生が人の死に就ついて思想を通したものでない直接の感傷で語ろうなどとは、僕は夢にも思わなかった。僕は先生の演説が冗談だと思った。今に一度にひっくり返すユーモアが用意されているのだろうと考えたのだ。けれども先生の演説は、沈痛から悲痛になり、もはや冗談ではないことがハッキリ分ったのである。あんまり思いもよらないことだったので、僕は呆気にとられ、思わず、笑いだしてしまった。――その時の先生の眼を僕は生涯忘れることができない。先生は、殺しても尚あきたりぬ血に飢えた憎悪を凝こらして、僕を睨にらんだのだ。

このような眼は日本人には無いのである。僕は一度もこのような眼を日本人に見たことはなかった。その後も特に意識して注意したが、一度も出会ったことがない。つまり、このような憎悪が、日本人には無いのである。

こうして全体像を俯瞰してみるとずっと背景にあったのは「科学的正しさに屈しない愚民への侮蔑」と「現実問題解決に全然寄与しようとしない科学実証主義への侮蔑」の奇妙な複合体としての「似非科学としての政治的イデオロギー」だったのかもしれません。そして今やこの路線が華麗なる復活を遂げ、最終的勝利を勝ち取りつつある?