諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

スイス「武装中立」の裏側で

スイスの文化史学者ブルクハルト(Carl Jacob Christoph Burckhardt,1818年~1897年)は、ルネサンス期イタリアを分析して「権力は、何者がそれを行使するにしても、それ自体においては悪である」という結論に到達した。ここで断罪されているのは概ね「(領主が領土と領民を全人格的に代表する)農本主義的伝統」の事である。

じつはこのスタンス、スイス自体が歩んできた歴史と密接な関係があるのかもしれない。

 そもそもスイスの歴史そのものが一筋縄じゃいかない。

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  1. そもそもスイス自身が、モルガルテンの戦い(Battle of Morgarten、1315年)やゼンパッハの戦い(Battle of Sempach、1386年)によってハプスブルク家からの実質的独立を勝ち取ってから、イタリア戦争(1494年〜1559年)に介入してミラノを巡る攻防戦の一環として戦われたマリニャーノの戦い(Battle of Marignano、1515年)でフランス国王フランソワ1世率いるフランス軍に大敗を喫っするまで、熱に浮かれた様にただひたすら支配地域拡大を目指す「農本主義的侵略国家」の時代を経験している。まるで日中戦争当時の関東軍の様に。*それに続いた宗教革命時代も、チューリッヒを本拠地とするツヴィングリの解放戦争(1518年〜1531年)やジュネーブを本拠地とするジャン・カルヴァン神権政治(1541年〜1564年)があって中々物騒だったりする。また19世紀中旬の内戦(プロテスタント陣営とカソリック陣営が衝突した「分離同盟戦争(1847年)」)は国外に波及して2月/3月革命(1848年〜1849年)を引き起こしている。

  2. ドイツ農民戦争1524年〜1525年)を引き起こしたトマス・ミンツァーと並ぶ新教側急先鋒ツヴィングリ(バーセルやベルンやチューリッヒ神権政治実現を画策)は幸いカソリック勢との内戦で1531年落命した、しかしその後フランスから追放されたユグノー指導者の一人ジャン・カルヴァン神権政治1541年〜1564年)を遂行したジュネーブが合流し時限爆弾がリセットされる。

  3. 皮肉にも大航海時代到来によって欧州経済の中心が地中海沿岸から大西洋沿岸に推移するとイタリア諸都市は必然的に没落。本来ならイタリア半島と西欧を結ぶ交易路として栄えてきたスイスも巻き添えになる筈だったが(実際、ドイツとの交易はライン川経由でフランドル(オランダ、ベルギー、ルクセンブルグ)と直結する交易路を押さえた南ドイツ商人に奪われてしまう)、傭兵供給国として身の安全を図りつつ儲け、農閑期に営まれる家内制手工業的生産体制に立脚する精密機器輸出産業(羅針盤の部品、王侯貴族や教会関係者を楽しませる時計や自動人形(オートマトン)といった贅沢品など)を育てる事で何とか生き延びた。
    *またあらゆる欧州諸国に傭兵支部が存在し、それゆえに本国が戦場となる可能性が限りなく低いという状況がプライベート・バンク事業を育てている。
  4. 国民皆兵制が広まって傭兵産業が衰退した産業革命の時代に入ると(領主が領土と領民を全人格的に代表する)農本主義的伝統から自由である事そのものが武器となった。労働環境が守旧派ギルドに仕切られていないので市況に合わせた生産体制の組み替えも用意。かくしてスイスはチーズやチョコレートや高級時計の輸出国に変貌する。チーズ販促の為にチーズ・フォンデュやラクレットを欧州中に広める様な戦略を打つ商業国に変貌する事で生き残りを図った訳である。産業革命国民皆兵制の間には思わぬつながりがある。一般庶民が消費者化される以前の時代、産業革命がもたらす大量生産能力の最大の受け皿となったのは常備軍だったのである。そしてフランス革命ナポレオン戦争は瓶詰めを、米国南北戦争は缶詰を、大日本帝国軍はカレーライスやウィスキーを世に広める事になった。

こうして全体像を俯瞰してみると思うよりフランスとの因縁が深い事に驚く。もはや腐れ縁に近い?

  1. フランスにおける内戦「公益同盟戦争(1465年〜1477年)」では、反体制側の盟主たるブルゴーニュ公シャルル猪突公が血迷ってスイスにまで喧嘩を売って敗死。この大戦果が欧州中の宮廷に知れ渡って「スイス槍歩兵の密集突撃」無双の時代が幕を開ける事に。*公益同盟戦争(1465年〜1477年)とは、百年戦争(1337年〜1453年)によってイングランドとの国境を定めたフランス王家が伝統的貴族連合を圧倒して絶対王政への鳥羽口をつかんだ内戦。英国史でいうと「薔薇戦争(1455年〜1485年)」に該当し、実際同時期に戦われている。こうして内憂を絶ったフランス国王の関心は次に国外へと向けられイタリア戦争(1494年〜1559年)が勃発する事に。
  2. およそ中央集権性と無縁だった軍拡期スイスは、イタリア戦争でもフランス側とスペイン側の双方に派兵して「身内殺し」を繰り返してきた。その矛盾が極限に達したのがミラノ攻防戦で、1499年にも同士討ちを嫌ったミラノ側スイス傭兵隊が寝返りを打つ「ノヴァラの裏切り」事件が起こっている。*マリニャーノの戦い(Battle of Marignano、1515年)における大敗そのものより「意思統一なき国外侵攻が引き起こす身内同士の殺し合い」に嫌気がさしたとする説も。
  3. ジュネーブ出身のルソーの何気ない示唆が発端となってフランス革命(1789年〜1799年)が勃発し、スイス領内におけるプロテスタント勢とカソリック勢の内戦が発端となって2月/3月革命(1848年〜1849年)が勃発。*何しろ欧州じゅうに支部があるから、本国における動揺もその規模で伝わってしまう? ちなみにフランス革命については他に「隣国オランダにおいて絶対王政化を志向するナッソウ=オラニエ家が各都市のブルジョワ貴族と衝突」「国内においてブルボン家との王統交代を狙うオルレアン公の暗躍」なんて要因も存在した。

  4. スイスが傭兵産業から完全に足を洗う契機となったソルフェリーノの戦い(1859年)にも、イタリア北部ロンバルディア地方を舞台としたフランス皇帝ナポレオン3世率いるスイス傭兵隊とサルデーニャ国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世率いるスイス傭兵隊の連合軍と、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世率いるスイス傭兵隊同士の殺し合いという側面が濃厚に含まれていた。*双方とも司令官が無能だった為に延々と無謀な消耗戦が続いて莫大な数の死傷者を出し、しかも準備不足の為に負傷者の大半が為す術もなく亡くなり、この悲劇が赤十字運動を発足させる事になる。

もしかしたら日本の戦国時代に活躍した雑賀衆根来衆も「武装中立」の原則さえ守っていれば近代まで独立を維持できていたのだろうか? 困った事にに大国に囲まれた小国というのは、それらの国々が激しく啀み合い、互いに潰し合って絶えず疲弊していてくれた方が都合が良いのである…

ただそれ自体については「自分が守りきれない相手の裏切りを責めるな」という考え方もある。世の中綺麗事だけでは回らない…

もしかして、そういうのも含めた上での肉体主義=肉体に思考させよ。肉体にとっては行動が言葉。それだけが新たな知性と倫理を紡ぎ出す」なのか?