諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【数学ロマン】数理についての「仏教的ディスクール」について。

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数学と仏教の関係については多くの人が語ってます。

数学と仏教の意外なつながり

数学の優れた一面は自らの限界を自ら証明していることである。こんなことが出来るのも数学以外にないであろう。ゲーデル不完全性定理によると「算術を含む帰納的で無矛盾な体系においては決定不可能な、すなわちそれ自身もその否定も証明できないような命題がその体系内にかならず存在する。

簡単に言えば「ある程度複雑な体系においては,決して証明できないような命題が存在する」ということが証明されたのである。

この主張が発表されたとき人間の限界が証明されたと大きな話題となった。しかし一方これは人間は限りなく進歩できる可能性を示すのであるとも取れる。なぜならある体系では真も偽も証明出来ない命題は,それをこの体系の公理に付け加えることができ,新しい体系が得られるからである。

私自身が語ると、以下の様なディスクールになる様なんです?

計算数学(Computational Mathematics)の何よりの面白さは、思わぬ方向に概念の精緻化を要求される所にあったりします。進化の過程で育まれてきた「(生物が進化の過程で獲得してきた様な、純粋な形では数理に全面依存してはいない)粗雑な代数構造体系」を「コンピューター(すなわちそれを駆動させている、純粋に数理の積み上げにのみ立脚する精緻な代数構造体系)はそのままの形では解ってくれない」のですね。 

ならばどう考えれば良いのでしょう?

  • 前者をとりあえず仏法哲学でいう「相依性(相互依存性)縁起論の世界」すなわち「観測者が識知可能な、すなわち一応は原因と条件の結果の関係で語り得る様な(ただしその生滅の連鎖を相応の精度を有する観測結果とそれから抽出された数理のみで説明し切れる段階までは至ってない)無明の諸概念集合(Concepts Set)」と置く。

  • 西洋哲学の世界から出発したいなら、例えば「真理の全体構造(Overall Structure of Truth)」を三段論法(Syllogism)に従って「すべてのPはQである」「あるPはQである」「すべてのPはQではない」「あるPはQではない」とか、背理法(Proof by Contradiction)に従って「AならばBである(命題)」「BならばAである()」「AでないならBでない()」「BでないならAでない(対偶)」といった四象集合(Set of Opposition Square)に分類しようとする古典論理概念Concept of Classical Logic)辺りにでも軸足を置けば良い。この場合「縁起(無明)の世界」は「Qではない」と切り捨てられる範囲に該当する。

いずれにせよ最初に辿り着く結論は同じ。それぞれが莫大な時間と手間を掛けて蓄積されてきた英知とはいえ「人間の脳なる古参のハードウェア上ではそれそれがそれなりに適切に見える形で動いても、コンピューターなる新参者のハードウェア上ではウンともスンともいわない」という一点において「みんな違ってみんなダメ」なのです。

別に現在のComputer Architectureの在り方が人間の英知を凌駕したといった壮大なパラダイムシフトが起こった訳でもありません。「現在のComputer Architectureもそれなりにバカ(なので、そのバカにでも分かるアルゴリズムしか受け付けない)」なる情けない現実が実存するだけです。それで悔しくて「現在はただの過渡期。近い将来(量子コンピューティングみたいな超技術を統合した)真の意味で人間の脳に対応するハードウェアが現れる」と予言し続ける人もいれば、諦めて「その夢は1980年代にピークを迎えた第二次人工知能ブームまでにほぼ潰え1990年代に端を発する第三次人工知能ブームからは(現在のComputer Architectureの在り方にアルゴリズム開発者としての人間側が適応した)新たな試みが始まっている」と考える様になった人もいます。そして後者の立場に立つなら上掲の「コンピューター(すなわちそれを駆動させている、純粋に数理の積み上げにのみ立脚する精緻な代数構造体系)の世界」はこう図式化される訳です。

  • プラトンが「ドクサ(Doxa)」すなわち「(最も純粋な定義においては)分析なき経験結果の寄せ集めから勝手に自明の場合(Trival Case)と称して生じる、すなわち特定の背景理論を抽出して法則化して適用範囲を決定する様な知的作業抜きで積み重ねられるバイアス(Bias=偏誤)の単なる寄せ集め」に対峙させる形で提言し、ミシェル・フーコー言葉と物(Les mots et les choses,1966年)」「知の考古学(L'Archéologie du savoir, 1969年)」においてその定義がさらに「各時代における知識の体系を成立させてきた認識構造の原則的在り方」へと拡張された「エピステーメー(Episteme)」概念から出発する。ちなみにトーマス・クーン「科学革命の構造(The Structure of Scientific Revolutions,1962年)」の提言に従ってこの概念の適用範囲を科学的実証主義(Scientific Positivism)の歴史上におけるイノベーションの不連続性に絞ったのが「パラダイム・シフト(Paradigm Shift)」概念となる。この立場からは上掲の対立構造が「現在のComputer Architectureの在り方は新たなEpistemeを提供したか?(いや、如何なる形でもそれ自体は新たなEpistemeを提供してはいない!!)」「何かParadigm Shiftを引き起こしたか?(いや、如何なる形でもそれ自体は新たなParadigm Shiftを引き起こしてなどいない!!)」問題と俯瞰される。

  • 実際「新たなEpistemeの提供者」や「新たなParadigm Shiftの原動力」の立場を主張しているのはコンピューター自身ではなく(まぁコンピューター自身は現段階においてはまだまだ自らの主張を展開し得る発達段階にない)自然数集合(Set of Natural){1,2,3,…,Inf(inity)}や、加法単位元(Additive Identity)0乗法単位元(Multiplicative Identity)1を共に備える整数環(Ring of Integers){-Inf,…,-3,-2,-1,-,1,2,3,…,Inf}といった基本概念からの再出発を果たし「特定の演算結果の集合とその積」として自らの全体構造を記述する様になった代数学(Modern Mathematics)の世界なのである。実際オイラーの公式(Eulerian Formula)exp(πi)=Cos(θ)+Sinθiガウス巡回群(Gaussian Cyclic Group)i^x=1の概念抜きにはコンピューターは円すら描けない訳で、この指摘には確かに相応のアドバンテージが存在する。

とはいえコンピューターは本当にバカなので「代数学そのもの」が走ってる訳でもありません。何しろコンピューターは、というよりそのメモリ構造たる配列概念には、その実装段階における制約上整数環(Ring of Integers){-Inf,…,-3,-2,-1,-,1,2,3,…,Inf}の概念すらまともに再現する機能が実装されているとはいえない有様なのです。さらには、そもそも加算(Countable)で直積可能(Productable)な数とは言い難い無限遠(Inf(inity))の概念を扱うのが苦手。

一方、この世界観においてはとりあえず全体から抽出した次元や数値といった諸概念の独立性が担保され、アルゴリズム遂行によって欲しい答えがえられる「(相応の精度を有する観測結果とそれから抽出された数理のみに立脚する)三昧の世界」と、この条件が未達成の「(計測値がコイントスの様に計測の都度1か0か変わったり、何時の間にかπ/2ラジアン(90度)が-π/2ラジアン(-90度)に挿し変わっている様な不安的極まりない)無明の世界」の境界線は以下の形で与えられるのです(西洋哲学でいうと「何かがそうであるかないかの境界線」辺りに比定される?)。

  • とりあえず半径rの球面を想定し、任意の対蹠(Antipodes=北極と南極に該当する距離関係の2点)間を結ぶ共役複素数(Conjugate Complex Number)の遷移を抽出する。円を60分割するとそれぞれの観測方向に「15本の波紋」が現れる。「波紋の進行方向」を特に定めなければ(実際それを定める事に計算上特別な意味がない)観察者が主観で補うに任されるが、この現象自体も上掲の「無明」状態の一種とはいえよう。

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  • そもそも「進行方向」自体は関数グラフ上にも表示されてない(実際定める事に計算上特別な意味がない)。数学の世界においては(計算に差し支えない範囲においては)「三昧の世界」と「無明の世界」がこうやって思わぬ形で隣接しており、その視覚化は、かかる現実を容赦無く暴き立てる(コンピューターはこの作業を容易にはするものの、手計算でも何とかなる範囲ではそんなに感動してもらえない損な役回りを押し付けられている)。

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  • ところで同じ円に「誤差関数(ERF)の出力結果を射影(Projection)した結果(すなわち中心点から辺縁にかけて30本以上の波紋を発生させた結果)」も、ほぼ上掲の「正面図」と同じに見える。前者が「地平線/水平線(Horizon)までしか見通せない人間の視覚世界の限界」を示しているとすれば、後者は「(重力レンズ効果によって)球面の裏側まで見通せてしまうブラックホールの見え方」に該当する訳だが「15本目までの波紋」の挙動がほぼ同じな一方、16本目以降の挙動は周辺部でゴチャゴチャと瞬いてる様にしか映らないので観察者の主観が差分を勝手に「誤差として切り捨ててしまう」のである。実際ガウスは惑星観測の精度を上げるべく「誤差として切り捨てる範囲」を(主観者の恣意的補完でなく)しかるべき計算によって導出すべく誤差関数(ERF)を制定した訳で「三昧状態と無明状態の境界線」はかかる「隔壁落とし」のプロセスとしても現れてくる。

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そして、こうした「コンピューターによる視覚化」プロセスが暴き出す「(観察者の主観による恣意的補正に守られた)粗雑な代数構造の世界」と「(コンピューターが実際に稼働している)純粋数理に立脚する代数構造の世界」のズレは、極座標(Polar Coordinate System)とデカルト座標(Cartesian Coordinate System)の狭間で新たな局面を迎えるのです。

改めて私が主に立脚しているのが、般若心経の文言「色即是空空即是色」への龍樹「中論(3世紀頃)」解釈である事が証明された形ですね。真俗二諦論に立脚する「(粗雑な代数構造でしか経験を統合出来ない)相依性縁起論の世界」と「(相応の精度を有する観測結果と、そこから抽出される数理のみに立脚する)三昧の世界」の峻別…ただし「コンピューターで動く範囲の三昧の世界なので内容はただひたすら精緻で神秘性など皆無という…

  • ここでいう「三昧の世界」は観測原点(OO=Observation Origin)Od(d=1→Inf(inity)){0,0,0,…,0}と究極の観測対象(OT=Observation Target)=無限遠Td(d=1→Inf(inity)){Inf,Inf,Inf,…,Inf}の間に生じる。観測者はこれから相応の精度で抽出し得た観測結果のみに立脚して自らの数理を構築する。

  • 原始座標群(Primitive Coordinate System)すなわち観測原点観測対象対蹠(Antipodes)に取る仮想直線/円弧/球面から出発し素数2^n族,3^n族,5^n族が導入される都度内容が豊かとなるが、正直、素数7^n族以上が果たす役割には現段階ではあまり関心がない。

ところで気になったのがこの一言。

数学と仏教の意外なつながり

大数学者ガウス (Gauss,1777年~1855年) にとって自然数は一つ一つが個性をもっていて、まるで生き物のように見えていたと伝えられている。

もしかして私が目にしてる景色もその一端?

  • 2に立脚する人類。直角への依存率が高い。
  • 3に立脚する火星人。一応は左右相称動物に分類されるタコの類で、だからか一応は直角に対して相応の敬意は払う。
  • 57立脚するエイリアン。クラゲやヒトデの類で、もはや完全に直角と無関係。

ただしガウス正17角形とか作図してメジャー・デビューした様な人だから、おそらく「宇宙人のお友達」も遥かに多かったのです。