諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【私の音楽遍歴】「1970年代に小学生だった」自分なりのプログレ経験について。

プログレハードロックの全盛期だった1970年代…当時小学生だった私は直接その洗礼を受けた訳ではありませんが、一応間接的にはそれなりの形でその影響下にあった様なのです。今回はその接点について可能な限り掘り起こしていきたいと思います。

⓪改めて調べてみて驚いたのが、Electoric POPの歴史を語る上でまず真っ先に来るのがPerrey & KingsleyBaroque Hoedown(1967年)」という事。そう、1972年以降ディズニーランドのエレクトリカルパレードの主題歌として使われてきたあの曲…実は最初期シンセサイザーの名機Moogのプレゼンテーション様に作曲された楽曲の一つだったらしいのである。

最初期のモジュラー・システムは、モーグ1963年11月ロチェスターで開かれたNew York State School Music Associationの会合でハーブ・ドイチ (Herb Deutsch)と知己を得て1964年7月~9月に行った共同開発作業により製作された「The First Moog Synthesizer」である。本機は1982年ミシガン州のヘンリーフォード博物館に寄贈され現在も展示されている。

1964年AESのコンベンションで、Alwin Nikolais, Lejaren Hiller, エリック・シディ (Eric Siday)の3人がモーグシンセサイザーを発注し、最初期の顧客となったが、そのうちCMなど商業音楽を手がける作曲家であったシディは、複数のモジュールを組み合わせてそれらを鍵盤で演奏可能な一台の楽器として構築するモジュラー・システムの基本セット構成をモーグと共に練り上げた。

1968年モーグ社カタログには、キャビネットの形状と数によって名称が異なるセット製品=Synthesizer Model 10, Synthesizer 1C/1P, Synthesizer 2C/2P, Synthesizer 3C/3Pなどが登場し、その後、Moog Synthesizer 12, 15, 25, 35, 55などが加わった。

ウォルター・カーロス現在のウェンディ・カルロス)は、タッチ・センシティブ・キーボード、ポルタメント・コントロール、フィックスド・フィルター・バンクなど、現在では一般的となった重要機能の追加及びカスタム・モジュール開発において、モーグと協力した。モーグは常に多くのミュージシャンの意見を聞き、その意見を反映して数多くのカスタム・モジュールとコントローラーを製品化した。

ガーション・キングスレイにより提案された、ライブ時などでの音色切り替えをスイッチのワンプッシュで可能とするファクトリー・プログラマブルな「プリセット・モジュール」を加えたモジュラー・システムは、1969年ニューヨーク近代美術館でのコンサート「Jazz in the Garden」のため3台製作されたが、その内の1台を翌70年キース・エマーソンがイギリスのディーラーを通じて購入する。この音色プリセットが可能なモジュラー・システムを皮切りに、その後エマーソンはキャビネットとモジュールを鋭意追加し、彼自身の「モンスター・モジュラー・システム」を構築した。

1970年に開発され、翌年から量産商品として楽器店に流通したミニモーグ (Minimoog) は鍵盤一体型のポータブルなパフォーマンス・シンセサイザー。 エマーソン、リック・ウェイクマンヤン・ハマーなど世界中のミュージシャンに愛用されている。

シンセ音色をフルポリフォニックで鍵盤演奏可能なポリモーグ (Polymoog) の正式な発表は1975年だが、1973年にはエマーソンパトリック・モラーツなどが試作品を使用していた。発売後はクラフトワークゲイリー・ニューマン、日本ではイエロー・マジック・オーケストラも使用していた。ポリモーグシンセサイザー (Polymoog synthesizer=model 203A) と廉価版でプリセットのみのポリモーグ・キーボード (Polymoog keyboard=model 280A・1978年) の2機種が存在する。

 ①「20分を超える壮大な組曲」としてまず英国プログレッシブ・ロック・バンドEL&P(Emerson, Lake & Palmer)の「Tarkus(1971年)」が来る。まだまだシンセサイザーローズ・ピアノ&ロータリー・スピーカー・システムとの組み合わせで利用されているに過ぎない。 

  • 久し振りに通しで聞いてみたら、エレピ・パートにファミコン時代の名作ゲーム「ソルスティス 三次元迷宮の狂獣(Solstice - The Quest for the Staff of Demnos,1990年)」のBGMを思わせるフレーズがあったので調べてみて驚いた。あれ、英国の天才楽師の仕事だったんだ…ちなみに私の3Dアニメーションへの執着はおそらくこのゲームにまで遡る。それにつけても(当時はクリア出来なくて聞けなかった)EDが古き良き時代のプログレそのものなの笑う…

    当時20歳のティム・フォリンが音楽を担当している。元々は外部音源が使用できない海外NES用ソフトとして開発された作品という事もあり、当時コナミサンソフトなど日本のメーカーではファミコンのカートリッジに音源チップを組み込んで音色を出すことが常套化していた中にあって、ファミコン内蔵音源のみを用いてコード進行や和音を疑似的に再現し、ティムが主戦場としていたイギリスのハードZX Spectrumに近い音色を奏でるという、日本で発売されたファミコン用ソフトとしては異色の曲調となっている。

    ZX Spectrumに『バブルボブル』や『大魔界村』などを移植し天才プログラマと称えられた兄マイク・フォリンの手ほどきを受け、ティム・フォリンはプログラマとしても天才的手腕を発揮し、ZX Spectrumにおいてはソフトウェア上で波形生成を行い、搭載されていたノイズ発生器のON,OFFの周期を制御して粗密波を発生させる事により調性音楽を奏でるという離れ業を実行した。最終的に、音源がBeep1音しか搭載されおらずまともな音楽を鳴らすことすら困難だった初代ZX Spectrumで、擬似6和音を奏でられる音源ドライバーを開発した。

    アメリカでのコモドール64のように、イギリスで最初に爆発的人気を得たホームコンピュータである。ZX Spectrum の登場により、ソフトウェアや周辺機器を提供する企業が急激に増え、その影響は今も続いている。SpectrumがイギリスのIT業界を生み出したとする者もいる。ライセンス契約とクローンがそれに続き、「英国の産業への貢献」を称えられたクライブ・シンクレアはナイト位の叙勲を受けた。

    英国産業への貢献」を理由にかつて海賊ロック界の大御所も受勲した様に、コンピューター業界の大御所も受勲してこそ真の「(国家発展の為には自明の理として節操を選ばない)貴族制」といえよう。それが(デビッド・ヒュームの快楽主義を生んだ)スコットランド啓蒙主義であり、大英帝国の本質なのである?

  • 1970年代ELPキング・クリムゾンYESピンク・フロイドに関心を持つ事のなかった当時の私は、むしろ「リアルタイムでのプログレ体験」は映画「サスペリア(Suspiria, 1977年)」「ゾンビ(Zombi / Dawn of the Dead,1978年)」「デモンズ(Dèmoni,1985年)」「デモンズ3(La chiesa,1989年)」のサントラを担当したイタリアのプログレバンドゴブリン(Goblin,1972年~1982年)を通じて得たといって良い?


    この辺りのサスペンス映画音楽の系譜は吸血鬼映画「Bracula(1972年)」サントラといった形でBlack Musicの影響を受けつつ出発し、1980年代には「当時のElectoric POPのあの音感」に節操なく染まりつつ「(デモンズに登場する)映画館のロビーに飾ってあった謎の仮面=(ジョジョの奇妙な仮面」に登場する)古代アステカの石仮面」を媒介に荒木飛呂彦ジョジョの不思議な冒険第一部(1986年~1987年)」へと結びつく。

その一方で私の世代でEL&Pというと真っ先に思い出すのが角川アニメ「幻魔大戦(1983年)」だったりする。

②ドイツにおいてクラフトワークアウトバーン(Autobahn,1974年)」がラジオ放送を通じてドイツで記録的ヒットを飛ばす。

現代音楽の一ジャンルであった電子音楽を初めて大衆に浸透させたとされる音楽史上重要なアルバムである。タイトルトラックの「アウトバーン」は22分36秒にも及ぶ演奏が、シングルリリースのため3分に大幅に編集された。同シングルはBillboard Hot 100で25位に到達し、ヨーロッパに於いてもチャートの上位に到達した。 アウトバーンの他にも、「Kometenmelodie2」がシングルとして発売されている。日本におけるYMOを筆頭としたテクノ・ポップの源流にも位置付けられる。

ヴォコーダーを用いたヴォーカルが入るが、残りのトラックはインストゥルメンタルである。本作に使われたミニモーグは当時のフォルクスワーゲンに相当する価格であった。

今から聞き返すと何この 「Kometenmelodie2」のサザエさっぽいポップさ…

不思議な感じで1960年代(1973年)との連続性を感じてしまいます。


ザ・ビーチ・ボーイズ(The Beach Boys,1961年~)の影響を指摘する向きも。

1962年~65年にはサーフィン・ホットロッドを中心としたレコードを発表していたが、66年の『ペット・サウンズ』から70年代初頭まではブライアン・ウィルソンが自己の内面と向き合った、アート志向のアルバムを発表した。

  • そういえば「(権力側に与する)TV放映」と「(反権力側に与する)海賊版ラジオ放送」 を対峙させるヒッピー的価値観に立脚し後世「最初のTV系サイバーパンク文学」と目される事になったK・W・ジーターDr. Adder執筆1974年頃、刊行1984)」が脱稿したのもこの年なのである。

③6分を超えるQueen Bohemian Rhapsody(1975年)」がTV放映に際してビデオ画像を多用しMusic Videoジャンルを開拓する。それは当初はバンドのメンバー4人だけでの通奏や完全再現が不可能であった為の苦肉の策として考えられたアイディアだったとされている。

世界初と言われるプロモーション・ビデオは、序盤と終盤は演奏シーンで、冒頭と中盤のオペラ部分ではメンバーが『クイーン II』のジャケットを彷彿とする暗闇の中で歌うというミステリアスな世界観が描き出されている。このプロモーション・ビデオは音楽界に衝撃を与え、多くのパロディ作品が作成された。メンバーが暗闇の中で並んでいるシーンはもはやクイーンの代名詞的な存在となり、「RADIO GA GA」や「ワン・ヴィジョン」などのクイーンの楽曲のプロモーション・ビデオの一部にも登場している。

2019年YouTubeでのビデオの再生回数が10億回を突破し、それを記念して従来のものと同じURLでプロモーション・ビデオのリマスター・バージョンが公開された。

  • 1980年代の私が実際に喜んで聞いていたQueenは(しばしば音楽評論家からとりわけファシズム色が強いと指摘されてきた)「We Will Rock You(1977年)」や「Radio GaGA(1984)」で、その延長線上でGiorgio Moroder版Metropolis(1984)収録曲「Cage of Freedom」も一緒くたに良く聞いていた。今から思えば何この「究極の自由主義専制の徹底によってのみ達成される全体主義古典的自由主義の共役関係?

    Cage of freedom, that's our prison
    自由の檻、それが私達の牢獄。

    Where the jailer and captive combine
    看守と囚人が共存する場所。

    Cage of freedom, cast in power
    自由の檻、それは権力機構そのもの。

    All the trappings of our own design
    全ての罠が私達自身の手になる。

    Blind ambition, steals our reason
    盲目的野心が理性を奪う。

    We're soon behind those invisible bars
    既に私達は不可視の鉄格子の中にいる。

    On the inside, looking outside
    内側から外側を眺める観点から

    To make it safer we double the guard
    安全を心掛け警備員を倍にする。

    Cage of freedom, there's no escaping
    自由の檻から逃げ出す方法はない。

    We fabricated a world of our own
    我々自身がそう設計したからだ。

    World of our own, world of our own

    外側の存在しない世界…内側しか存在しない世界…


    Cage of freedom, growing smaller
    自由の檻は日々小さくなっていく。

    Til every wall now touches the skin
    その壁面が肌に触れるまでになる。

    Cage of freedom, filled with treason
    自由の檻が反逆で満たされる。

    Changing sides as the losses begin
    敗残者が裏切り続ける。

    Our suspicion tries escaping
    疑惑から逃れる為に

    But they step up the security
    警備が増強され続ける。

    There's no exit, there's no entrance
    入り口もなければ出口もない

    Remember how we swallowed the key?
    自分で鍵を飲み込んだ事を思い出せ。

    Cage of freedom, that's our prison
    自由の檻、それが私たちの牢獄

    We fabricated a world of our own
    我々自身がそう設計したからだ。

    World of our own, world of our own
    外側の存在しない世界…内側しか存在しない世界…

     

    Big brother, is there a bigger one watching you?
    ビッグブラザーは、さらに上位のビッグブラザーの監視下にある?
    Or is there one smaller who I should be watching, too?
    そして私達も、さらに下位のビッグブラザーを監視し続けてる?

    Infinite circles of snakes eating their own tails
    自らの尻尾を飲む蛇の無限周期。

    For every one chasing another is on the trail
    追い掛けても追い掛けても、別の蛇に尻尾を狙われ続ける。

    Is that a friend, can you tell, is he on your side?
    誰が友達? どうやって味方を判別したらいいの?

    'Cause I spy with my little eye, yet another spy...
    おや、別の見張りが私の視界に現れた…

    考えてみれば「Cage of Freedom」のコンセプト、BOØWYMARIONETTE(1987年)」のそれに近いものがある。

  • そう、1970年代といえばヒッピー世代の観客を喜ばせたアメリカン・ニューシネマ(New Hollywood Movie)が、フランシス・コッポラ監督の「ゴッド・ファーザー(The Godfather,1972年)」「ゴッド・ファーザー Part2(The Godfather Part2,1974年)」、マーティン・スコセッシ監督映画「タクシードライバー(Taxi Driver,1976年)」、さらには「富裕地区マンハッタンと「貧困地区ブロンクスが隣接するニューヨークを舞台とする青春物「ロッキー(Rocky,シルヴェスター・スタローン主演脚本,1976年)」「サタディ・ナイト・フィーバー(Saturday Night Fever,ジョン・トラボルタ主演,1977年)」といった「南イタリア」の伸長によってハリウッドから駆逐されていった時代でもあったのである。

  • また当時は「我々ファシストだけが真の無政府主義を実現した。力による無政府主義だ!!」の台詞で著名なピエル・パオロ・パゾリーニ監督の遺作「ソドムの市(Salò o le 120 giornate di Sodoma,1975年製作・映画祭上映、1976年公開)」や「若さ故の無軌道な振る舞いに対する当事者の認識が、老衰によって美化されていく」残酷な景色を容赦無く克明に描いたフェデリコ・フェリーニ監督の「カサノバ(Il Casanova di Federico Fellini=フェデリコ・フェリーニのカサノヴァ,1976年)」などが封切られ、イタリア映画界がヒッピー世代好みの「悪の権力に対峙する正義の反権力」なる単純化され過ぎた世界観から離れ始めた時代でもあった。

    その一方で遂に「シャロン・テート殺害事件(1969年)」に引き続き「ガイアナ人民寺院集団自殺事件(1978年)」がヒッピー文化にとどめを指す展開が訪れる。

  • とにかく(ラジオ黄金期を賛美するのみで全体主義的扇動性を感じさせない)トレヴァー・ホーン提供曲「ラジオスターの悲劇(Video Killed the Radio Star, 1979年)」と「Radio GaGa(1984)」の間には(フレディ・マーキュリーもその推進に大きく関わった)ライブ・パフォーマンスやMusic Videoの内容の洗練(およびそれに伴う視聴者動員力の増大)があったとはいえよう。

    私は歴史関連投稿においては1970年代前後を「(国家間の競争が最優先課題と目された)総動員体制時代(1910年代後半〜1970年代)」と「(マスコミや企業がかかる体制の後継者にな乱と足掻く)産業至上主義時代(1960年代〜?)」の端境期と位置付けてきたが、それにはこうしたTVが視聴者に与える影響力の質的変化(ある種の解像度増大)も大きく関わってきた様なのである。

その一方で「 Bohemian Rhapsody(1975年)」というと思い出すのは当時制作されたロック・オペラ映画だったりもする。ブライアン・デ・パルマ監督の「Phantom of the Paradise(1974年)」に、The Who1969年5月に発表したロック・オペラ・アルバム映画を映像化した「Tommy(1975年)」…

  • この種のロック・オペラ的背景ストーリー性1980年代に入ってもStyxMr. Roboto(1983年)」や覆面ギタリストバケットヘッド(Buckethead,1987年~)が継承。

  • しかしながら次第に(ドナルド・フェーゲンがアルバム「The Nightfly(1982年)」「Kamakiriad(1983年)」などで想定した「1950年代的ディストピア」の様に)より合目的的で精度(解像度)の高い時空間設計へと置き換えられていく。

  • Steam Powered Giraffeeも(Blue Man Projiectなどの匿名芸人パフォーマンス活動の影響が加わった)この流れの最先端といえる。

一方、Autobahnの思わぬヒットに驚いたkraftwerkが「ラジオの伝播力」と「放射能の感染力」を結びつけて歌ったのが「Radioactivity(1975年)」となる。ただしこのアルバム自体は視聴者へのフックに欠けていてそれほどヒットしなかった。

  • この曲では「キューリー夫人放射能を発見した」事が強調されているが、実はその夫たるフランス人物理学者ピエール・キュリー(Pierre Curie, 1859年~1906年)」こそ1880年ピエゾ効果(水晶などの結晶に圧力をかけると電位が発生するという圧電効果)」を発見して水晶振動子発明の発端を生み「キュリーの原理=対称性保存の原理(物理現象において、原因に非対称性がないかぎり、結果にも非対称性は現れないとする原理)」を定式化して「デジタル回路の始祖」の一人と目される人物。このピエール・キュリーなる人物、電気回路におけるインピーダンス概念(=複素数概念)の導入や「(後にラプラス変換/逆変換に等価と証明される事になる)ヘヴィサイドの演算子」開発、インダクタンスコンダクタンスといった回路理論用語の提唱を通じて同じく「デジタル回路の始祖」の一人と目されるオリヴァー・ヘヴィサイド(Oliver Heaviside, 1850年~1925年)同様の貧困層出身の叩き上げエンジニア・タイプながら、ポーランド併合によって没落した下級貴族出身のマリア・サロメア・スクウォドフスカ(1867年~1934年)と邂逅し結婚に漕ぎ着けたのだった。放射能(Radioactivity)の発見は、この二人の稀代の共同研究によって成し遂げられたと言える。

  • 坂本龍一クラフトワークは後に反原発方面に完全にシフトしてしまうが、実は原発Songとして最も出来が良いのはStingの「We Work The Black Seam(1984)」だと思っている。

    とにかくその歌詞における「仕事を干されつつある炭鉱夫が原子力発電に抗議する」なる全体構図が他の原発Songとは一線を課す。「何故、化石時代から蓄積されてきた地球の恵みに背を向け、全貌もわからない未知の力に人類の未来を委ねようとするのか?」かかる積分的切り口によって炙り出されるのは、単なる放射線ヒステリーに留まらない業に満ちた深淵なる人類とテクノロジーの関係性そのものなのである。

④「Radioactivity」で挫折感を味わったクラフトワークAutobahnで国際的に認知されたDrive感に立ち返り、これを無機質な方向に発展させる試みに着手する。

KraftworkTrans-Europe Express(1977年)」…今回調べるまで「パンクの流行とプログレの衰退を背景に音数を減らしつつ新たな境地を目指した」という観点はなかった。

  • おや、このアルバム収録の「Showroom Dummies」の気怠いグルーブ感…


    YMOSolid State Survivor(1979年)」収録の細野晴臣作品「Insomnia」に多大な影響を与えているのでは? もちろん後出しな分だけ後者の完成度が高い…

  • そういえばYMOBGM(1980年)」第一曲「Ballet」ってロンドン・パンク文化の落とし子的映画「Times Square(1980年)」のOP曲の本歌取りっぽいのだけど…


    作曲した高橋幸宏いわく「(坂本龍一が得意技としてる)ドビュシューやエリック・サティっぽいベタベタ進行の真似」で、クラフトワークっぽい無機質な仕上がりで完全なる原曲破壊(しかも追加される謎の「汽車が走ってる感」)。ただ映画でもこのOP曲にヒロインがノイジーエレキギターで割り込んできて滅茶苦茶にするし、むしろそういうElectoric POPへの対抗意識をロンドン・パンクと共有していたと感気あるべきかもしれない。その一方で坂本龍一から「パンク色が強過ぎる」と忌避されていたUltravox細野晴臣高橋幸宏のお気に入りで、対立を経つつ「BGM(1980年)」の「Que」から「TECHNODELIC(1981年)」に至る流れを経ていわゆる「YMO的POPライン」が確立する。

そしてこの流れこそがkraftwerkComputer World(1981年)」におけるあの独特の無機質的グルーブ感につながっていくのである。

  • Number」からフランスのテクノバンドDaft PunkTechnologic(2005年)」への流れを想像するのは自然な傾向?

  • YMOでいうとTarking HeadsOnce in a Lifetime(1980年)」の影響も受けた「体操(1981年)」辺りが挙がりそうである。


    Once in a Lifetime」の歌詞内容的はユニコーン大迷惑(1989年)」も連想させる。曲調としては当時の流行も受けて案外パンク…

  • 曲調自体はまるで違うが坂本龍一Broadway Boogie Woogie(1986年)」における映画「BLADE RUNNER(1982年)」からの台詞の(適当な)サンプリング方針にも影響を与えてる感じがする。


    おっと、考えてみればそれはYMOが「中国女(La Femme Chinoise,1978年)」の頃から既に採用していた方針? ちなみにYMOは「Firecracker(1959年)」のシンセサイザー・アレンジを足掛かりにこの曲やTong Poo作曲を経て自分達の方法論が海外に通用する確信を得たという。要するにそのプロセス自体ににプログレの影響はなかったのである。

  • そして「Behid The Mask(1979年)」作曲を通じてその方法論で「踊れる」曲も作れることを発見する展開を迎えたという次第。

  • ちなみにこの辺りの曲を久し振りに聞き解して、改めてその内容の突出したヤバさを痛感したのがYMOBGM(1980年)」収録の「ラップ現象(Rap Phenomena)」。宗教に傾倒していく時期の細野晴臣の心境がそのまま歌い込まれているという…

     

⑤一方「Computer World(1981年)」発表前年の1980年時点のクラフトワークElectoro POPジャンルの大源流の一つとなるロマンティックな曲調の曲を演っていた。要するに日本におけるYMOBGM(1980年)」「TECHNODELIC(1981年)」の商業的成功に気を良くして本道に回帰した訳だが、当時のこの様な路線のブレがまた別の形で後世に痕跡を残す形となる。

世に流通してる初音ミクも結構Emotionalという…「無機質なクラフトワークのファン」が噛み付いているが、この曲は原曲からしてそういう層に噛み付かれていてカバーされる都度「戦争」が起こるので、まさにこういう評価のされ方が正解という(それにつけてもこんなにVocaloidにシャウト感を持たせられるって凄い…)…

その一方で完全にElectoric POPの文脈で語られる事が多いこの曲…

日本におけるElectoric POP草分けバンドの一つヒカシューモデル(1980年)」もカバーしてますね(棒読み。当時の私はむしろオリジナルばかり聞いて、こちらは全然意識してなかった)。何かスカっぽいアレンジになってる…そして独特の唱法とベース奏法のせいでシンセサイザーとリズムボックスのみのオリジナルよりノングルーブで自動演奏っぽい不思議…


こちらは世に流通してるVocaloid版もヒカシュー系という…

この辺りの美意識からザ・ヴィーナス「キッスは目にして(1981年)」も生まれてきた気がする。要するにプログレからのクラッシックっぽさの継承だが、既にプログレとしての原型は跡形も残ってなくて?

韓国のロックバンドGuckkastenの「(Mirror,日本発売2015年)」もこの流れの延長線上に現れた様に見える。何しろここまで至るとプログレ起源から始まってテクノを経た何かがどちらの原型も留めてない辺りが興味深い…それでも何かしらの連続性は感じ図にいられない不思議…

  • 例えばこの辺り、これっぽくない? 何が共通要素なんだろ。スケール感?  そして何より興味深いのが「これからプログレ要素が引ける」なる発想が出てくる事…

そういえばテクノ歌謡といえば韓国には「Human Dream(2008年)」もある…21世紀に入ってから石仮面被ってBritish Idol POP要素混ぜてきたソテジ(SEO TAIJI)…そう結構ラウドなドラムラインやギター&ベースを背後で鳴らしても(こういう渋谷系っぽい細い感じの)POPな感じが維持出来る事自体は英国音楽や日本音楽が率先して証明してきたのだった。もちろんメロコアを経てきた事も大きい気がする…

  • 石仮面被って」…なんせ20世紀にはこんな音楽演ってたんすよ、この御仁…私のラッセル・ミルズ観を入れ替えた一曲…

    当時の事についてはGoth文化の展開に関する投稿の方で触れてますね。

    で、2000年代に入ってすらこれ。ただこの段階を経て「最終形態」がああなったのはそれなりに納得がいかないでもない。


    ただ、これはどうなの? 本人にも「石仮面」を被った自覚がある?

一方、日本のプログレの受容史そのものはまた違っており、より「プログレ=時代の遺物」感を逆手に取って国際的にヒットした人間椅子無常のスキャット(Heartless Scat,2019年)」あたりがその帰着型の一つとなる訳である。でも生き延びたのはプログレ・ムーブメントのどの部分だった事になるのだろう?

The dancer Mr. Min Tana is 74 years old.
And the musicians are 53 years old.
Their life is wonderful.

結論から言えばElectoric POPの世界なんて「面白ければ勝ち」な訳ですが、こういう傍流の系譜からアプローチする事も一応は可能という話… 

そういえばこの曲、TVアニメ「墓場鬼太郎(2008年)」の為に作曲されたのだけど、EDのつもりで提供したらOPだったというエピソードが好きです。

鬼太郎といえばこんな動画もあって、こちらはAlternative Rockの領域に踏み込みます。

パンク・ムーブメント観点からの1970年代~1980年代回想に続く「共役観点発見の旅」第二弾…私一人の中にさえこれだけ違う観点が無意識中に共存していた訳で、探せばまだまだ他の観点が掘り起こせるのは間違いなしなのです。

そんな感じで以下続報…