諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【全てが数値化されていく世界】「より人間らしい世界の実現を目指す人々」の最後の抵抗?

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この話を思い出しました。

対偶(Contraposition)

論理学の用語。ある命題が成立する場合に、その命題の仮定と結論の両方を否定した命題も成立するという命題同士の関係性の事を言う。

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  • 命題「AならばB」の対偶は「BでないならAでない」である。 論理記号を用いて説明すると、命題「A ⇒ B」の対偶は「¬B⇒ ¬A」(¬A は命題 A の否定)である。
  • 通常の数学では、命題「AならばB」の真偽とその対偶「BでないならAでない」の真偽とは必ず一致する(すなわち真理値が等しい)。

数学では、元の命題「AならばB」の証明が難しくても、その対偶「BでないならAでない」の証明は比較的易しい場合がある。「AならばB」と「BでないならAでない」との真偽は一致するので、このようなときには対偶「BでないならAでない」のほうを証明すれば「AならばB」を証明できる(対偶論法)。

 ① 「新しい取り組みは成功率が低い」の対偶は「成功率が低くなければ新しい取り組みではない」…ところが概ね「新しい取り組み」の最大の特徴は「成功に至るアプローチの未発見」にあり、問題の克服のされ方によっては成功率が劇的に改善される(要するに「新しい取り組みの成功率の低さ」は「新たなる挑戦固有の成功率の低さ」に「未知の要素を発見したり従来の発想の誤謬のデバッグを遂行する困難」を合算したものとなる)。その一方でリスク回避の為「成功に至る新アプローチを発見しやすいと目される様になった人」にお金やチャンスが集まる傾向が生じるが、それに際しての判断基準の全てが合目的的とは限らない。
*例えば前近代経済において「(ユダヤ人やジェノバ人が多かった)宮廷銀行家」は王侯貴族や教会といった権力的背景が存在しない融資先には決っして投資しなかった。この辺りの事情、江戸幕藩体制下における「大名貸し」の実態と酷似している。フランスにおいては「馬上のサン=シモン」皇帝ナポレオン三世が「海外の産業資本家」を呼び込む形で彼らに「改心」を強いた。日本においては明治政府が「藩債処分(1871年)」によってその負債を御用商人に皺寄せさせる形で強引に解消している。

 ②「人工知能は意識を備えていない」の対偶は「意識を備えていたら人工知能ではない」…実際、第三世代以降の人工知能研究は「アルゴリズムによって数学的に再現可能な振る舞いの組み合わせ」に関心を集中する事によって(すなわち「人間の意識状態の再現」といった「余分な野望」への関心を低下させる事によって)目標達成率を劇的に引き上げる事に成功してきた。つまりある意味、知性の定義から「意識の存在なるオカルト要素」を一旦ノイズとして除去する事によって成立した側面というのが存在する。
*その一方で皮肉にも、こうしたコンピューター工学の発展の結果「意識とは、実在するならこう規定されるであろう」なる推測結果の精度も引き上げられてきた。

人間の意識とは何か。華厳経いうところの「海印三昧の世界」や、フェニックス=ガタリいうところの「マシニック(Machinique)な世界」などは、ほぼ同じ内部構造を示唆する。そしてこうした定義は想像以上に「オブジェクト志向の並列処理言語」に酷似している。

  • メモリ空間を埋め尽くしているのは、固有の継承関係にあるクラス定義から生成され、固有のコールバック関係で相互にリンクし合うを埋め込まれたオブジェクト・インスタンス群。その意味では全ての「部分」が相似関係にあるといって良い。
    *クラス定義を大源流まで辿ると最終的に単一の祖型に辿り着く。コールバックで非同期的に結ばれたリンク網も大源流まで辿ると最終的に単一のメインループに辿り着く。しかしながら実用上、そんな背景が思い出される機会はまずない。まさしく仏教教学における「縁起論」。あるいはキリスト教学における「理神論」。

  • こうした空間においては「コールバック制御といった他CPUとの非同期的連動」「HDD等の記憶装置との連動」「マン・マシン・インターフェース」「接続デバイスとの通信プロトコル」「乱数発生装置」「ベイズ・フィルタ」「量子コンピューティング」といった一切がカプセル化されている。いうなれば「ハンドル(Handle=加熱状態では直接本体に触れない薬缶の取手)の寄せ集め」であり、理論上意識なるものはその関係のみで記述可能と想定される。
    *CPUとはある種の電話交換手の様なもので、その振る舞い自体に絶対他者的要素は一切含まれてない。それはあくまで「完全カプセル化されたインスタント・オブジェ」経由で「接続された外部デバイス」からのみ、もたらされるものなのである。

それでは果たして、こうした実際のコンピューターの世界における「(様々な接続デバイスによって構成される)ハードウェアの世界と(プログラム制御によってそれらを制御する)ソフトウェアの世界」の関係をカント哲学言う所の「物自体(認識可能空間の外側に広がる他者)と物(認識可能空間に立脚する自己)」と重ね合わせる事にどれだけ妥当性があるのだろうか。最近トレンドとなっているのがまさにこれ。

③「人間の知性の本質は不条理」の対偶は「不条理でなければ、そこに人間の知性も存在しない」…そういえば19世紀アメリカにおいては「人間にはこの世で経験するもろもろの経験を超越し、自己内なる何か絶対的な価値(神性)を直観によって掴み得る力がある」とし「個人の内在する無限の可能性」を標榜したTranscendentalism(超越主義あるいは超絶主義。トランセンデンタリズム)や「神は必ず問題を解決する手段を我々の認識可能な世界の範囲内に置いておいて下さる」と信じるPragmatism実用主義プラグマティズム(英: )といった「正しい信仰こそ最大の合理主義である」と考える合理主義的ロマン派に対抗する形でエドガー・アラン・ポーナサニエルホーソーンが人間の判断の不条理性を訴える文学を展開した。
*合理主義的ロマン派…背景にあったのは「無人の原野に足を踏み入れて人の住める世界に変貌させる開拓者精神」で、これを自画自賛する構図自体は今日なお米国人アイデンティティの重要な源流であり続けている。

*それにつけてもTranscendentalismといいPragmatismといいドイツ語語源で、カント哲学やヘーゲル哲学といったドイツ観念論の背景にあったゲルマン精神主義神秘主義)的伝統の影響が色濃く感じられる。その一方でエドガー・アラン・ポーナサニエルホーソーンの不条理文学の大源流には「ドイツロマン主義の祖」E.T.A.ホフマンの強い影響が垣間見られる。

  • 実は上掲の「海印三昧的でマシニックでオブジェクト志向並列処理言語的な意識概念」は当時の対立図式を上手に融合させて一貫性ある構造として取り込んでいたりする。
    *例えば冒頭の「女性は感情的かそうでないか」に関する実際のインプリメントはこうなる。「理論上(「人を感情的にさせる要因」に対する内部プログラミングの状態によって)女性は感情的に見える事も、またそうでない事も、またその中間に止まる事も有り得る。しかも相互コミニュケーションを通じて内部プログラミングの状態に影響を与え合う為、その分布が標準分布の延長線上にまとまる保証もない」「男性についての定義も全く同じ。すなわちこの範囲において特別な性差は認められない」。もちろん「実測上の性差」なら確実に実在するのだが、この定義ならそれを単純に「女性固有の生得的固定属性」と決めつける愚を免れ得るのである。
  • ここで重要なのは「(コンピューター工学でいうところの「外部接続デバイス」に該当する)ハードウェア的(身体的)側面」をあえて(カプセル化によって)切り離した上でなお残る「(コンピューター工学でいうところの「メモリを満たすインスタンス・オブジェクト」に該当する)ソフトウェア的(精神的)側面」が有する(各インスタンスの内的プログラミング状態やその相互影響が生み出す)本質的不条理性(統計学的観測結果からの逸脱)が相応に妥当な形で記述されている辺り。
    *もちろん「誰が未知の外部のもたらす問題を検知してそれに関する記述を追加したり、既存記述を改訂して対応させるか」という課題はあり、この世界観においてはまさにそれこそが「人間の知性が果たすべき役割」という展開を迎える訳である。

かくして「(視野外のファクターやアルゴリズム上の間違いによって全面破滅するリスクを抱えた)全てが数値化されていく世界」と、こうした動きを嫌悪して全面否定しようとする 「より人間らしい世界の実現を目指す人々」の対峙が次第に先鋭化してきたのです。案外それはサピア=ウォーフ仮説いうところの「言語の限界が人間の限界を定める」なる定義の実に素直な形での顕現に過ぎないのかもしれません。

ここで重要なのは、上掲の定義においてこうした投資合戦が単なる「周辺機器(外部接続デバイス)論」の範疇に留まるのに対し、「より人間らしい世界の実現を目指す人々」は今日なお「意識(すなわちCPUやメモリや「コンピューター言語=メモリを満たすオブジェクト群で構成されるコンピューター本体)が本質的に内在する筈のオカルト要素」をまだ問題の本質と考え続けているという周回遅れ感…
*一つの契機は1990年代中旬までは確実に「不条理だから良い」なる発想が存在し、その系譜が以降潰える事かもしれない。

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マハポーシャ | 日々雑感II

世紀末に(オウム真理教団が経営するパソコン・ショップが販売する)マハポーシャPCに搭載されていた「(尊師の祝福を受けて処理を加速する)謎のDCA回路」ですか? 確かに如何なる実装を選んでも「A(アナログ)/D(デジタル)コンバート過程」あるいはその逆は、必ずといって良いほどある種の神秘性を残してしまうものではありますが、それって本当にこの問題の本質? そもそも「知性の本質は不条理である」の対偶たる「不条理でなければ知性ではない」なる命題って、上掲の「妥協案」を超えてなお存在し得る様な崇高な概念なの?