概ね日本の児童向けTV番組の主題歌は「(見世物小屋やサーカスや華やかなショービズの裏側に鬱積するルサンチマンを投じた)ジャズの時代(〜1960年代前半)」「(外国文化の紹介者として機能した)エレキの時代(1960年代後半)」「(無政府的自由と旅の漂白を込めた)Funk&マカロニウェスタンの時代(1960年代末〜1970年代初頭)」といった変遷を辿ってきたのです。
日本のレコード業界の停滞を招いてきた専属作家制度へのヴィオランスという側面もあったのかも?
ワタシは本ブログで戦前モダニズムのことを書いています。
今のところ日本に限定して書いているのですが、もう少し広げて海外のことも書かなきゃな、と。でないと何故戦前にレビュウの舞台が花開いたかわかんないなとね。
日本のレビュウの源流はふたつあって、ひとつはパリのレビュウショウ、もうひとつはフレッド・アステアのレビュウ映画です。とくに戦前の日本人を、いや世界中の人々を熱狂させたのが、数々のフレッド・アステアのレビュウ映画で、後世にも多大な影響を残しました。翻って我が日本はというと、以前書いた通り、戦後は宝塚歌劇など一部を除いて日本におけるレビュウ文化は萎んでしまいました。たしかに積極的にというかムーヴメントになるほど舞台でも映画でもレビュウが作られた形跡はありません。
が、1953年から始まった新興産業であるテレビジョンは戦前のレビュウ文化を引き継ぐ存在になっていきます。
とくに日本テレビはウエスタンバンドで活躍していた井原髙忠がいたため音楽に強い局として、数々のバラエティー番組を作っていったのです(ちょっと信じられないけど、当時の日本テレビ音楽班の主要ディレクターは、ほぼ全員楽譜を読めたってんだから凄い。カット割りも小節を元にやってんだから。そりゃ音楽的なクオリティは高いわな)。
一応念のために書いておきますが、バラエティー番組とは昨今のものとはまったく異なり、音楽とギャグがサンドイッチ状になった番組のことで、これは当然舞台のバラエティーショウから来ています。
音楽があればダンスがある。映像を見せるテレビなんだからこれも当然で、井原髙忠は「音楽」「ダンス」「笑い」を一体にしたモダンな「光子の窓」などを手がけることになります。
井原髙忠の番組のチーフADだった秋元近史は渡辺プロダクションと組んで、後に「シャボン玉ホリデー」と題される番組にとりかかります。
秋元近史は、モダンすぎてハイブロゥになりがちだった井原髙忠の路線に若干大衆味を加えて、モダンさは保ちながらも、より親しみやすい番組作りをしていきました。(などと見てきたかのように書いてるけど、当然ワタシの年齢ではリアルタイムでは見られるわけがない)
「シャボン玉ホリデー」は全体の構成も、井原髙忠番組よりさらにわかりやすく、レビュウとコントのサンドイッチ状で、コントは主にクレージーキャッツが、レビュウはザ・ピーナッツが中心になってやっています(もちろんコントにもピーナッツが、レビュウにもクレージーが出てきますが)。
レビュウにおいては、振り付けは小井戸秀宅、音楽は宮川泰という超強力な布陣を揃えて、どこに出しても恥ずかしくない国産レビュウを創造していきました。小井戸秀宅と宮川泰はふたりがかりで、少し歌が上手い程度だった名古屋出身の双子(いうまでもなくザ・ピーナッツ)を超一流のレビュータレントにまで育て上げたんだからすごい。むろんピーナッツ自身に才能があったからこそ、ですが。
これはもう系譜、といっていいと思うのです。
戦前のレビュウ文化は、間に井原髙忠の「光子の窓」などを挟みつつ、「シャボン玉ホリデー」の中で生き続けた。が、何度も書くけど、これらの仕事が如何に偉大なものだったか、自覚があったかどうかはともかく、いろんな事情でまったくVTRが残ってないってのはもったいなさすぎる話なのです。
ハナ肇とクレージーキャッツ(1955年〜) - Wikipedia
1960年代に一世を風靡したコミックバンド。バンド結成時にその資金を出したのが渡辺晋であり、そのため、結成当初から渡辺プロダクションに所属した。無名時代からクレージーファンで、一時期はクレージーのブレーン役でもあった小林信彦は、「クレージーで一番面白いのは『生』、次が『テレビ』、一番面白くないのが『映画』」と語っている。著名なファンに「実年行進曲」を作曲した大瀧詠一や植木とドラマで共演したこともある所ジョージ、声優の関智一、サザンオールスターズの桑田佳祐、シンガーソングライター兼俳優の星野源が挙げられる。「この際カアちゃんと別れよう」なるというオリジナル曲もあるが、実際のメンバーは全員良き家庭人であり、スキャンダルや人格批判にはほとんど無縁というグループでもあった。
- 1955年の結成後、ジャズ喫茶での音楽ギャグで人気を博し、『おとなの漫画(フジテレビ、1959年〜1964年)』、『シャボン玉ホリデー(日本テレビ)』などのテレビ出演をきっかけに人気が爆発した。
おとなの漫画(フジテレビ、1959年〜1964年) - Wikipedia
シャボン玉ホリデー(1961年〜1972年、1976年〜1977年、提供牛乳石鹸) - Wikipedia
主にジャズのSP・LPレコード音源をかけ、客は鑑賞を主目的として来店する形式の喫茶店。昭和初期にもジャズの普及と共にはじまったが、戦争により一時消滅。戦後まもなく再開して1960年代に隆盛を迎え、1970年代に下火を迎えた。諸外国ではほとんど見あたらず、日本特有の形態であるとされる。
- 1950年代は輸入盤のジャズのLPが高価であったため、何千何万枚もの所蔵レコードがある店もあり、コーヒー1杯で本場のジャズのレコードを聴け、リクエストも受け付けてくれるジャズ喫茶はジャズファンやミュージシャンの溜まり場ともなっていた。現在、プロとして著名な日本人ジャズミュージシャンの中にも「開店から閉店までコーヒー1杯でねばった」という人もいたという。
- 家庭ではなかなか揃えることのできない高価なオーディオシステムを装備し、音質の良さを店の特徴としたり、経営する「名物オヤジ」の独自のジャズ観・口調を売りにしていた店もあった。現在でもその傾向は一部の店で受け継がれている。
- 一部にはジャズ以外にもカントリーやロカビリー、グループ・サウンズ、ロックなど、幅広いジャンルの音楽を聴ける店もあった。そしてこれらのジャンルのライブステージ主体の音楽喫茶もジャズ喫茶とよばれていた
- 近年ではレコード音源鑑賞を主とするジャズ喫茶は衰退し、経営形態が多様化。営業開始時間を夕方以降に遅れらせてジャズを聴きながら酒を呑むジャズバー、定期的にジャムセッションを開くジャズライブバー、若年層・女性をターゲットとするレストラン風の店などが現れてきた。なお、世相の影響を受け、伝統的なジャズ喫茶の形態でも禁煙店が増えている。
現在、営業中のジャズ喫茶、ジャズ・バーは全国で約600軒。その約9割はレコードでの再生をしている。
*この時代の時代のバラエティ・ショーでは「ロマンティック」という言葉が「おセンチ(Sentimental=感傷的)」の同義語として使われてる。
*「センチメンタル」については既に終戦直後にはもう大坪砂男(虚淵玄の祖父)が(しばしばタフな私立探偵が運命の女に翻弄される)米国ハードボイルド文学を「泥の大海に蓮乗の花を探すが如き感傷主義」と表現している。つまり起源はあくまで「タフでなければ生き延びられない。タフなだけでは生き延びる資格がない」の世界。実は1960年代前半に一斉を風靡したクレージーキャッツの流行歌には「涙で男を騙して破滅させる女」を戯画化したケースが多い。
*TV系サイバーパンク文学における「Artistic(凝り性)」「Neuromantic(神経症的ロマン主義。音楽ジャンルNew Romanticに掛けてある)」、士郎正宗「攻殻機動隊(GHOST IN THE SHELL、原作1989年〜、映像化1995年〜)」における「死神」。ハードボイルド文学でよく描かれる「手段を選ばず戦い続ける形でしか生き延びられない非情の世界の住人を、或る日突然捕まえる致死性の病」といったニュアンス。
*1980年代の商業至上主義はこれを恋愛至上主義と結びつけてたドラマや音楽を量産する様になっていく。あえて両者の接点となる大源流を上げるなら、業病で早逝するヒロインとの恋を主題に選んで大ヒットした実録往復書簡集「愛と死をみつめて(1963年出版、吉永小百合主演による映画化1964年)」や、映画封切りに合わせ角川春樹自らがメディアミックス効果を狙って小説版を翻訳した逸話で知られるエリック・シーガル「ある愛の詩(Love Story、1970年)」辺り。
*あぁ、眼帯美少女の起源に思わぬ大物が…
映画でもクレージーの出演作は東宝のドル箱シリーズとなり(東宝クレージー映画)、挿入歌として発表されたシングル『スーダラ節』『ハイそれまでョ』『ドント節』なども軒並み大ヒットを記録する。
*数多くのコミックソングを世に送り出した。グループ名義の楽曲は、大半は植木の独唱であるが、サビの部分のみメンバー全員で合唱する場合もある。デビューシングルの「こりゃシャクだった」にはメンバーによる寸劇が挿入されている。「五万節」「ホンダラ行進曲」「悲しきわがこころ」「新五万節」は植木を含む全メンバーが1コーラスずつ歌っている。また「実年行進曲」は全員の合唱・谷・ハナ・植木の順で1コーラスを4小節ずつ歌い継ぐ構成になっている。- しかし、1965年を過ぎた頃から、植木・ハナ・谷・犬塚ら主要メンバーの個人活動が多くなっていく。1971年1月に石橋エータローが脱退後、4月 - 9月末に諸事情から『8時だョ!全員集合』のつなぎとして企画された『8時だョ!出発進行(TBS)』へのレギュラー出演を最後に、グループとしての活動機会は目に見えて激減した。1980年代以降は、コメディアンというよりは各メンバーとも俳優としての性格が濃くなり、グループとしては実質的な解散状態を迎えていた。
- その後、1993年9月にリーダーのハナ肇、94年に石橋エータロー、96年に安田伸が死去した。それでも、メンバーの半分以上は存命で、2006年には新曲も発表しているが、翌2007年以降メンバーの他界が相次ぎ、現在存命のメンバーは旧メンバーを除くと犬塚弘ただ一人となっている。そのため、幾つかの文献で「既に解散したバンド」として扱われているが、グループとしての活動が出来ないだけであり、現在も解散していない現役のバンドである。
所属事務所、渡辺プロダクションの後輩にはザ・ドリフターズやザ・ピーナッツ(クレージーを含めたこの3グループで「ナベプロ3大タレント」と言われることもある)がいる。ザ・ドリフターズが1964年に再結成した際に、メンバー全員の名付け親となったのはハナ肇である。また、ザ・ピーナッツとは映画や番組での共演が多数あった。なお、渡辺プロダクションは、1960年代に数多くの人気タレントを抱えていたことで、反発を買うケースも多かったようだが、事務所の黎明期から在籍し、才人ぞろいのクレージーキャッツとザ・ピーナッツが同プロダクションの看板タレントであったことが、その反感をやわらげる上で大きく役立った面もあったようである。
「かっぱの唄<黄桜>(1959年〜1980年)」…おっぱいむきだし画像が公然とお茶の間を流れていた時代の産物。
- もちろんそこには「(飲酒による酩酊によってのみ到達可能な)現実世界から全く乖離した桃源郷の話だから」という言い訳が存在したのである。ちなみに高橋留美子「うる星やつら(1978年〜1987年)」にも「河童桃源郷」回があり、これには(別ワールドたる「エマニエル夫人(Emmanuelle、1974年)」由来のドリフコント「ちょっとだけよ」や南国桃源郷イメージ由来の)ラムが登場してない。
「007 ドクター・ノオ(Dr. No、原作1958年、映画化1962年)」…4ビートJazzとエレキギター・サウンドの結びつきはこの時代まで遡る。実は物語の舞台に選ばれたジャマイカの音楽が世界に広まる契機となった作品でもあった。
*ちなみにジャン=リュック・ゴダール(Jean-Luc Godard)の「勝手にしやがれ(仏À bout de souffle、英Breathless、1959年)」「気狂いピエロ(Pierrot le Fou、1965年)」がこんな感じ。ある種の典型的フィルム・ノワールからの脱却期。最初の契機となったのが日本の太陽映画というのが興味深い?
- もちろんいうまでもなくレゲエは黒人音楽の大源流の一つ。
1959年に自治権を獲得し、1962年に英連邦王国として独立を果たしたジャマイカでは、これを機にミュージシャンが自らのアイデンティティを象徴する音を模索し始めた。そしてサウンドシステムやプロデューサー間の競争が激化したことによって生まれた音楽がスカであった。
スカは、カリプソ、メント等の従来のジャマイカ音楽に、ジャズやリズム・アンド・ブルースなどのアメリカ合衆国の音楽が融合し誕生した。ウォーキングベース がリズムをリードする点、ホーンセクションが主旋律を担当することが多い点などはジャズと類似しているが、ビートがジャズのようにシャッフルせず、1小節の2拍目と4拍目にイーブンにアクセントを置くアップテンポな裏打ちのリズムはスカ特有のものである。
スカ誕生によってジャマイカ音楽は新たな時代を迎え、ヒッグス・アンド・ウィルソン「マニー・オー(Manny Oh、1959年)」は2万5千枚を超える売上を記録し、ジャマイカの音楽産業における最初のヒット曲となった。また 、同年プリンス・バスターがプロデュースしたフォークス・ブラザーズ 「オー・キャロライナ (Oh Carolina、1958年)」はカウント・オジーによるナイヤビンギドラムを取り入れており、ラスタファリ運動の精神をジャマイカ音楽に反映させた最初の楽曲であった。
中国系ジャマイカ人 のバイロン・リーが映画『007 ドクター・ノオ(1962年公開)』に出演したことなどをきっかけに、スカはジャマイカの上流階級や海外にも徐々に認知を広げていった。 1964年には当時のジャマイカで最も有名なスタジオミュージシャンであったドン・ドラモンド、ジャッキー・ミットゥらによってスカタライツが結成され。また同年にミリー・スモール の歌った「マイ・ボーイ・ロリポップ(My Boy Lollipop) 」は全世界で600万枚を売り上げる国際的ヒット曲となり、スカ人気は頂点に達した。しかし、そのわずか二年後の1966年後半にはスカ人気は終焉することとなる。
ロック・ステディ(Rock Steady)の登場
1966年に発表されたホープトン・ルイスによる「テイク・イット・イージー(Take It Easy)」やアルトン・エリス「ロック・ステディ(Rock Steady)」などの楽曲を端緒にジャマイカではスカに代わりロックステディが流行する。
スカよりも遥かにゆっくりとした新しいリズムワンドロップを強調するドラム、シンコペーション感覚のあるメロディアスなベースラインと、甘く滑らかなサウンドを特徴とする。ロックステディのテンポがスカよりも遥かにスローダウンした理由は、単なる音楽的流行の変化という説と、1966年の夏にジャマイカを襲った激しい熱波によって、人々がアップテンポなスカではダンスすることが出来なくなったためという説、さらにスカタライツのメンバーであったドン・ドラモンドが起こした殺人事件を機にスカへのバッシングが行われたためという説がある。
このロックステディ期にはインプレッションズなどのソウル・ミュージックに影響を受けウェイラーズ、ヘプトーンズ、テクニクス、パラゴンズ などのトリオによるコーラスグループが流行した。さらにジャマイカ国内の社会状況の悪化などの影響からデリック・モーガン「タファー・ザン・タフ (Tougher Than Tough)」やプリンス・バスター「ジャッジ・ドレッド (Judge Dread)」などのルードボーイ(不良少年)を主題とした歌詞が流行した。
レゲエの誕生
ロックステディの流行は短命に終わり、1968年にはレゲエが取って代わった。「レゲエ」という言葉が最初に用いられた曲はメイタルズ「ドゥ・ザ・レゲエ(Do the Reggay、1968年)」であるが、最初にレゲエの音楽的特徴が取り入れられた楽曲ははっきりしていない。
メント風のリズミカルなギターにブールーやクミナ風のパーカッションを取り入れたリー・ペリー「ピープル・ファニー・ボーイ(People Funny Boy)」や、電子オルガンとディレイのかかったギターが特徴のラリー・マーシャル「ナニー・ゴート(Nanny Goat)」、レスター・スターリン「バンガラン(Bangarang)」、パイオニアーズ「ロング・ショット(Long Shot)」、エリック・モンティ・モリス「セイ・ホワット・ユア・セイイング(Say What You're Saying)」などの1967年から1968年に発表された作品群はロックステディからレゲエへの変化が顕著に現れている。
ゆったりしたワンドロップ・リズムこそロックステディ期と同一だったものの、シンコペーションのある裏打ちを刻むギター・オルガンと、ベースラインの対比よりによってそれ以前のジャマイカ音楽とは異なるレゲエ特有のアンサンブルが完成した。この変化について1962年から1968年までジャマイカで活動したトリニダード・トバゴ出身のギタリストリン・テイトは「ロックステディはコモンタイム、レゲエはカットタイム 。フレージングが全く違う」と証言している。
この変化の要因としてはリン・テイト、リコ・ロドリゲス、ローレル・エイトキン、ジャッキー・ミットゥらスカ、ロックステディ期に活動したミュージシャン達が国外に移住したことや、各種エフェクターや録音機器の進歩と、それに伴うリー・ペリー、キング・タビー、バニー・リーら新興プロデューサー達の台頭があった。遂に自前のスタジオを持つことがなかったバニー・リーをはじめ、彼らの多くは楽曲制作において一層経済性を重視したため、コストのかかるホーンセクションの出番はスカ時代より減っていった。
同時に歌詞の内容もアビシニアンズ「サタ・マサガナ(Satta Massagana)」やエチオピアンズ「エブリシング・クラッシュ(Everything Crash)」をはじめとする黒人としての誇りや社会問題について歌うものが多くなっていったが、その背景には1966年のハイレ・セラシエ1世ジャマイカ訪問や西インド諸島大学に在籍したガイアナ人講師のウォルター・ロドニー らの活動によってよりさらに勢力を増しつつあったラスタファリ運動や、同年独立を記念しジャマイカ政府によって創始された「フェスティバル・ソング・コンテスト」による文化的ナショナリズムの高揚、さらにジャマイカ労働党による経済政策の失策による景気・治安の悪化や、アメリカ合衆国で高まりを見せつつあった公民権運動やネイション・オブ・イスラムの流行などの様々な要因があったのである。
*当時レゲエの影響を受けた曲としては「ザ・ビートルズ(通称ホワイト・アルバム、1968年)」収録の「オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ(Ob-La-Di, Ob-La-Da)」が有名。
オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ(Ob-La-Di, Ob-La-Da) - Wikipedia
本作は発表された当初はカリプソ・ソングに曲調が似ていることから「ビートルズ初のカリプソ・ソング」と宣伝されていたが、後にレゲエ・ソングに似ていることから「ビートルズ唯一のレゲエ・ソング」とも言われるようになった。この曲は日本、オーストリア、スイス、オーストラリアなどでも大ヒットした。しかしながら、2004年にインターネット上で行われた「50 Worst Songs Ever!」という投票において1位を記録している。
歌詞は「市場に勤めるデズモンド・ジョーンズと、バンドで歌手をしているモリーが恋をして結婚する物語」を歌ったものである。ただし4番の歌詞は「デズモンドとモリーが逆になり、モリーが子供たちと一緒に市場で働き、デズモンドが化粧をしてバンドで歌う」というものになっている。これは収録の際にポールが間違って逆に歌ってしまい、録り直そうとしたところジョン・レノンが「この方が面白い」と発言してそのままにしたと言われている。デスモンドは、レゲエのデスモンド・デッカーから名前を取っている。
アコースティック・ギターを弾くときに意図的に録音機器の入力限界を超えた音を出し、締まった音を出している。イントロのピアノはジョン・レノンの演奏である。収録の際にポールから度重なる録り直しを要求されて嫌気がさしたジョンがトランス状態でやってきて、力任せに弾きなぐったものである。このような事情からジョンは本作を非常に嫌っている。また、ジョージ・ハリスンも「覚えていることといったら何回もやり直しさせられたことばかり」と発言している。この時期メンバーの仲は非常に悪く、本作のヴォーカル収録に際してポールがプロデューサーのジョージ・マーティンに横柄な態度をとったため、エンジニアのジェフ・エメリックが翌日の「クライ・ベイビー・クライ」のレコーディング途中で帰ってしまったというエピソードが残っている。
ピンク・パンサー(The Pink Panther 1963年〜) - Wikipedia
1963年のアメリカ映画『ピンクの豹』を第1作とする映画シリーズ.。
「クルーゾー警部」、「アニメキャラクターのピンクパンサー」、テーマ曲「ピンク・パンサーのテーマ」の3大ヒットを生み出した、20世紀後半を代表するコメディ映画の大ヒットシリーズである。製作国は第2作まではアメリカ、第3作以降はイギリス。シリーズ全作通じて監督はブレイク・エドワーズで、音楽はヘンリー・マンシーニが担当した。
第1作『ピンクの豹』はデヴィッド・ニーヴン演ずる怪盗ファントムを主人公とし、世界屈指のダイヤモンド「ピンク・パンサー」をめぐるロマンティック・コメディとして製作された。しかし、準主役であったピーター・セラーズ演ずるパリ警察のクルーゾー警部のキャラクターが好評であったため、クルーゾーを主役としてシリーズ化された。2作が製作された後、11年の空白があったが、1975年に再開。セラーズの生前に5作、没後にも3作の合計8作が製作された。2006年からはスティーヴ・マーティンがクルーゾーを演じるリブート版が製作されている。
また、オープニングのアニメーションに登場するピンク色の豹のキャラクターが人気を博し、1964年以降、実写映画とは独立したアニメーション作品が、映画及びテレビアニメとして数多く製作された。
ロシア民謡「1週間」が「みんなのうた」で紹介される(1963年)
ロシアの民謡で原題は「Неделька」(ニェジェーリカ、「週」)。女性の一週間の様子を歌ったロシア民謡で、作詞・作曲者は不詳。19世紀頃に成立。
日本では「楽団カチューシャ」による訳詞(1954年)が有名で、その内容はロシア語原詞を比較的忠実になぞったものである。この他訳詞担当は不明だが、「日曜日はにこにこ」「月曜日はげんきに」と、曜日のだじゃれで構成されたのも有った。
1963年4月にはNHKの『みんなのうた』で紹介 。編曲は若松正司で、歌はボニージャックスが担当した。2016年12月現在音声のみ見つかっており、映像は見つかっていない。同年8月にはボニージャックスの歌唱でキングレコードからシングル発売され(品番はEB-921、モノラル録音)、同年12月の『第14回NHK紅白歌合戦(1963年12月31日)』でもボニージャックスにより披露されている。また、同じくNHKの『おかあさんといっしょ』『歌はともだち』『歌のメリーゴーラウンド』『ドレミノテレビ』などでも歌われた。
2015年3月22日から、JR西日本大阪環状線野田駅の発車メロディに採用されている。楽団カチューシャの訳詞にある「日曜日は市場に出かけ」という歌詞と、大阪市中央卸売市場本場の最寄駅であることにちなむ。
- 日本で歌われた歌詞から原曲のデンジャラスな原義は完全に失われ、その結果として歌詞が全体として意味不明になった。
この曲の時代背景は1890年あたり。ロシア革命前夜というべき時代で、ロマノフ王朝が倒れつつありソヴィエトに移行する混乱過度期。
男達は内乱の興奮の中で死んでゆくのに、私は毎日の夢のない退屈な生活を送って別の形で死人同然。恋人よ、早く私をこの町から連れ出して!! そのような 田舎の素朴な娘さんの心境を歌ったものと解釈できます。
これは当時よくあった事。ニューオリンズを「終着点」とする「朝日のあたる家(House Of The Rising Sun)」も「ギャンブラーに恋をして身を持ち崩した売春婦の後悔混じりの回想」を歌う民謡版が、国際的に大ヒットしたアニマルズ版(1964年)では「少年院送りとなった少年の回想」の歌に強引に改変されてあちこちが意味不明となり、ベンチャーズ版ではとうとうインストゥルメンタルにされてしまった。
「家出娘の破滅の歌」といったらCab Calloway「ミニー・ザ・ムーチャ(Minnie The Moocher 、1931年)」を連想させる。密造酒と秘密酒場で大儲けするギャングと、彼らに群がるフラッパー・ガール(Flapper Girls)達が幅を効かせた禁酒法時代(Prohibition Age、1920年〜1933年)の落とし子。当時制定された史上初の映像統制コードHays Code(1930年制定、1934年〜1968年履行)は、こうした人々を映画の中で美化して描くのを禁じ、かつ物語中で悲惨な最後を遂げさせる事を推奨したのである。ただし、かかるファルス(体制側暴力)の強要には「そんなに奴らは悪いのか?」なるヴィオランス(反体制側の抵抗)を呼び覚ます効果もあった様である。「グレート・ギャツビー(The Great Gatsby、1925年)」に登場する「謎の成金大富豪」ジェイ・ギャツビー、かの大富豪ハワード・ヒューズ制作の「暗黒街の顔役(Scarface、1932年、リメイク1983年)」、マーガレット・ミッチェル「風と共に去りぬ(Gone With the Wind、1936年)」における「(著者の密造酒業者の夫をモデルとした)南部のアウトサイダー」レッド・バトラー…
自分たちのしたこと棚にあげて、相手にされた事だけ責める。つごうよく自分を振り返らず、残虐になれる人間は、恐ろしい事にすぐ隣に大量に居るものなのだ。
この中ではレッド・バトラーだけが悲惨な最後を遂げておらず(シャーロット・ブロンテ「ジェーン・エア(Jane Eyre、1847年)のロチェスター伯爵すら半分焼かれるのに。当時は確実に日本の大隈重信同様、この様な怪男児を賞賛する雰囲気も存在したのである)、ニューオリンズ出身のトルーマン・カポーティ「ティファニーで朝食を(Breakfast at Tiffany's、原作1951年、映画化1961年)」におけるホリー・ゴライトリー(主演オードリー・ヘプバーンの「娼婦は演じない」なる強い意思表示を受けて映画版はキャラが大幅に改変されてる)も最後に活躍の場をニューヨークからアフリカに移すだけである。そういえばデキシー・ジャズ発祥の地でもあるニューオリンズは、奇しくもアベ・プレヴォー「マノン・レスコー(Manon Lescaut、1731年)」のヒロインがフランスで流刑に処されて悲壮な最後を遂げた地でもあった。近松門左衛門の心中物やサド侯爵の暗黒ロマン小説の様な「身分や親の定める処遇に逆らった結婚や駆け落ち(逮捕を免れる為、大抵は悲惨な結果に終わる)」がヴィオランスとして通用した時代の残り香…そして、この地は後世アン・ライス「 ヴァンパイア・クロニクルズ(The Vampire Chronicles、1976年〜)」発祥の地としても足跡を残す事に。
ところが、第二次世界大戦中の挙国一致体制を契機に「(英国やアイルランド上層階層出身移民の)プロテスタント系旧移民」と「(南イタリア人や東欧出身者やアイルランド下層階層出身移民といった)カソリック系新移民」の軋轢が解消すると規範の暴走が始まる。悪名高きコミック・コード制定、「悲惨な最後を遂げるべき対象」の同性愛者や「色気付いた少年少女」への拡大、そして(おそらく黒人公民権運動台頭の反動としての)黒人映像化反対運動…当時のGirls Comic弾圧の影響を受けてフランク・フラゼッタはGirls Comic漫画家からヒロイック・ファンタジーの扉絵作家への転身を余儀なくされたのである。
フランク・フラゼッタ(Frank Frazetta, 1928年〜2010年) - Wikipedia
それから「小児麻痺のユダヤ人男性」という立場を黒人芸人の悲惨な境遇と重ねたThe Drifters「Save the Last Dance for Me(1960年)」を「浮気者の男性の恋人を許容する女性の歌」に差し替えた越路吹雪「ラストダンスは私に(1961年)」。ここで興味深いのが、当時のラテン系ポピュラー音楽の系譜を継承したアニメ版「うる星やつら(1978年〜1987年)」が(原作が主人公諸星あたるも「当初のメインヒロイン」三宅しのぶも「機会さえ与えられれば浮気する」基本構造になっているにも関わらず)「押掛け女房」ラムの「浮気な諸星あたる」に対する一途な心境を歌ったヘレン笹野「心細いな」の内容がメイン・イデオロギーをなしていたという事。しかも同じ1980年代には「探偵レミントン・スティール(Remington Steele、1982年〜1987年)」やブルース・ウィルス主演「こちらブルームーン探偵社(Moonlighting、1985年〜1989年)」の様なオリジナル版「ラストダンスは私に」に準拠する「女性の暴走に男性が振り回される」世界観の作品が国際的にヒットし、日本のTVでも流れていたからややこしい。
*当時はニュージャージー州出身で妻が日系人だったウォーレン・マーフィーのニューヨーク物「保険調査員トレース」シリーズも流行していた。*ヘレン笹野…沢田研二と山口百恵から「ラ・セゾン(1982年)」を託されたアン・ルイスの様に、当時は明らかに「混血=異界たる欧米のハイブロゥな世界への案内人」というロールが存在した様なのである。そういえば「うる星やつら」には「(現実に絶望しての自殺を暗喩する)星空サイクリング」なる挿入歌も…
エレキギター・サウンドが「不良音楽」のレッテルを貼られて迫害されていた1960年代には作曲家の宮内國郎(1932年〜2006年)の仕事が面白い。ジャズ畑出身ながらエレキギター・サウンドへの関心も高く、特撮TVドラマ実現の可能性を探っていた円谷皐(円谷英二の次男)に誘われる形でテレビ業界に根を下ろして「ウルトラQ(1966年)」「ウルトラマン(1966年〜1967年)」の主題曲を手掛け、さらにハンナ=バーベラプロダクション制作TVアニメの日本語版にも関わっているのである。この時期に次第に8ビート基準の「(コード進行に合わせてそのままリズムラインがスライドしていく、既存のメロディアスな展開に比べたらいささか下品な)ベースリフ」の概念が定着していくが、まさにその端境をたった一人で顕現した人物…
そして「ウルトラマン」続編の「帰ってきたウルトラマン(1971年)」はSoul Music風に。なんとアレンジはすぎやまこういち…
横山光輝原作アニメ「魔法使いサリー(1966年〜1968年)」
ディキシーランド・ジャズ(Dixieland Jazz) - Wikipedia
クラシック・ジャズに分類される一分野。「ジャズの最初の形態」と認識されることが多い。
時としてホット・ジャズまたはニューオーリンズ・ジャズとも言われ、20世紀初頭にニューオーリンズで発達したジャズのスタイルで、ニューオーリンズのバンドが1910年代にシカゴやニューヨークに移動して広まった。ディキシーランド・ジャズは、ブラスバンドの行進曲、フランスのカドリーユ、ラグタイム、そしてブルースが集まり結びついてできた音楽で、ピアノ、ギターまたはバンジョー、ドラム、コントラバスまたはテューバといったリズム・セクションを従えて、トランペット(またはコルネット)、トロンボーン、クラリネットが、ポリフォニックを基盤とした即興演奏を行う。
『ベイズン・ストリート・ブルース』や『聖者の行進』といった、ディキシーランド時代からよく知られたジャズのスタンダード・ソングは、ジャズ・ファンでない人にも知られている。
ディキシーランドとは、アメリカ南部の諸州を指す通称や俗称。この名称の由来は諸説あるが、ルイジアナ州などは一時期、フランス領だった地域で、その間の流通紙幣に10を表す「DIX」という文字が印字されており、その地方(LAND)という事から生まれたという説や、測量技師ディクソンの名によるとの説もある。ディクソンは相方のメーソンと共に、南部と北部を分ける線(メーソン=ディクソン・ライン)を引いた人物である。
もともと、ディキシーランド・ジャズという呼称は、白人が演奏するニューオーリンズ・ジャズを意味する言葉であった。その後、時代が下るにつれて、白人も黒人も入り混じりジャズを演奏することが多くなったため、いよいよ定義が曖昧になってきた。
1917年にニューヨークに進出した、ニューオーリンズ出身のオリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド(ODJB)によって、「ジャズ」は多くに知れ渡り、メジャーなスタイルになったともいわれている。ODJBが進出する前は「ジャズ」は初期は"jass"と綴られており、ODJBも当初はそう綴られていたが、デビューした後に"jazz"に綴りを変えている。"jass"とは、体育競技のスピードとエネルギーを示すスラングであり、性的な意味にも使われていた。更に以前には"jasm"や"gism"と綴られていた。
音楽理論的側面上記の通り、何をもってディキシーランド・ジャズとし、何をもってニューオーリンズ・ジャズであるかといった定義が、ほかのスタイルのジャズよりもあいまいであり、一般的に通じる定義はないといってもよい。音楽理論的側面においてはこの2つのスタイルを分ける要素はない。
- そもそも原作のサリーちゃんは、悪魔の国の帝王の娘で、魔法の国のお姫さまではない。またサリーちゃんの母親シーマは黒髪だった。
- 曲調にロシア民謡「一週間(1963年)」の影響も? 要するに「雪の女王/THE SNOW QUEEN(露Снежная королева、1966年)」における「冬の国」のイメージも投影されているのかも。
- この曲を手掛けた小林亜星が「魔法使いサリー」後番組の「ひみつのあっこちゃん(1969年〜1970年)」EDでFunk musicを披露。その影響は「(さらにマカロニ・ウェスタンのイメージも混ざってややこしい)ファイアーマン(1973年)」にまで及ぶ。
「宇宙特撮シリーズ キャプテンウルトラ(1967年)」
横山光輝原作「 仮面の忍者 赤影(1967年〜1968年)」BGM…既にこの時代にして和風Jazzに加えてマカロニ・ウェスタン要素が入ってきてる?
「妖怪人間ベム(1968年〜1969年)」…ホラー系Jazzの一つの金字塔?
そして水木しげる「ゲゲゲの鬼太郎(原作1960年〜、アニメ化1968年〜) 」…ホラー系Jazzの最後に現れた「もはやJazzとはいえない(だが まだFunk musicとはいえない)何か」。内容も「(エンタメ業界の裏側で)虐げられている人々」から「人界から離れ自由に暮らしてる人々」へ。
*そうまさに電気グルーブ「モノノケダンス(2008年)」の世界観の先駆け…
とりあえず時計の針をアニマルズ「朝日のあたる家(The House of the Rising Sun、1964年)」やベンチャーズのサーフィン音楽が流入してきた1960年代後半にまで戻す。
エレキギターは日本へは1960年代後半に上陸。たちまち江戸時代の「三味線」上陸に続く「不良アイテム」として煩方(うるさがた)の批判対象となった。
エレクトリック・ギター(Electric Guitar) - Wikipedia
1965年1月の『ザ・ベンチャーズ』の来日以降、ベンチャーズの人気と共にエレキ族と呼ばれる若者を中心に爆発的にエレキギターに注目が集まり「エレキブーム」が訪れた。テレビ番組『勝ち抜きエレキ合戦』等のテレビ番組や加山雄三主演映画『エレキの若大将』等の後押しもありブームに拍車をかけていった。
しかし1965年10月に栃木県足利市教育委員会の働きかけで起こった小中学生のエレキ購入禁止や大会参加禁止等を定めた通称「エレキ禁止令」が出されると、新聞で大きく取り上げられるなど社会問題化し、一方的に「エレキギターは不良少年がするもの」とレッテルを貼られ、コンサートを見に行っただけで高校を退学させられるなど全国で激しい「エレキギター追放運動」が波及していった。
条例は後に廃止されたもののブームは次第に沈静化していくことになる。その後寺内タケシによるハイスクールコンサート等の熱心な努力もあり改善されていく
ここで興味深いのが、当時の日本における児童向けTV番組主題歌にマカロニウェスタン調
- 海外ではこの辺りの作品にまでそれを指摘する向きも。
- 意外なのが、こうした(ホラー系Jazz+Funk music)系譜に位置付けられる永井豪原作「どろろん閻魔くん(1973年〜1974年)」や「(視聴者からの抗議で放送中止に追い込まれた)たべちゃうぞ(1975年)」といった曲調に「怪奇ディスコ」Hot Blood「ソウル・ドラキュラ(1976年)」との連続性が感じられる辺り。
そして次の段階では次第にSoul Musicの影響が酷なっていく訳ですが…
どうも、これまでのコンセプトと音楽性に密接性のあったジャンル遷移と比べてしっくりこないのです。
リズム&ブルースからソウル=ミュージックへ
ロック=アンド=ロールの生みの親である,黒人のR&Bは,ロック=アンド=ロールの商業的成功の陰で,白人音楽に軒を貸して母屋を取られた形になり,衰退の一途をたどっていた。しかし,1958年“北部の”デトロイトで設立され,60年代になるとスモーキー=ロビンスン&ミラクルズ,スティーヴィー=ワンダー,シュープリームス(中心はダイアナ=ロス)を擁し一大黒人音楽帝国を築いたモータウン=レコードが大成功を納めると,黒人音楽も転換期を迎えた。モータウンは,いまだエスニックな趣を強く残していたR&Bに,白人音楽の要素を取り入れ,60年代の公民権運動(黒人差別撤廃運動)の中で,社会的にも経済的にも徐々に地位が向上してきた黒人中産階級の要求に応えるヒット曲を量産した。この頃から黒人音楽は,R&Bから“ソウル=ミュージック”と呼ばれるようになった。この時代,質・量ともにアメリカでブリティッシュ=インヴェイジョンに対抗できたポピュラー音楽は,このモータウンのソウルのみであったと言ってよいだろう。
そもそもSoul Music自体が「簡単に白人にコピー出来ない黒人音楽」「特に求道的姿勢を特徴とするハードロックやプログレに対抗すべく音楽性だけでなく歌詞世界でも官能性を追求」という戦略を採用していたので「児童向けTV番組主題歌」にそのままの形で導入するのが難しかったのですね。その一方でこんな話も。
1960年代というのは,世界がやっと戦後の混乱期から抜け出した頃であり,物資も現在ほど豊富ではなく,社会全体が現在よりもはるかに貧しかった時代である。そのような中では,人々の価値観は集約され,あるジャンルにおいて,他を圧倒するようなカリスマが登場しやすい。たとえば,政治の世界では,アメリカ大統領J=F=ケネディやキューバのカストロ首相,日本のスポーツ界で見ても,相撲の大鵬,野球の王・長嶋,プロレスの力道山など,ある世界で絶対的な権威を持つスターが登場した。しかし,70年代,社会全体が豊かになり,人々の生活にも余裕が出てくると,必然的に価値観の多様化が見られるようになった。当然,ロックもその例からは漏れなかった。ポピュラー音楽界には,1930年代のビング=クロスビー,40年代のフランク=シナトラ,50年代のエルヴィス=プレスリー,60年代のビートルズと,10年にひとり,他を圧倒するようなカリスマを持つスーパースターが現れるという伝説があった。しかし,人々の価値観が多様化し,個々人が自らの世界を持つようになった1970年代においては,そのようなスターは登場しなかった。実際「(音楽評論家の渋谷陽一が言うように,)ビートルズのようなスターはこれからも現れることがあるかもしれないが,ビートルズを生んだ時代状況は二度と現れない」のである。
要するに「(日本のレコード業界の停滞を招いてきた専属作家制度などへのヴィオランスとしての)まとまった単位でのジャンル推移」がなくなった事により、むしろここからやっと「児童向けTV番組主題歌」としての多様で多態的な発展が本格的に始まったというべきなのかもしれませんね。
ヒーロー特撮って70年代の大爆発の後、戦隊・ライダー・ウルトラ・ゴジラ・メタルみたいな「定番枠」で維持・継承されてた感が強いので、イメージが「固い」反面、そうでないモノが見落とされがちな面はあるかな。『サイバーコップ』とか『グリッドマン 』とか。
— 葛西伸哉 (@kasai_sinya) January 25, 2019
90年代あたりからのSF系深夜ドラマや『風小次』、あるいは『牙狼』シリーズあたりが案外語る時にこぼしがち。
— 葛西伸哉 (@kasai_sinya) January 25, 2019
不思議コメディーからの『満福少女』『ミラクルちゅーんず』『マジマジョピュアーズ』の流れもあるしな。
— 葛西伸哉 (@kasai_sinya) January 25, 2019
ここまで踏まえると特撮オタクは隣接分野としてのアニメに無知・無関心だと浅くなってしまうという話にもなる。『プリキュア』なしに『ミラちゅ』に言及したら間違いだらけになる。
これは逆も言える。ロボットアニメをアニメの中だけで見てると「ヒーローもの」の一形態という歴史を見落としがちになり、機械獣が「怪獣」の亜種だった事を取りこぼす。
— 葛西伸哉 (@kasai_sinya) January 25, 2019
「テレビまんが」という枠で考えると特撮とアニメの間に厳密な区別をする意味は乏しくなる。
— 葛西伸哉 (@kasai_sinya) January 25, 2019
アニメでタカラのゴッドジンライと、特撮でバンダイのスーパーライブロボ。
1号ロボと2号ロボが合体するのはどっちも88年だ。
実際、こうした音楽にリアルタイムに触れてた子供時代には、こうした難しい背景なんてさっぱり分かってなかったのです…