この考え方(レーニンもこっそり実際のソ連経済運営に採用したという)テーラーイズム(Taylorism=科学的管理法)とも縁が深いのですね。
大きな区画での競争は人間を強くするが、小さな区画での競争は人間を卑賎にする。国対国、産業対産業、企業対企業、というのは人間を団結させ強くもするが企業内の部署だとか、同じ学校の学生同士とか、そういう範囲の競争には全く価値が無い
— 砂鉄 (@satetu4401) 2021年3月18日
もちろん一歩間違えば全体主義(伊:Totalitarismo、英:Totalitarianism)論の出発点…
そして、突如現れる大日本帝国論…
充実した全体主義(Totalitarianism on Satisfaction)
ある集団の構成者皆が全体のために自発的に奉仕して、それを自然に受け入れる状態を言う。太平洋戦争中の日本に外国人記者として滞在したフランス人ジャーナリストは、日本人を観察して、自分達、西欧人の個人主義と違う点として「日本の個人主義は、集団の思想との対立をつねに避け、集団と闘うよりは集団に仕えることの方が多い。」と述べ、全体主義に対抗するはずの個人主義を観察して、日本社会の充実した全体主義的な傾向を指摘している。
- 多くはカリスマ的指導者の下に、ある目的のために一丸となっているので、それが外から見て過酷な環境下にあっても、構成者は苦痛や不満などは生じない。
- 充実した全体主義の下での集団の多くは排他的であり、異なる考えを持つ者を、集団内多数の意思によって排斥する。
- また、他の集団に対して優越意識があり、他より優秀な指導者の下にいると思うことで充実感を持つ。
- また逆に状況が変化すると、集団が同じ方向を向いているので、脆くも体制が崩壊する面も持つ。例えば日本企業においてはサービス残業の風潮があり、残業をするのは自分が仕事が遅いからとして受け止め、集団に迷惑をかけたくないと言うことで残業代を返上するような事であるが、一旦労働者がそれが労働基準法に違反する事に気づけば、労働争議に発展して、体制が崩壊の危機に直面する事件も起きている。
この状態を利用する指導者は構成者の多数が反対の意思を示すことが無い為、自在に構成者を利用する。また少数の反対者を差別する事によって、多数の構成者に優越意識を持たせるのが常套手段となる。
- ただ軍国主義下した末期大日本帝国において小作人達が最も執拗に叩き続けたのが「不在地主」だった様に、身分制時代の様に権威主義によって権力者が無条件に擁護される状況ではない事は念頭に置くべきである。この辺りの絶妙な機微を福本伸行「カイジ・シリーズ(1996年~)」における帝愛グループ会長の名台詞「もちろん実際に公平である必要などないが、だかららこそ不信感を持たれたらシステム自体が終わる」は的確に捉えている。
- 太陽王ルイ14世の遺言「国主たるもの、互いに直接対話不能な諸勢力間の調整役に過ぎないと蔑まれてるくらいが調度良い。もし全ての政敵を倒してしまったら、失政の責任も全て自分が被る事になる」は後継のフランス国王に継承されず、結果としてフランス宮廷(およびそれに食い込んだ廷臣)への権力集中へのルサンチマンがフランス革命を勃発させてしまった。この流れは国際的にシェークスピア史劇「リチャード三世(The Tragedy of King Richard the Third、初演1591年)」におけるリチャード三世を筆頭に皇帝ナポレオン/ナポレオン三世及びアドルフ・ヒトラーも見舞った「悲劇」と認識されている。
- 皮肉にも、ナチスによるユダヤ人ホロコーストの発端も「第一次世界大戦による経済的痛手」からの復興を早める為のユダヤ人富裕層への優遇策と彼らの一人勝ち状態への憎悪にあったという(従ってかかる運動の最初期には「悪しき同胞の巻き添え」を嫌った一般ユダヤ人からナチス協力者も出たが、迫害対象が全ユダヤ民族に及び始めると、かかる嗅覚の利く層から貧しい同胞を置き去りにして真っ先に国外逃亡を果たしたという。ちなみにドイツ本国より多数の被害者を出した東欧やロシアにおけるホロコーストの背景にあったのは「領主も領民も事あるごとにユダヤ人をスケープゴートとして血祭りに上げてきた」中世的伝統(ポグロム)とされ、出発点からして異なっている)。
ドイツでインテリ=ブルジョワ=政治的エリート階層が死ぬほど嫌い抜いているドイツ庶民の「ビーダーマイヤー(Biedermeier)気質」とも縁が深そうだ?