諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される】「商業至上主義時代」の一つの到達点?

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FUJI ROCK IS NOT ON Mt.FUJI.:三島由紀夫とディズニーランド - livedoor Blog

最近読んだ大塚英志サブカルチャー文学論』に収録されていた「三島由紀夫とディズニーランド」という評論がかなり面白かったのでちょろっと紹介しときます。要するに三島由紀夫が、アメリカ旅行の際ディズニーランドに立ち寄って、これにいたく感心したというエピソードがあって(ここからしてもう意外!意外!意外!の連続なんですが)そこから推し量ると、どうもそのディズニーランドを包括する理念のようなものが、三島の考える理想的な天皇のありかたに近かったんではないか、という斬新な切り口。

いわゆる「普通の右翼」に言ったら顔を真っ赤にして怒りそうな提案だけど。TDLは「堕落したアメリカ帝国主義文化侵略の象徴」なわけで。

「色彩も衣装も、いささかの見物的な侘びしさを持たず、いい趣味の商業美術の平均的気品に充ち、どんな感受性にも素直に受け入れられるやうにできてゐる」ディズニーランドに、本来誰からも愛される存在であるはずの天皇をかさねあわせるのは、偏見なくみればそこまで無理のある飛躍はしていない。それを意外に思うのは、あまりに僕が三島に対して固定的なイメージを持ちすぎているからにほかならないのだけれど。これが後に自衛隊で割腹自殺をした男の言うことだったと考えると途端に苦しくなる。そんな怖そうで痛そうなのは、「どんな感受性にも受け入れられる」とは言いがたいじゃん!と思う部分はある。

三島が近代の天皇制を戦前、戦後をつうじて批判していると言うくだりが面白かった。要するに明治憲法のもと官僚機構によって人為的につくられた、建武中興とか皇紀2600年とかに言及したりする、極めて「歴史的」な意味を持たされた天皇は誤りで、本来そうした歴史的なものとはかかわりをもたない文化的装置としての「脱歴史的」な天皇こそがあるべき姿であると。
*そういえば三島由紀夫谷崎潤一郎「黄金の死(1914年)」を高く評価していた。江戸川乱歩が安っぽい見世物小屋テイストに惚れ込んでいた様に「(駄菓子の元ネタの様に)実物に決して届かない儚いオーバードライブ感」を愛していた様である。この事とそうした事は一体どういう関係を持ってくるのだろうか?
『金色の死』谷崎潤一郎 1914(大正14)

ある意味(ウォルト・ディズニーが精査した)ディズニー・ランドも(宮崎駿監督が精査したジブリ作品も(スティーブ・ジョブズが精査したiPhoneも「究極の自由主義専制の徹底によってのみ達成される自由主義のジレンマの究極形として顕現した訳ですが、それが与えてくれる感動について私達はどう受け止めるべきなのでしょうか?

ヒッピー世代の反商業主義姿勢に全面的に否定された「商業至上主義時代」…

だがむしろ彼らの観点に見落としがあったからこそ、彼らの側が「歴史の掃き溜め」送りになったと考えるべきなのかもしれません。