ヘーゲルのいう「時代精神(Zeitgeist)」概念の問題点は、後世になってから振り返る形でしか見えてこない辺り。そしてその時初めて明瞭な形で浮かび上がってくる「境界線(Borderline)」というのもあるのです。
If the misery of the poor be caused not by the laws of nature, but by our institutions, great is our sin.(我々の貧困の悲惨さが自然法則によるものではなく、人間の行いによるものだとしたら、我々の罪は重い)
- 例えば「なまいきシャルロット(仏L'Effrontée、1985年)」と「レオン(仏題Léon、米題The Professional、1994年)」の境界線。もしレオンのヒロインたるマチルダ(演ナタリー・ポートマン)が殺し屋(演ジャン・レノ)と恋仲になって肉体関係まで結んでたら(当初のシナリオではそうだった)、21世紀まで騒がれ続ける事もなかった?
- 例えば「メガゾーン23(MEGAZONE 23、1985年)」と「機動警察パトレイバー2 The Movie(1993年)」の境界線。「東京の人間が感じる、自分達だけが繁栄を甘受しているという実存不安」を、あくまで「誇らしさとアンビバレントな関係にある実存不安」として語り尽くした後者が歴史に名を残す一方で「実は大惨事の結果、東京だけ宇宙に脱出していた」前者は…
こうして全体像を俯瞰してみると「1980年代に生じた問題意識に、1990年代に入ってから相応の決着をつけた作品が21世紀まで生き延びた」とも要約出来そうです。そして2010年代後半に入ると、当時は想像だに不可能だった両者の「直交地点」として新海誠監督劇場版アニメ「天気の子(2019年)」が現れるという…
最近追い掛けてるオイラーの公式(Euler's formula)e^θi=cos(θ)+sin(θ)iの一般形にして円分割数と直交の関係を明らかにする正多辺形方程式(Regular Polisides equattion)Cos(θ)+Cos(θ-π/NoC)iと何かしら関係がある気がしています。
何が恐ろしいって、このグラフが「共分散(すなわち「愛と憎悪」「関心と無関心」の相反関係)を見定める判定式」とぴったり重なってくる辺り。
すなわち…
①ある意味、全ての始まりは「伸びとともに、力あり(力は伸びに比例する)」の定言で有名なフックの法則(Hooke's law)F=kx発表(1676年に謎掛けの形で発表、1678年に答えを発表)であり、これにより人類はコサイン波の概念を把握可能となった。
②19世紀初頭までにいつの間にか(等速円運動の観測結果から)「グラフ上で直交するコサイン波とサイン波が円を描く」事実が常識として広まっている(オイラーの公式の発見自体は1740年頃だが、その事との前後関係も不明)。また(二辺形を扱う球面幾何学に立脚した)地球儀上の緯度経度法もいつの間にか常識として定着していた。
③この描円法から出発し、それに内接/外接する多角形の性質の研究が進んだ結果、ユークリッド幾何学が発見した定理と関係式もそのほとんど全てが併呑され尽くし、残された時代遅れの残滓は記憶から速やかに最初からなかった事にされた。こうした近世以降の急速過ぎる展開が人類の時空間認識能力にある種のバグを残す事に…
要するにCos(θ)+Cos(θ-π/NoC)iなる式が表しているのは、もしかしたら「人間の主観の介在なしに(曲面上にしか存在し得ない1辺形と2辺形の存在を故意に視野外に追いやった)ユークリッド幾何学は登場し得ず(「直交」の定義を歪める形でしか平面を前提とするユークリッド幾何学は成立し得ない)、しかもこの意味合いにおける主観的ユークリッド幾何学の恣意性は時代精神の進歩に従って最初から存在しなかったものとして忘れ去られてきた(天動説から地動説への推移に等しい激変が展開したのに、数学史や物理学史上にそれに関する議論がちゃんとした形で後世に残されてない)」なる歴史かもしれないのです。だとすれば私達は「前世紀まで水平視されてきた価値観が次世紀では垂直視されていて、しかも然るべき手続きを踏まない限りその記憶自体が残ってない」恐るべき世界に生きてる事になるんですね。
おそらく、ここでいう「(時代精神が忘れさせようとしている)人間の主観の介在」の正体は形而上学(Metaphysics)そのものおよび、その派生形…
そりゃ哲学が死ぬわけだ?