諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「セカイ系」と「ハーレム系」の起源②明後日の方向を向いていたかもしれない「セカイ系評論」の観点

 そもそも「新世紀エヴァンゲリオンNeon Genesis EVANGELION、TV版1995年〜1996年、旧劇場版1997年)」と「セカイ系作品」はどういう関係にあったのか?

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近代を迎えた日本人がまず真っ先に「近松門左衛門的心中物」からの脱却を目指した様に、ドイツ・ロマン主義も王侯貴族に代わって作家のパトロンとなった大衆の要求に応えるべく、そのタナトス(Thanatos、死の誘惑)的側面を抑え込みにかかります。日本同様「自殺が政治的意味を持ち得た時代は身分制崩壊によって終わった」なる判断があったとも。

  • 元来は「古代ギリシャ世界への回帰を志向するドイツ人芸術家が、その理想達成の不可能さゆえに必然的に悲壮な最期を遂げる悲劇」として始まった教養小説(Bildungsroman)が(勧善懲悪小説としてのピカレスク小説(Roman Picaresque)同様に)ハッピーエンドで終わる様になる。

    *成立したばかりのイタリア王国におけるモラル・ハザードの進行を嘆いていたカルロ・コッローディの「ピノッキオの冒険(Le Avventure di Pinocchio、1883年)」も当初は虚淵玄の「どうして悪い子になっちゃいけないか……嘘吐き、卑怯者、そういう悪い子供こそ、本当に悪い大人の格好の餌食になるからさ!」なるセリフを地でいく物語で「勉強と努力が嫌いで、すぐに美味しい話に騙されるピノッキオが、キツネとネコに騙されて樫の木に吊るされる」内容だったのだが「ピノキオを殺しちゃだめだ!!」という要望が殺到して続きを書く事になったのだという。

  • ゲーテバイロンが創造した「あえて神の約束する恩寵に背を向けて救いなき結末を選ぶ古典主義的英雄」から出発し「本当の愛は死後にしか達成されない」とするワーグナーの理想愛を経たドイツ恋愛叙事詩の世界もまたハッピーエンドで終わる様になる。

    モーツァルト神秘主義から出発し、フーケの小説「ウンディーネ(Undine、1811年)やウェーバーへの歌劇「魔弾の射手(Der Freischütz、1821年)の薫陶を受けた「ロマン主義運動の発起人」E.T.A.ホフマン作品もまたこうした時代的流れの影響を免れ得ませんでした。バレエコッペリア(Coppélia, ou la Fille aux yeux d'émail)」の原作「砂男(Der Sandmann、1817年)」は、神経症の男が発狂に至る過程を冷徹に描くだけの何の救いもない物語。バレエ「くるみ割り人形(露Щелкунчик, 仏Casse Noisette, 英The Nutcracker、1892年)の原作「くるみ割り人形とねずみの王様(Nußknacker und Mausekönig、1816年)」もまた時計師ドロッセルマイヤーが幼女マリーの魂を自らの幻想世界に取り込む事に成功するという不気味な展開。その全てがハッピーエンドに書き直されたばかりか、ワーグナーのオペラ「ローエングリン1850年初演)」の影響が色濃い、同じチャイコフスキーのバレエ「白鳥の湖(Swan Lake、1877年)」も1937年以降、ソ連中心にハッピーエンドで終わるバージョンが広まる。唯物論の観点から「本当の愛は死後にしか達成されない」なる発想そのものが否定されたせいとも。

  • こうした葛藤は20世紀初頭のドイツ表現主義映画の世界でも繰り返されたが、帝政ゆえに頭ごなしに「領主が領民と所領を全人格的に代表する権威主義」との対決を煽れない空気が存在し「悪はこちらが決然とした態度で臨み続けていれば、必ず驚きのあまり勝手に自滅していくか、反省して向こうから土下座してくる」なる妥協案が横溢。F.W.ムルナウ監督作品「吸血鬼ノスフェラトゥ(Nosferatu – Eine Symphonie des Grauens、1922年)」の「悪役」オルロック伯爵しかり、フリッツ・ラング監督作品「メトロポリス(Metropolis、1927年)」の「悪役」フレーダーしかり。「カリガリ博士(Das Kabinett des Doktor Caligari、1920年)」の「悪役」カリガリ博士に至っては、物語中にドンデン返しがあって勧善懲悪の遂行そのものが放棄されてしまう。

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    *むしろ、ここでいう「悪役」は、その人物一人が屈っするだけで世界全体が救済されるとはいえ、直接攻撃によっては決っして倒せない様な存在、すなわちヘーゲル哲学でいうところの時代精神Zeitgeist)の様なものとしてイメージされていたという分析もある。

    *実は吸血鬼に対して「ヘルシング博士を呼んで心臓に杭を打たせる」みたいな安直な解決策が通用しないのは中世東欧における「原型」そのもの。まだまだ「領主が領民と所領を全人格的に代表する権威主義」が絶対視されていた当時、どんな暴君が登場しても領民はその人物が生きてる限り黙従しか許されず、死後こっそり墓を暴いて「二度と同様の暴君が現れない様、その魂を永遠に大地に繋ぎ止める為に」心臓に鉄の杭を打ち込むのがせめてもの復讐だったという。戊辰戦争(1868年〜1869年)であえて官軍に抵抗し領民に大被害を出した長岡藩家老河井継之助の墓石が、その後何度でも何度でも倒され続けた逸話を連想させる。その行為自体は当時「死後、吸血鬼となって蘇りそうな遺体(生前の悪人や、流行病犠牲者や自殺者など)」に普通になされていた措置だったので、同種の遺体なら掘ればいくらでも出土し(地域によって首を切り離して別の場所に埋めたり、喉元に鎌を突き付けたり、身体の上に大きな石を乗せたりもする)「吸血鬼の里」を演出する観光資源として有効活用されているという。

  • 皮肉にも「近松門左衛門的心中物」や「無残絵」といった伝統がまだまだ色濃く残る戦前日本人は好んでドイツ・ロマン主義を受容。鮮烈なデビューを飾ったドイツ表現主義映画の影響自体は世界中が被ったのだが、文学の世界では江戸川乱歩夢野久作小栗虫太郎の名前が主要仲介者として挙げられる事が多い。ただし江戸川乱歩作品は要注意で、1930年代の通俗小説は基本的に「自立した女性や素封家の一族が襲われて無残に殺されると喜ぶ大衆趣味」に迎合し(この路線は戦後横溝正史の「誰も助けない金田一耕助」に継承される)、戦後の少年探偵団シリーズは勧善懲悪に徹して怪人の正体は概ね怪人二十面相にしてしまったので該当作品は思うより少なかったりする。そもそも江戸川乱歩は同時にルブランの冒険小説の影響も色濃く受けており、こちらが表に出た作品にドイツ・ロマン主義の影響を見出すのは難しいのである。

    *そして、海外のアニメ漫画ゲーム好き層は「新世紀エヴァンゲリオンNeon Genesis EVANGELION、TV版1995年〜1996年、旧劇場版1997年)」をこそ、こうした日本のドイツ・ロマン主義系作品の一つの到達点とみなしている。実際、日本のドイツ・ロマン主義心中物や無残絵の美学と一緒くたにアングラ演劇の世界の外連味として継承され、「少女革命ウテナ(1977年)」を監督した幾原邦彦や脚本を手掛けた榎戸洋司経由で「包帯少女として初登場する綾波レイ」のキャラ造形などに影響を与えたといった側面もあったらしい(まさしく「人形系」の流れ)。ところが海外ファンにとってそういう細部はどうでも良く、とにかく碇ゲンドウの足跡がワーグナーの「(呪われた運命を背負った)彷徨えるオランダ人(Der fliegende Holländer、1843年初演)」や「(ビーナスに魅了されて神に背いた)詩人タンホイザー(Tannhäuser、1843年初演)」や「白鯨(Moby-Dick; or, The Whale、1851年)」のエイハブ船長が重なる事が重要だという。「神々に約束された恩寵に背を向けた男」にして「(決っして力尽くでは逆らえない)ある種の時代精神Zeitgeist)の体現者」。これぞロマン主義的英雄であり、コミック版における「一人だけLCLの海に飲み込まれず遺体を残す」ラストも相応に好評だった。神への反逆者、かくあるべしという訳である。

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概ね最近では新世紀エヴァンゲリオンは「何か新しい考え方を提供した」というより「視聴者に色々考えさせ、議論させた」点こそが重要だったと振り返られています。さらに「ロマン主義的英雄の最後を描いた作品」という解釈を付け加えると「セカイ系作品」との連続性がますます希薄に…それでは逆に、セカイ系作品登場につながる流れとはどういうものだったのか?

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①1980年代から「人形系」に「人工知能系」という新ジャンルが加わった。 おそらく当時が人工知能研究ブームだった事と関係が深い。

②時期を同じくして「ハーレム系」作品が急増していく。おそらく「(イベント消化の都増えていく)関係済みヒロインの後処理方法」の変化と関連が深い。

  • 怪盗ルパン・シリーズや007シリーズなどでは一般的だった「適度に間引く」方式はラブコメに使い回す事が出来なかった。
    小池一夫の「大人向けハードボイルド調作品」や、寺沢武一コブラCOBRA THE SPACE PIRATE 1978年〜)」などでは使われ続ける。その小池一夫「魔物語 愛しのベティ(1981年〜1985年)」は途中からラブコメ路線に変更してしまった。時代の波を感じる。

  • 高橋留美子うる星やつら(1978年〜1987年)」「らんま1/2(1987年〜1996年)」北条司シティーハンターCITY HUNTER、間 1985年〜1991年)」においては「1対多」の「多」の数がどれだけ増えてもタイム・シェアリング方式で誤魔化す事が出来た。ただ既にまつもと泉きまぐれオレンジ☆ロード(1984年〜1987年)」や、藤島康介ああっ女神さまっ(1988年〜2014年)」などがその要件を満たしつつあったという指摘もある。
    *例えば「同じ学園内に恋愛対象がどんどん増えていく」といった展開に直面せずに済んだのが大きい。「別の相手に感心が推移する」「恋敵に挑む同性が現れる」という対応が読者の嫉妬心を刺戟する事もなかった。

  • 「ダム決壊」の契機となったのは、間違いなく恋愛アドベンチャー・ゲームの登場。エルフ「同級生(1992年、18禁ゲーム初のOVA化)」「同級生2(1994年)」、コナミときめきメモリアル (1994年)」「ときめきメモリアル2(1999年)」、カクテル・ソフトPiaキャロットへようこそ!!(1996年)」「Pia♥キャロットへようこそ!!2(1997年、10万本以上を売り上げメイド喫茶コスプレ喫茶のアイディア母体となった)」「Pia♥キャロットへようこそ!!3(2001年、2002年には本作を原作とした劇場版アニメが公開。18禁ゲームを原作ととする初劇場版アニメ)」などの発売に軸を合わせる形で天地無用魎皇鬼OVA(第1期1992年〜1994年、第2期 1994年 - 1995年、第3期2003年〜2005年)」、赤松健ラブひな(1998年〜2001年、アニメ化2000年)」などが続く。
    *その原型はエニックス「TOKYOナンパストリート(1985年)」の様な「ナンパに成功すると御褒美にH画像が見られる」というもの。エルフ「同級生」も同種の18禁ゲーム「ぴんきぃぽんきぃ(1989年)」の企画から出発している。

  • 同時進行で「戦前の既存秩序崩壊」が進行したのも大きい。その結果「ハレムもの」は「消費者から求められるもの」になる一方で「(フェミニズム論などの観点から)社会的に非難されるべきもの」へと変貌を遂げる事に。 

新井詳「中性風呂へようこそ(2007年)」より

どうして父親は娘から嫌われるのか?

①昭和型マチズモ
*1978年当時の子供達の憧れはTVや漫画の不良で、みんな真似してた。子供にとって大人とは「何をしても痛がらない存在」で、虐め方も「言葉・力・人数の統合芸術的虐め」。「今の方が精神を傷付ける言葉を使うので昔より過酷」というが、当時は至る所で喧嘩が行われて鋳たので目立たなかっただけ。「子供は喧嘩するもの」と思われていた。

  • 男も女も「(不潔さ、ペチャパイといった)性別的弱点」をモロ出しにするのが「人間味溢れる演出」として流行。
  • 中性的な人やオカマを酷く嫌う。オカマは大抵不細工に描かれ、迫られて「ギャー」というギャグが頻発。
  • 美形でお洒落な男は大抵気障で鼻持ちならない役。

②バブル世代特有の(トレンディドラマ的)「男の幸せ」「女の幸せ」のくっきりしたキャラ分け。
*「そんなに男が女より強くて偉くて選ぶ権利がある世界の女ってすっごくつまらない」「なら男になった方がマシ」とか言い出す

  • 恋愛決め付け論「女の人生は男で決まる。御前も何時かいい男をみつけて可愛がってもらうんだぞ」
  • 美男に否定的「ヒョロクテ弱そうな男だ。女みたい」
  • 処女崇拝「(飯島愛を指して)こんな風になったらオシマイだぞ! 傷モノになるなよ!」
  • 母づてに聞かされる「新婚早々、浮気されて苦労したのよ。お父さんもなかなかやるでしょ?」
  • ホモやオカマを極端に嫌う(これ男? 気持ち悪っ!!)
  • 役割決定論「ボタンつける練習するか? 将来彼氏につける練習に…」

要するにどちらも1960年代までは確実に全国規模で根を張っていた(家父長権威主義を含む)戦前既存秩序の残滓。1990年代以降には通用しない。

③「2000年代前半におけるセカイ系作品の流行」は、おそらく色々なベクトルのムーブメントを一緒くたにしすぎている。

  • 新世紀エヴァンゲリオン」ブームを契機に開発された視聴者側の「考えたい・語りたい・議論したい」欲と、制作側の「考えさせたい・語らせたい・議論させたい」意図は必ずしもマッチングするとは限らなかった。別にコンセンサスとして煮詰められたほどの基準が存在する訳ではないが、成功側としては「Sserial Experiments Lain(1998年)」「NieA_7(1999年〜2000年、アニメ化2000年)」「灰羽連盟(Ailes Grises、2002年)」、失敗側としては「ラーゼフォン(RahXephon、TV版2002年、劇場版2003年)」「蒼穹のファフナー・シリーズ(2004年〜2015年)」「CASSHERN(2004年)」などのタイトル名がが挙げられる事が多い。
    *ここで「成功例」を列記してるのは単なる安倍吉俊のファン層とも。「失敗例」は…(自粛)。

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    Dr. Rina-tan

  • 秋山瑞人イリヤの空、UFOの夏(2000年〜2001年)」を典型例とする「戦闘を宿命化された美少女(戦闘美少女)と、彼女を見守ることしか出来ない無力な少年」という構図は物語類型上(ドイツ・ロマン主義系譜に分類される)ワーグナーニーベルングの指輪」に見られる「(自分の人間性を回復してくれた)夫ジークフリートを殺された復讐の為にヴァルハラ城に単身特攻するブリュンヒルデ」と重なる。「新世紀エヴァンゲリオン(TV版1995年、旧劇場版1997年〜1998年)」の綾波レイを嚆矢として「Sserial Experiments Lain(1998年)」の岩倉玲音、谷川流涼宮ハルヒ・シリーズ(2003年〜)」の長門有希ヤマグチノボルゼロの使い魔(2004年〜)」のタバサ、柳内たくみ「GATE 自衛隊 彼の地にて、斯く戦えり(Web掲載2006年〜、刊行2010年〜)」のレレイ・ラ・レレーナなどが次々と現れてたちまちジャンルを形成。これまで述べてきた様な「人形を巡るアンビバレントな感情史」を下敷きにしつつ2000年代後半における「異類婚や彼岸と此岸の交流は必ず不幸に終わるという物語文法の崩壊」で追い風を受けた。また物語類型上は「〈物語〉シリーズ(Ghostory、アニメ化2009年〜)」「魔法少女まどか☆マギカ(Puella Magi Madoka Magica、2011年〜)」の新房昭之監督が手掛けた「魔法少女リリカルなのは(2004年)」におけるフェイト・テスタロッサ、「魔法少女リリカルなのはA's(2005年〜2006年)」における八神はやてと闇の書が生んだヴォルケンリッター守護騎士団なども同一ジャンルに含まれる。よく「イリヤの空」と一緒くたにされる高橋しん最終兵器彼女(2000年〜2001年)」だが、「身近な彼女が本人の意思と無関係に非人間的な存在へと変化していく」展開なので物語類型上一緒くたには出来ない。

    *そもそもこの類型、実は「未来は1950年代に想像されたほど明るいものにはならないかもしれない」なる発想に至って以降の手塚治虫鉄腕アトム(Mighty Atom、1951年〜1968年)」まで遡るのかもしれない。60年代安保のあった年の「精霊流しの巻(1960年)」辺りから「人間とロボットの共存する未来なんて有り得ないかもしれない」なる悲観テイストが混じり始め「青騎士の巻(1965年)」以降のアトムははっきり「ロボットが生き残るには人間を皆殺しにするしかない」と口にする様になる。アトムが最終的に修理不能の状態に陥って朽ちていく原作版のラストがかくして準備される展開に。その一方で「オロオロするばかりで決断を下せない人間達を差し置いて自己判断によって自爆攻撃を敢行する」アニメ版のラストは横山光輝ジャイアントロボ(1967年〜1968年)」を経て「戦闘を宿命化された美少女(戦闘美少女)と、彼女を見守ることしか出来ない無力な少年」というセカイ系作品の系譜に継承されていったとも考えられる。

    虫ん坊 2010年04月号 オススメデゴンス!::TezukaOsamu.net(JP)

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    *要するに1960年代とゼロ年代の違いとは要するに観測者側が「人間として死んでいったのだからアレはアレで本望だったのだ」なんて自己憐憫に無反省に浸れるほど若かったか「全責任を彼女一人に負わせるなんて最近の若者は酷すぎる」なんて義憤に無反省に浸れるほど年老いてしまったかの違いに過ぎないのかもしれない。尾崎紅葉金色夜叉(1897年〜1902年)」の「バットエンド」場面でお宮と赤樫満枝の殺し合いを指一本動かせずただ凝視している事しか出来なかった間貫一が「これぞ人間」と絶賛された明治時代から、日本人は思うより進化を遂げてなかったと言うべきなのかもしれない。

  • 魔法少女まどか☆マギカ(Puella Magi Madoka Magica、2011年〜)」が登場したせいで逆算的に「プリンセスチュチュ(Princess Tutu、2002年〜2003年)」や鬼頭莫宏「ぼくらの(2004年〜2009年)」を含む「(下手に気を許すと何もかも奪われ尽くす)悪魔系」というジャンルが成立。ある意味それは、E.T.A.ホフマン的な意味でのドイツ・ロマン主義の再建であったとも。ここでも「(決っして力尽くでは逆らえない)ある種の時代精神Zeitgeist)の体現者」の存在が物語展開のカギを握っている。
    *ホフマンやエドガー・アラン・ポー辺りが源流なのでこれも一応ドイツ・ロマン主義系譜に分類可能だが、あえて藤子不二雄Ⓐ「笑ゥせぇるすまん(1968年〜)」や西尾維新〈物語〉シリーズ(Ghostory、2006年〜、アニメ化2009年〜)」との境界線を設ける意義は特にない?
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    ドロッセルマイヤー老人「自分の書く内容に責任を感じる?」
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    ドロッセルマイヤー老人「だから書けなくなってしまうのだ」
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    ドロッセルマイヤー老人「物語を考える時はもっと自由かつ無責任でいいんじゃ。でないと感じるままに書けるわけないじゃろ?」

    sorry aibou if this looks gay to the viewers
     

ところでWikipediaによれば「セカイ系」という言葉を活字メディアに導入した最初期の一人であるゲーム・ライター元長柾木は、それを「世界をコントロールしようという意志」と「成長という観念への拒絶の意志」の二つの根幹概念をもつ作品群年、代表作は清涼院流水の「JDCシリーズ(1996年〜)」や上遠野浩平ブギーポップシリーズ(1998年〜)」とし清涼院流水「カーニバル・イヴ(1997年)」における「社会派ではなく世界派として小説とは異なる大説を目指す」なる言説を「セカイ系宣言」とみなす。東浩紀も「世界をコントロール可能なものとして捉えるような神林長平のSF作品や村上春樹世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(1995年)」に「自意識と世界の果てを直接結ぼうとする」セカイ系の先駆を見ている。おそらくこれはこれで有効な観点。

【Wikipedia】「セカイ系」前島賢による総括

前島賢は『セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史』において、これら「セカイ系」をめぐる1990年代後半から2000年代(ゼロ年代)にかけての言説を検証し、その総括を行った。

  • 彼によれば、物語を破綻させてまで自意識というテーマを展開させようとした『エヴァンゲリオン』(ことにその後半部)というアニメ作品の影響で「みずからのジャンルの虚構性、チープさを明らかにした上で、なおかつ真摯な物語を語ろうとした」のが一連のセカイ系作品だったのではないかという。

  • また、セカイ系と名指しされたものはおおよそ「ループものの作品」「セカイ系への自己言及的応答作品」の二つがあるとしており、前者についてはゲームとの親和性、後者については従来のサブカルチャーで希薄だった批評的役割を担った作品であることを指摘している。

そして「セカイ系という運動、もしくは重力は、2010年代を迎えた現在、ほぼ消滅したといっていい」が「現代学園異能」や「空気系」といった形式で継承されたとしている。

既存投稿の内容との突き合わせを試みてみます。

【インフラ面】人類に影響をあたえる主体が個々のコンピューター(ゲーム機含む)からインターネットそのものに推移していく時代。

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  • 1990年代に入るとHTMLフォーマットの浸透とインターネットの普及が始まった。1998年にはもうHTTPプロトコルがインターネット上の通信の75%を占めるまでになっていた。

  • 1999年、iモード運用開始。携帯電話のネットワークとしては国際的にそれなりに最先端の動きだったが、インターネット規格非互換が後々じわじわと累積ダメージの様に効いてくる。

  • 2001年に「関心空間」がサービス開始。また2004年にMixiサイバーエージェントアメーバブログ(Ameba Blog、略称:アメブロ)が稼働を開始し「先行者メリット」でYahoo Japanのネット広告独占状態に風穴を開ける。

  • 2005年頃よりロードバランサーなどの処理能力が劇的に向上しサイトのリッチ・コンテンツ化(静止画・GIF・音声データ・動画の多用)が始まる。その波に乗るかの様に、2007年頃より国米IT企業の躍進が始まる。

  • 同じく2007年頃よりFacebookを皮切りにソーシャルゲームの躍進が始まる。日本でも(SNSで出遅れた)Greeや(それまでネットオークションなどを生業としてきたDeNAが運営する)Mobageiモード・サイトの侵食を開始。

  • 2010年頃より米国でデータエンジニアの金融業界流出が始まる。

  • 2012年頃より急激に「スマートフォンのFirst Screen化(何かあると真っ先に確認する媒体化)」と「SNSで回覧される内容のリッチ・コンテンツ化」が加速。

【ユーザー動向】マスメディアがプロパガンダによって一方的に大衆を動員する時代から、SNS上における回覧投稿が重要な意味を持つ時代への変遷。

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  • 1980年代後半〜1990年代前半…「あちら側(マスメディアのプロパガンダによって動かされている一般人の生活場所)」を拒絶する若者達がブルーハーツ登場からオウム真理教サリン散布事件(1994年〜199年)までを一気に駆け抜けた。実は「あちら側とこちら側の境界線」自体はソ連崩壊(1991年12月)、バブル崩壊(1991年3月〜1993年10月)、角川春樹逮捕(1993年8月29日)による角川商法終焉などを経て次第に消失。

  • 1990年代後半…若者に憎みながら依存する大人達の暴走が始まり、若者達が五感で感じられる官能しか信じられなくなった時代。

  • 1990年代末〜2000年代前半…若者デスゲームを通じてしか生きてる実感を回復出来なくなった時代。自主制作アニメや同人ソフトやWeb小説などで「個人と個人の繋がり」を軸にエンターテイメント業界の再建が始まった時代。

  • 2000年代後半…「異類婚や彼岸と此岸の交流は悲劇しか生まない」なる物語文法の崩壊が進んだ時代。2000年代前半の反動か「日常系ほのぼの展開」が主流に。

  • 2010年代…「風景オリエンテッドな展開の選好」や「納得のいく痛みの選択」といった主題が登場。2012年以降は「スマートフォンのFirst Screen化」と「SNSで回覧される内容のリッチ・コンテンツ化」を背景に言語圏を超えた相互影響が顕著となる。

 全体像を俯瞰して思った事。

  • 実は「世に発表される以上、その内容は世界の救済を目指すものでなければならない」というのは実は「(そういう意図を持たない「小説」より格上に置かれた)大説」の概念。よく考えてみれば、概ねたった一人の執筆者の指摘が「(その人さえ説得出来れば世界が動く)ある種の時代精神Zeitgeist)の体現者」に認められると、勝手にその通り「世界を改善してくれる」という発想で、究極的な意味での「セカイ系の起源」とも考えられる。試行錯誤期の明治政府が試しに目安箱的なものを置いてみたら、そうした「大説」の投稿で溢れかえったという話もある。内容は…まぁそこから建設的な意見はほとんど拾えなかったという話のみが伝わってる感じ?

  • こういう意味での「大説」めいた傾向は、尾崎紅葉金色夜叉(1897年〜1902年)」にもはっきり見て取れ、その要素だけ抽出するとセカイ系作品のそれと見事なまでに重なる。そうした作品はそれ以前もそれ以降も登場し続け、当時社会現象と騒がれた作品も少なからず存在したが、それらが全部忘れ去られてしまったのは、要するに「再読に耐えなかった」から。

  • 同じ事が1950年代後半に端を発する「社会派ミステリー・ブーム」についても起こった。尾崎紅葉作品同様、松本清張作品も「再読に耐える」内容だから後世に残った。この分野はあまり詳しくないが、同様にちゃんと後世に残れた「社会派ミステリー作家」も相応の人数はいるだろう。しかしとにかく全体としてはスカスカで、1960年代に始まる翻訳小説ブームに完全に圧倒されてしまう。
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  • しかし当時はまだまだ、そうした「大説」志向の作家達にとって幸運な時代だった。何に対して声を上げるべきか探せば幾らでも見つかり、しかも相応の同志が得られたからである。「アニメ新世紀宣言(1981年)」で印象に残っているのが「趣味こそ僕らの主義だ」なる宣言。確かに主義者同士が対峙し合っている状況下なら幾らでもアイディアが湧いてきた(というかなくても対抗上RAVE、すなわち捏ち上げてきた)「大説」が、何故か1990年代中旬までに枯渇してしまう。

  • 大きな物語」とか様々な分析がある様だけど、ここでは深くは踏み込まない。個人的には「解像度の問題」すなわち各人の認識する情報が急増して容易にコンセンサスが成立しなくなったせいもあると思ってる。あと重要なのが「(その人さえ説得出来れば世界が動く)ある種の時代精神Zeitgeist)の体現者の消失」。

  • 途方に暮れた人々の中には、あえて自らの認識範囲を狭める事で状況を乗り切ろうとする人々もいた。曰く「全ての問題は貧富格差に由来する」。曰く「国際正義実現の為にナチス〇〇〇を倒せ!!」。若者に憎みなら依存する(自分自身は空っぽの)大人達が目立ち始めるのもこの頃から。遂には「すでにこの世界で起こるべき事は1960年代に全部起こってしまった」と断言する評論家まで登場。

  • こうした動きと対象を為すかの様に、若者達はより慎重になった。自分の官能によって確かめる事が可能なものしか信じなくなったり、デスゲーム的なものを通じてしか生きる実感を得られなくなったり…試行錯誤は主に自主制作アニメや同人ゲームやWeb小説といったニッチ領域で続けられ、次第に2010年代に向けての積み上げがなされていく。そうした全体像を俯瞰すると庵野秀明監督作品「ラブ&ポップ(1998年)」がただの寄り道に見えなくなってくる?

  • そしてまさにこうした歴史的状況を背景として、個人が「世界をコントロールしようという意志」や「成長という観念への拒絶の意志」が剥き出しになったのがこの時期のセカイ系作品の特徴だったのではあるまいか。個人の社会に対する既存アプローチが壊滅したが故の世界をコントロールしようという意志」。目指すべき大人像が消失したが故の成長という観念への拒絶の意志」。日本のラノベの特徴の一つは大人の不在」だが、実は米国のヤング・アダルト小説も五十歩百歩で(スーザン・コリンズ「ハンガー・ゲーム(The Hunger Games、2008年〜210年)」とか、ジェームズ・ダシュナー「メイズ・ランナー(The Maze Runner、2009年)」とか、あんな感じ)こちらについてはきっちり「大人の自信喪失が原因の一つ」と分析されていたりする。まぁアメリカの親達はFacebookとかで結ばれると途端に「子供の完全管理欲求」とか取り戻したりするのだけど、そういうのもない不思議。まず出発点はここからたるべきかと。

  • で、ここから先が難しい。2000年代後半に見られた「異類婚や彼岸と此岸の交流は悲劇しか生まない」なる物語文法の崩壊の進行、2010年代から顕著となる「風景オリエンテッド志向」と「(エピキュロス派やストア派を想起させる)痛みと快楽の適正バランスの模索」前者はもしかしたら19990年代末から2000年代前半にかけて散々存在不安を煽られてきた反動かもしれない。後者への推移を単純に東北地方太平洋沖地震(2011年3月11日)のせいに帰して良いかも解らない。米国みたいにFacebook普及率が上がり過ぎて子供世代が一斉に匿名SNSに逃げ込む様な展開がなかった事が、これから日本の世論形成にどういう展開をもたらすかも解らない。2000年代に日本でだけYahoo Japanがネット広告独占状態だった様に、今は日本でだけTwitterが人気だけど、これが良い事か悪い事かも解らない。

こうした分析が意味しているのは、現段階における私の2010年代についての解釈も、非常に高い確率で「明後日の方向を向いていた」と言われるだろうという事です。

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  • 新海誠監督の自主制作アニメーションが注目を集めた2000年代前半時点において、2010年代に入ると同時代に掲載を開始したWeb小説が同じくらい注目を集め、かつ同じ歴史的背景を背負った同タイプの作品としてまとめて分析可能だったという着眼点を持ち得ただろうか?

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    Asuna and Kirito

  • 2000年代後半に進行した「異類婚や彼岸と此岸の交流が悲劇しか生まない」物語文法の崩壊を、同時代を生きながら体感する事がどれだけ可能だったろうか。実際に当時を生き延びて後にそれについて証言する機会を得た作家とは、要するに生還者(Survivor)なのである。「ロマン主義系作品が一斉にハッピーエンドに舵を切った」19世紀後半も同様で、その状況もまた「フランダースの犬」の様に対応を誤った作品が次々と忘れ去られていった結果、表面化したに過ぎない。まさしく「進化とは時間と死の積み重ね」という事。

    http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-0b-07/yamanakaringyounonakanohito/folder/1096749/94/33377594/img_0_m?1428146911

  • ましてや「エヴァンゲリオン」の碇ゲンドウを最後にエンターテイメント界の表舞台から消えた「(決っして力尽くでは逆らえない)ある種の時代精神Zeitgeist)の体現者」の概念の再建が2000年代も水面下では進んでおり、2010年代には重要テーマとして再浮上してくるなんて「魔法少女まどかマギカ(2011年〜)」でQBの正体が明かされるまで誰も思いつきさえしなかった。

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セカイ系」や「空気系」といった概念を2010年代の観点から「天動説」と退けるのは容易いですが、まぁ「十年後に自分も待ってる運命」なんだろうなぁ…