欧洲の理想界に形而上派の興てより、漸くにして古代の崇高なるプラトニックの理想的精神を復活せしめ、爾来(じらい)欧洲の宗教界、詩文界に生気の活動し来りたるを見る。律法儀式にのみ拘泥したる羅馬(ローマ)教の胎内よりプロテスタニズム生れ出で、プロテスタニズムよりピユリタニズム生じ、ピユリタニズムによりて、長く人心を苦しめたる君主専制の陋弊を破りたる自由の思想の威霊あるものを奮興したり。あるいは一転して旧来の迷夢を攪破したるボルテイアとなり、バイロンとなり、ゴヱテとなり、カアライルとなり、自由神学派となり、唯心的傾向となりて、今日に至るまでの思想界の変遷はおもしろきこと限りなし。
北村透谷(1868年〜1894年) - Wikipedia
*元士族として自由民権運動に参加しつつ、テロも辞さないその暴力性に失望してキリスト教に改宗し文学の世界に生きる決心を固めた「日本浪漫主義始祖」北村 透谷(1868年〜1894年)。彼が語るのは、ある種の厭世的唯心論。そしてこの立場故に欧米でもロマン主義者は現実世界に完全には適応し切れないとする。
北村透谷 厭世詩家と女性
藤村の「初恋」は、単に初々しい恋を詠った作品とはニュアンスを異にします。私はこれまで、何となく片思いのような清純な恋の物語を思い描いていました。でも、それはまったく自分の想像の産物による誤解だったようです。
ここに描かれた恋物語は、成人を迎え、大人の仲間入りをした女性に、あこがれと淡いエロスを感じている少年の姿が浮かんできます。そして相手の少女も、寡黙で純情無垢な存在ではありません。まだ幼さを残している少年をからかって楽しむ、小悪魔的な性格も兼ね備えた女性像でもあるのです。
*あれ「北村透谷の高邁な唯神論」が欠片も残ってない…そして日本ではこれが「外国から伝来した」浪漫主義として広まる形に…
その一方で「あえて(教会や王国が用意した)既存の救済計画に背を向け(悲壮な最後を迎える可能性すら辞さず)自らの内側から込み上げる自然の声にのみ従って善悪の彼岸を超越しようとする」ロマン主義と「(臨床医学が統計結果に基づいて類型化する)真の狂気の世界」の狭間には「他人は操作したいが自分は変えたくない、完璧な自由は欲しいが責任は取りたくない、過程は面倒くさいが輝かしい結果だけは欲しい。このような自分の幼児性に気付いていない身体だけの大人」が存在する様なのです。
北村透谷 厭世詩家と女性
これについてオーストリア人精神分析学者アドラーは「甘やかされた子供」、米国の女性作家コレット・ダウリングは「シンデレラコンプレックス(Cinderella complex、1981年)」、同じく米国の心理学者ダン・カイリーは「ピーターパン症候群(Peter Pan Syndrome、1983年)」、加藤諦三は「きずな喪失症候群」と呼んでいるとされています。
- アドラー心理学における「甘やかされた子供」…フロイトのいうエディプス / エレクトラ・コンプレック状態はこの「甘やかされた子供」において見られるという。発端は「(外界一般に対して自己の立場を相対化する)承認 / 賞賛(anerkennen)能力」を中心にその個人独特の世界観を構築する「承認共同体感覚(Mitmenschlichkeit=ミットメンシュリッヒカイト)」の欠如で、そういう人物は自らの人生に「私的意味付け」しか与え得ず、自分にだけしか関心を向けず、自分の得になることだけを目的として生きていく事になるという。
*ミシェル・フーコーの「生政治学(Bio-politics)」の様に、むしろそういう反体制的立場を肯定する立場も存在するからややこしい。
- 米国女性作家コレット・ダウリングにおける「シンデレラコンプレックス(Cinderella complex、1981年)」…「他人に面倒を見てもらいたい」という潜在的願望によって、女性が「精神と創造性」とを十分に発揮できずにいる状態。男性に高い理想を追い求め続ける一方で、外からくる何かが自分の人生を変えてくれるのを待ち続けている。幼い頃から女性の幸せは男性によって決まると考え、シンデレラのように理想を追い求めるも、主婦をやっているうちに自主性を見失い、結果的に夫に依存し自由と自立を捨ててしまうとする。
*シャルル・ペローが発表した最初の決定版(1697年)においては、付加された教訓が「女性が幸福になるには(時宜に合致した)適切な後見人が必要」となっている。実際(国王を頂点に頂く中央集権的完了団が在郷貴族の不輸不入権を脅かし始めた)絶対王政時代においては「(思わぬ大人物に見初められての)伝統的身分秩序を無視した下克上」がしばしば見られたのだった。その一方で政略結婚に用いられず修道院送りにされた貴族の女子と「口減らし」の為に正規軍の将校や聖職者への就職を強要される貴族の男子が駆け落ちして破滅するロマンス小説が量産された時代でもあった。
*そして19世紀前半のフランスでは男性でも自助努力の限界を思い知らされる「ラスティニャックのジレンマ(The Dilemma of Rastignac)」問題が浮上してくる。
*その一方でダーウィンが「性選択(Sex Selection)」の概念を提唱した英国のジェントリー(郷紳)階層の女子には「自らの選択が家の浮沈を決める覚悟」と「選んだ殿方に向こうから告発させるスキル」が求められた。
*ちなみに国際的にディズニー・ファンの女子の間ではむしろ「最初から恵まれていて、一切の自助努力をせずとも周囲の忖度で勝手に幸福を獲得する」眠り姫の方が長らく伝統的に不評だったが、近年になって「(もはや誰にも自分を起こしてくれる事を期待しない)眠り姫」なる、新たなタイプの理想像が登場。
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米国心理学者ダン・カイリーにおける「ピーターパン症候群(Peter Pan Syndrome、1983年)」…「甘やかされた子供」を創り出して依存してしまう「ウェンディ・ジレンマ(The Wendy Dilemma、1984年)」の対概念として提唱され、他人に依存しないティンカー・ベル的人格への発展的解消を最終的解決策として選択している。
罠にはまったウェンディー*ちなみに国際的にディズニー・ファンの女子の間ではむしろティンカー・ベルは(自分の感情を隠さないのが相応に評価されているとはいえ)あくまで「一家に一台欲しい」物欲の刺激対象であって、あまり「女性の理想像」とは考えられてない…まぁ作中でも「叩けば飛行を可能とする粉を落とすテーブル胡椒みたいな存在」として描写されている訳だし…そういえば三浦建太郎「ベルセルク(BERSERK、1989年)」における妖精パックも「(本人の人格性を問わず)叩けば回復の粉を落とす」似た様な存在。
- 加藤諦三の「きずな喪失症候群」…当事者の欲求する愛情や承認のレベルが母子密着の癒合関係のような全人格的な包摂にまで達するのを特徴とする。
*ちなみに加藤諦三は1980年代中盤より「○○の心理学(または○○の心理」)というタイトルの著書を多く発表しているが、加藤自身は社会学畑の出身で、心理学や精神医学について大学在学中に専門的な教育・訓練は受けていない。典型的ともいえる日本の厳格な家庭で育ち、ハーバード大学への留学を機に渡ったアメリカで自分の意思を常に表すべきというその文化に大きな衝撃を受ける。後に精神医学と出会い人間性心理学や精神分析学を学び、現在ではそれらの研究を中心に心理学者として活動。ハーバード大学ライシャワー研究所の客員研究員をしており、現在もアメリカで行われている研究を中心に執筆を行っている。
きずな喪失症候群と燃えつき症候群 五月晴郎
*真面目なのに生き辛い「燃え尽き症候群」もこのバリエーションとして解釈されている。MBI(Maslach Burnout Inventory)的には「感情の消耗」「脱人格化」「達成感の低下」がチエック項目となる。要するに「ティンカー・ベルや妖精パックの様な利用のされ方」も要注意。いずれにせよこうした実証科学的判定基準を持ち出されたら、もう完全に臨床医学の領域なのである。
あれ? 「外国からの輸入概念」を標榜する割には、意外と肝心の「外国」に対応する確固とした実態が存在しない…これ、もしかしてミケーネ文明時代の遺跡においてまでその名前が確認されてるのに、古代ギリシャ時代に入っても幾度となく「最近ギリシャに上陸した外国神」と記され続ける「ギリシャ神話固有神」ディオニューソス(ΔΙΟΝΥΣΟΣ, Διόνυσος, Dionȳsos)みたいなもの?
*(地母神イシュタルを地上に呼び戻す際の身代わりとして毎年冥界送りにされ続ける「牧畜神=郊外を徘徊する異邦人の神」ドゥムジの概念から発展して諸都市の守護神を脅かす様になった)古代メソポタミア時代の破壊神ネルガルや「太宰府に左遷されて客死し、雷を落とす祟り神として京都に戻ってきた」菅原道眞との相似性を指摘する向きも。要するに(首都に君臨し庶民感情を黙殺しようとする)支配階層に対して「庶民のルサンチマンの顕現」として選ばれ続ける存在なので何度でも忘れられ、何度でも復活を遂げ続けるのである。
*ここまで条件が揃うと、「経済学批判(Kritik der Politischen Ökonomie、1859年)」において「我々が自由意思や個性と信じ込んでいるものは、実際には社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない(本物の自由意思や個性が獲得したければ認識範囲内の全てに抗え)」と宣言したカール・マルクス(Karl Heinrich Marx, 1818年〜1883年)や、最終的に「革命家は勝利の栄光と無縁な存在である。何しろ体制転覆に成功した次の瞬間から新たな種類の反体制弾圧が始まる」なる結論に到達した「一揆主義者=永遠の革命家」オーギュスト・ブランキ(Louis Auguste Blanqui、1805年〜1881年)の様に完全に「言語ゲームの地平線としての絶対他者」の仲間入り。
そういえば同時代における日本社会学はマックス・ウェーバーの「鋼鉄の檻(Gehäuse)理論」の輸入に際しても色々やらかしています。
もはや伝統的宿痾みたいなもの?