諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【身分社会の固定】「無職は生涯無職」?

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 こういうの本当にあるから困る。

 まずは食生活。

どうやらこの問題、前近代日本ではコメ不足が起こると真っ先に酒屋が襲われた事と深く関係してきそうです。それに対して酒屋は振る舞い酒を用意して慰撫する方向で対抗したとか。

そういえば革命勃発以前のサン=キュロット(浮浪小作人)階層は肉類を一切口に出来ず、30歳以降は急激に老化が進んでまず50歳まで生きられなかったとか。一方「肉食」は多くの国で貴族の証とされてきたのです。

そして考えてみれば「保険業界にとっての新たなニーズ財産権の発生」の延長線上に現れる「警備業界にとっての新たな入退場管理施設管理権の行使ニーズの発生」って、概ね新たな領域設定と関係してくる訳ですね。

  • それまで国際的に「人口の墓場」と認識されてきた都市が統計学を導入して計画的に運用される様になり「検疫」や「衛生」といった諸概念が公式に組み込まれたのが19世紀後半以降。
  • インターネット業界に情報セキュリティの概念が生じたのが(コンピューターのコモデティ(日用品)化が、まずオフィス・オートメーション分野で本格化し始めた)1980年代。

    TCP/IPプロトコルが普及がした1980年代には「信頼できるネットワークLAN/イントラネット)」と「信頼できないネットワークWAN/インターネット)」の間に横たわる「検疫問題」も浮上してきた。

    とどのつまり「インターネットの普及」は、そのままそれがルータのアクセスコントロールリスト(ACL)によるパケットフィルタリングへの攻撃増大を意味したのである。これに対応すべく1990年代以降、ファイヤーウォール技術が急速な発展を開始した。

    また同時進行で「スタンドアローン状態の安全なコンピューター」を外界から自動的に侵食するコンピューター・ウィルスの概念も急発展。

    ウイルスの歴史

    1949年ジョン・フォン・ノイマン(1903-1957)が自己増殖オートマトン(自動機械)の理論を生み出しました。 その意味では、理論的にはこの年にコンピュータのウイルスは生まれた、と言えるでしょう。

    1970年…開発者たちの間で、レッドコード(Redcode)言語で記述されたコアウォーCore War)と呼ばれる対戦ゲームが、1985年に公表されるまで、ひそかに楽しまれていました。 このゲーム上では、仮想メモリのなかで戦う際に、主導権をとろうとして、アドレスをランダムに削除する攻撃が生み出されました。 またその一部は、自己複製も可能でした。こうして、コンピュータウイルス時代が幕開けました。

    1981年…「コンピュータウイルス」という言葉が、レオナルド・M・アドルマン(Leonard M.Adleman)教授(セキュリティ技術RSAの開発者の1人、「A」にあたる人物)によって、フレッド・コーヘン(Fred Cohen) との議論で使用されました。

    1982年…実際にウィルスの観測が観測され始めます。

    • アップルIIコンピュータをターゲットとした初のウイルスが、小規模なユーザーサークル内でフロッピーディスクを介して感染しました。 バグのためにこのウイルスはプログラム破壊を引き起こしました。 後のバージョンでは修正されました。
    • 初の「ItWIn the Wild、野生、つまり実験室の外で使われた)」ウイルスとして、エルク・クローナー(Elk Cloner)という名のウイルス(作成者はクローン型プログラムと呼んでいました)が登場しました。 詩の表示、反転表示や誤表示、カチカチという音でアップルやDOS 3.3のユーザーを苦しめました。 このウイルスはフロッピーディスクで広がり、別のOSに挿入したときに何らかの原因で使用不能になるという特徴がありました。
    •  ゼロックスのアルト研究所(Alto Research Centre)では、ヨン・ヘップス(Jon Hepps)とジョン・ショック(John Shock)は、最初のワームをプログラムしました。 それらは、計算を分散させて行うために使用され、ネットワーク内でのみ実行されました。 プログラムエラーのため、拡散を制御することができず、あっという間にコンピュータがコンフリクトしてしまいました。

    1983年…11月にフレッド・コーヘンがセミナーでウイルスの概念を初めて紹介しました。 コーヘンはわずか8時間で初のユニックスで動くウイルスを開発し、たった数分間ですべてのコンピュータにアクセスしました。

    1984年…フレッド・コーヘンが「コンピュータウイルスの実験」に関する初の論文を発表しました。 この論文は1986年に発表された博士論文「コンピュータウイルス:理論と実験」に収録されました。

    • ここで用いられたウイルスは、やや数学的な定義ですが、現在でも一般的に用いられています。 ただしこのときには「ウイルス」という言葉が現在持つネガティブなイメージはまだありませんでした。

     1985年…「野生」ウイルスが次第に世に出回り始めます。 しかし大半はジョークプログラムであり、コンピュータユーザーの動作に支障をきたすことはほとんどありませんでした。

    • そのなかで、トロイの木馬型のゴッチャ(Gotcha)は、ユーザーを非常に苦しめました。 このウイルスでは、グラフィックコンバータと思われるプログラムを起動すると、ハードディスクのデータが削除され、「Arf、Arf、Gotcha!」というメッセージが画面に表示されました。
    •  各国のハッカーグループも盛んにウイルスづくりに没頭していましたが、コンピュータウイルスがもたらす脅威はまだ現実的ではありませんでした。
    •  ベーシック(BASIC)言語で書かれたサプライズというプログラムは、コマンドラインで「kill~」を使うと、すべてアクセス可能なファイルが削除されました。 同時に、「サプライズ」という文字を表示しました。
    •  アップルIIコンピュータに感染するウイルスのソースコードが雑誌「アップル」に印刷されました。 同時にドイツのハッカーたちがウイルスに取り組みはじめました。 コンピュータウイルスとコーエンの論文に関するレポートを行った最初のドイツの雑誌、「バイエルンハッカースポット」(BAYERISCHE HACKERPOST)が刊行されました。 当時コンピュータウイルスと結びつけられた危険は、メインフレーム・コンピュータだけに関連しました。 パーソナルコンピュータに対する危険はまだ真剣に受け止められていませんでした。

    1986年…ウイルスが急激に世間の注目を集め、ジョン・マカフィー(John McAfee)をはじめとする多くのコンピュータ専門家が、ウイルス対策ソフトベンダーを立ち上げました。

    • DOSオペレーティングシステムで稼動する初のブートセクタウイルスが開発されました。 パキスタンのラホールでブレインコンピュータサービス(Brain Computer Services)という小さなコンピュータショップを経営するアルビ兄弟(Basit & Amjad Farooq Alvi)が、ソフトウェアを不正にコピーしたユーザーへのペナルティとして用いました。 ウイルスはパキスタン人学生を介して伝染病のようにアメリカの大学に広がりました。 ただし、プログラム自体は感染したフロッピーディスクディレクトリラベルをブレイン(Brain)に変更するという単純なものだったので、比較的無害でした。 それは、作者のアドレスを含む唯一のウイルスプログラムのままで残っています。
    • ラルフ・バーガー(Ralf Burger)が、ハンブルクのケイオス・コンピュータクラブのフォーラムでビルデン(Virdem)という最初のファイルウイルスを紹介しました。
    • 最初のトロイの木馬であるPCライト(Write)が登場しました。
    • ベルリン自由大学にあるメインフレーム・コンピュータが最初にウイルスに攻撃されました。 ケイオスコンピュータクラブは18カ月以内にウイルスの大流行があると警告しました。 アップルIIコンピュータのウイルスのソースコードが雑誌「コンピュータ・ペルソンリッヒ」(Computer Personlich)に印刷されました。 MS-DOSコンピュータのためのラッシュアワーRushhour)(B.Fixによる)というウイルスのソースコードが雑誌「デーテンシュライダー」(Datenschleuder)に印刷されました。

    1987年…ファイル(この時点ではCOMファイルのみ)を感染させるウイルスの数が増加しました。

    • ウイルスが初めて世間の注目を集めたきっかけはリーハイ(Lehigh)の登場によります。 リーハイは、コマンドドットコム(command.com)ファイルを感染させ、フロッピーディスクを4枚コピーすると、コンピュータの記憶媒体のデータをすべて削除するウイルスでした。 この過激な動作のためリーハイはすぐさま根絶されました。
    • リーハイの発生を経て、VIRUS-L(メーリングリスト)およびcomp.virus(ニュースグループ)が組織され、ウイルス戦争に関する主要な情報源になりました。
    • ニュージーランドウェリントンのある学生が、はじめて、しかも、最もうまくストーンド(Stoned)というブートセクタウイルスのコードを書きました。 それには、破壊的な有害な機能はありませんでした。
    • 最初のマッキントッシュウイルスがnVirとPeaceのフォーラムで紹介された後に、アップルは、あらゆるコンピュータにウイルス検索プログラムである「Virus-Rx」を搭載することを決めました。
    • 暗号化アルゴリズムを使用した初のウイルス、カスケイド(Casacade)が発生しました。 ドイツで発生したこのウイルスは、画面の文字を下に落として小さな山を作り、ファイルを完全に破壊するものでした。
    • ブートセクタを感染させ、断続的にメッセージを表示する、アミーガをターゲットとした初のウイルスが登場しました。
    • 雑誌「C’tドイツのコンピュータ技術雑誌)」に、アタリSTに関するウイルスの記事が登場しました。 また、ソースコードリストも印刷されました。 非専門家でも容易にウイルスを扱うことができるようになりました。 以降の新種ウイルスの流行は、ソースコードを公表すべきか否かについての議論の引き金となりました。
    • 12月には、悪意のないアメリカ人学生が、初のワームで世界中の電子メールのトラフィックとネットワークを麻痺させました。 このクリスマスツリー(Christmas tree)ワームは、画面にクリスマスツリーを描きながら、バックグラウンドでシステム内のすべての電子メールアドレスにワーム自体を送信するものでした。

    1988年…ネットワークコンピュータの増加を悪用した新種による初めての脅威がもたらされました。これまでもワームはネットワークの脆弱性を悪用してきましたが、ウイルス作者とアンチウイルス専門家の双方が戦いの準備を始め、アンチウイルスソフトウェアが生まれるのです。

    • インドネシアデニー・ヤヌア・ラムダニ(Denny Yanuar Ramdhani)が、デンズク(Den Zuk)というウイルスを作成し、ブレイン(Brain)ウイルスを検出した後除去しました。これが最初のウイルス対策ソフトとも言えます。
    •  マッキントッシュコンピュータをターゲットとした初のウイルス、マックマグ(MacMag)は、革新的な多くの新しい機能が搭載されていました。マックマガジンの編集責任者によって作成された、初の意図的なウイルスでした。また、データファイル(この場合はハイパースタックファイル)を感染させて広がる初のウイルスでもありました。とはいえこのウイルスは、メッセージを作成する以外は特に危害を与えませんでした。
    •  5月13日金曜日に、エルサレムで初の電子爆弾が爆発しました(実際には時限爆弾)。これはまったく新しい種類のウイルスでした。プログラムのバグを利用してファイルを繰り返し感染させ、ファイルが存在するだけでウイルスの検出が可能でした。循環システムはリーハイと同様のものでしたが、より効果的になり、COMファイルだけでなく、EXEファイルも感染させるようになりました。
    •  NSAのチーフコンピュータセキュリティ専門家の息子であるロバート・T・モリス・ジュニア(Robert T.Morris Jr.)によってインターネットワームが公開されました。この、モリス・ワームは、簡単なパスワードリストを使用して膨大な数のユニックスコンピュータにアクセスし、クリスマスツリーウイルスのようにワーム自体を転送しました。メールトラフィックとネットワークは再び停止状態に陥りました。ユーザーはなすすべもなく、いわゆる「インターネットワーム」に対抗できる手段は電話のみという状況でした。
    •  最初のウイルス作成キットがアタリST向けに作られました。その結果、パソコン初心者でさえ簡単にウイルスを生み出せるようになりました。
    •  ウイルスの全体的な増加、特に「インターネットワーム」に対抗するために、サート・コーディネーションセンター(略称CERT/CC、Computer Emergency Response Team/Coordination Center)がアメリカで設立されました。この機関は、現在に至るまでデータ保護とデータセキュリティ問題に関するサポートを提供しています。サートはイギリスやドイツをはじめとする他の国々でも設立されました。
    •  国内では、NECのパソコンネットPC-VANのBBS経由で送られたメールにウイルスが添付されて感染し、はじめて公式にウイルス感染が報告されました。また、富士通系列のソフトウェア会社でウイルスが侵入しデータを破壊しました。 

    1989年…データ犯罪がメディアを騒がせます。

    • マーク・ワッシュバーン(Mark Washburn)のビエナ(Vienna、V2Px)は多形性ウイルスの先駆けとなりました。このウイルスは、さまざまなコードで自らを暗号化し、デコーディングルーチンの形態も変化させました。アンチウイルスソフトウェアは、複雑なアルゴリズムでウイルスを突き止めようと試みましたが、誤報アラームを多発することになりました。結局、多くのアンチウイルスソフトウェア開発会社はお手上げ状態でした。
    •  7月にウイルス対策に関する専門誌ウイルスブリテンVirus Bulletin)の第1号が発行されました。その後この雑誌は、ウイルス研究者に最も信頼されている専門誌になりました。
    •  ブルガリアで、ダーク・アベンジャー(Dark Avenger)が2つの革新的な機能を公開しました。ひとつはファストインフェクターで、実行ファイル(当初はコマンドドットコム(Command.com)だけでなく、閲覧用に開いてコピーしたファイルも感染させました。つまり、非常に短時間でハードディスク全体を感染させるウイルスでした。もうひとつはハードディスクの各セクタを不定期に上書きするもので、この行動はほとんど検出できませんでした。このため、ウイルス感染対策としてバックアップを作成しても効果がありませんでした。
    •  ハイファ(イスラエル)では、最初のステルスウイルスであるフロード(Frodo)が発見されました。これは特定の年の9月22日以降にPCのハードドライブを破損するという仕組みでした。しかし実際は、感染しても正しく機能しませんでした。
    •  パナマに拠点を置くPCサイボーグが、エイズAIDS)に関する情報と称してトロイの木馬フロッピーディスクで配布しました。エイズは、オートエグゼドットバット(autoexec.bat)ファイルを置き換え、特定の回数(90回)再起動を行うとハードディスクが暗号化され、暗号解除コードの請求書をユーザーに提示するというものでした。
    •  国内では、東大地震研究所と海洋研究所のマッキントッシュにnVirが侵入しました。またクリスマスに「A merry christmas to you!」というメッセージを表示させる国産のウイルス「DApm-2」がNECのPC-9800誌リースで発見されました。

    そして1990年以降ウイルスの開発が流行し、VX(Virus Exchange掲示板で新旧のウイルスが交換される様になります。ドイツのウイルス愛好家団体がDOS用の初のウイルス作成キットを配布し、アマチュアでもカスタムウイルスを作成できるようになりました。一方1990年12月にエイカー(EICAR、European Institute for Computer Antivirus Research)設立。この機関は現在でもウイルス対策とウイルス作成者との戦いにおいて重要な役割を果たしています。

    また、AIDS(後天性免疫不全症候群)が発見され、これを巡る同性愛者迫害が表面化してきたのもこの時代。

    「この程度の傷、たいしたことではない。」
    男は、心の中でつぶやいた。チンパンジー狩りには困難がつきものだ。引っ掻かれ、噛みつかれるのには慣れている。今回の狩りがこれまでと違っていたのは、狩りの最中に負った傷にチンパンジーの返り血を浴びたことくらい。
    「いつものことだ。」
    男は再びつぶやき、いつものように家路を急いだ。

    男の思いもよらないところで、この狩りは、いつものものとは2つの点で異なっていた。1つは、獲物となったチンパンジーSIV(サル免疫不全ウイルス)に感染していたこと、もう1つは、返り血を浴びた男が種の壁を越えてSIVに感染したこと。この違いが、人類の運命を大きく変えた。そう、1921年に中部アフリカで行われたこの狩りこそ、中世ヨーロッパの黒死病以降、人類最大の「疫病」となったエイズの起源なのだ。

    1981年に初めてエイズが報告されて以降の歴史については、多くの学術論文や書籍が論じてきた。しかし、1981年以前のエイズの歴史については、ほとんど語られることがなかった。そのため、エイズの起源に迫る初の試みとなる本書の内容は、エイズ研究の専門家たちからも高く評価されている。膨大な調査から導かれたファクトとそれを巧みにつなぎ合わせるロジック、更には索引や参考文献も完備されていることを考えれば、4,000円(+税)という本書の価格も決して高くない。

    それでは、アフリカの森深くに住むハンターが「患者ゼロ」だったのだとしたら、どのようにHIVは拡大していったのか。ペパンは、初期の拡散には1900年代初頭の仏領植民地での医療政策が大きな役割を果たしていたことを明らかにする。人々を苦しめる熱帯病の撲滅を目指した政府の善意、患者を救いたいという医師の熱意が、HIVを森の奥から連れ出してしまったのだ。また、植民地における歪んだ都市の人口構成(男女の不均衡)も、売春の隆盛を呼び込むことでHIVの流行に一役買っている。そして、HIVがハイチへと脱アフリカを成し遂げたとき、パンデミックは不可避のものとなった。様々な偶然がどのように積み重なっていったのか、謎は着実に解き明かされていく。

    AIDS/STI-related database Japan エイズ/STI関連データベース

    1981年…米国疾病対策センターCDC)が初の症例報告 

    1982年…AIDS(後天性免疫不全症候群)と命名される・性行為、血液、母子感染によって感染する疾患と判明。

    1985年…AIDSの原因ウイルス発見(ヒト免疫不全ウイルス[HIV]と命名)。 同年日本で最初のエイズ患者認定

    1986年エイズサーベイランス委員会発足(1996年にエイズ動向委員会に改称

    1987年…米国CDCがAZT(ジドプジン)をエイズ治療薬として承認・世界保健機関WHO)に世界エイズプログラム設置 ・エイズ対策関係閣僚会議でエイズ問題総合対策大綱決定・財団法人エイズ予防財団発足

    1988年…第1回世界エイズデー

    1989年後天性免疫不全症候群の予防に関する法律(エイズ予防法施行)施行

     1994年〜1995年 …多剤併用療法(HAART療法)の有効性が証明される。同年、日本では第10回国際エイズ会議開催(横浜)。 

こうした「線引き」問題について改めて掘り下げて考察してみる必要がありそうです。「自由「Liberty=認可の獲得」と「Free=制約からの解放」の複合概念とは何か」について、本質的考察を要求される内容…