諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

欧州人が隠したがる「欧州文明の本当の起源」?

古代ギリシャ・ローマ文明と欧州文明の連続性は、欧米人が自認しているほど単純なものではない。

例えばローマ帝国時代のガリア属州跡地に出現したフランス王国においては、北フランス諸侯がオイル語を、ノルマン貴族がノルマン語を、南仏の人々がオック語を話した。

実はそのどれもが俗ラテン語の一方言。ある意味ローマが文化的にはギリシャに乗っ取られてしまった様に、フランス人とはギリシャ・ローマ文化に乗っ取られたフランク人(およびそれを取り込んだ/取り込まれた諸族)だったといえるのかもしれない。その結果「既に乗っ取られた」西部と「意地でも乗っ取られまいとする」東部の間で激しい内戦が繰り返されたが、欧州史はこの戦争に特定の名前を与えていない。止むを得ず触れる場合にはネウストリアアウストラシアの不和とその解消といった言い回しを使う事が多い様だ。

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 欧米には「マホメットなしにカールなし」という極論も存在するが、実はカール大帝カロリング・ルネサンスを現出させヨーロッパ文明の父と呼ばれる事になったのは(ゲルマン人なのに)ラテン語がペラペラでローマ教皇イングランドから招聘した聖職者達(およびそのドイツ人の弟子達)と対等に渡り合えたからでもあった。

このエピソードはネウストリアアウストラシアの不和とその解消が一般に流布している様な単純な結末、すなわちアウストラシアに併合される形でネウストリアは綺麗さっぱり消失しました的な単純明快な展開ではなかった事を示唆する。

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その一方で「ラテン語もローマ法もいらない。人類はそれぞれが母族語と部族法を遵守しながら幸せに暮らせばいい!!」と主張するゲルマン部族連合の抵抗はその後も続き、イタリア・ルネサンス期に一つの頂点を迎える事となった。所謂「宗教革命」がそれである…

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ドイツ農民戦争(Deutscher Bauernkrieg、1524年〜1525年)、ローマ略奪(Sacco di Roma、1527年)、シュマルカルデン戦争(Schmalkaldischer Krieg、1546年〜1547年)、アウクスブルクの和議(Augsburger Reichs- und Religionsfrieden、1555年)、そして三十年戦争(Dreißigjähriger Krieg、1618年~1648年)。戦場こそ違えど常にこれらの戦争の最前線で戦い続けてきたドイツ人はその過程で(ルター聖書出版を起点に)ドイツ語を共用語に発展させつつ教皇と皇帝の権威を地に落とし、神聖ローマ帝国領邦国家化に成功した。しかしその一方で(反宗教革命の急先鋒としてドイツや東欧に乗り込んだ)イエズス会に攻略されたり、領主や司祭の手段を選ばぬ強硬策によって以前よりかえってカソリック信仰が強化された地域も少なくなく、こうして新たな分断時代が幕を開ける事になる。こうした一連の騒動に際してイタリアとネウストリア故地が完全に傍観者の立場を貫いたのに対し、ネウストリア故地との関係に濃淡があるアウストラシア故地の反応は様々で、さらに当時その外側にあった元蛮地は誘蛾灯に飛び込む昆虫の如く振る舞う事が多かった。例えば、あえてドイツで贖宥状を販売したマインツ司教区はネウストリア時代からの中心都市の一つ。それに対しルターが身を寄せていたザクセン選帝侯領はカール大帝に攻略されるまでフランク王国と激突を繰り返してきたゲルマン諸族の割拠地である。プロテスタント諸侯の盟主となったヘッセン方伯はマインツやトーリアといった大司教区を守る辺境警備隊起源。ボヘミアに至っては神聖ローマ帝国に加入したの自体が10世紀以降であった。またカルヴァンジュネーブ神権政治を遂行した事で名高いスイス連邦も元来はシュヴァーベン地方の一部、すなわちイタリアと西欧を結ぶ経路として栄え、ホーエンシュタフェン家やハプスブルグ家やホーエンツォレルン家を輩出したアラマンニ人の割拠地の一つだった。

  • ネウストリア/ノイストリア(Neustria)またはネウストラシア (Neustrasia)…新たな(西の)土地を意味する(neuは新しいを意味する)フランク人王国西部。511年におけるフランク王国の分割相続を契機に新設された分王国。現在のフランス北部のおよそ全体、すなわちアキテーヌからイギリス海峡までの範囲でパリやソワソン(Soissons)を主要都市として含む。また後にセーヌ川とロワール川の間の地域がレグヌム・ネウストリアエ(regnum Neustriae)として知られる事になった。さらにブルトン人とヴァイキングに対抗する為にネウストリア辺境侯(Duchy)領も創設。これがカペー朝時代の10世紀末まで存続する事になる。

  • アウストラシア(Austrasia)またはアウストリア(Austria)…「フランク人王国西部」新設の結果生まれた「東部」。メロヴィング朝フランク王国の北東部にあたり、現在のフランス東部、ドイツ西部、ベルギー、ルクセンブルク、オランダに該当する。首都としての機能はロレーヌ/ロートリンゲン(Lorraine/Lothringen)地方のメス/メッツ(Metz)が果たし、アウストラシアの諸王はランス、トリーア、ケルンをも支配した。

どうしてこんな区分けが出来上がった説明するには、クロヴィス1世の時代まで遡らねばならない。

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メロヴィング朝フランク王国初代国王クロヴィス1世(Clovis Premier、在位481年〜511年)

その生涯についてはトゥール司教グレゴリウスが詳細な年代記を残している。
*伝承に拠ればメロヴィング朝フランク王国の王室は精霊から特別の加護を受けていたという。そうした精霊の王をフランス語圏ではオベロン(Oberon、Auberon)、ドイツ語圏ではアルベリヒ(albrîh、すなわち古高ドイツ語でalb(エルフ)+rîh(支配者すなわち王)を意味する)と呼んだが、やがて彼らは日本の出雲神話における少彦名や大国主の様に「不可視世界の向こう側」へと去っていく。

  1. サリー・フランク族の王キルデリク1世 を父、テューリンゲン族のバジーナを母としてトゥルネー(現ベルギー領)で生まれた。当時は現代のフランス・ベルギー国境付近のトゥルネー、カンブレーを中心とするライン川低地西部を占めていたに過ぎなかった。
    *サリ族の起源はローマ帝国時代の4世紀にゲルマン人のガリア侵攻に備える為にライン川ヴェーザー川の間(現オランダ・ドイツ西部)、特にその北部(オランダのオーファーアイセル州にサラント(Salland)地方があり、アイセル川の古名もサラ(Sala)といった)からトクサンドリア(現在のオランダ南部からベルギー北西部)に移住させられたローマ帝国の同盟者(フォエデラティ)氏族で西ローマ軍がガリアより撤退した440年以降自立。一方テューリンゲン族は現在のドイツ中部に割拠していた氏族だが6世紀中ごろまでにフランク王国に併合された。
    ドラマ性に欠ける自由交易圏側の歴史 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

  2. 481年に即位するとライン川北岸のフランク人を統一、486年にはガリア北部を支配していた西ローマ系軍閥のアフラニウス・シュアグリウスをソワソンの戦いで破り、版図を一挙にロワール川北部に拡大、旧ローマ属州ベルギカ・セクンダを支配下に治めた。
    *正式にローマ帝国が滅んだのはこの時とする立場も存在する。
    十字軍運動とヴェネツィアの覇権 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

  3. 妹のアウドフレドを東ゴート王国テオドリックに嫁がせて同盟を固め、493年にはブルグンド王国の王女クロティルドとソワソンで結婚。そして496年から497年にかけてトルビアックの戦いでアラマンニ人に勝利した後、王妃クロティルドの薦めでカトリックに改宗し498年にランスで戴冠式をおこなった(それまでは東ローマ帝国の人物との接触が長かった事からキリスト教ニカイア派を信仰していた)。ゲルマン民族諸王の中で初めて行われたカトリックへの改宗であったが、その大半がカソリックであるガリア領内のローマ系市民の懐柔が主目的だったともいわれている。
    *その一方ですでにキリスト教に改宗していた西ゴート族ヴァンダル族アリウス派であり、却って対立が深まる事に。

  4. 500年にはディジョンでブルグンド王国と戦い、507年にはアルモリカ人の支援を得てヴイエの戦いで西ゴート王アラリック2世を破った。この勝利で勢いをつけそのまま西ゴート王国の首都トゥールーズまで進軍しアキテーヌの大部分を獲得。フランク王国の領土は北海からピレネー山脈まで大きく拡張され、南フランスを支配していた西ゴート王国イベリア半島に押し込められた。この遠征の後の508年、東ローマ皇帝アナスタシウス1世からローマ帝国名誉執政官に任命され、508年パリに都を定め、セーヌ川左岸に聖ペテロとパウロに捧げた修道院(のちのサント=ジュヌヴィエーヴ修道院)を築く。
    *フランス人の伝統に従えばパリに都したクロヴィス1世はフランス王国の基礎を築いた最初のフランス王となる。509年建設という事は京都(794年)より300年近く古い。

  5. 晩年はフランク人の小王を次々に姦計にかけ、そのほとんど全てを抹殺したとされる。それによりメロヴィング朝は他の家系から脅かされることなく、300年近い命脈を保つ事になった。511年に死去。

蛮族の侵入によってローマ帝国が滅んだ時代まで一応の起源が辿れるのはフランスでけではなくベネツィア共和国もそうである。

 だが領民の多くがラテン語を話すローマ系カソリックであるネウストリアの併合は無人の沼沢地への進出と異なり、否応なしにフランク支配階層のラテン化を促す事になった訳である。ちなみに古代ローマ帝国当時から栄えていた地域は以下。

ネウストリアアウストラシアの不和とその解消の実態がどの様なものだったか読み解くには、これらの地域がフランク王国とどういう関係を築いてきたか念頭に置かねばならないという訳である。

ネウストリアとアウストラシアの不和とその解消

511年、フランク王クロヴィス1世が死去すると4人の息子が王国を分割し、テウデリク1世がアウストラシアとなる領土を相続した。テウデリク1世の流れをくむ王の子孫はクロタール1世が他の分王国を統一する555年までアウストラシアを併合し、558年までにフランク王国の領土全域を継承。クロタール1世は4人の息子に領土を再分割したが、567年、カリベルト1世の死により4つの王国は合併して3つになり、アウストラシアはシギベルト1世、ネウストリアはキルペリク1世、ブルグントはグントラムが治めた。これらの王国がカロリング朝が起こるまでの間、フランク王国の行政区分となる。

◎567年からシギベルト2世が死去する613年にかけてネウストリアアウストラシアは絶えず争っており、ブルグントが両国の調停を行なっていた。両国の戦争はアウストラシアの王妃ブルンヒルド(Brunehaut、547年〜613年)とネウストリアの王妃フレデグンド/フレデグンダ(Fredegund/Fredegunda、羅Fredegundis、仏Frédégonde、?〜597年)の代で頂点に達する。

613年、ついにブルンヒルドに対する貴族の反乱が起こり、裏切られた彼女は敵であり自身の甥ネウストリア王クロタール2世に引き渡される。クロタールは他の二国を支配下に入れフランク王国の統一を果たすと首都をパリに定めた。それぞれの分王国における国王と民の仲介役として宮宰の役職が制定され、アウストラシア初代の宮宰はアルヌルフ=ピピンの一族から徴用される事になった。
*歴史のこの時点ではアウストラシアが崩壊し、ネウストリア王とブルグント王を兼ねる事がフランク王としての条件であった?

623年、アウストラシア人はクロタール2世に自国の王を求め、クロタールは息子のダゴベルト1世(アウストラシア王623年〜629年、ネウストリア/ブルグント王 629年〜639年)をアウストラシア王とし大ピピンピピン1世、在職615年/623年〜629年)を宮宰に任命。そしてダゴベルトは629年にクロタール2世が亡くなるとネウストリアとブルグントを継承したが、アウストラシア王座は事実上空位となり、633年には国民が再び新しい王を要求する。ダゴベルトは彼らの要求に応じて長子シギベルト3世をアウストラシアへ派遣したが、宮廷が宮宰に牛耳られたため、歴史家の多くがメロヴィング時代の怠惰王(Roi fainéant)と裁定を下している。639年にダゴベルトが亡くなった後にクローヴィス2世が継承したのはネウストリアとブルグントの王位のみだった。*歴史のこの時点でもアウストラシアは没落したままだった?

◎657年、宮宰グリモアルドが自分の息子キルデベルト・ラダブテを王に擁立し662年まで王位にあり続けた。以降アウストラシアはアルヌルフ=ピピン一族出身の宮宰の支配する王国となり、彼らの権力基盤となり続ける。

◎テウデリク3世(ネストリア王675年〜691年、フランク王679年〜691年)の治世に何があったか詳細は不明だが、最終的にアウストラシア宮宰中ピピン(Pippin der Mittlere、在職680年〜714年)がネウストリア宮宰エブロインに対する政治的勝利を収め宮宰職の世襲化にも成功した事実は揺るがない

◎714年に中ピピンが亡くなるとカール・マルテル(Karl Martell)がアウストリア宮宰の地位を襲名。ネウストリア(現在フランスの大半)宮宰就任を宣言した従兄弟のラゲンフリートを破り718年にフランク王国全体の宮宰となって以降は外征に傾注し、王国北辺のフリースラント(フリジア)やウェストファリアのサクソン人への遠征を行い、ラゲンフリート指揮によるネウストリアの反乱も抑えた。その間、720年には国王キルペリク2世が亡くなり、テウデリク4世が継いだが、マルテルの権力基盤は強化される一方。ちなみにWikipediaアウストラシアの項目は「719年、フランク王国アウストラシアの支配のもと永久に一つの国になった」とあるが何を指しているかは不明。
*ちょうどこの時期にイベリア半島を完全に手中に収めたイスラム勢力が北上してきてラングドックやプロヴァンストゥールーズといった南仏諸国はおろかブルグントまで支配下に置き、さらに戦場となったアキテーヌを崩壊させた。どうやらカール・マルテルによる単独支配の確立は、アウストリアの勝利というより他の分国全ての崩壊もしくは消失によって達成されたというのが正しい様なのである。

カール大帝について日本人が知っておくべき事? - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

イングランド出身の聖ボニファキウスがフリースラントでの伝教に着手しフランク王国よりマインツ司祭に任命されたのもこの時期。カソリック教会の権威を借りてザクセン族を下さんとするピピン宮宰一族の野望はこの時期まで遡る? その生贄となってボニファキウスは八つ裂きにされて殉死。

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◎既にテウデリク4世(Theuderic IV/Theuderich/Theoderic/Theodoric、在位721年〜737年)死去からキルデリク3世(Childeric III/Childerich、743年〜751年)即位までの7年間、王位は空白のままだった。カール・マルテル没後宮宰として実権を握った小ピピンピピン3世、宮宰747年〜751年、フランク王751年〜768年)はローマ教皇の後援下、フランク貴族達からフランク王に選出される(その返礼が所謂ピピンの寄進(751年)。ローマ法王はようやく念願の教皇領を獲得し東ローマ帝国/東方正教会との決別が可能となった)。
*こうしていよいよアッバース革命(750年)の混乱を突いての反撃が始まったが、イスラム勢力が実際にピレネー山脈より南に追い落とされたのはカール大帝の息子のルートヴィッヒ1世(フランク王/西ローマ皇帝814年〜840年)の時代となる。そして領土を回復したらしたで早速伝統的な分割相続問題が台頭し、たちまち衰退期が始まってしまう…

 そしてフランク王国崩壊後、ブルトン人の脅威に加えノルマンディを泊地に選定したヴァイキング(北方諸族の略奪遠征)やオルレアンを支配下に置いたアラン人(先祖がスキタイ人を滅ぼしたサルマタイ人ともカール大帝に滅ぼされたアヴァール人ともいわれる騎馬民族)の襲来まで警戒せざるを得なくなったパリ伯は見事イル・ド・フランスの文化と言語を守り抜いてカペー朝を開闢。こうしてフランス王国の歴史が幕をあける事になった訳である。

だがもちろんドイツ人がフランスこそフランク王国の正統な後継国なんて認めるはずもなく、かくしてネウストリアアウストラシアの不和問題は以降フランス語圏とドイツ語圏の不和という今日まで続く新しい局面を迎える事になるが、まずはその狭間に位置するフランドルが毛織物特産地として欧州経済の中心地に成り上がる。