諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【ヴァルキリー/ワルキューレ】「民族主義的伝承文学」が発祥した瞬間について。

リヒャルト・ワーグナーの楽劇「ヴァルキューレ(Die Walküre、作曲1856年、初演1870年)」の序曲「ワルキューレの騎行」そのものは幾度も耳にしているのに、そこで歌われる歌詞の内容は全く知らない人が沢山います。


ここで克明に描かれるのは「人間間の愛を知らぬ養父に召喚されたが故の酷薄なヴァルキリー/ワルキューレの世界観」。そしてこの次元から出発するが故に「人と人を結びつける愛の存在を知った」ヴァルキリー/ワルキューレの長姉ブリュンヒルデの苦悩に満ちた「裏切り」が引き立つという構成。

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当然問題となるのは「残された姉妹との以降の関係」。「(養父を無視して)長姉の指示に従う」としたのが宮崎駿監督映画「崖の上のポニョ(2008年)」で、「当然無条件で対立関係となる」としたのがライカ映画「KUBO/クボ 二本の弦の秘密(Kubo and the Two Strings、2016年)」や「マイティ・ソー バトルロイヤル(Thor: Ragnarok、2017年)」。「どっちに付くか個々が悩んでそこにドラマが生じる」としたのが岡本倫極黒のブリュンヒルデ(Brynhildr in the Darkness、2012年〜2016年)」。

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それではこの部分、オリジナルではどうなっていたかというと…何とまるで分からないのです。元作品で全く触れられていないばかりか、物語文法的に該当する先例もありません。一体どうしてそんな事に?

全ての発端は、この作品が(産業革命受容に伴う大量生産・大量消費スタイルの浸透によって)消費の主体が王侯貴族や聖職者といった伝統的インテリ階層から新興産業階層や労働者に推移しつつある時期に執筆された点に求められそうです。その結果「不覊磊落なる調子を具有し、一転しては虚無的の放縦なる」民衆史観が(それまでは王侯貴族や聖職者といったインテリ層の独占物だった)文学の世界にも「暗い影」を及ぼし始めたのでした。

北村透谷 徳川氏時代の平民的理想

まことや平民といえども、もとより劣等の種類なるにあらず、社界の大傾向なる共和的思想はかかる抑圧の間にも自然に発達し来りて、彼等の思想には高等民種に拮抗すべきものはなくとも、自ら不覊磊落(ふきらいらく)なる調子を具有し、一転しては虚無的の放縦なるものとなりて、以て暗に武門の威権を嘲笑せり。ゆえに彼等は自然に政権を軽視して、幕府の紀律に繋がれざる豪放の素性を養ひ、社界全躰より視る時は一種の破壊的原素をその中に発生せしめて、大に幕府を苦しめたり。

制禁に遭ひたる戯作の類、遠島に処せられたる画家の事、これが現象の一として挙ぐるに足るべし。しばらく閭巷(りよかう)の侠客なるもの起り来りて、幕政を軽侮し、平民社界の保護者となり、圧抑者に対する破壊的手腕(天知子の語を借用す)となりたるも、これがが一現象なりけり。

自然の傾向は人力の争う事あたわざるものなり、従来文学なるものは独り高等民種の境内に留まりて、平民は一切思想上の自由を持たざりし如くなりしものが、やがて俄かに元禄以降の盛運に際会して、その思想界に多数の預言者を生みて、自から一貫の理想を形作りたれば、その理想する紳士も、その理想する美人も、その理想する英雄も、有り有りと文学上に映現し出でたり。

ここに注意を逃のがすべからざる一大現象は、遊廓なるものの大にこの時代に栄えたることなり、難波或は西京には古くよりこの組織ありしといえども、江戸にてこの現象の大にあらはれたるは慶長の頃かとぞ聞く(慶長見聞記に拠よる)。しかし乱世の後、人心ようやく泰平の娯楽をうったえ、かの芒々たる葦原(今日の吉原)に歌舞妓、見世物等など、各種の遊観の供給起り、これに次いで遊女の歴史に一大進歩を成し、高厦巨屋甍いらかをすべてこの葦原に築かれ、都には月花共にこの里にあらねばならぬ様になれり。

およそ女性の及ぼす勢力はいつの時代にも侮るべからざるものなり、別していわゆる紳士風(ゼントルマンシップ)なるものを形成するには、偉大なる勢力ある事疑うたがふべからず。故に平民の中にありし紳士の理想は、この遊廓の勢力によりて軽からぬ変化を経たり、読者もし難波及び京都に出でし著作に就きて、彼等の紳士なるものを尋ね見ば、思ひ半ばに過ぐることあらむ。必らずしも巣林子以下の諸輩を引照するに及ばざるべし。遊廓は一個の別天地にして、その特有の粋美をもって、その境内に特種の理想を発達し来れり、しかして煩悩の衆生が帰依するに躊躇せざるは、この別天地内の理想にして、一度脚をこの境に投じたるものは、必らずこの特種の忌はしき理想の奴隷となるなり。その理想は世上に満布したり、この理想は平民社界に拡がれり、むしろ高等民種の過半をも呑みたり、ある時は通と言ひ、またある時は粋といふもの、この理想に外ならざるなり。しかしてこの理想なるものはすなわち平民社界の紳士を作りし潜勢力にして、平民紳士の服装、挙動、会話、趣味この理想に基づかざる事はなはだ稀なり。
*確かに江戸時代初期は武家や僧侶が利用者の中心だったが、元禄の頃のは豪商も遊ぶ様になり、江戸時代後期には大工や職人の親方などの町人もそこに足を運ぶ様になったという。

一方、国を問わず資本主義が形成され、伝統的身分制度の解体が始まる以前には多かれ少なかれ(王侯貴族や聖職者の立場を正当化する)氏族主義的文学が、大きな影響力を有しておりました。

前近代まで適者生存(survival of the fittest)理論は氏族間闘争(Clan wars)と関連付けて論じられてきた感がある。

  • 「春秋左氏伝(紀元前700年頃〜約250年間の歴史を扱う。成立期不明)」は「支配者は天から選ばれる事でその地位を獲得し、天から見放される事によって滅んでいく」とした。メソポタミアの宗教観と重なる部分が多いが、こちらではアッカド人のシュメール制圧に際して芽生えた判官贔屓感情を背景とする「あえて(アッカド地母神)イシュタルから選ばれる事を拒絶したシュメールの英雄王ギルガメッシュ」についての叙事詩(紀元前三千年紀成立)も伝わる。
    『春秋左氏傳』解題
    本居宣長の精読した『
    春秋左氏伝』

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    ギルガメシュ - Wikipedia

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  • 日本における古事記(712年)」「風土記(編纂令713年、未完)」日本書紀(720年)」「新撰姓氏録(815年)」。全国各地の在地有力者の氏族起源譚を編纂する形で「中央神話」を創造。各氏族間の格式を「氏族起源台帳」によって管理しようとしたが、朝廷では天皇の権威とこれを奉じる藤原摂関家の力が強くなり過ぎてしまい、システムとして崩壊。一旦は完全に忘れ去られてしまう。
    『新撰姓氏録』氏族一覧

  • どうして藤原氏は栄華を極めたのか」を主題とする「大鏡(11世紀成立)」。藤原氏の没落までは扱わないが、むしろその予兆に怯えた事が執筆の動機になったとも。一方「源氏物語(11世紀成立)」は主人公光源氏の末裔達がその輝きを失っていく様を残酷に描く。

  • どうして一時期あんなにも栄えた平氏は滅んだのか?」が関心の的となった「平家物語(13世紀以前の成立)」。これにあやかる形で編纂された「太平記(14世紀中旬〜1370年頃)」においてそのテーマは「朱子学の実践とは何か?」といった新要素を加え複雑な発展を見せる事になる。

  • リュジニャン一族が十字軍運動(11世紀末~13世紀末)に連動する形で栄え、そして衰退していく有様を始祖とされる人魚メリュジーヌ(Mélusine)の伝承と結びつけた「メリュジーヌ物語、あるいはリュジニャン一族の物語(Le roman de Mélusine ou histoire de Lusignan、散文版1397年、韻文版1401年以降)」。当時リュジニャン一族はまだ欧州においてそれなりの影響力を留めていたのでその滅亡までは描かれなかった。
    メリュジーヌ - Wikipedia
    リュジニャン家 - Wikipedia

  • 中世的分権状態から絶対王政の臣民(Subject)の世界へと世界観が変遷していく過渡期に執筆されたシェークスピアの「ロミオとジュリエット(Romeo and Juliet、 1595年前後)」。

    歴史的背景は案外複雑。キャピュレット家とモンタギュー家の対立は神聖ローマ帝国とイタリアの中世を騒がせた教皇派(Guelphs)と皇帝派(Ghibellines)の対立に由来する。「オトラント城奇譚(The Castle of Otranto、1764年)」同様フリードリヒ2世が背後で暗躍。もし当時の英国王エドワード1世が勧められるままナポリシチリアの国王となっていたら、イングランドイタリア半島の南半分を獲得する代償として(「狂犬」アンジュー公シャルル・ダンジューに率いられた)フランス王国と全面戦争状態に突入していた。こういう重厚な歴史が英国人に様々な想いを馳せさせるのであろう。だが同時にこうした設定のマクガフィン化にも成功しており「臣民(Subject)の世界から市民(Citizen)の世界へ」といった価値観の展開にも対応。その過程で「バルコニー(balcony)理論」が派生。
    *「マクガフィン(MacGuffin, McGuffin)」…ヒッチコック監督の作劇理論における「登場人物への動機付けや話を進めるために用いられる小道具」。そのジャンルでは陳腐なものが選ばれる事が多く、作品構造上いくらでも交換が効く。
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    *「バルコニー(balcony)」…ハリウッド映画の脚本世界では少なくとも1930年代から「バルコニー理論」なるものがシナリオのチェックに使われてきたが、そこでいう「主役カップルが結末まで結びつかない様に引き離しておく阻害要因」。名前の通り「ロミオとジュリエット」が発想の起源だが、その存在をバラしたジェームズ・M・ケイン自身は、そこに組み込まれたロジックを逆手に取って「郵便配達は二度ベルを鳴らす(The Postman Always Rings Twice、1934年)」を執筆。むしろ「ルールを従順に厳守してる限り三文芝居しか書けない」とも見て取れる。遅くとも1990年代までにはコンピュータ化されていた。実物の一つを触った事もあるが、少なくともそのバージョンでは「恋を邪魔する存在」と「恋を進めてくれる存在」の兼任が不可能だった(どちらかというと対立して代理戦争をやらかす前提になってたっぽい)。確かにこれでは三文芝居の量産しか出来ない。

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    歴史的背景がよりマクガフィン化された「ハムレット(Hamlet、1600年〜1602年)」「マクベス(Macbeth、1606年頃)」「リア王リア王(King Lear、1604年〜1606年頃)」といった作品に至っては氏族物に分類することすら不可能となる。
    *そしてこの次元から「家父長制」とか「エディプス・コンプレックス」とか新たな次元の価値観が切り離される展開に。

  • 18世紀前半に「ウォルポールの平和(1721年〜1741年)」を実現したホイッグ党穏便派の末裔ながら、既に政治的影響力をほとんど喪失していたホレス・ウォルポールが同様に一時期国際政治の頂点に立ちながらあっけなく滅んでいった神聖ローマ帝国ホーエンシュタウフェン朝(Hohenstaufen, 1138年〜1208年、1215年〜1254年)に取材した「オトラント城奇譚(The Castle of Otranto、1764年)」。
    ホーエンシュタウフェン朝 - Wikipedia

  • フランス革命からナポレオン戦争にかけての時代、フランスからゴシック小説の供給が絶えた英国では郷紳(田舎のジェントリー階層)の女子達の間で「性淘汰」を主題とする口語文学が勃興。
    *ただしこの頃にはもう血筋より富裕さが重視される様になっている。

    *同様の傾向は7月王政(1830年〜1848年)以降のフランスでも見受けられた。要するにこの両国では伝統的貴族社会の解体が急速に進み、零細貴族は没落して庶民の仲間入りを果たす事になる。

  • どうしてフランスにおいてはブルボン家からオルレアン家への王統交代が起こったのか?」について取材したアレクサンドル・デュマ「ダルタニャン物語(D'Artagnan、1844年〜1851年)」の世界。テューダー朝(1485年〜1603年)史観そのものともいえるシェークスピア史劇を参考にしたが、執筆途中で2月/3月革命(1849年〜1849年)が起こり、この部分はあえなくマクガフィン化。

  • 江戸幕藩体制下の日本においては戦国時代の一時期、関東において圧倒的存在感を示しながら突如として痕跡一つ留めず消え去った安房里見氏に取材した曲亭馬琴滝沢馬琴)の「南総里見八犬伝(1814年〜1842年)」が有名。自由民権運動に挫折し、キリスト教に入信した「日本浪漫主義の開闢者」にして「処女厨元祖」北村透谷(1868年〜1894年)がこの作品をその大源流に位置付けている。

    北村透谷 処女の純潔を論ず (富山洞伏姫の一例の観察)

    北村透谷 内部生命論

    北村透谷 徳川氏時代の平民的理想

しかし19世紀に入ると「血統こそ全て」をモットーとする貴族制そのものの崩壊が始まる。そして上掲の様な概念の向先が次第に「国家」や「人種」といった新たな有効単位に推移していく。「領主が領土と領民を代表する農本主義的伝統」そのものが過去のものとなる。

その一方でドイツ文芸は伝統的に「(儚き人間の生を象徴する)乙女と(時を選ばず襲いかかってくる無慈悲な死の象徴としての)死神」を対比させてきたのです。

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*ちなみに「性別逆転バージョン」も存在。ゲーテ「コリントの花嫁」っぽい。

そのバリエーションとして「乙女そのものが死神に変貌する」パターンも存在します。しかも(特に外国において)「未婚のまま死んだ少女が夫となる青年を求める」エロティズムと結びつけて語られてきたのが特徴。

19世紀に入るとドイツ・ロマン主義の外国への「輸出」が始まる。 そしてその過程でドイツ・ロマン主義は次第に必ずしも「ドイツ人によるドイツ人の為の」ドイツを舞台とする物語とは決め付けられなくなっていく。ドイツ・ロマン主義の世界を特徴付ける「タナトス(Thanatos、死への誘惑)」すら抹消されてしまうケースが出てくる。
*そもそもフランスにおける小ロマン(青年フランス)派、あるいは政治的浪漫主義はドイツ文学のフランス語への訳出を発端としている。

  • E.T.A.ホフマン「砂男(Der Sandmann、1817年)」…幼少時から目を抉られる恐怖に脅えてきた青年が、両眼を象嵌されてない人形への恋や高台より望遠鏡で覗ける景観との遭遇を経て完全に発狂にし自殺を遂げる」悲劇。江戸川乱歩の「押絵と旅する男 (新青年掲載1929年)」や「蟲(1929年)」はこうした悲劇の別バージョンの模索。一方、フランスのロマン派作曲家レオ・ドリーブの手になるミュージカル「コッペリア(Coppélia、 ou la Fille aux yeux d'émail 、1870年初演、舞台はポーランド農村に変更)」において、人形師コッペリウスが産み出した「被造物」コッペリアは本当に単なる人形に過ぎない。しかも途中で中身が主人公を恋い慕う村娘に入れ替わり「恋敵」のコッペリアを破壊してハッピーエンドとなる。

    *この「コッペリア」及び「メトロポリス」をヒントに生み出されたと推測されるのが手塚治虫リボンの騎士」のヘケート。何しろバージョンごとに扱いが異なる。

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  • ラ・シルフィード(La Sylphide:1832年)」…三大バレエブラン(Ballet Blanc:白のバレエ)の一つ。舞台はスコットランドだが、欧州人の想像力においては「ドイツの森」と「スコットランドの森」にイメージ互換性がある(要するに「キリスト教の威光も届かぬ闇の奥」といったイメージ)。望まぬ結婚に風の精シルフィードが割り込んできて新郎を誘惑。相思相愛となった上で森の奥で心中を果たす。残された新婦は本当の思い人と結婚するという筋書きだが、他二作同様ここにも「神秘的な白衣の乙女=若くして未婚で死んだ娘が転じた森の怨霊」という含みが見て取れる。
    *ちなみにロシア・バレー団の演目「レ・シルフィード(Les Sylphides;初演1907年)」はショパンが深夜の森に出現した風の精シルフィードととりとめもなく語り合うという芸術家とインスピレーションの関係をモチーフにしたバレーで、直接の関係はない。
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  • 「ジゼル(Giselle、1841年)」…三大バレエブラン(Ballet Blanc:白のバレエ)の一つ。ティオフル・ゴーチェ(Theophile Gautier)が脚色を担当。主人公が死装束で踊る唯一のバレエ作品で、元話とされるのはハインリッヒ・ハイネがフランスに伝えたオーストリア地方の伝説。それによれば結婚を目前にして亡くなった娘達は妖精ウィリとなり、夜中に森に迷い込んできた男性を死ぬまで踊らせるのだという。
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  • ワーグナー楽劇「ニーベルングの指環(Ein Bühnenfestspiel für drei Tage und einen Vorabend "Der Ring des Nibelungen"、1848年〜1874年)」…ヒロインのブリュンヒルデ(古ノルド語Brynhildr、英語Brunhild)はワルキューレ(Walküre)の一人。神々の長にしてヴァルハラ城の主人たるヴォータン(Wotan)の娘とされるが、元来は式神の様に人間らしい魂など一切備えぬ人馬一体の存在で、父に命じられるまま戦場の勝敗を定め、死者を特定し、亡くなった王侯や勇士の魂魄(エインヘリャル)を選り分けてヴァルハラに運びもてなすだけの存在にすぎない。だがある戦場で間違った側を勝たせ、死すべき運命にあった身重の女を逃してしまう。罰として炎の壁(ロキの化身)に囲まれた牢獄内で眠らされるが、逃した女が生んだ英雄ジークフリート(Siegfried)に救出され、恋に落ちて結婚する。とはいえ実はそうした展開自体が全てヴォータンが始めた「大いなる計画」の一部だったのであり、その一環として夫のジークフリートは命を落とす。あまりの理不尽に怒り狂うブリュンヒルデ。それで夫を葬る荼毘に愛馬グラーネ(Grani)共々自らの身を投じ、炎(ロキの化身)と洪水(ラインの娘達)の助力を得てヴァルハラ城に捨て身の特攻を敢行。その結果、ヴァルハラ城はあっけなく崩壊するが、それこそまさに「大いなる計画」の目指す最終目標だったのである。
    *伝承によれば元来ワルキューレは天女の様な白鳥の羽衣を持ち、それを身にまとうことで白鳥に変身したりもする(これを男に奪われるエピソードも存在する)。以外と「白のバレエ」と類型的に重なる部分が多いのである。

    ①しかし本当に「大いなる計画」はヴォータンが始めた時点からそういう内容だったのだろうか? そもそも全ての因縁はラインの娘達が騙され、ロキが騙したヴァルハラ城建国期まで遡る。

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    *全体的に曖昧で多義的解釈の余地があるこの物語を巡る有名な解釈の一つ。ここではヴァルハラ城建設期における「騙した側の主体」ヴォータンと「騙された側の主体」アルベリヒ(Alberich、指輪に「死の呪い」をかけたニーベルング族の長)を表裏一体の関係と見る。ちなみに「Alberich」の語源は「Alb-lih(エルフ王)」。メロヴィング朝起源譚には名祖メロヴェクス (Merovech) による開闢を助けた「異世界の兄弟」として登場。ただし(記紀における「大国主による建国を助けた後に常世国に渡った少名毘古那」の様に)それっきり姿を消す。
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    ②問題解決の鍵は要するに「ヴァルハラ城建設期に誰が誰を騙したか」はっきりさせる事。アルベリヒは「ラインの娘達」を「騙して」入手した指輪でニーベルング族を従える。そしてさらにロキに「騙され」その指輪を巻き上げられる。では「ヴォータンとロキの関係(「主君と忠臣の関係」にして「征服者と被征服者の関係」)」「ヴォータンとアルベリヒの関係(同じ征服者同士)」「ラインの娘達とロキの関係(同じ被征服者同士)」をどう見るか。音楽的展開から推測するしかなく「ヴォータンとアルベリヒの存在は表裏一体」とか「ロキはヴォータンの忠臣を装いつつ、始終叛旗を翻す機会を虎視眈々と狙い続けてきた(それはブリュンヒルデとグラーネの関係とも重なる)」といった解釈はここから導出されたもの。
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    *音楽的展開上さらに興味深いのは、多くの人間が「ヴァルキューレの主題」と思い込んでいるのが実質上「グラーネの主題」で「殺戮衝動の解放」を暗喩する点。そして「ワルキューレの騎行」が描写するのは「(ヴォータンが遣わした人馬一体なるヴァルキューレ達の完全統制下にある)人間同士の戦争」だが、クライマックス時点では「グラーネの主題」が奏でられた後に(ヴァルハラ城を滅ぼす)「ロキの力(炎)」と「ラインの娘達(洪水)」の解放が続く。要するにこれをどう考えるかという事なのである。

    *ちなみにMCU(Marvel Cinematic Universe)の一部を構成する「ソー(Thor、2011年〜)」シリーズを第二作まで「全ての黒幕はロキだった」という構成だったが(あたかも原作を模倣したかの如く)第3作で大きな捻りを入れてきた。それを契機にヴァルキューレ的存在も登場。「利用されるだけ利用されて捨てられた虚しさにアル中になってしまった」設定。

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  • 白鳥の湖(Лебединое озеро;1877年初演)」…同様に森を徘徊する少女の死霊の群舞を特徴とする「ラ・シルフィールド(La Sylphide 1832年)」や「ジゼル(Giselle 1841年)」と「三大バレエブラン(Ballet Blanc;白のバレエ)」、同様にチャイコフスキーが手掛けたシャルル・ペロー原作の「眠れる森の美女(初演1890年)」やE.T.A.ホフマン原作の「くるみ割り人形(初演1892年)」と併せて「三大バレエブラン(Ballet Blanc:白のバレエ)」と称される事もあるクラシックバレエ作品。ワーグナーのオペラ「ローエングリン(Lohengrin;1850年初演)」からの影響が指摘されているチャイコフスキー作品。ドイツの作家ヨハン・カール・アウグスト・ムゼーウスによる童話「奪われたヴェール」が元話で物語の舞台はE.T.A.ホフマンくるみ割り人形」と同じくドイツ。ジークフリート王子は深夜山奥の白鳥湖において悪魔ロットバルトに白鳥へと姿を変えられた娘オデットに出会い、彼女を助けようと思い立つが彼女と瓜二つの悪魔の娘オディール(概ねオデットと一人二役)の奸計に阻まれる。以降の展開は版によって異なるが、初版含めジークフリートもオデットも助からない悲劇的エンディングが多い。
    *ちなみに「ローエングリン」の元話はオランダである。

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    *悲劇的結末が多いのは、白鳥湖が冥界の暗喩で、オデットは突然死のせいでまだ自分の死を受け容れられてないだけの小娘で、物語全体が「生者と死者の恋」であるせいとも。
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    ①ドイツの作家ヨハン・カール・アウグスト・ムゼーウスによる童話「奪われたヴェール」を元に構想が練られ,1875年、ボリショイ劇場の依頼により作曲。1876年に完成した。バレエが作られたのはロシアだが、物語の舞台は「くるみ割り人形」と同じくドイツである。

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    ②善良な人物が悪い魔法によって白鳥に姿を変えられてしまうなど、本作品にはワーグナーのオペラ「ローエングリン1850年初演)」の影響が色濃い。「ローエングリン」の第1幕第3場で現れる「禁問の動機」と「白鳥の湖」の「白鳥のテーマ」との類似性、そしてチャイコフスキーワーグナー作品の中で『ローエングリン』を特に高く評価していた事などが根拠として挙げられる。

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    ③1895年の蘇演以降、多くの演出家によって様々な版が作られた。多くはプティパ=イワノフ版をもとに改訂を施したものだが、ストーリー、登場人物、曲順などはそれぞれかなり異なる。結末も大きく2つに分けられる。一つは、王子とオデットがともに死んでしまう悲劇的な最後。もう一つは、オデットの魔法が解け王子と2人で幸せに暮らすというハッピーエンド。初版やプティパ版は悲劇で終わっており、2人は永遠の世界へ旅立っていく(昇天する)。もっとも、悪魔や魔法が実在する世界においては、これも一種のハッピーエンドとして捉える事が可能。現世で解決するハッピーエンドは1937年のメッセレル版で採用され、ソ連を中心に広まった。

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    ④通常オデット(白鳥)とオディール(黒鳥)を同じバレリーナが演じる。プティパ版初演時、マリインスキー・バレエ団(キーロフ・バレエ団)のプリマ、ピエリーナ・レニャーニが両方踊ったのが定着した。見た目ではオデットとオディールでは衣装(オデット=白、オディール=黒)が違うが二人の性格は正反対であり、全く性格の違う2つの役を一人で踊り分けるのはバレリーナにとって大変なことである。オデット/オディール役は32回連続のフェッテ(黒鳥のパ・ド・ドゥ)など超技巧も含まれて、優雅さと演技力、表現力、技術、体力、スピードすべてに高いレベルが要求される役である。

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    ⑤タイトルの通り、ハクチョウが「白鳥」のモデルであると思われがちだが、大阪音楽大学学長の西岡信雄は本作の白鳥のモデルについて「ハクチョウはダンスを踊ることはできない。白鳥のモデルは求愛のダンスを踊るツルであり、タンチョウが存在する日本と違って白いツルがいなかったヨーロッパだったので、ツルのダンスにハクチョウの白いイメージをあわせたのではないか」という意見を述べ、実際にツルの求愛のダンスと本作のダンスの刻むリズムが同じであるとの研究成果を述べた。

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    ⑥日本だけでなくアジアや世界全域に広がる白鳥処女説話(Swan maiden)と結び付けて考える向きもある。異類婚姻譚の類型の一つで、しばしば白鳥が羽衣を纏った天女と同一視される羽衣伝説となる。概ね天女とそれに恋する男の2人を主要登場人物とし、天女は男と結婚して子供を残すか羽衣を見つけて天上へ戻る。北欧神話の半神ワルキューレにも白鳥の羽衣を男に奪われるエピソードが存在するし、吉田秋生吉祥天女(1983年〜1984年)」では自分や家を守る為に何の躊躇もなく人を殺すヒロイン小夜子の超絶性を天女の末裔たる血統と結びつけた。この作品はまた彼女を女性として雄々しく自らの歩む道を切り拓いていくシャーロット・ブロンデ「ジェーン・エア(1846年)」のヒロインにも重ねている。ジェーン・オスティンの提唱した「(純粋な善人も純粋な悪人も存在しないが故に相互チエックが欠かせない)灰色の監視社会」を継承しつつも、シャーロット・ブロンデは発狂して幽閉された恋人の先妻バーサ、エミリ・ブロンデは復讐が人生の全てとなってしまったヒースクリフという怪物を復活させずにはいられなかったのだった。こうした葛藤の延長線上に羽衣伝説系としては最悪の展開を辿るディズニー映画「マレフィセント(2014年)」が登場。

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    *ちなみに「吉祥天女」同様に聖徳太子を’「躊躇なく人を殺す超絶的存在とした山岸涼子の「日出の天子(1980年〜1984年)」とその続編「馬や古女王(1986年)」は日本で保守派有識者の逆鱗に触れ袋叩きにされている。

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    それにつけても「白鳥の湖」の物語は版や振り付け家によって異なる事が多く様々である。物語を悲劇的結末で終わらせようと画策している「作者」ドロッセルマイヤー(E.T.A.ホフマンくるみ割り人形」に登場する事件の仕掛け人にちなむ)とバレエで戦う「プリンセスチュチュ(Princess Tutu 2002年〜2003年)」
    ですらそのバリエーションとして解釈可能だったりする。

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    【序奏】オデットが花畑で花を摘んでいると悪魔ロットバルトが現れ白鳥に変えてしまう。

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    【第1幕(王宮の前庭)】今日はジークフリート王子の21歳の誕生日。お城の前庭には王子の友人が集まり祝福の踊りを踊っている。そこへ王子の母が現われ、明日の王宮の舞踏会で花嫁を選ぶように言われる。まだ結婚したくない王子は物思いにふけり友人達と共に白鳥が住む湖へ狩りに向かう。

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    【第2幕(静かな湖のほとり)】白鳥たちが泳いでいるところへ月の光が出ると、たちまち娘たちの姿に変わっていった。その中でひときわ美しいオデット姫に王子は惹きつけられる。彼女は夜だけ人間の姿に戻ることができ、この呪いを解くただ一つの方法は、まだ誰も愛したことのない男性に愛を誓ってもらうこと。それを知った王子は明日の舞踏会に来るようオデットに言う。

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    【第3幕(王宮の舞踏会)】世界各国の踊りが繰り広げられているところへ、悪魔の娘オディールが現われる。王子は彼女を花嫁として選ぶが、それは悪魔が魔法を使ってオデットのように似せていた者であり、その様子を見ていたオデットは、王子の偽りを白鳥達に伝えるため湖へ走り去る。悪魔に騙されたことに気づいた王子は嘆き、急いでオデットのもとへ向かう。

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    【第4幕(もとの湖のほとり)】破られた愛の誓いを嘆くオデットに王子は許しを請う。そこへ現われた悪魔に王子はかなわぬまでもと跳びかかった。激しい戦いの末、王子は悪魔を討ち破るが、白鳥たちの呪いは解けない。絶望した王子とオデットは湖に身を投げて来世で結ばれる(あるいはオデットの呪いが解けてハッピーエンドで終わる)。

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  • メトロポリス(Metropolis、1926年)」ヴァイマル共和政時代のドイツで製作されたモノクロサイレント映画。監督フリッツ・ラングオーストリアユダヤ人のインテリ)、脚本 テア・フォン・ハルボウ(後にナチス支持者となるドイツ貴族)。2026年、「脳」(インテリ=エリート=ブルジョワ階級)と「手」(労働者階級)に二分された未来都市メトロポリスは調停者「心」の出現を心待ちにしていた。そしてある日「脳」の頂点に立つ絶対的支配者フレーダーセンの息子フレーダーは、ストライキの気運が生じた「手」を必死で押さえ込む若くて美しい指導者マリアに邂逅して恋に落ちる。そうした様子を監視していたフレーダーセンは危機感を覚え、旧知の錬金術師ロトワングに命令してマリアを誘拐させて彼の創造した「人形(人間の劣化版パロディ)」にその魂を複製させる。フレーダーセンはこの「人形」を使って労働者の団結を崩す程度の事しか考えていなかったが、実は錬金術師ロトワングはかねてよりメトロポリスを滅ぼす機会を虎視眈々と狙っており、好機到来とばかりに暴動を煽って街を破壊し尽くし「人形」共々巻き添えとなって死んでいく。その時になって初めてフレーダーセンはフレーダーとマリアの邂逅を(不幸に終わった)自分と妻の結婚と重ね合わせて容認。ついに「脳」と「手」の調停が達成される。
    *この物語において「死の乙女=ワルキューレ的存在」はヒロインから分離した「(虐げられた人々を扇動する)悪しき破壊衝動」という体裁をとる。
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    *実は「脳」は最初から1枚板だったのではなく伝統護持を主張する守旧派と生産効率を追求する進歩派の間に対立があった。二人の結婚によってその感情は一時的に緩和したが「一切の工場の完全破壊」は(職場を失って翌日以降食べていく手段を失った)労働者ではなく「守旧派」の勝利。

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    *「人形(人間の劣化版パロディ)」…歴史のこの時点ではまだ「ロボット」や「アンドロイド」という表現は普及してない。「人間の劣化版パロディ」という表現は、それが恋敵フレーダーセンに「奪われた」フレーダーの母の代替物として創造された事を暗喩している。

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    *実は物語構造全体がワーグナー「指輪」のそれに拠っている。「錬金術師ロトワング=ヴァルハラ城建設時から虎視眈々とそれを滅ぼす機会を狙ってきたアルベリヒ」「フレーダーセン=最後にはヴァルハラ城陥落を容認したヴォータン」「ロトワング及びフレーダーセンの思うがままに操られる「人形」=ロキ」「ロトワング及びフレーダーセンの思うがままに働かされてきた「労働者」=ニーベルング族」といった具合。そしてワーグナーはロンドンを訪れ「これぞニーベルハイム(アルベリヒがニーベルング族を隷属させていた地下都市)」と述べ、それまで国民的叙事詩ニーベルングの歌」の映像化に取り組んできたフリッツ・ラングとテア・フォン・ハルボウの夫婦はニューヨークを訪れ「ヴァルハラ城は実在した!!」と唱和して本作品の制作を決断したのだった。

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    *そしてこの物語には恐るべき続きが存在する。小説版の頭辞においてフリッツ・ラングは「機械文明を放棄しただけで円満解決が図れる筈がない」と批判的コメントを述べているが、ハルボウはむしろ「今こそ脳と手を調停する心が登場せねばならない」という確信を強め、ナチスの熱狂的信奉者になっていくのである。一方、彼女と決別したフリッツ・ラングはアメリカへの亡命を余儀なくされ「(悪女が探偵を破滅させる)フィルム・ノワール」の世界へと没入していく。

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    *「ナチスの熱狂的信奉者となっていく」…「内ゲバに終始して何の成果も出さない左翼陣営」に対するドイツ国民の失望が背景にある。とはいえ元々貴族出身だし「メトロポリス」展開上も「労働者の蜂起」にはネガティブな意味合いしか与えられてない。ちなみに当時はフレーダーセンばかりかその息子フレーダーや(日和見主義者)マリアも滅び、最終的に生き残った労働者達が勝利の雄叫びを上げて終わる「極左バージョン」も編集さfれたという。

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    *これはもう歴史上最大の皮肉としか言い様がないが、急進派が暴走して国民の間に「このままだと彼らに殺される」という恐怖を浸透させるからこそ、その後独裁政権が容易に全権を掌握出来てしまう(というより、それなしに全権掌握などおぼつかない)という側面が確実にあるのではなかろうか。思想の左右は関係ない。皇帝ナポレオン三世を誕生させたのは王政復古を焦る王党派の急進勢力だったし、大日本帝国軍国主義に追い込んだのは皇道派の暴走だったではないか。

しばしば「英国人の作劇はみんなシェークスピア起源」「アメリカの恋愛ドラマは原則として(「ロミオとジュリエット」に基づく)バルコニー理論に沿って展開する」なんて言われてます。

同じ意味合いにおいて、国際的に「ドイツ・ロマン主義の足跡」は確実に世界各国に残っているといえる。

ドイツロマン主義のバリエーションとしての「雪の女王

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アンデルセン童話「雪の女王(Sneedronningen、1844年)」

1844年12月21日初版の『新童話集』第1巻第2集に発表された。最初の日本語訳は、1893年9月初版の内田魯庵『鳥留好語』(警醒社)に同じ題名で収められている。
ハンス・クリスティアン・アンデルセン Hans Christian Andersen 楠山正雄訳 雪の女王 SNEDRONNINGEN 七つのお話でできているおとぎ物語

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  • ある所にカイという少年とゲルダという少女がいた。二人はとても仲良しだった。しかしある日、悪魔の作った鏡の欠片がカイの眼と心臓に刺さり、彼の性格は一変してしまう。その後のある雪の日、カイがひとりでソリ遊びをしていたところ、どこからか雪の女王が現れた。そして、魅入るようにして彼をその場から連れ去ってしまった。

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  • 春になると、カイを探しに出かけるゲルダの姿があった。太陽や花、動物の声に耳を傾け、少女は旅を続ける。途中、王子と王女の助けによって馬車を得るものの、それが元で山賊に襲われる。

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  • あわや殺されようとするところを山賊の娘に救われたゲルダは、娘が可愛がっていた鳩に、カイは北の方に行ったと教えられる。山賊の娘が用立ててくれたトナカイの背に乗って、ゲルダはとうとう雪の女王の宮殿にたどり着く。
    *山賊の娘は原作では黒人とされるが、挿絵ではアジア系遊牧民や浮浪児とされる事も。
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  • カイを見つけたゲルダは涙を流して喜び、その涙はカイの心に突き刺さった鏡の欠片を溶かす。少年カイは元の優しさを取り戻し、二人は手を取り合って故郷に帰った。

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ここに登場する「山賊の娘」は手塚治虫リボンの騎士」には「ジプシーの娘」として登場。その一方でディズニー版「アナと雪の女王(Frozen、2013年)」では該当する存在が完全削除され様々な論争を巻き起こした。

*個人的にはディズニーが「山賊の娘」を削除したのは、彼女をそのまま残しておくとゲルダがカイ少年を置き去りにして彼女と百合展開を始めてしまうと考えたからではと考えている。考えてみればマーク・トウェインの児童文学「トム・ソーヤーの冒険(The Adventures of Tom Sawyer、1876年)」の続編「ハックルベリー・フィンの冒険(Adventures of Huckleberry Finn、1885年)は、まさしくそういう展開を辿って優良文書から有害文書への転落を経験した訳だし、その少女版が「サタデー・ナイト・フィーバー(Saturday Night Fever、1977年)」と並んで1980年代青春搾取ミュージカルの嚆矢を飾る「Times Square(1980年)」だったともいえる。要するに少年だけでなく少女も油断しているとたちまち闇落ちしてしまうという認識…

ソ連アニメ映画「雪の女王/THE SNOW QUEEN(Снежная королева/Snezhnaya koroleva、1957年)」

ソ連ソユーズムリトフィルムによって1957年に製作された長編アニメーション作品。監督はレフ・アタマーノフ。キャラクターの動きはよく練り込まれており、ゲルダは仕草・表情が実在の生きている少女を思わせるほど精巧である。

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  • 運命に流されるディズニーアニメのヒロインと異なり、積極的に行動するヒロインのゲルダ、カイや山賊の娘の性格演技、女王の造形センスなど、ディズニーとは異なる独自の流れとして世界のアニメーション史にその名を刻んでいる。

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  • 日本では、1960年1月1日にNHKで放送され、かつてはしばしば日本語吹き替え版が休日などに地上波で放送された。カイは太田淑子ゲルダ岡本茉利が演じたバージョンが親しまれた。東映動画太陽の王子 ホルスの大冒険』など草創期の日本アニメーション界に大きな影響を残した。とりわけ、ゲルダの少女像は東映動画労働組合主催の上映会で見た宮崎駿にショックを与えたとされる。

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  • オリジナルシーンとして、ゲルダがカイの名を呼び、だんだんその声を変えていくことでゲルダと女王が同じ声優であることを演出として示すシーンがあり、吹き替え版でも踏襲している。互いに正反対の行動を見せる女王とゲルダが、実は同じ動機のもとに行動していたとする解釈である。
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2007年12月から三鷹の森ジブリ美術館の配給により、日本語字幕が改められ、オリジナルのロシア語音声でリバイバル公開されDVD発売もされている。
*ちなみにこの「ゲルダ雪の女王は表裏一体」解釈、国際的幻想文学の世界では「私の姿を見た者は殺す(だがお前はイケメンだから殺さぬ)」「(正体を隠して)嫁に来た」「私の正体を知った者は殺す(だがお前はイケメンだから殺さぬ)」という展開が斬新だったラフカディオ・ハーン「雪女(Yuki Onna、1905年)」と結びつけて考えられる事もある。

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1945年5月9日、ソ連(ロシア)は多大な犠牲(2千万人以上の戦死者)を払った結果、侵略国ナチ・ドイツに勝利した。この国を勝利に導いたスターリンは国民の大多数の敬愛を一身に受けた。だが彼は歴史の事実を改竄し1930年代に独裁体制を確立したことでも知られる。後にスターリン時代の様々な詳細を知らされた私たちは、一つの国がいかに矛盾に満ち複雑な様相を呈していたかと驚かされる。そのスターリンが孤独な死を遂げたのが1953年、翌年の晩秋に作家のエレンブルグは『雪どけ』と題する小説を書き、これは1955年春に発表される。スターリン時代に自己規制も含め、抑制され避けられてきた個人の感情表現を、エレンブルグはこの小説の登場人物たちに反映させ表現した。これは芸術の自由につながる重要な問題でもあった。小説のタイトル『雪どけ』は、ポストスターリンの時代状況を表す比喩として使われるようになった。そして1956年のソ連共産党の党内会議でフルシチョフスターリン批判演説を行い、個人崇拝が否定される。翌1957年6月の中央委員会総会で今までのメンバーが入れ替わる。同年10月には世界初の人工衛星スプートニク”が打ち上げられた。戦後の復興が目に見え、人々の気持ちが変化を喜び、わき立っていた1957年、「雪の女王」も登場したのだ。

 「あれ?」と思った人も多いはず。ここでいう「英国口語文学の勃興」や「ドイツ・ロマン主義文学の国際化」のプロセスの途上で 「民族主義的伝承文学」なるジャンルが立ち上がるのです。

  • 本当の発端はフランス革命ナポレオン戦争黒歴史とされた王政復古時代。当時までにフランスが受けた経済的痛手は壮絶で、産業革命導入を軽く半世紀は遅らせたといわれている。
    書評:ルネ・セディヨ 『フランス革命の代償』

    社会主義革命の評価はさておき、歴史学の世界では、かなり以前からフランス革命の見直しが進んでいる。フランス革命ブルジョワ革命ではなかったというのである。

    これまで、フランス革命は、自由な経済活動をのぞむブルジョワジーが主役となって、旧体制を打破したものだと考えられてきた。革命によって貴族の支配する封建社会は終り、ブルジョワジーの支配する資本主義社会が到来したという、マルクス主義流の発展段階説である。

    しかし、歴史の後景にうごめく無名の庶民に注目するアナール派や、計量経済学の手法を過去に適用する新しい歴史学の潮流は、旧体制は暗黒どころか、多少の波はあれ、順調に産業が発展していた時代だったこと、当時のブルジョワジーは小数派にすぎず、革命の主役どころか、恐怖政治の時代には敵役にされ、貴族より多くの犠牲者を出していたことを明らかにした。結局のところ、革命とは大規模な食糧暴動にすぎず、資本主義社会到来を促進したどころか、フランスに芽生えつつあった近代産業を全滅させ、イギリスに対して決定的な遅れをもたらしたというのだ。

  • この時代にサン=シモンなる人物が「実際にフランスの政治を担当するのは王侯貴族や聖職者の様な不労所得階層ではなく、実際の生産活動に従事する産業者の同盟たるべき」と言い出す。彼の歴史理解によれば王侯貴族や聖職者の様な不労所得階層の起源は現地を征服したノルマン人諸侯、産業者同盟のの起源は征服されたゴール人にまで遡るのだという。同時期にはシャトーブリアンらが「ケルトリバイバル」文学を展開。
    *サン=シモン自身は「フランス革命の代償」について「前世紀における破壊があったからこそ、今世紀における創造が可能となった」と説明している。

    *このうちシャトーブリアンは「フランス保守主義の父」と目される存在でもある。

  • これがロシアに伝わり、ゲルツィンらの「(外国から招聘された王侯貴族や官僚が元来のスラブ文化を台無しにしたとする)スラブ民族攘夷史観」形成に大いなる示唆を与える。

    アレクサンドル・ゲルツェン(Aleksandr Ivanovich Herzen、1812年〜1870年1月9日) - Wikipedia

    帝政ロシアの哲学者、作家、編集者。19世紀後半のロシアにおいて、農奴解放令実現に影響を与え『社会主義の父』として有名な人物の一人とされている。

    • 1812年にモスクワにて、地主の私生児として誕生。彼の母はドイツのシュトゥットガルトからの移民で官僚の娘、姓は「彼の心の子」という意味合いを兼ねて、ドイツ語で心臓を表すherzからとられた。
    • 14歳のとき盟友オガリョフと共に雀が丘(現レーニン丘)でデカブリストの遺志を継ぎ,農奴解放と専制政治の打倒に生涯を捧げることを誓う。
    • 1829年モスクワ大学物理数学科に入学,オガリョフとサークルを革命的組織,サン・シモン,フーリエらフランスの社会主義思想に傾倒した。
    • 卒業した翌年の 1834年逮捕され,5年間シベリアに流刑。流刑地から帰還後,西欧派最左翼として哲学論文『科学におけるディレッタンティズム』 Diletantizm v nauke (1843) ,長編小説『だれの罪か』 Kto vinovat? (1847) などを発表,40年代の思想的,文学的活動の指導者となった。
    • 47年西ヨーロッパへ亡命,52年ロンドンに「自由ロシア出版所」を設立,新聞『鐘』 Kolokol (1857~1867) などを刊行,国外にいて専制政治と戦い,ロシアの革命運動に大きな影響を与えた。ほかにロシア思想史上の貴重な文献である回想記『過去と思索』を残している。

    1870年にパリで死亡。その時は人々に忘れ去られたも同然だった。

  • そしてリヒャルト・ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner、1813年〜1883年)がロシア人無政府主義者バクーニン(Михаи́л Алекса́ндрович Баку́нин /Mikhail Alexandrovich Bakunin、1814年〜1876年)に唆される形で2月/3月革命(1948年〜1949年)の一環として遂行されたドレスデン蜂起(1849年)に参加。全国で指名手配され、フランツ・リストを頼りスイスへ逃れ、チューリッヒで1858年までの9年間を亡命者として過ごすこととなった。この時期に執筆された「ラインの黄金(Das Rheingold、作曲1854年、初演1869年)」には「(当時資本主義的発展の牙城だったロンドンをモデルとする)魔都ヴァルハラ」に屈服したニーベルング族、臣属しながら蜂起の機会を狙うロキ、支配階層に怨念を抱く先住民としての巨人族やラインの乙女達といった民族主義的主題が豊富に盛り込まれている。「スラブ民族主義者」バクーニンの影響が指摘されている。
    *ただし、その後バイエルン国王ルートヴィヒ2世パトロンとなった事から「指輪物語四部作」は見た目上、上掲の「氏族譚」としてトリミングされ発表される展開を迎える。そして魔都のイメージの源泉をロンドンからニューヨークに移した「メトロポリス(Metropolis、1926年)」においては、むしろこうした民族主義的主題は「階級間対立」として描かれる事に。

同時期、民族主義的主題を扱った作品としてはプロスペル・メリメカルメン(Carmen、1845年)」が有名。そこにあるのは「民族構成の複雑さがスペインにもたらす政治的不安定性」に関する客観的記述だけですが、そもそも2月/3月革命を契機に民族独立運動が東欧やオスマン・トルコで一斉蜂起するまで、そうした問題について語る事自体がタブー視されていたのですね。その背景としてフランス革命に連動する形で南米で植民地独立運動が荒れ狂っていた事を挙げる向きも。
カルメン(Carmen、1845年) - Wikipedia
カルメン (オペラ、1875年) - Wikipedia


ああ、ここでもやはり「事象の地平線としての絶対他者を巡る黙殺・拒絶・混錯・受容しきれなかった部分の切り捨てのサイクル」が回っているのです。

そして改めて「Cotton Club問題」が浮上してくるのです。

こういう流れについての認識が既存の「ロマン主義」の定義には欠けてる気がします。

ロマン主義 - Wikipedia

文学では「ロマンティック (romantique)」という言葉を現在、その言葉に含蓄されているような意味合いで初めて使ったといわれるフランスのルソー(『孤独な散歩者の夢想』)を嚆矢とし、多くの作家が挙げられる。

フランスにおけるロマン主義文学

18世紀末のベルナルダン・ド・サン=ピエールの『ポールとヴィルジニー』やディドロの『ラモーの甥』あるいはルソーの『新エロイーズ』、『告白』等に見られるロマン主義の萌芽は19世紀に入り、スタール夫人、バンジャマン・コンスタン、フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン、セナンクールといった初期ロマン派作家によって現実認識及び自我といった根源及び対象を持った本質的欲求の表現を通して、それまで教条主義によって抑圧されてきた個人の根本的独自性やそれを根源とした苦しみが明確な形をとって表現された。倦怠、不満、無力、自己満足、欲求不満と人に容れられぬという意識、こうした実存的不安、あるいはシャトーブリアンが「情熱の空漠性」と呼び、コンスタンが「今世紀の主要な精神的な病のひとつ」と呼んだものはそれまでの教条主義ではその存在が否定され、啓蒙主義においてはその輝きの影に隠れたものであった。同時にこの自我の流謫と、他者に対する夢想の中で揺れ動く自我の称揚にロマン主義の基盤が据えられている。これらはナポレオン1世第一帝政に対する文化的抵抗運動の中、文芸サロンやサークルの中で醸成された。また、ヴィクトル・ユゴーやその兄アベルユゴーが属した「文学保守」誌、あるいは「グローブ」誌、「フランス精神」誌などを発表の根拠地としていた。そして1825年にヴィクトル・ユゴーシャトーブリアン自由主義化することでロマン主義はより大きなうねりとなった。自由主義個人主義・エゴイズムを柱とするロマン主義の確立はそれまでの教条主義・古典主義に対する個人の解放だけでなくあらゆる専制に対する人間性の解放をも目指した。ユゴーは戯曲『エルナニ』の序文でこう書いている。「芸術における自由、社会における自由、これこそが筋が通り道理に適った全ての精神が足並み揃えて目指さなければならない二重の目的である。(中略)文学の自由は政治的自由の娘である。」1830年、この戯曲『エルナニ』の上演における混乱は「エルナニ事件」と呼ばれ、フランス芸術界を覆ったロマン主義における一大事件となっている。19世紀前半の代表的なロマン主義詩人としてはアルフォンス・ド・ラマルティーヌ、アルフレッド・ド・ミュッセ、アルフレッド・ド・ヴィニー、ヴィクトル・ユゴージェラール・ド・ネルヴァルらが、小説家としてはスタンダールオノレ・ド・バルザックヴィクトル・ユゴープロスペル・メリメジョルジュ・サンドらが挙げられる。1848年の総選挙によるラマルティーヌの失敗と、1850年バルザックの死、及び1851年12月2日のルイ・ナポレオンのクーデタを通じ、ロマン主義は幻滅の中で写実主義自然主義にその座を譲ることになる。以降のロマン派はシャルル・ラッサイー、シャルル・クロス、エリファス・レヴィらの小ロマン派と呼ばれる詩人・作家たちにパリの文芸サロン文化内で細々と継承され、やがて象徴主義にたどり着くことになる。

イギリスのロマン主義文学

イギリスにおけるロマン主義は、ヨーロッパ啓蒙主義に強い影響を受け、ウィリアム・ブレイクの詩をその萌芽とし、ウィリアム・ワーズワースサミュエル・テイラー・コールリッジの共著である詩集『抒情民謡集(Lyrical Ballads)』(1798年)をもって本格的に始まる。さらにロバート・サウジーらが牽引した。ワーズワースやコールリッジらはフランス革命後保守化したが、ナポレオン戦争ジョージ・ゴードン・バイロンパーシー・ビッシュ・シェリージョン・キーツらは先鋭化しイギリスを去ってスイス・イタリア等に移り、理想主義を掲げた。そうした中、『穀物条例歌集』のように政治に深く関わる作品も著された。またバイロンギリシャ独立戦争に従軍した。これらは産業革命重商主義への反動として産業革命の浸透と時を同じく浸透していったが、やがて産業革命の所作である功利主義的な思想にとって代わられることとなった。バイロンの死去した1820年代以降、イギリスにおけるロマン主義は急速に後退していった。

ドイツにおけるロマン主義文学

ゲーテの作品や疾風怒濤期の作品から理論の形成に大きな影響を受けたが、ゲーテ自身はロマン主義に批判的であった。ドイツ文学におけるロマン主義運動は北部のイエナを中心とした。イエナにはザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国の宰相でもあるゲーテの政策によって、国内を代表する学者たちが教授として招かれていた。ドイツの初期ロマン派(ドイツ・ロマン派、イエナ・ロマン派)の文学者には文学誌「アテネーウム」を主宰したシュレーゲル兄弟、ティーク、ノヴァーリスなどがいる。イエナのサークルにはゲーテ、シラー、シュライエルマッハー、フィヒテシェリングが関わった。またこのサークルには加わらなかったが、ヘルダーリンもイエナでフィヒテの講義を聴講している。この初期ロマン派は哲学への志向を持った。この傾向はシュレーゲルに強く近代の特徴的所産としてフランス革命フィヒテの知識学・ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター』を挙げている。しかしこの文学者からの接近は哲学者からは必ずしも歓迎されなかった。シュレーゲルはイエナ大学で哲学の講義を行ったが、哲学界からは黙殺された。またヘーゲルシェリングはシュレーゲルの思想を浅薄なものと非難している。しかしフィヒテの後期知識学や、シェリングの後期哲学(積極哲学)には明確にロマン主義の影響が認められる。これらのドイツ観念論とは異なる哲学的思索については、後にヴァルター・ベンヤミンが芸術批評の思想として発掘し、カール・ハインツ・ボーラーなどにより積極的に評価された。哲学史的意味においてこの時期の古代ギリシア研究にアポロンと対置されたディオニュソス的な存在を見出した影響は大きく、ニーチェらがこの分類を用いたほか、世紀末芸術等にモチーフが受け継がれた。彼らのグループ・イェナロマンティカーは各人の転居や死などにより1800年には解消した。後にベルリンのアルニムらによるサロンを中心とする小説家群が輩出された。この文学者群を後期ロマン主義と呼び、グリム兄弟、シャミッソー、ホフマンらが挙げられる。シュレーゲルの友人であるスタール夫人によりドイツのロマン主義はその源流であるフランスに紹介された。

ベルギーにおけるロマン主義文学

ヴィクトル・ユゴーの戯曲『エルナニ』の上演をめぐるエルナニ事件が起きた1830年に、ベルギーは臨時政府議会による独立承認が行われている。独立前の政治的混乱と産業革命の成功に伴うブルジョワ階級の功利主義の中でロマン主義の受容は遅れていたといわれ、また当時のフランス王党派色の強いロマン主義文学に対してオランダ王家(オラニエ=ナッサウ家)に対する独立運動を行っていたベルギー人の反応は薄かったといわれている。フランス側からだけでなく、ドイツ側からも喧伝されたが、一部の貴族以外からの反響はなかった。

ベルギーがロマン主義の受容を始めるのは、自由主義ロマン主義を明確に掲げた「グローブ」紙が熱心に読まれ始める1820年代中盤、1826年にオーギュスト・バロン (Auguste Baron) がパリからブリュッセルに移り、バロンの執筆した「ブリュッセル・ジャーナル」誌 (Le Journal de Bruxelles) と古典派の拠城とされる「歩哨」誌 (La Sentinelle) との間でロマン主義に関する論争が行われてからのことだった。また、パリに対してその約半分だったブリュッセルの印刷費とフランス第二帝政の厳しい言論統制により、ブリュッセルでフランス向けの海賊出版物が数多く出版されている。この海賊出版はバルザックの『19世紀フランスの作家たちへの書簡』で激しく非難されている。この状態は1852年4月22日にフランス・ベルギー両政府間で「文学・芸術著作権に関する相互保護協定」が締結されるまで続いた。

この海賊出版をめぐる論争はフランスのロマン主義に対する攻撃にも発展した。1836年の『ベルギー評論』では既に「想像力のもとで良識を抑圧しようとするこの新しい文学は、風俗を廃れさせ、道徳を破壊し、悪徳と罪とに、金の小片を散りばめた真っ赤なマントを纏わせている」と非難されており、1846年には詩人ラウルの『ユゴーに反して』(L'Anti-Hugo) というロマン主義を激しく非難する小冊子が刊行され、ブリュッセルではその後次々とロマン主義を攻撃する風刺的小冊子が刊行された。海賊出版論争の間にベルギー言論界はフランスの自由主義ロマン主義と自らの矛盾を自覚してベルギー・ナショナリズムが萌芽し、ゲルマン的ロマン主義の模倣を経由しベルギー独自の幻想文学に至っている。このロマン主義を受容した時期に書かれた小説としてヘンドリック・コンシャンス(英語版)(アンリ・コンシャンス)のロマン主義歴史小説フランデレンの獅子』(1839年)が挙げられる。

ポルトガルロマン主義文学

ポルトガルロマン主義はフランスのそれの影響が強く、ポルトガルにおいてロマン主義は、1825年に詩人のアルメイダ・ガレットが亡命先のフランスで発表した『カモンイス』(1825)によって導入された。

ガレットの他に、初期のポルトガルロマン主義の形成に大きな役割を果たした人物として、歴史家であり、詩人でもあるアレシャンドレ・エルクラーノの名を挙げることができる。

写実主義の萌芽が見られるジュリオ・ディニスや、『破滅の恋』(1862)のような恋愛小説を残したカミロ・カステロ・ブランコ のような第二世代に続いて保守的で形式的な超ロマン主義が文壇を支配し、こうした超ロマン主義に対して1865年に反ロマン主義者がその後進性を批判したコインブラ問題は、ポルトガルの後進性を巡る文学論争に発展した。

ポーランドロマン主義(Romantyzm)

ポーランド分割に参加したドイツの諸作家及びイギリスのバイロンの影響を強く受けた。1831年ポーランド蜂起から1863年の第2次ポーランド蜂起までが盛んな期間であった。

ポーランドロマン主義三大詩人と呼ばれるアダム・ミツキェヴィチ、ユリウシュ・スウォバツキ、ジグムント・クラシンスキや、歴史小説で知られるユゼフ・イグナツィ・クラシェフスキ等が活躍した。ロマン主義隆盛の後、ポーランド文学は19世紀後半の実証主義自然主義に向かって行くことになる。

キューバロマン主義

スペインの植民地支配に対する抵抗の手段としての役割を果たした。

1830年代から1840年代にかけてキューバロマン主義文学者はドミンゴ・デル・モンテが創刊した雑誌『レビスタ・ビメストレ・クバナ』(1831-1834)に集結し、その中から重要な批評家が現れた。その他にもキューバロマン主義者として、反スペイン運動に参加した叙事詩人ホセ・ハシント・ミラネスのような人物の名を挙げることができる。

アルゼンチンのロマン主義

1829年から1852年までアルゼンチンを独裁的に支配したフアン・マヌエル・デ・ロサスとの関係の中で培われた。ロマン主義がラ・プラタ川流域に登場したのは、フランスのロマン主義に影響を受けたエステバン・エチェベリーアの『エルビア、もしくはエル・プラタの恋人』(1832)によってであった。エチェベリーアはその後『調べ』(1837)などを著した後に、ロサスと決定的に敵対したためにウルグアイに亡命し、亡命先でロサスの圧政から着想を得て暴力を描いた小説『エル・マタデーロ』(1840)を著した。

エチェベリーアがそうであったように、ロサスの反対者は「1837年の世代」と呼ばれるグループを結成し、亡命先からロサスと対立したが、そのような人物の中で特に優れていたのはチリに亡命していたドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエントだった。サルミエントはラ・リオハ州のカウディーリョ、フアン・ファクンド・キロガの生涯を描いた『ファクンド』(1845)で、アルゼンチンにおける「野蛮」なガウチョやカウディーリョと、「文明」であるヨーロッパの文化との対立を描いている。

ロサス失脚後のロマン主義に位置づけられる作家には、『アマリア』のホセ・マルモルや、ガウチョ文学(英語版)の大成者であり、「アルゼンチンの聖書」とも呼ばれる叙事詩マルティンフィエロ(英語版)』(1872)を著したホセ・エルナンデスの名が挙げられる。

ブラジル帝国におけるロマン主義

ゴンサルヴェス・デ・マガリャンイスの『詩的吐息と感情』(1836)によって導入された。ブラジルのロマン主義はヨーロッパの形式の模倣に過ぎなかったが、扱われた主題は新たな国民国家アイデンティティに関するものだった。

ヨーロッパのロマン主義において英雄と見なされたのは中世の騎士だったが、中世を経験せず、騎士も存在しなかったブラジルにおいてその役割はインディオによって担わされることになり、インディアニズモと呼ばれる文学潮流が生まれた。その中で目標とされたのは、「ブラジル語」の創造だった。このように、ロマン主義文学者の想像上のインディオはインディアニズモの潮流の中で賞賛されたが、奴隷制に苦しむ黒人は少数の例外を除いてロマン主義文学者のテーマにはならず、実際に存在するインディオに対しては無関心、または敵対的な政策が採られた。

ブラジルロマン主義の文学者としては、詩においてインディアニズモを開拓したムラートのアントニオ・ゴンサルヴェス・ディアス、インディアニズモ小説の『イラセマ』と『グアラニー』でブラジルロマン主義の頂点に立ったジョゼ・デ・アレンカール、『ある在郷軍曹の回想録』(1852)で帝都リオの風俗を描き、上流階級を揶揄したマヌエル・アントニオ・デ・アルメイダ、ブラジルロマン主義に「笑い」をもたらし『苦しめられし犠牲者たち』(1869)で黒人に若干の偏見を持ちながらも黒人奴隷制を告発したジョアキン・マノエル・デ・マセード、ヴィクトル・ユーゴー人道主義に共感し、奴隷制廃止運動に携わった詩人カストロ・アルヴェス、『奴隷女、イザウーラ』(1875)で白人女性のような黒人女性を描いたベルナルド・ギマランエスなどの名が挙げられる。

フランス中心主義史観に「馬上のサン=シモン」皇帝ナポレオン三世の業績およびドイツ文学がフランス文学に与えた影響を悉く無視する傾向がある事が、こうした認識上の歪みを生み出してしまった感があります。この部分を補完してくれるのがカール・マンハイム(Karl Mannheim、1893年〜1947年)「保守主義的思考(Das konservative Denken、1927年)」。

この問題について、何度アプローチしても「二点間の最短距離が直線とならない」のは、この様に時空間の歪みが重層的に積層してるせいなんですね。