日本人の多くにとって「人工庭園=地下迷宮建築願望」といえば、少年向け漫画週刊誌の巻頭特集と関連して1960年代末から1970年代にかけての「怪奇/オカルト/超能力/超文明/UFOブーム」と関連付けて回想される事が多い様です。
しかし実は日本起源とすらいえない側面もあったりして…
- その発端は一般に愛妻を肺病で失って陰鬱な気分に沈んだ最晩年のエドガー・アラン・ポーが残した「アルンハイムの地所 (The Domain of Arnheim、 1846年)」「ランダーの別荘 (Landor's Cottage、 1849年)」とされる。
- 一般にフランス象徴主義の寵児ユイスマンスの「さかしま(À rebours;1884年)」において一つの完成型に到ったとされる。
990夜『さかしま』ジョリ・カルル・ユイスマンス|松岡正剛の千夜千冊
ユイスマンスは工芸を好んだ作家であった。父親が彫刻師だった。つまりはヨーロッパの唐津や志野を作っていた。
処女作は散文詩であるが、まるで金属細工のような言葉の填め込みになっている。その後の作品は社会の状況を扱うが、やはりどこかに銀線や大理石を研磨したり溶融したりしているようなところがあった。それがあるときエミール・ゾラ(707)の目にとまって、「メダンの夕べ」に列せられることになった。
やがてユイスマンスはゾラの自然主義を美意識にだけ注入刻印することを思いついた。それが本書『さかしま』である。その勢いはしばらくとまらず、ついでは大作『彼方』(1891)となって、幼児虐殺で名高いジル・ド・レエや黒ミサを扱った。
これは見たところは驚くべき悪魔主義の作品であり、それが好きでユイスマンスを読む者もいまなお少なくないのだが、ぼくはそれよりも中世神秘主義の卓抜な解読書として読んだ。そこにユイスマンスの心理が反映しているなどとは読まなかった。それゆえこれは、いわばバルトルシャイテスやウンベルト・エーコの『薔薇の名前』と同じ役割を果たした作品なのである。
なぜ、かれらが悪や罪や悪魔や怪異を解読したくなるかというと、ヨーロッパには中世このかた家具にも工芸にも悪魔が刻まれてきたからだった。日本の工芸には、めったにそういうことはおこらなかった。
そのユイスマンスがカトリックに“回心”したのは、『彼方』を書いてのちのことだったというふうに、文学史ではなっている。
ユイスマンスは『彼方』であまりに「悪」を描いたので各方面から非難を受け、そこでヴェルサイユ郊外イニーのトラピスト派修道院に参籠して、敢然と修練者の道に入っていった。ユイスマンスはこの時期に“別人”になった。頽廃主義と悪魔主義を捨てた。そう、見られている。
これが伝記上のユイスマンスの有名な“回心”である。もっとも伝記といっても、いまのところはロバート・バルティックの『ユイスマンス伝』くらいしか紹介されていないけれど、他の文学評論も似たり寄ったりだ。
ともかくも、そこで書かれたのが、『出発』『大伽藍』『献身者』の3部作だった。この3作にこめられた中世カトリック神秘主義は、たしかにまことにラディカルだった。
ぼくは『大伽藍』(1898)から読んだのだが、最初の数十ページで脱帽した。そこに描かれているのはシャルトル大聖堂の詳細きわまりない内部装飾だけだった。その一部始終を主人公のデュルタルが観察しているだけだった。それなのに、そのことに感銘した。
教会の彫刻を“読む”こと、それはヨーロッパ中世においては「読書」だったのである。けれども、そういう能力自体が近代社会に向うにしたがって廃れてしまっていた。
こういうことができるのは、かつてならジョン・ラスキンただ一人であったろう。あの『ヴェニスの石』や『建築の七燈』がそれを成し遂げた。その次にこのような描写に徹することができたのは、きっとヴィクトル・ユゴーだったろうけれど、さしもの『ノートル・ダム・ド・パリ』も、その寺院描写の直前で物語のほうにシフトしていった。
それがユイスマンスにおいては、寺院描写という「読書」に徹底できた。これはなるほど快哉だ。 - 日本においては谷崎潤一郎「黄金の死(1914年)」江戸川乱歩「パノラマ島奇譚(1926年〜1927年)」を経て横溝正史「悪霊島(1979年〜1980年、映画化1981年)」において一つの完成形を見たとも。その過程では小栗虫太郎「黒死館殺人事件(1934年)」というより同年発表の「失楽園殺人事件」を経ている。
『金色の死』谷崎潤一郎 1914(大正14)
江戸川乱歩 パノラマ島綺譚
悪霊島 - Wikipedia
作家別作品リスト:小栗 虫太郎
これ掘り下げると、案外深い内容だったりして…