諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

澪標(watermark)としてのエロス(Eros)とタナトス(Thanatos)

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以下の投稿で描き切れなかった部分の補足。

要するに「セカイ系作品評論」からこのファクターを(とりあえず一旦は)外してみたかったのです。「現実の若者の若さ(馬鹿さ)」に憎みながら依存するニューアカ系アプローチなんてとっくの昔に滅んでるし。

セカイ系 - Wikipedia

インターネット上で流通した「セカイ系」という言葉が活字出版物上に現れるようになったのは2004年の頃からだとされている。これ以降はインターネット外でも様々に論じられるようになったが、その論調を主導したのはサブカルチャー評論家として名高い東浩紀を中心に発刊された「波状言論 美少女ゲームの臨界点」の編集部注釈だった。

  • それによればセカイ系とは「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」となる。ここでいう「世界の危機」とは全世界あるいは宇宙規模の最終戦争や、異星人による地球侵攻などを指し、「具体的な中間項を挟むことなく」とは国家や国際機関、社会やそれに関わる人々がほとんど描写されることなく、主人公たちの行為や危機感がそのまま「世界の危機」にシンクロして描かれることを指す。

  • そしてセカイ系の図式に登場する「きみとぼく/社会領域/世界の危機」という3つの領域は、それぞれ別役実のいう「近景/中景/遠景」や、ジャック・ラカンのいう「想像界象徴界現実界」といった概念に呼応するのは誰の目から見ても明らかなのである。

こうしたセカイ系諸作品に共通する「方法論的に社会領域を消去した物語として語られる」なる共通項は「社会領域に目をつぶって経済問題や歴史問題を一切描かない」なる批判を集中的に浴びて必然的に滅んでいった。逆説的にいえば、この闘争によって「セカイ系とは自意識過剰な主人公が、世界や社会のイメージをもてないまま思弁的かつ直感的に『世界の果て』とつながってしまう様な頼りない想像力で成立している作品」というコンセンサスが勝ち取られたのである。

まさしく「ニューアカは新赤」と揶揄される切り口そのもの(東浩紀当人の思惑とは別に、そのシンパ層は自らをこうした闘争の勝者と定義づけている感が否めない)。とはいえ私の「セカイ系作品群の背後にドイツ・ロマン主義の痕跡あり」なる指摘も正直ちと弱い。むしろ逆に「所詮、エロ・グロ・タナトス (Thanatos、死の誘惑)の世界は、公論とは点としてしか接点を持ち得ない」事を改めて証明してしまった感さえあります。「包帯姿で眼帯を付けた綾波レイ」がどれほどおぞましい歴史的背景を背負っていたにせよ、実際にトレンドとなったのは「無表情系美少女」に過ぎなかった訳だし。おまけに2000年代後半における「異類婚と彼岸と此岸の交流は悲劇しか生まないなる物語文法の崩壊」によってタナトス (Thanatos、死の誘惑)の追撃も完全に振り切っちゃった訳だし。「限りなく無制限に近い自由」を謳歌する国際SNS上においてさえ「公共領域」と「ゴス(Goth)世界」の住み分けは割と厳格です。K.W.ジーターが「ドクター・アダー(Dr. Adder、執筆1974年、刊行1984年、邦訳1990年)」で描いた「生者の世界と死者の世界の対峙」そのもの。とはいえここまで「人類の隠された半面(Dark Haef)」を直視出来る人間なんて、あくまで少数派というべきでしょう。

となると逆説的に「セカイ系作品群とドイツ・ロマン主義に共通項が多いのは、その系譜展開そのものというより、歴史的背景が酷似していた事によるシンクロニシティ(synchronicity:意味のある偶然の一致)だったのではないか」なる可能性が急浮上してきます。「ドイツロマン主義における社会性の欠如」に関しては「決められない政治を打破する為の例外状態創出(すなわち独裁者やエリートによる政治判断の独占。元来はワイマール体制の大統領内閣制を擁護する為の理論だったが、ナチスの政権奪取に利用されてしまう)」や「敵友理論(国家が政治家に課す機能とは、同化して自分達の一員に加えるべき味方と、あくまでその価値観を全面否定して対立を続けるべき敵の峻別であり、その判断には無条件かつ熱狂的に従うのが国民の責務とした。これもナチスの政権奪取に利用された事で有名)」で有名なカール・シュミットも厳しい弾劾を加えていますが、そもそもの出発点として当時のドイツには元来「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的伝統」と「(亡命や韜晦によって)それから知的に軽やかに逃走を果たすドイツ人有識者」しか存在していなかったのですね。前者を全面的に肯定したのがヘーゲル、全面的に拒絶したのがマルクスだったとも指摘されています。

問題は、ここでいう「ドイツ人有識者」もまた、いかにも当時のドイツ人らしく「多様性に対する寛容の精神」に欠けていたという事。それで激しい内ゲバを展開し、辿り着いた終着駅はイタリア・ボローニャ出身のパゾリーに監督が遺作「ソドムの市(Salò o le 120 giornate di Sodoma、1975年)」において到達した「究極の自由主義は専制によってのみ達成される」なる理想主義的(Ideal)ニヒリズムか「(ワイマール政権の)決められない政治」なる現実の二択だったという次第。で、現在のドイツ人有識者の間に「ドイツ・ロマン主義こそドイツにナチスを呼び込んだ戦犯」なるコンセンサスが形成されるに至る訳です。カール・シュミット、あれだけドイツ・ロマン主義への嫌悪感を剥き出しにして弾劾を続けてきたのに、今やそのドイツ・ロマン主義者の仲間扱い…

まぁ実際、当時のドイツ人有識者層には炭焼党の時代からハイネにせよ、マルクスにせよ、ワーグナーにせよ「世界全体と自意識」といった程度の認識しかありません。だからこそマルクスエンゲルスの目にはハスプブルグ帝国からのイタリア王国ドイツ帝国の独立が「人類全体に対する裏切り行為」と映った訳です。それでパトロンのラッサールに絶交宣言をしながら「だがお前が私への仕送りを打ち切る事は国際正義が許さない」と断言しました。何故なら彼にとって世界で唯一の正義は「世界革命によって国家なる障壁を全廃し、国庫の中身とブルジョワ階層の全財産を没収し尽くした上で軍と官僚組織と市場経済を完全解体し、関係者全員を処刑して原初のみんな一つの状態に回帰する事」のみであり、だからその結果全財産を奪い尽くされ、処刑されていくだけの人々でさえ涙を流して歓喜しながら全ての処罰を当然の報いとして受容するのは当然の事。実際スターリン体制下とか、毛沢東独裁とか、それを模倣した北朝鮮ではそれが現実となっています。誰もが問われると「私たちは幸せです」としか答え様がない理想郷。餓死していく最中にも笑顔以外の表情を見せてはならない楽園…

しかし実際のマルクスはこの妄言によって仕送りを打ち切られたか、仕送りが浪費癖に追いつかなくて、程なくロンドンにおいて餓死同然の最後を迎えてしまいます。ここで問題。果てさて、このケースにおける絶対悪はラッサールとマルクスのどっちの方でしょうか? 

  • マルクスは「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的伝統」に対して、自分なりに納得がいく新バージョンを提供したに過ぎない。
    *「全ての創造は破壊から始まる」のモットーでお馴染みの無政府主義者バクーニンが「奴は新世代の領主や君主になりたいだけだ」と看過して全面否定したのも、ごもっとも。

  • ラッサールは「既得権の体系(Das System der erworbenen Rechte、1860年〜1861年)」においてこう主張する。「法律制度とは特定の時代区分における特定の民族精神の表現に他ならない。権利は全国民の普遍精神(Allgemeine Geist)を唯一の源泉としており、この普遍的精神が変化すれば奴隷制、賦役、租税、世襲財産、相続などの制度が禁止されたとしても既得権が侵害されたということはできない」「一般に法の歴史が文化史的進化を遂げるとともに、ますます個人の所有範囲は制限され、多くの対象が私有財産の枠外に置かれる」
    *すなわち当初権力者はこの世の全てが自分の物だと思い込んでいたが、段階を追って次第に自らの限界を思い知らされていった。例えば神仏崇拝は神仏が私有財産から離れた事、農奴制が隷農制、隷農制が農業労働者に推移してきた事は農民が私有財産の対象から離れたという事、ギルドの廃止や自由競争の容認によって独占権が私有財産の対象から離れたという事を意味する。こうした歴史展開の延長線上において将来、生産物価格と生産物生産の原価をどう配分するのが正しいかが議論の対象となる事は避けられない。

まさしく1890年代中旬以降に台頭するベルンシュタインの修正主義の源流。
フランス革命期間のドイツには、当時の英国と同君連合状態にあったハノーファー経由でエドモンド・バークの「時効の憲法(prescriptive Constitution)」論が流入して盛んに議論されたという。案外それこそがこの考え方の原型とか?

  • レーニンが「これを許容したら国際正義がその存在意義をなくす」とまで断言した絶対悪の起源だが「共産主義革命の最適な進め方は国ごとに異なる」とする立場に立つグラムシイタリア共産党創設者の一人)、その考え方を継承するイタリア構造改革派やユーロ・コミュニズム(Eurocommunism)と共通点が多い。六、 イタリアの社会構造と『構造改革』

  • 一方、同じ前提から出発したドイツのワイマール体制に対してソ連共産党は「社会ファシズム(ドイツ語: Sozialfaschismus、英語: social fascism)」のレッテルを貼って徹底討伐を命じrている。こうした(ドイツ国民を完全に置き去りにした)内ゲバの漁夫の利を得る形でナチスは政権奪取に成功したのだった。戦前日本には「労働者の苦難なんて、なんて放っておけブルジョワ階層を総動員して天皇を倒せ」と命令。それに強引に従おうとした事が共産主義運動壊滅につながった。一国共産主義万歳?

もちろんこんな話「ローザ・ルクセンブルグは絶対悪たるヒトラーナチスに殺されたのだ。その事実を疑う事は人道的に許されない」なんて大見得を切る相手には一切通用しないんですけどね。

そういえばフランスも19世紀中旬までは割と「絶対王政と、その全人格的代表権に抗う個人」しか存在しない国だったりします。かかる状況下、先駆的に「社会」の概念の提唱を始めたのは「産業者(les indutriels)の同盟」を説いたサン・シモン、「科学者独裁体制への移行を説いたオーギュスト・コント。そして、米国開拓地コミュニティにおける相互扶助精神に感動したトクヴィル。とはいえフランス国民が「領主が領地と領土を全人格的に代表する農本主義的伝統」からの脱却を果たしたのは第三共和政(Troisième République、1870年〜1940年)が始まってから。そしてナチスの「指導者原理(Führerprinzip)」に屈服する形で一旦は幕を閉じる事になったのです。

その一方で「領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的伝統」そのものは19世紀前半のうちに瓦解。それまで彼らの「宿敵」を自称し「善悪の彼岸を超越し、己の心の奥底からの命令にのみ従って生きる人間のみが尊い」と豪語してきた政治的浪漫主義者達も巻き添えとなって対消滅。その結果、新たに台頭してきたのは以下の様な系譜のスタンスでした。

  • 我々が自由意思や個性と信じ込んでいるものは、国家や社会の同調圧力によって型抜きされた既製品に過ぎない」としたマルクスの「上部構造論」。後に「我々の肉体や精神の本当の主人は、その認識可能範囲の外側に実在する」としたフロイトの「無意識」論も合流してくる。

  • エドガー・アラン・ポーの翻訳や、マルキ・ド・サドの再紹介を通じて「人間を感動させるのは象徴体系や物語文法といった構造である」なる結論に到達した「近代詩の父ボードレール。後に象徴主義の始祖にも祭り上げられる事に。

バクーニンも指摘している様に、マルクスは自分が「新世代の領主や君主」として君臨したくてこういう発言をした可能性が濃厚。ボードレールの主張もまるで「言霊の偉力を誇らしげに語るシャーマン」みたいな感じで全然近代性が感じられません。前者のケースにおいてはフロイト、後者のケースにおいては、むしろ紹介された二人の方が近代文学史において重要という指摘まであります。

  • マルキ・ド・サド…自分の性癖が世間一般に通用しない事を十分自覚しており、それでも世間に認めて欲しいあまり流行物のチエックを怠らず、しかもそうやって得たトレンドを自作に反映させ続けた。あたかも「苦い本体」をキャンディ・コーティングしたかの様。「サド裁判(1959年〜1969年)」の後遺症か、現代日本では主に「(現代人が読んでも冗長で退屈なだけの)苦い本体」を除去した「キャンディ・コーティング」の部分だけが残された版が流通している。まぁ「キャンディ・コーティング」といっても当時流行した「マルサス人口論」とか「ジャコバン派の政見演説」とかそんな感じなので現代人の感覚からすれば、これまたちっとも甘くない。
    *考えてみたら「牢獄や精神病院に幽閉された自分」が「(決っして手の届かない)外界そのもの」に対峙する構造って実にセカイ系っぽい。

  • エドガー・アラン・ポー…米国最初期の雑誌編集者の一人で、雑誌に掲載された作品の全てが「読者の関心を惹きつければ勝ち」なる観点から執筆されており、今日いうところの「炎上マーケティング」さえ躊躇なく頻繁に繰り返してきた。
    *「炎上マーケティング」…このせいで生前嫌われ抜かれ、死後本国では忘れ去られる事に。

時代はまさに消費に担い手が王侯貴族や貴族からブルジョワ階層や一般庶民に推移していく過渡期。ワーグナーの様に「ギリシャ悲劇上演会場の系譜に連なる自分だけの劇場を持ちたい」なる夢を叶える為に(少なくとも表面上は)パトロンの意向に阿り続けた作曲家が存在した一方で、リストの様にその超絶技法で観客を酔わせ、ブルジョワ婦人のファン・クラブが結成され、キャラクターグッズが飛ぶ様に売れて立派に自活を果たした音楽家も存在しました(この二人が親友同士だったというのがまた興味深い辺り)。こうした時代を生きた作家達にとって「社会」とは何よりもまず自分達を食べさせてくれる「客そのもの」。そして次第に大衆消費社会が王侯貴族や教会に負けず劣らずの遠慮を知らない「暴君」である現実が明らかとなっていきます。

そして当時は進歩主義時代でもありました。そもそも最初から「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的伝統」の影響下になかった英国やベルギーやオランダやスイスやアメリカと異なり、フランスは産業革命導入に際し、まずその残滓を克服する理論武装を必要としたのです。一方ハリウッドに勃興した映画業界はヒット作を量産する為の方法論樹立に余念がありませんでした。

  • ジュール・アンリ・ファヨール(Jule Henri Fayol、1841年〜1925年)…フランスの鉱山技師、地質学者、企業経営者にして経営学者。POCCC(Prévoir(計画)、Organiser(組織) Commander(指揮)Coordonner(調整)Contrôler(統制))理論提唱者。「産業ならびに一般の管理(1916年)」「公共心の覚醒(1917年)」「国家の産業的無能力(1921年)」などを著し、フレデリック・テイラー (Frederick Taylor,1856年〜1915年)の科学的管理法(Scientific Management、別名「テイラー主義(Taylorism)」)と並んで経営学の始祖とされる。
    POCCCフランス語のPrévoir(計画)とContrôler(統制)の間に英語のから輸入したOrganiser(組織)、 Commander(指揮)、Coordonner(調整)といった用語が挟まっているのが重要。こうしてパッケージ化されたノウハウは、ドイツ帝国大日本帝國における産業革命受容期にも大いに活用された。

  • バルコニー理論(The Theory of Balconies)…「郵便配達は二度ベルを鳴らす(The Postman Always Rings Twice、1934年)」でその名を知られるジェームズ・M・ケインが、当時のハリウッドで恋愛物の脚本チェックに使われていると紹介した理論。シェークスピアロミオとジュリエット(Romeo and Juliet、1595年)」に由来し、二人が結びついたハッピーエンド状態からの逆算で「それまでそれを妨げていた障害の克服過程」のタイムスケジュールを決め打ちしていく作劇方法。
    *「ジェームズ・M・ケインが紹介」…「セオリーに盲目的に従うだけでは駄作しか生まれない」と揶揄してる側面もあり、その代表作「郵便配達は二度ベルを鳴らす」はF・スコット・フィッツジェラルドグレート・ギャツビー(The Great Gatsby、1925年)」同様「不倫のもつれが殺人に至る悲劇」を扱い「古代ギリシャ悲劇的」とも「シェークスピア悲劇的」とも言われた。それにしても当時のアメリカにおけるベストセラー作品はキャブ・キャロウェイ「Minnie the Moocher(1931年)」「St. James Infirmary Blues(1931年)」といいガイ・エンドア「パリの狼男(The Werewolf of Paris、1934年)」といい
    風と共に去りぬGone With the Wind、1936年)」といい「タナトス(Thanatos、死の誘惑)」に満ちている。どうやらそれは時期によって禁酒法(Prohibition、1920年〜1933年)施行下で刹那的快楽を追求したジャズ・エイジ(The Jazz Age)の精神だったり、世界恐慌によって荒廃したアメリカ国民心理の反映だったりするらしい。


    *「キングコング(King Kong、1933年)」にすら「失業して生活に困った駆け出し女優が、不況で資金繰りの行き詰まったドキュメンタリー映画作家にの無謀な賭けの巻き添えになる」という構造が存在する。フライシャー・スタジオの「Snow White(1933年)」「Poor Cinderella(1934年)」の延長線上に現れたディズニー「白雪姫(Snow White and the Seven Dwarfs、1937年)」がまた「周囲の人々を惑わす美し過ぎる死体(吸血鬼物の基本でもある)」や「7人の小人達に追いつめられた崖の上で落雷によって死ぬ王后(ドイツ・ロマン主義的に「悪が勝手に自滅していく」)」といった場面の連続。おそらく自らがドイツロマン主義タナトス(Thanatos、死の誘惑)に憑かれていたゲッベルスが「白雪姫」や「風とともに去りぬ」がお気に入りだったのは決して偶然ではない。

    *そういえば生前のマーガレット・ミッチェルには、車道に無意識のうちに飛び出してしまう様な無謀なところがあり、結局最後はそれで自動車事故に遭って亡くなっている。1920年代における(レット・バトラーのモデルとなった)酒の密売で暮らす前夫との結婚と離婚にも(ギャングに憧れその情婦に選ばれたがった)フラッパー・ガールズ的タナトス(Thanatos、死の誘惑)が感じられる。

    *「アニメーションを芸術の域まで高める」と宣言し、作品を制作する都度当人はボロボロになって最後はアル中患者として死んでいった(晩年の好物はウォッカに浸したドーナツ)求道者の如き生き様で知られるウォルト・ディズニーの場合はどうか。

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    ①「ファンタジア(Fantasia、1940年)」収録作品に横溢する死のメタファー。「魔法使いの弟子」に描かれた「暴走の恐怖」、そもそも人身供儀を主題とする ストラヴィンスキー春の祭典」、性を謳歌する地上の住人達の間引きを嬉々として楽しむ残酷かつ無邪気な天神が描かれた「田園交響曲」。夜の闇が街を飲み尽くしていく場面が不安を煽る「はげ山の一夜」。どうやらウォルト・ディズニーが憧憬し志向した芸術性は、タナトス(Thanatos、死の誘惑)と不可分の関係にあった様なのである。

    ②後世のアル中達やジャンキー達が好んで「ウォルトがこちら側の世界の住人だった証拠」として挙げる「ダンボ(Dumbo、1941年)」の酩酊場面。

    ③ 「ふしぎの国のアリスAlice in Wonderland、1951年、ウォルト・ディズニーが1930年代より長編製作の第1候補として挙げてきた) 」「 ピーター・パン(Peter Pan、1953年)」「眠れる森の美女(Sleeping Beauty、1959年)」「ジャングル・ブック(1967年)」において一環として描かれたのは「こちら側の世界とあちら側の世界の往復譚」。ウォルト・ディズニー作品にタナトス(Thanatos、死の誘惑)を見出す事に反対する人々は「彼は物語の最後を必ず”こちら側の世界への帰還”で締めている」と指摘する。そのルールによる自己拘束こそが彼をアル中に追い込んだ遠因の一つだったとも。またその過程で「女性には理解されない」という意識を強めた事が「バンビ(Bambi、1942年)」「 ピーター・パン(1953年)」「ジャングル・ブック(1967年)」におけるマチズモ(男権主義)誇示につながっていくと指摘する向きもある。フェミニスト達は「眠れる森の美女(1959年)」において「悪い魔女」マレフィセント(Maleficent)が最後ドラゴンに変貌して王子に討ち果たされる場面をその典型例として挙げるが、日本へはこの場面が手塚治虫リボンの騎士」経由で少女漫画の世界に伝えられ「悪竜」のイメージが「娘を完全拘束下に置こうとする母親のエゴイズム」に結びつけられていく。その結果「里見八犬伝(1983年)」で夏木マリが演じた玉梓役が「ベオウルフ/呪われし勇者(Beowulf、2007年)」や「マレフィセント(Maleficent、2014年)」でアンジェリーナ・ジョリーが演じた地母神的キャラクターにテンプレートを提供する事になった(夏木マリ当人もまた、その後「千と千尋の神隠し(2001年)」で老魔女「湯婆婆」の声優を演じている)。

バラバラな動きに見えて目指した最終地点は全て同じ。「予測され尽くされ、計画され尽くされ、実際に起こる事の全てが制御下にある理想郷」への到着です。

まぁその理想主義が覆されるところから1960年代以降のアメリカは再スタートを切る訳ですが。こうして全体像を俯瞰してみるとタナトス(Thanatos、死の誘惑)の在り方とは元来、澪標(みおつくし、watermark)の様に「完全に海面上に没するでも、海上に屹立するでもなく、座礁の危険が高まってきた目印」として存在してきたのかもしれません。「その向こう側を覗きたい/その向こう側に突き抜けたい」なるゴス(Goth)的発想は、元来エンターテイメントの世界と排他的共存を果たしてきたのです。

翻って日本。1980年代後半を代表する漫画原作者狩撫麻礼が「迷走王ボーダー(1985年〜1986年)」や「天使派リョウ(1990年〜1992年)」で描こうとしたのもまた、この「澪標」問題でした。ただ当時それは都会に死角にエアポケット(air pocket)的に実在する場所で「(良い意味でも悪い意味でも)相応の資格を備えた人間だけが出入り可能な空間」と認識されていたのです。ある意味この「(元来はアングラ演劇などの担当分野だった)煉獄の如き小空間」を世間一般に「解放」した事こそが「新世紀エヴァンゲリオンNeon Genesis EVANGELION、TV版1995年、旧劇場版1996年〜1997年)」の画期だったとも。

かくして「澪標」は決壊し、誰もがエロス(Eros、性への誘惑)やタナトス(Thanatos、死の誘惑)との直接対峙を強いられる時代が到来。「身体感覚しか信じられないとされる時代」「デスゲームを通じてしか生きてる実感が味わえないとされる時代」が到来します。それと同時進行で現実社会においては「子供達が憎みながら依存してきた大人社会の完全崩落」、及びそれによる「絶対悪たる大人社会からの知的で軽やかな逃走こそが格好良いという風潮」の対消滅が進行していった訳です。かくして「(存在根拠を失った)大人達の方が子供達の「若さ」に憎みながら依存する新たな歴史段階」が始まる事に。いや、実際には当時の大人世代がそれまで頭ごなしに全面否定してきた科学実証主義のみが残った(見た目上は「復権を遂げた」様にも映るが、その歩み自体は途切れる事なく淡々と続いてきたし、これからもその調子で続いていく)というのが正しいとも。

現代人の感覚からすれば、ドイツ有識者層が「軽薄短小の時代」と侮蔑して切り捨てるビーダーマイヤー期(Biedermeier、1815年〜1848年)のドイツにおいて、どうしてシューベルトが「野ばら(Heidenröslein、1815年)」「魔王(Erlkönig、1815年頃)」「死と乙女(Der Tod und das Mädchen、1817年)」「ます(Die Forelle、1816年〜1821)」といったタナトス(Thanatos、死の誘惑)」に満ちた歌謡曲が量産され、歌謡酒場で嬉々として合唱されたか訳が分かりません。どうしてそこにエロス(Eros、性への誘惑)が濃厚に重なってくるかも。
*同時代の同国人から大昔の疾風怒濤期の作品を好んで題材に取り上げられつつ、最新作は彼らから完全に黙殺され、大嫌いなフランスの政治的浪漫主義者達にのみ絶賛されたゲーテの心境やいかに?

このまま放置しておくと、この時代についても同じ事になりかねません。いやもう既にそうなりつつあるとも?