1950年代から1970年代にかけての激動の日本音楽史…
ところが結局、これだけ大々的に騒いだのに1970年代から1980年代前半にかけて「ブリティュシュ・ビート(日本におけるNewromanceとLondon Pankの独自のFusion形態)」や「黎明期テクノ・サウンド(YMO、それもスティーブ・ストレンジが英国に初めて紹介した頃のオリエンタリズムを前面に押し出してた頃)」に色濃い影響を残した「ズンドコベース」の大源流が何処かについては何の手掛かりも得られなかったのでした。
ブリティッシュビート(British Beat) - Wikipedia
こういうケースでは概ね、そもそも最初の設問が間違っているものです。
*敗因は英国に目を向け過ぎた事?
①そもそも「ドリフのズンドコ節(1969年)」以前のズンドコ節に「ズンドコしたベースライン」は存在しておらず、しかもそれは当時フランスで大流行したセルジュ・ゲンズブール作曲「Laisse Tomber Les Filles(1965年)」に酷似している。つまりこの流れ、そもそもフランス起源だったとしか考えられない?
そもそも日本の歌謡曲「涙の太陽(1965年)」の元イメージがフランス映画「太陽がいっぱい(Plein soleil、1960年)」だった事も思い出す。
*「♪乗ってけ、乗ってけ、乗ってけサーフィン…」の時代。
*こうした曲調のメジャー化が、イタリア発の「黒猫のタンゴ(Volevo un gatto nero、1969年)」の国際的大ヒットにつながっていく訳である。
*そしてタンゴ調の伝統が「ドラドラ子猫とチャカチャカ娘(Josie And The Pussycats、1069年)」の日本語版を経て「美少女戦士セーラームーン(1992年〜1997年)」OPに継承されていく。
*ちなみに「ドラドラ子猫とチャカチャカ娘」、オリジナル版にもフィンガー5的良さが。
- 実際「ホラー系Jazz+Funk music」系譜に位置付けられる永井豪原作「どろろん閻魔くん(1973年〜1974年)」や「(視聴者からの抗議で放送中止に追い込まれた)たべちゃうぞ(1975年)」といった曲調に「怪奇ディスコ」Hot Blood「ソウル・ドラキュラ(1976年)」との連続性が感じられる。エロい…
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(私がこれまでズンドコベースの典型として挙げてきた)YMO「中国女(La Femme Chinoise、1978年)」はジャン=リュック・ゴダール監督映画「中国女(La Chinoise、1966年)」の影響を色濃く受けており、そもそも(細野晴臣オリジナルの)ズンドコベース」というより「フランス風ベースライン(French Baseline)」と呼ぶべきとも。
*何ともう「Solid State Survivor(1979年)」の時点でズンドコしてない。 -
実際「ズンドコ節」は21世紀にフランスで改めて大流行している。ある種の里帰りといえそう?
②その一方で「御洒落なMidnight City Beat」には全く異なる起源が存在する。
- 1970年代前半を席巻したフィラデルフィア・ソウル(Philadelphia (or Philly) soul)。
フィラデルフィア・ソウル(Philadelphia (or Philly) soul) - Wikipedia
'70年代前半に一世を風靡したフィラデルフィア発のソウルミュージックの一形態。作品の大半がシグマ・スタジオで制作されたことによりシグマ・サウンドとも言われる。ストリングスを要した華麗で柔らかく甘めのサウンドが特徴である。それまでのソウル、R&Bをより洗練された都会的雰囲気のサウンドに変貌させた。
- ロックンロールが隆盛下のフィラデルフィアでは、黒人人口が多い割にはソウルは栄えず、アイドル歌手等による白人のポップ・ミュージックがヒットしていた。1950年代後半から1960年代前半にかけて、勢力があったレーベルはフィラデルフィアで唯一のレーベルであったキャメオ・パークウェイのみであった。扱っていたのはボビー・ライデルらの芸能人的アイドル歌手や、流行のダンス・ミュージックであり、白人受けしたものであったが、このレーベルも1968年には倒産する。
- このレーベルに替わり、フィリー・サウンドを作ったのが、フィラデルフィア・インターナショナル・レコード(PIR)である。このレーベルは、1971年にケニス・ギャンブルとリオン・ハフによるプロダクション・チーム「ギャンブル&ハフ」により設立され、コロムビア・レコードと配給の契約をした。オージェイズ、ビリー・ポール、ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツや、後にソロとなったテディ・ペンダーグラス等が代表的なミュージシャンである。彼等のサウンドを特徴付けるのはストリングスやブラス・アンサンブルであり、これはPIRのハウス・バンド「MFSB(Mother Father Sister Brother)」によるものである。MFSBのヒットにはスリー・ディグリーズの歌をフィーチャーした「ソウル・トレインのテーマ(1974年)」がある。
フィリー・ソウルを仕立てたフィラデルフィア・インターナショナル・レコード(PIR/Philadelphia International Records)のハウス・バンド、MFSBによる流麗なサウンドが、ヴァン・マッコイやバリー・ホワイトらに影響を与えた。PIR以外でもヒットしたミュージシャンにスピナーズやザ・スタイリスティックスがおり、PIRのプロデューサー、トム・ベルが一役を買った。
あれ、意外にも「太陽にほえろ!(1972年〜1986年)」 のOPデーマと近似?
- ロックンロールが隆盛下のフィラデルフィアでは、黒人人口が多い割にはソウルは栄えず、アイドル歌手等による白人のポップ・ミュージックがヒットしていた。1950年代後半から1960年代前半にかけて、勢力があったレーベルはフィラデルフィアで唯一のレーベルであったキャメオ・パークウェイのみであった。扱っていたのはボビー・ライデルらの芸能人的アイドル歌手や、流行のダンス・ミュージックであり、白人受けしたものであったが、このレーベルも1968年には倒産する。
- それと同時進行でデトロイトにおいてモータウン・サウンド(Motown Sounds 1950年代末〜1990年代前半)の華麗な世界が展開。
リズム&ブルースからソウル=ミュージックへ
ロック=アンド=ロールの生みの親である,黒人のR&Bは,ロック=アンド=ロールの商業的成功の陰で,白人音楽に軒を貸して母屋を取られた形になり,衰退の一途をたどっていた。しかし,1958年“北部の”デトロイトで設立され,60年代になるとスモーキー=ロビンスン&ミラクルズ,スティーヴィー=ワンダー,シュープリームス(中心はダイアナ=ロス)を擁し一大黒人音楽帝国を築いたモータウン=レコードが大成功を納めると,黒人音楽も転換期を迎えた。モータウンは,いまだエスニックな趣を強く残していたR&Bに,白人音楽の要素を取り入れ,60年代の公民権運動(黒人差別撤廃運動)の中で,社会的にも経済的にも徐々に地位が向上してきた黒人中産階級の要求に応えるヒット曲を量産した。この頃から黒人音楽は,R&Bから“ソウル=ミュージック”と呼ばれるようになった。この時代,質・量ともにアメリカでブリティッシュ=インヴェイジョンに対抗できたポピュラー音楽は,このモータウンのソウルのみであったと言ってよいだろう。
*ある種の最終到達点の一つはHiphop/サンプリング音楽のUS3「Cantaloop」だったとも。
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そして日本は「1980年代シティポップ」の世界へ…
*エロ成分は若干控えめ?
とりあえず今はこう考えてみる事に…