諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「事象の地平線としての絶対他者に対する拒絶・迎合・選別のサイクル」再考

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1970年代以降、明確に意識される様になった「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマ。およびこれを契機に始まり今日にまで至る「事象の地平線としての絶対他者に対する拒絶・迎合・選別のサイクル」…

しかし実はこうした諸概念、既に(国家間の競争が全てとなった)総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)以前に「事象の地平線としての絶対他者に対する拒絶・迎合・選別のサイクル」を経て当時は一旦「棄却」という結果を迎えていたりするのです。要するに歴史上に現れたのは少なくとも2度目…

しかも両者には連続性が存在します。かかる「事象の地平線としての絶対他者概念」に再評価の機会を与えたのが「巨人の星(1966年〜1971年、アニメ化1967年〜1979年)」「タイガーマスク(1968年〜1971年、アニメ化1969年〜1971年)」「あしたのジョー(1968年〜1973年、アニメ化1970年〜1971年、1980年〜1981年)」といった梶原一騎原作のスポ根物だったのです。

間をつないだのは、フランスにおける新ロマン主義文学者ロマン・ロランの「ベートーヴェンの生涯(Vie de Beethoven、1903年)」や「ジャン・クリストフ(Jean-Christophe、1903年〜1912年)」といったネオロマン主義。この系譜、日本においては吉川栄治「宮本武蔵(1935年〜1939年)」まで遡るのですが、要するに日本は「仕官してこそ武士」「絶対忠義こそ至高」「仇討ちこそ絶対正義」といった江戸幕藩体制下の正義感より脱却する際に「前近代的倫理観から解放された剣豪はただのモラルなき殺人マシーンに変貌してしまう」問題を解決する為に「(周囲の状況に一切構わない)ストイックな修行者が勝利する」なる新たな英雄像を導入したという次第。
*当時のサイクルの特徴は「時代に選ばれた完成品としての吉川栄治版宮本武蔵」というより、尾崎紅葉金色夜叉(1897年〜1902年)」における「お嬢様笑いや、物語をループさせるヤンデレの起源」や、中里介山大菩薩峠(1913年~1941年)」における「モラルなき殺人マシーン」机竜之助などに現れているとも。

そう「事象の地平線としての絶対他者」の本質の一つは「忘却の彼方においやろうとすればするほど強固な形で蘇ってくる悪夢」。カンブリア爆発期を制したアノマロカリスやオパビニアといった大型捕食動物の如く暴れまわって安易な大団円を拒絶し、作品を未完に終わらせたこうしたキャラクターの存在をこそ、我々は後世に語り伝えるべきなのかもしれません。

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それでは1910年代日本においては、この問題についてどんな議論があったのでしょう?

こんなゴビノー伯爵の作品群を世界文学史上にどう位置付けたら良いのでしょう。実は戦前日本において既に、しっくりくる仮説が提唱されているのです。

大杉栄「近代個人主義の諸相(1915年11月)」

ルソーの民約論が生んだ「容赦なき紳士閥的個人主義

政治革命もしくは社会革命は必ずある哲学的思潮を伴う。あるいはそれに先立たれるか、あるいはまたそれに先立つ。

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フランス大革命は、哲学的に言えば、社会本位説に対する個人本位説の叛逆であった。ルソーの民約論は、もっともよくこれを証明する、代表的思想である。

  • もとよりこの民約論は誤謬であった。社会の形成が各個人間の契約の結果であるというこの民約論は、いわゆる循環論法に陥ってしまう。すなわちこの契約の観念そのものがすでに社会生活を前提とする。

  • この契約観念の勢力は、もっともトルストイのごときなおこれを否認する思想家もあるが、今日の社会においても認められないことはない。しかし原始社会においてはその勢力はまったく認められ得ない。契約とはただ強制の別語に過ぎなかった。今日といえども、契約の自由とは、多くはただ皮相のことで、実は強圧の仮面に過ぎない。

  • いずれにしてもこの契約の観念は、社会生活の出発点ではなく、その後の産物である。すなわち原因ではなく結果である。ここに当時の個人本位説の第一の誤謬がある。


かくのごとく社会形成の概念に誤謬を抱いていたルソーの当代人は、社会生活の性質についてもまた、必然に精確な概念は持ち得なかった。

  • 彼等にとっては、国家と社会とは同一物であった。少なくとも国家は社会生活の最良形式であった。

  • したがって彼等の個人本位説は、今日いうがごとき絶対の非社会的でもなく、また絶対の非国家的でもなく、ただ封建制度を基礎とする社会と国家とに対する叛逆であった。ここに当時の個人本位説の第二の誤謬がある。


要するに彼等にはまだ、今日いうがごとき真の意味における個人主義はなかったのだ。そしてこれらの誤謬は、近世人の多くをして、ついにまったく意味の違った利己主義に堕落させてしまった。

  • さらにこの二つの誤謬を政治的および経済的事実の上から観れば、当時の新勃興階級たる紳士閥は、封建の旧制度を倒壊するとともに、一面において強力なる中央集権的近世国家の建設に努め、他面において容赦なき紳士閥的個人主義すなわち利己主義の実行に耽った。


近代の個人主義は、この紳士閥社会の事実から当然に起こった、一反動である。

*そもそもルソーはジュネーブ出身のスイス人で「フランスの貴族社会」に終始違和感しか抱いていなかった。そしてスイス人(およびオランダ人)の歴史観に照会すれば「社会が何らかの契約から始まる」のはごく当たり前の感覚であった。

大杉栄も指摘してる通り)「何らかの契約から始まる社会」は、その開始化以前に既に社会化していなければならない。

①スイスの場合、この条件は以下の様な形で満たされた。

  • 神聖ローマ帝国がホーエンシュタウフェン朝(Hohenstaufen, 1138年〜1208年、1215年〜1254年)の時代にその南イタリア進出、すなわちホーエンシュタウフェン朝シチリア王国(1194年〜1266年)に交通路として整備され、中継貿易による繁栄が始まる。

  • ホーエンシュタウフェン朝が断絶し、その本領であったシュヴァーベン地方の統制が緩むと半独立状態にとなる。

  • やがてハプスブルグ家が台頭してきて所有権を主張する様になったが、有力地方が同盟して撃退。


②オランダの場合、この条件は以下の様な形で満たされた。

 

  • 15世紀前半に入ると(それまでロンバルティア地方やフランドル地方中心に栄えてきた)毛織物産業にイングランドが参入してくる。それまでフランドルの中心地だったブリュッヘなどはブルゴーニュ公に縋って禁輸を徹底する事によって問題解決を図ろうとしたが、その輪に加わらなかったアントウェルペンに外国人商人が押し寄せる様になり、フランドル経済の中心もこちらに推移してしまう。

  • 八十年戦争(1568年〜1609年、1621年〜1648年)勃発によってアントウェルペン/アントワープはスペイン北部のビルバオアントウェルペンを結ぶ交易ルートが維持できなくなってイベリア半島との商取引が困難になったほか、スヘルデ川封鎖に苦しめられた。

  • さらに1576年11月4日にはスペインの兵士がアントウェルペンで残忍な掠奪を遂行。これにより数千の市民が虐殺され、数百の家屋が焼き払われ被害総額は200万スターリングにも及んだとされる。この事件でネーデルラントの反スペイン勢力は一時的に妥協を余儀なくされたが(ヘントの和約)、アントウェルペン/アントワープ市民の反スペイン感情は当然かえって深まった。それで1579年のユトレヒト同盟にも加わり、反スペインの姿勢を鮮明とする。しかし1583年末までに周辺地域の全てをスペインに占領され、オラニエ公ウィレム1世もネーデルラント北部の戦闘に向けて同市を離れた。

  • アントウェルペンに迫るスペイン軍に対して、当時の市長フィリップ・ド・マルニックスはポルダーを決壊させるなど長期の抵抗をみせたが、市内の食糧備蓄が限界に近づくと1585年8月にスペイン側のパルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼに降服を余儀なくされる。降伏条件の一つとして、プロテスタントの市民はアントウェルペンを立ち去るまでに2年間の猶予が与えられ、そのほとんどがネーデルラント連邦共和国(オランダ)へと移住していく。

  • オランダ側が最終勝利を飾れたのは、有名な軍事革命に加え「オランダ総督」オラニエ=ナッソウ家と血縁関係にあったザクセン公経由でドイツ人や北欧人の傭兵が無尽蔵に供給され続けたせいであったと考えられている。


現地自警団がハプスブルグ家の私兵を撃退したスイスでは以降もしばらく部族連合的紐帯のみが中央政権の実態であり続ける。一方、オランダの場合は(絶対王政化を志向する)総督派と(有力都市連合状態の維持を志向する)都市門閥派の対立が長らく続いた後で共和制を志向するパトリオッテン派が台頭して一時期オラニエ=ナッソウ家追放に成功す(1785年〜1787年)。しかし残念ながら現地に既得権益を有するプロイセン軍に鎮圧されてしまう。

こうしたオランダにおける展開がフランス国民を動揺させない筈がない。これに便乗する形で(ブルボン家との王統交代を狙う)オルレアン公がバスティーユ牢獄襲撃(prise de la Bastille、7月14日)やヴェルサイユ行進(La Marche des Femmes sur Versailles、10月5日)を仕掛け、それによってフランス革命は始まったとも。最終的にオルレアン家は7月革命(1830年)によって当初の目的を達成する。

この様に実際には多少支配構造の違いがあったとはいえ、スイス人もオランダ人も「王侯貴族の類が経済活動に介入してそれを窒息させる愚」については知り尽くしていた。それで新興産業階層の成長が容認され、それぞれ相応に豊かな市民社会が実現する展開に。
*ただしドイツ人やフランス人がこうした歴史的流れに言及する事はまずない。ある種のナショナリズムのせいとも。

近代的個人主義の起源としての没落貴族

フランス大革命当時の擾乱、旧制度や旧伝習の破壊、および革命後の政治的および社会的混乱、これらのものは必然にある二つの影響を個人の上に及ぼした。その一は、ことに貴族の血を受けた人々の間の、ある深い不安であった。

  • ヴィニーやゴビノーのごとき若い貴族は、まったく従来の生活方法を破られて、成上がりものの民主的生活の中に移されてしまった。ヴィニーはその『一詩人の日記』の中に言う。「実を言えば、世の中には、所持者と所得者との二種の人しかいない。私は、この二階級の前者に生まれて、今はその後者として生活しなければならなくなった。私のではない筈のこの運命の感じが、私をして内心叛逆せしめた。」彼等はボナールの言ったごとく、その感情においては過去の時代に属し、その思想においては将来の時代に属する人々であった。彼等は実に現在の時代には身の置きどころもなかった。

    アルフレッド・ド・ヴィニー(Alfred Victor, comte de Vigny、1797年〜1863年)

    フランスの作家、劇作家、詩人、貴族(伯爵)。フランス・ロマン主義の一員として知られる。

    • フランスのトゥーレーヌ地方(フランス中部、現在のアンドル=エ=ロワール県にほぼ相当する旧州名)の都市ロッシュに生まれる。地方貴族の末裔だったが、革命の余波を受け零落。

    • ナポレオンの帝政に期待をかけ、軍人としての成功を夢みるが、1814年に近衛騎兵に少尉として入隊した時にはすでに復古王政が始まっていた。

    • 1815年、近衛騎兵隊の解散に伴い近衛歩兵隊に移り、1823年に大尉に昇進、スペイン戦争に際し前線に派遣される。1828年に除隊。私生活ではその2年前にリディア・バンブリーというイギリス人の女性と結婚している。

    • パリに赴き、ロマン主義者たちのサロン(いわゆるセナークル)の常連になる。1815年から詩を書き始める。1822年、最初の詩集を刊行。1826年、「モーセ」、「洪水」、「角笛」などいくつかの詩篇を増補した新版を『古今詩集』の題で刊行。1837年にはさらに「雪」、「スービーズ夫人」、「フリガート鑑」、「パリ」、「モンモランシーの恋人たち」を増補した。

    • ヴィニーの散文作品には以下のものがある。歴史小説『サン=マール』(1826年)では、独自の理想主義的な視点から歴史的出来事に「改良」を加え、一貫した物語を紡ぎ出した。小説に『ステロ』(1832年)と『軍隊の服従と偉大』(1835年)の2作品、戯曲にシェークスピア『オセロー』の翻案『ヴェニスムーア人』(1829年)、ルイ13世時代の事件を題材にした史劇『アンクル元帥夫人』(1831年)。最後に『チャタートン』(1835年)は、自殺したイギリス18世紀の青年詩人トーマス・チャタートンを題材にしたもので、大成功を博した。この劇でキティ・ベル役を演じたコメディ・フランセーズの女優マリー・ドルヴァルにヴィニーは魅了された。

    • 1845年にアカデミー・フランセーズに選出された。ただしヴィニーの選出についてルイ=マティウ・モレからは猛烈な反対を受けている。晩年は孤独であった。癌のため1年あまり病床に伏せっていたが、1863年9月17日、パリで死去。モンマルトル墓地に葬られた。

    • 詩集の第2巻である『運命』(主に『両世界評論』に掲載された作品からなる)は死後、1864年になってから刊行された。 死後出版の作品としては他に『詩人の日記』がある。これは伝記的文章や内省、草案などからなり、ルイ・ラティスボヌによって1867年に出版された。

    ロマン主義者の中でヴィニーほど自己を主張した作家はいない。

    • ヴィニーの詩作品の大半では高慢かつ嫉妬深い「自我」が表現されている。とはいえこの自我が表面に出ることは少ない。ある時はモーセとして、ある時はサムソンとして、またある時はイエス(「オリーヴの園」)として現れている。彼の劇作品のほとんどすべてはある種の象徴をなしている。いってみれば、彼の感情はもはや彼の個性に属するものではなく、感情表現が一般的な価値と射程をもつようになっている。

    • この詩人哲学者にとって中心的な観念となったのは、天才には避けがたい孤独、人々の無関心、女の裏切り(マリー・ドルヴァルとの関係)、われわれの悪を前にした自然の平穏と神の沈黙、そしてこうしたものに対抗するためのストイックな諦念だった。

    • 1820年 Le Bal
    • 1822年 Poèmes
    • 1824年 Éloa, ou La sœur des anges
    • 1826年 Poèmes antiques et modernes
    • 1826年 Cinq-Mars(松下和則訳「サン=マール」, 『世界文学全集18』筑摩書房, 1967年)
    • 1831年 La maréchale d'Ancre
    • 1832年 Stello(平岡昇訳『詩人の運命・ステルロ』青木書店, 1939年。『ステロ』斎藤書店, 1948年 岩波文庫 1952年)
    • 1833年 Quitte pour la peur
    • 1835年 Servitude et grandeur militaires(田沼利男訳『赤い封印』世界社 1948年/松下和則訳『赤い封蝋』筑摩書房 1949年、「軍隊の屈従と偉大」『世界文学大系25』筑摩書房, 1961年/三木治訳『軍隊の服従と偉大』岩波文庫 1953年
    • 1835年 Chatterton 小林龍雄訳『チヤッテルトン』新潮社 1924年
    • 1864年 Les Destinées
    • 1867年 Journal d'un poète (小林龍雄訳『詩人の日記』白水社, 1938年)
    • 1883年-1885年 Œuvres complètes
    • 1912年 Daphné(平岡昇訳「牧人の家」『ユリイカ』1979年6月号)

    ヴィニーはしばしば勤勉で陰気な作家と評される。文章はぎこちなく、霊感もない。ヴィニーはわずか40点程度の詩作品を残しただけだが、大半は凡庸でたどたどしい。それでも10点ないし12点ほど後世に残す価値のある作品がある(「モーセ」、「海に浮かぶ瓶」、「狼の死」、「牧人の館」、「オリーヴの園」、「サムソンの怒り」など)。そして、これらはフランス詩の中でも最良に数えられるべきである。

  • トクヴィルは、この混乱に次ぐの混乱に耐えられなくなって、ついにさらに新しき社会を夢想するに至った。当時の社会状態と彼の心理状態とは、その『アメリカの民主政治』の序文の中に、詳細に見ることができる。「まったく新しい世界のための、新しい政治学が創られなければならぬ。…しかしわれわれは、その想いに耽ることも、碌にはできない。われわれは、急流のただ真中にあって、まだ岸の上に見えるわずかばかりの遺物に執念深く眼を注いでいるうちに、急流は深い淵の方へ遠くわれわれを押し流して行く。…知識界の出来事とてもその悼しさに変りはない。フランスの民主政治は、あるいはその進行を妨げられ、あるいは無茶苦茶な情欲に駆られて、その路に出遭ういっさいのものを覆してしまった。フランスの民主政治は、静かにその主権を建てるために、漸々に社会を侵蝕して行くということがなかった。混乱と擾乱とのうちにその進行をとどめられてしまった。みんなは、闘争の熱に駆られて、敵の極端な主張や行為のために、自分の主張までも当然の範囲外に押し出して、自分の追求する目的すらも忘れて、そして自分の本当の感情や内心とはあべこべの言葉を弄んでいる。…かくしてわれわれは奇怪な矛盾を目のあたりに見なければならなくなった。私は、私の記憶に遡って見て、これほどまでに悲哀と憐憫とを催さす何ものをも見出すことができない。今日では、主張と趣味とを、または行為と信仰とを結びつける、自然の糸が切断されてしまったようだ。いつの時代にも行われていた思想と感情との同感が破壊されてしまったようだ。道徳上のあらゆる法則が廃滅されてしまったようだ。」


この混乱は、社会状態の上にも、また個人意識の上にも、かなり永い間続いた。そしてフランスの民主政治は、ことに若い貴族等の間に、個人や社会の現在と将来に対する、憤懣と悲観との思想を種播いたのであった。

  • しかし社会的混乱や、社会的不安定や、または社会的関係の弛緩は、必ずしも憤懣や悲観の絶対的および普遍的原因ではない。かくのごとき社会状態も、ある人々の心理には、いささかの不安も悲哀をも感ぜしめない。

  • 強固に組織され支配されている社会よりも、むしろ秩序の弛緩し混乱した社会に、より善く適応する性質を持った人々がいる。秩序の弛緩し混乱した社会は、冒険の広野である、大胆なる意志の運だめしの舞台である。この時こそ、従来の被圧制階級のあらゆる人々にとっては、久しく圧迫されていた個人的自由の、初めて頭をもたぐべき好機会である。彼等は歓喜して、各々その思い思いの野に、この自由を追求した。そして彼等の間に、奮闘と楽観との個人的自由の思想が、湧くがごとくに起こった。


社会的混乱の生じたかの憤懣と悲観との思想と、この奮闘と楽観との思想とは、さらにつぎに説く社会状態の進化に伴って、ついに近代個人主義を産む母となった。

近代的個人主義のもう一つの起源「近世国家の中央集権的原則への反抗」

この社会的秩序の混乱と相次いで、さらに近代個人主義の勃興に与って力あったのは、それとまったく反対の現象たる社会的秩序の整頓であった。すなわち旧制度の破壊と同時におよびその後に行われた新制度の建設であった。

  • 社会的大変革の後には、いつの世でもそうであったのだが、一方には社会的秩序の混乱があるとともに、他方にはそのこと自身の中にすでに秩序の整頓が含まれている。すなわちフランス大革命後の封建的秩序の解体も、実はさらに新しき社会的秩序の再組織であったのだ。ある旧い桎梏は消滅した。が、それも実際はさらに新しき桎梏によって置き換えられたのだ。大革命は旧い社会的制度を破壊した。が、この大革命はまた、さらに新しい社会的制度の建設によって、各個人の上に中央集権的専制をほしいままにしようとしたのだ。かくして各個人の心臓は、この巨大な重荷の、社会的圧迫を感ぜざるを得なくなった。

  • 近世国家の中央集権的原則は、国家の中に諸国家の存在することを許さない。国家は唯一不分割性のものである。国家の中のいっさいは国家の監視と制裁とを遁れて、存在することができない。各個人は生れてから死ぬまで、国家の監督の下に生活しなければならぬ。そしてまたかくのごとき組織の社会にあっては、各個人はあまりに集合し合い、したがってまたあまりに拘束し合う。各個人の生活が他の人々の生活の中にあまりに食い込み合う。

  • 一方には、すでにさきに言ったごとき旧組織の破壊から来た、悲観と楽観との個人的自由の思想と感情とが湧きつつある間に、他方には、その思想と感情とがこの新組織の建設によって妨げられまた害われる。かくしてここにもまた、等しく憤懣と悲観との思想と、奮闘と楽観との思想とが、各個人の境遇と気質とに従って生れ出て来た。


個人主義の発生は、社会組織が各個人にとって堪え難きほどに強圧的であることを予件とするものであるが、それとともにまた、ある程度の社会的解体をも予件とする。この後の予件がなければ、多くの場合に、各個人の社会的叛逆は不可能である。少なくとも無効果である。

  • 政治的および社会的束縛が、非議すべからざるほどに、あまりに強力であり、いっさいの秩序があまねく是認せられ尊敬せられている社会においては、とにかく個人主義的叛逆などという気の、よしそれがいかに慎重な態度のものであっても、容易に起きる可能性がない。そこで叛逆の感情は、多くの場合に、何等の形式をもってもそこに現され得ないで、ただ各個人の頭脳の中に幽閉されていなければならぬ。もし多少の大きな個性があって、その束縛に叛逆を試みんとすることがあっても、それはただちに圧迫せられ蹂躙せられて、かえってその身を失うことになってしまう。

  • されば自由の要求は、すでに多少の自由の存在することを予件とする。知識的解放、諸思想の偶像破壊、社会的ディレッタンティズムというようなものの起るのは、多くの場合に、すでに社会的規律や権威の多少の弛緩に乗じてである。


かくして十七世紀やルイ十四世の絶対君主制度の下には萌出ることもできなかった個人主義的思想が、十九世紀に至って、旧社会の解体と風俗習慣や思想感情の混乱とに乗じて、初めてその頭をもたげて来たのである。

  • 加うるに十八世紀における官能派の文学は、スタンダールボードレール等の作者によって復活せられて、風俗習慣の自由を憧れしめた。

  • ようやく発達しかけて来た科学は、その性質のもともと無道徳的であったところから、かつては神学的思想の名の下に厳酷に審かれた存在と思索と行為との方法を評価する上に、はなはだしく寛大であることを許すようになった。科学の無道徳性は、従来不道徳であると見做されていた種々の形式の官能を侮蔑するどころでなく、かえって好意をもって眺めしめるようになった。

  • そしてこれらの諸原因の影響の下に、いかに生活を理解しまた生活すべきかの種々なる仕方が、すなわちいかに存在し思索し行為すべきかの種々なる新しき方法が、大した物議を起こすこともなく、現実され得るようになった。


かくのごとく、一方にはすでに幾分かの自由を味わい、ますますその自由の思想と感情とを充実し拡張せしめんとしつつある間に、社会状態の進化はさらに他方にこの傾向に対する新しきしかも強力なる障礙を持ち来たした。すでに枝を出し葉を出しさらに蕾までも持ちかけた個人的自由の思想と感情とは、ここにおいてかまったくその障礙の下に屈服しおわるかもしくはその障礙を打破するかの、三途に出づるの外はない。
*この辺り「大衆に根付いてない我々左翼には、天皇陛下どころか江戸幕藩体制の冷遇を庶民に寄り添う事で生き延びた「貴族にして筋金入りのプロレタリア戦士」たる公家すら倒せない」と断言した大杉栄の面目躍如という気がする。確かに全国規模で商業主義浸透が始まった江戸幕藩体制下において、公家や寺社教団はランティエ(rentier、地税生活者)の座に安住せず「事業全体のサービス産業化」に踏み切った。欧州の貴族や教会とは見てきた地獄の規模が違うのだった。

「没落貴族の反逆」と「近世国家の中央集権的原則への反抗」の合流と敗北

けれどもこれを事実に見るに、この第三の叛逆的思想と行為とが、初期の個人主義の主潮であり、そしてまたその後の個人主義にも主潮としての系統をひいているもののごとく思われる。

  • すなわち初期の個人主義者は、自らの上に圧倒する、社会的決定を意識していた。しかし同時にまた、自らがこの決定の中の一つの力であることをも感じていた。その力はきわめて薄弱ではあるが、しかもなお自ら欲しさえすれば、万障を排して闘うこともでき、また恐らくは勝つことすらもできようと信ぜられていた。とにかく当時の個人主義者は、社会に対してその力を試みることなしに、ただちに譲歩し妥協しようとはしなかった。自らの精力、自らの敏捷、また必要に応じて自らの不謹慎をすらも頼んで、社会との闘争に従った。

  • けれどもこれらの強き個性が、その独立と権力とのためにいかなる性質の闘争を営んだとしても、この不平等な闘争に勝利を占めるということはほとんどなかった。社会はあまりに強い。社会がわれわれを包む定命の網は、われわれがそれらを打破らんがためには、あまりに堅固であった。この社会に対する強き個性の極力的の闘いの、そのロマンティックな結末は、要するに失望と落胆とをかち得たに過ぎなかった。したがって当時の文学は、いずれもみな、この失敗の告白であった。

  • ヴィニーはその『一詩人の日記』の中に言う。「神は地球を大空の中に投じたごとく、人間を運命の中に投じたのだ。運命は人間を包んで、等しくまた常にヴェールを蔽うた目的に向かって人間を運んで行く。・・・凡俗は誘われるままに牽かれ、大なる性格はそれと闘う。・・・しかしその生涯の間闘ったものはほとんどいない。彼等もまた、運命の流れの中に巻きこまれて、溺れ死んでしまう。」

  • ゴビノーの『王子』等は社会に宣戦した。しかし彼等もまた、その敵のあまりに強くして、その愚劣なる数が彼等を蹂躙し去らんことを覚悟していた。政治家にして雄弁家であった、そしてまた事実の上における社会的叛逆者であったベンジャミン・コンスタントも、ついにはその著『アドルフ』の中に、感情の世界においても行為の世界においても、個人に対する社会の専制的万能を認めなければならなくなった。「いかに熱狂せる感情といえども、事物の秩序に対しては闘うことができない。社会はあまりに強い。あまりに多くの形の下に再現する。」

  • かくして強き個性の到達し得たところは、彼等の憧憬と運命との間の、とうてい調和すべからざる不権衡を痛感したことであった。ドイツにおいてもまた、ハイネは1848年につぎのごとく言っている。「この世界が今日求めかつ望みつつあることは、まったく私の心とは没交渉のものとなった。けれども私は運命の前に膝まずかなければならぬ。私はこの運命に反抗すべくあまりに弱い。」


これらの大きな性格の個人的叛逆の外に、なお思想と感情との類似による集合的叛逆があった。これらの不平家等は、社会の強圧に対して、まったく孤独に反抗することができず、もしくはそのことの不可能を感じて、彼等自身の力と他の同志との力を結合した。すなわち彼等自身の形づくった小社会をもって、周囲の大社会との闘争に従った。

  • あらゆる党派の革命党はこれであった。これらの小団体は、最初はきわめて微々たるものであったが、漸次に発達して、その団体に像どって大社会をも変革せしめんとする勢いを呈した。かくして彼等の叛逆的精神は、一方にあらゆる社会的破壊力となるとともに、同時にまた歴史上に変化と進歩との大役を演ずる新社会の萌芽ともなった。


けれどもここにもまた、要するに社会的勢力に対する個人の努力は無駄であった。倒れたる暴君は実に他の暴君によって置き換えられたのだ。勝利を得た少数者は暴虐なる多数者と変った。すなわち個人の解放という意味からすれば、進歩とはただ名ばかりの虚偽であったのだ。そしてかくのごとき政治的革命から得た理論的結論は、いうまでもなく政治的事物に対する無関心であった。
*最近話題になっている「(政治的対立図式を「現状維持派(圧倒的多数を占める漸進派)」と「現状懐疑派(少数精鋭を旨とする急進派)」に大別しようとする国際的動きを背景としての)極右と極左の境界線消失」なる現象を予言しているかの様な内容とも。

左翼・右翼 - Wikipedia

多くの政治学者は、現在の複雑な世界では「左翼、右翼」の分類はもはや意味を持たないと指摘している。彼らは経済的・政治的・社会的な側面を結合した、より複雑なスペクトラムを提唱している。しかしこれらの用語は意味を二転三転させつつ、特に日本で好んで使用され続けている。

ディレッタンティズム(Dilettantism、退廃主義)の登場

かくして個人主義はその第二期に到達した。個人主義の第一期は、個人が社会を支配して、その夢想するところに従って社会を改造せんとする、自ら頼む雄々しき叛逆であった。けれども個人主義は、その第二期に至って、まったくこれに反していっさいの努力を無益であると観念してしまった。社会的定命と桎梏との前に、あくまでも敵意を抱きながら、それと闘うことを余儀なく断念したのだ。すなわち第二期の個人主義は、永久に不服従の、しかしまた永久の敗北者となったのだ。

  • この意味の個人主義は、個人と社会とのついに調和することなき、深き矛盾の実感であった。この意味の個人主義者は、自己の内的存在とその社会的周囲とのついに避くべからざる強き不調和を、ことさらに痛感する性質の人々であった。彼等は永い間の経験に虐げられて、社会とは個人にとって束縛と屈従と困窮との永遠の原因であり、悲哀の不断の創造者であると確信した。彼等は、彼等自らの経験と彼等自らの生の実感との名によって個人と社会との間に調和を来たしめんとする将来社会の一切理想を空想であると確信した。彼等によれば、文明の発達はこの害悪を軽減するどころではなく、いよいよ暴虐をほしいままにせんとする社会的機制の無数の車輪の中に、各個人の生活をますます複雑ならしめ、ますます多忙ならしめ、ますます困難ならしめて、かえってこの害悪を増大せめるものである。

  • すなわちこの個人主義は、第一期の個人主義が社会的楽観説であったごとく、こんどは反対に社会的悲観説であった。さればこの個人主義者のもっとも温健なるものといえども、なおかつ、社会生活は個性にとっての絶対の破壊的害悪でないまでも、少なくとも個人にとっての圧迫的制限条件であり、必要なる害悪であり、しかももっとも大なる害悪であると認めている。

  • ヴィニーはその『一詩人の日記』の中に言う。「社会的制度は常に悪である。ただ時々にわずかに堪え得られるものとなる。この悪からわずかに堪え得られるものに移らんとする争いには、一滴の血をも値しない」

  • かくしてこの第二期の個人主義は、われわれがその中に生活しなければならぬ組織されたる社会に対する、その画一的規律、その単調、その束縛に対する、敵意と不信とから侮蔑と無関心とに至る種々なる実感の態度となった。この社会から遁れて自己の中に引退せんとする渇望となった。各々の自我の唯一性、各々の自我の差別性の深い感情となった。
    *客観的に見た場合、それは「ディレッタンティズム(Dilettantism、退廃主義)」として映る展開に。
    デカダン派 - Wikipedia


この第一期と第二期との二つの個人主義は、またロマンティズムとネオロマンティズムとの、二つの思潮によっても代表せられる。

  • ロマンティズムとは、偉大や、力や、情熱や、歓喜や、自由や、幸福や、または美やの、漠然としたしかし崇高な理想に対する異常な憧憬であった。理想的であり、熱誠的てあり、革命的であり、時としては狂気に近いほどの激情的であった。その内的欲望はさらに外的に拡がって、世界を征服し、世界を破壊せんと欲した。しかしこの憧憬も、ついには必然に絶望を、多くの詩人によって歌われ多くの哲学者によって論ぜられた渇望の見たし得ざる悲哀を、生まなければならなかった。文芸の上でのオーベルマン、ルネ、バイロン、レオパルディ、ハイネ、ヴィニー、また哲学の上でのショーペンハウアーなどは、すべてみなこのヴェルトシュメルツすなわち世界苦の苦悩者であった。ロマンティック・ペシミストであった。

  • かくロマンティズムは、一方にその感情の横溢から悲観説に傾かざるを得ざるとともに、他方にまた、その横溢せる感情を娯まんがために、自らの苦悩を強めてその苦悩を味わわんがために、そしてまたその苦悩を天才のしるしであるかのごとく崇め上げんがために、外に向うことをやめて自己の中に帰らなければならなかった。自己の中に閉じ籠もったロマンティズムは、必然にまた、個人的むら気を尚ばなければならなくなった。むら気は刹那的である。流動的である。

  • ロマンティズムは、かく悲観的となり個人的となるとともに、さらに哲学上の批評的精神と科学上の観察的精神とおよび芸術上の現実的精神との三重の影響によって、ついにネオロマンティズムと化した。

  • ネオロマンティズムは、ロマンティズムと同じく実感から出て、感情をもって善悪の真偽のそしてまた美醜の標準とする。けれどもネオロマンティズムの尚ぶ実感は、もはやロマンティズムの無邪気なる理想的でもなく、激情的でもなく、叛逆的でもなく、その批評的精神によって自らに対してすらも不信を懐き、経験によって聡明にされ、反省と科学的教養とによって和らげられついにまったく純化された平静と観照との悲観説となり個人主義となった。


これを一言に言えば、ロマンティズムはより多くディオニシエンであり、ネオロマンティズムはより多くアポロニエンである。

ネオロマンティズムの近代性

この第二期の個人主義は、近代の思想界における固有の意味の個人主義である。したがってもう少し詳細にその心理的解剖を施して見よう。

  • 個人主義はいわゆる利己主義とは全く違う。利己主義は、自己および他人の何ものを犠牲にしても、ただ世の中に押し出ようとする、きわめて卑俗な成上がり主義である。その感情はきわめて粗雑であり、社会的接触や、社会的虚偽や、または社会的卑劣について、何等の苦痛をも感じない。利己主義者は、あたかも魚類の水中に棲息するがごとくに、社会の中に生活することができる。

  • 個人主義的感情は必ずしも愛他心を斥けない。むしろ一般に、この愛他心の漲溢から、社会的悲観や厭人観に陥ったものである。ヴィニーやゴビノーは、その崇高なる社交性の理想を実現せしめんとして、失敗し絶望した愛他主義者であった。彼等は、美わしき強きそして寛大な、社会を憧憬したのであった。しかも彼等は、現実の社会の醜悪と愚劣と偽善とを見て、彼等自身の中に帰ったものだ。彼等は、我欲一点張りの利己主義を選んだのでもなく、またある芸術家が芸術のために芸術を説いたごとく個人主義のために個人主義を選んだのでもない。彼等の個人主義は、よしそれがいかに絶対的でありいかに絶望的であっても、元来は人類の偉大と高貴との信念から出たものであった。そして彼等が、たとえばヴィニーがいっさいの社会形式を否認し、またゴビノーが侮蔑と無関心との観照的態度に遁れて、社会をもって思想家の生活するに堪えざるところであると見做すようになったのは、その信念を実現することの不可能を経験し、また社会的事物のあまりに醜悪なるとうてい癒すべからざることを実感したからであった。彼等の感情は、社会的現実との接触に堪うべく、あまりに敏感でありあまりに繊細であった。したがって彼等は、いち早く彼等自身の中に逃げ帰ったのであるが、しかもなお自己に対してもまた他人に対しても、独立と真率との切望を失うことはなかった。

  • そして彼等の社会的事物に対する無関心も、往々その奥底に潜む愛他心のために裏切られた。ヴィニーはしばしば人類の運命を憂えた。またゴビノーも、その晩年に至って、平素は侮蔑し絶望し切っていた民主政治に勧告を与えるために、『第三共和国』の著述を公けにしてその無関心から出た。

  • 個人主義の感性がかくのごとくはなはだ敏感でありはなはだ複雑であるとともに、その理性もまたはなはだ聡明でありはなはだ複雑であった。そこにもまた相反する憧憬と才能とがあった。理想の追求と現実の執着、分析の力と直覚の妙。

  • 個人主義の最初は、理想的世界観によって、スタンダールのいわゆるスペイン主義によって、ドンキホーティズムによって、すなわち一般にいうロマンティズムによって現れた。けれどもこの理想主義的理性は、事実に当面するや否や、ただちにその主観的理想と現実との懸絶、および個人と社会との衝突を見た。この経験は、爾来個人主義者をして世界をありのままに視察することに努めしめ、かつては理想主義者であったものを現実主義者としてしまった。しかし彼等といえども、まったくそのために、従来の理想を抛棄し去ったのではない。彼等の中のあるものは、理想主義と現実主義とを、ベンジャミン・コンスタントやスタンダールがその好適例であるごとく、彼等自身の中に融合せしめたのであった。
    *ここでいう「ドンキホーティズム」ゆえに古典的ロマン主義者の確立した「ロマン主義的英雄像」の多くが「ユニバーサル・モンスターズ」概念の大源流となる。そして行き着いた果てが「キングコング」に「アマゾンの半魚人」に「ゴジラ」…大衆の想像力は遂には時代遅れの彼らに「人間性(Humanism)」すら認める事を拒絶されてしまうのである。

  • 個人主義的理性は、主観的であり、非合理的である。スピノザライプニッツの客観的楽観的哲学が事物の普遍的非個性的性質を説明せんとするに反して、個人主義は個人的感情を説明せんとする主観的哲学である。この主観主義には必然に非合理的傾向が含まれなければならぬ。ショーペンハウアーやスティルナーの自我や唯一者は、いっさいの範疇の外に置かれてある。非合理的であり、したがって論理的には知識され得ない。自我の存在や世界の存在を、夢のごとくに、時としては悪夢のごとくに見ている。


かくのごとく個人主義の意志は、能動的であるよりも、むしろ抵抗的もしくは無為的である筈である。拒絶の意志である、無意志である。個人主義者は、叛逆的行為の不可能であるところから、その行為を断念した。
*ここでまさに浄土真宗が到達し、遠藤周作「沈黙(1966年)」によって世界に広められた「世俗諦」の世界観が現出する展開となる。ロシア革命(1917年)後、ソ連の地方行政官としてその生涯を全うした「アナキスト界のプリンス」クロポトキン。果たして彼は「転向」したのだろうか…

「社会的個人主義」の登場

かくして近代の思想界における固有の意味の個人主義は、まったく内にのみ向う心理的態度に陥ってしまったのであるが、そしてそこから心理的個人主義の名を与えられ得るのであるが、それとは別に、なお外に向う社会的個人主義がそれと並行して存在したことを忘れてはならない。

  • この後者は、等しくまたフランス大革命の所産であり、多くの倫理学者、法律学者、政治学者、また経済学者等によって、今日まで連綿として主張されている。この個人主義は、ミルがその『自由論』の題辞として選んだフンボルトのつぎのごとき言葉を、そのモットーとする。「これらの中に説かれたるいっさいの議論の帰着する大原則、主要原則は、各人がもっとも豊富なる多様多種の発達を遂げんことの絶対的価値である。」

  • すなわちこの種類の個人主義は、いっさいの個人が社会の中に互いに調和しつつ発達し、その多様多種なることがかえって文明の富と美との保証になると信じている。

  • 彼等は、秩序と統一と調和とを原則とする理性を信ずる合理主義者である。彼等は、社会的正義の実現さるべきことを信ずる、人道主義者である。きわめて広い意味での社会主義者である。個人と社会を分離せしめず、また対立せしめず、個人をもって社会の一要素なりとなし、部分が全体と調和すると見做すところにその社会的個人主義の名称を与えられる。

  • 「新しき世界のための新しき政治学が創られなければならぬ」。このトクヴィルの思想は十九世紀におけるあらゆる社会改良家の頭脳に侵み渡った。コントは人道の宗教に、クルノやルナンは知識者すなわち哲学者と科学者との貴族政治に、新しき社会の新しき原則を求めた。しかしこれらの社会的理想はいずれもみな時代の精神たる民主主義に遂われてしまった。

  • そしてこの時代精神に適応した種々なる社会的個人主義の発生が促された。これを政治学上に見れば、国家の任務をもっぱら外国に対する防禦と内国の保安とに減縮せんとする学説、非中央集権主義すなわち地方主義もしくは連合主義、または多数者に対して少数者を保護せんとする自由主義等は、いずれもみなこの種類の個人主義であった。

  • またこれを経済学上に見れば、非干渉主義、自由放任主義、その他これらの社会的学説を数え立てれば限りがない。


この社会的個人主義とさきの心理的個人主義との間には、必ずしも必然的関係はない。社会的個人主義者として心理的個人主義の感情をはなはだ欠いているものもある。

  • たとえばスペンサーのごときは、国家に対する個人の権利を主張する点においてはなはだ個人本位的であるが、社会に対してはほとんど個人の優越を認めていない。すなわち個人は社会の一要素であると見做すとともに、社会の存在のためにのみ存在するもののごとく認める傾向がある。ここに社会的独断説があり、そしてこの社会的独断説が、ほとんどいっさいの社会的個人主義の欠点となる。

  • さらに詳しく言えば、社会的生活に対する微妙なる感情を欠くところから、内にはいることなしに、ただ理性の上から外に向う社会的学説を築き上げる。また民主的時代精神に適応せんとするところから、今日の社会組織を是認した上での、部分的改良を試みるに過ぎない。

  • 心理的個人主義はただ内にのみ向うところから、今日の社会組織に対する客観的知識を欠き、したがって早くもいっさいの社会組織を否認する悲観説に陥る。また社会的個人主義はただ外にのみ向うところから、いっさいの社会組織に対する主観的感情を欠き、したがって早くも今日の社会組織を是認する楽観説に陥る。そしてここに、この二つの種類の個人主義の、各々の長所と短所とが見出される。そしてまたここに、理論的にも実際的にもこの二つの種類の個人主義の短所の行きづまりがあり、さらに両者の長所をとった第三の個人主義が生れなければならぬ順序となった。


この要求によって事実上に現れた新個人主義は、平面的に見れば心理的個人主義と社会的個人主義との融合であり、そしてまた立体的に見れば、さきの第一期個人主義と第二期個人主義との調和である。さらに言葉を換えて言えば、第一期個人主義がその後の種々なる方面の経験と知識を蓄積して、新しき内容をもって復活し来たったものである。
*まさしく「計算癖が全人格化する世界」を予言している。

*同じく1910年代を生きた与謝野晶子も同様の境地に到達しているのが興味深い。

与謝野晶子 激動の中を行く(1919年)

巴里のグラン・ブルヴァルのオペラ前、もしくはエトワアルの広場の午後の雑沓へ初めて突きだされた田舎者は、その群衆、馬車、自動車、荷馬車の錯綜し激動する光景に対して、足の入れ場のないのに驚き、一歩の後に馬車か自動車に轢ひき殺されることの危険を思って、身も心もすくむのを感じるでしょう。

しかしこれに慣れた巴里人は老若男女とも悠揚として慌てず、騒がず、その雑沓の中を縫って衝突する所もなく、自分の志す方角に向って歩いて行くのです。

雑沓に統一があるのかと見ると、そうでなく、雑沓を分けていく個人個人に尖鋭な感覚と沈着な意志とがあって、その雑沓の危険と否とに一々注意しながら、自主自律的に自分の方向を自由に転換して進んで行くのです。その雑沓を個人の力で巧たくみに制御しているのです。

私はかつてその光景を見て自由思想的な歩き方だと思いました。そうして、私もその中へ足を入れて、一、二度は右往左往する見苦しい姿を巴里人に見せましたが、その後は、危険でないと自分で見極めた方角へ思い切って大胆に足を運ぶと、かえって雑沓の方が自分を避けるようにして、自分の道の開けて行くものであるという事を確めました。この事は戦後の思想界と実際生活との混乱激動に処する私たちの覚悟に適切な暗示を与えてくれる気がします。

個人主義の台頭

そこでこの平面的にも立体的にも第三の地位にある新個人主義を説く前に、再び個人主義心理的解剖に帰らなければならぬ。

  • さきにロマンティズムとネオロマンティズムとを論じた時に、前者はより多くディオニシエンであり、後者はより多くアポロニエンであると言った。ディオニシエンはドン・キホーテの徒であり、アポロニエンはハムレットの徒である。そして心理学者リボーは、前者を能動性、後者を鋭感性の心理的型に属するものとして分類している。

  • 第一期の個人主義時代にも、すなわち能動型の人物が活動した時代にも、なお憤懣と悲観とのみの鋭感型の人物はあった。また第二期の個人主義時代にも、なお奮闘と楽観とのみを続けた能動性の人物はあった。強大なる気質は周囲の一般的傾向に多少逆らって進退することができる。さらにまた、このいずれの時代においても、鋭感能動性と名づけられる総合的型の人物はあった。もっともこの気質の分類は、総合的型の存在が示すごとく、個人が各々ある一気質のみを有するという意味ではない。各個人には、多少の強弱の度をもって、種々なる気質が包蔵され、その中のいずれかが、周囲の事情に多少適応しもしくは反動して、ことに生長発達する。

  • 第一期個人主義時代は能動型の人物の活動に、また一般の人々の能動性の発達に、もっとも都合よき時代であった。そしてその時代の個人主義者中には、能動性のはなはだ強烈な、少数の無政府主義者がはいっていた。彼等は、幾度かの失敗にもめげず、幾度かのつらき教訓にもこりず、ひたすらにその理想の憧憬と成功の信仰とを追うて勇敢なる叛逆的闘争を続けて行った。バクーニンのごとき、またあらゆる点においてその後継者とも言い得べきマラテスタのごとき、実にその好典型である。

  • しかし無政府主義は、かくのごとき能動型の人物によって創始せられたのであるが、さらにクロポトキンやルクリュ等の鋭感能動性の人物によって改造せられ、また政府と社会との獰猛なる迫害のためにしばしば無為を余儀なくせられつつある間に、内省の機会を与えられて、その色彩にはなはだしき変化を生じた。さらに換言すれば、無政府主義はその社会的学説の系統において社会的個人主義に属するものであるが、その個人的感性の上に著しく心理的個人主義の色彩を帯びて来た。
    吉本隆明「転向論(1959年)」を先取りした内容なのが興味深い。ロシア革命後、ソ連の地方行政官としてその生涯を全うした「アナキズム界のプリンス」クロポトキンは、果たして「転向」してしまったのか、それとも…

そして同時にまた、さきの心理的個人主義も、実際生活におけるその対社会的態度の矛盾に目覚め、一般思想界のことに社会科学の進歩に教えられ、かつ現社会の漸次に老衰し来たるに乗じて、あたかもかつてヴィニーやゴビノーが時としてその無関心から飛び出したごとくに、再び第一期個人主義人道主義を復活せんとしている。ロマン・ローランのごときはそのもっとも明白なる代表者ではあるまいか。
ロマン・ローランの系譜は、日本においては吉川英治宮本武蔵(1935年〜1939年年)」や梶原一騎スポ根ブーム(1960年代後半〜1980年代前半)に継承された。その意味においては「ドンキホーティズム」はユニバーサル・モンスターズとアストロ球団の共通の大源流という事になる。

*その一方で社会的個人主義は「計算癖が全人格化した世界」に行き着く。

そう、まさにこうした状況を踏み台として総力戦体制時代(1910年代後半〜1970年代)の落とし子たる魔術的リアリズム文学は誕生してくるのです。

 ロマン・ロラン「ジャン・クリストフ(1903年-1912年)」第七巻 家の中(1909年)

宗教的熱意は、宗教のみが有してるものではなかった。それはまた革命運動の魂であったが、この方面においては悲壮な性質を帯びていた。

クリストフがこれまでに見たものは、下等な社会主義――政治屋連中の社会主義にすぎなかったのだ。その政治屋連中は、幸福という幼稚粗雑な夢を、なお忌憚なく言えば、権力の手に帰した科学が得さしてくれると彼らが自称してる、一般の快楽という幼稚粗雑な夢を、飢えたる顧客らの眼に見せつけていただけであった。

そうした嫌悪すべき楽天主義に対し、労働組合を戦いに導いてる優秀者らの深奥熱烈な反動が起こってるのを、クリストフは見てとった。それは、「壮大なるものを生み出す戦闘、瀕死の世界に意義と目的と理想とをふたたび与える戦闘」への、召集の叫びであった。

それらの偉大なる革命家らは「市井的で商人的で平和的でイギリス的な」社会主義を唾棄して、世界は「拮抗をもって法則とし」犠牲に、たえず繰り返される常住の犠牲に生きてるという、悲壮な観念をそれに対立せしめていた。

それらの首領らの過激行為は、旧世界からの襲撃の歯止めとして出撃する辺境警備隊を思わせる何か、カントやニーチェに通底する神秘的戦意、そして(彼らはそんな表現を受け入れてはくれないかもしれないけれど)革命的貴族の突撃としか呼び得ない痛烈な光景を呈していた。彼らの熱狂的な悲観主義、勇壮な生への渇望、戦いと犠牲に対する熱烈な信念は、ドイツ騎士団や日本のサムライなどの軍隊的宗教的理想と同じであるかの観があった。

第一次世界大戦前夜のパリで暮らすドイツ人作曲家(ベートーベンがモデル)が主人公の大河小説。梶原一騎原作の「巨人の星(1966年〜1971年)」「タイガーマスク(1968年〜1971年)」「あしたのジョー(1968年〜1973年)」といったスポ根物の起源にして、エルンスト・ユンガーの魔術的リアリズム同様、新左翼運動の原風景でもある。

60代のブログ奮闘記 : 梶原一騎

こうした過去をちゃんと踏まえながら進まない限り、私達に未来はない?