諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】「悠久の時間の流れを生き延びてきた古都のサバイバル術」について

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 京都での出来事。とっさに思い出したのが「五山文学」…

そういえば過去投稿では京都を「科学的実証主義の大源流となったルネサンス期における新アリストテレス主義の揺籃地」となったイタリアの古都ボローニャパドヴァと比較したりしています。森見登美彦有頂天家族(原作2007年、アニメ化2013年/2017年)」が活写する天狗族狸族の関係天狗とタヌキは決っして友達にはなりませぬ。君臨こそ天狗の本質、面従腹背こそタヌキの本質ゆえにの如く、伝統的格差が決して交わらない(それぞれが互いに「認識可能範囲外を跋扈する絶対他者」として機能し合う)独特のインテテリズムプロレタリアーティズムの対峙を育む風土…

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さらにいうとヴェネツィアパドヴァ文化圏は「(「貸方と借方の計が必ず一致する」元・単位元・逆元概念や「ネイピア数e発見の契機となった」複利計算式を産んだ)複式簿記(コンパスと定規の概念を撤廃に追い込んだガウス巡回群の大源流たる)虚数の概念が初めて文書化された近代数学の故郷」でもあるんですね。

そして…

 そういえば、この投稿をした時思った事。

  • ユダヤ人が一刻も早く地上から一人残らず族滅すべき劣等人種である現実と、ナチスホロコーストがどうあっても許してはいけない絶対悪である事実は全く矛盾してない。そんな基本的真実も理解出来ないナチスの差別主愚者は一人残らず、一刻も早くその親族や交友関係ごと族滅すべきである。
  • これまでの人生の中でバットマンを一度でもヒーローと認めた事のある人間は、その全員がもはや救い様のない先天的なナチス差別主義者である。我々が勝利した暁には、その全員がナチス再来の悪夢を不可逆的に回避し差別のない明るい未来を構築する為、親族共々絶滅収容所で族滅される最後を迎えるであろう。

以前からこの種の論理的に破綻した支離滅裂な妄言をまとめて読み解く鍵は「その言葉を発する人間が、様々な意味合いで存続不可能な絶対的精神危機の最中にあり、意識的にせよ無意識的にせよ一人でも多くを巻き添えにしたがっている点」に求められるんじゃないかと考えてました。実際、コロンビア大学学生運動(1966年~1968年)を扱ったジェームズ・クネンいちご白書(The Strawberry Statement, 1968年)」や佐藤優自壊する帝国(2006年)」には、かかる局面に置かれた人々のそういう極限心理が活写されていたりします。

以前の投稿だとユダヤ戦争前後のユダヤ人過激派の言動にも同種の傾向が見られます。山岳ベース事件(1971年~1972年)や浅間山荘事件(1972年)に至った日本の学生運動サリン散布事件(1994年~1995年)に至ったオウム真理教の暴走過程においても同様。意外とそれ自体は歴史的に普遍的に存在してきたと推測されるのです。

それでは近年になって何が変わったのでしょう? 以前ならば、そうした「殲滅に向かう途上の絶望的な篭城線の最中に発せられる悲壮な言葉」は、その内容故にほとんど文書化される事がなく、かつまたそれが発せられる環境的閉塞性故にどこにも届かず、ただ黙殺されてきました(時々、陥落した城塞の壁の落書きに断片が発見されて衝撃を与える程度)。しかしインターネット社会においてはこの種の妄言がその集団を代表する思想として広まる事すらあり、その影響もあって過激で急進的な極右極左が「即時改革派」、現状を原則論的には肯定しつつ問題点だけ抽出してその改善に集中していこうとする穏健な中道右派中道左派が「漸進改革派」としてまとめて扱われる機会が増えたのです。

  • 2010年代には「それぞれの単位において融合しつつある/融合していくのでは?」なる見解も散見されたが、その後それほど進展は見られない。どうやらそのような既知の政治力学の延長線上における動きではない模様。2016年度大統領選挙後にとある中道右派アカウントがネット上で中道左派アカウントに向けて放った発言「お前達が疑いながらヒラリーに投票した様に、オレ達は疑いながらトランプに投票した。そこにどんな違いがあるというんだ?(問題の本質はそんなところにない)」が示唆していたのは、やはりそんな単純な展開ではなかったのである。

  • 問題はむしろ、近世から近現代にかけての政治力学そのもの、すなわちそれを「(産業振興政策や、その副作用として増大する格差問題といった)抽出と対蹠が容易な問題へのリソースの集中」を望む進歩派(Progressist, その前身はフランス革命などを起こした急進共和派)と、これに反発して「既存社会の全体像を俯瞰しながらの漸進」を提言する保守派(Conservatist, その前身はナポレオン戦争に集団で対峙する過程で君主国側に育まれた王党派理念)の対峙と置いたカール・マンハイムKarl Mannheim、1893年〜1947年)「保守主義的思考Das konservative Denken、1927年)」の図式がいつの間にか崩壊していた事にあるのでは? ならばそれは何時から始まったもので、どういう図式に推移すれば改めて全体像が俯瞰可能となるのだろう?

こういう時こそ「悠久の時間の流れを生き伸びてきた古都のサバイバル術に学ぶべきかもしれません。