諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「金ならぬ羊のなる木」の歴史

カール・マルクスいわく「人間が自由意志と思い込んでいる代物なんて、所詮は社会の同調圧力によって強制的に型抜きされた既製品に過ぎない」。カート・ヴォネガット・Jrいわく「人間はお金(Money)の夢を見る。蜜蜂が蜂蜜(Honey)の夢を見る様に」。あえて無粋な言い回しで指摘しようが、優雅な口調でさりげなく口にしようが発言の内容は同じ。当人がどれだけ意識しているかに関わらず、水中生物は全て水の、地生物は全て重力の影響下で暮らしているのです。そしてシグムント・フロイトいわく「想像力は人間を解放する。ただし自由にではない」。

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例えば歴史のある時点まで欧州は確実に「羊毛の国」でした。

だからこんな奇怪な伝説も生まれる事になりました。

バロメッツ(Barometz)

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黒海沿岸、モンゴル、ヨーロッパ各地の荒野に分布するといわれた伝説の植物。黄色っぽい絨毛と血のような赤い樹液を備え羊の入った実がなるとされた。

  • ドイツの修道僧ヨハン・ツァーンの著作「Specula physico-mathematico-historica.(1696年) 」によればスキタイの羊、ダッタン人の羊、リコポデウムなどと呼ばれるこの木は、本当の名を「プランタ・タルタリカ・バロメッツ」といい、ヒョウタンに似ているものの、ヒョウタンとはまったく違う特徴がある。

  • まず、引っ張っても曲がるだけで折れない、異常な程柔軟な茎をもっている。そして時期が来ると実をつけ、これを採取して割れば中から子羊が収穫できる。ただし、この子羊は肉と血と骨を持っていても、生きていない。しかしながら、実が熟して割れるまで放置しておくと、生きたまま羊が顔を出す。鳴き声は「ぅめー」。そして、茎と繋がったまま、木の周りの草を食べて生きる。しかし、草がなくなると、やがて飢えて木とともに死んでしまう。近くに畑があると食い散らす。

  • バロメッツの周りにはこの死んだ羊がある時期に集中して山積みになる。それを求めて狼や人があつまって来る。この羊は蹄まで羊毛なので無駄な所がほとんど無く、寧ろその毛は金色で、重宝された。肉はカニの味がする。

この伝説はヨーロッパ人の誤解から生まれた。本当はこの木に生るのは(というより実際この木は)木綿だったのだが、当時ヨーロッパ人は木綿を知らなかったため、それをウールと間違えたのである。大別すると2系統に分かれ、その正体についても2つの説がある。

  • 「実から産まれる子羊」…その実はメロンとも、ラグビーボール状とも、木から生るともいわれている。

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  • 「へそと草の茎がつながった姿」…茎が切れたり、自分の周囲の草を食べつくしてしまうと死んでしまう。 しかも狼にも狙われている。
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東アジアのワタの存在が曲がって伝わったとも、 シダの一種の毛が織物に利用されることが誇張されたとも言われている。 これが踏まえられたのかタカワラビには、Cibotium barometzという学名が付けられている。

 そして、まさにこの「地面に生える羊毛」こそが、世界史上においては「欧州の羊毛」以上に重要な役割を果たす事になったのです。 

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コットン・クラブ (Cotton Club)
1920年代の禁酒法時代のニューヨークハーレム地区にあった名高い高級ナイトクラブ。  名前は黒人が奴隷労働の主体であった米国南部の綿花栽培のイメージを悪趣味に取り入れたもの。客はすべて白人で、スタッフと演奏者は全て黒人(アフリカ系アメリカ人)。クラブの出し物は当時の黒人への偏見を反映して黒人をしばしばジャングルの土人や南部農園の黒人("darkies")として描き「ジャングル・ミュージック」を志向した。また露出度の高い衣装で出演するコーラス・ガールの選定に際しては"tall, tan, and terrific"(すらっと高く、浅黒く、イカシテる)、つまり背の高さは5フィート6インチ以上、黒人としては明るめの肌、20歳以下であることを露骨に求めた事でも知られている。こうした状況にもかかわらずデューク・エリントンキャブ・キャロウェイルイ・アームストロングといった一流ジャズ・ミュージシャンを次々と輩出。

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河内木綿の部屋1河内木綿とは

戦国時代の15世紀末頃まで木綿は朝鮮半島から輸入された高級品で、丈夫で保温性にすぐれたこの生地は新しい衣料として次第に広まっていったばかりか国産化が試みられ、三河地方などで作られる様になっていく。中でも江戸時代から明治時代のはじめにかけて河内地方で栽培された綿から糸を紡いで手織りされた木綿のこという。かつては「江戸時代初期には農家の自家用だったが次第に商品化され、その名が全国的に知渡った」とされていたが、近年の研究では否定されている。隣国の大和では戦国末期から綿栽培が始まりオーダーメード(注文による生産)で木綿が織られていた。河内でもおそらく同様だったと考えられている。寛永15年(1638年)に成立した「毛吹草」では河内特産の一つとして「久宝寺木綿」が挙げられ、貝原益軒が元禄2年(1689年)に旅の記録として残した「南遊紀行」にも「河内は綿を多く栽培し、とくに東の山のふもとあたりが多く、その綿から織った山根木綿が京都で評判となっている」とある。さらに宝永元年(1704年)に大和川が付け替えられると、それまでの川床が畑として生まれかわって綿作りがますます盛んになり、18世紀中旬における久宝寺村(現八尾市)の田畑の作付状況の記録を見ても耕地の実に7割に綿が植え付けられているのである。同時に八尾や久宝寺などの在郷町や周辺の村々に木綿を扱う商人たちが増え、仕入れや販売の競争が激しくなって宝暦5年(1755年)に八尾の木綿商人の仲間と、高安山麓の木綿商人仲間が、商売の仕方についての取り決めをしている。しかし明治に入ると外国から繊維の長い綿や細い糸が安い値段でたくさん輸入されるようになり、また工場の機械で一度に沢山の糸を紡ぐ様になったが河内の綿は外国の綿に比べて繊維が短く、糸が太い為にこうした用途に不向きだった上に藍などの植物染料では化学染料に勝てなかったので明治30年(1897年)代に産業としては終わりを告げる事になる。

こうした断片を抽出しただけでも、その歴史の複雑さを垣間見る事が出来ます。

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木綿・木棉(cotton)の栽培史

原産地は中南米

Foods and Nutrition Encyclopedia によれば、現在までに見つかっている木綿栽培の最古の証拠はメキシコで見つかっており、約8000年前に遡る。その種類はアメリカ栽培綿 Gossypium hirsutum で、現在世界で栽培されている木綿の89.9%がこの種である。野生の木綿の種はメキシコで最も多様であり、それにオーストラリアとアフリカが次いでいる。

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  • アメリカ先住民は木綿を紡いで衣服や染色したタペストリーを作っていた。

  • ペルーではモチェ文化やナスカ文化といった海岸に沿った文化の発達の基盤として Gossypium barbadense というワタ属の原生種の栽培があった。綿花を川の上流で栽培し、それを使って漁網を作り、海岸の漁村との交易に使った。従ってインカ帝国以前の墓から木綿の布が見つかっている。スペイン人が16世紀初めにメキシコに到達した時も原住民は綿花を栽培し、綿織物の衣服を着ていた。

  • 染色や織り方の面で、ペルーやメキシコの綿織物は古代エジプトの墓から見つかったものとよく似ている。

1901年、ペルーで「綿立枯れ病」、より正確には「フザリウム立枯病」(Fusarium vasinfectum) がペルー中に蔓延。菌が根から入り込み、完全に枯らしてしまうこの病害によって綿花生産が打撃をうけた。ペルー在住のプエルトリコ出身の農家 Fermín Tangüis は、10年の歳月を投じてこの病害に強いワタ属の種を求めて発芽実験を繰り返す。そして1911年ついにこの病害に強いワタ属の種を開発した。それまでより40%も長く太い繊維ができ、水が少なくても育つ優秀な種である。タンギス綿と呼ばれるこの種は、今ではペルーの綿花生産量の75%を占めている。

 ユーラシア大陸への伝播

旧世界で最も古い木綿栽培の痕跡は約7000年前(紀元前5千年紀から紀元前4千年紀)のもので、インド亜大陸の北西の広大な領域(現在の東パキスタンと北西インドの一部)で発達したインダス文明の住民によるものである。

  • インダス川流域の木綿産業はかなり発展し、そこで生まれた紡績や機織りの技法はインドで比較的最近まで使われ続けていた。西暦が始まる以前に木綿の布はインドから地中海、さらにその先へと広まっていた。

  • イラン(ペルシャ)での木綿の歴史はアケメネス朝(紀元前5世紀ごろ)まで遡るが、イスラム化する以前のイランでの木綿栽培に関する文献は非常に少ない。13世紀のマルコ・ポーロペルシャの主要産品として木綿も挙げている。17世紀フランスの旅行家ジョン・カルダンもサファヴィー朝を訪れ、その広大な綿花農場を紹介している。

  • ギリシャ人はアレクサンドロス3世のころまで木綿を知らず、ほぼ同時代のメガステネスが『インド誌』の中でセレウコス1世に「(インドには)羊毛が生える木がある」と教えている。

  • コロンビア百科事典第六版によれば、紀元1世紀にアラブ人商人がモスリン(本来は綿織物)やキャラコをイタリアやスペインにもたらした。ムーア人がスペインに木綿栽培法をもたらしたのは9世紀のこととなる。

  • 中国への伝来は晩唐とも北宋とも言われている。朝鮮半島へは1364年に文益漸が国禁を犯して元から伝えたという記録が残されている。

16世紀末までに、綿花はアジアおよびアメリカの暖かい地方全域で栽培されるようになっていた。

日本への伝播

799年(延暦18年三河国(愛知県西尾市天竹町(てんじく=天竺)と言われるが、『日本後紀』には三河国としか書いてない)に漂着した崑崙人(現在のインド。真偽・詳細は不詳)によってもたらされ栽培が開始されたが、1年で途切れたという。この崑崙人は各地を廻り、栽培法を伝えたとされている。

  • 主にこの後、綿は明や朝鮮からの輸入に頼ることになり、故に長い間高級品であった。その後、連続して栽培され一般的になるのは、16世紀以降とされる。
    江戸幕府を開闢した徳川家康が好んで木綿を着た事が後世には倹約のイメージと結びつけられたが、当時の木綿はまだまだ輸入中心の高級品だったとも。その一方で「織田信長四武将」について「
    木綿藤吉(豊臣秀吉木綿のように丈夫で、非常によく働いた)米五郎左(丹羽長秀、地味だが無くてはならない存在) 懸かれ柴田(柴田勝家、合戦において先鋒として活躍)に 退き佐久間(佐久間信盛、退却戦の被害を最小限に留める)」という表現も伝わる。要するに過渡期だったのである。

  • 戦国時代後期からは全国的に綿布の使用が普及し、三河などで綿花の栽培も始まり、江戸時代に入ると急速に栽培が拡大。各地に綿花の大生産地帯が形成され、特に畿内の大阪近郊などにおいて生産が盛んになった。
    *木綿の色艶を良くする鍵が魚肥にあったらしく、関東や東北で採れた雑魚を近畿に運ぶ海運業が急速発展した。

  • 木綿問屋も形成され、綿花産業は大きな産業となり、綿を染める染料の藍や綿花栽培に欠かせない肥料となる干鰯などの関連産業も盛んとなった。 
    明治維新後、瀬戸内海漁師の魚肥用雑魚乱獲が朝鮮半島における魚の値段を高騰させ、それまで魚醤メインだったキムチの味付けを唐辛子メインに変遷させたとする説もある。実際、日清戦争前夜には既に日本の魚肥漁は朝鮮半島沿岸を主な漁場とする様になっていた。その様子が莫大な収益を上げ機帆船を購入した日本人漁師の繁栄、日本の綿布商人が英国を後ろ盾とする清国商人に勝利していく場面なども含めイザベラ・バード朝鮮紀行(Korea and Her Neighbours、1894年〜1897年)」に克明に記されている。

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  • 明治以降、政策により綿布の生産が強化されたこともあり1930年代には綿布の輸出量が世界一となる。ただし渋沢栄一の仲介による 1893年(明治26年)の日本郵船インド航路開拓(英国商人による市場独占を嫌うボンベイの綿花豪商タタ商会と安くて高品質な綿布を輸出したい日本の思惑が一致した結果)、両税廃止運動などを通じて安い原料が日本に入るようになり、日本の綿花栽培自体は急速に衰退。

  • 第二次世界大戦時は綿布の輸出は停止したが、戦後復活して再び世界一に。ただし以降は安価なアジア産の綿布に押され次第に生産量を減少させていく。個人やグループ単位での生産はあるが、統計上の国内自給率は0%。

和綿生産の復活や国内でのオーガニックコットン栽培という価値を生かし、紡績・染色・タオルなどのコットンを使う第二次産業企業自らその地場などでの栽培を団体化した「全国コットンサミット」がある。またNPO法人渡瀬エコビレッジなどを利用し各団体による手芸の糸紡ぎやエコ活動と連動した栽培。東日本大震災津波による塩害耕作地などで、東北の民間による農業復興事業として、アパレルなどが発起人となった企業複合体の「東北コットンプロジェクト」の栽培などもある。

 ヨーロッパへの伝播 

中世末期には、木綿が貿易によって北ヨーロッパにもたらされたが、それが植物性だということ以外詳しい製法は伝わらなかった。ウールに似ていることから、北ヨーロッパの人々は羊のなる植物があるのだろうと想像した。

  • 1350年、ジョン・マンデヴィルは今となっては奇妙な話だが、「(インドには)枝先に小さな子羊がなる素晴らしい木が生えている。枝はとてもしなやかで、子羊が空腹になると枝が屈んで草を食むことができる」と書き記した。この考え方はヨーロッパ各地の言語での木綿の呼称に痕跡を残している。例えばドイツ語では木綿を Baumwolle と呼ぶがこれは「木のウール」の意である。

  • 14世紀に入るとヴェネツィアミラノでファスチャン織りやディミティ織りが織られる様になったが、当初は縦糸にリンネルを使っていた。

イングランドに15世紀以前に輸入された木綿布はごくわずかである。その一部はろうそくの芯に使われた。

 英国産業革命の原動力

16世紀に入ると交易を通じてインド産などの綿が主にイギリスにもたらされ始める。17世紀に入るとイギリス東インド会社がインドから珍しい綿織物をもたらす様になり、18世紀頃にはイギリスの羊毛業をおびやかすまでになった。

①1780年代になると、自動紡績機や蒸気機関が相次いで実用化され、イギリスは綿輸入国から一気に世界最大の輸出国に転換。この綿産業の発展を主軸にした産業構造の変革は、産業革命ともいわれる。

  • 1738年、バーミンガムのルイス・ポールとジョン・ワイアットが2つの異なる速度で回転するローラーを使った紡績機を発明し、特許を取得した。

  • 1764年のジェニー紡績機と1769年のリチャード・アークライトによる紡績機の発明により、イギリスでは綿織物の生産効率が劇的に向上した。

  • 18世紀後半にはマンチェスターで綿織物工場が多数稼動し、輸出拠点にもなったため、「コットンポリス (cottonpolis)」の異名で呼ばれるようになった。

  • イギリスとアメリカ合衆国の綿織物生産量は、1793年にアメリカ人のイーライ・ホイットニーが綿繰り機発明したことでさらに増加。テクノロジーの進歩と世界市場への影響力が増大したことから、植民地のプランテーションから原綿を購入し、それをランカシャーの工場で織物に加工し、製品をアフリカやインドや中国(香港および上海経由)といった植民地市場で売りさばくというサイクルが構築された。

1840年代になるとインドの木綿繊維の供給量だけでは追いつかなくなり、同時にインドからイギリスまでの運搬に時間とコストがかかることも問題となってきた。そのころアメリカで優れたワタ属の種が生まれたことも手伝って、イギリスはアメリカ合衆国西インド諸島プランテーションから木綿を買い付けるようになっていく。

  • 19世紀中ごろまでに綿花生産はアメリカ合衆国南部の経済基盤となり、"King Cotton" と呼ばれるようになった。綿花栽培作業は奴隷の主要な仕事となった。

  • 南北戦争が勃発すると、北軍が南部の港を封鎖したため、綿花輸出が激減。これは連合国側(南部)が意図的に輸出を減らしたという側面もあり、それによって主要輸出先であるイギリスに連合国を承認させ、あわよくば戦争に介入してもらおうと考えた結果だった。しかしイギリスとフランスはエジプトの木綿へと目を向けてしまう。

  • イギリスとフランスはエジプトのプランテーションに多額の投資をし、エジプト政府のイスマーイール・パシャはヨーロッパの銀行などから多額の融資を獲得した。

  • 1865年に南北戦争が終わると、イギリスやフランスはエジプトの木綿から再び安価なアメリカの木綿に戻り、エジプトは赤字が膨らみ1876年に国家破産に陥った。これはエジプトが1882年にイギリス帝国の事実上の保護国となる原因となった。

③この間、イギリス帝国ではアメリカ南部から入ってこなくなった綿花を補うため、特にインドからの綿花輸出を推進。関税や他の制限を加えることで、イギリス政府はインドでの綿織物生産を抑制し、原綿をイギリス本国に輸出するようにしむけた。マハトマ・ガンディーはこの過程を次のように説明する。

  • インドの労働者が1日7セントの賃金で摘んだ綿花を、イギリス人が独占的に購入する。

  • この原綿はイギリスの船に積み込まれ、インド洋、紅海、地中海、ジブラルタル海峡ビスケー湾、大西洋を経由する3週間の航海を経てイギリスに運ばれる。この貨物輸送で綿花の値段は少なくとも倍になる。

  • 木綿はランカシャーで綿織物になる。工場労働者にはインドのペニーではなくシリングが支払われる。イギリスの労働者は賃金が高いだけでなく、織物工場を建設したり、機械を納入するといった経済効果の派生がある。これらの賃金や利益はすべてイギリス国内でのものである。

  • 最終製品は再びイギリスからインドへ船で運ばれる。このときに賃金を得る船長や船員もイギリス人である。このとき利益を得る数少ないインド人は下働きのインド人水夫で、船上の汚れ仕事を1日数セントで担っている。

  • この綿織物を買うのはインドの王族や地主で、その金は貧しい小作農を1日7セントで働かせて得たものである。
    *ただしこの独占状態を破ったのは政治運動の結果ではない。ボンベイの綿花豪商タタ商会と日本郵船の思惑が一致した結果、 1893年(明治26年)に開設されたインド航路であり、これを契機に日本は綿布市場で英国を抜き去るのである。

南北戦争の勃発によるアメリカ産綿花の輸入減少は、ロシアにも影響を与えた。当時のロシアは紡績や織物といった木綿工業の成長が著しく、綿花の供給不足が大きな問題となった。

  • イギリスがエジプトからの輸入に切り替えた一方で、ロシアは国内生産の道を模索。その産地として併合して間もない中央アジアトルキスタンに着目した。

  • 南北戦争後にはアメリカからの綿花輸入も復活したものの、1880年代以降はアメリカから導入したワタの品種改良や灌漑農法によって国内生産量を増やし1915年にはロシアが必要とする綿花の7割近くをトルキスタンが供給するまでに成長した。

  • 一方、綿花栽培の中心地となったフェルガナ盆地では、人手や資金を必要とする綿花栽培が急激に拡大したことによる農民の経済的困窮や、綿花への転作によって地域的な飢饉が発生するなどの社会不安も生じている。中央アジアでの綿花栽培はソ連時代にも拡大を続け、ソ連から独立したウズベキスタンは21世紀現在も世界有数の綿花生産国であり続けている。

アメリカ合衆国では、南部の綿花生産が北部の開発の資金源となった。アフリカ系アメリカ人奴隷による綿花生産は南部を豊かにしただけでなく、北部にも富をもたらした。南部の木綿の多くは北部の港を経由して輸出された。

  • 1865年の南北戦争終結奴隷解放宣言の後も、南部の経済基盤は綿花生産だった。南部では小作農が増え、解放された黒人農夫と土地を持たない白人農夫が裕福な白人地主の所有する綿花プランテーションで働いた。綿花プランテーションでは綿花を手で摘む必要があり、多数の労働力を必要としたからである。

  • それ以前の収穫機械には繊維を切り刻んでしまう欠点があったので、収穫用機械が本格的に導入されるのは1950年代になってからである。20世紀初頭になると、徐々に機械が労働者を置き換え始め、南部の労働力は第一次世界大戦第二次世界大戦の間に漸減した。

今も木綿はアメリカ合衆国南部の主要輸出品であり、木綿生産量の大部分はアメリカ栽培種が占めている。

人造繊維の急追

それは1890年代フランスにおけるレーヨン流行から始まった。それ自体は天然セルロースを再利用したもので合成繊維ではなかったが、純粋な天然繊維製品より安価だったので、合成繊維が次々と開発され、産業化されていく呼び水となったのである。

  • アセテート繊維は1924年に開発された。石油化学による最初の合成繊維はデュポンが1936年に開発したナイロンである。その後1944年には同じデュポンがアクリル繊維を開発した。これらの合成繊維は女性用靴下などに使われた。

  • 木綿と合成繊維が本格的に競合するようになったのは1950年代になってポリエステルが出回るようになってからのことである。1960年代にはポリエステルを使った衣類が急激に広まり、木綿輸出に依存していたニカラグアなどで経済危機が発生し、安い合成繊維と競合することでニカラグアでは木綿生産額が1950年から1965年の間に10分の1に低下。

木綿生産量は1970年代に回復しはじめ、1990年代初めには1960年代以前のレベルに戻った。

 しかし実はこの綿花から全く異なる用途が派生してきたのです。

綿花薬=ニトロセルロース (nitrocellulose)

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「世界最古の合成樹脂」セルロイドの主原料。硝酸繊維素、硝化綿ともいい、セルロースを硝酸と硫酸との混酸で処理して得られるセルロースの硝酸エステルである。白色または淡黄色の綿状物質で、着火すると激しく燃焼する。これを主成分として各種の添加剤を加えて造粒した火薬は黒色火薬に替わる小火器、火砲の発射薬として使用される様になった。
*発射にあたって大量の白煙を上げる黒色火薬に比して無煙火薬と呼ばれる。また開発者の一人であるフレデリック・エイベルによる「コルダイト」の名称でも知られる。このうち主にニトロセルロースのみを使用した火薬をシングルベース火薬と呼び、現在のほとんどの拳銃やアサルトライフルが弾薬としてシングルベース火薬を使用している。燃焼の調整を目的としてニトロセルロースニトログリセリンを加えたものはダブルベース火薬、さらにニトログアニジンを加えた物はトリプルベース火薬と呼ばれる。こちらは主に大口径火砲の装薬として使用される。

1820年頃 チリのアタカマ砂漠において広大なチリ硝石の鉱床が発見され、安価なチリ硝石の大量供給によって火薬生産のボトルネックが解消され、火薬の生産が増加した。チリ硝石はまた肥料としても重要だった。
*これによって糞尿などを材料とする硝石丘を使った土硝法による伝統的硝石生産は全く姿を消す。その一方でチリ硝石の確保の戦略的重要性が急激に増した。

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1838年 フランスの生化学者アンセルム・ペイアン (Anselme Payen)によって植物繊維セルロース (cellulose) が発見された。地球上で最もありふれた炭水化物(多糖類)で、工業生産に当たってはコットンリンター、パルプ、玉蜀黍の茎など何でも原料になり得る。
コットンリンター(cotton linter、略してリンター)…実綿(種子のついた綿花)を綿繰機にかけると長繊維(lint=綿花、原綿)が種子から分離され、種子に長さ3mm以下の短い繊維が残る。これをさらにリンター採取機で採取したもので、原綿同様に94%という高い割合でセルロースを含み銅アンモニアレーヨン,アセチルセルロースといったセルロース誘導体の原料となる。また詰物に広く使用されるパンヤ繊維(カポック)の原料でもある。

*1991年、小林四郎らによってセルラーゼを利用した酵素触媒重合により初めて人工合成に成功した。


1832年
 フランスのアンリ・ブラコノーが澱粉や綿などを濃硝酸に入れて暖めて溶解させ、水洗いすると強燃性の白い粉末が出来ることを発見し、これをキシロイジンと命名した。


1838年 フランスのテオフィル=ジュール・ペルーズが木綿、亜麻、紙などを濃硝酸で処理して可燃物質を作り、これをパイロキシリンと呼んだ。

1845年 スイスでクリスチアン・シェーンバインが硝酸と硫酸の混酸で木綿を処理して高硝化度のニトロセルロースを作り、火薬としての応用方を発見した。

1846年 イタリアの化学者、アスカニオ・ソブレロ が初めてニトログリセリンの合成に成功。出来上がった新物質を調べようと自分の舌全体でなめてみたところ、こめかみがずきずきしたという記録があるが、これは彼自身の毛細血管が拡張されたためである。爆発力がすさまじく、一滴を加熱しただけでガラスのビーカーが割れて吹き飛ぶほどの威力があり、ソブレロは危険すぎて爆薬としては不向きであると判断した。

1855年 フランス人イレール・ド・シャルドネ(Hilaire de Chardonnet)がピロキシリン(ニトロセルロースを揮発性の有機溶媒に溶かしたもの。その名をギリシア語の pyr(火)とxylon(木)に由来する燃えやすい化合物)を小さい孔から噴出させ、溶媒を瞬時蒸発させて細い光沢ある繊維を得る事に成功。世界初の化学繊維で「レーヨン(rayon)」の名で特許が取得されたが、極めて燃えやすく危険でレーヨンのドレスを着た人間が火だるまになる事故が続出し、第一次世界大戦前までに生産中止に追い込まれた。
*やがて難燃性の繊維が開発され実用化されたのでピロキシリンは使われなくなったが、その一方で化学繊維から医薬部外品に活躍の場を移し、数種の添加物を加えた上で液体絆創膏・水絆創膏として現在も販売されている。


1856年
 英国人アレキサンダー・パークス(Alexander Parkes、1818年〜1890年)がニトロセルロースや樟脳から合成される合成樹脂(硝酸セルロース)を初めて製造。パークスはこれを「パークシン」と命名して売り出したがコストの問題から失敗に終わった。

1866年 アルフレッド・ノーベルニトログリセリン珪藻土にしみこませることで高性能爆薬であるダイナマイト(1866年)を発明し大量生産を行う。
*ダイナマイトは爆破力・安定性ともに非常に優れた火薬であり、このため工事現場や鉱石採掘に火薬が一般的に使用されるようになり、コリントス運河やシンプロン・トンネルといった難工事が可能となった。これによって「火薬王」となったノーベルは、その利益を元にし後にノーベル賞を創設。

1870年 米国人ジョン・ウェズリー・ハイアット(John Wesley Hyatt、1837年〜1920年)がビリヤードの玉の原料として実用化に成功し、彼の製造会社の商標としてセルロイド(celluloid)という名前が登録された。
象牙の代用品として開発された歴史上最初の人工の熱可塑性樹脂。加熱(大体90℃)で軟化し、成形が簡単であることから急速に広まる。アニメーション製作に使われる「セル画」も当初セルロイドのシートを使用していた。ハイヤット兄弟は1871年にセルロイド製造会社を設立。これが後のセラニーズプラスチックカンパニーの基礎となる。

1877年  L. Jousselin が初めてニトログアニジンの合成に成功。ただし火薬として使用されるようになったのは第二次世界大戦の頃から。

1877年 ドイツから板状のセルロイド生地がはじめて日本に輸入される。翌1878年、日本化学会創立。

1880年 最初の実用火薬としてポール・ヴィエイユ(Paul Vieille)が開発。ニトロセルロースエーテルとアルコールの混合液でゼラチン化したもので1886年までに(当時の陸軍大臣ブーランジェ将軍の頭文字から)B火薬と命名されて実用化される。
*19世紀後半から20世紀初頭にかけて真鍮製の薬莢が出現し,これによって105mm級以下の小口径の火砲は,可塑性の緊塞具を閉鎖機に装着しなくてもガス漏れを防ぐことができるようになり,また装薬を詰めた薬莢を弾丸の尾部に接続して一体の完全弾薬とすることによって弾丸装塡および発射速度を増大させた。もう一つの飛躍的進歩がこれで黒煙が出ない利点があり,無煙火薬と呼ばれることになった。

1884年 アメリカ人イーストマン、写真フィルムを発明。

1880年代後半 セルロイドが乾板に代わって写真フィルムとして使われるようになった。それらの製造技術を開発したハンニバル・グッドウィンの会社が現在のイーストマン・コダック社の前身である。
*その後急成長を遂げる映画産業もこれを継承。

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1887年 アルフレッド・ノーベル無煙火薬バリスタイトを発明。
*その後コルダイトと特許紛争となる。

1889年 より安定したコルダイトがフレデリック・エイベルとジェイムズ・デュワーによって発明される。
*それまでは木材を乾留した木タールを蒸留して少量を得ていただけの高価な試薬アセトン (acetone)を製造の為の溶媒として大量に必要とする。需要激増に応える為に第一次世界大戦中、ハイム・ワイツマンが砂糖などから得られたデンプンにバクテリアの1種クロストリジウム・アセトブチリクムを作用させるバクテリア発酵法を発明。これをイギリス軍に提供したのが契機となってバルフォア宣言(1817年)が出され、後のイスラエル建国が約束され、ワイツマンはイスラエルの初代大統領となった。

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1890年代 フランスで天然セルロースを使ったレーヨン(rayon、人絹=人造絹糸、スフ=ステープル・ファイバー)が開発される(セルロースそのものを再配列したもので再生繊維と呼ばれる)。天然繊維より安価だったので、その後合成繊維が次々と開発され、産業化されていった。
パルプやコットンリンターなどのセルロース水酸化ナトリウムなどのアルカリと二硫化炭素に溶かしてビスコースにし、酸の中で紡糸して(湿式紡糸)製造。ポリエステルなど石油を原料とした化学繊維と違い、加工処理したあと埋めると土に還る。そのためそれ自体は環境に負荷をかけない繊維とされるが、製造時の二硫化炭素の毒性や、強度が低いことなどが問題となっていたことと、日本においては原料パルプを針葉樹に求めていたため製造は中止された。その一方で、レンチングリヨセル社がN-メチルモルホリン-N-オキシドを溶媒としたリヨセルを開発し、最近では高級品として広がりつつある。日本固有のセルロース繊維としてはキュプラがあり、これは銅アンモニアレーヨンの一種でコットンリンターを原料としたパルプを銅アンモニア溶液に溶かし、細孔から水中に押し出した再生繊維である。絹に似た光沢・手触りが特徴で洋服の裏地などに用いられる。
1890年 日本でセルロイド生地の製造はじまる。

1906年 フリッツ・ハーバーとカール・ボッシュがドイツでアンモニアを大量生産して窒素化合物をつくるハーバー・ボッシュ法を発見。現代化学工業の基幹をなす重要画期であり、ロイナ工場で実用化され褐炭から肥料を生産した。
*それまではユストゥス・フォン・リービッヒの理論に基づきチリ硝石等を用いていた。火薬の主流が黒色火薬から無煙火薬に急速に推移する契機となり、チリ硝石輸入を海上封鎖することによる戦争の回避策が無効化された。

1908年(明治41年) 日本に三井家出資の堺セルロイド株式会社、三菱(岩崎家)・岩井商店・鈴木商店出資の日本セルロイド人造絹糸株式会社などが設立される。その後もセルロイド工場の設立は続いた。

1912年 スイスのジャック・ブランデンベルガー(Jacques Edwin Brandenberger, 1872年-1954年)がセロファン (cellophane) の製法を発明した。セルロース化合物の一種なので木綿、麻といった植物性繊維からも作ることは可能であるが、木材を粉砕して作るパルプが使われる事が多い。
*まずパルプ水酸化ナトリウムなどのアルカリと二硫化炭素で溶かしてビスコースを作る。その後スリットに通して、薄く成型したものを、硫酸などの酸で中和してセルロースに戻すことによって製造される。なおビスコースを、スリットではなく、ノズルから射出して繊維状にして中和させるとレーヨンとなる。

1912年 フランスでセロファン (cellophane) 製造はじまる。 

第一次世界大戦(1914年〜1918年) ニトログリセリンの原料となるグリセリンは油脂の加水分解によって得られるが、爆薬として大量の需要が生じたため、発酵による大量生産法を各国が探索。中央同盟国側ではドイツのカール・ノイベルグらによって糖を酵母によってエタノール発酵させる際に亜硫酸ナトリウムを加えるとグリセリンが生じることが、連合国側ではアメリカで培養液をアルカリ性にすると同様にグリセリンが生じることが見出され大量生産されるようになった。
*戦時下の大日本帝国で付け焼き刃的に綿花栽培が行われたり布団の徴用が行われたのも綿花薬製造の為だった。

1919年(大正8年) 日本でセルロイド会社8社が大合同。セルロイド業界は第一次世界大戦期に活況を呈したが、終結後の反動不況により需要が世界的に減少し、同業者間の販売競争が激化し、業界は疲弊した。「安定成長には合同しかない」という発想からの業界再編。


1955年セルロイド製品の火災事故が多発していた事を受けアメリカで可燃物質規制法が成立。これにより日本製のセルロイド玩具などは全てアメリカへ輸出できなくなった。またこの出来事を期に世界的にセルロイドの製造や消費が落ち込む事となった。
*20世紀中旬までは食器の取っ手や万年筆の筒や眼鏡のフレーム、洋服の襟(カラー)やおもちゃ、飾り物などに広く利用されたセルロイドだったが素材の顕著な可燃性が問題となり、アメリカから広まったセルロイド製品の市場からの排除運動が世界へ広まり、のちにそれらの製品の多くがアセテートやポリエチレンなど後発のすぐれた合成樹脂素材に取って代わられた。

 いかにも石油化学登場の前風景という感じですね。

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産業革命には「セルロース(植物繊維)の発見」から始まった側面もある?

 さて、私達は一体どちらに向けて漂流してるのでしょうか…